2005年9月の日記
逆媒介項 : (TV) 『ああっ女神さまっ』 [2]
ベルを眺める螢一の風景と螢一を眺めるベルの視界。カルチャー・コンフリクトのスキームに支配されたその視界の内で物語が語られる限り、そこからオーディエンスの被るドキドキ感は、恋愛の物語が一般に語るような「(/∀\)キャッ」という感じよりも、むしろ世界ウルルン滞在記なことになりがちだ。おのずと、私どもは彼らが恋愛というイベントを演じていることをしばしば忘れてしまう。反対に、螢一とベルが恋人同士であったことをいちばん想起させるのは、例えば、スクルドの視界から眺められた二人だろう。互いの視角では混乱しがちな彼らが、スクルドの見る世界においては、成熟した大人の関係にあるように語られる。そして、それは何かしらよそよそしい風景でもある。おそらくは、スクルドの心象によるものだろう。しかし、今ひとつ、そこで語られるほの暗い情緒に解釈を挟めそうでもある。すなわち、彼らは、他者の視角の中でしか恋人同士を演じられないのではないか。そうだとすれば、物語は、恋愛の実効した関係としての二人を世界に定着させるべく、第三の人格を語らねばならなくなる。人格描画の戦略をめぐる『ああっ女神さまっ』の特異性はそこにあるといってよい。
二人を他者としてオーディエンスの視界に入れるべく導入される人格は、先に述べたスクルドのものが指摘されるが、メインに考えるべきなのは、1話〜12話までの能登麻美子と、それを引き継ぐ形となるウルドになるだろう。能登は二人の関係を妨害することで、逆にウルドは焚きつけることで、ベルと螢一が恋愛の関係にあることを強調する。
まず、媒介人格としての能登の動機から考えてみよう。彼女の心理は、自分みたいなゴージャスな女に振り向こうとしない螢一に自尊心が傷つけられる感覚から出発している。これは、螢一を骨抜きにすることが報復になるとする認知につながるわけだが、やがて骨抜きをしようとする行為が、報復のためなのかあるいは恋に転化したのか、彼女の中で見分けがつかなくなり、混乱を招来する。ベタといえばベタな風景である。そして、ベタであるからこそ美しい。螢一とベルがとうてい語り得なかったものを彼女が語っているからだ。もっとも、それゆえに、能登は12話で媒介項としての役割をウルドに引き渡すことになってしまう。
12話のAパート後半に、能登とウルドだけで構成されたダイアローグが配置されている。カメラは癇癪をおこす能登のバストアップを狙い、次にPANでウルドの反応を捉え、そしてまたPANで能登のショットに戻り、以降、何度か同じワークを繰り返す。視角の配分をめぐる二人の闘争が、カメラワークのシーソーゲームとして語られている。この話数を以て、能登が物語から事実上退場せねばならなくなるのは、もはや彼女が、ベルと螢一を私どもの視角に導き入れることができなくなるからで、言い換えれば、能登は螢一しか見ていない。情緒の導出としての物語戦略を考慮すると、私どもはそこである種の逆転が起こっていることに気づくだろう。螢一とベルの関係が情緒あるものとして語られるために投入された能登――という図式が反転して、能登を刺激あるものとして語るがためのベルと螢一になってしまっている。だから、12話のラストショット、バーのカウンターで飲んだくれる能登のいぢけ顔は、本シリーズ最大の濡れ場になるわけである。結婚して呉れ。
本来は媒介すべき人格が逆に媒介されてしまう様式は、能登の跡を継ぐウルドにあっては、恋愛の成立に奔走する彼女の心理へ物語が接近を始めることで、実効するように思う。21話をケースにして、具体的にその適用のされ方を検討してみよう。
21話は、差別に言及する倫理の教材のような、ある意味で『ああ女神さまっ』の教育的な性格をよく表したお話といってよい。ただ、標準的なプロットから大いに逸脱する点は、ベルが種族の違いをものともせずウルドを受容した、ということ自体は情緒の高揚にあまり寄与していないようなところだろう。ベルがそういう壁を乗り越えてしまうのは、彼女が単に天然で社会的な文脈を読まないからであり、いわば当たり前のことである。が、同時に、ベルの天然は、螢一とベルというパートナーシップを語る際に語り手が見舞われ続けた困難の元凶と見てよい。天然であるがゆえに、私どもは彼女が最後までよくわからない。したがって、物語はその周縁に配置された人格へ視角を向ける。それは、ベルの天然をどのようにウルドが解釈したか、ということであり、そして、その解釈によってもたらされるであろう情緒へアプローチが行われる。
媒介者が反転したように、寛容の問題もここに至って逆転している。ベルが寛容か否かは問題ではなく、ベルのようなかなりアレな娘を受け入れることができるのかが問われており、しかもこの提起は、シリーズ全体の冒頭にさか登りそこに組み込まれることで、『ああっ女神さまっ』がそもそもどんなお話だったのか、私どもに示唆してくれるようにも思う。それは、簡潔に述べれば、次のような問いに還元されるだろう。つまり、私どもは、下宿の鏡からいきなり這い出てきた「お助け女神事務所のものデス〜」と井上喜久子声で発する、どう見ても尋常でない人間を受容できるのだろうか? ここで実際にオーディエンスが受容できるかどうかはあまり関係ない。少なくともそれを受容できた螢一の心理が、語られるべきものだったのである。
「春は馬車に乗って」
春
脳内妹の余命があと一年であると、Kは心理療法士から知らされた。桜のはなびらが庭先を染め始めた頃である。彼は物憂げに脳の走査画像を眺め、左前頭葉の“脳内妹野”に小さなシミが広がるのを認めた。脳内妹をこの地上へ降り立たせるための演算に脳はもはや倦み疲れたのだった。
脳内妹は、気がつけば縁側で丸くなっているような、元々よく眠る女だった。そのために、一日の覚醒時間が数時間に縮まるまで、Kは容易ならざる事態を悟ることはなかった。当の彼女は先ほどまでも、Kの不安を余所にどこかで眠り続けたらしく、今だ朦朧としている。Kは腹立たしくなった。
「君は本当によく寝る娘だ。感心するよ」
「誰のせいだと思っているのですか? 貴方をお諫めするのにどれだけの体力が必要なのか、貴方はちっともお解りになっていないのです」
――そして、こんなことを君にいわせるために、僕の脳はどれほど蝕まれつつあるのだろうか。Kはぼんやりと考えた。すると、会話を一向に返そうとしない彼に憤ったのか、今度は脳内妹の方がいらだたしげに声をあげた。
「貴方はいつもそうです。あたしのことも、他の人のことも、ぜんぜん関心がないのです。いつも自分のことばかりなんですわ」
夏
駅の裏手にある公園で、その年初めての蝉を聴いた。懐かしい音色に脳内妹も耳を澄ませていたが、やがてベンチの上へ横になって深い眠りについた。彼女の活動の収まりは、脳に対する負荷が免れる点でKに安堵を与えた。しかし、またあるひとつの謎で、彼を不安にするようでもあった。
おおよそにおいて、脳内妹の言動はKにとってよく理解されるものだった。彼女が自分の脳内の産物に他ならなかったからである。貴方は自分しか愛してない、という彼女の批判も的確なものだとKは思う。自分はこれまで無数の女に恋をしてきた。ひとえに、脳内妹の嫉妬を買いたいがためであり、彼女から寄せられる痛撃だけが、自分が自分であることを思い出させてくれるようだった。が、眠りにつかれてしまったら、宿主の彼としても、彼女の思考の検討には手が余ってしまう。外見を描画する他に演算は行われていないはずだから、その中身は空白の筈である。もっとも、それはあまり楽しくない想定なのだった。
平日の昼だというのに、子どもの声がする。夏休みに入っていたことにKは気がついた。自分はあの頃、脳内娘と戯れるような道を外れた大人になると想像したのだろうか。Kにはよく思い出せない。彼は、脳内妹が起きるのを待って、尋ねてみるのだった。
「君はどんな大人になりたいのだ?」
「貴方に初めて会ったときのこと、覚えてる?」
彼女は言った。
「あたしは、貴方のような人になりたいと思ったわ」
秋
脳内妹が時折咳をするようになった。新たなる現象にKは戸惑いを覚えた。脳内妹が生化学的な病魔に冒されることは、理屈に合わない。Kは、彼女の様子を子細に観察する内に、思い至った。自分の脳が、脳内妹の余命を視覚的にわかりやすくするため、余計な演算を始めたのだった。
咳は秋の深まりとともに頻度を重ねるようになった。こんなことに計算のリソースを割くくらいだったら脳内妹本体の延命を計るべきだと、Kは自分の脳内へ抗議を行った。けれども、彼の神経回路網は、そんな声が聞こえぬかのように、嬉々として謎の兆候に犯されつつある脳内妹というものを演算し、彼女本人を不審がらせた。
「このしつこい咳は、何かしら?」
「しっかり休養することだ。寝てれば直るよ」
「おちおち寝ても居られませんわ。あたしが居ない隙に、貴方がどんな女に骨抜きにされてるかと思うと、堪らないわ」
脳内妹は口惜しそうに言って、咳き込んだ。Kは背中をさすってやりたいと欲望した。だが、微妙な触覚のシミュレートを試みることが、彼の脳に過大な負担をかけ、結果的に彼女の余命を縮めかねないのは自明であった。彼女は、接吻はおろか、好きな男の手を一度も握ることなく滅びることになるだろう。殴るとか蹴るとかそういう野蛮な術を越える触覚をリアルタイムに演算できる脳を、不幸なことにKは持ち合わせていなかったのだった。
冬
初霜が庭先を覆った。脳内妹は衰弱し、短い覚醒の間にも半身を起こしているのがやっとだった。ときどき思い出したように激しく咳き込み苦しんだ。Kの方も、彼女の病態を演算するために、脳を窮乏へ追いやりつつあった。脳内妹が失われるのは、もともと脳が計算の負荷に耐えきれないからであった。その過程を演算するために、さらに脳が蝕まれて行く図式は、とうてい彼の理解が許容するところではなかった。
――どうして、こんなに彼我ともに苦しんでまで、彼女に形を与えねばならなかったのか。それは自分が正気であり続けたかったからだ。しかし、そのために脳内妹を生み出したことが、すでに正気ではない。その矛盾の帳尻が、今まさに合わせられつつあるようにも感ぜられる。けれども、まぎれもなく自分が狂気と折り合いを付けながら、今まで生きながらえてきたことも事実だった。だからKは、ただひと言、「助かった」ということを脳内妹に伝えたかった。だが、滅びの予感を確実に伝えるであろうその文句が、彼女にどんな影響を及ぼすのかまったく解らず、彼はただ恐れ続けたのだった。
通院先の心療内科からKが戻ったとき、脳内妹は未だ眠り続けていた。――彼女はシナプスの発火パターンの中で眠り続け、ある日、目を覚ましてこの地上に降りた。眠りの中から生まれた彼女は、また眠りの中にこのまま戻ってしまうのだろうか。
脳内妹は目を覚ました。
「あたしが死んだら、どこに行くと思う?」
Kは答えられず黙っていた。脳内妹は彼の顔を見詰めた。
「きっと、生まれた場所に還って行くのよ」
春
二日ほど嵐が続き、やがて陽気が訪れた。Kは、脳内妹を病床から縁側へ移した。彼女の身体は暖かな日差しに包まれた。
「一年ぶりの香りだわ」
彼女は両腕を広げると、陶然として春の大気を抱きしめた。
他者の自虐を誘起する言説としての他虐
21世紀初頭現在の『大喜利』は、メンバーの身体や性格的な欠落をあげつらうことで、様式的なコントのひとつをしばしば語る[注]。それは他者に対する攻撃として現れることもあれば、自虐という形を取ることもある。
9/4に放映された『笑天不良生徒自慢合戦』は、圓楽ではなく、メンバーが他の成員を指名してお題を出すという点で、ややイレギュラーな回だった。しかし、かかる自由度の高さが、他虐・自虐をめぐって行われるメンバー間の戦略を、より明示的にしているように思われる。今回はそれを検討してみよう。
『不良自慢合戦』で問われているのは、自虐の生まれる場所をどこに配置するのか、ということである。複数の人間を跨ぐ微妙な制御の物語と言いかえても良い。以下、三つの類型を見出すことができるだろう。
ニクい男の相対化 : 『ジパング』から『沈黙の艦隊』へ
テレビでは18話になるのだが、ガ島を離れようとする草加に、上陸したばかりの角松がエンカウントしてしまうシークエンスがある。そこで、角松は、草加の搭乗する九七式重爆を追いかけて咆哮し、対して草加の方は角松をほくそ笑みながら眺めていたりする。おそらくこの原風景と思われる場面は、『沈黙の艦隊』ですでに見ることができる。ムフフと微笑む海江田と海上ですれ違った深町が、もう辛抱たまらなくなってしまう。
生存実感 = 代替回復 : フィリップ・K・ディック 『ユービック』
前に、ジョニー・トゥの『暗戦』('99)を、想い出残留装置のサンプルとして議論したことがある[注1]。おさらいをすると、最後のシークエンスでラウ・チンワンが出会うのは、ヨーヨー・モンである。彼女は、余命の短かったアンディ・ラウの恋人であるが、そのアンディを追いかけていたチンワンとは面識がない。チンワンにしても同じである。したがって、この二人が街頭ですれ違ったとしても、当人たちに何の感慨もわくはずがない。けれども、結果的に、チンワンは彼女を通して間接的にアンディを回復しているようにも思う。彼らが何も知らなくても、物語を観察しているオーディエンスが覚えてるからである。
『暗戦』で語られたこのアイデアは、カーウァイの『天使の涙』('95)の系統に置かれるものだろう。ここでも、ミシェル・リーは、金城武がかつてのレオン・ライとつながっていることを知らない。しかし、物語の観察者はそれを知っている。また、もっとシンプルな例として、『時をかける少女』('83)を思い起こしてもよい。
物語が、喪失物を代替的に回収する際に注意せねばならないのは、それそのものを回復してしまってはならないことだ[注2]。だから、例えば失った当人を回復したとしても、彼には記憶の継続性がなく、こちらに関する情報が欠けていたりする。しかしながら、前述の議論で明らかなのは、片方だけでなく、たとえ双方に情報が欠けたとしても、人格の代替回収は成立してしまう、ということである。観察者記憶の冗長性が、そこで利用されることになる[注3]。
それで、ようやく『ユービック』の話題にはいるのだが、実はこれから行う議論は、記憶の継続性云々の話とはあまり関連がない。むしろ検討の課題となるのは、『暗戦』のチンワンがヨーヨー・モンと接触することで、私どもにもたらされる情緒の方になる。それは、今はもう確実に死んでいるであろうアンディがひょっこり生きていた、もっと正確に述べるのなら、アンディがチンワンの下を去った後も、一定期間とはいえ、何かしらの生活を営んでいた、というような感覚だ。人格の代替回復が生存の実感と連関している。
『ユービック』がキャラクターに設定する条件は、『暗戦』のランディと類似している。もう余命の少ないキャラがいて、対して、それと交渉する人格が配置される。ただ、『ユービック』の方は如何にもサイエンス・フィクションらしく、期限の迫る生存を「世界-作為的世界」の対比図式で語っている。彼が、演算された空間に置かれたのは、死につつあるがためであり、一方で、チンワンに相当するキャラは、リアル・ワールドに生存していて、のほほんとしている。ここで物語は、隔離された友情の典型的なプロット・スタイルを語っている[注4]。もっとも、友情は長続きしない。リアル・ワールドにいるコントローラーは、ワイヤードのプレイヤーが安楽に死ねるように、介入しているようなものだからだ。
けっきょく、イベントが消化されてしまうと、『ユービック』のコントローラーはラウ・チンワンの置かれたような情緒感覚に至る。つまり、ニクいあんちくしょうは、もうくたばってしまっただろうなあ、という感慨だ。そして、あたりを見てみると吃驚で、リアル・ワールドと思われていた空間が、作為的世界に転換されてしまっている。
例えば、鈴木光司の『ループ』('00)だと、作為世界による現実の侵犯は、スリラーとして扱われているし、『ユービック』にもそうした狼狽は感じられる。ただ、ディックの語り口は単なるスリラーにとどまらない。あのニクいあんちくしょうが全然くたばっておらず、それどころか何かでかい事をおっぱじめようとしているような、極めてアッパー(あるいは自棄糞)な形で生存実感が語られている。
注1
「思い出としての物語」を参照。「想いで残留装置」全般に関しては、キーワードを参照。
注2
「不可逆な思い出」を参照。
注3
関連するトピックとして「記憶を乗り越えた少女の物語(2)」を参照。
注4
「優位性の隔離型友情」を参照。
天然が眺めた風景 : (TV) 『恋風』
『恋風』は、基本的に兄貴の視角の中で事件が起こるお話で、妹の視線は補助的なものと考えてよい。ところが、本編におけるこの視角配分の比率は、オープニングになると逆転している。OP冒頭のショットは、兄貴の主観と思われるフレームの右端に、妹を俯瞰するカットではあるものの、以降、大半のカットは妹を捉えたミドルショットであったり、遠景ショットであったり、あるいは、彼女自身の見た目だったりする。これらの風景が兄貴の視角でないことは、OPの最終シークエンスで明らかになる。
本編上、兄貴の視角が圧倒的に語り手の対象となったのは、そもそもこの物語が、妹の心理を不明のもとせねばならない動機があったからだ。簡潔に述べれば、恋愛の力関係を語っているわけで、その意味では、ごく基本的なプロットのテンプレートに因るものだといえる。物語は当初、たとえば風呂場に脱ぎ捨てられた妹の下着を思わずクンクンしてしまった後にノイローゼになるといったような、実の妹に発情する兄貴の混乱を眺める。ここで語り手は兄貴の視角を追尾するのに一杯で、妹の視角に侵入する余裕はあまりない。
恋愛の物語としての『恋風』は、二つのプロットによって語られているようにも思う。ひとつは、先程述べたように、近親相姦をめぐる煩悶で疲弊するお話。これは、ある意味、自己の中でぐるぐる回って完結している心理の流れでもある。やがてこのプロットは、兄貴の内面情報が妹へ開示されることで、変容する。妹はもう兄貴にメロメロで、いわば彼女の心理がようやく明らかにされた形になるのだが、今度は意図が解明されたからこそ、逆にいっそう意図が不明になるという妙な景観が広がる。兄貴が近親相姦への後ろめたさで引き続き疲弊しつつある一方で、妹はそんなルールをものともしない。つまり、そこで、規則に準拠せず突入してくる彼女が、意図のわからない怪物のようなものとして現れてくる。兄貴の精神病理的な消耗も相まって、語り口は一種の恐怖映画の趣に移行したともいえそうだ。恋愛の対象がストーキングを始めるお馴染みの様式である。
さて、ここでOPの議論に戻ってみよう。結果的に本編は、妹を意志の計り知れない化け物だとか天然などと扱っていて、それだからこそ、彼女の視角はあまり語られない。よくわからないものを語ることはできないのだ。けれども、先述のように、OPでは妹の視角が兄貴のそれを圧倒している。しかもOPの最終シークエンスでは、彼女の視角から観た兄貴のフルショットが語られている。私どもは、ようやく、この娘が兄貴を、そして世界をどのように眺めているのか、その主観カットから知ることができるわけである。それで、この娘の網膜に兄貴がどのように映っているのかというと、私どもはそこで強烈な違和感にぶつかる。オーディエンスの知る本編の兄貴は、パッションや困憊といった極端な情緒で語られがちだった。しかし、今、妹の目で眺められたOPの彼の表情は、目線がどこにあるのか一瞬わからなくなるほど価値中立的で、敢えていうなら悟りきっている。あくまでそれが妹の視角であることを考慮すれば、兄貴の異様な表情は彼当人の心理に関連するものではなく、むしろ妹の思考の所産といえるだろう。物語は最後まで、それこそ当人の視角に侵入したときでさえ、彼女の心理を扱いかねたのである。