六月 二〇〇二年

 


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2002/6/28


図書室のおねいさん
同僚の新潟人O氏の重いおもいで(韻を踏んでいますね)

ヘタレ男がおねいさんといかに自然に出会い、そして仲良くなれるのかといういつもの問題についてである。


昼下がりの図書室は世捨て人の巣窟といってよいだろう。まともな人生を送る人々は、昼休みを友人たちとの幸福なる駄弁りに費やし、輝ける青春の一頁を鬼のように築き上げるものである。だが、人生のレールを早くも踏み外し、対話を行う友人すらいないヘタレ男は、そのひとときを何を持ってして消化しなければならないだろうか。

教室の隅で佇んでいるのは耐え難い。屋上で青空を眺めるのは基本中の基本だが、恐ろしいことにこのせかいには屋上すらない高校が存在する[注1]。では、どうすればよいか? 図書室である。

対話は一人ではできないが、読書は一人で十分に可能だ。かくして、昼下がりの図書室は負け犬たちの溜まり場になるのである。

『To Heart』では、図書室において浩之が「おぢょうさん、本を取ってあげよう」イベントで委員長と懇ろになっていたが、これでは駄目だ。ヘタレで内気なギャルゲー鑑賞者が、本を取ってあげようなどというアクティブな行動をとれるはずもなく、よってそんな行為を行う人格に自己を見いだすことができないのである。

ヘタレの溜まり場である図書室で、何とかおねいさんとの出会いを演出したいのだが、前述のイベントでは駄目だとしたら、どうすればよいのか。ここで、われわれは同僚の新潟人O氏の美しきおもいでに注目すべきだろう。

よく地元の図書館に足を運んでいた氏であったが、足が途絶えた時期もあったらしい。それで、久しぶりに図書館を訪れると、かわいい司書のおねいさんに「ひさしぶりですねえ」などと言われたらしい! 氏は、その図書館によく本を取り寄せてもらったりしてたらしい。

図書室によく通うものは、司書のおねいさんや図書委員のおねいさんと仲良くなる宿命にあると断言しよう。たとえば、北野勇作の『かめくん』である。また、こうした図書室のおねいさんたちとは「共通の趣味による懇親化」をはかることができる。共通の趣味ほど、仲良くなれるものはない。これを利用して、隣の人妻をスケコマシたのが、『花様年華』のトニー・レオンである。くそったれめ。

本を借りに図書室のおねいさんが待ち受けるカウンターへ向かい、手続きをするのだが、おねいさんはわれわれが持ってきた本をみると顔をあげ、「この本、わたしもすきなんですよ〜」と笑顔を見せる。これである。断じてこれである。


そういうわけで、高校時代、われわれは図書委員であったのだが、そんな出会いなんぞついぞ経験することはなかった。それでも、図書室は愛しい場所だったのですよ[注2]




[注1] 何であの高校は瓦葺きだったんだよう〜。
[注2] 勉強もせず図書室ばっかり通っていたので、大学には落ちてしまった。


 

2002/6/26


キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ ということ
未来の自明性と鑑賞者の快楽

これの続きです。

「キター」は予想していた未来、望むべき未来が到来したことへの歓喜の咆哮である。例えば、テレビ版『カノン』の実況における「たい焼きキタ━━━」。ヒロイン到来への喜声である。

これにたいして、「先がわからないからおもしろい」という考え方はどうであろうか。結末があらかじめわかってしまえば、娯楽性が損なわれる物語もある。『スティング』などそうであると思われる。しかし、『スティング』の場合、人格への感情移入が強度になるとその未来への不確定性が、鑑賞者のストレスを誘引する可能性があるのではないか。

『スティング』という物語を人格への感情移入という視点から鑑賞すれば、そこで鑑賞者の快楽・喜びとなるのは、おやぢたちの成功・平安・友情・生の保存である。感情移入の求心力を持った人格の平静を望む鑑賞者の心理については、前に『おしん』に関する議論の中で触れた。

だから、『スティング』中盤以降におやぢたちの躍進へ影が差してくることは、おやぢに愛着を抱く鑑賞者には不安と動揺を招きかねない。だが、この不安がやがて訪れる幸福な「ぎゃっふん」につながることをあらかじめ鑑賞者が知っているとしたら、彼は安心して愛すべきおやぢたちの一挙一動に転がれることが出来るだろう。結末の「ぎゃっふん」など、それに比べれば何でもないのだ。

未来はそれが望むべきものだったら、あらかじめわかっていても何の問題はない。むしろ、わかった方が快楽的である。問題なのは、自明になった未来が惨劇的なケースであろう。


 

2002/6/05


知ってて切なさ六〇〇倍
自分がいなくなってしまうことを知っているからこそにんげんたるゆえんなのですよ(byハイデガー…だったか?)

『ムーラン・ルージュ』のニコール・キッドマンはいかん。彼女が結核で、余命があまりないことを周りが隠匿しているのがダメだ。本人は死ぬ直前までそれを知るに至らない。

『カウボーイ・ビバップ/天国の扉』のヴィンセントはいかん。記憶喪失で恋人のことを忘れているのがダメだ。最後の最後になって思い出すのはもっとダメだ。『パトレイバー2』の柘植のおぢさんはちゃんと覚えていたぞ、南雲さんのことを。

難病物の快楽というものを前に議論した。後日このことを、われわれは再び検討することになるが、とりあえず難病患者が自分の余命を知ってしまうことが、娯楽性の出発点になると考えられる。つまり、彼や彼女は知る必要があるのだ。

『AIR』の観鈴ちんがたいへん切ないのは、自分の余命を知った上で、それを隠匿するところである。観鈴母がそれに気づき、「いままでずっと痛かったの〜〜〜!?」と驚愕するところは大変良い。こっちまで死にそうになる。

「知っていて何かを隠しちゃう」様式は、あざとくて素晴らしい。今日、仕事の合間に斉藤倫の『さよならと同じ』を読んでいたら、「彼女に気を使って自分の肩の古傷を隠すおにいさん」が出てきた。これもこの様式の一種である。あまり切なくはなかったが。

『ビバップ』に話を戻すと、記憶を失って訳も分からず街を荒らしているという印象を与えかねないところが頂けない。実は何もかも覚えていて、最後の臨終間際におねいさんの腕の中で「実はわかっていたさ」と断じて笑顔で血を流すべきだったと思う。そうしたら、少しは転がれたのではないだろうか。



 

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