2003年2月の日記

 2003/02/07

図書室のおねいさん 完結編
嗚呼ああ

TRABULANCE『司書さんといっしょ☆』カトゆー家断絶


図書室のおねいさん図書カードに残るおもいでを参照。くそったれめい。


 2003/02/11

終焉するファンタジー
『スターウォーズ エピソードU』感想

『スターウォーズ』は、一面に於いて、居心地の悪いお話かも知れぬ。特定の戦士階級が、多数者の政策決定への参加に価値を置く民主主義を擁護する景観がアレでナニで、アミダラ王女が「民主主義をまもりませう♪」とヒッピー臭いのがアレでナニだ。社会制度がアナクロかつハイブリッドで首尾一貫性に欠け、このまま放っておけば制度間の矛盾が増大し社会システムは破綻を迎えるだろう。

ファンタジーを「非現実的な世界または現象が登場する不可能性の文学」とする定義は、様式的な多くのファンタジーが、中世的世界を舞台に展開されることへの説明になるだろう。われわれの生きる社会体系から隔離したシステムによって成立していた中世の世界は、過去に現存していた故に、異世界を構築する際の参照になりやすい。皮相な見方をすれば、特定の戦士階級が刃物らしきものを振り回す『スターウォーズ』の世界も中世のアナロジーの様に思われる。だが、そこに議会制民主主義という極めて近代的な現象を導入すると、世界に混沌が訪れる。

ひとつの社会システムを支える諸制度は、内属するそのシステムに相応しい概容をそれぞれが保持してなければならない。中世という社会システムを支える家族制度はそれに応じた姿をしてなければならないし、政治制度、経済制度にしても然りである。なぜなら、ある制度は他の制度の存在を前提として成立しているからである。近代的な事象であるところの議会制民主主義(政治制度)も市場経済(経済制度)も「ひとつの尺度によって還元し比較検討することができる独立した個体」の存在を前提にしているが故に、互いに親和性を有する。しかし、騎士やお侍の世界にいきなり議会制民主主義が出てきたら、制度間の調和が崩壊するだろう。それらの制度を成り立たせているのは、互いに異質な思考の様式だからである。

ジェダイという特定の戦士階級に安全保障を任せる中世的な制度は、不特定多数の市民を一律の秩序の下に訓練して統制する近代的軍隊と制度的な調和を含有するはずの民主主義と齟齬を起こすはずである。『スターウォーズ』世界の混乱は、前近代なジェダイが守ろうとしている議会制民主主義の最大の制度的阻害要因が、ジェダイそのものに他ならないことにある。

『エピソードU』終盤、ジェダイのへこへこでフラストレーションな戦いを援護するクローンの皆さんの秩序ある身体が格好いい。それを格好いいと感じる美意識は、クローンの皆さんがわれわれの内属する社会と同質性を有している証左である。

制度的な齟齬は、既存のシステムの破壊と新しいシステムへの移行を促すことになる。その混乱の狭間で、銀河帝国などという変則的なシステムも成立する事もあるだろうが、それも一時的な事象に過ぎない。やがて、ジェダイという前近代的なものは人々の記憶の彼方に追いやられ、タトゥイーンの砂漠も統一規格の道路と街灯とコンビニとマクドナルドによって埋め尽くされて行くのである。


 2003/02/19

鑑賞者視点の経過期間と感情高揚の相関
フィリップ・ピアス『トムは真夜中の庭で』感想文

「わたし幽霊じゃないよ〜」などと動揺する娘が木から落下して頭をぶつけたりするので、「すわ、アレか」と動揺を禁じ得ない作品である。主人公は可逆的な形で時流の逆行が可能であり、過去を生きて成長過程を辿るおねいさんの前に定点的に現れて、いちゃいちゃする。彼は毎晩過去に遡り、おねいさんの元へ現れるのだが、おねいさんの視点からは数ヶ月、数年の歳月が、ある出現から次の出現の間隔に横たわっている。主人公の目に映るおねいさんはどんどん大人になって行くのだが、おねいさんの視界にある主人公はいつも子どもである。つまり、時流の流れ方に開きがある。時流のこうした相違は、『終わりなき戦い』→『トップをねらえ』→『ほしのこえ』に至る人情相対論や『美亜へ贈る真珠』の様な切ない落とし所の演出が可能になるはずであるが、『トムは真夜中の庭で』はどうにも転がれない。

相違する時流における感情高揚のポイントはふたつある。「通常の時流から取り残される疎外感」と「その孤独の先にある希望であり救済」である。膨大な時間が経ていたのに「アレでナニだった」ので鑑賞者は『トップをねらえ』に「もうもうもうもう」と転がれる訳であり、恋人を残して停滞する時流に身を置いた薄情男が、「実はアレでナニだった」ということが長い歳月の果てに判明するから鑑賞者は『美亜に送る真珠』に「もうもうもう」と悶えるのである。

『トムは真夜中の庭で』にはまず主人公に「疎外感」が欠けている。彼は任意に元の時流へ復帰する事が出来るので、あまり疎外感を感じることはない。感動は不可逆性から生まれうるものなのだ。

二番目の要素、「孤独の先にある何か」は『トップをねらえ』の様に一定期間を経た後の対面という形になるケースが多く、時間の経過という意識が必要になる。相違する時流とは少しだけ文脈の違う議論になるが、『To Heart』や『ONE』が鑑賞者を精神的に殺害する際、そこで重要な役割を果たすのは浩之がマルチに再び出会うまでの空白であり、みさき先輩が浩平に再び出会うまでの空白である。ここで押さえておかなければならないことは、その再会は浩之にとっては数年の歳月を経たものに違いないが、マルチにとっては何らの経過も隔てていないことである。みさき先輩が屋上で「夕焼けきれい?」という言葉を再び口にしてわれわれを転がすのに彼女は一年ほどの歳月を経験しているが、アレでナニな境界にある浩平にとっては時間の経過は意味のないことである。よって、鑑賞者の視点は空白を経験している浩之やみさき先輩にあらねばならない。

『トムは真夜中の庭で』は不幸なことに、主人公はおねいさんの許へ遡る行為が不可能になった翌日に、老齢期に達したかつてのおねいさんと再会してしまう。身体の物理的な感覚としては『トップをねらえ』と似たようなものだが、ノリコには膨大な時流が経過している事への明確な意識がある。『トムは真夜中の庭で』の主人公にはそれが欠けている。空白を経験しなければならなかったのは、ついに鑑賞者と視点を共有することのなかったおねいさんに他ならなかったのである。



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