十二月 二〇〇二年

 


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2002/12/19


埋まりすぎてしまった主人公との距離感
『家族計画』感想B

主人公が共感に値しないのは、鑑賞者がとり得るような行動を彼がとらないからである。鑑賞者の意思に対する主人公の感度が鈍いと考えてもよい。だから、共感のもてる主人公は、想定される鑑賞者の嗜好を反映した「人格」でなければならない。

ここで、注意しなければならないことがある。主人公への感情移入のためには、彼に特定の明確な「人格」を与えなければならないことである。さもなければ、鑑賞者はその人物への取っ掛かりをもてないはずである。もっとも、最初から主人公に対してそんな感情を期待しないのなら、その人格に匿名性があっても構わないし、極端な場合には、主人公を消去してもよいだろう(『AIR』)。

主人公の主観的な視点を鑑賞者が共有することを要請されるギャルゲーでは、そんな主人公に人格を付与する際に、大きな困難が持ち上がる。視点共有に伴う情報の共有問題である。

人格を付与することは、人格を発見することに他ならない。初対面の人間に関して持ちうる情報は余りないが、持続的な交際の中でその人の行動が描写されるにつれて、われわれはその人の中に人格を発見する事が出来るだろう。

人格の形成に関するこの手法は、鑑賞者が客観視点にある映画等の媒体では、問題は生じない。しかし、主観視点なギャルゲーで、主人公に人格を付与しようと試みるとき、この手法を直接用いると奇妙なことになってしまう。主人公=鑑賞者の筈なのに、鑑賞者が主人公の人格を発見して行くのはおかしいからである。その人格は、すでに明らかでなければならないからだ[注1]

主人公に明確な人格を与えようとする『家族計画』は、この問題を清々しく無視して、古典的な人格発見の手法を彼に適用する。主人公は、鑑賞者にとっては不明な過去の機先により、共同体への参加に恐怖を抱いている。これは、本来は鑑賞者自身であるはずの主人公の過去を発見する物語なのである。

主人公の他者性は、具体的にその選択肢の内にも散見される。鑑賞者の選んだ選択肢を主人公が拒絶する頻度が、他のゲームに比べて、高い印象を受けざるを得ない。

ここで、興味深いことを挙げなければならない。『ONE』や『AIR』が人格を消去することにより、物語は客観視点を獲得してしまったのに対して、『家族計画』は主人公に鑑賞者とは分離した人格を付与する[注2]ことによって、ギャルゲーの中に一種の客観視点を成立させようとしたのではないか。

ただ、『AIR』が客観視点へ“向かう”物語であるのに対して、『家族計画』は、一気に客観視点を成立させておいて、次第にその視点の解体を試みる物語と言えるかも知れない[注3]。人格発見の向こう側には、鑑賞者自身の姿が在るからである。

『家族計画』で鑑賞者が具体的に主人公との分離を感じる点は、かれの他者との融和を拒否する態度である。この物語で、われわれが心から望むことは、不幸な末莉を「だっこして、なでなでして、すりすりして、ぷにぷにする」ことであるが、主人公はそれをおのれの意思で頑なに拒否をする。

しかし、その恐怖の源泉が鑑賞者にとって明らかになり、また、それが主人公の誤解から生まれた[注4]ものと判明したとき、鑑賞者は主人公の内に自己を発見する。かれは末莉を「だっこして、なでなでして、すりすりして、ぷにぷに」する。幸福は訪れたのであった…筈だった。

『家族計画』がユニークなほどに恐ろしい真価を発動させるのは、この時からである。われわれの懸想の対象となった末莉は中学生低学年である。童女愛好趣味のないわれわれにとって、彼女はあくまで「だっこして、なでなでして、すりするして、ぷにぷにする」対象にはなり得ても、肉体的な結合の対象とはなり得ない。それは当初において、主人公の性向にも当てはまっていた。だが、鑑賞者とともに末莉を愛する様になった主人公は、やがてその愛情の勢いが度を越え始め、今度はわれわれから逆の意味で分離を開始してしまうのだ。

末莉の幼い肉体に溺れ始めていく主人公の綿密な描写を前にして、われわれは『To Heart』の浩之を思いだしていた。マルチを「だっこして、なでなでして、すりすりして、ぷにぷに」している内に興奮し、「マルチの体が見たいんだ!」と助平おやぢ化した彼のことを思いだした。

かれらは、われわれとともに彼女たちを愛してわれわれと一体化し、そして、ペドファリアになってわれわれのもとを立ち去って行った。


[注1]
解決方法としては、
前に指摘したとおり、主人公の記憶喪失などがあり。

[注2]
『君が望む永遠』の孝之たんも参照

[注3]
映画等における感情移入全般に言えることかも知れない。

[注4]
海原雄山と山岡士郎もこのパターンである。


 

2002/12/14


おねいさんは拾われる 
家族計画』感想A 春花について

記憶喪失のおねいさんにヘタレな鑑賞者が好意を被ることが至極自然きわまりないのは、彼女が他に頼るべきものを持たないからである。だから、特に記憶喪失にこだわらなくても、行き場を失った状況におねいさんを置いてやれば、われわれはもてもてになれるのではないか。「一目惚れ」という理由付けで、おねいさんの好意を受けるのは、ヘタレた鑑賞者にとってはあり得ないという意味で一種の絶望だが、行き場を失った密航者のおねいさんや家出をしたホームレスのおねいさんの好意を享受出来たとしたら、それは幸せなことである。

春花は中国からの不法入国者である。不法入国したにんげんが異国の地にあって厄災の降りかかるこうした様式を伝統的に好んで用いてきたのは香港映画であり、隣接する貧困な中国本土という地理的な要因がその背景に考えられる。ただ、その路線を確立し代表する一連の『省港旗兵』作品が「不法入国者のおやぢ達が警察機関に利用されたあげく最後は裏切られ蜂の巣」というギャルゲーとは程遠いむさ苦しい様式美の展開に命を懸けていったのは、香港人の無駄に熱い血のなせる技であったのかもしれない。

しかし、そんな汗まみれの香港「不法入国物」の中にあって、ギャルゲー直球ど真ん中勝負を成した作品のあることを、われわれは指摘せねばなるまい。前に触れた『傷だらけのメロディ』('86)である。大陸から出てきたジョイ・ウォンが「ユンファの家に居候」「雨のなかを家出」「裸ワイシャツ」「恋人に間違えられユンファ照れる」「拉致監禁」等々、その先駆性[注1]に泡を吹くのを禁じ得ない。

夢と希望に満ちあふれた「不法入国物」は、何も香港だけに独占させておくことはない。テムズ川の水は隅田川に流れることもあるのだ[注2]。彼女がギャルゲーの舞台たるこの国の片隅で倒れ込み、われわれがそれを発見することは断じて自然な事象である。

だが、そこで、香港においては比較的容易に処理された問題が、一方のわれわれの前に大きな壁となって立ちはだかることになる。意志疎通の困難さに伴う人格の白痴認定と感情移入の阻害である。

われわれが分かり合えるには、東シナ海の壁はあまりにも巨大なのであった。


[注1]
やっていることに変わりはないという方が、適切なのだろうか。

[注2]
引用間違い


 

2002/12/12


非日常の収束と感情隆起の関係
家族計画』感想@ 末莉について

橋田寿賀子の不幸・幸福曲線で言及した「連続する不幸と幸福の入れ替わり」は、感情移入した相手に鑑賞者の抱きがちな、その幸福なる生存への期待と、セットで語ることが出来る。ある不幸は、直後にやってくる幸福の存在を規定するためにあるのだ。

『家族計画』の末莉は、不幸な健気系の娘である。われわれはこのような娘を見ると「だっこして、なでなでして、すりすりして、ぷにぷにしたい」と心から願うが、この物語で彼女が辿らなければならない道程は、「不幸・幸福曲線」そのものである。

ああああん、もうもう


末莉の不幸が発端するのは、直接的には、彼女のへっぽこな運動神経に由来するケースが多い。例えば、鍋をひっくり返して住居の柱を汚し、同居人に叱責を受ける。彼女は絶望して公園の土管に籠もるが、ここで主人公の説得イベントが発生する余地が生まれるのである。説得の過程で、われわれは末莉とますます親近になるとともに、彼女は幸福を得るのだ。

しかし、鑑賞者の歓喜は、瞬く間に、末莉のダメッぷりによって瓦解してしまう。鍋は再びひっくり返されて、同居人に火傷を負わせ、彼女は家出をする。

この手の人格がよく転倒したり、食器を壊したりする描写は、彼女をどじっ娘と定義することによって感情移入を誘う際に使われる手法であるが、あくまでそれ以上のものではなかった。『家族計画』は、ドジを物語の根幹に深く関わらせる点で、従来の文脈からの逸脱を試みているようにも思われる。

それで、末莉は家出先でさらなる不幸に見舞われ、われわれはもうどきどきしてしまうが、それは来るべき救済を創り出すための契機に過ぎないことをわれわれはもう知っている。

果たして、彼女には主人公の救いの手がもたらされるが、次にやってくる「火事」イベントで煙に巻かれ「ああっ、もう〜〜」。

「不幸・幸福曲線」の問題は、実は、ここから始まる。これ以降、曲線は収縮して行き、彼女には平穏で幸福な日常が訪れる。しかしながら、その幸福感が何とも物足りないもののように感じられてしまう。なぜか?

「不幸・幸福曲線」の物語は、基本的に非日常の物語である。ここで言う非日常と日常を区別するものは、物語において生存を脅かす度合いである。そして、不幸と幸福の極端な落差は非日常のなかでより現出される事象であろう。家族を喪失した中学生の末莉にとって、『家族計画』は自己の生命と生活に関わるがゆえに、これは非日常の日常に関する物語である。

この「非日常の日常」の反意概念として、「日常の非日常」という物語の状況も想定することが出来るだろう。たとえば、クリスマス・誕生日・デート・卒業式である。これらのイベントが、「非日常の日常」と決定的に異なる所は、通例において、誰もそこで生死を意識する必要のないことである。

「非日常」の物語と「日常」の物語は、進行・動態の面から見ても相反する行程を辿ることになる。「非日常」は日常への収束を目指す物語[注]だが、「日常」は非日常へ拡散する物語である。

例えば、『スピード』はバスジャックという非日常が解消されなければならないと言う意味で、「非日常」の物語であり、『インディペンデンス・デイ』はエイリアンと言う非日常が解消されなければならないと言う点で、「非日常」の物語だ。

だが、『To Heart』には生命を脅かすような事件は初めから存在するわけではなく、物語は解消すべき非日常を持たない。が、やがてドジなメイドロボとの愉しい「日常」は、彼女の消去される記憶の問題(=存在に関わる問題)に至って解体され、「非日常」が始まる。

こうした「非日常」と「日常」の方向性に関する相違は、物語の終結点において鑑賞者に与えうる精神的衝撃に大きな違いを生む潜在性がある。「非日常」は平穏な日常に取って代わられる。それは幸福なものだが、「非日常」な期間に鑑賞者の受容し続けた感情の隆起は消失される恐れがある。一方で、「日常」は物語の終結点において、最大の「非日常」を迎える。その地点にあって、鑑賞者の感情は最大の刺激に晒される可能性がある。

「非日常」の物語たる『家族計画』の幸福な終幕が、「日常」の物語たる『To Heart』『ONE』『AIR』に比べるとやや退色して見えるのは、その「非日常」性ゆえの事だったのではないだろうか。そこに、「まるち〜〜〜〜〜!! まるち、まるち〜〜〜」とか「観鈴ち〜〜〜〜〜〜〜ん、こっち来ちゃダメ〜〜〜〜〜〜」「みさきせんぱ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い、いますぐ胸に飛び込みてええええええええ」というあの野蛮な感情の発動が、入り込める余地を見出せなかったのである。


[注]
実際に収束できるかどうかは、定かではない。時として北半球が蒸発することもあるから、注意が必要だ。


 

2002/12/07


「感情移入=自己投影」の機能的意味
隠蔽される自慰

他者への感情移入を他者の中に自己を見出す行為と定義する考え方に従えば、感情移入は他者に対する自己愛の投影と見なすことも出来る。感情移入の対象となった他者は、鑑賞者にとって好意の抱ける人格であると同時に、鑑賞者が自己を見出せる人格である。かれは他者を愛しているつもりだが、その他者は自己に他ならない。

だが、この図式は間怠い様にも見える。自分が大好きなのであれば、他者を介在させずに、自己を愛すればそれで済むはずである。

この問題は、自己を直接的に可愛がる際に付きまとう「恥辱」という言葉を持ち出すことによって、理解できるかもしれない。オナニーは恥ずかしく、その恥辱感が自己愛の希求を阻害するのである[注]

かくして、恥ずかしがり屋の人類は、他者の仲介により自己愛に伴う恥辱感を消去し、己に遠慮なき転がりを展開するのであった。


[注]
強引な議論を展開すれば、自慰行為が恥ずかしいのは、生殖に繋がらないから。


 

2002/12/03


調教のその到達点における敗北感の研究
「告白されると気が萎える」(by 同僚の新潟人O氏←しね)

ウディ・アレンがフロイトを引用して云うところの「わたしを入れてくれるようなクラブには興味がない」という言葉は、調教物で見受けられるその根幹を揺さぶる問題に繋がっている。調教が完了して従順になった個体は、その従順さ故に、鑑賞者の劣情を誘起する役目を終えてしまうのだ。

調教物で想定される鑑賞者の嗜好、つまり嗜虐・被虐心の誘発は調教される個体が何かしらの苦悶を示さなければ成立はしない。苦渋をもってご主人様のアレをくわえなければならないし、恥辱をもってご主人様にナニされなければならない。鑑賞者の望みは、調教の過程そのもので描写される個体の屈服・快楽への抵抗である。しかし、過程が目的に取って代わった時点で、鑑賞者には大きな背馳が課せられてしまう。

調教は従順化した個体の育成に到達せねばならない物だが、その結果として、例えば「ご主人様のアレを悦んでくわえる」様なよくある情景は、鑑賞者の欲情を完膚無きまでに萎縮させてしまう。個体が悦んでいたら、嗜虐・被虐心を煽る状況が成立しないのである。

これは、調教の表面的な方向性をずらすことによって、解決できる問題ではない。例えば、「ご主人様にいつまでも反抗する」様に調教することでは、鑑賞者の劣情を維持する事は出来ない。その個体は、「反抗せよ」というご主人様の意思に「従順」と言う時点で、もはや反抗を止めているのである。

個体の反抗心や苦悶を引き出すためには調教を促進しなければならないが、その促進そのものが個体の強情を封殺し、鑑賞者を敗北へと導いて行く。かくしてわれわれは、その従順な彼女の前で、途方に暮れなければならないのである。

 


 

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