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24との出会い

時は流れて、インターネットの時代が到来しました。本棚にあるような本を読んですっかり詰将棋ファンになっていた私は、まず詰将棋関連のページを片っ端から見ていました。そんなサーフィン中に偶然出くわしたのが、マプのツメとぎ部屋でした。

そのときはちょうど第一回変則将棋大会の募集が行われていましたが、それよりも私が興味をひかれたのが「先後同型後手必勝局面」の募集でした。直感的に、これに興味を持って答えようとするのは私くらいだろうと思ったのです。少し考えて答えを思いついたのが、まさにきっかけでした。「もず」というHNもそのとき考えたものです。(「先後同型後手必勝局面」に興味がある方はマプのツメとぎ部屋へどうぞ。)

そのころの私はまだネットゲームというものを知りませんでした。また、そのときプロバイダとの契約も月5時間までだったので、マプ氏の第一回変則将棋大会には参加しませんでしたが、ネットに興味を持った私はgooとかYahooのゲームサイトを見つけてオセロとかチェスとかを少し指してみました。しかし、オセロは強い人がいないし、チェスはそもそも人があまりいないしということで、プロバイダとの契約時間は伸ばしたものの、あまり行かなくなってしまいました。

その少し後、友人に将棋を教えたり、プロ棋士の方にお会いしたりと将棋にかかわる出来事があって、ずっと指していなかった将棋(詰将棋除く)を指してみようかという気になりました。これが24デビューまでの道のりです。

級位者時代

24で登録するためにはまず自分の棋力を申告しなくてはなりません。私は棋力認定書など持っていませんし、雑誌の棋力認定問題のようなものもやったことがありませんでした。しかし考えてみると、指せる定跡といえば、小学生のときに本で見た「対振飛車 左▲4六銀戦法」を自信なく指すか、NHK杯で見た将棋を怪しく再現するかくらいです。将棋倶楽部24はレベルが高いと書いてありましたので、そんなことで簡単に勝てるわけがないと思い、その時の最低レベルの10級で登録しました。Yahoo Games でのレーティングの経験から、登録時のRが怪しくてもすぐに実力通りのRに落ち着くものと思っていました。

当時のYahoo Games では、すべての人の初期レーティングが1200(ゲームの種類によって多少異なるかもしれません)で、はじめの19局の間は20局以上対局した人に比べてレーティングが大きく動くシステムが採られていました。 (現在はシステムが変更されています。)しかし、24では対局数が30未満でレーティングの後ろに?が付いている人も、たくさん対局をこなした人も計算方法は同じです。そのため、棋力の申告が誤っていた場合、本来の位置に戻るにはたくさんの対局を消化しなくてはなりません。そのことを知っていたらもっと慎重に登録したのでしょうが、そのころはまだ過小申告自体が深刻な問題と見なされていなかったと思います。

10級で指し始めた私は、24での初戦を飾ったものの、第二戦では先手の私が横歩取りから銀冠に組むという大局観のない駒組をしたため、あっさりつぶされてしまいました。しかし、そこからは詰将棋の経験が予想以上に生き、中盤で不利になった将棋も怪しい詰めろから頓死に討ち取ったりするなど、勝ちまくりました。気づいてみると、はじめの30局は27勝3敗でした。勝率9割で、今考えれば過少申告以外の何者でもありません。このころに、24の名人戦とか竜王戦がなくて本当によかったと思います。もし大会があったら、何も考えずに出場して過少申告の有名人になっていたかもしれません。

そうして、勝ち続けているうちに4級にたどり着きました。しかし、そのあたりで壁にぶつかりました。(といっても、連勝できなくなったというくらいでRが落ち始めたわけではありませんでしたが。)これは、序盤を何とかする必要があるかと思い、それまで特に決めていなかった戦法をある程度しぼり始めました。主戦法は、居飛車穴熊と角替わりです(←今と全く違う(^^;)。そんな時期に、lagrimaさんと偶然にR対局をしました。lagrimaさんは4級レベルの他の相手と違って、私のにわか仕込みの角替わり定跡の知識では歯が立ちそうにないと指していてすぐにわかりました。対局が終わったあと感想戦で話が弾んだのですが、急に「矢倉は指しますか?」と聞かれました。一応矢倉も指していたので「指します。」と答えたところ、「矢倉愛好会に入りませんか?」とお誘いを受けました。lagrimaさんは矢倉愛好会の当時の会長mayumayuさんと仲がよく、会員番号一番の会員だったのです。(現在の矢倉愛好会のHPはこちらです。(宣伝))

矢倉愛好会に入った私は、角替わりをやめて律儀に主力戦法を矢倉に変更しました。森下卓八段の本を手に入れて感動したせいもあって、矢倉定跡をひたすら頭に詰め込んでいました。(森下本を買ったのは、「看寿賞作品集」を買ったついでの衝動買いだったことは秘密です(^^;。)しかし、矢倉は定跡から外れた手も悪手でないことが多く、定跡を覚えても大局観に欠ける私は苦労の連続でした。現在でも矢倉は勝率が今ひとつです。

それでも、級のレベルでは詰将棋の経験がまだ生きていて、終盤での逆転などで勝率はほとんど落ちませんでした。 矢倉愛好会と同じ時期に入会した初段を目指す会では、竜王戦で出番を待っている間にRが400点ほど上がってしまい、当然ながら対戦相手の方々に不評でした。この場で謝ります。結局、その大会では決勝で敗れて初段を目指す会のタイトルには手が届きませんでした。

その竜王戦の途中の一戦、lagrimaさんとの将棋で、私は初段に昇段しました。24デビューからちょうど99戦目。そこまでの星は、84勝15敗でした。初段になってからは勝ち負けが交錯していますが、この高勝率のおかげで2001年5月現在の私の勝率は7割弱と、まだ高い勝率を保っています。

24の掲示板上では過少申告の問題が断続的に議論されていますが、過少申告のほとんどは私のような棋力の基準がわかっていない人なのだと思います。24がこれからもずっと性善説で運営されていくことを切望します。



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written by mozu