ここでは先秦(秦以前、春秋戦国)の諸子百家を取り上げる。先秦以降の諸子は別項目とする。
意外と知られていないことだが、漢代以降の中国においては、諸子百家の書物はマイナーで、四書に入っている『孟子』を除けば、『老子』『荘子』『孫子』など一部を除いて、あまり読まれなかったようである。『老子』『孫子』ですら、それほど一般的だったかどうか。
例えば、佐野公治氏が『四書学史の研究』でいうように、明の時代の科挙受験生は、『四書大全』『五経大全』『性理大全』などの四書五経と朱子学の教科書以外の本を余り持っていなかったし、読まなかったようである。
この原因を考えると、そもそも書籍が高価だったと言うこともあるだろうし、諸子百家の分かりやすい注釈書も余り出版されてはいなかったようだ。そのうえ、ほかに面白い歴史の本は幾らでもあったのである。注つきのもの、注なしのものなどバリエーションを変えて色々売られていた『史記』や、100種類も流通していたといわれる『三国志演義』、通俗的なダイジェストが大量にある『資治通鑑』などの出版量に比べれば明らかに諸子百家の書籍の流通は少ないと思われる。学者や官僚が読まないのだから、一般の人は余計読まなかったであろう。杜甫の詩には「村では子供の学問は論語を読ませるぐらい」という文句が出てくるし、『三国志演義』などは商人も読んだが、結局諸子百家は読まないという状態が長く続いたようである。
『韓非子』などは、中国学の専門家以外の人などは、よく勘違いして「中国の表の学問は儒家だが裏は法家で、韓非子は中国歴代王朝の統治の思想として用いられていた」というようなことをよく書くのだが、 実に困ったことだと思う。詳しくは『韓非子』の項目で書くが、清代になっても『韓非子』の本文は誤字脱字だらけで、まともに読める代物ではなかったのである。
こういうことは、諸子百家の翻訳書の冒頭の解説に注意すると書かれていることも多いのだが、多くの人はこれを見逃してしまうのである。
いわずと知れた四書の一つであるが、 漢の時代にはほとんど読まれず、儒教の経典からも外されていたことは意外に知られていない。諸子百家の一つであったが、その後中国が市民社会に移るに従い徐々に読まれ始め、南宋の朱熹によって注釈がつけられ、四書として取り上げられてからようやく読まれだした古典である。朱子学は元の時代に国が大々的に採用したので、それに伴い孟子も流布した。
「民衆が最も尊く、社稷(しゃしょく)がこれに次ぎ、君主は取り替えてもよい」という革命論(皇帝にはありがたくない理論である)や、弁舌に優れるあまり、仔細に見ると分が悪い告子との論争でもちょっと見は勝っているように思えるほど(「喧嘩は声がでかいほうが有利」というやつか?と言った人もいる)であることを警戒され、他の儒家の書より流布が遅れたようである。
一説には、漢の文帝の時に後世論語を批判するものはほとんどいないが、孟子をそしるものはたくさんおり、唐の時代まで余り読まれることがなかったらしく、特に北宋期までは馮休『刪孟子』・李観『常語』・司馬光「疑孟」(ぎもう)・晁説之『詆孟』など論難の書は数多くあった。そこで北宋の張九成は弁護して『孟子伝』を書いたりしている。(『四庫全書総目提要』孟子音義の条より)其の他北宋でも二程・蘇学の蘇轍(『孟子解』を書いた)などは『孟子』を尊重したので、つまり北宋までは『孟子』評価はさまざまだったのである。それが一般に尊崇されるに至ったのは、南宋の朱熹以降であるといえよう。しかし特に日本の国学からは忌み嫌われ、極端な人、たとえば江戸時代の国学者、平田篤胤などは「明の朱元璋は孟子を罵倒し、孟子の木像を弓で射た。こういうことから孟軻(孟子)は大悪人であることがわかる」などとさえいっている。しかし、中国の民衆からは支持されていたようで、戦国時代を描いた古典的歴史小説では孟子は大活躍しているらしい(その本を見たことがないのでホントーの所はわからんが・・)
「浩然の気」というような「気」の思想(すなわち養気説)、人間の本性はみな善である(性善説)ことを大変熱っぽくとき、現代でも読まれるべき要素を多分に含んでいる。僕はこの書は大変好きである。ぐにゃぐにゃした他の書より、わかりやすく言うことがしっかりしている点、儒教経典でも非常に優れていると思う。徳川家康は、「四書が読めなければ、『孟子』一つでも良いから読め」といったという。(『名将言行録』)名言であろう。朱子学の認識では孔子の後を継ぐ(もちろんこれにも批判はある)儒家正統派とされたこともあり、後世に与えた影響は大きい。又、文章も名文で知られ唐の韓愈の「古文運動」では『孟子』の議論文を文学の模範としている。
主な注釈には、後漢の趙岐のものや、南宋の朱熹の「孟子集注」、日本の伊藤仁斎の「孟子古義」がある。
三十二篇。戦国の人、荀況およびその弟子の撰。儒家のなかでも特に「礼」を重視する。この場合の礼は、礼儀作法を指すのではない。社会的規範である。
人間の本性は悪であることを主張し、本性をそのまま野放しにするのではなく、教育によってこれを統御することを主張する。
その教育のよりどころとして「礼」が存在するのである。そして、さらに進んで外的な規範「礼」による社会の統御をすることによる天下統一の方法論を解き、韓非の先駆となった。
(ちなみに韓非は荀況の弟子である。荀況と韓非の思想の相違点はいろいろあるが、荀況の唱える外的な規範「礼」が、人間社会のモラル・慣習法といった緩やかな規範(慣習法)であるのに対し、韓非の「法」は成文法である点が大きい。)
後世に与えた影響はきわめて大きく、「孟子」のように経典として祭り上げられるよりも社会システムの根幹として「儀礼」「礼記」に受け継がれ、中国社会を支える大きな力となった。『荀子』の学は後継者が居なかったように書いている本もあるが、とんでもないまちがいである。前漢時代の儒教はほとんど元を辿れば荀況にたどり着くのである。荀況の系統(「荀学」とも呼ばれる)は脈々と受け継がれ、後に二人の大物を生んだ。不合理な者はたとえ聖典でも聖人でも容赦なく切って捨てた後漢の王充と、魏の武帝・曹操である。曹操の字「孟徳」からして、『荀子』にある「徳操」という言葉に基づくとも言われている。
学説として『荀子』が否定されるのは、朱子学の成立以降であり、これは性善説の『孟子』が聖典になったのと反比例している。このため、一時期は荀子の書物そのものが稀覯本となっていたらしい。しかしこのときも、支配体制としては『荀子』の考えは形を変えて生き延びていた。その後19世紀後半にいたって、ようやく学説として再評価されるに至ったものの、この時代には「性悪説」が歪曲されて人間蔑視と化し、逆に人々を苦しめるに至ったため、『荀子』のために中国はおかしくなったという批判が強くなり、「人を食う礼教」と非難されるにいたった。
しかし一方では、超自然的なもの(「天」)を否定し、その明晰で「走りつづければ、駑馬であろうともいつかは目的地に到達する」(勧学篇)という言葉に象徴される人間の努力を重んじる面が、大いに人々を励ましつづけたのも事実なのである。
さて、韓非はこう説く。人類は進歩しており、社会は競争社会である。という認識にたち、儒家・墨家を批判して荀況(師匠だからね)の性悪説を採り、人間はほうっておけばどんどん悪へ走るものであるから文章に明示された「法」(成文法。人々が習慣的に作った慣習法ではない)によってしばるべきである、そうすれば、いくら諭しても従わない悪人も、悪を辞める他は無い。として、法による統治(法治)を主張する。小室直樹氏は、この理論を「性悪説を元にした単純化した社会モデル」と言って居られるが、卓見だと思う。韓非は師匠・荀況の説を元にして、社会モデルを描いたのであった。あくまでも単純化モデルであるから、「人間は善に走ることもある」というようなことは無視されている。韓非が自分の説を作り上げたのは自分の国が滅ぶか滅ばないかという瀬戸際であった。韓非は韓の国の若様の一人で、なんとかして国を救わなければいけないんだ、と思い詰めていたのであろう。単純化した為に、複雑な現実から見れば随分極端なモノになっているが、韓非にすれば「必死になってテンパってる時に書いたんだから極端でもしょうがないんじゃ!」というところであろうか。
そして、「法」は君主が定めるもので、法は君主により家臣・人民を統御する為に定められるものとする。その微妙な運用方法(術)は家臣・人民には絶対秘密にして、君主の腹の中に治めておけ。家臣・人民を思うがままにあやつることが国家安定の道だ、と説き、これに従わず古い農村共同体の論理にしがみつき、君主に逆らう民衆や、過去の先例を引いて改革に逆らいごねる儒者は処罰すべし。生産しない商人は逆賊じゃ。とするのである。(大雑把にまとめてみた。もっと本物は巧妙に比喩を使って「なるほど」と説得されそうになる優れた文章である)
と、説明を読むと分かるようにかなり極端な主張が行われている。君主には良いかも知れないが、民衆にとって見ればそのまま履行されれば相当辛いものであったろう。僕は『韓非子』を褒める人を見るたびに「この人、わかってんのかしら」と思う。世間で行われる『韓非子』の説明では、上記の後半を敢えて書かないものが多いんだよね。書けば売れないだろうから、当然か?
もっと自由に読まれるべき古典
しかし、実際現在本屋で売られている『韓非子』の解釈書では、このようなことを書かない本が多い。
でも、古典は所詮今の世に万事適合する物ではない。悪いことは悪いというのも必要では無かろうか。
規制緩和の世の中で、統制大好きファシズム万歳の『韓非子』の悪い点を語らずに、なんか言論弾圧万歳みたいなことまでいう本があるのは困ったことだと思う。こういう本を読んでいると、つくづく「言論統制なんか起きたら物書きはみんなお陀仏だっつーのに、おめでたい話しだなぁ・・」と思うことしきりであった。文化大革命で知識人がつるし上げにあい多数命を落とし、民衆が塗炭の苦しみを嘗めたのは遠い昔の話ではないのである。
(尚、中国大陸は当時日本では理想郷のように思われていたため、文化大革命も「よいこと」として捉えられていた名残から、その実体の悲惨さも知らず平気で今でも文化大革命を褒める馬鹿な物書きもいるようであるが・・)
その時宣揚された書、それが『韓非子』であった。
なお、この本は秦の始皇帝が激賞して作者を自分の国へ無理矢理連れて帰ったくらい(可哀想に、秦に着いた韓非は、その手腕を恐れた友人の秦の宰相・李斯に暗殺されるのだが・・)で、秦の施政方針となった。しかし、あまりにも極端だったためか秦は15年でつぶれてしまい、おかげで『韓非子』の評判は歴代通して良くはない。
しかし、韓非子そのものは人間愛を否定し儒家批判が強烈に書かれていることから批判が多く、そのやり方が残忍といわれ、特に民衆・儒者を批判した部分は常に非難の対象となった。『韓非子』は注釈が殆ど書かれず、一般的だったとはいいがたい。
例えば、『韓非子』の四庫全書での評価はひどいものである。四庫全書の解説書『四庫全書総目提要』では、法家類に『韓非子』の項目は一応あるが、『韓非子』本文は四庫全書に収録されず、リストアップのみの「存目(ぞんもく」という軽い扱いでしかない。しかも、『四庫全書総目提要』の解説文を見ると、
「紫禁城内にある『韓非子』は、合計して700字近い脱字があるものがあり、比べてみると明代の版本で脱字がないものがあるので、テキストとするにはこれがよいと思う」「商鞅、韓非の書物を見れば、刻薄で恩が少ないことの非を知ることが出来る。前車の覆るは後車の戒め、政治の教訓になるだろう。曾鞏(そうきょう)がいうように、無くしてはいけない書物だが、よい本でもないというものだろうか?」と酷評している。韓非そのものがマイナーな存在だったらしく、他の書物で取り上げられることも少なかったようだ。 注釈は成立がいつの時代かよくわからず、著者の名前も不明である(一説に李サンの注だという)ものが一種、元末明初の門無子なる人物が著した『韓子迂評』の二種がある程度である。出版も宋に一度、元の末期に一度でたことがある程度で書物としての普及率は余り高くはなかった。道経経典の全集である「道蔵」に収められていた為、一部のマニアは見ることができたと思われるが、テキストが混乱しており、元の門無子は『韓子迂評』の序で、
「坊本は句読に至るべからず(民間の韓非子原文は判読不能である)」と述べているほとである。しかしながら、後に門無子も本文を勝手に変更してしまったとして批判されており、民国以前は不遇の古典であったといえるのではないだろうか。ただ、そんな中でも『韓非子』は部分の引用はされていた。名文なのでアンソロジーの類や科挙受験参考書によく入っているのである。韓非の叫びが強烈にほとばしり、司馬遷も感嘆した「説難篇」などが引用されている。最も、「説難篇」は本質的部分ではない。
その韓非子が復活したのは、民国以降中華人民共和国成立以降であり、特に文化大革命中に批林批孔運動のなかで、突然曹操・柳宗元などの他の法家と一緒に評価されたが、中国全土に大きな被害を与え、文化大革命が終了してからは、どこまで評価されているのか、よくわからない。現在刊行されている韓非子の中国書を見ると、一般向けの紹介本とおぼしきものや、韓非子の漫画
(以前私が見たのは、韓非子が美少女(!)として始皇帝と恋愛関係に有るというかなりぶっとんだものであった)を除くと、きちんとした研究書は清の王先慎『韓非子集解』、陳奇猷『韓非子新校注』など数種類であった。
最近「『韓非子』を読むを上とし、孫呉(『孫子』・『呉子』)を読むを中とし、三国(『三国志』)を読むを下となす」という言葉が中国で一般に流行していたように書かれた本が出回っているが、この言葉、多分前述の文化大革命時以降に謂われだしたものと考えるべきであろう。それ以前の言葉としては不自然に過ぎるからである。旧中国に於いて、『韓非子』は殆ど読まれていなかったのだから。
孫子(そんし)
三巻。十三篇。春秋の孫武の著。一時期孫武の孫・孫臏の著とも考えられていたが、現在では孫武著とするのが一般的。中国の代表的な兵法書。「漢書・芸文志」に、
「呉孫子兵法八十二篇.図九巻.」とあるが、現在のものは後世の付加部分(六十九篇?)を魏の曹操が削除して原型にもどしたもので、竹簡に書かれた最古のテキストも十三篇でまとまっており、これはほぼ原書に近いと見られる。
思想的には道家の影響が大きく、状況は常に変化するという変移の思想が考察のなかに生かされている。古来より兵法のバイブルとして重んぜられ、科挙の武官の試験に出題されたりもし、文章が簡潔で味わいぶかいことから、文人にも愛された。非常に体系的に戦略・戦術・戦術各論が述べられており、現在の軍事戦略・企業戦略にも大変よく用いられている。
名著であるが故にか、古来注釈は数多い。「孫子、六経に比す」(孫星衍)とさえ言われている。儒教経典は絶対的な規範であったが、それに匹敵する書だというのである。本文理解の注釈には魏の曹操の「魏武注孫子」が優れているとされており(筆者は孫星衍「孫子十家註」をかつて読んだが、そこに引用されている「魏武注孫子」を読む限り、良く分からなかった。簡潔すぎて、本文理解の注といえるかどうかも読みとれないのである。ただ、中島悟史『曹操注解 孫子の兵法』朝日文庫という「魏武注孫子」の訳を見ると、孫星衍「孫子十家註」との相違が相当あるようだ。)戦略戦術の実例の注釈としては、唐の杜牧の注が優れているとされている。元の吉天保が諸注釈をまとめて「十一家注孫子」を書き、これがスタンダードな注釈書となっている。
(テキストについて)『孫子』のテキストには三つ系統がある。前に述べた「魏武注孫子」を清の孫星衍が校訂した平津館本、「十一家注孫子」系統のもの、北宋時代に軍人用の教科書として作られた『武經七書』本の三つである。この三つ及び日本の仙台藩の武士・桜田家に伝承されたテキストを元に作られた金谷治氏校訂の岩波文庫本が長らく定本テキストとして用いられてきたが、1972年山東省の銀雀山漢墓より竹簡に書かれた最古のテキストが出土した。この出土した「孫子兵法」により、テキストは多いに再考された。金谷氏も銀雀山漢墓本も史料とした新しい岩波文庫本を作られている他、もっぱら銀雀山漢墓本を基本として作られた浅野裕一氏校訂本(講談社学術文庫版『孫子』)も存在している。
問題は、銀雀山漢墓本には相当数の欠落があることである。この原因ははっきりしており、発見時に、竹かごの残骸と勘違いした農民が手荒く放り投げたために、2000年もの間地中に埋まっていた竹簡はばらばらに破壊されてしまい、「地形篇」は全く消滅してしまった為である。(湯浅邦弘氏『諸子百家』中公新書)。湯浅氏は、「学者によって発見されていれば完全な形で残っただろう」と述べており、世界の人々に読まれている孫子ということから考えれば世界的な損失であった。幸いばらばらになった竹簡は現在では薬液の中で厳重に保存されている。
なお、一部報道で西安の民家から「孫子」の七十二篇からなる別なテキストが発見されたと報じられたが、後の調査によりこの七十二篇本「孫子」は単なる偽作と判明しているので注意されたい。もっとも、研究者のなかには、春秋の『孫子』十三篇になぜか戦国時代ような大規模な戦争の描写があることや、思想内容の混在からいまだどちらかは決定的にはわからないとする町田三郎氏のような主張をする人もいる。