2003年1月の日記
「逆行時流」「過去発見」「可能的未来」
ロジャー・ゼラズニイ『聖なる狂気』
恋慕の対象者が時流を逆行する『時尼に関する覚え書』も、鑑賞者の視点たる主人公自身が逆行する『遠い呼び声』も、その逆流によって関係の喪失される時期がはっきりと限定されるが故に切なげであるという結論であった。
また、時流の逆行は、哀愁の契機に利用できるだけにとどまらない。過去に逆行するため、その物語は必然として「過去の発見」という要素も付加される。客観視点自体が逆行してゆく『メメント』では、その側面が強調されている。ただ、「過去の発見」が焦点になると、物語の辿る過去がその初期・中期において発見された場合、はらはらドキドキ感が消失する恐れがあるので、物語の動機を成しているイベントは最後に発見されなければならない。つまり、出来事の明確な限定による切なさの創出が困難になる。
『聖なる狂気』は序盤においては後者の類型にはいる。主人公の苦悩を成すイベントを、彼が時間を逆流するに伴い、鑑賞者が発見していくのである。しかし、そのイベントは物語の終局に発見されるのではなく、その中途によって判明してしまう。物語は何かを発見する事の快楽をそこで失ってしまう。だが、代わりにもっと大きな物を手に入れる。主人公の苦悩は関係の喪失に関わるものであったことが明らかになり、同時に喪失の時期が明確化されるのである。「過去発見」というサスペンスな物語は、過去・未来の限定による切ない物語へと変貌するのだ。
面白い事に、この作品の切ない感動は、終局において鮮やかな軽業が行われることによって、さらに飛躍する。「可能的未来」の投入である。
「可能的未来」とは過去において選ばれなかった選択によって始まる未来へのノスタルジーな感情のことである。代表的ジャンルとして架空戦記を挙げることが出来るが、それらが目指す所は、感傷とは少し次元の違う地平にあるため、切ない印象は少ない。「可能的未来」において感情が発動されるのは、「選ばれて今に至る現在」と「選ばれ得なかった架空の現在」が物語の中において明確に並列する必要があると思われるのだが、架空戦記は選ばれた今日をリセットして無かった物にするので、切なさとは無縁の物になりがちなのである。フリッツ・ライバーの『あの飛行船をつかまえろ』が切ないとすれば、それは選ばれなかった未来が、最後に選ばれた今日に吸収されるからである。グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』が切ないのは、選ばれた今日の終局において、可能的未来の情景が印象的に挿入されるからである。
『聖なる狂気』の「可能的未来」は、物語の最後で時流が逆行するのを止めることによって成立している。その時点で、新たな選択肢が提示され、違う未来がわれわれの前に広がってゆくのである。
広範な意味での三角関係における生け贄キャラ
バディムービーか? それとも女か?
新春早々、『天国のダイスケへ 箱根駅伝が結んだ絆』を鑑賞して大いに喜ぶが、結末には不満の残る点もあったことを指摘せねばなるまい。このお話が鑑賞者の感情を大いに隆起せしめるところは、福山雅治と小栗旬の難病物バディムービーである。だが、福山の彼女であるところの瀬戸朝香が、ふたりの熱い恋路を妨害するのだ。この事は、物語で三角関係を展開する際に付きまとう困難をわれわれに教えている。
三角関係は魅力ある様式であると同時に、人格への感情移入の面から眺めれば、非常に困難な様式である。感情移入が分散してしまう恐れがあるからである。
三角関係の本義は、主人公が二種の交際の選択肢を巡って苦悶する事だけにあるのではない。むしろ、三人の微妙な関係において、その中の一人が消失し、その欠如が残されたふたりの関係を規定する事に、鑑賞者のより大きな感情高揚の起因があるのではないだろうか。主人公が人格の取捨選択をしなければならない物語は、捨てられる人格へ移入した鑑賞者の感情を処理できないという時点で、敗北しているのである(『君が望む永遠』)。
誰かが捨てられるのではなく、失われるのであれば、鑑賞者のそうした感情も緩和が可能であろう。しかし、あくまでも緩和できるだけであって、根本的な解決にはならないかも知れない。誰かが失われたことによって築き上げられる絆は、失われた人格への想いに伴って、ある種の違和感を醸成しかねない。
さて、ここで言及している“失われる人格”の事をわれわれは「生け贄キャラ」と呼ぶことにしよう。例えば、『AIR』の主人公は「観鈴とおかんの関係を規定する」という意味で生け贄キャラである。
問題は、この生け贄キャラへ鑑賞者の感情が分散してしまうのを阻止することにある。これに関して、われわれは『冒険者たち』で用いられた二重限定の手法に注目したい。これは、残されたふたりの内、更に片割れを消失せしめることによって、感情移入の焦点をたった独りの生き残りへ限定する方法である。別の言い方をすれば、生け贄によってもたらされたふたりの幸福に付きまとう違和感は、幸福が不幸に転換したり、あるいは、生け贄によって更なる不幸が誕生したりすれば、回避できるのである。
夏目漱石の『こころ』は、ここで言う二重限定の変種と解釈できるかも知れない。ただ、限定の対象たる主人公が消失するという点で、『冒険者たち』より不安で動的な感がある。一方、ジョン・ウーの『ワイルド・ブリット』は、ある意味で綺麗な二重限定と見ることが出来るかも知れぬ。ジャッキー・チュンが生け贄になることで、リー・チーホンとトニー・レオンのカーチェイスが成立し、最後は皆殺しであるからだ。もっとも、『ワイルド・ブリット』を三角関係の物語と解釈する人間がどれほど居るかたいへん心許ない今日この頃でもある。
武闘派という様式
『勃発!関東ヤクザ戦争』感想文
ここの続き。
実録ヤクザ映画は、兵庫の広域暴力団の積極的な他府県進出にその隆盛の大きな部分を担われていたが、時代が下り、各組織の棲み分けが明確に形成[注1]されてくると、物語な抗争は下火になり始める。大組織の侵略に晒される地方弱小組織というとても分かりやすく鑑賞者の感情を隆起しやすい構図が成り立ちにくくなる。
棲み分けられた世界で、物語(抗争)を突発させるためにしばしば用いられるのが、「武闘派の出所」イベント[注2]である。刑期を終えて出てきたものの組織の拡大成長の時代は終わっていて、務めの代償として約束されていた分け前を雇用者が与えることが出来ず、気まずい困惑が生まれる。一種のジェネレーション・ギャップである。
ここで武闘派が暴走を開始して友好関係にある広域暴力団に喧嘩を売り始めると、拡大抗争時代の懐かしい情景が再現される。ただ、時代錯誤な抗争の結末は、武闘派壊滅で湿度が高くなりがちだ。拡大抗争時代においても地方弱小組織の武闘派が全滅することしばしばであったが、その破滅模様は血塗れで繊細な情感とは隔絶していた。時代錯誤の抗争には、過ぎ去ろうとしているひとつの時代への哀愁が付加されるのである。『広島仁義 人質奪回作戦』や『狂い咲きサンダーロード』にその空気を感じることが出来るだろう[注3]。
さらに時代が下って、暴対法以降の世界になるとどうなるのだろうか? これまで物静かだった関東で発砲事件が相次いだり、兵庫の大組織の若頭が殺されたりして、端からみればなかなか活発ではある。内実は、もめ事を起こしただけで組解体の危機に瀕するご時世なので、組織成長のための抗争が厳禁されて欲求不満が蓄積されいるらしい。それで、武闘派の組が耐えきれず他組織の縄張りを荒らし、親組織との内部抗争に突入するのが、21世紀初頭の業界のありふれた景色になっている。
時代が変わっても、物語の起動因をなすのは武闘派なのであり、物語が刑務所の前から始まったら、われわれはいつだって心の準備をしなければなるまい。
[注1]
九州 山口組と地方名門組織の棲み分け
西日本 山口組一色
関東 関東広域組織の棲み分け
東北 山口組と関東広域組織の相互乗り入れ
北海道 山口組と関東広域組織の相互乗り入れ
[注2]
逆に堅気になろうとして挫折するのもよくある話である。
[注3]
北野武の『BROTHER』もこの伝統を踏まえている。
図書カードに残るおもいで
『天才マックスの世界』を鑑賞して
ここの続き。
図書委員になれさえすれば、われわれは本好きの文系おねいさんと懇ろになれるはずであった。だが、現実は過酷で、三年間その任にあった当のわれわれがそんな機会もないまま高校生活を終えてしまった事実が、希望に充満するその議論の反証となってしまった。本を借りるだけで、「この本わたしも好きなんですよ〜♪」とか、昼休みに図書室で本を読んでいるだけで、「よくここで本読んでいますね♪」とか綺麗なおねいさんに声をかけられるほど、この世界は良く出来ていなかったのである。たとえ声をかけられたとしても、大抵、同好のむくつけき野郎だったりするから嫌々だ(安達哲『さくらの唄』)。
座っているだけではダメなのである。本を借りるだけではダメなのである。もう一工夫する必要があったのである。『天才マックスの世界』は、図書室世界に思い出残留の概念を合体させることによって、おねいさんとの出会いを演出した。
思い出残留物とは、それが人格の想起に繋がるようなものである。その人格の残滓と言ってもよい。『天才マックスの世界』でそれに当たるのが、本に何気なく書かれた落書きである。貸し出し記録からその書き主が特定され、われわれはおねいさんに出会うのだ。
本の貸し出し記録からおねいさんを見つける過程は、過去発見の手法でもあるのだが、複数の本の貸し出し記録が検索の対象に入った場合、別の過去発見の物語が誕生する可能性がある。複数の本にまたがって単一の名前が発見された場合、その人格への興味に伴って、もっと明確に人格発見の物語が生まれるだろう。つまり岩井俊二の『ラブレター』であり、そして、そこでの人格の思い出は、貸し出し記録への落書きとして集積され、鑑賞者にくそったれと呪いの言葉を吐かせしめつつ悦ばせるのである。
「トラウマ再現」の至る「人格発見」と「感情移入」
『PS羅生門/第八話 警察官になる理由』
『PS羅生門』はたいへんあざといお話で、転がるのに困難を覚えることが多々あるが、留美おねいさんはとても素晴らしい。夫を亡くした子連れ刑事の留美おねいさんに、その不幸な家族状況を利用したトラウマ再現が幾度と無く襲来してらぶらぶだ。「警官になる理由」もそんなトラウマ再現なエピソードのひとつである。
留美おねいさんの知り合い警官、渡部が勤務中に刺殺される。そこで、同じく警官の夫を亡くした留美おねいさんのトラウマが発動されるが、これはまだ序の口に過ぎない。
留美おねいさんは渡部の事を回想する。そして、彼が自分と同じ動機で警察官を志したことを発見する。動機は、「立派なお巡りさんとの出会い」である。留美おねいさんは「立派なお巡りさん」と出会って「立派なお巡りさん」になり、今度は、他者を動機付けする元になっていたのだ。
頻繁に見かけることの多いトラウマ再現・転移であるが、そこには感情高揚に関する高いコストパフォーマンス性の裏打ちがあったのである。
抱き枕と観念愛賛歌
はだかぢゃだめだね
マルチや末莉は「抱っこして撫で撫でして擦り擦りしてぷにぷに」する対象と云いつつも、その裸体を「抱っこして撫で撫でして擦り擦りしてぷにぷに」したいと願うわけではない。あくまで着衣した状態のマルチや末莉を「抱っこして撫で撫でして擦り擦りしてぷにぷに」したい訳で、よって、抱き枕のマルチや末莉は着衣で無ければならぬ。その仕草は「抱っこして撫で撫でして擦り擦りしてぷにぷに」されて恍惚としてなければならぬが、其処に猥雑を感じさせてはならぬ。
みさき先輩やまほろさんの「胸に飛び込んで擦り擦りしたい、ついでに撫で撫でしてもらいたい」と心から望んで仕様がないと云えども、裸のみさき先輩やまほろさんの「胸に飛び込んで擦り擦りしたい、ついでに撫で撫でしてもらいたい」訳ではない。あくまで着衣した状態のみさき先輩やまほろさんの「胸に飛び込んで擦り擦りしたい、ついでに撫で撫でしてもらいたい」と心から希望するのであって、一緒にお風呂に入りたいのではない。故に、抱き枕のみさき先輩やまほろさんは着衣でなければならぬ。夜な夜なその胸に飛び込んでくるわれわれを「ほらほら、仕様がないなあ♪」と受け止めてくれる様な仕草でなければならず、同時に、其処に猥雑を感じさせてはならぬ。
今日はたいへん寒い。
マクガフィンにまつわる絶望の物語
人々を断絶する深くて暗い川について
『回路』を巡って行われたある会話より
「どうして幽霊見ると自閉症になってアレでナニになってしまうんだよう? そもそもアレでナニって何?」
「そんなのどうだっていいぢゃないですか。あれは、みんな自閉症になって世界が亡びる時の心情模様を楽しむものであって、地球がぶっつぶれる事に理由なんか他に無いのですよ」
「現実」と「虚構」を越えて
『アリーMy Love』「天使と飛行船」(第2期/第13話)
『カイロの紫のバラ』感想の続き。
無神論者になった白血病患者のエリックに信仰を持たせようとしたアリーの言説には、当事者転移型のトラウマ再現を見ることが出来る。妹を亡くして無神論者になった幼い頃のアリーに困り果てた母親は、たまたま上空を浮かんでいた飛行船を指して、「神様が『いつも見てる』と云うことを人間に思い起こさせるためにあれを作った」という理屈を持って、アリーの信仰を回復させようとした。で、今度は彼女自身が同じ理屈(ただし、より普遍化されている)をエリックに語る番になる。
この話数は王道的な難病物であり、人生やその消滅への納得ある定義付けが必要となるのだが、幼いエリックには為し難い事である。だから、意味づけは、消失する当事者のエリックではなく、その周縁にいて彼を失ってしまうアリーに波及する。代わりに、彼女が人生への定義付けを行わねばならないのである。
エリックを失った彼女は、妹を亡くしたときのように絶望して不信になる(トラウマ再現)。しかし、上空を見上げてあるものを発見したとき、一瞬にて意味づけが完遂される。ついでに鑑賞者は大転がり。
「いつも見ている」という文字の描かれた飛行船が空を横切るのを見つけた彼女は、それが「現実」のものなのか、はたまた妄想癖のある自分の産み出したいつもの「想像の産物」なのか、混乱の淵に立たされる。妄想と非妄想の識別困難性が日常生活に支障を及ぼし始めていた彼女にとって、それは深刻な問題である。だが、彼女の背後にいて床を転がっている鑑賞者にとって、飛行船が「現実」か「虚構」かはもはや問題ではない。あの飛行船は「現実」と「虚構」を越えたところで浮かび続けているからである。