映画感想 [201-300]
クソ兄ちゃん三人組に共感できないのがつらいものの、文化系根性なし脇キャラの保全でバランスは取れてる。
ブルース・リー野郎に刃物を持たせるが、冗長にやや流される。
ニューシネマと動物物の最凶コラボ。
目を潤ませながら人を殴打しまくるトニー・レオンとフロントガラスを叩き割るチンワンが狂気乱舞。文芸なのか娯楽の失敗なのか、よく分からず。
アメリカの田舎はこわい。
愚痴の落とし所を注視すれば物足りないが、愚痴を魅せる技法の集積としてみれば美しい。
ベタベタなトレンディ・ドラマが後半になって剥離するまでの我慢だな。
テオ・アンゲロプロスなんかもそうなのだが、ワーンシーン・ワンカットではダレやすいかも。
寝不足の身にこれはきつい。
これまた教科書みたいな美しさである。でも最後の文芸モードでちょっとスポイル。
ナードがロケットも女も手に入れやがって、けしからん。
前半のラブラブで不安になるが、しだいに難病物っぽくなってええ感じだわい。
分隊映画なのに、リーダーの軍曹が突出せず散漫な印象がある。のどかなスプラッタが不思議。
女の情念は胃が受け付けない。
楽勝モードの連合国だから、体育会系男も余裕で妄想に走る余地もあるわけだ。と斜に構えつつも、スコットおやぢの愛らしさには抗えないものだわい。
劇場版背景や作画の情報量に感心しているうちに、人情が暴発するわけだ。
油断してると、文系vs体育会系話になるのだから、たまったものではない。最後、テッドと一緒に号泣した心優しき君は、私のお友達だ。
早回し香港映画の一発芸だな。フォーマットはそこで描かれる人格のあり方を変えてしまった。
『広島死闘編』を経て、発狂モードの千葉真一がたどり着いた最凶の地平。彼は死してなお、松方の胸中によみがえり物語を萌やす。
無銭飲食したサモ・ハンを暴行する店員が、カンフー映画特有の打撃音をバキバキ鳴らすので、すげえ強そう。意図せざる『発狂する唇』だな。
もし特殊能力がなかったら、ホフマンはトムっちに見捨てられたかも。ということは、地獄の沙汰も金次第、金の切れ目は縁の切れ目か。
思春期の迷走をクールに撮ろうとするが、香港人の熱き血がそれを許さないのか、どうしても情緒的になってしまうのだなあ。
どまじめなルックでスプラッタ、完全に狂ってるな。
矢吹二朗のラブラブ話、矢吹とその姉の兄弟話、千葉の家族話、千葉のチンピラ の悲惨話で物語が四方に散乱。
深作が文芸に走って無理をしたと見るか、70年代東映の多様性を見るか。
軍艦マーチで愚痴の温床を軽やかに突破しつつ切なさを煽りまくる職人芸。
濡れ場以外に小津ファンの目を釘付けにせしめる変なピンク映画
レスリーだから、どうしてアレな方向に行ってしまうわな。
コネリーといえども、ジジイがあんなモテモテになる訳ないやん、という不自然さが物語の信憑性を損なわせるようだ。
まだ熟成が足らないので、やけにみずみずしく恥ずかしい代わり、中盤、原節子の愚痴がうざかったりする。
冷徹なヴィゴ・モーテンセンが、『エースをねらえ』の教官だったという驚きというか、ハリウッドが“教官物”というジャンルを発見した記念碑的な作品であるな。
これもやはりレスリーだからな、という余裕では済まされない思索的ゲイムービー。
優作と志賀勝との熱い友情にひびを入れるダメ弟分に『今すぐ抱きしめたい』のジャッキー・チュンがかぶってイライラ。
ヒッピー村は地獄なのであるが、70年代映画なのでコミューンはやっぱり解体する予定調和。
タイトルどおり、オーソン・ウェルズが出てくるまでの我慢だな。
こんなおやぢの大漁も昨今では珍しいな。顔のニヤニヤが止まらん。
ライフルがすげえ軽そう。
香港病というものを、アクションの技巧にドラマの洗練が追いつかないと定義してもよさそうだな。
これまた欝だわいな、と鷹揚に構えていると、男の友情が大暴走、ついでに、父子の愛情大爆発、最後には駄目母ちゃんも蚊帳の外に置かれてたいへんであるな。
SWATが体育会系莫迦で信憑性がぶちこわれ。
FBI描写に爆笑。
悪徳牧畜業者に滅び行く悲哀みたいなものをついつい見出して、善人集団の新興農耕業者にいまいち感情移入が出来ないのが残念なところ。
女とガキは存在そのものが負け犬である。
こりゃいかん。
実写な演技ともろ2Dアニメなカメラワークにギャップがある。
陸上恐怖症の男が最後に船もろとも爆死する景気のいいお話。
緩急なしはつらい。けれども、その冗長なくして喪失感が語れたかどうか、それも怪しい。
これでようやく『鉄男』も娯楽化できたわけだが、ただしオチない。その辺に映像表現とテクストの間に横たわる、ジャンル的蓄積の壁のような物がある。
キャラの多さが湿度を低めにする代わり、掘り下げを中途半端にしてしまう歯がゆさがある。
上品だが、『もう頬づえはつかない』よりはまだまだ青い。もっと渋味が欲しい今日この頃だ。
別にアクションなんぞ見たくはない。さくらたんの日常芝居をただダラダラと見ていたいだけなのだ。なのに、劇場なのでアクションが日常芝居を侵食する居たたまれなさ。
中盤の体育系男泣きが勢いつきすぎて、最後は体育会系による文系いぢめに成り果てておる。
適度に陰気なトリップ映画というのも珍しい。
虐げられたおやぢどもの苦渋顔を存分に賞味できる至福のひと時だな。女と若者は性悪である、とする雄叫びも静かに熱い。
体育会系は車で電車に突っ込み、文系男は湖畔で静かに絶望する素敵なわかりやすさ。
ダレそうになると病状を悪化させる力技でもたせる佳作。
若者の悲惨な道行きには、やはり喜びを感じてしまうなあ。チブルスキーが陽気で何かむかつくということもあるが。
これはPTSDなのか、それとも元来の素質が戦場で開花したのか。その不明瞭の招来するライブな嘔吐感。
女房に逃げられた悲しみをプラモ作りでしのいできたおたく男の暗い闇が爆裂するあたりに、演出家の優しい眼差しがあるな。
アメリカ製アニメにおける兵器描写の水準について、一考を促してくれる。
トリガーハッピーなSWATがキレてるな。
愚痴とファンタジーが拮抗しておる。まあやがて、そんなことはどうでも良くなるワクワク感が到来するのだが。
一般常識として、健さんに70年代型へっぽこ若者・武田鉄矢がかなうわけがない、とは思うものである。けれども終盤、鉄矢が健さんに説教をかます価値観の転倒が提示され、物語が世代間の融和につながるところが、70年代の山田クオリティのワクワク感。気弱な態度が不気味な桃井かおりも印象深い。
極東アジア諸国の区別がついてない劇伴がイヤ。
金かけた説教は我慢して、美術鑑賞と割り切って突破。
エリオットがコント一歩手前のきわどいバランスだ。アルトマンは微妙な人である。
おおっ、ちゃんと物語が落ちてるぞ。
おたくはしょせん家に閉じこもってフィギュアでも作っておれという結論で終わらず、彼らと社会の間にかすかな接点を見出そうとするところが、バートンの優しさであり弱さでもある。
怪獣と比較できる建物が皆無の原野が舞台では、スケール感の現出が困難ではないか。
『ガメラ3』の“やればできるじゃねえか特撮”の後にこれだから、東宝の病は深いな。
正気を疑う邦題だが中身はというと、ドニーの底力とベタなお話がぶつかり合って、大変危ういバランス。
恋愛AVGが、複数の未来の分岐を作って、それらの間に生じる微妙な差異を愛でせしめるまで十数時間かかるところを、この映画は90分でやってしまっている。では、その効率の元で何が失われたのか、という損得勘定みたいなものにつながるな。
ここのスペイシーさまはおやぢの美しさの最たるものだな。死ぬかと思うた。その観点では、『アメリカン・ビューティー』の圧縮→破壊力増強版ともいえそう。
普段は警報音で隠匿されてる放送禁止用語が、実際にあからさまに謳われてしまうと、裏ビデオを見た中学生のごとくちょっと引くなあ。あの警報音自体がいかにコントとして機能していたのか証明してくれるようでもある。サントラは即買い。
警官がヒッピー野郎になったときの惨劇という意味合いでは、『グライド・イン・ブルー』と双璧をなしてるな。アメリカの警官はことごとく汚職まみれという魅惑的な世界観を、ルメット演出により大船に乗った心地で眺められる。
暴走する不幸な青年の救いなき結末に至る70年代的図式も、志村喬様の大人の渋みに抑えられてるな。いまだ挫折を知らなかった時代の刑事ドラマと言えそう。
やはりアメリカの敵は格好良く語られねばな。ただ、ヒッピー路線と思いきや、最後はめでたくみんなハッピーになるお話が腹立たしい。あと、何で米兵の弾だけよく当たるのだ? 練度の差を表現してるのか。
昼行灯おやぢはええのう〜と思わずうっとりである。が、あまりにもわかりやすい犯人造形は萎え萎えで、当初は恐怖の微塵もなく「楽勝ですな」と鷹揚に構えさせて呉れる。しかし、それがイヤイヤな罠だったりする清クオリティ。
関西○○会が進出してくると、決まって地元組織は恭順派(知性)と抗戦派(暴力)に分かれるのだな。それで、恭順派が勝つと、お話の色調は好戦派の悲哀みたいなものに流れ、反対に後者が知性を圧倒すると完全に狂ってしまって、いかにも東映らしい事態になる。『組長の首』は完全に暴力賛歌の方に分類されるだろう。文太も山崎努も最初からむちゃくちゃ。この暴走を楽しめるかどうかが鍵であるな。
知性的だった文太が暴力に蝕まれて行く素敵プロセス。実録路線がようやく物語らしい物語を語れるまでに熟成したとも言えるし、刹那的な娯楽の追求がやりすぎのあまり文芸に至ったとも言える。『県警対組織暴力』と並ぶ深作の頂点だな。
劇伴でかろうじて誤魔化したのか、このギリギリ感を文芸として愛でるべきか。
狙う者の悲哀感ではなくて、狙われる者の恐怖感を志向したところが実録ものとして新鮮。
それまでも、この人のお話は文芸に見えて実は娯楽で一杯だったと思うのだが、今回は、ホモセクシャルはヘテロになり、個人的病は広く共有され終末SFになり、しかも劇伴付き。ダメ人間が崩壊する世界に愛を見出しても無理はないな。
作品理念を貫徹しようとすれば、媒体のやけくそ的不統一性はまずいのではないだろうか。その辺は『カメレオンマン』『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『ありふれた事件』『Focus』の方が清々しい。
グレテシュール教授がエイリアン化したことで、ただでさえ希薄だったネチネチ度が払拭。もう泣きっ面に蜂の自棄糞ジェットコースター。
これ単体で見ると何事がおこったのかと絶句してしまうが、『コンタクト』→『ディープ・インパクト』と繋いで考えてみると、ヒッピー莫迦宇宙路線の流れとして、何となく納得できる。
北野武の投入によって、映画的不快としての喧噪する女・子どもにある程度の抑止がかかったところが、原作からの進歩と認めたい。
「戦争してえ」という制服達のやけくそ気質が、さもすると童話的境地に至りがちで楽しいものの、オチが自明で切迫感に欠ける。懐かしい兵器鑑賞会と割り切るべきか。
話の中心軸を担った分隊長が最後までヘタレ続けるイライラ感。『ハンバーガー・ヒル』からまるで変わっておらんな。
変なイデオローグなどの為でなく、ただ金に目がくらんで馬鹿一直線に嵐へ突入、玉砕するあたりに、妙なリベラル感が…って違うか。
最後は世代間闘争になって、虐げられたおやぢの情念が爆発。なんたる心理的開放感――というか度を超えすぎてドン引きする。
逃げた美人妻は商売女に堕ちていたあああ――というベタベタ人情活劇がヴェンダース文芸に潤いを与えて、何やら良さ気な感じに。
スナイパーとスポッターの禅問答に一時間を費やす形而上学大口径狙撃映画。安価なヴィジュアル・エフェクトで、空想度は天井知らず。
アメリカに対する憎悪がどんどん止まらなくなっちゃう辺りに、欧州人の想いというか、微笑ましさみたいなものがある。
男女の愚痴はちょっとアレだが、終盤で笠智衆を投入し、しみじみモードを確実に爆破炎上させる所に、職人の円熟した技と安心感がある。
スプラッタ表現で、青臭さを押さえ込む雰囲気作りが渋いのう。ただ、終わるべきところで終わらない冗長さが少しもったいない。同じ原作を元にする『JSA』にもそれは言えそうだ。
ジョニー・トゥ文芸が、ギリギリまで娯楽に近接した緊張感。
キャラが立ちすぎて興ざめしてしまう。滑走路で人間性を回復する奴はいないし、管制業務中に奥さんを口説き落とす奴もいない。
鉄ヲタの広末か、あり得ねえ。
論理的に完結した空間の構築に成功したか否か、それが巧拙の差につながってるっぽい。