2005年7月の日記

 2005/07/05

時間と空間のアウトフレーム
『東京流れ者』

フレームの内にありながら、フレームの外を予感させるようなセットの構成というものを、『東京流れ者』を論じる際に検討した。セットを外面から眺めることができて、なおかつ、その観測点のある空間もいまだセットの一部であるような、そういう感覚に言及したのだが、この議論は、フレーム=セットを前提としていて、したがって、セットの介在しない野外のロケーションでは、フレームの内を覗くような感覚は困難ではないか、という問題が提起される。鈴木清順は、フレームの端々にパラを入れる力業で、その問いに答えてしまう。


東京流れ者

東京流れ者

東京流れ者


セットの外から眺めるかのような行為は、空間を利用した感覚だろう。ところが、上記のようなパラは、空間でもって語られるものではない。もっと正確に述べるのならば、セットの置かれている三次元のユークリッド空間にあるものではない。だから、渡哲也らが追いかけっこしている場所へ直にパラを配置することはできない。では、このパラはどこにあるのか? 解答は、渡どもを眺める光線が、レンズにぶつかり、銀塩を蹂躙して行った過程の内/後にあるだろう。つまり、それは空間というよりもプロダクションのプロセスで語られるものなのだ。

空間の一部を遮蔽するような不自然なパラは、視覚的には、あたかも景観をどこからかのぞき込んだような錯覚を与えるだろう。同時に、その遮蔽物は、フレームの内にありながら、しかし実際には被写体の置かれた空間にあり得ないオブジェクトであり、かつ、フレームの写し取った時間の外に広がっている、ポストプロセスへの意識でもある。そこでは、フレーム外への予感は、空間ではなくむしろ時間の感覚で語られている。

 2005/07/09

積み立て幸福破壊絵巻
ゴーゴリ 『外套』

thrillerを、幸福が破壊されようとする寸前/刹那への言及である、と定義してしまうのはどうだろうか。

『外套』でいえば、アカーキエウイッチさんが人気のない広場に差しかかるあたりがまさにそれで、追い剥ぎの可能性が示唆された途端に、あの外套は即日に盗まれるの〜!?――といった「イヤイヤだめだめ」感が奔流を始めるように思う。

この感覚は、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』('00)の“お金盗まれちゃうよダメダメ”シークエンスのそれとよく似ている。デイヴィッド・モースが、ついにビョークのへそくりを見つけてしまうあの場面である。私はそれを吉祥寺の映画館で観たのだが、前の座席に座っていた初老男性の方が、「あれあれ〜」と素っ頓狂な声を挙げたことをよく覚えている。つまり、それだけthrillingだったのだ。


『外套』とビョークのthrillerを共通して構成するモチーフを、取り敢えずここで列挙して検討してみよう。

  • 爪に灯をともす

    まずは貧困であること、次に、にもかかわらず、資金が必要になること。アカーキエウイッチさんは外套の購入、ビョークは息子の手術費のために。ちなみに、資金を積み立てる過程は、計画描画というエンターテインメントとして機能するだろう。

  • 計画はいいところまで行く。あるいは、いったん達成される

    貯め始めたばかりの資金を失ったところで、あまり凹まない。それは、もう取り返しのつかないところまで行かねばならない。

  • 達成された要件は即日に破綻する

    基本は、コストパフォーマンスが最悪のどん底に達するということ。ただし、獲得はできたものの、その効用を確認する間もなく欠損するのは考え物で、ゴーゴリは新しい外套を着用することで享受できたさまざまな幸福を語ることで、続いて訪れる喪失感を増幅している。

  • 喪失が新たな不幸の契機として作動

    発砲事故でモースは瞬殺されビョークに殺人嫌疑→death by hanging。アカーキエウイッチさんは感冒死。


もちろん、両者には違いもある。『外套』は一度達成された計画の物語だが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ではまだ進捗中であり、後者の方が傷は浅そうではある。しかし、外套の購入と息子の手術費では、計画が欠損したときの致命度に差がある、ともとれる。


最後に余談として、『CLANNAD』のことみを本稿の枠組みで検討してみたい。

ことみは、あるヴァイオリンを欲しがっていて、誕生日の贈り物に、友人たちはそのヴァイオリンを手に入れる。これはかなりあっけなく獲得される。ところが、目的を達成した歓びで浮かれる彼らを、二輪車がとつぜん襲いかかり、ヴァイオリンは破壊される。

本稿の議論からすれば、かなり野趣にあふれる情景なのだが、ここまであっけないと、かえって意味深に見えてきてしまう様な気もする。


 2005/07/13

アイム・ア・マン・オブ・コンスタント・ソロウ(後編)

前回のあらすじ】
謎の健忘症に日々の記憶を蝕まれるつつある男K。彼は妻を失い、汎用メイドロボを失い、白痴の難病娘を失い、そして今みさき先輩を失おうとしていた。


その日、通勤と帰宅の行程において、Kは恋に落ちること計7回に及んだ。一人はコンビニの前ですれ違った人妻で、ついでに、彼女の連れる幼い娘を見初め、混乱した。十分後、下校中と思われる女子中学生の大群に巻き込まれたKは、女子学生という概念そのものにのぼせ上がり、疲弊した。几帳面で偏執狂かつ変質者だったKには、就寝前に日記を欠かさずつける習慣があり、過ぎ去ろうとする本日においてフィーバーした女性の数、および容貌の特徴を記した。

とても人には見せられない、したがって突然死したりして他人の手に渡ったりしたらもう大変な日記帳は、健忘症の発病以来、思わぬ役割を果たしている。昨日の記録を眺め、自分を破壊したまたとない人々の顔を想起してみると、その時の情動が逐一、思い出される。ところが、一昨日まで遡ると、記録に対応するイメージはもはや浮かばない。つまり、今の時点で、Kが精確に追憶をなし得る範囲は昨日を限度とするということだ。Kは、その記憶の及んだ日数を頁の余白にメモらねばならない。それすらも忘れてしまうから。

Kは二ヶ月前へ日記を遡った。余白に七日、と記載がある。あの頃は、一週間分の恋に落ちた思い出を保持し得ていたことを知った。一ヶ月前に戻ると、四日とある。このように、記憶の縮退をある程度客観的に測定できる手法を開発してしまったおのれの才気に、Kは思わず感嘆する。しかし、直後、自分の自滅する様がありありと判ってしまったことに気づいて壊乱した。


Kをファナティックの体に突き落としがちな女性たちは、多くの人にとってそうであるように、共通してある顕著な特徴を兼ね備えているようだった。幼少期のKは、それはもう大変なる愛らしさを誇り、母性愛を持て余しがちなタイプのおねえさんを知らぬ内に骨抜きにしては、凄まじくかわいがられた。自分の恋慕の構造は、それらの甘美な記憶の惰性で、その多くが作られているようだ、と日記を眺めながらKは考える。

もっとも、その愛らしき幼少時代、リアルタイムに寄せられる恋慕の洪水に、Kが今日の彼の如くエキサイトしたということはなく、彼はそれを些か冷淡に受け取っていた。今から三年前に自決したKの父親は、幼きKと歩いているとき、血眼になって当人の謂うところの「まぶい女」を探索するような男だったが、そんな父の欲望する様を見て、お子様であるKは、感受する器官に欠ける情報が伝わった場合、それは気持ちの悪い無関心を呼び覚ますことを理解したのだった。

獰猛なる愛欲の衝動の末に命を絶った父親の血が、おのれの体の中を循環してることを思い知るようになったのは、いつ頃のことだったか。数日前の記憶すら欠け始めている彼に、正確な日時を思い起こす術はない。ただ、衝動の産声は、脚部への甘い痛撃とともに、彼の体の内に記憶されている。今から思えば、Kの欲情の一々に嫉妬を催し、彼の足に蹴りを入れ続けた脳内妹の出現は、彼の性的衝動の訪れとリンクしていた様に思われた。

全ての人々が、全ての事象が、Kの手元からこぼれつつある今となっては、思考という脆弱なる基盤に住まわなければならなかった脳内妹も、この世にはもう居ないし、また、彼女の断末魔が如何様なものだったか、何一つ覚えていない。せめて手掛かりはないかと、過去の日記帳を引っ張り出したが、三年前の日記に、『つまずいて、みさき先輩の胸に顔を埋める事態となりぬ。脳内妹、嫉妬すること甚だしく、ひたすらに暴行を加えて来る。萌へ』との記載を最後に、彼女に関する言及は途絶えている。推測するに、忘れた、という情報を感知する間もなく、彼女は何処かへ去ったのだろう。

恋愛は、過去の面影を未来と結びつける結節点のようなものだ。みさき先輩を始め、Kを幸福と不幸の絶頂に突き落としてきた女性たちは、その大概が、幼少の記憶の泡影である。けれども、あの脳内妹だけが判らない。彼女のみが、生得性と習慣の結合が産出したあの呪わしき傾向から著しく離れている。彼女は一体はどこからやってきたのか?


思い出を失いつつあることを知っている人がよくやるように、近頃、アルバムをめくる機会が増えたような気がする――、断定できないのは、やはり記憶に自信がないからだ。被写体は見知らぬ人ばかりで、日付を以て、それが誰なのか推測せねばならない。テエブルの向こう側で頬杖をついて、夢見る乙女のような視線をこちらに送り込んできている彼女は、恐らく、そんな遠くない過去に別れた女房だろう。多摩川(と記してある)の土手で、いい年こいてじゃれ合っているのは両親だろう。概して幸福なショットである。しかし、これが本当に、Kの過去を構成した事象か否か、記憶を維持し得ない今となっては確かめる術はない。ただ、わざわざKを欺くために、こんなものをでっち上げる暇な人間は居ないだろう、という曖昧な常識が、写真の信憑性を支えている。

本当の思い出と、偽造のそれを区別し得ないことは、案外便利なのかもしれない。今日の日記欄に、すごく綺麗なおねえさんを骨抜きにしてしまった、と出鱈目を書くとする。三日後の自分は、それが仮構であることをもはや覚えてないがゆえに、真実であると信じるだろう。Kは自在に思い出を作ることができるわけである。いっそのこと、日記帳全体を偽造して、大変なる幸福なエピソードで埋め尽くし、これまでの人生が如何に有意義なものだったか、未来の自分が考えるように誘導するのはどうだろうか。だが、それにはひとつだけ問題がある。過去の自分がすでに同じ発想に至っていて、今手にしている日記帳がすでに微妙な改変を被っている可能性もある。

Kはアルバムに目を戻し、頁をめくり始めた。面識のない人々の間に、見慣れた自分がはにかんで――彼はレンズを向けられると自意識の噴流から決まってそんな顔をした――混在している。しかし、頁が過去へ進むにつれて、その顔はモーフィングのように、彼の知らぬ、けれども何となく面影もある青年のそれへと変わり、やがて写真の状況から演繹的に判断せねば、被写体が自分であることが判らなくなる。ところが――、自分が見知らぬ人間へと還元されつつあるそのプロセスは、同時に、何やら好ましい感覚への近接も伴っているようだった。彼はその印象の正体を知るべく、別のアルバムを引っ張り出しては、頁をめくり、過去の探索に暫く明け暮れた。

Kは色褪せた一葉にたどり着いた。そのバストショットは俯瞰で、背景は芝生の地面に覆われている。未だ少女の面影の残る被写体は、夢見る乙女のような顔で「あ〜ん」と口を開けている。撮影者に食物をねだっているのか、あるいは撮影者が彼女の口へ何か押し込もうとしてるのだろうか。彼女の肩の向こうには、超絶的に愛らしい子どもが癇癪を起こしている様が見える。Kは、脳内妹の顔を思い出した。


 2005/07/16

恋愛と機能による人格面の識別
スタンダール 『パルムの僧院』 [1]

スタンダールは、人々の人格的資質を二つのエレメントに分割して描画している。ひとつは、具体的な実務能力である。たとえば、モスカさんもラッシも、自分たちの専門知識が欠けてしまえば行政に支障をきたすことを知っているがゆえに、立場のかかる優位性を利用して政治ゲームを行う。また、キレたモスカさんは、仕事のできる役人をすべからく恩給取りにすることで、上司のエルネスト5世に嫌がらせを行う。

こうした実用主義に加え、もうひとつ問題にされる資質が、恋愛の求心力である。異性を骨抜きにする素地が問われることになる。

ところで、恋愛と機能、この二つのパラメーターは、スタンダールにあって、必ずしも相互に連関するわけではない。つまり、仕事が出来るからといって、必ずしもモテモテになるわけでない。プラグマティズムの位階では、モスカさんの独走が著しく、その万能感が少なからぬエンターテインメントであったりする[注]。サンセヴェリナさんやエルネストさんもそこそこ常識的なのだが、サンセヴェリナさんはエルネストさんに対抗するために、モスカさんの助言をことある事に仰がねばならない。エルネストさんにしてみれば、モスカさんに辞められては、実際の行政業務に差し障りがでてしまうので、困ってしまう。逆に、莫迦主人公のファブリスは、この位階の最下層を構成する一人になるだろう。

しかしながら、恋愛のスキルが問われる座標系に移行すると、ファブリスの位置づけは逆転してしまう。この男の壮絶なモテぶりに合理的な根拠を与えるのはいささか困難だ。おそらくは、「天然系の美男子は母性愛の求心点になる」様式に準拠してるように思う。しねと言う他ない。

恋愛テクノロジーの階層で、ファブリスに続くのがサンセヴェリナさんだ。彼女は、モスカさんを狂わせ、エルネストさん親子を狂わせる。機能面での比較的高位なスキルを併せて考えると、恋愛と実用主義とのバランスにおいて、彼女はもっとも均整のとれたキャラだといえるし、それが彼女モテぶりを正当化しているように思う。ところが、そんな彼女がファブリスに乱心する。かくして、莫迦ファブリス>サンセヴェリナさん>その他大勢の階層秩序ができあがる。

ファブリスに対するサンセヴェリナさんの機能的な優位は、彼女にお姉さん属性を課すことになり、また、この関係が恋愛のカテゴリーでは逆転すること、つまり、サンセヴェリナさんの一方的な熱愛になりがちなことで、語り手はある古典的な様式を語り始めることになる。何を考えているか判らないドジ男にお姉さんがドキドキハラハラするような、お馴染みの様式である。スタンダールは、ファブリスに火遊びをさせては、サンセヴェリナさんを悶絶させる。ここにおいて、もはや、莫迦主人公の心理は重要ではなく(問題にしようとしても、理解を超えている)、むしろわたしども喜ばせるのはサンセヴェリナさんの心的な混乱である。この図式は、妹キャラのクレリアたんの登場により、増幅・多元化されることになる。



最近だと、この様式で印象的なのは『ギラギラ』(土田世紀/滝直毅)あたりか。

 2005/07/21

座標系が一致するまでのドキドキ感
スタンダール 『パルムの僧院』 [2]

モスカさんとサンセヴェリナさんは、機能系の座標において共に上位の方へカテゴライズされていて、その属性の親和性から愛人関係にある。もっとも、サンセヴェリナさんは、恋愛の階層でも上位にあり、その階級の更なる上位者であるファブリスに骨抜きにされることでモスカさんを嫉妬に狂わせる。彼女の人格の普遍性が、異なる属性の間で彼女を分裂させている。

妹キャラのクレリアたんに機能的な属性はあまりない。情緒系な彼女は、ファブリスのグループに分類されるだろう。そして、これまた同じ属性の故なのか、ファブリスとクレリアたんは相互にのぼせ上がり、それにともない、サンセヴェリナさんは、ファブリスの主観の内でお姉さんキャラからおばさんキャラへ移行する。


恋に発狂するクレリアたんを眺める眼差しは、160年後の今日にあって語られるギャルゲーのそれとあまり変わりはないように思う。

彼女がひどく赤くなり、薔薇色がどんどん肩の上のほうまで広がっていくのを、ファブリスは見た。彼女は鳥小屋へ来ると、暑さのため、黒レースの肩掛けを外していたのである。挨拶に応えてファブリスの抑えきれなかった視線は、娘の狼狽を増した。【新潮文庫版(下巻):95頁】


ファブリスの投獄イベントは、人々の属するカテゴリーを強調することによって、物語が語りたいものを明確にするようだ。モスカさん・サンセヴェリナさん組は、脱獄計画を練り始め、彼らの機能性を際立たせる。一方、ファブリスのほうは、脱獄しては“牢屋の女”であるクレリアたんと離ればなれになるので、あまり気が進まない。彼はおばさんに興味をなくしたのである。ここでお話は、機能的なものと情緒的・神秘的なものの綱引きを語っている。ファブリスに心惹かれるサンセヴェリナさんを必死に引き戻そうとするモスカさん、という図式だ。

もはや、ファブリスのモテ振りと衝動的な行動に理解を挟めないわたしどもとしては、モスカさんの“出来るおやぢ”振りに熱を上げる他ない。だから、機能対情緒の属性間闘争は、また、別の様式の物語を表出するようにも思う。近くに本当にイイ男(モスカさん)が居ながら、それに気がつかず見た目だけの男に熱を上げてしまうような、ああっその男はダメなのよ!――とも言うべきスリラーである[注1]

この様式は、政変イベントで宮廷人がことごとくヘタレになる中、独りモスカさんがその機能性を発揮し、格好の良いおやぢ振りが語られることで結実することになる。『どう考えても、あたしあの人と結婚すべきだわ』(同216頁)とサンセヴェリナさんはたちまちの内にモスカさんに骨抜きされる。おやぢの真価は非日常において試されたわけである[注2]


注1
このスタイルの格好のサンプルとしては、マキャフリーの『歌う船』('69)を挙げて良い。

注2
『タワーリング・インフェルノ』('74)のおやぢどもも参照せよ。

 2005/07/24

情報ダム、決壊
『マリア様がみてる』 [1]

『マリみて』の2話、冒頭で描画される祐未と聖のダイアローグは、ひたすらにPANを多用して情景を語りたがる本作の中にあっては珍しく、ほぼFixで画面が構成されている。たまにワークがつくとしてもほんの僅かで、なかなか禁欲的である。

PANとは情報への未練である、と言ってよいだろう。同じ単位時間あたりの情報量では、カメラが振れることで結果的により広い光の面積を体験しうるPANのほうがFixに勝るだろうし、何よりもその移動速度が、視野の抱く情緒のヒントになる。それなのに、どうして、2話の冒頭は、Fixによって語らねばならなかったのか。情報量が多くては、却って、物語の描画に支障が出てしまうからだ。これは、祐巳(=物語の観測者)にとって、この時点における聖がいかなる人格として顕れているか、という問いかけでもある。祐巳にしてみれば、聖は人格の見えない謎めいたキャラでなければならない。ゆえに、彼女に関する情報は制限されなければならない。言いかえれば、聖の気高さは、彼女に関する情報量の少なさによってもたらされている。

聖の人格描画をめぐるこの戦略は、しかし、第12話に至って破綻しているように思う。過去への言及による人格の立体構造化で、もはや語り手は、聖の人格情報を制御できなくなる。情報は開示され、身体は世俗化されて、謎めいた言動のレパートリーは、単なるボケボケ感のなせる技と把握されかねない。

語り手は、しばしば或る人格の過去を語る誘惑に負けてしまう。これは、物語がすべからく過去語りの属性を帯びる以上、仕方のないことで、むしろ問われるべきなのは、その語り方だろう。つまり、情報の流出をコントロールすることで人格を高める戦略[注1]は、人格の過去言及というダムの決壊に際し、いかに立ち振る舞わなければならないのか? 

その答えを検討するにあたっては、『少女革命ウテナ』の「第7話 見果てぬ樹璃」[注2]が参考になる。

「見果てぬ樹璃」で語られるモチーフは、いま本稿で議論している『マリみて』の「第12話 白き花びら」とよく似ている。前者から後者への影響関係を指摘しても良いと思う。ただし、決定的に違うところもある。人格の継続性に関する見解がそれで、聖の人格は、今日と過去の間にあって分裂している。回想上の彼女は、今日の彼女とは別人のようなものとして語られ、ゆえに、語り手は、そんな過去の彼女が今日の聖に至る過程を語らねばならない。ひるがえって、回想に配置された樹璃はというと、人格の継続性に聖ほどの亀裂は見あたらない。したがって、これは、人格が変動して今の樹璃になるとか、そういうフォーマットで語られるお話ではない。そこでは、人格は改変しうるものではなく、むしろ、common lawのように見出されるべきものとして扱われている。

先に言及したように、両者とも類似する主題、つまり、過去における恋愛とその挫折を語った。『ウテナ』では、発見という様式において、『マリみて』では、成長という様式を以て。そして、聖がもともと情報流出の制御によって語られてきた人格であることを考え合わせると、彼女の過去語りは、樹璃のように発見という同質の様式の下で引き続き語られるべきだったのであり、それを成長という別様式に転換してしまうと、繊細なコントロールへの志向は無効化される。結果、情報ダムは突如として決壊したのではないか。

また、これは『マリみて』にとどまる問題ではないが、肯定的な成長という様式が抱えてしまう普遍的な不信感みたいなものも考慮に入れて良いと思う。成長は、たとえそれがポジティヴな意味合いであれ、とにかく人格は改変され、その継続性は断絶する。人格の変動を否定的な文脈で用いる場合、たとえば、人格が墜ちるとか、そういう意味合いで語られるのなら問題はない。だが、それが成長として語られると、人格改変という否定的に語られがちな現象と両立してしまう。これは、一種の人文的な不安ではないだろうか[注3]


注1
情報流出のコントロールに関しては「人格に関する情報量の逐次的な累積とその問題点」も参照。

注2
脚本:榎戸洋司。コンテは細田守。

注3
関連する議論については「内なる侵略と喪失の経験」を参照。あと、これは前に指摘したことがあるのだが、カウリスマキの『浮き雲』('96)は、人格の改変ではないものの、イベントが幸と不幸を急転直下に往復する様を語る。最後の不思議な幸福は、事態の可変性がゆえの不安を示唆してしまう。『マッスル・モンク』('03)のアンディ・ラウも成長の不思議な不安という文脈で語れるかも。


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