2002年9月現在、日本将棋連盟のサイト上には「著作権」もしくは「著作物」という文言が一ヶ所も使われていない。また、過去に日本将棋連盟が棋譜と著作権に関して公式にアナウンスしたという話も聞かない。
さらに、近代将棋2002年7月号では米長邦雄永世棋聖が次のように書いている。
棋戦の期間中ほぼ一年間は主催紙に総ての権利があり、それから後は日本将棋連盟と主催紙が共有です。この場合の権利という意味は、あくまでも独占掲載権であって、それが即ち著作権なのかどうかはわかりません。将棋界はそれで良いのであって、少々いい加減の処があります。
近代将棋2002年7月号 「みんなの将棋・著作権に関する一考察」
これらのことから、日本将棋連盟は著作権についての問題意識がなく、棋譜と著作権の関係について検討もしていないと思われる。その結果ウェブ上では、「大事をとって」棋譜の公開を見合わせたり、不安に思いながら棋譜を掲載したりといったまちまちの対応がとられている。筆者はこのような状況は決して望ましいものではなく、日本将棋連盟は棋譜を利用するための要件を公式に明らかにすべきだと考える。
ただし、日本将棋連盟が影響力のある組織に個別に「お願い」をすることはあるようだ。将棋メーリングリストには次のような内容の「お願い」があったという。
(日本将棋連盟からのお願い)
「棋譜に著作権を主張する法的根拠が現在のところ『ない』。つまりML/WebPageなどに無断掲載さても、それを法的に禁止させることは残念ながらできない。ただこれを認めてしまうと連盟の収入問題に発展しかねず、その結果、将棋界そのものが崩壊しまう可能性があるため、できれば控えて頂きたい」
この文章がどの程度原文と表現が一致しているのか、また、日本将棋連盟がこのような「お願い」をするにあたって内部でどの程度検討を重ねたのかはわからないので、実際のところ日本将棋連盟がどのように考えているのか(もしくは特に考えがないのか)は推測で判断するしかない。少なくとも、棋譜が著作物であると確信しているわけではないようだ。日本将棋連盟のサイトのよくあるご質問とお答えでも棋士の肖像権については注意書きがあるのに、それよりも収入に直結するはずの棋譜の著作権については全く記載がない。努めて言及を避けているようにも見える。
しかし、一方で日本将棋連盟が棋譜の著作権を主張したという話も聞く。例えば、武者野勝巳六段は「棋泉 for win」に関して、よくある質問の中で「日本将棋連盟は「棋譜には著作権がある」と主張しています。
」と書いている。ただ、その主張がいつどこでどのような形でなされたのかはわからない。
また、米長永世棋聖も近代将棋2002年7月号で「将棋の棋譜に著作権があるのだろうか。もちろんあるのです。
」と書いている。(その根拠は書いていない。)米長永世棋聖は人脈が広いので、ひょっとすると専門家に意見を聞いた上で書いているのかもしれないが、2002年1月27日に公開された「まじめな私」の「著作権」と題する文章を読むと、「そのチャットについては、本来著作権は無いものと考えてはおります。(素人考えです。あるいは私のものかも)
」と明らかに間違った記述がされているので、特に著作権について調べずに書いているだけかもしれない。(チャットであっても、普通の対談などと同じように、発言した人々の共同著作物として扱われる。)
どうも日本将棋連盟の姿勢は調べれば調べるほどよくわからなくなる。もしかすると、内部でも見解が統一されていない(もしくは統一しようという問題意識がない)のかもしれない。
一方、日本棋院ではご利用案内のページで次のように書いている。(強調は筆者。)
本ホームページ内の棋譜、画像類を他のホームページ上で掲載したり、メール・CD・プリント等で配布することはできません。
(中略)
棋譜に関するご注意
有料・無料を問わず、ホームページ等で承諾なしに棋譜を公開、配布することは認めておりません。棋譜は著作物です。個人でお楽しみいただく範囲でのご利用となります。また新聞・書籍・web上などの掲載譜(総譜・部分図含)から独自または他のソフトで入力または再入力して、棋譜を公開、配布することはできません。
このように日本棋院が「棋譜は著作物です。
」と主張する背景には、何かはっきりした根拠があると考えるのが自然だろう。筆者は囲碁界のことをよく知らないのでそれ以上のことはよくわからないが、本質的には変わらないはずの囲碁・将棋で認識がこのように異なるのは興味深い。
ウェブページ・掲示板などにプロの棋譜を掲載することは認められるのかという問題は、以前から話題になっていた。しかし、そのことについて法的な観点から議論になった例は、(少なくとも筆者を含む一般人が参照できる範囲では)多くない。「できれば棋譜をどんどん利用したい。」という動機があっての議論であるので、自然と棋譜には著作権がないという方向に流れることが多いようだ。ただ筆者が通読した限りでは、棋譜が著作物ではないと主張できる明確で直接的な根拠は見いだせなかった。
筆者が調べられた範囲でこの話題について最も議論が深まったのは、@nifty 将棋&チェスフォーラムの会議室においてであった。@nifty会員でなければ議論のすべてのログを読むことはできないが、関勝寿氏の日記(2000年2月22日付)やとほほは語る 棋譜の著作権で議論の部分的な内容を知ることができる。(将棋&チェスフォーラムでの議論が行われたのは、おおよそ1998年7月〜8月にかけてと1999年8月〜9月にかけて。)
次に、専門家はどのような意見を述べているだろうか。この問題について裁判で争いになった例はない。また、意見を述べた文章もほとんどないが、探してみるといくつか存在するようだ。
上記の@nifty 将棋&チェスフォーラムでは、次のような文章が紹介された。
なお、ルールの問題とは別にゲームの記録、例えば、将棋や囲碁の対局の記録である棋譜について、著作権によって保護されるかという問題がある。これについては、対局者の思想の表現として著作物であるとする考え方もあるが、この考え方を広げれば、野球のスコアも著作物かということになり、疑問が残る。この場合には、事実を一定の決められた方法によって記録した物であって、そこに記録者の思想・感情が入り込む余地はないから著作物には該当しないと考えるべきではないかと思う。もちろん、観戦記などの記事は別であり、これは著作物として保護される。
著作権が明解になる10章 吉田大輔著 出版ニュース社 38頁
その一方で、次のような文章もある。
棋譜という表現形式つまりその内容を、著作権の目的物と考えてよいか。「初手から投了までの全行程」は、著作権法第二条の著作物の定義に適うか。
第二条第一項――一つには、「思想又は感情を創作的に表現したもの」かどうか、であり、二つには、「文芸、学術、芸術又は音楽の範囲に属するもの」と言えるかどうか、としている。
初手から投了までの棋譜は、個性的に完結した創作。気になるのは、二番目の「文芸、学術……」に適合しているかどうかだ。推理小説の論理性、たとえ固定されずとも吟詠された即興詩を著作物とすること、や、歌唱・実演を著作権法(原文傍点)でカバーしていること、などを勘案して、完結した場合の棋譜の示すものは著作物だと私は考えている。少なくとも著作財産権を認めて然るべきだ。
マスメディアと著作権――著作権トラブル最前線 豊田きいち著 日本ユニ著作権センター
この問題は専門家の間でも見解がすっきりと統一される性質のものではないようだ。仮に裁判になったとすると、どちらに転ぶ可能性もあるということだろう。
さらに探してみると、次のような記述も見つけた。著作物を例示した著作権法第10条第1項についてである。
この例示が全てをカバーしているわけではなく、例示では読めないようなものでも、著作物たり得るものがございます。一つの例としては、例えば碁や将棋の棋譜というのがあります。棋譜も私の理解では対局者の共同著作物と解されますけれども、本条第1項各号のどのジャンルにも属しておりません。
著作権法逐条講義 三訂新版 加戸守行著 著作権情報センター 114頁
この本は1974年に初版が発行され、2002年までに7回の改訂を重ねている。現在の著作権法が施行されたのが1970年だから、解説書の中でももっとも歴史の古いものの一つである。著者の加戸守行は当時の著作権法立案担当者であることもあり、この本は著作権を考える上で権威ある本のようだ。その意味で、他の本の記述とは重みが違うと言えるかもしれない。一例としてこの本のこの部分が引用された裁判記録を見つけた。いわゆる「中古ソフト裁判」である。
1998年10月5日に中古ゲームソフト販売の上昇がゲームソフトメーカーのエニックスを相手取って「頒布権に基づく差止請求権不存在確認」を求める訴訟を東京地裁に起こした。最終的には2002年4月25日の最高裁判決で原告(中古ソフト販売店側)の勝訴が確定し一応の決着をみたが、ここではその内容には立ち入らない。興味ある方はテレビゲームソフトウェア流通協会を参照されたい。
この裁判では、ゲームソフトが映画の著作物であるかどうかが争点の一つになった。その議論の中で、テレビゲームとは性質の異なるものの例として、やや脱線する形で囲碁・将棋が引き合いに出され、次のようなやりとりがなされた。(「控訴人」がメーカー側、「被控訴人」が販売店側である。)
被控訴人は、二八、二九頁において、碁の例を挙げ、「碁のルールを設定し、碁石と碁盤を提供しても、プレイヤーによる一局の碁あらかじめ創作したとは言えない」というが、何のための論述が全く理解できない。碁のルールも、碁石も碁盤も著作物ではないのであって、本件ゲームと比較することは全く無意味である。
一局の碁は、対局者の共同著作物であると解されるが、その著作者は、対局者である(加戸守行・著作権法逐条講義改訂版・九〇頁)。これは、一局の碁が対局者の思想又は感情の表現だからである。
同書では著作権法一〇条一項の著作物の例示に関して「…ですから、この例示がすべてをカバーしているわけではなく、例示では読めないようなものでも、著作物たりうるものがございます。棋譜も私の理解では対局者の共同著作物と解されますけれども、本条第1項各号のどのジャンルにも属しておりません。」と記載している。
控訴人の主張を善解すると「棋譜は対局者の著作物となるが、ゲームソフトでプレイの結果表示される影像はプレイヤーの著作物にはならない。」と理解される。この控訴人の主張も本件における争点ではないので深入りは避けるが、控訴人が棋譜について立つ立場によれば、囲碁ソフトや将棋ソフトにおけるプレイ結果も、棋譜の場合と同様にプレイヤーの著作物と理解すべきことになると言わざるをえないのではなかろうか。
ここで注目すべきは、棋譜が著作物である点については双方とも疑問を全く差し挟んでいないことである。裁判の本来の争点からはずれた議論なのでこれをもってどうということは言えないものの、棋譜が著作物であるという主張が著作権法になじんだ専門家にとってそれほど不自然でないということは確かなようだ。
この問題を考察した多くの人がそうだったように、筆者もインターネット上で棋譜を掲載することがどこまで許されるのかが気になったことをきっかけに、棋譜と著作権の関係を調べ始めた。もし仮に棋譜に著作権がないとするならば、このホームページ上でも自由に棋譜を掲載しても良いことになる。
調べ始めた当時、筆者は棋譜には著作権がないものと考えていた。しかし、そう判断するには材料が足りなかった。そこで、確固たる根拠を求めて過去の議論などを探したのである。
例えば、関勝寿氏の日記では、
この点については、それよりも以前にあったトンボさんのコメント (#6406)
そもそもオリジナリティがあって価値もあるが、真似することも認められている(かつ簡単に真似できる)などということは想定されていないのですから、著作権法の法の精神からはずれた存在であり、現行の法の枠内で対処するのが難しいのは仕方ないと思います。
に落ち着くということで Tan さんはまとめました。いずれにしても、棋譜を著作物だと主張するのは現行法上では無理がありそうです。
とまとめているが、私としてはもう少し直接的な根拠がほしいと感じた。つまり著作権法の条文に則って解釈した結果として、棋譜は著作物ではないという結論に達することを望んだのである。そこでもう少し突っ込んだ意見を探すべく、著作権法関連の専門書を図書館で借りて読んでみた。ところが調べてみると、この問題は想像以上に微妙な点を含んでいることがわかってきたのだ。
というわけで、そのことを示すため、試みに「棋譜は著作物だ」という主張を展開してみようと思う。もし棋譜が著作物でないのなら、そのような主張は簡単に論破されてしまうだろう。
上の表題で「棋譜は」と書いたが、正確を期すならこの表現は不適当かもしれない。日本の著作権法において、ものが何らかの媒体に記録されていることは、著作物性の要件に含まれていない。したがって、棋譜のない対局を棋譜のある対局と区別して扱うべき理由はない。著作物性を議論する対象は将棋の「対局」そのものであって、棋譜は「対局」の複製物とみなすのがより妥当な解釈であろう。このような観点から、この節では対局が著作物であるかどうかを著作権法の文面に沿って検討してみる。「対局」と「棋譜」の関係についてはあとの節で改めて検討する。
日本の著作権法における著作物とは、著作権法第2条第1項において次のように定義されている。
著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。
著作権法で保護されるのは、上記の要件をすべてみたしたものだけである。すなわち、次の4つの要件をすべて兼ね備えていることが要求される。
- 思想又は感情(を内容とするものであること)
- 創作的であること(創作性)
- 表現したものであること(表現)
- 文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属するものであること
著作権法コンメンタール(上巻) 金井重彦・小倉秀夫編著 東京布井出版 9頁
「思想・感情」の語は、哲学的あるいは心理学的概念としてのそれのように狭く厳格に解すべきではなく、「かんがえ・きもち」ぐらいの広い意味にとらえるべきである。一般に思想を表現するものは文芸または学術著作物であり、感情を表現するものは美術または音楽著作物であるということができるが、この区別は絶対的なものでなく、また法文上は思想と感情は同列に扱われているから、どちらか一方に該当すると考えればそれで十分であって、強いてどちらかに格付けしたり、両者の違いをうんぬんすることは益のないことといわなければならない。
著作権法概説 第10版 半田正夫著 一粒社 90頁
例えば、自然科学的データそのものは思想・感情ではないので著作権保護の対象とはならない。しかし、人間の「かんがえ・きもち」があらわれたものであれば、その程度の高低にかかわらず同様の扱いを受ける。
このことから考えると、将棋の対局も広い意味での精神的労作であって、「思想又は感情」であるといって差し支えないだろう。
創作性についてはあと回しにして、先にこちらから検討する。
これは内心で思っている段階では著作物にはならないという意味であり、外部に表現されて(形ある物の上に固定されることまでは要求されない)はじめて著作物となる。
著作権法詳説[全訂新版] 三山裕三著 東京布井出版 34頁
対局がこの要件に当てはまるのは明白である。
ただし、「表現したもの」だけが著作物として保護されるのであって、その表現の背後にあるアイディアや思想・感情そのものは保護されないということは、間違いやすいので注意する必要がある。将棋でいえば、保護されるのは対局手順であって、「戦法」や「手筋」そのものが著作物となることはない。
作品のテーマや学説、ルールなど、著作者の内部にとどまっているアイディアや表現の背後にある思想又は感情そのものは著作物ではありません。また、作者独特の画風なども技法に過ぎず、著作物ではありません。そのアイディア、思想、感情などが表現されたときに、その表現を著作物ととらえるのです。
著作権法ハンドブック 改訂新版 著作権法令研究会編著 著作権情報センター 9頁
発明などの工業所有権による保護の対象である技術の範囲に属するものを除くという点で,「文芸・学術・美術または音楽の範囲に属するもの」という文言は意味を持つ。
この点につき判断を示した裁判例として,選挙の当落予想表の著作物性が争われた事案で,「「文芸・学術・美術または音楽の範囲に属するもの」というものも,知的,文化的精神活動の所産全般を指すものと解するのが相当である。」とした東京高判昭和62年2月19日がある。著作権法コンメンタール(上巻) 金井重彦・小倉秀夫編著 東京布井出版 24頁
つまり、この条件に当てはまらないという理由で著作物性が否定されるということは、通常は特許・実用新案などの工業所有権によって保護されることを意味する。将棋の対局も「知的,文化的精神活動」に違いないから、「文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属する」と判断すべきだろう。文芸,学術,美術又は音楽のうち、どれにあてはまるのかという議論は無意味である。
ここまでで見てきたように、あとは創作性の要件さえ満足できれば対局が著作物であるという主張が完成するのだが、将棋の対局の著作物性を議論する上で最も問題となるのがこの部分だと思われる。この場合に限らず一般的にも、あるものに創作性があるかどうかが著作物性を議論する上で話題になりやすいだけに、慎重な議論が要求されることになる。
著作物は創作性を有することを最も重要な要素とする。しかしながら、著作物の作成に際しては、先人の文化的遺産を土台とし、これに新知見や自己のアイデアを加えて完成するものが大部分であって、著作物全体が著作者の独創力で貫かれている場合はほとんどないと考えられる。したがってここにいう創作性も著作者の個性が著作物の中になんらかの形で現れていればそれで十分だと考えられる。
著作権のノウハウ[第6版] 半田正夫・紋谷暢男編 有斐閣 25頁
このように、対局者の個性が現れている、すなわち、のちに全く同じ対局が現れるとは考えにくいような対局であることが要件となる。したがって、「▲7六歩 △3四歩 ▲6八銀 △8八角成 ▲投了」のような対局は創作的であるとはいえない。
そこで、創作的な対局とそうでない対局はどのように線引きされるのかということが問題となってくる。「同じ棋譜は二つとない」と言われるとおり、ほとんどの対局は全体としてみれば創作的であるといえると思う。いずれにしても、グレーゾーンがあることは確かである。最終的には個別に判断するしかないだろう。
定跡そのままで終わってしまう対局には著作権を認めるべきでないだろう。もし認めたとすると、だれにとっても常識となっている手順を記述することができなくなってしまうからである。▲7六歩 △3四歩 ▲6八銀 の局面での最善手は△8八角成であるという当たり前のことが書けなくなってしまっては困る。しかし、ほとんどの対局は定跡から離れてから何十手も指し続けられるわけで、ほとんどの対局が創作的であるということは否定できない。
一部の例外を除いてほとんどの対局が著作物であるということが主張できる、というのが結論である。ただし、小説や絵画などのよくある著作物に比べると創作性が低いことは否めない。以下の節では、対局が著作物であると仮定したときにどのような議論が展開できるかを考える。
それでは、棋譜に著作権があるとしたらどのような行為が禁止され、どのような行為が許されるのだろうか。インターネット上で棋譜を流通させるのにどのような障害が生じるのかを中心に考えてみたい。
実は著作権という単一の権利があるわけではなく、文化庁の著作権制度の概要にもあるように、著作権とは複製権・上演権・公衆送信権など様々な権利の束である。しかし、棋譜の利用に絞って考えるならば、複製権だけを考えればたいていの場合は十分である。他の権利を侵害するときは、複製権も同時に侵害していることが多いと思われる。そこで、著作物のもっとも基本的な利用形態である「複製」とは何かということから確認していこう。
複製 印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製することをいい、(後略)
これが著作権法第2条第1項第15項で記述された複製の定義である。複製は「有形的な再製」に限定され、無形的な再製は上演や放送などとして別に規定されている。なお、「有形的な再製」に加えて独自の創作的部分を付け加えたものは、複製ではなく二次的著作物と呼ばれ、複製権ではなく翻案権等の範疇になるが、ここではその違いは重要ではないので取り立てて区別しないことにする。
模倣が単なる複製なのか,それとも二次的著作物を生成する翻案なのかということは著作権侵害の判断には影響しないので,侵害の成否を決する場面で複製か翻案か,その境界線を確定する実益はない。
著作権法概説[第2版] 田村善之著 有斐閣 58頁
「有形的な再製」についてであるが、著作物全体をそのまま再製する場合だけでなく、部分的に再製したに過ぎない場合でも、元の著作物に実質的に類似しているならば複製に該当することになる。
著作物の全体でなく,その一部を再生する場合でも,その「部分が原著作物の本質的な部分であってそれだけでも独創性または個性的特徴を具在している部分についてはこれを引用するものは部分的複製をしたもの」(「冷蔵倉庫事件」大阪地判昭54年2月23日)とされ,複製に含まれる。
著作権法コンメンタール(上巻) 金井重彦・小倉秀夫編著 東京布井出版 82頁
将棋の対局には様々な要素がある。しかし、最も重要であり創作的なものは将棋の手順であって、その手順を記録した棋譜は対局の複製であると言える。消費時間や対局場所、果ては対局室の気温なども対局に影響を与えているが、これらは手順に比べれば些末な要素でしかなく、また創作性があるわけでもないから、手順が記録されていればそれだけで複製と認められるに十分であろう。したがって、手順を記録した棋譜は複製物として著作権保護の対象となることになる。
棋譜が著作権保護の対象となるとすると、どうすれば無意識のうちに著作権に抵触してしまう事態を避けられるだろうか。この節では、問題のない行為を列挙してみる。
一般的に著作物の利用にあたっては、著作権法第63条第1項に基づいて著作物の利用許諾を受けるのが最も正統的な方法だろう。
著作権者は、他人に対し、その著作物の利用を許諾することができる。
著作権者の許諾があれば著作権が行使されないことが保証され、複製であろうが翻案であろうが好きにできる。しかし、プロの全棋譜をウェブ上に掲載することについて日本将棋連盟は明確な意思表示を行っていないように見えるので、なかなか難しいかもしれない。
著作権は永久に存続するわけではなく、天野宗歩の棋譜のように古いものについては自由に利用できる。具体的には著作権法第51条で次のように保護期間が定められている。
第1項 著作権の存続期間は、著作物の創作の時に始まる。
第2項 著作権は、この節に別段の定めがある場合を除き、著作者の死後(共同著作物にあつては、最終に死亡した著作者の死後。次条第一項において同じ。)五十年を経過するまでの間、存続する。
なお、保護期間に関しては例外規定も数多くあるので、実際に利用する際には他の条文も参照した上で確実な判断が求められる。
対局を創作的なものとしているのはそれぞれの指し手であって、それ以外の要素は創作的ではないと考えられる。例えば、次のようなことを書く分には著作権を侵害することはない。
未放送のテレビ対局の結果を公表することも著作権法には抵触しない。他の法律に触れることはあるかもしれないけれども。
「著作権は創作的な表現を保護するものであるから、既存の著作物の利用を著作権侵害というためには、その中の創作的な表現形式を複製又は翻案したものであることを要し、既存の著作物の内容となっている事実のみを抽出してこれを再製した場合など、既存の著作物中の創作性の認められない部分を利用したにすぎない場合には、複製権又は翻案権を侵害しない」ことになる(東京地判平成10年10月29日、スマップインタビュー記事事件)
著作権法詳説[全訂新版] 三山裕三著 東京布井出版 139頁
一局の手順をすべて記録すれば、それは全体として創作的であり複製と認められることが多い。それでは、ある対局の手順を部分的に取り出した棋譜はどうだろうか。
小説「雪国」の冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という部分のみでは創作性がないから,この部分のみを複製しても,著作物を複製したことにはならず,したがって著作権侵害とはならない。さらに,二,三文創作性が認められる程度の部分を複製してはじめて著作物を複製したことになるから,著作権侵害となる。
著作権法概説[第2版] 田村善之著 有斐閣 58頁
全体を記録すれば複製となる。しかし、例えば「羽生は66手目に△2四金と指した。」というだけでは創作的な手順ではないので複製とは言えない。その間のどこかに境目があるわけだが、それを確定するのは難しい。最終的には司法が判断する以外にないだろう。
また、定跡や誰が見てもわかる詰みのような手順も創作的とは言えない。したがって、その部分の手順を抜き出しても複製とはならない。これはいつの間にか著作権を侵害しているということがないためにも重要である。
著作権一般について言えることだが、AがBの著作権を侵害していると認められるためには、AがBに実質的に類似していることだけでなく、AがBに依拠していることが必要とされる。2人の人間が偶然に全く同じ著作物を創作したときには、両者に同等の著作権が与えられる。
原著作物の存在やその内容を知らずに自らの創作力をもって創作した著作物が,偶然著作物と同一性のある著作物であっても,原著作物に依拠して複製したことにはならず著作権侵害とはならない。
著作権法コンメンタール(上巻) 金井重彦・小倉秀夫編著 東京布井出版 325頁
したがって、例えばプロの対局がある将棋道場で先行して行われた対局と同一の手順だったとしても、プロがそのような対局を知っているとは考えにくく、また仮に知っていてもそれを模倣する動機に乏しいと考えられるので、著作権侵害が認められる可能性は低い。他方、プロの棋譜と偶然同じになったと主張して知名度の低い人物が棋譜を発表した場合には、その人物がプロに先行して対局を行ったことを何らかの形で立証できない限り、著作権侵害が認められる可能性が高いと思われる。
依拠の点についても両著作物の作成時期や被告が原告の著作物に接する機会があったことなどから事実上依拠したことが推定される場合には、被告の方で反証を挙げてこれを覆すことができなければこの要件も肯定されよう。
著作権法詳説[全訂新版] 三山裕三著 東京布井出版 125頁
著作物に著作権が付与されているとはいっても、全ての行為が禁止されるわけではなく、著作権が制限される規定も数多く存在する。その一つが著作権法第30条第1項である。
著作権の目的となつている著作物は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。 (後略)
実戦集の中から自分の気に入った棋譜を書き写すとかコピーを取るといった行為は、自分で利用するために自分で複製するという要件をみたす限りにおいては問題ない。また、それが家庭内の範囲に収まっている場合にも問題はない。それでは、「その他これに準ずる限られた範囲」とはどの程度かということが問題となるが、これについてはきわめて限定的に解釈すべきだとされている。
「これに準ずる限られた範囲内」といいますのは、複製をする者の属するグループのメンバー相互間に強い個人的結合関係のあることが必要でして、部数を限定して自分と付合いのある友人に配布するような場合は該当しません。典型的には、社内の同好会とかサークルのように10人程度が一つの趣味なり活動なりを目的として集まっている限定されたごく少数のグループということであります。
著作権法逐条講義 三訂新版 加戸守行著 著作権情報センター 216頁
なお私的利用の範囲では、単に複製するばかりでなく棋譜を書き換えたり変化を付け足したりすることも認められる(著作権法第43条)。しかし、複製物を目的外に使用したときには複製権を侵害したものと見なされる(第49条)。
自分の著作物中に他人の著作物の全部または一部を採録することを引用という。引用はいくつかの要件をみたす限りにおいて、著作権者の許諾なしに自由に行うことができる。具体的には著作権法第32条第1項に規定がある。
公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない。
引用が適正なものと認められるためには次の要件を満足していることが求められる。
我々が通常目にするプロの棋譜は公表されたものばかりであるから、この点に関しては問題ない。
この二つはまとめて扱われることが多い。
引用がかかる条文上の要件を満たしているというためには、前述した同条の趣旨から、少なくとも、1.全体としての著作物において、その表現形式上、引用して利用する側の著作物と引用されて利用される側の著作物とを明瞭に区別して認識できること(明瞭区別性)と、2.両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められること(主従関係)が必要と解されています。
著作権の法律相談 TMI総合法律事務所編 青林書院 243頁
明瞭区別性については、通常の文章の引用であればかぎかっこで囲んだり字下げを行ったりするのが普通だが、棋譜の引用では「○○の将棋ではこの局面から……のように進行した。」という程度でも十分に区別できるだろう。
主従関係については厳格に解釈することが求められる。あくまで引用して利用する側の著作物が主体でなければならないから、単に棋譜を紹介するような形式では適正な引用とは認められないが、定跡や手筋研究の一環としての引用なら問題がない。
棋譜の場合には、どの対局なのかを特定できる程度まで棋譜に関する情報を記す必要がある。プロの対局ならば、対局者名・対局年度・棋戦名があれば十分だろう。なお、巻末などに参考として一括して記載するだけでは、どの棋譜がどの引用に該当するのか判然としないので不十分である。
前節までの主張にはいろいろと反論が出てくると思うので、先回りして回答を考える。
まず、「棋譜は事実を伝達しているにすぎないから著作物ではない。」というよくなされる主張に反論する。これは、棋譜は「思想又は感情」を内容とするものではないという主張と思われる。
俳句を例に出して考えよう。松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の句は、「草の戸も住み替はる代ぞひなの家」である。もちろん、これは著作物だ。(そして、その保護期間は終了している。)この句の著作権が有効であるとしよう。そのときでも、「『奥の細道』の冒頭の句の6文字目は『み』だ。」と書くことは著作権を侵害することにはならない。「6文字目は『み』」ということは単なる事実であって、思想・感情が含まれないからである。芭蕉の創作的な表現は「6文字目は『み』」という箇所にあらわれているわけではないからと言ってもよい。しかし、「『奥の細道』の冒頭の句の1文字目は『草』だ。2文字目は『の』だ。3文字目は『戸』だ。……。」と繰り返せば、明らかに著作権侵害となる。
同じように、「谷川−羽生戦の66手目は△2四金だった。」と書くだけでは著作権を侵害しない。しかし、各々の指し手が積み重なった全体が著作物かどうかというのは、それとは別問題である。一部分を取り出したものが著作物でないからといって、全体をも著作物でないと結論づけることはできない。全体として思想・感情が含まれていれば、著作物と認められるのである。もしも将棋の必勝法が発見されれば、その手順で勝てることは単なる事実にすぎず思想・感情を含まないと言えるだろうが、現実にはそのようなことは起こりそうにない。対局者はどのように指し手を選択すれば勝利する確率が上昇するかを真剣に考えている。全体として見れば、棋譜には対局者の思想・感情が表現されていると考えるのが妥当だと思われる。
次に、先に引用した吉田大輔氏の文章を再度引用する。
なお、ルールの問題とは別にゲームの記録、例えば、将棋や囲碁の対局の記録である棋譜について、著作権によって保護されるかという問題がある。これについては、対局者の思想の表現として著作物であるとする考え方もあるが、この考え方を広げれば、野球のスコアも著作物かということになり、疑問が残る。この場合には、事実を一定の決められた方法によって記録した物であって、そこに記録者の思想・感情が入り込む余地はないから著作物には該当しないと考えるべきではないかと思う。もちろん、観戦記などの記事は別であり、これは著作物として保護される。
著作権が明解になる10章 吉田大輔著 出版ニュース社 38頁
まず問題とすべきなのは、「記録者の思想・感情が入り込む余地はないから著作物には該当しない
」という部分だろう。棋譜が著作物であると主張する場合にも、記録係が著作者だと主張することはないと考えられる。著作者は両対局者以外ではあり得ない。記録者の思想・感情が入り込む余地はなくて当然である。
続いて、「この考え方を広げれば、野球のスコアも著作物かということになり、疑問が残る。
」という部分について考える。スポーツと将棋の比較についてはいろいろと議論できることがあるが、本論から離れてしまうので、将棋と野球は別物なので将棋の対局が著作物であるとしても野球のプレーが著作物であるということにはならないとだけ述べるにとどめておく。また、野球のスコアを見ただけでは野球のプレーを再現することはできないが、将棋の棋譜を見れば将棋の内容を再現できるという違いも指摘できよう。
次に、9x9=81にある棋譜は誰のものかと題する文章を取り上げる。この中で著者のTan氏は「将棋の棋譜は著作物として扱えるようなものではない
」と結論づけている。
将棋では先例の存在を知りながら途中まで(場合によっては最初から最後まで)同じ棋譜を生成する行為が問題視されることなく行なわれており、またそうでなければ将棋はゲームとして成立し得ません。つまり、著作物を保護するための肝心な権利である複製権が、将棋の棋譜に関しては守られてしまってはまずいのです。結局、「複製」について相当強引な解釈でもしない限り、将棋の棋譜を著作物として扱い保護することはできそうにありません。日本将棋連盟は、棋譜を著作物として権利を主張するのであれば、逆にアマチュアの棋譜との同一性や類似性を指摘され告訴される事態も生じ得ることを認識せねばなりません。「第○期○○戦第○局および……の棋譜は、それ以前にインターネット上の対戦ページ○○において指された○○戦決勝の棋譜と最初の○○手が同一もしくは酷似しております。当ページでは当ページの著作物であるところの棋譜の複製は固くお断り申し上げており……」
まず、同じ将棋を並べるとしても、棋譜を取らなければ有形的な再製が行われないので複製とはならないことを指摘しておきたい。その場合には上演権などについて検討することになろう。ここでは話を簡単にするため、棋譜を取る対局について考えることにする。そうすれば、その棋譜が複製といえるかどうかという議論が可能になる。
ある将棋が先行して行われた別の対局と同一手順だとしたら、複製権を侵害したことになるだろうか。ここで、将棋を指す人はみな勝とうという意図を持って指し手を選択していることに注意すべきだろう。もし、対局者が自分の指している将棋と同じ将棋が以前にあったことを知っているなら、先行した対局で負けとなった側が途中で手を変えなければならない。したがって全く同じ対局があったとするならそれらは偶然同じになっただけであり、著作権侵害が認められるための要件の一つである依拠が欠けていると考えるのが自然である。まして、プロ棋士がインターネット上の対戦ページで行われた対局をすべて把握しているとは考えにくいから、上の文章にあるような告訴が行われても、その主張が認められる可能性は低い。
それでは全く同一の対局ではなく、途中までが同じ手順で、ある局面から指し手が変わっているときはどうだろうか。(この場合、厳密には「複製」ではなく「翻案」かどうかが問題となる。)ここでは、文章による著作物と比べて、将棋の対局は表現の自由度が低いことに留意すべきだろう。著作権で保護されるのは「表現」であって、その背後にあるアイディアは著作物とはならないのであった。そのため、あるアイディアを表現する手段が限られている場合には、二つの著作物が似通っていたとしても片方がもう一方の複製とは認められないことがある。例えば、一般的な小説が二つあり、両方で全く同じような人物が同じような事件に遭遇し同じような結末を迎えたとするとき、片方がもう一方を盗作したと認めるのに十分であるけれども、小説でなくある人物の伝記であるなら、そのことをもって著作権侵害としてしまうと後進の作家は全く伝記を書けないことになってしまう。
ある局面における指し手のうち、勝ちに結びつく可能性のあるものは多くても数十である。この点で文字による表現に比べて自由度が極端に低い。そのため、対局の指し手が途中まで同じだったとしても、片方がもう一方に実質的に類似しているとは言えないことが多いだろう。逆に、実質的に類似するほど似通った対局であれば、上で述べたように依拠していないと考えられることになる。対局者がそれぞれの局面で最善手であると信じて指している分には、知らないうちに著作権侵害になっていることはないと思われる。
もちろん、だからと言っても、もう一つの対局という事実さえあればプロの棋譜を利用できるということにはならない。最初からプロの棋譜を利用する意図を持って、対局を後付けで行うならば、複製権を侵害していると判断されるだろう。
現在の著作権制度では非常に広範な対象に権利が認められている。著作権を得るために特別な手続きは必要ないし、高度な内容のものでなくても権利が保証されている。例えば、幼児の描いた絵であっても著作権制度による保護の対象となる。その意味で著作権は我々にとって身近な権利であるといえるだろう。我々は著作権を侵害することも侵害されることも十分あり得るのだ。
もし誰かが著作権を侵害されたと思い紛争になったときには、最終的に司法の場で決着が図られることになる。具体的には刑事告訴と民事訴訟の二通りがある。民事については後の節に譲ることにしてここでは刑事告訴を考える。著作権侵害は第119条で罰則が定められている。
次の各号のいずれかに該当する者は、三年以下の懲役又は三百万円以下の罰金に処する。
一 著作者人格権、著作権、出版権又は著作隣接権を侵害した者(後略)
しかし著作権法第123条第1項で親告罪であることが規定されているため、告訴されない限り罰せられることはない。(ただしこの条文については非親告罪化も検討されているので将来的には法改正される可能性がある。)
第百十九条、第百二十条の二第三号及び第百二十一条の二の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
さらに、著作権者が告訴したとしても、警察や検察が積極的に動くことはあまりないという現実もある。
著作権侵害の民事紛争を有利に運ぶため、著作権侵害で刑事告訴し、圧力をかける方法がしばしば用いられ、検察庁もそのことを知っているので、告訴状の受理には極めて慎重である。
著作権法詳説[全訂新版] 三山裕三著 東京布井出版 13頁
著作物の利用にあたって著作権者との間に正式な契約がなくても、暗黙の了解が存在するならば事実上問題とはならないのである。現実に多いのは、著作権者が「黙認」しているという状況であろう。著作物を勝手に利用してもらった方が著作権者にとって利益がある、もしくは、訴訟にかかる費用ほどの損害は出ていないといった場合には、黙認するのが現実的な選択肢であると思われる。このことは著作権者から見れば、権利を担保する制度的保証がないという意味で、権利があってもないも同然と言うことができる。
しかし著作物を利用する側から見ると、「黙認」に頼って著作物を利用することはなかなかできない。というのも、著作権者がいつ訴訟を起こすかわからないからである。「黙認」状態であっても著作物の利用は法的なリスクを負うことが避けられない。
著作権法は極めて広範な対象に著作権を与えている。その背景には価値の高低を裁判所が判断することはできないというもっともな事情がある。しかしその結果、誰も見向きもしない著作物と商業的に流通している著作物の間に、利用したいのにできない著作物が生まれてしまっているように私には思える。例えば、「古瀬幸広のoff side 2002」 No.38に「払えない著作権料」という話が書かれている。自分で作成したビデオ映像のBGMに既成の楽曲を使おうとして、著作権者に連絡を取ったところ「木で鼻をくくったような返答ばかり
」で使うことができなかったという話である。このような問題は著作権制度一般に見られるもので、現在もよりよいシステムを作っていこうという努力が行われているわけだが、克服するのは困難が伴うように思える。
筆者は矢倉愛好会というサークルのサイト管理を担当している。そこで参考になる棋譜を掲載したいと考えたのだが、著作権に関することが気になったためプロの棋譜を掲載することは控えていた。しかし、やはり使ってみたいということで2003年2月に思い切って日本将棋連盟にメールで質問してみた。
回答メールによると、プロの棋譜はウェブページ上に掲載しないようお願いしているということだった。場合によっては有料でも構わない旨も伝えたが、やはり不可ということだった。しかし、部分的な掲載(序盤から中盤にかけて)なら可であるそうだ。矢倉愛好会は定跡研究がメインなのでとりあえずその結論に満足して、棋譜を序盤から中盤にかけて部分的に掲載することにした。(なお、法的な解釈については有効な回答が得られるとは思わなかったので初めから質問しなかった。)
上記のメールによるやりとりは筆者と日本将棋連盟の間でなされたものであるが、その中で日本将棋連盟は、上記のような方針は連盟として以前から一貫して伝えてきているという内容のことを述べている。したがって、上記の方針は一般的に適用されるものであると考えられる。筆者のように事情に疎い方のために付記しておく。
著作権法の論議にはグレーな部分があるために、勝手に棋譜を利用することは多少なりとも法的なリスクが避けられないが、日本将棋連盟の方針を守る限りにおいては法的なリスクは伴わない。本来は何らかの形で棋譜全体を利用する手段が提供されるべきだと思うが、筆者は今のところ現状で何とかやっていこうと考えている。
プロの棋譜の掲載を求めて日本将棋連盟に質問した話題を前節で述べた。しかし掲載の許可を求める相手として、日本将棋連盟を選んだのが適切だったかは明らかではない。著作権法の文脈で言うならば、棋譜の著作権者は誰なのかである。
各棋譜では対局者の氏名が明記されるのが通常であるから、著作権法第15条で定められた職務著作にはあたらないと考えられ、対局は二人の対局者による共同著作物と言える。したがって第一義的には著作権は二人の対局者に属するわけだが、著作権は譲渡可能な権利であるので著作権は対局者のものとは言い切れない。特にプロの場合は金銭の授受に伴って各種の契約を結んでいることが推測されるため、契約の内容を吟味しなければ厳密な意味で結論を出すことはできない。しかし、プロ棋士と日本将棋連盟間の契約内容は、その有無も含めて一般には公開されていない。結局、著作権者が誰なのかはわからないということになってしまう。
それでは困るので、可能な範囲で妥当な仮定を設けながら合理的な推測を試みる。プロ棋士の主たる収入源である対局料は、スポンサーとなっている新聞社などが支出している。(各棋戦の主催者は日本将棋連盟リンク集を参照。)その際、各棋士が各新聞社と個別に契約しているとは考えにくい。おそらく日本将棋連盟が取りまとめの役割を果たしているだろう。金銭の流れとしては、各新聞社から日本将棋連盟、そして、日本将棋連盟から各棋士という形になっていると思われる。とすれば、著作権に関する契約もそれに応じた形になっていると考えて良いだろう。つまり、各棋士が日本将棋連盟と契約し、日本将棋連盟が各新聞社と契約するという形である。それぞれ分けて考えてみる。
まず各棋士と日本将棋連盟間の契約であるが、これは著作権を譲渡する契約と推測して構わないように思える。譲渡に値するだけの金銭が棋士に支払われていると思うし、実際にも日本将棋連盟が棋譜についての取り扱いを一任されているように見えるからである。そもそも日本将棋連盟がプロ棋士から構成された組織であることを考慮すれば、各棋士が著作権を譲渡した上で、日本将棋連盟が各棋士に棋譜利用の自由を認めていると考えるのが自然だと思う。
次に日本将棋連盟と各新聞社間の契約であるが、こちらはさらに難しい。そもそも、各社ごとに契約に違いがある可能性も高い。そこで、どのような形態があり得るかを述べてみよう。著作物を他社に利用させるための形態として、一般的に次のようなものがある。(このほかに著作権法第79条に基づく出版権設定も考えられるが、実務上は排他的利用許諾に似た部分が多いので省略する。また、下記の各事項については部分的に譲渡したり許諾したりということも考えられるが、ここでは重要ではないので省略する。)
このうち著作権譲渡は著作権を譲り渡すということで、そのままの意味である。譲渡の後は、元の著作権者は著作物を利用するために、他の者と同じ手続きが必要となる。
利用許諾とは著作権者が著作権を行使しないことを確約することにより利用を認める契約である。著作権者が他の者に対しては利用許諾を行わないことをも確約するならば、その契約は排他的利用許諾と呼ばれる。
利用許諾には,著作権者が被許諾者以外の者にも利用許諾を行ってはならないと義務づけられている独占的利用許諾と,そのような義務を負わない非独占的利用許諾という区別がある。前者の場合,著作権者が第三者に利用許諾を行うと債務不履行責任を負うことになる。
著作権法概説[第2版] 田村善之著 有斐閣 480頁
将棋の棋譜に関しては、原則として各棋戦の主催社に「第一掲載権」があると言われている。つまり棋譜を最初に公表するのは主催社だと言うことだ。この「権利」についてはいろいろな呼ばれ方がされているが、例えば武者野勝巳六段は自身の運営するサイトの掲示板(駒音掲示板)で次のように述べている。
(社)日本将棋連盟と新聞社は棋戦を運営する金銭契約を結び、相手の新聞社に対して「棋譜の初出掲載権」を与えている
駒音掲示板 書き込み番号1813
このように主催社には棋譜が最初に公表されるまでの間、棋譜を独占的に利用する権利が日本将棋連盟から与えられているらしい。しかし、その後は将棋年鑑など他のメディアでも棋譜が利用されていることから、棋譜の著作権は日本将棋連盟が保持したままだと想定するのが妥当であるような気がする。すると日本将棋連盟は、対局後初めて棋譜が公表されるまでの排他的利用許諾、および、その後の単純利用許諾を主催社に対して与えていると推測できるだろう。その場合、棋譜の著作権は日本将棋連盟が保有することになる。棋譜の掲載許可を出す権限があるのは、一般的にいって日本将棋連盟だと判断してよいのではないかと思う。
なお、実際の契約文面に著作権という文言がないことは十分予想される。しかしその場合であっても、著作権に関する契約そのものは、口頭もしくは暗黙的なものであっても有効なので、上記の議論は無駄ではない。
当事者間で明示的な利用許諾が行われていない場合,その原因が当事者間の著作権に対する意識が希薄であることに由来しているのであれば,いくら当事者の内心を探求しても法的に意味のある解答は出てこない。そのような場合には,契約当時の当事者の内心の意思に拘わらず、契約目的に従って合理的に契約を解釈する必要がある。
著作権法概説[第2版] 田村善之著 有斐閣 481頁
著作権の譲渡契約の締結は口頭でなすことも可能であり,場合によっては譲渡の意思は黙示のものでも足りる。
契約の文言や対価の多寡等から当事者の意思を推測することができる場合にはそれによる。くわえて,当事者の主観的意思が不明であるとしても,当事者間の契約関係等に鑑み,所期の目的を達成するために著作権の譲渡を認めることが必要な場合には,著作権の譲渡契約が存在するものと扱うことになろう。
著作権法概説[第2版] 田村善之著 有斐閣 505頁
将棋の棋譜をウェブページ上に掲載することが著作権侵害に該当するのだとしたら、著作権者は掲載した者に対して損害賠償を請求することができるかもしれない。(そのほかに、差止請求や不当利得返還請求もあるが、ここでは考えない。)このことはウェブページ制作者にとって潜在的なリスクであり、棋譜掲載をためらわせる原因となっている。この節では、このリスクをできるだけ具体的に評価しようと試みる。
しかし、このリスクを評価することは次に述べるいくつかの理由によって非常に難しい。具体的な数字を出すには、強引な仮定をいくつも置く必要がある。それでも、できるだけ実態に近づくよう努力してみたい。議論を簡単にするため、棋譜の利用形態としては、ウェブページ上に棋譜を掲載するにとどまり、それによって収入を得ることのない場合のみを想定する。
賠償額が何円になりうるかを算定するための障害には、以下のようなものがある。
あとで述べるように、棋譜そのものが取引の対象とされることはほとんどないため、賠償額算定の根拠となるべき棋譜の価格がわからない。
著作物一般について、一般の個人を対象として有料でウェブページ上に著作物を掲載する商取引もほとんど存在しないため、賠償額算定の根拠となるべき相場がわからない。
著作権侵害における賠償額算定はもともと難しい問題であり、裁判所はその業界の実態・相場・慣行を十分に斟酌した上で判断する傾向が強い。そのため、上記二項目の事情もあり、判断が難しくなる。
近年の情勢の変化に伴い著作権法は毎年のように改正が行われているが、中でも損害賠償額算定に関わる条文は改正の頻度が最も高い部分の一つである。例えば現在(2003年3月)は、文化審議会著作権分科会で2003年1月に審議されたように、著作権者にとって賠償額算定が容易になるような法改正が行われようとしている。
損害額の算出方法は現在、原則として違法コピーの影響で落ち込んだ被害者の販売数をもとに裁判所が決めているが、被害者が不利益を被らないよう新たな推定制度を導入する。
現行法では違反業者の得た利益を被害者の損害額と推定することも認められているものの、「違法コピーは利益率を低くして販売しており、被害企業の実際の損害額よりも低くなりがち」と批判があるためだ。具体的には違反業者の販売数に、被害者が新製品を売った場合に得られる単位利益を乗じた金額を損害額として推定できるよう改める方向だ。
日本経済新聞 2003年1月4日朝刊 一面
今後も同じような方向性の改正が続くものと思われる。
以上のことを踏まえた上で、賠償額算定にあたって何が問題とされるのかを順に書いていきたい。
まず前提条件として、損害賠償が認められるためには著作権を侵害した者に少なくとも過失があることが必要となる。しかし、棋譜が著作物であるかどうかが不確実な情勢の中で、将棋メーリングリスト 利用についてのお願いの日本将棋連盟の「(棋譜掲載を)法的に禁止させることは残念ながらできない。
」というコメントを信用するという判断をした者について過失があるといえるのかどうか、疑問が残る。プログラムの著作物については、次のような判例もある。
やや特殊だが、1985年改正以前にはプログラムを複製したROMに関して著作権が及ぶのか法律家にとっても不明確であったことを斟酌する東京地判平7.10.30がある。
著作権法概説[第2版] 田村善之著 有斐閣 321頁
ここでは過失が存在することを仮定した上で話を先に進めよう。
損害賠償額が何円になるのかを計算するためには、棋譜の価格をどう算定するかが問題となってくる。ところが、棋譜そのものに価格がついた例は皆無に近い。棋譜集として代表的なものは日本将棋連盟の発行する将棋年鑑および将棋年鑑CD-ROMのほかに、竜王戦倶樂部や名人・王将戦による棋譜の提供がある。これらに共通するのは、棋譜単体ではなく解説など他の要素と組み合わせていることである。棋譜単体の出版・配信などが行われていないことは、棋譜単体には経済的価値がほとんどないと日本将棋連盟や主催社が考えているあらわれであると言えよう。
棋譜以外の要素が最も少ない将棋年鑑CD-ROMの場合を見てみる。棋譜管理ソフトを含まない棋譜Dataでは、現在発売されているVol.1からVol.4までの平均で1棋譜あたり約4.3円という価格設定になっている。このうち解説を除いた棋譜の価値がどの程度の割合か定めるのは難しいが、ここでは半分より大きい2.5円としておこう。ただし、これは自分のパソコンで棋譜を閲覧するための価格であり、ウェブページに掲載する価格はまた別に定めなければならない。
音楽の場合にはウェブページに掲載するための価格体系が一応存在する。(実際にどの程度利用されているのかはよく知らない。)社団法人日本音楽著作権協会のインタラクティブ配信使用料早見表では、個人による非商用配信で曲数が多い場合には1曲あたり年額1,000円となっている。CDシングルの相場が2曲入りで約1,000円とするなら、その2倍の価格ということになる。
もしこの基準が将棋の棋譜の場合にもあてはまるとするなら、棋譜掲載は1棋譜あたり年額5円ということになる。100棋譜で500円、1,000棋譜で5,000円となる。(ただし、他の棋譜に比べて特別に価値が高いとされる対局は、特別扱いされるだろう。)
この節の冒頭でも書いたように、この推計は非常に不正確かつ無理のあるもので、実際にはこれより高くも安くもなり得る。ただ、個人的な感覚ではこれでは高すぎる感じがする。もし日本音楽著作権協会のように商売として成り立たせようと考えるのなら、これよりも料金を下げる必要があると思う。
1棋譜あたり年額5円という数字では、裁判をしてまで取り立てるメリットは感じられないだろう。損害賠償を得るためには、著作物性の立証、過失の立証、損害額の算定と、3つのハードルを乗り越える必要がある。その困難さと、勝つことによって得られる利益とを比較したとき、日本将棋連盟が損害賠償請求に乗り出すメリットはほぼゼロであると言って差し支えないと思う。このことは、一部の棋譜を除けば、単体の棋譜は躍起になって守るほどのものではないのではないかということを示唆しているように思える。
ウェブページを運営する立場から見れば、棋譜の利用料がそれほどの価格になりそうもないことは棋譜を利用しても損害賠償請求される可能性がほとんどないことを意味する。また、運悪く損害賠償することになったとしても賠償額はそれほどの高額になるとは考えにくい。したがって、棋譜を掲載することが将棋界のためになるという確固たる信念があるのならば、棋譜掲載をためらう必然性は薄い。
ここまで、プロの棋譜について考えてきたが、アマの棋譜についても少し考えてみる。アマの棋譜はプロの棋譜に比べて経済的価値がずっと低くなる。ということは、ウェブ上に掲載されたとしてもそれに伴う損失はほとんど生じないことになる。そうだとすれば、掲載によるメリットが多少なりともあるのなら、対局者も掲載に賛同することが予想されるので、掲載を行わない理由は特にないと考えられる。一般的に考えて対局者に望まれない形で棋譜を扱うことはしないというマナーを守る限り、棋譜掲載に関してトラブルになることはないだろう。
少し話題を変えて詰将棋について考えてみたい。同じ道具を用い似たルールが適用されるという点で、詰将棋は将棋の棋譜と似た性格を持つ。そのため棋譜に関する著作権の議論は、多くの部分で詰将棋にも適用できる。しかし、詰将棋では同一もしくは類似の作品は価値を認められないということもあり、著作物と認められるべき条件をより多く具えていると考えられる。
『詰棋めいと』第13号(1992年7月1日発行)に、小沢正広氏の「詰将棋は著作物か」と題する文章が掲載されている。氏は著作権に関する文献を調べ詰将棋が著作物であるとの確信を持った上で、文化庁長官に自作詰将棋の著作権登録を申請し、結果的に受理された。詰将棋の著作権登録が受理されるまでにはいろいろなやりとりがあったようだが、最終的に1992年4月になって文化庁著作権課は口頭で次のように回答したということだ。
〔登録担当者の回答要旨〕
文献・書物や学者にも詰将棋の著作物性を否定するような見解はありません。思想・感情を創作的に表現したものを保護するのが著作権法の精神なので、著作権課としては詰将棋が著作物であると認めます。難しい問題なので回答が遅くなりました。将棋や碁の棋譜も、申請があれば登録されるでしょう。
詰棋めいと第13号 詰将棋研究会発行 58頁
著作権登録制度については文化庁の著作権の登録制度についてを参照いただきたい。著作権登録にはいくつかの種類があるが、上の登録は著作権法第76条に基づくものである。
- 著作権者又は無名若しくは変名の著作物の発行者は、その著作物について第一発行年月日の登録又は第一公表年月日の登録を受けることができる。
- 第一発行年月日の登録又は第一公表年月日の登録がされている著作物については、これらの登録に係る年月日において最初の発行又は最初の公表があつたものと推定する。
この条文の第一義的な目的は登録により著作物の保護期間を明確にすることであるが、現状では登録されたものが著作物であること、国内で最初に公表されたことなどを公示してもらう目的で登録されることが多い。小沢氏の場合も、詰将棋が著作物であることを公示してもらうのが最大の目的であった。
当該作品が著作物であること,登録者が権利者であることなどを公示する制度が他にないために,不動産における保存登記と同様の目的のために利用されることも多いとされている。しかし,効果は事実上の推定にすぎない。
著作権法コンメンタール(下巻) 金井重彦・小倉秀夫編著 東京布井出版 8頁
著作権法施行令第23条第1項によれば、文化庁長官は「登録を申請した事項が登録すべきものでないとき
」登録の申請を却下することになっているため、著作物でないと判断したなら登録を却下するはずである。しかし著作権法施行令第23条第2項によれば、却下する場合には書面で理由を伝えなければならないため、著作物でないという主張を支持するだけの論拠を見いだせなければ登録は受理されることになるだろう。
登録が受理されれば、登録事項は文化庁長官の作成する著作権登録原簿に記載され、だれでもその記載事項を閲覧できるようになる(著作権法第78条)。このことによって、著作物であることが事実上推定されることになる。裁判において著作物性が問題になるとき、相手方の反証がなければ著作物性が事実上肯定されるわけだ。
ただしこれはあくまで「推定」にすぎないので、反証によって覆すことが可能である。文化庁はあるものが著作物であるかどうかを決定する権限を有しないということだ。決定できるのは裁判所のみである。したがって、登録が受理されたという事実から詰将棋が著作物であるという結論を導き出すことはできないものの、文化庁著作権課が詰将棋が著作物でないという論拠を見いだせなかったということはできる。
その後新たに、詰将棋または将棋の棋譜が著作権登録されていないかどうか、筆者にはわからない。著作権登録制度は、プログラムの著作物を除けば、コンピュータを使わない昔ながらの方式で運用されており、著作物の内容や著作者を検索するシステムは存在しない。登録番号を元に網羅的に閲覧することは可能かもしれないが、その場合でも閲覧一件あたり730円を支払う必要がある(著作権法施行令第14条)。
近年の情報技術の発展が契機となって、世界的に知的財産制度に関する論議が高まりを見せている。2002年7月14日に放映されたNHKスペシャル「変革の世紀」 第3回 "知"は誰のものか 〜揺れる知的所有権〜(リンク切れ)で、この問題が取り上げられた。そこでは、「著作権が厳格に保護されなければ、創作者が意欲を失い文化活動が停滞する。また、経済に与える影響も大きい。」という映画業界・音楽業界などの主張と、「著作権による独占が強すぎるとかえって文化活動を制限する。著作権は自動車のような私有財産とは異なる。」という市民からの主張の対立が描かれている。この著作権を強化するか緩和するかという対立項は、今後日本でもさらなる関心を集めていくことになるだろう。
棋譜の著作権にまつわる議論もこの対立項の一部と捉えることができよう。棋譜が自由に利用できるべきであるという主張は、著作権を緩和すべきという主張に通じるものがある。私が想定する最良のシナリオは、日本将棋連盟が対局後一定期間が経過した棋譜は自由に利用してよいと宣言することだ。将棋の棋譜は最新のもの以外は価値がぐっと落ちることを考えると、そうしても収入が減ることはありそうにないし、プロ以外の人間にも様々な棋譜が参照できることによるメリットは計り知れない。
日本将棋連盟の収入が減ることがあるとすれば、それはネット上で棋譜が掲載されるからではなく、将棋そのものがビジネスとして成立しないと見なされるためだろう。例えば、テレビ東京主催の早指し将棋選手権戦は2002年度を最後に廃止された。米長邦雄ホームページの「将棋の話」2002年8月3日付や「将棋の話」2003年1月1日付によれば、直接的な原因は「スポンサーが難色を示し
」たためということで、ウェブ上に棋譜が載ろうが載るまいがスポンサーは離れるときは離れるということがはっきりしたのである。
このようにスポンサーが離れることを防ごうとするなら、日本将棋連盟は投資対象としての魅力を高める努力をしなくてはならない。つまり、より多くの人に将棋を指してもらうための努力である。ウェブ上に棋譜が載ることを望まないのは、そのような努力とは正反対の姿勢だと思う。double crown氏が将棋連盟解体の日で書いたような危機感を抱いている関係者がどれほどいるだろうか。
少し前向きに考えてみよう。棋譜そのものの経済的価値が少ないとしても、棋譜が速報されることについてはもっと大きな価値を見出すことができると思う。例えば、毎週末にその集に行われた対局の全棋譜がメールで配信されるようなサービスがあれば、有料であっても需要があるのではないだろうか。(もちろん価格次第ではあるが。)全対局の棋譜をコンピュータに入力する作業は現在でも行われているようなので、技術的な障害は全くないと思われる。
現在、著作権がらみの争いは頻繁に起こっているし、今後も争いが絶えることはないだろう。将棋界の現状はそのような先鋭的な状況からは隔たっているが、将来的に将棋界のビジネスモデルを考えるとき、必ず大きな問題点として浮上してくるはずである。そのころまでに、この問題が全体にとって好ましい方向で解決していることを願う。