2003年11月の日記
「好いお天気ですわ、おにいさま。布団に籠もっていらっしゃるなんて、勿体ないですわ」
「もう駄目なんだよぉ。昨日、三十時間後に世界が滅亡する夢を見たんだよ。(布団から顔を出して窓を見上げて)うわっ、何だよあの雲。形が変だよ。まずいよ、きっと地震が来るんだ。みんな死んで仕舞うんだ。助けて呉れ」
「雲が曰くありげに見えるのは、引き籠もってばかりいるからだと地震板で云ってましたわよ。良く御覧下さい、おにいさま。気持ちの良い秋晴れですわ。こんな素敵な日に地球がぶっ飛ぶなんて、考えただけでわくわく致しますわ」
えっちなアニメレーベルのプロデューサーさんとお話をした時、「ギャルゲーは過度的なものであって、いずれそのジャンルは消滅するだろう」と氏のおっしゃった事が印象に残った。わたしどもも、前々からギャルゲーと云うものを低コストで映像な物語を成立せしめる為の媒体と考えていたので、今日の標準的なギャルゲーの制作費で膨大なカット数を費やさざるを得ない伝統的な映像作品を作り得る様になれば、ヴィジュアルノベルなジャンルがなくなってしまうことは首肯しても良い様に思えた。詰まり、わたしどものこれまでの文脈では、ギャルゲーは安価な物語表現の在り方であって、ゲームと云うよりもむしろ映画とかアニメの範疇に含めうるものと解釈してきた訳であった。しかしながら、最近、ギャルゲーをゲームと云うより物語と定義する事に違和感を覚え始めてきた。ギャルゲーを終えた時の感慨、例えば「マルチとの楽しい日々」とか「みさき先輩との楽しい日々」と云うキャラとの日常性の共有感が、他のメディアでは再現が困難な気がしてきた。
わたしどもはこれまで、ギャルゲーとそれ以外の物語媒体の区別に関して、選択肢の有無の方ばかり強調し、選択肢のある物語の産みうる感情誘起は、映画などでもおおよそ再現可能ではないかと考えた。だが、選択肢のないギャルゲーの存在が例証する様に、物語の分岐はギャルゲー特有の日常の共有感と切り離してしまっても余り問題はなく、むしろその主観視点の在り方のほうへ目を向けるべきだった。そんな当たり前のことを、昨晩布団の中で遂に思い至った。
もちろん、主観視点は映画やアニメーションでも再現可能であり、また普通に使われている。ゲームでなければ再現できないと云うことはない。ギャルゲーの主観視点が、映画やアニメのそれと際立っているのは、物語の大半がその主観視点で構成され、しかも各シークエンスに於いてモンタージュがほとんど欠落しているところである。
モンタージュの欠落した主観視点も、やはりビデオゲームではなくとも技術的には可能であろう。だが、ここでわたしどもは、映像で語る物語の最初の媒体となり、いまでも他の映像媒体に多大な影響力を持ち続けている映画が、基本的に如何なる状態で鑑賞されることを想定しているか思い起こしてみる必要がある。引き籠もってビデオでばかり映画を観ている身としては忘れがちになってしまうのだが、それはそもそもが複数の鑑賞者と共有する空間にあるスクリーンに投影されるものである。多くの場合、一人ではなく他者と共に鑑賞されることが前提になっている。そして、斯様な、複数の鑑賞者の存在する空間では、通例ヒロインとわたしどもだけの間で発生する日常の共有感は困難なのではないか。ギャルゲーのヒロインはわたしどもだけに向かって語りかけてこなければならぬ。しかし、映画館のスクリーンかららぶらぶ光線をわたしどもだけに向かって放射することは、よほど寂れた映画館でもない限り不可能である。らぶらぶ光線は同時に他の鑑賞者によって共有されることをわたしどもは否応なく意識せざるを得ないのだ。
モンタージュなしでずっと雪さんがらぶらぶ光線をぶっ放し続ける様を主観視点で捉えた映像をでかいスクリーンで1000人ほどの観衆と一緒に鑑賞しなければならない極端な事態を想像してみればわかりやすいかも知れぬ。恐らく、恥辱にまみれた違和感でわたしどもは大声を出して逃げ出したくなるだろう。複数で鑑賞されることを前提にする物語は、ある程度客観化された視点で語られなければならないのだ。映画のこのお約束は、テレビ放映を前提とする物語の映像媒体にも継承されている。ところが、ビデオゲームになると、一転して一人で鑑賞される前提に何の障害もなくなってしまう。みさき先輩とわたしどもの個人的な関係が、直接的な他者の視点を意識することに因る興醒めによって破壊される可能性が大幅に減少する。
また、ビデオゲームが、モンタージュの欠落性と技術的に親和性のある(例えば、テトリスにモンタージュはない)事も、ギャルゲー特有の日常の共有感に貢献しているとも考えられる。実人生のリアルタイムな時間の流れには、モンタージュがそもそも存在しない。そんなことが、ギャルゲーの有する日常の実感と関係している様に思う。
仕事上の不安が軽減されても、それが人生の不安の縮減に余りリンクしていないのはイヤイヤである。取り敢えず、腹いせに同僚O氏(三十代半ば独身)の机にコレのはがきを置いて帰宅することにする。帰ったら、多分ビデオを観て寝ると思う。
アクションにはアクションの喜びなり快楽なりがある筈であるが、壮大な大破壊とそれを物理的な形にする為に費やされた膨大な労力が、比較の上ではそれほど労力の必要性の無いキャラの芝居に、感情誘起の面で全く太刀打ちできないどころか、逆に物語を喰ってしまう事態は物悲しい。感情誘起の効率性からみれば、メカ物はリスキーではないかと時々思ってしまう。
過剰な動作や破壊は美しいが、そこには人情芝居のバックアップがなければならぬ。或いは、人情を発現させやすいが為に、巨大ロボは起動する筈ではなかったのだろうか。もっとも、この感傷は、単にわたしどもの嗜好が人情芝居へ移ろいでいった為が故なのかも知れない。
『神魂合体ゴーダンナー』を観てそんなことを考えた。
感想になっていないのだが、街頭で「幸福を祈らせて呉れ」と云われても、その台詞を自己愛押し潰されそうになっている自己の断末魔と解釈すれば、なかなか泣けるのではなかろうか。
人々の間を往来する主導権の有り様は、恋愛の関係だけではなく、時代を超えた様々な世界に出現して、わたしどもを喜ばせたり苦しめたりする。太宰治は、斯様な移転して行く主導権の物語をよく語る人で、おねいさんの恋慕を巡る模様どころか、むさ苦しい中年おやぢ同士の余り様にならない主導権の奪い合いなども喜々として描画している。
『風の便り』は、書簡の往来という形で語られるので、主導権の移転する様がわかりやすく楽しい。物語は作家の木戸さん(38の中年おやぢ)が同じく作家の井原さん(50男)に熱愛らぶらぶメールを送りつける所から始まる。以下、物語の動態を簡潔に見てみよう。
(1)木戸→「らぶらぶですわ〜」→井原
(2)木戸←素っ気ない返礼のはがき(じらしテクニック=基本)←井原
(3)木戸→「短い葉書でつれないですわ〜らぶらぶ〜」→井原
(4)木戸←「其処までらぶらぶとあっては苦しゅうない。らぶらぶ〜」←井原
(5)木戸→「俺様にらぶらぶとは、案外たいしたことないかも」→井原
(6)木戸←「生意気な小僧、くそったれめ」←井原
(7)木戸→「ジジめ、でもらぶらぶ」→井原
(8)木戸→「貴男とは生き方が違うわ。わかれませう」→井原
(9)木戸←「(゚д゚)ハァ?」←井原
興味深いのは(5)の転換点。『斜陽』ほどはっきりしたものではないが、らぶらぶであった対象がこちらにもらぶらぶであったことが判明すると、どうやら熱情は冷める傾向にあるらしい。「わたしを入れてくれるクラブに興味はない」と云う奴であろうか。これ以降、世代論という形で、片道通行な疎通は交流する様になり、主導権が相互にやや緊張の面持ちで保持される。物語はその後、木戸のエキセンな態度に井原が困惑する所で終結するものの、そこでの彼の困惑は微笑ましい苦笑に昇華されている。関係は終わった様でもあり、或いは別の形態に移行した様でもある。
斯様な中年どもの繊弱な往来は、付加された人情味の甲斐もあって楽しげに読めるのであるが、若い娘が脳内で勝手に主導権を作り上げた挙げ句の果てに玉砕してしまう『恥』になってしまうと、笑えなくなってしまう。作品から推察される作家のイメージとその実体の間のギャップに関わる物語は、わたしどもにとっては生々しく、故に痛々しい。
「もぉ、おにいさまったら。また、お布団に籠もっていらっしゃる。今日は船の科学館へ北朝鮮の工作船を見に連れて行って呉れると仰ったではありませんか」
「許して呉れ、妹よ。昨日、十日振りに外出したら、丁度近所の女子校の下校時間で、年頃なおねいさんの大群に巻き込まれたんだ。あの目映いおねいさんたち一人一人にまだ見ぬ潜在的な何十年もの人生が在ると思ったら、未来の重みで気が狂いそうになったんだよぉぉ。多分あと一ヶ月は外に出られない。助けて呉れ」
「(布団に潜り込んで来て)怖いものなんて何一つありませんわ、おにいさま。どいつもこいつも吹けば飛ぶ様な人生ですわ。だからこそ、あのおねえさまたちは美しいのですわ」
『天地無用』と云うのは、相違する時流の可能性に溢れる世界ではなかろうか。詰まり恋愛の対象が、生存期間の桁が違う異星人であると、わたしどもにとって全生涯に値する時間も、彼女にとっては些細な一瞬に過ぎぬかも知れず、其処に様々な物語を見出せそうである。
相違する時流で鑑賞者の眼差しを向けられるのは、相対的に遅滞した時流にあるキャラクターであるが、違う時間の流れの基にあるキャラクター同士の恋愛が制度化された場合、遅滞側の結婚観は、わたしどもが通例見聞するそれと異なったものになるかも知れぬ。『天地』第三期で、遅滞した時流にある(よって人間の経年感覚にそぐわない外見の)天地の祖母が、孫である彼の容赦のない無意識的ならぶらぶ光線を被り、めろめろになってしまうシークエンスを見ると、遅滞した結婚観が、例えば、生涯に於いて一度や二度だけではなく、複数回繰り返されるものとしてその制度を考える想定もできそうだ。これは切ないと云うよりもドライな感じである。
ただ、この制度下に於いても切なくする工夫はありそうで、相違する時流ではないものの複数回の結婚が制度化されている星野之宣『残像』の、一定期間の恋愛が生涯の重みになってしまう様な感覚などが切なく使えるかも。
山科けいすけの描く世界は、人格の意外性の宝庫である。その手法自体は極めて古典的なのだが、彼の偉大さはそのレパートリーの豊穣さに因っている様に思う。
ただ、この剣崎課長の性格設定は、傑作と誉れ高い男山課長の其れと比較してみると、些か心許なく感ぜられる。剣崎課長は、社会的にネガティヴなステレオタイプを当てはめられやすい人格から生じる、存外な肯定性によって、わたしども鑑賞者の琴線に触れているが、男山課長だと逆にポジティヴな人格の裏で圧死しようとしている、社会的にネガティヴとされる人格に、わたしどもは感動する。
正指向、負指向自体が問題なのではなく、恐らく負指向の生み出さざるを得ない人格の苦悩や葛藤がこの違いを作っているのだろう。剣崎課長は自身の意外性(=所謂本当の自分)を隠匿する必要はない。其れは社会的肯定性を帯びまくっている故に、むしろ表出させまくらねばならない。しかし、男山課長は隠匿された本当の自分をそのネガティブさ故に、人前では圧殺せねばならない。そして、かれは人知れず会社のトイレで不条理な人生の重みと苦闘せねばならないのである。
睡眠中に見舞われざるを得ない悪夢は、演繹な思考と精神的な気合いで制御できるのではなかろうか。例えば、昨日わたしどもは車を壁にぶつける夢を見てうなされていたのだが、よく考えてみると半年前の転属で車を運転する必要のなくなったわたしどもが、斯様なアクシデントに巻き込まれるのは些か不自然である訳で、コレは夢なのですね、はっはっは…と眠りながら余裕をこいたのであった。ただ、夢とわかっていても不快な心持ちには変わりがなく、故にわたしどもは夢から覚めねばならぬ。精神的な気合いとは、覚醒に要する形而上の労力みたいなものである。
此でお話が終われば人類は平和になるはずであった。しかし世の中の救いのないことに、目を覚ました場所がどうやら壁に衝突してしまったらしい車のシートだったりして、嗚呼、リアル・ワ〜ルドと混乱した。結局、まだ目を覚ましていなかったらしく、循環型の入れ子状態と云うか、輪廻の蛇と云うか、手短な胡蝶の夢と云うか、ありがちなパターンである。
因みに、刑務所に収監される夢から醒めた同僚のO氏は、万年床を涙でぐしょぐしょにしていたと云う。抽象的思考に欠ける無垢な蛮性みたいなものが感ぜられるエピソードだ。
「恐ろしいよぉぉ。最近、何事にも腹が立たなくなってきたんだ。どうしたら良いんだ、助けて呉れ」
「素敵なことですわ、おにいさま。地球に平和が訪れますわ」
「わたくしはおにいさまの青空になりたいですわ(©今井美樹)」
「ぼくはみさき先輩の抱き枕になりたいよぉぉ〜〜」
近衛文麿がヒトラーのコスプレをして西園寺に怒られたお話を読んだ記憶があるのだが、ソースを思い出せない。何処で見かけたのだろうか。
『マルタイの女』ほど趣深い映画もあったものではない。しかしその良さを理解して呉れる人は少なく、たいへんに寂しい。ただ、新興宗教団体の刺客から命からがら逃れた宮本信子が突如として公共精神に目覚め、大音声でその感激を街中に放ってしまうシークエンスだけは、観ていて気恥ずかしい。伊丹十三のテーマが赤裸々に発露されているように思えるからだ。
中年おやぢの鈍重な身体を彫刻的な美しさにまで昇華する伊丹の演出手腕はもっと讃えられても良い。わたしどもは、ステレオタイプな巨漢として描画されていた伊集院が暴力的な若者をなぎ倒す一瞬の動作や、たわいもない芝居に感涙する名古屋章が不審者を発見した次の瞬間には舞台に突進する豹変、或いは火炎瓶の炎に包まれた西村雅彦が犯罪者に短銃を向けるショットにそんな美しさを発見して感動する。斯様な高揚をもたらした彼らの諸行為は、いずれも公的な奉仕の劇的な発動として解釈できる。従って、此処でのわたしどもの感動は、公共と云うものに対する原始的な情緒に由来していると思う。
公共への信頼感や義務感は、わたしどもが共同体とその成員の貸借関係を如何に認識するかによって形成されたりされなかったりするような気がする。今日の平凡な市民生活の中で、わたしどもは所得税を払ったり住民税を払ったりして、共同体への貸しを作っている。一方で共同体の方もわたしどもに何らかの貸しを作っている筈であり、わたしどもは社会科の授業でその有り様を学習する。しかし、課せられるわたしどもの負担が、共同体に属することによって得られる利益と釣り合うのかどうかは、日常の生活の中では漠然としていて計量が難しい。結局、解釈次第な感じもあり、そんな日常から産まれる公共心もごくごく平穏無難なものであろう。わたしどもが共同体にメロメロになってしまう事態は、わたしども個人単独では払いきれない貸しを共同体に作ってしまったことを明確に認識せざるを得ない状況に至って、成立してしまうのだ。
例えば、個人の為に、その個人では費用を賄えきれない様な人員が無償で動員され機能してしまう想定下である。ほどほどの公共概念の下に暮らしていた宮本信子は、物理的な暴力の遭遇に際し、其処で発動された西村の過剰な公共精神に驚いて、自己と共同体の結びつきを発見する。この図式は、【当局側】【地方警察関係】【報道陣】【市民たち】と明確に分けられたスタッフロールの配役表示でさらなる強調を受ける。個人のアクシデントを契機にして動員される膨大な人々の悲喜交々が浮き彫りにされる。『ミンボーの女』直後に遭遇した演出家本人のアクシデントを其処に連想しても良い。
まあ、ある意味、体制擁護だとか社会的洗脳の過程だとか、そんな解釈も有りだとは思うが、わたしどもには非日常のイベントを巡って甲斐甲斐しく動作するおやぢどもの身体がたいへん愛おしい。
結局の所、制度の成立は物理的な保証を伴わなければならないらしく、例えばミリタリーに対するカウンターバランスな暴力が存在しないと、戦前の日本みたいにクーデターが頻発すると云う(©兵頭二十八)。それで、今日のわたしどもは各種のカウンターテロリズムな部隊や機動隊等と云った軍隊以外の暴力を雇い入れて、うはうはと太平を謳歌している。もっともMP5で武装する機動隊の武器対策部隊が叛乱してしまっても困惑してしまうのだが…。ただ、実際お巡りさんが非合法な政変をたくらむ話は余り聞かない。軍隊組織と警察機構の自立性や自己完結性の違いに因るのかも知れぬ。
果たして「お巡りさんがクーデターを起こせないのは、軍隊組織ほどにその自立性や自己完結性が確保されていなからだよ、あはは」と云って、優しいおねいさんの好意を被りうるのかどうかは恐ろしく不明である。が、取り敢えずメモしておこう。
『愛と追憶の日々』は淡泊すぎて余り転がれぬ――、と思ったものの何だかんだと云って矢張り大好きな難病物には違いなく、家庭を顧みなかった旦那が、新婚時に奥さんからプレゼントされた趣味に合わないネクタイで末期癌の彼女を見舞うシークエンスまで来ると、転がりたくなる。旦那曰く「君は簡単な事で喜ぶなあ〜〜、どうしてもっと喜ばせてあげられなかったんだろう」→後悔先に立たず型萌へ〜。
斯様な情景を眺めていると、わたしどもが考えるよりはるかに、人間と云う生き物を喜ばせるのは容易なのか知らん、と思いたくなる。容赦のない例を空想すれば、男を転がすのは簡単で、中学か高校の制服の上にエプロンを着用して上目遣いで「お兄ちゃん」とただ一言、それだけで良い。しかしながら、その行為はたいへん容易であるからこそ、同時に恐ろしく困難でもある。こんな簡単な事で転がるのか?と云う疑念と、更にこんな簡単に転がってたまるか→こんなんで転がる奴に興味はないと云う思考の悲劇的な発展が邪魔をする。容易な手法につけ込む媚びを他者に感知されたくない伝統的な美意識も人々の行為を制約する。
わたしどもはこうした度重なる脳内シミュレーションの果てに、何も行動を起こさない内に勝手に盛り上がって、勝手に疲弊して、選択の機会そのものを逸してしまいがちである。世の中はもっと単純かも知れないにもかかわらず。もっとも、斯様な意思疎通のギャップこそ、物語の誕生する場所に他ならなかったりもするのだが。
山岡士郎がサルモネラ菌に冒されて生死の境をさまよっている時、「にんげんいつかは死ぬものだ」と海原雄山は努めて冷静に語った(無論、内心では最愛の息子を死ぬほど心配している)。詰まり、いつか必ず其れがやってくることがわかっているから、死ぬのは恐ろしい。
免許の更新に都庁へ行った。あんな重厚な構造物の中にいると、生命に対する物理的な危険から遠ざかる様な心地がして、愉快になる。大和の左舷が魚雷を食らいまくって阿鼻叫喚な時に、右舷は至って静かで故郷の自慢話などが和やかに談笑されていたと云う微笑ましさみたいな感じ――、とでも云えばよいのだろうか。
死の恐怖を身近に感じるシチュエーションには年齢や時期や季節によってトレンドがあるように思う。此処二、三年は電車がホームに入りつつある状況が恐ろしい。あと数メートル身体を前進させるとすげえ痛く世界が終わってしまう事が容易に想像できるのでイヤイヤだ。同じ意味で信号待ちも恐ろしい。
都庁の中では劇的な死亡の有り様を具体的に空想しにくいので素晴らしい。TNT満載のトラックが突っ込んできたら死ねると思うが、その際の死に様とか苦痛がよくわからない。HE弾の破片で死ぬようなものか。
とにかくこの地上はリスクが多すぎる。老人を見かけるたびに、斯様な世界でなぜに生存を続けられるのか不思議でしょうがない。
「ひとりでは戦えないのですわ、おにいさま」
「ぼくはそもそも戦いたくないんだよぉぉ〜」
昨晩は幻影に追われた挙げ句に交差点で事故を起こす夢を見た。免許更新の講習で観たビデオが原因だと思う。