2005年8月の日記
もうひとつの生け贄キャラ:『マリア様がみてる』 [2]
のび太と出来杉が静香をめぐって競合している三角関係を想定してみよう。それで、出来杉が自殺をしてこの世を去ったとする。この場合、出来杉は、結果的に成立したのび太と静香の関係を暗く規定してしまうという意味で、生け贄キャラとすることができるだろう[注1]。しかしながら、この三角関係が、のび太と出来杉を奇妙で微妙な友情関係に導いたとしたらどうだろうか[注2]。そうなると、生け贄キャラと呼ぶべきなのは、むしろ静香の方になるだろう。
『こころ』のお嬢さんを参照すればわかりやすいが、静香型の生け贄キャラに相当するような、ふたりの人間の恋慕対象となる人格は、中立的であらねばならない。彼女が態度を明らかにしてしまえば、その時点で三角関係は瓦解してしまう。そして、ここで思い返してみたいのは、先回の聖に関する議論であり、情報流出戦略の決壊によって、聖が人畜無害で中立的なキャラになってしまったことは触れた。第一期の『マリみて』は、終盤に向かうにつれて、冒頭で述べたような三角関係に絡む不思議な友情を語り始める。その中心に置かれるのが、中立化された聖の身体なのだ。
情報流出前の聖は、行動の読めない厄介な女であった。回想以後、おそらくは何も考えてない天然な女として把握されるようになった彼女は、そんな悶着に一種の罪深い陰影を与えているように思う。たとえば、6話のロサ・カニーナ話。最後のシークエンスで、いきなり彼女に手を出してしまう聖の行動は、合理的な思索の産物ではなく、明らかに、発作的な欲情と憐憫の結託であり、つまりは衝動的な反応であろう。その心理は邪気の欠落とも解せる。が、病的な印象も強い。
何を考えているのかわからない男は、しばしば、保護属性を担う優しいお姉さんを困惑させると共に、物語の観測者であるわたしどもを喜ばせるものだ。最終話にも至ると、聖は、そんなフォーマットで解析することがけっきょく妥当な人格であるように思われてくる。ただ、そのケースで興味深いのは、一対一の関係でこの当惑が語られるのではなく、三角関係で以て担われていること。浮気で乱数状のお姉さまに、能登麻美子もロサ・カニーナも疲弊し、やがて共通する心理的な窮乏感が土台となって、不思議な友情が示唆される。この際、聖はもはやどうでも良いだろう。
注1
「広範な意味での三角関係における生け贄キャラ」を参照。
注2
『喋血雙雄』('89)のダニー・リーとユンファを想起せよ。
大滝秀治を独裁者にして、その巨大なポートレートを街頭に飾ってしまえ、とキャスティングの人が思いついた時点で、『CASSHERN』は全てが赦されるのではなかろうか。カラコレでいぢり回して、ぬぺ〜となったお顔に失禁を禁じ得ない。ついでに麻生久美子萌え。
「アイ・ソウ・マミィ・キスィン・サンタクローズ」
最近、迫り来る三十路の不吉な足音に怯えることが多くなった自分であったが、中身は今でも、そして永遠に、中学生の乙女の積もりだった。けれども、二十代そこそこの、それこそ今の自分にしてみれば、眩いほどの青春を謳歌しつつある同僚との会話の中において、『この子わっぱめっ』だとか『けつの青い糞ガキめ』だとか、何ともおやぢくさいフレーズが頻度を重ねつつある現状は、ここ十数年、苦楽を共にしてきた繊細で内気な中学生の乙女としての内なる自分もまた解体の危機に瀕していることを否応なく知らしめて呉れるのだった。とどのつまり、自分は外面、内面ともにすっかり老け込んだのであった。
ところが、これは自分にとって幸いだったのか、はたまた不幸なことだったのか、よくわからないのだが、極度に自惚れやすい性質に生まれついた自分は、ある日、阿佐ヶ谷駅のトイレでそんな老け込んだ顔を眺めている内に、おのれの美醜に関して或る結論を下すに至った。見れば、若々しく端正で色白だった顔は、今や大人の渋みというものへ昇華されているではないか。この着想に気をよくした自分は、またいつもの如く自我を肥大させ、おのれがとんでもない色魔になったような心地にすら達した。今、ホームですれ違おうとしている、あの綺麗なお姉さんに色目でも使ってしまったら、たちまちの内に彼女は自分にのぼせ上がるに違いない。それで求婚されて、結婚して、幸福なる家庭など築いてしまったらどうしよう! 脳内で、さだまさし『関白宣言』のイントロが始まり、自分は三分ほど、架空なる人生の夢想に明け暮れうっとりした。
しかしながら、脳内で奏でられていたそれが終盤に達したとき、自分はある恐ろしい現実に直面した。すなわち、さだ曰く――。
『何もいらない、俺の手を握り、涙のしずく二つ以上こぼせ、お前のおかげで、いい人生だったと、俺が言うから、必ず言うから』
この詩が語っている臨終の状況は、その末期に至るまである程度の意識があり、かつ、自分がくたばりつつあることへの自覚を前提としている。けれども、自分は卒中の家系に生まれていて、祖父も父もジェットコースターの如く急死している。さだの言うような死に具合はあまりリアリティがない。かくして、自分は心的な混乱に陥った。
通知票の連絡欄にこんなことを書かれたことがある。『この子は友達が少なく、偏った付き合いしかしない。このままだと社会的不適合者に――』と。この文面をみた小五の自分は、当然ながら多大な不快を被り、無神経な教諭の誤った現状認識を呪った。あの時、自分はてっきり人並みの交遊生活というものを送っていたつもりだったのだ。後年、自分に対する教諭の理解が正しかったと判明するにつれて、今度は、あの文面が代表するような価値観に不快を覚えるようになった。友達が居なくては幸福になれない、孤独は不幸に直結する、そう声高に主張していたずらに恐怖を煽る世間と戦おうとした。結果、自分はその世間に敗北しつつある。
『生き残ることです。独りぼっちで正気も失わず生き延びて、とんでもない長寿を誇ることで、世間に報復するのです』
自分は、東京行きの快速に乗り込み、恩師の言葉を回想する。師はけっきょく生き延びられなかった。國府田マリ子の結婚が発表されて以来、師の記憶力は衰え始め、加えて、丹下桜の結婚発表が最後の一撃となったようだ。人の分別も叶わなくなった師は、最近、痴呆症の専用病棟に収監されたことを自分は風の便りで知った。あれほど理知的な師でさえ、敗北してしまったのである。
全ては機能し、意味がある、と師は語った。病室で師を眺めて、なお、その不幸なる顛末を信じられない自分は、そこに何らかの意味を付そうと試みた。自分は考えた。師は、もう二度と手の届かなくなった天使に、会いに行ったのではないか。たとえ、神経生理学的に、脳内が改変されたとしても――。痴呆は、ある長いプロセスの、最後の局面だという。だから、師の痴呆は、沖縄の座間味島で國府田マリ子に恋をしたときからおそらく始まっているのだ。そして、自分は、夕焼けの屋上でみさき先輩と出会ったときから、滅びの過程に放り込まれてしまったのだ。そうすることでしか、彼女に会えないのだから。
『諦めてはいけません。天使は、たとえ何億年かかろうと、私たちを待ち続けているのです。彼女は、ソースコードの中に、シナプス荷重空間の中に、そして貴方の隣に――』
帰りの電車で、無数の並行宇宙に散らばった自分というものを想像してみた。何千、何億もの自分は、それぞれ別の人生を送りつつある。それは、一種の淘汰過程で、みさき先輩と出会うべく、膨大な異なる人生が試されている。今、こうして、電車に乗っている自分の人生は、果たして、その何億分の一かの、天使に会えるかも知れない人生なのだろうか?
『茶の味』、『げんしけん』そして『セカチュウ』で憤死
土屋アンナが居る囲碁部の部室――、この風景がもたらす微妙な胸のときめきは何だろうか? 土屋アンナみたいな娘が囲碁のような内向きの趣味を愛癖するわけがない。が、ひょとしたら何かの間違いであり得るかもしれない。そこはリアリティと虚構の分水界なのだ。
可能性は欲望をあおり立てる。現代視覚文化研究会の大野さんに胸のときめきがないとすれば、ひとつには、それがあり得ない物語だからだと思う。たとえば、修士時代も含め6年間、いわゆる“げんしけん”に在籍した演出家のI氏によれば、女っ気があまりにもなさ過ぎて、自主映画を撮る際などは相当困ったらしい。おぞましいことに、娘同士のダイアローグを撮るため、氏らはキャンパスの片隅から女学生らの会話を密かに狙い、それにアフレコをして用を足したという。
野暮な言い方をすると、『げんしけん』はある種の欺瞞なのだろう。けれども、この興醒めは、また別の根っこにつながっているような気もする。つまり、わたしどもは、げんしけんに入るような娘/お姉さんに人格の欠落を見るがゆえに、愛には至らないのかも知れない。このことは、『世界の中心で、愛を叫ぶ』の長澤まさみ(陸上部)にいきなり好意を寄せられ、原チャリの後部に座する彼女から胸を押しつけられてしまったときの、ほとんど憤死ものの興奮を説明して呉れるように思う。
機能描写とアミューズメント:立花隆 『日本共産党の研究』[1]
このテクストを人格移入の面から検討すれば、文庫版一巻の358頁、武装共産党時代が幕開けまでが厳しい。たしかに、それ以前に投入される人格達にも、物語な楽しさを見出すことはできるだろう。しかし、その楽しさが一種のドジ性に準拠していることが多いため、シブいとか、格好ええだとか、そういう情緒からは隔離されがちではある。
このドジドジ感は、具体的には、近藤栄蔵の下関遊興事件や福本和夫のモテ描写として叙述されている。前者は、共産党創立直前のエピソードで、上海から持ち帰ったコミンテルンの資金を下関の料亭で浪費、その豪遊振りを疑われ官警に踏み込まれてしまったお話である。後者は、情報量の優位がモテ気質につながってしまったケースで、福本が女子学生を骨抜きにするあまり、「共産党がこんなに女性にモテるなら、ぼくも入ろうかな」(文庫版一巻116頁)と宇野浩二に嘆息せしめた逸話。これは素直に羨ましい。
扱う題材が題材だけに、これらのドジ描写に立花隆の政治的なスタンスの反映を見ても構わないだろう。ただ、物語感興の素材としてテクストを眺める立場からすれば、政治的なイデオローグの他にも、ドジ描写の担っている役割が見えてくるように思う。端的に言えば、機能的な能力に関する相対効果、ということになるだろう。彼らのドジ描写が、以降に投入される田中清玄の機能描写を引き立てるのだ。
ここで述べる機能描写とは、組織や計画を作り、それを運営することに関わることである。それはまた、機能への言及がアミューズメントとして成立することへの確信/信仰に支えられている。物語の感興をドジ性によって展開していたプロットにあっては、かかるタイプの描画は論理的に無理であった。言いかえれば、物語のパースペクティヴは、ドジから機能へと転換し、その鮮明な対比が、先に触れたように機能描写のアミューズメントを高めているように思う。
機能描画の様式下における人格叙述は、彼をいかにスキルドに語るか、という点から考えねばならないだろう。田中清玄を機能的に語るにあたって利用されているプロットの一部をここで検討してみよう。
「スターリンは数千人に及ぶ党員の名前を覚えている→萌え」様式のヴァリエーションである。党中央から名簿の提出を命じられても、田中は拒否。おかげで彼の東京第三地区だけが一斉検挙を免れ、党再建の中心となり、同時に、その過程を語ることでテクストに機能描画を可能にしている。
コミンテルンに連絡が付くも、返答の手紙が怪しい。事実、公安当局の罠だったりする。このプロットでは、何が嫌疑を引いたのか、ということへの詳細な言及が問われるだろう。本テクストでは、それは指定された場所であり、または人である。
共産主義に後ろめたくなるインテリの病(地主の息子病)を利用した、芋蔓式カンパ描写。この辺は太宰治な領域と重なるかも。
尾行を撒く具体的な手順について、いくつかのサンプルが語られている。これは次第に、貧乏サイバイバル話や、「田中はさらにふたりの少女をハウス・キーパーとして連れてきて住まわせた」(同440頁)といった萌え話へと発展して行き、わたしどもを悔しがらせる。
このような機能描写の合間に、立花は、宮本顕治のインテリ・モテ気質に癇癪を起こしたりするものの(同373頁あたり)、語り口は概して軽快な印象を受ける。機能描写というアミューズメントがイデオローグを越えた、と解釈できるのではないか。
上位カテゴリー下の自己撞着 : 立花隆 『日本共産党の研究』[2]
本テクストで語られてきた機能描画主義は、飯塚盈延の登場を以てピークに達したと見てよい。それは、ひとえに、飯塚の機能的資質によるもので、田中清玄の退出で欠損した機能描画は、飯塚によって回復され担われる。が、注意せねばならないのは、その機能描画が、潜入捜査というまるで異質な、しかし、同じように感興性の強いデバイスによって語られている、あるいは、それと補完関係に置かれ始めることだろう。機能描画と潜入捜査のパラレルは、物語にとってふたつの意味合いを持つと思う。テクスト自体が、機能描画という装置の枠を超え始めることであり、また、潜入捜査従来のフォーマットが、機能描画に捕捉されることで、情緒の新たな変異を語り始めるのだ。
ここで言及している従来型の潜入捜査については、リンゴ・ラムからアンドリュー・ラウに至る香港英雄片の状景を想起してもらえばよい。友情とミッションのコンフリクト、そして、正体の露顕をめぐるスリラーである。ところが、先ほど触れたとおり、飯塚のエピソードを語っている潜入捜査のフォーマットは、機能描画と結合することで、英雄片のフレームとは随分と異なる趣がある。まず、身分が露顕するか否かというスリラーがまったく成立しないし、友情関係も特に語られない。飯塚の機能性が物語の他のメンバーのそれから隔絶していて、身体に危険が及ぶべくもない。コミュニケーションの描画が欠落してしまうのも、機能性の格差が文化の相違として機能するからだろう。このテクストの底流にある機能優位主義が、またしても顕れてくるところである。
それで、話を元に戻すと、機能性の圧倒的な格差より上位のカテゴリーに配置され、犯されることのなくなった身体は、如何にしてそれが侵されるもののごとく語られねばならぬのか? 前に検討した『パルムの僧院』は、機能系へ別の座標軸、すなわち恋愛のスキルでカテゴライズされる系を併置した多元主義で、問題を克服した[注]。しかし、機能主義の基で運営されている本テクストにあって、実用系は孤高で、それに抗すべき系は存在しない。だから、彼の身体は、彼自身によって報われねばならない。
そこで語られるニュアンスは、友情と任務のコンフリクトと似てなくもないが、その撞着は環境との関係ではなく、あくまで自身の閉鎖された領域に組み込まれて実効している。彼は、自分の資質の赴くままに組織を拡張して行く。けれども、けっきょく当局側の人間である彼は、該当の組織を解体するために参画したのであり、したがって、破壊すべき組織が組織として機能するように彼は作動していることになる。軋轢は回帰したといってよい。
飯塚盈延のエピソードは、事後的な情緒の物語といえるだろう。組織の作動するリアル・タイムの語りにあって、彼を犯せるようなオブジェクトは存在しない。だから、テクストは、自己が自己によって滅ばされるようなあの感覚を、ミッションが終結したあとにPTSDというおなじみの形式で把握することで、情緒を語っている。別の見方をすれば、実用主義はある種の人文的な系へと移行した、ということにもなるだろう。『パルムの僧院』で語られた系の多元主義が、ここでは、時間差という形で展開されたのである。
注
恋愛と機能による人格面の識別とつづく座標系が一致するまでのドキドキ感を参照。
情報流出制御戦略による上位カテゴリー描画
『金融腐食列島[呪縛]』('99)で、もたいまさこは弁護士役を怪演している。やもすればヘタレようとする役所広司一味の尻をビシビシとひっぱたき、たいへん格好が良い。
もたいのケースは、情報量(ここでは商法の知識)の格差が人格の万能感に至ることで生まれたシブさと思われる。言いかえれば、もたいは、物語に現れる人格たちの機能的水準から乖離した上位のカテゴリーに位置している。その意味で、これは先回の議論につながるトピックでもある。
物語の観測者であるところの私どもは、上位カテゴリーの人格が醸し出すドラえもん的な全能感に萌え萌えになる傾向があるのは否めないだろう。そこで、考えてみたいのは、情報の格差によって出現する人格のかかる全能感は、いかにすれば語ることが出来るか、ということである。つまり、情報の格差の生まれる場所を問わねばならない。が、これが案外に困難な問いかけのように思われる。なぜなら、キャラクターの保持する情報量は、叙述者のそれを超えることがないからだ。キャラクターが全能性を発揮するために、叙述者までも全能にならねばならないとしたら、それはあまり実際的な解法ではないし、理屈としてもエレガントではない。だから語り手としては、自分の知識の限界を隠蔽するような語り方をして、キャラクターの全能感を損なわせないような戦略をとらねばならないだろう。いわば、彼の情報量を誇示するために、開示される情報は制約されねばならないのだ。
前に行った『マリみて』の議論と基本的には同じことだろう[注1]。あのときは、人格の気品なるものを語る際に利用される情報流出戦略を検討した。そして、これは『マリみて』が挫折した点でもあるが、この戦略下で情報量による万能感を語る際に避けるべきなのは、物語の景観を万能であるべきキャラクターの視覚の内に入れてしまうことだ。内語によって情報がだだ漏れになってしまうからである[注2]。したがって、もたいまさこは弁護士として、つまり情報ある他者として語られる。また同じ職業として物語に投じられた『ミンボーの女』('92)の宮本信子は、自身の過去を語り始めるや否や、物理的な暴力によって物語から退場してしまう。ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』('62)からベアの『火星転移』('93)に至る、思考する計算機の万能感に対する萌えも、情報ある他者との様式的な親和性において考えることができるのではないか。
注1
「情報ダム、決壊」を参照。
注2
「内語無内語ウサギのダンス」(指輪世界)を参照。また、本稿全体に先行する議論として、おなじく「阿鼻叫喚のサングラス」を参照せよ。
終わらない他者の物語戦略 : (TV) 『ああっ女神さまっ』 [1]
それは誰の視角で眺められた景色なのか、というお馴染みの問いをしてみると、このシリーズは主に三つの視点によって分割することができるだろう。螢一によって眺められた世界、ベルダンディの眺める世界、そして、それ以外の第三者の視角で語られる風景。先回の議論に基づけば、誰の内語が開示されて、反対に内語の明かされない、物語にとっての他人は誰なのか、ということでもある。螢一の内語で世界が語られるとき、そこに意図の不明な他人として現れるのは往々にしてベルダンディになるだろう。一方で、ベルダンディの内語で物語が誘導されるとき、その視界で内心の読めない他者として現れているのは螢一になるだろう。
諸キャラクターに対する内語の割り当てを制御することで人格間の力関係を語ることは、物語戦略の重要な課題だ。内語が開示されないことで、はったり効果による人格の万能感を語れるかも知れないし、人格の謎をめぐるスリラーにつながるかも知れない。あるいは、情報量の不足が恋愛の混乱を導くかも知れない。『ああっ女神さまっ』は、カルチャー・コンフリクトを主要なモチーフとしていて、螢一にとってのベルダンディ、ベルダンディにとっての螢一は、住まう文化圏が違うゆえに理解の及びにくい他者として現れる。つまり、人格情報の非開示は、混乱の基であるがためにネガティヴなものとして扱われる。
カルチャー・コンフリクトを語る本作品の視座は、標準的な商業作品のそれに従っていると見てよいだろう。最後のシークエンスでは、その話数にとっての他者が、自分の口から情報を明らかにして相互不信に終止符を打つことになる。例えば、5話のベルにとって、告白を敢行しようとしている螢一は、意図のわからない他者である。「告白」という文化の理解に欠けるからだ。だから螢一は、自分の意図を告白というよりも、むしろ解説せねばならない。それは逆に、螢一にとっても同じことで、そもそも彼が告白などをせねばならないのは、ベルの意図が不明だからである。相互の内語が物語の観測者には開示されながら、その情報がキャラクター相互に不明なこの話数は、したがって忙しげで、螢一の告白のあと、続けざまにベルによる情報開示が入る。ただし、この話数の多くは螢一の視角によってカバーされているので、力関係においてはベルの方が圧倒的に強い印象がある。他方、例えば、どこで螢一にチョコを渡せばよいのかわからない7話は、混乱するベルの視角の中で螢一が”微笑み説教”(情報開示)を行う。シリーズ全体を眺めると、『ああっ女神さまっ』は話数によって視角を割り当てる配分を変えることで、ベルから螢一へ、そして、螢一からベルへ力関係が転移する様を語り、また、個々の話数においても、完全に一方の視角で風景を眺めるのではなく、他方の視角を少しでも介入させようとする傾向がある。
かかる中和作用は、けっきょく、物語がカルチャー・コンフリクトのスキームへ倫理的に忠実たらんと志向した結果に他ならないだろう。が、ベルと螢一の関係に限っていえば、力関係の中和はシリーズ全体を通した感情高揚の戦略に重大な支障をもたらすはずだ。中和してしまえば、情報差によって語られうるはずの情緒が利用できなくなる。
螢一とベルダンディの物語は、同じ風景を繰り返し語り続けている。話数の最後で疎通に成功したと思えば、次の話数では、その理解が無効になったかのように、再び人格の不明が提示され、その解決に向けた努力が発動される。カルチャー・コンフリクトのスキームは、中和作用で壊される毎に、また何度も復活する。これはなぜなのか? 言い換えれば、どうして彼らは終わらない和解のために他者同士であり続けなければならないのか? 次回において、その事を検討することにしよう。『ああっ女神さまっ』における物語戦略の全貌が、そこでようやく見えてくるはずだ。