2004年01月の日記
一方的に強烈ならぶらぶ光線を被って生じる恋愛の主導権は、また彼我の情報量の格差という視点から語ることもできる。「あ〜ん、らぶらぶですわ〜」なラブラブ光線がその恥辱感ゆえに他者から隠匿されるおなじみのケースで考えてみよう。
らぶらぶ光線の隠匿が成功し、その感情が他者へ気づかれ得ないのであれば、そもそも情報量に格差は生まれない。当人は感情を秘匿してるつもりでも、かわゆい色ボケぶりによってらぶらぶ光線の対象者にその光線が把握されると、情報格差に伴う一方的な主導権が対象者に付与される。らぶらぶ光線を放出する当人にとって、目標がそれに気がついているかどうか不明である。ところが、目標は自分に対する放出者の恥ずかしい感情を把握している。ここで情報に格差が誕生する。
政治学だと、このような情報のギャップに由来する影響力のあり方を語ったりすると思う。それでもって、社会学(というか予期理論?)なんかだと、他者の行動を予期できて複雑性が低減ですわ〜〜な方へお話が持って行かれる。
お休み中にルーマンの『法社会学』をぼんやり読んでいて、「複雑性」というタームにぶつかると、いささかの感慨を覚える。経営学をお勉強していた学生時代のわたしどもは、限定された合理性ゆえの合理的な意思決定の不可能性…云々なお話を良く聴かされた。つまり、世の中複雑すぎて訳わからぬ。それで考慮すべき変数を単純化して、問題をわたしどもの限られた合理性でも扱えるサイズに縮小してやれ、と言うことだった。
経営学(近代組織論)で世界と向き合っているこの視座は単一であったのだが、社会学は“いやらしい”ことに、世界の複雑に向かう視座をひとつに限定せず、それどころか視座の間に生じる交流が新たな複雑を産んでしまうことに言及しちゃう。
経済・経営系の学問が如何に単純なモデルを扱っているかの証左であったりする。もっともその単純化のおかげで、計量化の可能性が開けていたりもするのだが。
「お正月ですわ、おにいさま。また地獄の一年が始まるのですわ。お目出度過ぎて頭が狂いそうですわ」
「うわぁぁぁぁぁぁっ!! またいっぽ死に近づいちまっただよ〜〜」
時々、世界のわかりやすさに恐怖することがある。例えば、曙が前のめりに崩落した瞬間。あの凄まじいわかりやすさが恐ろしい。
交差する時流では、将来においてらぶらぶになる予定の人物に対して、ある種の刷り込みや調教が行われる。
星野之宣『遠い呼び声』は、らぶらぶな二人の片割れが、ある時点で時流を不可逆的に逆行するお話である。過去をさかのぼらざるを得なくなった彼は、次第に幼くなる彼女を密かに調教する。未来で出会うはずの自分へラブラブになるように…と、この切なさの炸裂具合が「きゃっ」とわたしどもの乙女回路(©小池田マヤ)を刺激して病まない。もっとも、近所の俺様好みな童女を調教し続けて結婚しちゃう古典的なお話とプロットは変わらぬような気もしないことはないが。
ところで、永野のり子は交差する時流における刷り込みを、時流の物理的な逆行を行わずして実現せしめた(『すげこま君』)。大好きな松沢先生から過去の人格を引き出し、将来にラブラブになる様、ことある事に刷り込みを行ったのである。
『すげこま君』は、たいへんに美しい恋愛と救済の物語であるものの、すげこまと松沢先生の結末はやや浄化に欠けると思う。松沢先生に最初から最後までらっぶらぶなすけごまに対して、当の先生自身の態度は孤独で不幸な生徒に対する憐憫に終始し、恋愛感情には至らない。刷り込みは失敗したのである。
また、交差する時流の文脈で考えてみると、すげこまが結果的に時流に対して可逆的で、自我を継続しつつ将来の松沢先生と出会えることの保証が、『遠い呼び声』との切なさの違いを産んでいるようだ。
『マイノリティ・リポート』を観る。トムっちの目玉がたいへんにいや〜ん。
つまり、それによって大抵の障害が乗り越えられることに由来する興醒めがある。トムっちも奥さんも目玉ば〜んで何処へでもゆける。前に触れたナノマシンみたいな感じ。それでもって追いかけてくるのもセンチメンタルな元同僚どもで、ぬるま湯な気分。根性も業も欠乏している。
それと、行き過ぎたタッチパネルでタイムラインの探索はきついかも。見た目間抜けだし。キーボードでタイムコードを打ち込んでいった方が業界人っぽい(それはそれで問題かも知れぬが)。
『マリみて』一話の感想。
原作は読んだことがなく、「いや〜ん、らぶらぶ、はずかしい〜」なものを想像していたが、何やら様相が違う。おねえさまは案外に功利的で、祐巳はそれに引いてしまい、「らぶらぶ、いや〜ん」な感情の入る余地がない。今のところはむしろ、気高いおねえさまの困惑が、感情誘起のメインストリームを成しているように思う。
世界の描き方は恐ろしく異常で、冒頭から引き込まれてしまう。しかし、先駆的に『ウテナ』という偉大な作品が存在してしまっていることが、幸運でもありまた不幸でもある。モデルとするべき世界があるのは幸いだが、どうしても比較の対象にされる。『ウテナ』が相手だと分が悪い。
ディーンなのでAnimo撮り。業界標準のレタス塗り→AE撮りに比べると線が細かい。レタス塗り→レタス撮りでも線は細くなるらしいが、Animoとどっちが細かくなるのか知らん? 渋い色は色彩設計さんと美術さんの尽力の賜物と思われるものの、Animoで作ったことが何やら影響していることはないのかなあ。実写におけるフィルムの違いみたいに。
シギントとヒューミントはそれぞれ別個の組織に担われて機能することが多いように思う。NSAとCIAとか統幕の情報本部と公安みたく。仕事のやり方が互いに異質なために、同組織で機能を共存させるのは難しいのかも知れぬ。『エネミー・オブ・アメリカ』や『マーキュリー・ライジング』をそんな視点から眺めることも可能で、シギントという狭義の意味でのインテリジェンスな仕事に関わる人々が、まるで門外のフィジカルな荒事に手を出し、様々な悲喜劇を招来してしまう。相手がアマチュアなので素人のウィル・スミスも這々の体ながら対抗できる訳で、そこに物語が誕生する。らぶらぶな状況設定である。
押井守の『犬狼伝説』になると、この状況が逆転される。今度はカウンター・テロリズムな部隊が公安捜査に手を出してへまをしてしまう。公安部の人たちはかんかんで、「所詮は荒事専門の素人集団」(P77)と言い捨てる。『セブン』でもこれと似たような景観があった。SWATの人たちに「copはどいてろ」と言われたブラピが「SWATめ」と悪態をつく所。文化の違い(体育会系と文系の溝)みたいなものが感ぜられて、微笑ましい。
『攻殻SAC』の一話を見た。どうもしっくりとこない。公安9課がインテリジェンスな機能を担っているのか、あるいはフィジカルなのか、よくわからない所にその理由があるような気がしてきた。以下、気のついた愚痴を並べてみる。
のっけからすごい銃の扱い。テロリストに横撃ちをやらせる時代はもう終わりした方が…。で次に、そんな彼をなぎ倒して説教をかます素子さん。相手はまだ銃を持っている。
「テロリストが銃を持っていたら倒れるまで撃つ」と学校で習わなかったのだろうか。説教なんぞ論外。恐ろしい。それで次に、建物に突入する素子さん。そのまます〜っと光学迷彩で突っ込んでしまう。
“正しい部屋の入り方”を学校で習わなかったのか。抗弾シールドを先頭に、ミラー越しで安全確認とまでは言わないけれど、せめて死角をつぶしておかないと。いくら光学迷彩といっても怖すぎる。
素子さんはまたすごいスタンスで発砲を続けるのだが、これは義体化の成果と考えてもよさそう。生身のトグサたんはアソセレスで撃っている。
それで、わたしどもはこれらのアマチュア臭さを如何様に解釈せねばならないか。
公安9課は見た目派手で、機能的にフィジカルっぽいし、実際にフィジカルなことをやりまくっている。が、上述のようにフィジカルな荒事の教範から行動の仕方が外れている。例えば「殺すな」という台詞が幾度か出てくる。これはわたしどもの知るカウンターテロ部隊から出るような言葉ではない(むしろ殺さないとこちらの身が危険)。
『犬狼』のP166。公安部長(機能的にはインテリジェンス)の文明さんが「…すこしは生かしとくもんだろう」と特機隊(フィジカル)の巽に皮肉を言うカットが出てくる。インテリジェンスとフィジカルの違いを示唆するこのシークエンスを参照すると、犯罪者を殺したがらない公安9課の機能的雰囲気は、外見とは裏腹にインテリジェンスなそれと思われるのだ。そんなひとびとが、本来なら異質な文化であるはずのフィジカルに関わっているから、違和感のつきまとう所となる。そして、異なる文化の共存を許し得たのがテクノロジーの進歩、ということになるのであろう。
同僚のO氏は『雨に唄えば』が大好きだ。落ち込んだ時に鑑賞しては、躁転を試みるとおっしゃる。似たようなことを『重罪と軽罪』でウディ・アレンが言っていた。
Singin' in the Rainとなると、わたしどもには『時計仕掛けのオレンジ』が浮かんでくる。むろん、あの酷く素晴らしいかの曲の使われ方に氏は憤慨している。例の如く、ざまあみろと云う所感であったりする。
フィジックス(荒事)とインテリジェンスの機能を同時に担う公安9課は、どちらか一方の機能に特化する組織に比べれば規模の経済を活用できないために、管理や運用のコストが割高になると思われる。その代わり職種的に常時自己完結状態なので、小回りがきく。ウルトラ警備隊[注]やあるいは戦隊物での組織の使われ方と似ている。多機能で小回りがきくと何処へでも顔が出せる訳で、それだけ物語の生まれうる事件と遭遇できることになる。『刑事追う!』で役所広司が捜査共助課に属している事情もその辺にありそう。遊軍状態(当人曰く)なのでどこへでも行かされ、酸鼻なアクシデントに出会い放題。わたしどもを喜ばせる結果となる。
実際のわたしどもの社会は、妥協案として、運用に至る時だけ他職種で構成されるチームや組織を作って、平時には単一の機能ごとに組織化して管理するやり方で物事をやり過ごすケースが多い。複数の機種で構成される米軍の航空団のような、よほど経済的な余裕のあるケースにおいてのみ、常設される多機能なユニットの例を見出すだけである。
公安9課は、この世にあまりない組織の在り方ゆえに、多分に人間の想像を持って行為を描画せねばならない側面がある。リアリティをあまり参照できず、行為の描画に情報量を与える作業が困難になる。それが、プロたり得ない何ともアマチュア臭い組織の描写につながっているのではなかろうか。
『攻殻SAC』二話を観た。“人格発見→さらに最後に人格発見”な古典的刑事ドラマで喜んだ。
[注]
#02で「こうかくきどうたいの者だ」と素子さんが検問を素通り。「ウルトラ警備隊の者だ」と料金所を素通りしてしまった事件を彷彿とさせる。
Cは食い物の恨みを忘れるような男ではなかった。所沢街道沿いの牛丼屋で受けた屈辱を、この一年半、忘れたことはなかった。牛焼き肉定食に付属するはずだったみそ汁が、年老いた店員によって忘却され、吸引に能わなかったのである。
けっきょく、Cは店員にみそ汁を求めることなく、涙目になりながら牛定を平らげ、店を後にした。かの店員が片づけを行う際、出し忘れたみそ汁の存在を気づかせしめて、悔恨の余生を送らしめようと彼は企んだのであった。だが、本来ならば享受できたであろうみそ汁から獲得される効用の想像に、Cは苦悶することたびたびであった。
時は過ぎて、昨晩、牛丼屋で鯖のみそ煮定食を前にしていたCは、その景観に違和感を覚えない訳にはいかなかった。付属するはずのない生野菜がなぜか付属していた。お店の人が間違いに気づきませんように〜どきどき〜と震えつつも喜々として平らげ快哉をこっそり叫んだ彼は、間違った生野菜が利息のついた一年半前の忘れられたみそ汁ではないかと云う思案に至り、その一連の因果に介入する超自然的な存在の影を感じ、恍惚となった。ついでに、“キムチ豚丼登場”のポスターが視界に入り、小太りの腹を高鳴らせたりもした。
『美味しんぼ』の31巻「鍋対決」はかなりイヤらしいお話である。同時に、雁屋哲の審美観が顕著に表れる話数でもある。
審査員のノ貫先生(茶人)がとにかくいやん。ホームレスと意気投合して、気兼ねなくお茶会しちゃったりして、それを目の当たりをした京極さんが「相手の人間の社会的地位なんかノ貫の目にはうつらんのや」(P121)と感激で、岡星さんも「これこそ、本物のお茶です」(P121)と涙ぐんだりしちゃったりして、イヤイヤ。ノ貫先生自身というよりも、俗世間から離脱した先生の生き方を愛でる美意識が、かえって俗っぽく見えて身悶えを覚える。
わたしどものこのような価値判断は取り敢えず置いておくとして、雁屋哲世界では、ノ貫先生に具現されているような考え方や行為の在り方は、至る所で語られ肯定される。まり子が山岡にらぶらぶ光線を発射する契機となったのは、彼女自身のエスタブリッシュメントな出自に対して何の頓着も持たない彼の態度であった。この美意識は、海原雄山に於いてもっとも端的に表れる。
雁屋哲の美意識は、いわば非人間的、言い換えれば人間の理念的な在り方への憧れから生まれている。世界を構造的に確定している地位や役割、慣習や法制度といったしがらみの向こうにあるとされる自由への憧れと言ってもよい。この憧れが非人間的とか理念的とか称されるのは、しがらみの向こうにある自由が実際は精神病理の語る不快に他ならないからである。雁屋哲にあって克服すべき社会的枠組みは、人間として存在する事へアプリオリにつきまとう原罪である。
先に述べたように、わたしどもが『美味しんぼ』に美しさをみるのは、雁屋哲の理念的な人間美の中ではない。海原雄山の超俗的な言辞に取り立てて美しさは感ぜられない。むしろ、栗田に「おじいちゃん」と呼ばれ思いっきり驚愕したり、サルモネラ菌に冒され生死の境をさまよう最愛の息子・士郎に冷静を装いながら死ぬほど内心では心配したりする彼が美しい。あるいは社主や小泉局長に媚び、「くけけーっ!」と奇声を発する富井副部長が美しい。彼らの美しさは、非人間的で理念的なものへの憧憬ではない。人間であることそれ自体の美しさである。
『美味しんぼ』に見るふたつの人間に関する価値観、人間であらざる事への憧れと人間であることの美しさ、これは相反する考え方でありながら、同時に相互補完の体を成しているようにも思える。しがらみに捕らわれうじうじ行動する人間の美しさは、存在することの原罪に対するはかない情緒に由来している。そして理念的な人間への憧れは、この原罪を前提せずには成立しない。制約がなくてはそもそも憧れは生じないからだ。
コニー・ウィリスの『航路』を読んだ。
テレビの方の『バトルアスリーテス大運動会』、決勝の100m走な印象と言うべきか。物語はそこで世界や人生に対する解釈付けに至らねばならぬ。が、時間は10秒に満たない。どうやって描くのか知らん〜と観ていると、ゴールの直前で物語が主観モードに突入して時流が遅滞。なかなかゴールしない。やっとゴールしたら今度は時系列が飛んで、回想フラッシュバック走馬燈。10秒に満たない筈の時間は引き延ばされるだけ引き延ばされ、そのどさくさに語られるあかりとクリスの精神的交流が、学生時代のわたしどもを興奮させたのであった。
『航路』は緩慢な破滅を描く標準的な難病物ではないものの、感情高揚の様式が難病物っぽい。つまり、自分がもうすぐいなくなってしまうことを知ったにんげんが如何なる思考をして、何を見出すか。その諸行動のもたらす感情高揚である。病は緩慢に来るがゆえに、人々に思索の猶予を与える訳だが、余りにもとつぜん世界がぶっ飛んでしまうと、訳が解らなくなる。ところが、『航路』だと、ほとんど突然死で、通例の思考のやり方では破滅の認知はかろうじて可能であっても、それに関して思索する暇がない。そこで始まるのが長い長い走馬燈。時間は主観モードに突入して、終局が延長される。『サルでも描けるまんが教室』、「主人公が死んだ後、どうやって物語を続けるべきか?」を想起してもよい。あるいは『えの素』で、時間の遅滞を不思議に思った前田郷介が、死に至りつつある自分を発見するシークエンス(ずっこけて、瓶の破片に頭部をぶつけつつあった)も興味深く指摘できるだろう。
ところで、このお話はそもそもが難病物の効用によって、物語が牽引されるのではない。序盤を引っ張るのはある種のマクガフィンで、その牽引力に半ばあきれる。しかしながら、やっぱりマクガフィンで、発見されてしまうと「ふ〜ん」な感慨に収斂されてしまう。物語は感情高揚の術をいったん失う。それで、代わりにやってくるのが前述の難病物。全く異なるベクトルで物語が進行することになるので、転換点で亀裂が入る。つまりあざとい。とはいうものの、世界の終わりにこころが和むのも否定しがたい。難病物の要件、自己消滅の自覚もばっちりで、「シナプスが死滅して逝くわ〜」なんてところはハァハァと興奮せざるを得ない。消滅点が人生の動機と一致する感情高揚の様式(観鈴ちんの「もうゴールしてもええよね」→いや〜〜〜〜〜んのアレ)も完備。「誰だかわかってるんだから〜」のシークエンスもハァハァであった。
以上の如く、たいへんな燃料の投下具合である。にもかかわらずやっぱり「ふ〜ん」な感慨程度しか読了後に残らないのが不思議だ。いなくなることに対する感情はあるが、定義づけの方は失敗した(というよりも意図されていない)ため、それを成功させた『タイタンの妖女』とか『ブラッド・ミュージック』に比べると終わりが弱いかも知れぬ。後は、キャラクターのパーソナリティで、これはちょっと遺憾かも。マクガフィンが強烈なため、人格に移入できなくても物語が進展してしまう。その歪みが効いてしまったようで、無念と言うほかない。
この世でもっとも美しいものは、中年おやぢである。殊に、世間や組織の建前と己の美意識との狭間で苦悶するかれらは美しい。要求される選択と美意識が相対した時、気高く自虐的な中年おやぢは、しばしば己の身体を賭して相矛盾する要求を止揚せんとする。
『子連れ狼』の其之九十五「武衛流抱え撃ち」は萌える。砲術で拝一刀を討ち取るように命じられた稲葉重政は、しかし気が進まない。砲術を一個人に用いることを心苦しく思う。で、待ち伏せしていると、拝一刀が岩場でロッククライミングをやっている。絶好のチャンスであったが――、
と、このメルヘン具合に興奮する。彼は平地で戦い、敗れ去る。
其之九十七「胸底の月」も中年おやぢが神々しい。御船手頭の向井将監がらぶらぶな頑固おやぢで、御船の大筒で海路を行く拝を仕留めよと柳生に命じられるものの、拒絶する。とはいうものの、組織人の哀しさで、けっきょく海上で拝一刀を待ち受ける。彼は大筒を用いず、こっそり船から命綱を垂らし、拝と船上で戦うことによって、美意識を貫徹させる。
これらは単なるフェア・プレーではない。フェアでやれば自己の身体が失われかねないという認知の基に実行される過剰なフェア・プレーである。中年おやぢはしばしば過剰なフェアを指向し、破滅に至る。
其之九十二「苦労鍬後生買い」だと少し趣が変わって、死に場所探しと美意識の追及が融合している。静かな余生を送る定年退職者たちは、殺害の対象であった大五郎を見て、「孫がいたらあのくらいの歳だの〜」とセンチメンタルになる。しかし、組織の命令は抗しがたい。彼らは仲良く自殺して、問題を解決してしまう。
其之二十九「哀燈流し」も楽しい。ダメ弟分に翻弄される兄貴のお話で、ジャンルムービーど真ん中である。ダメ弟分が仁義のきり方を間違えて、あっけなく惨殺。兄貴は仇を取りたいと願うが、組織のしがらみがある。
かれは単身で敵地へ乗り込み、己の身体を失わなければならない。
身体を犠牲にするこのような問題解決行動は、例えば『ゴジラ』の芹沢博士にも当てはまるだろう。三角関係と帰還兵とオキシジェンデストロイヤーの素敵な出会いである。後年の『ゴジラ』が、未だにそのシナリオ工学の壁を越えられないのも、むべなるかなと思う。
人生の動機は、得てしてネガティヴである。よって「実はこ〜んな不幸な過去が」とか「実は不治の病だった〜」という言葉で語られがちだ。人間はおかしなもので、未知の人格の発見によって生じる人格の立体構造化に、とことん弱い。知らぬ内に、感情の移入が行われたりする。しかし、使いやすい様式がゆえに、様々なレパートリーでもって「実はこ〜んな――」が至る所で語られる。やがて鑑賞者の感情が飽和してしまう。またかよ〜ってな感じに。
知らない人格やイヴェントが解明される過程は、人格への移入の契機を成すと共に、一種のサスペンスでもある。だが、移入やサスペンスだけに過去発見を用いるのはまだ効率が悪い。潜在する過去は、未来のイヴェントにおいて顕在化せねばならない。物語の工学にとって重要なのは、不幸な過去のレパートリーを増やすことよりも、むしろ過去によって規制される選択の在り方の様な気がする。
『航路』のぱっとしない人格造形を考えてみると、上記の議論にどうも関係しているように思う。まず、主人公二人に物語的な不幸な過去は一切付属しない。これはある意味で好感が持てる点でもあって、人生の動機を不幸な過去に頼ってばかりでは前述したように飽きが来る。では、その代わりに彼らは何によって動機づけられているかというと、何もない。ただ、日常の生活に追われているだけ。もっとも、日常に追われているだけでも、「どんどん人生が無為に過ぎて行く→後は死ぬだけ→いや〜ん」という動機が生まれたりするのだが(黒沢清『降霊』)、彼らはそんなものと無縁である。
代わりにサブキャラが頑張っている。結婚式当日に旦那が事故死とかアルツハイマーで何もかも忘れて行くよ〜ゆくよ〜いや〜んとか、こちらは典型的に物語している。でも、あくまで脇役なので、彼らの過去が未来とつながって鑑賞者の感情を高揚させることはあまりない。ただ、主人公の内面を通して間接的に未来とつながるのみである。
主人公の動機は、本来ならばその動機を顕在させたはずのイヴェントそのものによってようやく生まれる。だが、それでは遅すぎたと言うべきだろう。
DVS3が三ヶ月で浦安の工場逝きですわ〜。いや〜〜ん。