萌えの規定する物語構造。或いは、物語構造の規定する萌え
世界視点鑑賞システムと主観視点鑑賞システム
われわれは、前に、強制鑑賞システムとシナリオ分岐システムというふたつの物語の類型を取り上げた。強制鑑賞システムとは、鑑賞者が擬似的な世界(物語)を俯瞰する行為の中に達成される鑑賞システムのことであり、映画やアニメがそれにあたる。
シナリオ分岐システムは、物語のある特定の人格の有する主観を通して、その世界が鑑賞者の前に具現化されるような鑑賞システムのことである。ギャルゲーに関してのごく普遍的な構造と言ってよいだろう。
われわれはここで、前者の鑑賞構造を世界視点鑑賞システム、後者の鑑賞構造を主観視点鑑賞システムと呼び方を置き換えて、議論を進めることにする。
主観視点鑑賞システムでは、物語を動態させる人格間の関係は、鑑賞者の自己投影対象であらねばならない主観視点人格とその人格の恋愛投企・被投企対象との間で形成される。だが、その関係は、鑑賞者にとっては実存感のない白々しいものになりがちであることを指摘した。主観視点人格とヒロインの間で展開されるいちゃつき模様が、鑑賞者の嫉妬すらもかいかねないのである。その理由として、主観視点人格がその匿名性ゆえに、感情移入が困難なことをあげた。
物語が自己愛の投影であり、自分を他の人格に見出す行為であるとすれば、匿名の人格はその人格の無さ故に、自己をそこに見出すのはむずかしい。ゆえに、自己投影は、匿名の主人公ではなく、確たる(大抵は奇抜な)人格を持つ恋愛投企対象人格になされ、時には、主観視点人格が消失してしまうケースがあることを、『AIR』や『ONE』に関する議論のなかで行い、主観視点鑑賞システムは、自己投影の手段としては世界視点鑑賞システムに劣るのではないかとわれわれは考えた[注1]。
これまでのギャルゲーに関するわれわれの議論のなかで到達したこの結論は、このように、感情移入萌え(自己投影人格の軌跡)に立脚した視点から、引き出されたものであった。だが、感情移入萌えではなく、なにか他の萌えを物語で扱う場合、主人公の匿名性が、恐るべき効果を発する可能性がある。
感情移入萌えと並ぶ一般的な萌えの様式として、恋愛対象を前にした狂乱行為を前に挙げた。そして、これらふたつの感情様式が、“基調人格からのズレ”と密接な関連にあることも、前に議論したとおりである。
一例を挙げよう。過剰に愛そうとして狂乱する人格は、様々な萌えの誘因を鑑賞者に引き起こすが、一方で、過剰に愛される人格にも同様に萌え誘因の可能性がある。われわれは、その事例として、服飾交換行為において着替えを迫られる人格の当惑を考えた。
世界視点鑑賞システムにおいては、過剰に愛して狂乱する人格と過剰に愛されて狂乱する人格、そして、それらに萌えを感じる鑑賞者という図式が成り立つ[注2]。だが、主観視点鑑賞システムでは、狂乱する人格の過剰な愛を被る主観視点人格、つまり鑑賞者という図式に転換する。この種の萌えが狂乱行為の鑑賞において発見されるとすれば、この際、鑑賞者は、主観視点人格、すなわち、鑑賞者の自意識が過剰な愛に曝され混乱するのを認知することによって、萌えを感じていることになる。そして、ここで重要なのは、萌えの誘因人格としての自意識と、その萌えを受容する自意識が同一であることの距離感の無さが、世界視点鑑賞システムでは考えられないほどの驚愕すべき精神的疲弊を鑑賞者に与えることである。例えば、「もう誰にも渡さないんだから」である[注3]。
感情移入萌えでは、阻害要因ともなりかねなかった主人公の匿名性は、主観視点鑑賞システムにおけるこの“過剰被愛狂乱”萌えでは、不可欠なものになる。つまり、その匿名性という真空・空洞状態が、物語世界を彷徨う愛情投企ベクトルを集約し、鑑賞者に送り込むのである。
ここで主観人格は、鑑賞者と物語の仲立ちとして機能することになる。この機能を果たす限り、主観人格の匿名性を取り払い、ある種の人格というフィルターを付与させることは、物語と鑑賞者との風通しを悪くしてしまう。だから、このような萌えを物語で効果的に成立させる場合、その様式は、匿名的な主人公を通して鑑賞者の地平に世界が投影される主観視点鑑賞システムでなければならないだろう。また、感情移入萌えを物語において追求するのなら、それは人格の匿名性を廃した世界視点鑑賞システムである必要がある。『AIR』等が泣きゲーとして成立し得た背景には、萌えを規定し、そして萌えが規定する世界に関するこの明確な意識があったのではないだろうか。
[注1]
こちらを参照。同様の議論はここなどでもなされてる。
[注2]
その詳細な議論と実際的な応用については、ここを参照。
[注3]
他の事例としては、ここを参照。楽しいことに、同僚の徳島人Yにこの台詞を浴びせてやると、かれは身を震わせやや恐慌した状態になる。彼の狂態のおもしろさは、恐らく、萌えの起因の一種ではないかと考えられるが、徳島人Yがむくつけき巨漢であるために、ここで萌えは“楽しさ”という感覚に転換されることによって、われわれの精神の安定を支えている。