二月 二〇〇二年

 


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2002/2/28


健康体と病体の狭間で
物語における発病の頃合い

難病物によく見られる二部構成、すなわち健康期と病態期を分ける手法は、難病人格が病態期に突入したとき、うまくいけば鑑賞者を「あんなに元気だったのに〜(うるうる)」の様な気分にさせる可能性がある。ただ、あざとい。イー・トンシンの『つきせぬ思い』とか『AIR』などがこれである。

二部構成の難病物において、発病がやってくるのは物語の中盤であったり、終盤の発端であったりするのだが、その発病点が物語の冒頭に設置され、鑑賞者は難病人格の健康期を知ることはない物語も考えられる。例えば、ジョニー・トゥの『暗戦』である。この話では、難病性の認知が、物語に強力な動機付けを与える。だから、二部構成方式が、人格の湿っぽい受動性で鑑賞者の感傷を誘いがちだとすれば、発病で物語が始まる様式は、限定された生存期間でなにを為すべきか、という能動的な方向に行くのではないか。『生きる』で志村喬はへなへなになりながらも公園建設の予算を通し、アンディ・ラウは復讐相手を皆殺しして、ついでに、ラウ・チンワンと友情を結ぶのである

発病点は、冒頭や中盤に設置されるだけではない。発病点が、物語の終結点として機能することもある。『スケアクロウ』である。他のケースと違い、ここでは物語を終了させるきっかけとしてしか、発病が使われていないので、その印象はクールかつ残酷である。

以上、まとめるとこんな感じになるだろう。



とりあえず、人生は大変そうだ。

 

2002/2/26


隔離された友情様式
刑事ドラマの一情景

『ホワイトアウト』の感想でちょっと触れたことを。

人格Aが、実際に面識のない人格Bの身辺を洗っている内に、その不幸な実態を発見していく過程は、人格の成長と発見の応用であるが、人格Aが捜査の過程を経て人格Bの理解者になり始めると、“隔離された友情様式”が誕生する。

隔離された友情様式は、もともと“管制官―パイロット”関係や『ダイ・ハード』のおけるそれのような、隔離はされているが協賛関係にある人格たちの間で、形成されやすいものだが、一方で、敵対的な関係にある人格たちの間でも達成される事を、刑事ドラマは教えてくれる。第一次大戦のゲーム理論なほのぼの砲撃戦[注]や、『真夜中の戦場』などの戦場を横断する友情もこの類型かも。

人格たちを隔離していた壁は、物語の終盤でなくなる。“パイロット―管制官”関係で、人格Aは、まだ見ぬ相棒、人格Bと出会い人情を創出する。

これはこれでけっこうなことだが、隔離された友情様式の物語性は、敵対的な関係にある人格たちの間でより感情的に展開される。壁が消滅した瞬間、涙の銃撃戦が始まってしまうのである。これは楽しい。



[注]
第一次大戦、膠着した塹壕戦下において、砲撃の位置と時刻の定期制が頻見された。何時に何処に砲弾が落ちてくるのか予想が出来るため、戦場はほのぼのするのだが、理解のない上官がやってくると、敵同士で芽生えた友情は崩壊し、泥臭い物語が生まれる。

 

2002/2/22


アニメ版『カノン』について
アニメーションの気持ちの悪い可能性

ゲーム『Kanon』の人物造形は、それがO.L.(オーバーラップ)以外の手法で動くものと想定されて生み出されたものではない。よって、造形者が物理的な運動法則を逸脱するような造形を行っても、それが立ち絵である限り、ある程度の意識を鑑賞者が払わなければ、そんなに違和感を感じることはない。

この動き得ない人物造形体を、動きうるそれに変態させる事。アニメ『カノン』の苦闘はそこから始まり、同時に、そこに集約されていると言ってよかった。

人々の超人的な労苦によって、『Kanon』の人格たちが、普通に考えるのなら破綻するその原型をとどめながら、『カノン』においてアニメートする驚愕的な光景が出現する。それはとても感動的なのだが、破天荒な原型造形の呪縛を逃れるまでには至らなかった。

冒頭で、舞い落ちる雪にはしゃぎ、身体を回転させ、デジタルT.U.[注]する“あゆあゆ”を、鑑賞者は俯瞰する。その異様な運動は、鑑賞者の嘆を誘うほど気持ち悪く、また、素晴らしい。『カノン』は、嘘を積み重ねることによって真実を形成し、宮崎駿への偉大なアンチテーゼとなったのだ。


[注]
まさか、作画T.U.ではないと思う。フレームをちょこちょこ変えて、セルをT.U.させているだけだと考えるが、まさか…。

 

2002/2/19


萌えの規定する物語構造。或いは、物語構造の規定する萌え
世界視点鑑賞システムと主観視点鑑賞システム

われわれは、前に、強制鑑賞システムとシナリオ分岐システムというふたつの物語の類型を取り上げた。強制鑑賞システムとは、鑑賞者が擬似的な世界(物語)を俯瞰する行為の中に達成される鑑賞システムのことであり、映画やアニメがそれにあたる。

シナリオ分岐システムは、物語のある特定の人格の有する主観を通して、その世界が鑑賞者の前に具現化されるような鑑賞システムのことである。ギャルゲーに関してのごく普遍的な構造と言ってよいだろう。

われわれはここで、前者の鑑賞構造を世界視点鑑賞システム、後者の鑑賞構造を主観視点鑑賞システムと呼び方を置き換えて、議論を進めることにする。

主観視点鑑賞システムでは、物語を動態させる人格間の関係は、鑑賞者の自己投影対象であらねばならない主観視点人格とその人格の恋愛投企・被投企対象との間で形成される。だが、その関係は、鑑賞者にとっては実存感のない白々しいものになりがちであることを指摘した。主観視点人格とヒロインの間で展開されるいちゃつき模様が、鑑賞者の嫉妬すらもかいかねないのである。その理由として、主観視点人格がその匿名性ゆえに、感情移入が困難なことをあげた。

物語が自己愛の投影であり、自分を他の人格に見出す行為であるとすれば、匿名の人格はその人格の無さ故に、自己をそこに見出すのはむずかしい。ゆえに、自己投影は、匿名の主人公ではなく、確たる(大抵は奇抜な)人格を持つ恋愛投企対象人格になされ、時には、主観視点人格が消失してしまうケースがあることを、『AIR』や『ONE』に関する議論のなかで行い、主観視点鑑賞システムは、自己投影の手段としては世界視点鑑賞システムに劣るのではないかとわれわれは考えた[注1]

これまでのギャルゲーに関するわれわれの議論のなかで到達したこの結論は、このように、感情移入萌え(自己投影人格の軌跡)に立脚した視点から、引き出されたものであった。だが、感情移入萌えではなく、なにか他の萌えを物語で扱う場合、主人公の匿名性が、恐るべき効果を発する可能性がある。

感情移入萌えと並ぶ一般的な萌えの様式として、恋愛対象を前にした狂乱行為を前に挙げた。そして、これらふたつの感情様式が、“基調人格からのズレ”と密接な関連にあることも、前に議論したとおりである。

一例を挙げよう。過剰に愛そうとして狂乱する人格は、様々な萌えの誘因を鑑賞者に引き起こすが、一方で、過剰に愛される人格にも同様に萌え誘因の可能性がある。われわれは、その事例として、服飾交換行為において着替えを迫られる人格の当惑を考えた。

世界視点鑑賞システムにおいては、過剰に愛して狂乱する人格と過剰に愛されて狂乱する人格、そして、それらに萌えを感じる鑑賞者という図式が成り立つ[注2]。だが、主観視点鑑賞システムでは、狂乱する人格の過剰な愛を被る主観視点人格、つまり鑑賞者という図式に転換する。この種の萌えが狂乱行為の鑑賞において発見されるとすれば、この際、鑑賞者は、主観視点人格、すなわち、鑑賞者の自意識が過剰な愛に曝され混乱するのを認知することによって、萌えを感じていることになる。そして、ここで重要なのは、萌えの誘因人格としての自意識と、その萌えを受容する自意識が同一であることの距離感の無さが、世界視点鑑賞システムでは考えられないほどの驚愕すべき精神的疲弊を鑑賞者に与えることである。例えば、「もう誰にも渡さないんだから」である[注3]

感情移入萌えでは、阻害要因ともなりかねなかった主人公の匿名性は、主観視点鑑賞システムにおけるこの“過剰被愛狂乱”萌えでは、不可欠なものになる。つまり、その匿名性という真空・空洞状態が、物語世界を彷徨う愛情投企ベクトルを集約し、鑑賞者に送り込むのである。


ここで主観人格は、鑑賞者と物語の仲立ちとして機能することになる。この機能を果たす限り、主観人格の匿名性を取り払い、ある種の人格というフィルターを付与させることは、物語と鑑賞者との風通しを悪くしてしまう。だから、このような萌えを物語で効果的に成立させる場合、その様式は、匿名的な主人公を通して鑑賞者の地平に世界が投影される主観視点鑑賞システムでなければならないだろう。また、感情移入萌えを物語において追求するのなら、それは人格の匿名性を廃した世界視点鑑賞システムである必要がある。『AIR』等が泣きゲーとして成立し得た背景には、萌えを規定し、そして萌えが規定する世界に関するこの明確な意識があったのではないだろうか。


[注1]
こちらを参照。同様の議論はここなどでもなされてる。

[注2]
その詳細な議論と実際的な応用については、
ここを参照。

[注3]
他の事例としては、
ここを参照。楽しいことに、同僚の徳島人Yにこの台詞を浴びせてやると、かれは身を震わせやや恐慌した状態になる。彼の狂態のおもしろさは、恐らく、萌えの起因の一種ではないかと考えられるが、徳島人Yがむくつけき巨漢であるために、ここで萌えは“楽しさ”という感覚に転換されることによって、われわれの精神の安定を支えている。

 

2002/2/12


吐血、そして消滅
しあわせな物語の完結のために

前回までの議論で、われわれは、物語内人格の誰かが血を吐けば、その物語は美しく(かどうかはわからないが、とにかく)強制終了しうることの可能性について示唆した。今回は、複数の物語内人格を吐血させる実験を行うことによって、この議論の妥当性について検証してみよう。

検証@:ジャイアン
空き地で野球をしている最中にジャイアン吐血

病床、臨終間際。のび太に向かって
「のび太――、すまなかったなあ(笑顔)」

検証A:スネ夫
空き地でラジコンに戯れている最中にスネ夫吐血。

病床、臨終間際。スネ夫ママに向かって
「ママン、ぼくがんばったよね(笑顔)」

検証B:のび太と出来杉
道路横断中、2トントラックにはねられる出来杉

のび太は駆け寄り、臨終間際の出来杉に
「しずかちゃんはおまえのことを好きだと言っていたぞ」

出来杉、血を流しながら
「うそつきめ(笑顔)」


いずれもどこかで観たことのある気がしないでもない情景だが、スネ夫のパターンが、いちばんギャルゲーっぽい感じがする。『ドラえもん』におけるもっともヘタレな人格は、実はのび太ではなくスネ夫であるというもっともな説があるが、そのヘタレなスネ夫の“がんばる”図式が、気持ち悪くも印象深いのである。


同じようなことを、『サザエさん』で考えてみよう。

検証C:フグタタラオ
イクラと遊戯中、突然吐血。

病床。化学療法で髪が無くなり、頬の痩けた顔をサザエに向けて
「ままあ、タラちゃんがんばったですう(笑顔)」

検証D:イソノワカメ
下校中、吐血。

病床、臨終間際。カツオに向かって
「おにいちゃん、あたし、しあわせだったよ(笑顔)」


このような状況は、『ドラえもん』よりも『サザエさん』の方が、似合うように思う。『ドラえもん』にはもっとスケールの大きい破滅がふさわしい。

 

2002/2/11


挫折・消滅の類型(後編)
物語の基本はやっぱり吐血ですよ、旦那。

気を取り直して、前回のつづきを。

ただ、なんらかの関係性を消滅させるだけではだめである。成長の果てに消滅しなければならないので、その消滅点が消滅する人格にとっての目指すべき場所でなければならない。

物語内の人格に目的を持たせるには、どうすればよいだろうか。人格や物語の目的を明確に規定するのに便利な形式のひとつとして、ロード・ムービーをまず考えることができるだろう。人格の最終到達地点(それは、往々にして、物語の中途で変更されたりする)が、視覚的・地理的・物理的に鑑賞者にあらかじめ明示されるので、たいへん分かり易い。

それで、次に必要なのは、そこで何らかの消滅を引き起こしてあげることである。もっとも、誰かと一緒に旅をしていれば、放っておいても別れはその終わりにやってくるものである。例えば、『菊次郎の夏』や『傷だらけの天使』である。しかし、物語は時にもっと過剰な働きかけを物語内人格に行う。

ロードムービーは、難病物と非常に親和性の高い物語様式である。難病を抱える人格を前にした物語の人格は、なぜかその病人を外に連れ出す行動パターンを取りがちである。『HANA-BI』、『Kanon』の真琴ちん、『ノッキング・オン・ヘブンズドア』などなど。重病人を外につれ回す行為はどうかと思うのだが、物語のなかでは、それは平気で行われる。強引に目的を設定して、そこで人格を殺してしまいたい物語内の物理法則が、重病人を死の旅路へ追いやるのである。

病人を連れ回すのではなく、旅人が病人になるケースもある。最後に発狂を迎える『スケアクロウ』などが渋くてよいと思うが、とりあえず物語の世界では、旅に病気は付き物と覚悟しておいた方がよいであろう。話につまったら、血などを吐かせやれば、万事解決である。

『デッド・オア・アライブ2』を観て、そんなことを考えた。

 

2002/2/09


挫折・消滅の類型(前編)
いかに人格間の関係は失われるか

物語のなかで、ヘタレた人格は成長しなければ鑑賞者の共感を得ることはむずかしい。しかし、成長しきってしまうと、やはり鑑賞者の共感しうる人格から逸脱してしまう可能性がある。そこで、われわれは、ひとつの解決方法として、成長し果てようとする人格を挫折させたり、消滅させたりする手法を提案した。鑑賞者の感情移入は人格の成長過程そのものにあるのだが、成長はやがて収束してしまうのが常である。しかし、成長主体を消し去ってしまえば、その成長過程は鑑賞者の記憶のなかで永遠になるだろう。

挫折は、一例として、何らかの関係性の解消によってもたらされる。そして、関係性消滅は、自己の消滅や自己にとって重要な人格の消滅、あるいはその両者の同時消滅などで表現できるだろう。具体的に、どんな事象でそれを為し得うるか適当に考えてみると――、

水爆
自己犠牲
限定された生存期間
麻薬中毒の行き着く果て
戦死
自動車事故死
任務遂行死
寿命
痴話喧嘩→銃殺
監獄物→絞首刑
遭難死
自殺
同士討ち
人格の属する組織・時代の終焉
逃避行→蜂の巣
死に場所探し
木から落下・物が落下(事故死)
記憶の喪失
標的が交際中の人格だった!
神経衰弱
銀行強盗後の疑心暗鬼(内紛)
災害
通り魔
結婚詐欺


訳が分からなくなってきた。(つづく)

 

2002/2/07


“舞台・演劇”と“ギャルゲー”
演出技法における共通点

舞台という物語の様式は、モンタージュが欠落しているが為に、語り手が鑑賞者の視点をコントロールするためには別の手法を用いなければならない。

ギャルゲーは、基本的にモンタージュの可能な物語様式であるが、その低コスト性から、モンタージュは場を選んで限定的に投入される。よって、多くのシーンは、モンタージュのないワンシーン・ワンカットの人格間対話によって構成される。

ゆえに、モンタージュの限定した使い方しかできない舞台やギャルゲーは、それを自由に使うことの出来る物語とは異なる演出技法を発達させているのではないか。言語への依託とその誇張表現や身体行為の様式性とか。

舞台はあんまり見ないので、適当なことではあるが――。


 

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