2004年05月の日記
知性的な体育会系という矛盾が時に成立してしまうこの世界に、わたしどもは凄惨な驚きを禁じ得ない。それは、例えば、防衛大の偏差値がぎりぎり早慶上智という世界の在り方であり、或いは、『スラムダンク』の赤木剛憲であったりする。体育会系は、ほんらい文系が矜持とするはずの能力を兼用できると謂わねばなるまい。一方、文系が運動できる例をわたしどもは知らない。運動のできる幸運な人々に、文系たる資格はないからだ。文系と体育会系のカテゴライズにまつわるある種の惨劇が、ここに予感される。
黒澤明は、きわめて体育会系なカテゴリーに属する人で、体育会系の襲撃に疲弊したへたれ文系の物語を、けっきょく体育会系の物語にしてしまう。その視線は体育会系を退治するために雇われた体育会系にあり、体育会系と体育会系の共食いを語る。文系はその狭間で、ずっとヘタレておらねばならぬ。
対して、伊丹十三の眼差しは文系に限りなく優しい。黒澤の文系たちは、体育会系に抗するために、体育会系に頼らねばならなかったが、体育会系の迫害に血尿を流す大地康雄が、最後に頼らねばならなかったのは、彼自身の成長であった(『ミンボーの女』)。
高校一年の春、那覇市の映画館でCは涙腺を解放していた。三十の齢を彼方の昔に――少なくとも彼にはそう思えた――軽々と越えてしまったCは、もはや文系だとか体育会系とか、余り関係のない世界に住んでいた。保健体育に対して何の能力も提示できなかった彼は、それを心から幸福だと考えていた。ただ、高一の彼がその世界に到達するには、後三年ばかりの歳月が必要であって、そして、今日のCが思い返せないほど、高校生にとっての三年は遠大だった。
十数年前の映画館で、快哉をこっそりと叫んだ高校生を回想すると、Cは彼をだっこして撫で撫でしたくなった。そして、これから彼に訪れるであろう全ての苦楽を祝福してやりたいと願った。
観鈴ちん逝っちゃうよイヤイヤのカットは、本当にアクセルロッドさんの語るが如く、おかんの視野から切り取られたショットなのでしょうか? 実は、アクセルロッドさん当人が、おかんの主観としての観鈴ちん逝っちゃうよイヤイヤのカットに、後々おおきな謎を発見する事になります。わたしどもはまず、観鈴ちんを支えるおかんが如何様なポージングにあるか、問いを発せねばならならないでしょう。
バストショットであるがゆえに、このカットの中におかんの姿の全容を見出す事はできません。ただ、わたしどもに判るのは、観鈴ちんの肩先に位置する左手の指先や、観鈴ちんの手を保持する右手の指先のような、おかんのごく一部のパーツに過ぎません。カットの左下に視線を移すと、それぞれの手先の帰属する腕らしきパーツが見受けられます。両腕の中央にある白い半円の突起は、恐らくおかんの胸のふくらみなのでしょう。
これらの情報を総合すると、おかんの胸部が観鈴ちんの肩部と直角に近い交差で接触しているように思われます。そこでアクセルロッドさんは、そのポージングが、ある別のカットとのそれと類似している事に気がつきました。
このカットでもおかんの左手が観鈴ちんの肩を掴まえていて、その反対の肩部はおかんの胸と交差しています。そして、アクセルロッドさんにはたいへんショッキングな事に、おかんの頭部は観鈴ちんの斜め後方の座標にあります。このポージングでは、おかんの視野に観鈴ちんの正面は入らないのです。おかんの肩の上に乗る烏の視野にも入りません。それではいったい、観鈴ちん逝っちゃうよイヤイヤのカットで、観鈴ちんを見詰めている視野は何者なのでしょうか。
不可解な事は他にもあります。背景のパースから判断すると、観鈴ちんの身体が地面と並行して接地しているとは思われませんが、また地面と45度以上の角度で離れているとも考えられません。観鈴ちんの体勢は、おかんの保持がある以上、不自然には見えないのですが、では、フレームの外にあるおかんの身体は地面に対して如何様な位置にあるでしょうか。ほぼ同ポージングのカットを参照すると、相当に無理な姿勢で観鈴ちんを支える必要がありそうです。更に、フレームの右上から入る怪しい光条の光源を検討するに至って、アクセルロッドさんは気が狂う心地になりました。
(歪んでる。空間が捻れてしまってる)
主観視点の物語は、世界との作用において一定の制約が課せられています。主観であるがゆえに、物語に配置された特定の視野の外にある光学情報は、ことごとく欠落してしまうのです。ゆえにイヴェントは、必ず特定の視野のなかで展開せねばなりません。観鈴ちんは、その特定の視野の外に、存在し得ないのです
観鈴ちん逝っちゃうよイヤイヤのカットにおいて、特定の視野を形成するのはおかんの視野に違いないと、アクセルロッドさんは主張しました。結局、アクセルロッドさんにとって、観鈴ちんとはそのような物語でした。しかし、これまでの考察から、そのカットが通常ではおかんの視野ではあり得ない事は明らかです。
ろくろ首のように身体が捻れ膨張したおかんを空想して、カフェテリアで頭を抱え込んでしまったアクセルロッドさんに、運悪く小一時間ばかり捕まってしまった同僚のテッドが、不快を隠すことはありませんでした。
「だって、いたる絵だぜ。パースが狂ってるに決まってるだろう。僕はこれから帰ってクラナドをやらなきゃならない忙しい身なんだ。くだらないことで引き留めるなよ」
ギャルゲーという主観の視野の物語にあって、鑑賞者は世界の境界線を構成します。物語の世界は、鑑賞者の視野という世界の何処にも存在しない一点へ収縮されます。そして、点に還元する世界の広さと、鑑賞者の視野の差に思い至る時、彼の前には魚眼レンズで覗いたようなパノラマが広がっているのです。
ひとつの身体がふたつの人格を共有するごく普遍的な物語は、二人の関係のあり方に応じて、世界の景観を描き分ける。他方の人格を、認知し得るのか否か?――という視点だ。
『ヴァリス』のフィリップは、ホースラバーを認知できる。ベアの『天界の殺戮』でも認知可能だし、『隣人十三号』も人格相互の疎通を語る。
互いを認識できる二人に眼差しを送る物語は、彼らの友情と援助、時に葛藤を語る。これに対して、他方の認知が不可能な物語だと、身体に同居する見えない他者を発見する過程そのものが、物語になる。例えば、世界の不思議に感づいたノートン先生は、ブラピを発見する旅をせねばならない。発見するべき他者は自身に他ならないので、これは自己の人格が表出する過程であり、且つ、自分探しの物語に関する極めて物理的なアプローチでもあって、フィンチャー先生のしたり顔がちらつく。ブリッシュの『芸術作品』も他者の認知が不能な物語だが、他者を発見する過程を語ることすら、本当に切羽詰まらないと始まらない。過程が凝縮されていて、短編のサイエンス・フィクションらしい仕掛けになっている。
ところで、テクストで世界を語る限り、ふたつの人格は明瞭な区別の下に容易く配置されるが、視覚情報で世界を語る時、同一身体に住まう彼らは演出家に問題を提起する。身体の容姿まで詳細に鑑賞者に伝達されてしまう情報量の多さが、鑑賞者に混乱を引き起こしてしまう。殊に、他人格を発見する物語が、バレバレになってしまう。よって、視覚情報に多くを依存するメディアは、単一の物理的身体までもノートン先生とブラピに分離しがちだ。そして、この分離を更に拡張すると『岸和田博士の科学的愛情』に於いて分割されてしまった大塚長官や、『ドッペルゲンガー』の役所広司に至ると思われる。
認知可否や、身体の視覚情報の相違にもかかわらず、何れにせよ、ふたつの人格を共有せねばならなかった身体は、状況に片を付けなければならず、其処にライターと演出家の根性が試される。友人を失う感慨もあれば、戦わねばならない強迫的な情緒もある。人格が統合して、アレでナニな事にもなりかねない。人生は様々である。
シャブスキーに感銘を受けた海原雄山が延々と己の心象を並べ続けるカットは、『美味しんぼ』はおろか、日本マンガ史に残る不条理な景観として、人々の記憶にとどめられている。
このカットは、テクストを持ってしか思考を表現できないというライターの原罪を想起させる様で、物悲しい。それは同時に、思考を精密に語る際に見舞われる、視覚メディアの苦悶でもある。
シャブスキーを咀嚼した際の思考活動の全体、つまり上記のカットにあるテクストは、如何ほどの実時間に於いて海原の内に展開されたのだろうか。ひとつひとつの思考は統一体を形成していて、一瞬のうちに全てが与えられる(Foucault[1966=1974:106])。この仮定から始めれば、海原喋りでおおよそ28秒、手短に視覚で追って約8秒の時間を展開に要するシャブスキーへの彼の心象は、そもそもが物理的な実時間とは無縁な思惟の空間にあって誕生したのであって、それ故その空間にある限り展開に時間を必要としない事になる。ただし、思考を思惟の空間から、他者に共有可能な空間へ移転する時、思考はフォーマットに応じて読みとり可能な形に転換せねばならない。思惟の中で、全体が同時に顕現した思考は、テクストの上ではリニアにしか配置され得ない。展開に時間を費やすほどに、思考の同時性は解体され、原初の思考から遠ざかる事になる。
従って、思考は一瞬の内に語らねばならない。表現の媒体は、多様な手法で情報量を過密にせねばならない。原初の思考に回帰するためには、テクストだけでは遅すぎるのだ。
「おにいさまっ! どうなされたの。お顔が真っ青ですわ」
「五分前にゴーヤという見た目の薄気味悪いあの植物を食べたら、見た目通りの味だったんだよおおお。あんなものが群生する沖縄に、宮崎作戦部長が第八十四師団を送るはずがなかったんだよおお。北・中飛行場が簡単に落ちてしまうはずだよおおお〜〜。あそこさえ確保しておけば、天号航空作戦はヽ(゚∀。)ノで、米軍一時退却だったのに」
「同じ事ですわ。敗戦が半年延びるだけですわ」
「その半年に、にんげんは無限の浪漫を感じるんだよう」
つまり『パンチドランク・ラブ』である。西海岸でエミリー・ワトソンとらぶらぶ光線の応酬に勤しんでいるサンドラーを眺めている物語の視点は、次のカットでユタ州のフィリップ・シーモア・ホフマンのむくつけき顔面に飛んでしまう。物語の主視点を構成するサンドラーは、ユタ州で進行中のプロットを知らない。一方で鑑賞者にはその情報が与えられる。その代わり世界はモンタージュによって分割される。極端な場合には画面そのものが分割される。神ならざる人間は、ラインにしか情報を処理できないので、世界を覆う視点の同時性を擬似的にしか体験できない。
モンタージュに依存せねばならない世界視点の物語に比して、主観の視点で世界を語るギャルゲーはモンタージュから解放されていて、世界に対するその表現媒体特有の情緒を産出する。しかし代償として、主観視点に入らない視野を語れない。鑑賞者の視野にいる人物は、常にその視点を意識して行為をせねばならず、従って物語には、人格の立体的な描写に制約と不効率が課せられる。例えば、原則として主人公男の不在する空間で交わされる会話を語れない。『家族計画』の司は、仕方なしに末莉とますみんの対話を盗み聞きせねばならない。この障壁にライターがぶち切れてしまうと『AIR』の出来上がり。
らぶらぶで今すぐにでも胸に飛び込んで行きたい遠野さんとみちるの交わす夕暮れの屋上での対話は、場を共有する主人公の存在を半ば無視して強引に進行する。彼の存在は、その視野の中でしか世界が生存し得ないギャルゲーという表現のフォーマットに対する義理立てである。そして、主観視点の物語が世界の視点を獲得してしまう空間秩序の根本的な転換とその激震は、哀れなみちるを因果の地平へ吹っ飛ばしてしまうのだ。
らぶらぶ光線の応酬が情報の不確定性に依存しているとすれば、ギャルゲーが主観の視点から世界を眺めなければならなかったのも妥当な帰結に思えてくる。
少し空想を膨張させてみよう。ギャルゲーがその存在の多くを依存している“嬉し恥ずかし”モードは、相思相愛な完全情報下に於けるそれよりも、他者の意志の不明瞭な不完全情報下の方が、鰻登りではなかろうか。駅構内のベンチで「ミートパイ記念日ぃぃ〜」とやられても羨ましい不快が充満するだけだが、その妹に「もうやさしくしないでくださいっ」と咆哮されると心地よすぎて死にそうになってしまう。らぶらぶゲームには、不明瞭な余地が残されてなければならぬ。
前回の議論から明らかなように、ギャルゲーは主人公の視野を越える情報の扱いが苦手だ。これは、至る所へ視点を張れる世界視点の物語に比して制約が課せられているという点で、ギャルゲーが世界と実存的に関わる上での代償と解釈できる。だが、この制約が、“嬉し恥ずかし”モードを助長する不完全情報な関係の一助になりはしないだろうか。世界を覆う視点は、不完全な情報を語るには余りにも饒舌なのかも知れない。
一定の傾性を帯びた行動の累積から生まれる因果マップとしての意味は、他者による認知を経ねば、そもそも意味を成さない。それは在るものではなく、見出されるものである。そして、読解された意味は、認知主体の行動にスキームを課し、彼の行動に傾性を与える。意味は波及し、因果マップが伝染する。ただし、意味はしばしば飛躍して読解され、そこに多くの悲喜劇が生まれる事になる。
軍事演習で道に迷い、凍てつくアルプス山脈に残された偵察隊は、隊員のポケットに見つかった地図を頼りに帰還を果たした。ところが、よ〜く見るとピレネー山脈の地図だったりして、一同はぎゃっふんなのであった(Weick[1987:221-233])。
しかしながら、寓話がいつも幸福に包まれる保証はない。傾性された行動の進路にあるものが、氷山や崖っぷちではない確証は何処にもない。平本アキラは、世界のそんな気紛れな残酷性について言及して呉れる。
合宿免許に来ていたゲンとケンヂは、ローラー引き、薪割り等の教習とは関係のない労働に従事せしめられ、不平を垂れる。が、やがて世界に意味を発見してしまう。
意味を認知した彼らは、自らの無秩序な人生を特定の因果マップから評価出来るようになり、その行動は指針を獲得する。傾性ある行為の総体は、彼らの人生に物理的な意味と成果を与える。
最終的にゲンとケンヂは、意味づけされた人生を元手に世界と相対せねばならない。その因果マップは、世界に対する有効性を保持し得るかどうかを試される一種の淘汰過程を経ねばならない。彼らはその生存競争に敗れ、玉砕する。
平本アキラの寓話は、因果マップの淘汰に参与する際に、わたしどもが行わねばならない困難な利得計算を語っている。概してわたしどもは、自己の人生に秩序を与えたがる傾向にあるが、その秩序化にはコストが費やされる。また、秩序化された人生が結果として環境に適応できず、氷山にぶつかるリスクも否めない。ゆえに、実人生は物理的な保証の範囲内でレースに参加しがちで、それがわたしどもの日常に感じる生暖かさの起因を為すように思う。