2004年03月の日記

 2004/03/02

人生の動機祭り

『モンキーターン』を13話くらいまで観る。原作は読んでいなかった。これでもかと人格に発見されて行く重い過去と人生の動機が楽しい。


雄大:
偉大な父親へのファザコンと病身な母親へのマザコンと『美味しんぼ』風。

師匠の古池さん:
実は弟子を事故でうしなっていたあ

優子:
実は父親を失っていたあ、ついでに家庭は借金まみれええ

和久井さん:
気障に見えて実はたいへんな努力家だったあ
(体が大きい→要減量と力石徹状態)


世界はこんなに解りやすくて良いものかと不安を覚える。基本的に主人公の憲二(挫折した高校球児)へ鑑賞者が移入をするタイプのお話ではない。憲二は、その周縁にいる人々の切迫な動機を暴き立ててわたしどもへ提示する媒体物である。

憲二の彼女、澄の存在が興味を惹く。彼女には大げさな過去など存在しないし、競艇とも縁のない民間人である。物語の蚊帳の外へ置かれがちで、序盤は移入に欠ける影の薄い人格でしかない。だが、憲二の行動へ何の介入も出来ないが故に、彼女には事故という予期される凄惨な未来に怯え続けるという“待つ女”な人格と動機が与えられてくる。あるいは、どんどん巨大になって行く憲二へ置いて行かれる様な寂しさも彼女に予感して良いだろう。「あたしいつだって、きみのいる場所へ行こうとしてたんだよ」な『寄生獣』みたいな感じか。

怯えヘタレる澄は、友人のありさによってバックアップされている。この二人の関係は、描写が困難と言われる女性間の友情についてわたしどもにいくつものヒントを残してくれる。『大運動会』、あかりと一乃な関係の類型と考えても良い。あるいは『真夜中のカーボーイ』のジョン・ボイドとダスティン・ホフマン。つまり、師弟的な友情関係だ。競艇という『モンキーターン』にとっては世界そのものに関して澄は無知である。ありさはそんな彼女に知識を与えるガイドであり教官である。それは世界に知識を持たない鑑賞者にとっても言える事だろう。

ありさには澄以上に人生の動機はない。しかし、移入した人格に好意を持つ人格もまた移入の対象になるという好意の移転現象と、世界語り(鑑賞者との知識・人格の優位的格差)によって、彼女は強烈な光彩を放っている。

三等身な肉体造形のありさと通常等身の澄が並列するショットはいつだって異様である。そして、そこで展開されるたわいもない日常の活劇は、どんなに非日常的なレースシークエンスにもたじろがない。この二人は、日常というものがいかにエキサイティングな事象であるか、わたしどもに教えてくれている。


 2004/03/03

多元主義に押しつぶされるとき

鳥居民『昭和二十年』の第1部、一巻目を読む。

取りあえず、テロリストにびびって「国民政府ヲ対手トセズ」と言っちゃう近衛萌え。こんな時期にも妾が二、三十人ほどいちゃったりしてかなり萌え。海軍がぜんぜん情報をくれないので、総参謀長を兼任しゃったりしたものの、やっぱりダメダメで、「作戦内容も損害も皆目わからなかったよ〜」とついつい近衛に愚痴をこぼしちゃう東条英機萌え。過労で発熱までしちゃったり、東条邸の建設に三井物産との癒着がささやかれちゃったりして、かなりヒデキ感激。崩壊の予感に毎晩苛みながら、「昭和十六年にアレを首相にしておけば〜、いやいやアレだったら〜」と空想を肥大させる木戸幸一も萌え。結局、誰がなってもダメだったという結論に至るダメダメさが素晴らしい。終いには、つじーんが日米会談阻止のため近衛爆殺計画をたくらむメルヘン具合で、笑いと涙が止まらない。

何かが壮大に潰れ行く景観というものは、たいへん愛おしい。同時に、戦前日本の多元主義がかなり鬱陶しく、ディクテーターの衝動に駆られる。ヴァッフェンSSを一個連隊ほどほしいものである。


 2004/03/04

スケコマしてミイラ取り

スケコマシ問題と恋愛のミイラ取りというものは、同じ現象を違う視点で眺めただけではないかも知れぬ。

スケコマシ問題に於ける世界への視点と、ミイラ取りに於けるそれは、人格変動という点で対照的な軌跡を描く。かつては夢中になったものが、人格の成長に伴い何とも詰まらぬものに変貌する。それがスケコマシ問題である。他方、功利的策謀を持って接近した相手に、思わずらぶらぶ光線を被ってしまうのがミイラ取りであり、当初は何の感情も抱かなかっものが、もうダメダメらぶらぶになってしまう成り行きがある。

この両者は、同じ舞台で組み合わせる事が可能ではないか。つまり、スケコマシ問題で人格成長を果たす当事者は、同時にミイラ取りの様式で、拐かしの実行者であることも可能ではないかと言う事。

『王立宇宙軍』で考えてみよう。宗教娘にらぶらぶ接近→好意を買うため宇宙へ行く→訓練の成果で人格成長→娘が欲情の対象ではなくなる。これは美しいスケコマシ問題である。同時に、もし娘の方がこの過程でシロツグにめろめろになってしまっていたと空想を飛躍させるのなら、逆の意味でミイラ取り様式が成立している事になる。

議論を整理すると、本来のミイラ取りの施行者かつスケコマシ問題の当事者から見れば、人格の成長によってミイラ取りになってしまう事は避けられたのだが、同時に成長によって功利的策謀が無効になっている。スケコマシの対象になった彼女から見れば、当初は恋愛の対象にならなかった人格へらぶらぶになる事から、ミイラ取り的な状況の断片をそこに見る事が出来る。もっとも、彼女は最初から策謀などは有していないため、完全なミイラ取り様式とは言えない。


本来のミイラ取り様式は最終的に相思相愛に至るケースが多く、実に根性無き事と言わねばならないが、それがスケコマシ問題と融合したとき、恋愛の竣工はどちらにしてもかなわぬものとなる。実に渋いではないか。わたしどもは斯様な事象を根性あるミイラ取り様式と呼ぶ事にしよう。


 2004/03/09

残余する可能な未来

グレッグ・イーガン『順列都市』を途中まで読む。自我の継続性問題がテクノロジーによって解消されたのはよいが、代わりに分岐する未来が不安を生んでしまうお話。

ギャルゲーの選択肢にまつわる一連の思弁を思い起こそう。選ばれなかった選択肢によって顕在したはずの未来とは何なのか知らんとか、物語の可逆性によって結果的に並列してしまう複数の未来を比較対照するときの感慨とか。そこに鑑賞者は自我の危機を覚えたりはしない。むしろ、選ばれなかった可能な未来(しかし、複数の未来に接する事の出来る鑑賞者はそれを知っている)に甘ったるい情緒を覚える。または、一度知ってしまった未来から現在の選択肢が再評価され、そこにまた別の可能性を見る動態性に、ゲームらしい娯楽を覚えたりする。

自我の継続性問題とは、「死にたくないよ〜」という人生にデフォルトな不安の事である。イーガンは、思考のシミュレーションが自我継続をも保障する未来を描写して、わたしどもを大いに安堵させる。しかし、自分の思考を演算した途端に、未来はふたつに分岐して並列してしまう。演算の中で目覚めた自分と、オリジナルな自分である。運良く気づけば演算空間に居たとしたら、もうハッピーで人生は永遠に一生ものだ。しかし、残されたオリジナルは、生理的に思考が表現されるままなので、いつか死んでしまう。これでは余り解決にならぬような気がする。オリジナルの物理的身体に自我が残される恐怖そこにがある。それは同時に、残余する未来への恐怖に他ならない。

未来は余ってはならない。だから物語は、思考を演算空間に移すのと同時に、オリジナルの身体を放棄する。そのあっけなさは、身体の喪失が自我の危機につながらない宗教信仰者な心理を予感させるようでもある。


 2004/03/10

価値転倒に由来する危機の克服

世界や価値を語り規範となる教官や師匠という人格は、時にその限界を露呈し、弟子である所の人格や鑑賞者に動揺を与え、物語を形成する。江川達也の『GOLDEN BOY』については前に述べた。師匠の陽子サンが主人公と敵対する価値観に没頭して、彼に自我の危機を与える。師弟的な友情関係の類型としてあげた『大運動会』のあかりと一乃も、江川達也とは違う形で、師匠の限界を物語る。あかりの高度成長の始まりが、二人の力関係を変えてしまうのである。また、フェリーニの『甘い生活』では、生活の規範となっていた人格が娘を道連れに自殺して、主人公をキレせしめる。

師匠の変容により、自我に危機が産まれる物語は、一転して弟子が自我の危機を乗り越えると、こんどは彼の成長が語られる。一種のミイラ取り、スケコマシ問題的な人間関係の逆転が描かれる。

弟子が師匠を乗り越える物語もあれば、逆に師匠が莫迦弟子に人生を崩滅せしめられる甚だ迷惑な物語もある。『今すぐ抱きしめたい』をその様に解釈するのも楽しいだろう。師匠の限界を語る物語が、弟子の視点で描かれるのに対して、後者は師匠の視点で語られる。そして、両者の視点が交差して融合する余りにも美しい類型を、わたしどもは『Gガンダム』に見る事が出来るだろう。


 2004/03/16

段階的壊滅の移入効果

先週、ご飯の時にテレビをつけたら、『子連れ狼』の最終回がやっていた。『子連れ狼』というものは、美意識に由来する児童虐待と愛情の表裏にかかわる思索と思う。が、最終回を観ていると、けっきょく“烈堂たん萌え”というのが正しい解釈の様な気もしてくる。

毎回、ほぼ単一の怪人や刺客を差し向ける悪の組織は、実に危険である。戦力の逐次投入という事で、攻撃を受ける善玉にとってはかなり喜ばしい。悪の組織が勝手に自滅する様なものだからだ。しかし、その代償として、死ね死ね団の平田昭彦は世界の本質にかかわる何かを獲得してしまう。鑑賞者の移入である。

滅びの景観というものは美しい。これは前に触れた。しかし、これまた前に言及した様に、滅びを自覚する暇もなく即壊してしまうと、訳がわからない。物事は徐々に蝕まれ、潰れなければならぬ。

哀れな怪人を、毎週の如く小出しに投入しては敗北し、最終的に壊滅する悪の組織は、この法則にはまってしまい、鑑賞者の移入を奪い取る危険が常にある。彼らは常にせっかちで、怪人を製造すれば、すぐに投入する。大規模な組織化は行われない。なぜだろうか。

柳生側の大量投入を抑止しているのは、近世日本の微妙な政治ゲームである。狼一匹に大動員をしたら、幕府のご威光が台無しという理屈に、近世日本に対する教科書的理解――中央集権志向な封建制――の裏にある封建領主間の緊張がある。


ということで、岩田先生のご企画はこのままだとやっぱり『レインボーマン』になる可能性が大であると思われ。


 2004/03/18

保護者という属性

わたしどもは薄幸な娘を保護したいと願う。あるいは、優しいおねえさんに保護されたいと願う。だが、対等のパートナーに関して、同様な高揚を果たして覚えるのだろうか。


『シュウシュウの季節』を観る。中年おやぢ萬歳映画である。もっとも、最初は娘の方へ悶々としてしまい、己の修行不足を痛感する事になる。娘とひとつ屋根の下で同居する羽目になったおやぢも、隠れてドキドキで全く修行が足らない。それでもって、娘がダメダメになると、おやぢ保護者化。大いに興奮である。

主観視点の物語だと、わたしどもの興奮は保護されるべき娘に向けられる。主人公男には情緒がわきにくい。ところが、視点が客観化されると、保護をする人格にも大いに移入する余地が生まれてくる様に思う。終盤に客観視点化してしまう『AIR』で観鈴ちんよりもおかんの方が可哀想ですわ――となってしまうような事か。

『シュウシュウ』はもっと極端で、娘なんぞ最後はもうどうでも良い。おやぢだ。おやぢの顔を見せろ、と移入をしてしまう。おやぢは素晴らしい。早く中年おやぢになりたいものだ。


保護して保護される。結局これは、ヘタレ動態下で行われる相互交流の一断面である。ヘタレ続ける人格とヘタレを脱する人格が出会った時、前者は後者に保護される。時として物語の進展により、その関係は逆転する。いささか説諭じみた視点をそこに持ち込めば、対等なる関係が存在し得ていない事にわたしどもは気がつくだろう。あるのは支配と従属だけである。

人間関係の主導権とその変遷が、物語という表現のフォーマットと親和性を有しているがためなのか。それとも、ギャルゲーユーザーの平均的嗜好に関係があるのか。はたまた、もっと普遍的に、世の男どもはけっきょく恋人に母親を見出しているのか。謎と言う他ない。


 2004/03/22

斜陽する中年おやぢ

13話くらいまで至ったテレビ『モンキーターン』が語るのは、中年おやぢたちの絶望と救済の物語である。斜陽に怯える洞口武雄(56)の絶望的な咆哮が木霊する中、古池師匠は老い行く人生に可能性を発見して、物語と鑑賞者を浮かせる。

洞口さんは中年おやぢのくせに、考える事がついつい顔に出てしまう愛らしい男である。15億くらい稼いで、もう世界に驚く事などなくても良いはずなのに、レースになるとよく「なにいい」とか「ぬおおお」とか発声して、わたしどもの興奮を誘う。特にお気に入りは16話のC218。SGのドリーム戦でアウトから迫る榎木さんの艇に、すごく吃驚しちゃう洞口さんはたまらぬ。醜悪に歪むその表情が美しい。しかもプレッシャーに負けてターンミスと、容姿と乖離するその繊弱な内面がポイント高い。

洞口さんは若僧に負けるのが大嫌いだ。14話のC333で、洞口さんはロッカールームでひとり雄叫びをあげる。「まだまだあんな奴らの好きにさせるかえ云々」と。続けて「わしは愛知の巨人、洞口武雄ぢゃあああ」と絶叫。かなり莫迦だ。なのに、16話のSGでは三年目の憲二に敗北してしまう楽しさである。洞口さんは悔しさのあまり、憲二艇にダンプを試み玉砕を計るもあっさりかわされて、「あんなターンスピードは見たことねえええ」と素直に吃驚しつつ、消波装置に衝突撃沈。たいへん美しい。

ひよっこの憲二に招来された大ヴェテラン洞口さんの散華は、『モンキーターン』に見られる人生の不条理に関する言及のひとつである。しかし、華々しいレースの舞台裏には、ペラ開発チームの教官然とした熱い眼差しがある。それはまた、事故で弟子を失い人間不信になった師匠の古池さんと孤独な青年、和久井の邂逅と希望の物語でもあるのだ。


 2004/03/24

小説Cの日々(その十)

坂口安吾が探照灯に浮かぶB29を見て「うひょ〜〜、かっちょえええ」と叫ぶが如く、世界というものは基本的に格好が良い。輸送艦の全通甲板に係止された軽装甲機動車の群れがかっこええ。砂漠を行く装輪装甲車がかっこえええ。ボディアーマー+89式小銃+フリッツなヘルメットがかっこええええ。小学生の自分がこの景観を見たら、さぞかし邪気のない雄叫びをあげたであろうとCは空想しつつ、野蛮な雄叫びをあげたのであった。ちなみに、米軍のヘルメットがフリッツ型になったとき、ヴォネガットは「米兵がナチになってもうた」と嘆じたが、ヒッピー気質に欠けるCにそんな情緒がある筈もなく、彼はただただ、ぬおお省昇格、このまま行くと次の次のDDHは正規空母かああとわめくばかりである。沖縄人である所のCは、半世紀前に故郷を訪れた灰燼を忘れていた。ただ、そこで99式軽機が異様に役立ち、戦後の武器体系に少なからぬ影響を与えた事だけはちゃんと覚えていた。人生とはそういうものである。

さて、世界のこの格好の良さとは何なのか。リアルワールドに物事が存在を続けるには、空想世界との比較において、多大な物理的労力が必要だ。そして、要求されるマンパワーは、高い合理性だとか必然性という正統化を経ねばならぬ。つまり、潜在する存在が顕在する際の競争の厳しさが空想に比べて激しく、それゆえ世界は格好が良くできてしまうのではないか。

Cは駅前の回転寿司で恍惚となった。あの卵焼きが美しい。締め鯖が美しい。カンパチが美しい。しかし、己の小太りな腹が視界にはいると、これはどう見ても美しくはないと思わざるを得なかった。気落ちして帰宅した彼は、この腹が美しいものかどうか細君に尋ねた。

「脂肪細胞に一片に至るまで愛おしいですわ」

細君は爛々な眼で答えを放った。

もし自分の死体が解剖実習に献体されたら――とCは空想をしてみた。黄色い脂肪の層が作業の障害になり、きっと実習生の不興を買うだろう。Cはそんな事を考えた。


 2004/03/26

牧歌する中年おやぢ

『砂の器』の丹波哲朗は、のどかな人である。手詰まりを迎える捜査に焦燥する森田健作へ「瓜を喰え」とか「一杯やろう」など発し、わたしどもを和ませる。根が正直なので何か発見があると、「なにいい」「ぬおおお」と発声する。たいへん愛らしい中年おやぢだ。情緒が豊富なのでついつい犯人に感情移入しちゃって、捜査会議で壮大な妄想を展開し、物語を萌やす。

相棒の森田健作は、何も考えていない若者で、あるのは情熱だけである。出張帰りに丹波のひねった句を見せられても、余り解さない。よく眠りよく喰って、丹波を感心させる。何も考えていないので、逮捕直前には「彼は父親に会いたがってたんでしょうね〜」と聞かなくとも解る間の抜けた質問をする。丹波は俳人らしく「あいつは今、音楽の中で父親と会っているのだああ」と大興奮して、ついでにわたしどもを興奮せしめる。

ところで、「よく喰う」という森田の造形は、70年代のライターや演出家が若者というものを如何様にとらえていたかの例証と解釈できる気がする。『俺達の勲章』の中村雅俊は良く喰う人で、出張の際、でかいおにぎりを持参して優作を呆れさせた。また、出張先ででかい煎餅をこっそり頬張り、優作の怒りを買った。『太陽にほえろ』の竜雷太もよく喰う人で(もっとも若者とはそろそろ言えない年頃だが)、好物のカツ丼を食っている際にはよく事件が発生し、涙をのんでカツ丼を中途で放棄せねばならないのである。大食いの若者は概して善良だ。よく食べる人間に悪人は居ないのであり、従ってわたしどもは理解不能な安心に包まれるのである。


先の日曜日、ご飯のときにテレビをつけるとドラマの『砂の器』がやっていた。最終回直前らしく、今西刑事の妄想が例の如くに制御不能になっていた。しかしながら、あの牧歌的な今西刑事は、丹波に代わって渡辺謙に成り果てている。牧歌性は灰燼し、アル・パチーノ並に意味の不明な神経症の香り漂う目つきの悪さに震えるだけである。21世紀はかくも恐ろしいものかと感に堪えない。


 2004/03/29

デスクのO氏が「差し替えをせよ、差し替えをせよ」とたいへんに鬱陶しかったので、

「しつこい男は、しばしば女性の嫌悪の対象になる」 
ミッシェル・フーコー(フランスの現代思想家)

と適当な事を書いたメールを送ってやった。



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