2004年02月の日記

 2004/02/02

『重罪と軽罪』を観た時、既視感があった。ウディ・アレンは、ミア・ファローにらぶらぶ光線。でもでも彼女は俗物プロデューサーのアラン・アルダにとられちまったよ、うえ〜ん。これはどこかで見たことがあった。遂に今日、会社の近所の書店で思い出した。江川達也の『GOLDENBOY』であった。

ウディ・アレンだと可笑しいだけだが、憧れのにんげんがカルトにはまったりすると切なさが暴発する傾向にあるようだ。


 2004/02/03

巧妙な説教を

学研の『歴史群像』は楽しい。多くのテクストが、ヴォルテージを上げすぎて辛抱たまらず末尾で説教を垂れ始めてしまう。「展望が甘く、大威力砲の開発がスタートできず、列強に後れを取ったあああ〜」とか「泥縄の戦争準備のつけを払わされたのは、粗悪船に乗せられた一般船員だったあああ〜」とか「硫黄島に飛龍を飛ばした所で、日米の勝敗は既に決していたのだったあああ〜」とか「ムッソリーニを奪回した所で、イタリア人同士の血は流され続けたのだあああ〜」等々、楽しげである。

説教は世界や人間についての語りと言ってよい。だから、ノンフィクションな文章はすべからく説教ともとれる訳で、そんなテクストが往々にして説諭臭くなるのは致し方のないことかも知れぬ。一方で、フィクションは説教をせぬかと言えば、決してそうではない。ただ、ノンフィクションと説教の表出方法が異なる。物語は、対話や行為やイベントの描出によって間接的に世界を語ろうとする。説教はそれと認知され得ない時に効果が高いことを考えれば、フィクションの隠匿された説教の方がより巧妙である。しかし、その分リスクが大きい。巧妙であるがゆえに、鑑賞者は物語に縦深陣地を築いてしまう。「語り」の萌芽が少しでも認知されてしまうものなら興醒めを招来しかねない。

例えば、毎回最後に説教モードに突入してしまうアニメの方の『フルーツバスケット』みたいなものか。いま読んでいる『永遠の森 博物館惑星』も物語が説教モードに至るためのサンプル提示のような感じがして、どうも気が乗らぬ。いっそ司馬遼太郎のようにぶち切れて、説教モードが止まらないのであれば、それはそれで清々しかったりするのだが。


 2004/02/05

世界に移入する傍観者

司法関係者はイベントの当事者になってはならない。この準則は刑事ドラマの壁になる。強引にこの壁が壊されると、リアリズムの崩壊に由来する興醒めが生まれる。障壁は念入りに除かねばならない。ブラピを世界へ決定的に当事せしめるために、デヴィッド・フィンチャーが二時間近くを費やさねばならなかったように(『セブン』)。

物理的な当事が困難なる場合、物語は心的な移入の契機を探ろうとする。しばしばこれは、他者に自己のトラウマを発見する様式として、刑事ドラマにおいて展開される。例えば『太陽にほえろ』の第53話、優作が犯罪者に見るのは父親が殉職した当時の己の焦燥であった[注]

『永遠の森 惑星博物館』を読了。田代が基本的に高見の見物者モードで気にくわぬ。おまけにかわいい嫁まで付属していて気にくわぬ。ただし「この子はだあれ」は綺麗な他者転嫁型のトラウマ再現話で興奮する。動物の話はよい。ペットにまつわるトラウマは楽しい。


ところで、読み終わった後、何やらいたたまれなさを覚えてしまった。物語に深度の移入を促す人生の動機というのは、けっきょく、トラウマとか難病とか身内の不幸とか、そんなもので語り尽くされるのか知らん――と云う物語の理論上での限界のようなものを感じる。前にちょっと言及したが、不幸な過去に頼らないで人生の動機を形成する手法を、もっと模索したい今日この頃であった。


[注]
『俺たちの勲章』は面白い。中村雅俊は事件の当事者に片っ端から恋慕して、世界に介入する。そしていつも挫折。他方、『刑事追う!』は凄まじく、役所広司は決して壁を破らないが、壁の方が勝手に自倒して物語を潰す。



 2004/02/11

倒錯との闘争

愛はいつだって倒錯的である。ある行為を倒錯と認定する根拠は、社会的に広く共有された倫理観によって提示される。そして、ごく個人的な認知が倫理と齟齬を来した時、恋愛にまつわる狂乱が誕生してしまうのだ。

いわゆる品性公正な委員長キャラが、社会的逸脱者と見なされる人物に恋慕するのは、彼女の役割にそぐわない。しかし、物語は非情にもしばしば彼女に試練を与える。委員長は逸脱者のらぶらぶ光線の直撃を受けて如何ともし難くなる。己に与えられた役割イメージから逸脱したくない→でもラブラブなのよ〜ああっと云ういつもの景観である。彼女はここで、相矛盾する表情を並立させ、わたしどもの興奮を誘う。


『美鳥の日々』第2巻170頁
井上和郎『美鳥の日々』第2巻 170頁


同性にらぶらぶ光線を発射してはならないとする禁則も、たびたび人々を苦しめる。異性が同性に擬態してそれに恋慕しちゃったりしたら、訳が解らなくなる。


『美鳥の日々』第2巻50頁
同50頁


『美鳥の日々』を二巻まで読む。美鳥に対する沢村の狂態も、パペットにらぶらぶする行為を倒錯と見なす倫理観との軋轢と解釈できそう。対して、美鳥の恋愛にはこの種の後ろめたさはない。むしろ嫉妬という形で、彼女の狂態は具現しているように見える。


 2004/02/13

ミイラ取り

『浮草』の感想で、ちょっと触れたことのつづき。

中村贋治郎の隠し妻に嫉妬して、若尾文子を持ってその隠し息子を誘惑せしめることで復讐を意図する京マチ子――とこの景観がそもそも誤謬を帯びてるのではないかと思ってしまう。が、それはともかくとして、若尾は取り敢えず郵便局でバイトに励む川口浩を誘う。「おねえさんと遊ばない〜」と云う感じか。しかしながら、実際にらぶらぶ光線の犠牲となったのは若尾の方で、彼女は川口に本気で恋慕してしまう。実にうらやましい。

ミイラ取りがミイラ取りになる恋愛の様式である。『マグノリア』なんかもそうではないか。金目当てに近づいたのにもうダメ、らぶらぶなのよ〜なジュリアン・ムーア。他に『トゥルー・ロマンス』や『アンダーカバー・ブラザー』とか。

『浮草』におけるミイラ取り様式は、ある意味で勿体ないとも云える。若尾が自己の欲望に対して忠実すぎて、らぶらぶ光線をあっけなく発露させてしまう。しかし、与えられた任務に忠実であろうとするなら、彼女はらぶらぶ光線の隠匿に努めねばならず、そこに恋愛の狂態が成立する可能性があったはずだ。無念な所である。


 2004/02/16

世界とつながっちゃうことの諸々

『ボーリング・フォー・コロンバイン』の冒頭は、わくわくするではないか。わたしどもの日常がメルヘンじみたイベントと同じ語り口で並列せしめられる。あのファンタジーとわたしどもの生活世界はつながっているのですわと映画は語る。社会性を希求する説諭臭さは覆いがたいが、一方でメルヘンと日常世界を連結している共通の体系の存在、つまり世界の広がりにわたしどもは興奮しがちである。

他方『アンダーカバー・ブラザー』では、オープニングでインフレを起こす世界観が壮絶な笑いを起爆してしまう。如何ともし難いほど下らない行為のひとつひとつが、壮大な歴史的体系の下に定義づけられていることを、冒頭のシークエンスがわたしどもに否応なく意識せしめてしまう。そのギャップがわたしどもの感情を全編に渡って刺激する。

ところで、わたしどもは自己完結した体系に美を見出しやすい感情の構造を有していたりする。そう考えると、世界観の広がりというものは、論理の貫徹した体系の語りやすさと何やら関連がありそうな気もしてくる。


 2004/02/17

体系構築の競技人口

格闘技の強弱がその競技人口の規模に左右されるように、世界の解釈を行う体系の強度も、研究者の数に依存する面はあるのではないのか知らん。組織研究に経済学が参入し始めて、経営学がメタメタになる様な感じ。体系の精緻的な美しさがまるで違っているので、これでは仕様がないと思う。もっともその経済学も物理のパロディだったりするが。


 2004/02/23

発動する死に場所探しと失われる記憶の組み合わせ

日曜の夜はNHKアーカイブスが熱い。殊に、先々週の「二人だけで生きたかった〜老夫婦心中事件の周辺〜」には興奮せしめられた。痴呆の奥方が何もかも忘れてしまう、ああどうしよう〜なラーメン屋のおやぢさんが良い。奥方にアルバムを見せている件は、ほとんどギャルゲーである。「その日の日本海は穏やかでしたあ」とナレートしちゃうあざとい最終シークエンスもらぶらぶだ。

自滅の旅は海を目指す。『ノッキング・オン・ヘブンズドア』であり『HANA-BI』である。だが、自滅の強い動機付けという点で、NHKは違いを見せて呉れる。そもそも『HANA-BI』は夫婦ともども死滅する動機に薄いと言わざるを得ない。奥方が難病でも旦那が健康体である場合、無理心中を行う理由に欠けてしまう。そこで物語は、旦那の同僚を殺し不具にすることで、彼を精神的に追いつめ、心中の動機作りに精を出さねばならぬ。しかし、奥方が痴呆になってしまって、旦那も高齢で介護がいつまで出来るかわからないとなると、これはもう凄まじく自然体で、リアルワールドはかくも偉大かと嘆息の次第である。

要諦は、パートナーの介護が不能になる事にありそうである。ジョン・ボイトまでも体をこわしてしまう恐ろしい『真夜中のカーボーイ』を想像して見ればよいのかも知れぬ。老人とかむくつけき男同士の友情がナニであれば、斯様な娘を老人性痴呆症にしてしまって、ついでに主人公男をメンタルあるいはフィジカルな病に罹患させればよい。


とまあ、勝手な空想で興奮してくるのではあるが、この状況は思い返せば『AIR』の観鈴ちん罹患→往人さんも意味不明に罹患シークエンスと同じはないか。またしても無念の感に絶えないのであった。

 2004/02/25

ある煉獄

「人間は己の死を予期できるケースもあれば、それにかなわない事もあります。君はどちらを望みますか」

「矢張り、突然死ではないでしょうか。予期できうる死は、真綿で首を絞められる様なもので、気が狂ってしまいます」

「一理ある事です。無難な言い方をすれば、結局どちらを望むかは、当人のパーソナリティに依る事なのでしょう。ただ、突然死を望む君は、大切な事を忘れています。君のため込むだけため込んだ劣情喚起物、詰まる所、夜のおかずはどうなるのですか。君はそれらを処分することなく逝ってしまわなければならないのですよ」

「嗚呼、何て事でしょう」

「ゲーテは云いました。己の地上の生活の痕跡は、幾世を経ても滅びる事はないだろう。そういう地上の幸福を想像して、今、己はこの最高の刹那を味わうのだ、と。まかり間違えば、君のため込んだ夜のおかずはデジタイズされることによって、幾世紀も滅びる事もなく君の偏向した嗜好を人々に知らしめ続ける事でしょう。その想像が、今のわたしたちを苦しめ続けるのです」



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