2006年11月の日記
■ 『NEO EXPRESS』にみる恋愛の動態論――『サラリーマンNEO』
中田有紀のサディズムは繊細でむずかしい。
もともと、それは生瀬勝久の求愛に対して発せられた防衛反応であり、積極的な加虐とは言えなかったのだが、後になって、生瀬の反応を待たずに加虐が実施されるようになっても、彼女のサディズムには一定の留保が課せられる。後述するように、照れ隠しの可能性が否めないのだ。
中田は自らのサディズムに気づいたのではなく、また、知らぬ内に、サディズムの虜になったわけでもなく、実のところ、それは単なる防衛反応であり続けたのか。生瀬に放たれた彼女のサディズムが、物語の観測者による彼女へのサディズムへすり替わることで、ツンデレの標準的な作劇が現れたとは言える。が、語り手は更に先へ進み、嬉恥ずかしい恋愛の自意識は、やがて天然で何気ない幸福な風景へと至る。
以下、『NEO EXPRESS』で語られた恋愛のダイナミズムを見て行こう。
5/30 OA――2007年問題
6/6 OA――有給休暇
これもまた、生瀬の返答に寄せられた加虐ではある。が、先回との大きな違いは、生瀬が加虐の契機となるような発言をするように、自ら話題を振ることで、彼女が誘導を行ってる点になろう*1。先回の復讐戦とも解せそうであり、サディズムは目的ではなく、照れ隠しの手段として堕落しているようでもある。
8/22 OA――上司レーダー
生瀬の突っ込みに、中田は苛立つのである。もちろん、これではサディズムが成立しないので、彼女は上司レーダーを生瀬に近づける。けたたましい警告音が発せられ、嫌いな上司が生瀬であることは推測される。上司レーダーの画面には彼の名前が出てるはずだ。
だが、彼女が、携帯画面を生瀬に見せようとすると、携帯の蓋は直前に閉じてしまう。再度繰り返すがやはり閉じてしまい、図らずも中田のドジ性が暴露されてしまうとともに、その意思までも結果的に隠匿さてしまい、実際に彼女にとって生瀬とは何か、はっきりと判別できないように語られる。
9/5 OA――帰宅講習
タイトルからすでに理解されるように、サディズムの様式としては「有給休暇」と同じで、生瀬の孤独感が誘発されるような問いを中田が行う。答えて生瀬曰く――。
■ SAW [2004]
SAW
浴室のスリラーは維持されねばならぬが、持続するものはスリラーをスポイルしかねない。したがって時間は、浴室ではなく外部の視角を以てディレイをかけられねばならぬし、それ故に、物理法則の厳密な適用について、作品内で認識が別れ始めるのは致し方ない。言葉を換えると、外部の視角は劇中劇のようなもので、本編の物理法則よりは緩和されたメルヘンに、語りは制約されねばならぬ。しかし、それが理解されても、あるいは、最終的に作品との距離感そのものが誤誘導であったと合理化されるにしても、電話口の向こうでグダグダと銃撃戦をやるような、あの如何にもなB級ムービーを経験した事実は残存してしまう。
だから、ここで見受けられた、語りの技術的な美しさやうれしさとは、ミスディレクションの図解的な簡明さではないのだろう。かかる明快さのために、かえって犠牲の払われてる節がある。むしろ、スリラーの屍の上にようやく語られ始めた、男泣きだとか、犯罪心理への紋切り型の解釈だとか、そういうベタベタな人情劇への回帰を、納得ある物理法則へ定着させる技術が問われているように思う。
■ マルホランド・ドライブ [2001]
Mulholland Dr.
分岐のない閉塞したラインの物語でイベントのトレスを行うとなると、恋愛AVGとは違ってフォーマットの問題として、時系列の整序を刹那的に無視するわけには行かないし、また、トレース感の微妙な食い違いを愛でるにしても、物語はいずれ収束するが故に、分岐する未来の予感にどれだけワクワクできるか、些か心許ない。イベントのトレースは情報開示であり、他方でトレースの差異そのものも歓楽として語られうるのだが、同時に、差異は完全な情報開示を妨げかねない。
歓楽劇は、投げやり感を一種の文芸プレイとして処理でき得たのかも知れないし、あるいは、パラメーターの操作の末に、差異と開示の間で均衡点を見出し得たのかも知れない。ただ、かかる間隙を埋めるべく、人情芝居の猛烈な付加を認めることができれば、きわめて人為的で職人的な所作が見えてくるはずだ。
■ ラブ・アクチュアリー [2003]
Love Actually
エキゾチックな発話でモテモテになるメルヘンが、恋愛の困難を歓楽として活用する作劇に如何なる波及をもたらしたか、評価はむずかしい。困難ある恋愛はコント然としたメルヘンを引き立てたとも言えるが、他方で、メルヘンが堅実な生活世界をスポイルしたとも言える。ただ、メルヘンが、バーに駆け込むと直ちにゴージャスな女が待ち構えるような、改変力の伴う力場にまで到達してしまうと、ただでさえ散漫になりがちな群衆劇の統制に支障が来すのは明かで、したがって、SFを生活世界の界面に導く動機が生まれ、標準的な解法として、両義的な身体が要請される。少年の惚れた娘は米国籍なのだ。
もちろん、これを政治的に評価するのもありだろう。しかし、ここでの文脈で言えば、エキゾチックな発声に弱いとされた個体を長期間にわたって現地在住させたことが、文芸の合理化を担っている、とも解せる。耐性の予見が、恋愛のゲームを成り立たせてしまう。そこにあって、生活世界の浸透がメルヘンを緩和したようでもあり、また、それでも残余した希少なメルヘンが、ワクワク感のゆるやかな継続を謳うようでもある。
■ 男たちの大和 [2005]
浪花節が暴力の場と対面したとき、異質の思考による物語の分断は感ぜられるわけだが、他方で、時系列の差異をまたぐ、何のルックの落差もない頻繁なダイレクトカットが奇妙な時間の連接感と未分化を産み、見失われがちな被写体の認知が、中村獅童の奇声や、まるで『新幹線大爆破』('75)の炎上する喫茶店のような、唐突なる発作を以て、かろうじて継続されるに過ぎなくなると、浪花節と暴力をただむき出しに陳列する他ない事情もまた見えてくるようでもある。待たれたのは、中村や発作の総決算としての無慈悲なSPR空間だったのであり、かかる戦場の特異な時間がカットの平坦な連なりを遡って区切り始めることで、終わらそうにも形の見えない仲代達矢の時間が定義されてくる。