中部太平洋陸軍作戦 マリアナ諸島の防衛

 作戦の背景

日露戦争後の国防方針策定以来、太平洋方面の作戦は海軍、大陸方面の作戦は陸軍の担任というのが一般的な通念になっていた。従って太平洋方面の作戦に関する陸軍の関心は極めて薄く、第一次大戦後の国防方針と用兵綱領の改訂によって、陸軍は対米作戦の初頭、比島・グアム島の攻略に海軍と協同することとなったが、のちに中部太平洋の諸島に10数万もの陸軍兵力を派遣することになろうとは考えてもいなかった。

昭和18年9月30日 大本営は絶対国防圏を設定、現戦線から一歩後退した線に大量の陸軍兵力を投入した。なかでもマリアナ諸島は中部太平洋正面における絶対国防圏の要衝であった。しかし現実戦われている南東戦線への危急に応じるためマリアナ方面への兵力投入は非常に遅れ、制海空権の喪失と相まって作戦準備はきわめて不十分であった。さらに防勢作戦の特質上敵の来寇予想地点のすべてに兵力を配置せざるを得ず、膨大な兵力投入の割には配備は薄弱となり、島嶼間相互の支援もできない状況であった。

なおマリアナ諸島の多くが岩石の多い小さな島であり、軍事的価値があるのは15の島々のうち南部マリアナ諸島のサイパン、テニアン、ロタ、グアムだけで、北部マリアナ諸島は海中から突き出た円錐形の険しい山が多く、パガン島が利用できる程度であった。

サイパン島の作戦   グアム島の作戦   テニアン島他の作戦

 

 中部太平洋の戦備強化

マリアナ諸島図  陸軍は中部太平洋の戦況緊迫に伴い昭和18年2月25日
 第31軍を編成、聯合艦隊司令長官の指揮下に入って
 中部太平洋方面の全陸軍部隊を統率することになった。

 また同日、「中部太平洋作戦ニ関スル陸海軍中央協定」が
 大陸指及び大海指(第341号)によって確定された。

 第31軍は、5個師団 7個旅団と戦車、砲兵、工兵ほか
 各数個大隊からなるもので、関東軍の中核兵団である
 第14、第29の両師団を含む大兵力で編成されていた。

 取り急ぎ内地で編成されたばかりの第43師団と第52師団
 が訓練未了の形で送りこまれた。
 また独立混成旅団は、混合の弱点はあったものの関東軍の
 精鋭各師団から抽出して集成されたものが多かった。

 一方海軍は、中部太平洋への陸軍兵力大量派遣に伴う
 第31軍司令部の創設と並行して、同方面の陸海軍の指揮、
 補給関係を律するため、聯合艦隊の作戦指揮下に新たに
 中部太平洋方面艦隊を親編した。
 司令長官には南雲忠一中将が任じられ、同方面の陸海軍を
 統一指揮させることになった。

 中部太平洋方面艦隊は、第4艦隊と新編の第14航空艦隊
 を基幹とし、サイパンの第5根拠地隊、パラオの第30根拠地隊
 及び陸軍の第31軍諸隊をその指揮下とした。

 
 海軍拠点のトラック空襲、陸海大臣の統帥部長兼任、マリアナ空襲と続く非常事態のなか

  @ 中部太平洋の作戦は、今次戦争の山であって陸海軍戦力の緊密一体的発揮の要がある。
  A 海洋作戦の主体は、海軍航空隊であり、陸軍は航空基地確保を使命とする。
  A アッツ、ガダルカナル等陸海の協同関係で失敗した経験は両軍の統一指揮の必要を認める。
  C 海洋の補給、護衛、輸送、情報収集の実力を持たない陸軍は戦力発揮が困難。

 以上から、聯合艦隊隷下の新司令部/中部太平洋方面艦隊を新設し、
 陸軍はその指揮下にはいることになったのである。

 第31軍は、トラック地区集団、マリアナ地区集団、小笠原地区集団、パラオ地区集団
 及びマーシャル諸島やウェーク島ほかの各守備隊と軍直轄部隊からなり、
 既に派遣済の兵に増加される兵力を加え、総兵力8万名に及んだ。

 
 第31軍司令部の編成と第29、第43師団の派遣

 昭和19年2月25日 第31軍司令官親補の大命を拝した小畑秀良中将は、出発にあたり陛下から
 「マリアナ諸島は日本の運命を決する最後の戦略線である。日本は全力をもってこれを確保する必要がある。
 軍司令官は全日本国民の期待に応えるため最後の奉公をせよ」 という趣旨の御言葉を拝し、
 2月28日横浜から空路サイパンに出発した。
 参謀長に任じられた井桁敬治少将は、満州ハイラルの第6軍参謀長から着任し
 温厚で正義感の強い剣道の達人であった。

 だが第31軍司令部は、編成から出発まで期間が少なく、軍司令部としての内地での準備はほとんどできなかった。

 一方満州の遼陽に駐屯していた第29師団が中部太平洋方面に転用されることが検討されたのは
 昭和18年春のことであった。第29師団の兵員は幹部の1/3が現役で若く、兵は大部分が現役の3年兵で
 元気旺盛、訓練精到であったが、実戦の経験はなかった。  師団長高品彪中将は、率先陣頭指揮の将軍で、
 旅団長として大陸戦線に参加中は、部隊の最先頭に立って突進する猛将であった。

 名古屋に駐屯していた第43師団は、防空と名古屋要地の防衛に任務の重点をおいていた留守師団であった。
 師団長は賀陽中将宮で、歩兵聯隊の各大隊長は動員下令後命課された人が多く
 大隊長以下の幹部は応召者が多かった。
 動員下令に先立ち昭和19年4月3日 賀陽中将宮師団長は近衛第3師団長に転補され、
 後任には軍馬補充本部長の斎藤義次中将が親補された。当時の通念として宮様を離島に送るのは不可とされ、
 かつての桐工作主務者であった鈴木卓爾大佐は参謀長として赴任した。

 
 米軍のマリアナ作戦計画

 ニミッツ提督は、昭和19年3月12日の統合参謀長会議の指令に基づきマリアナ作戦準備を最優先する旨発令した。
 マリアナ作戦の目的は

  @ 日本軍の海上、航空兵站線を攻撃する基地の設定
  A トラック島の制圧作戦の支援
  B 日本本土爆撃のB29基地の確保
  C パラオ、比島、台湾、支那大陸に対する攻撃支援

 中部太平洋方面の作戦計画は、「グラニト計画」と呼ばれ、6月3日に第11次グラニト計画が発行された。
 それによる作戦計画は以下の通りであった。

  サイパン・グアム・テニアン占領 1944年 6月15日
  パラオ占領 1944年 9月 8日
  ミンダナオ占領 1944年11月15日
  台湾南部及びアモイ占領 またはルソン占領 1945年 2月15日

 
 第31軍司令官のパラオ視察

 小畑第31軍司令官は、昭和19年3月10日サイパンにおいて統帥を発動以来
 防衛担当地域の各部隊の作戦準備指導に努めていた。
 軍司令官は連合軍がビアク島に上陸した翌28日、パラオ地区集団作戦準備指導のため、
 空路サイパンを経ってパラオに到着した。随行者は中部太平洋艦隊参謀副長田村少将(陸軍)
 橋田中佐、泉中佐、金重少佐の各参謀、各部長及び副官等であった。
 一行は5月28日にぺリリュー飛行場に到着後、30日までぺリリュー守備隊の陣地を視察、以降パラオ本島、
 アンガウル島等を視察の後ヤップ島に移動、独立混成第49旅団の作戦準備指導にあたる予定であった。

 その視察中に米軍のマリアナ作戦は開始されるのである。

         サイパン島の作戦   


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