非日常の収束と感情隆起の関係
『家族計画』感想@ 末莉について
橋田寿賀子の不幸・幸福曲線で言及した「連続する不幸と幸福の入れ替わり」は、感情移入した相手に鑑賞者の抱きがちな、その幸福なる生存への期待と、セットで語ることが出来る。ある不幸は、直後にやってくる幸福の存在を規定するためにあるのだ。
『家族計画』の末莉は、不幸な健気系の娘である。われわれはこのような娘を見ると「だっこして、なでなでして、すりすりして、ぷにぷにしたい」と心から願うが、この物語で彼女が辿らなければならない道程は、「不幸・幸福曲線」そのものである。
末莉の不幸が発端するのは、直接的には、彼女のへっぽこな運動神経に由来するケースが多い。例えば、鍋をひっくり返して住居の柱を汚し、同居人に叱責を受ける。彼女は絶望して公園の土管に籠もるが、ここで主人公の説得イベントが発生する余地が生まれるのである。説得の過程で、われわれは末莉とますます親近になるとともに、彼女は幸福を得るのだ。
しかし、鑑賞者の歓喜は、瞬く間に、末莉のダメッぷりによって瓦解してしまう。鍋は再びひっくり返されて、同居人に火傷を負わせ、彼女は家出をする。
この手の人格がよく転倒したり、食器を壊したりする描写は、彼女をどじっ娘と定義することによって感情移入を誘う際に使われる手法であるが、あくまでそれ以上のものではなかった。『家族計画』は、ドジを物語の根幹に深く関わらせる点で、従来の文脈からの逸脱を試みているようにも思われる。
それで、末莉は家出先でさらなる不幸に見舞われ、われわれはもうどきどきしてしまうが、それは来るべき救済を創り出すための契機に過ぎないことをわれわれはもう知っている。
果たして、彼女には主人公の救いの手がもたらされるが、次にやってくる「火事」イベントで煙に巻かれ「ああっ、もう〜〜」。
「不幸・幸福曲線」の問題は、実は、ここから始まる。これ以降、曲線は収縮して行き、彼女には平穏で幸福な日常が訪れる。しかしながら、その幸福感が何とも物足りないもののように感じられてしまう。なぜか?
「不幸・幸福曲線」の物語は、基本的に非日常の物語である。ここで言う非日常と日常を区別するものは、物語において生存を脅かす度合いである。そして、不幸と幸福の極端な落差は非日常のなかでより現出される事象であろう。家族を喪失した中学生の末莉にとって、『家族計画』は自己の生命と生活に関わるがゆえに、これは非日常の日常に関する物語である。
この「非日常の日常」の反意概念として、「日常の非日常」という物語の状況も想定することが出来るだろう。たとえば、クリスマス・誕生日・デート・卒業式である。これらのイベントが、「非日常の日常」と決定的に異なる所は、通例において、誰もそこで生死を意識する必要のないことである。
「非日常」の物語と「日常」の物語は、進行・動態の面から見ても相反する行程を辿ることになる。「非日常」は日常への収束を目指す物語[注]だが、「日常」は非日常へ拡散する物語である。
例えば、『スピード』はバスジャックという非日常が解消されなければならないと言う意味で、「非日常」の物語であり、『インディペンデンス・デイ』はエイリアンと言う非日常が解消されなければならないと言う点で、「非日常」の物語だ。
だが、『To Heart』には生命を脅かすような事件は初めから存在するわけではなく、物語は解消すべき非日常を持たない。が、やがてドジなメイドロボとの愉しい「日常」は、彼女の消去される記憶の問題(=存在に関わる問題)に至って解体され、「非日常」が始まる。
こうした「非日常」と「日常」の方向性に関する相違は、物語の終結点において鑑賞者に与えうる精神的衝撃に大きな違いを生む潜在性がある。「非日常」は平穏な日常に取って代わられる。それは幸福なものだが、「非日常」な期間に鑑賞者の受容し続けた感情の隆起は消失される恐れがある。一方で、「日常」は物語の終結点において、最大の「非日常」を迎える。その地点にあって、鑑賞者の感情は最大の刺激に晒される可能性がある。
「非日常」の物語たる『家族計画』の幸福な終幕が、「日常」の物語たる『To
Heart』『ONE』『AIR』に比べるとやや退色して見えるのは、その「非日常」性ゆえの事だったのではないだろうか。そこに、「まるち〜〜〜〜〜!! まるち、まるち〜〜〜」とか「観鈴ち〜〜〜〜〜〜〜ん、こっち来ちゃダメ〜〜〜〜〜〜」や「みさきせんぱ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い、いますぐ胸に飛び込みてええええええええ」というあの野蛮な感情の発動が、入り込める余地を見出せなかったのである。
[注]
実際に収束できるかどうかは、定かではない。時として北半球が蒸発することもあるから、注意が必要だ。 |