映画感想 [301-400]
記録映画っぽいのに、ステディカムでぐるぐる〜と奇妙に熱い。
メガネ君の二次元愛癖を何気なく暴露させるあたりが、岩井の勝ち組気質のイヤらしさだな。といつつも、後半の二元構造が切ない奥行きをほのぼのと増幅させてくれる。
これは案外にもハックマン老の生き様が眩しいジジィ賛歌。NSAの描写の悪質なファンタジー度も、後半、FBIとの対比で生きてくる。
オリエンタリズム大暴走。ヴィムはガイジンだった。
加藤雅也が兄貴を飲み込む破綻構成や自家中毒な銃撃戦が、凄まじいベタのことを堂々と格好良くやってしまう玉砕シークエンスと拮抗する微妙さが危うい。最後になってオマー・エプスが現金主義者になって、ちぐはぐな印象
一定の水準にあるポスト・プロダクションと、規模の大きいフィジカル・エフェクトに関するノウハウを持たない現地ユニットの間隙、それが産んだのどかなドンパチと童貞臭漂うお話の奇妙なハーモニー。
ホプキンス様鑑賞会を、どうでもよい変質者話が妨害。
視点が醒めているため、さもすると地味になりがちな気配を“ドンパチ・幻想・人情・動物”によって必死に変えようとする努力。しまいにはトリップが誇大化して、質素に現実を浸食していく構図も風情がある。やや難のあるフィジカル・エフェクトを、良好なサウンドエフェクトで支える技術的図式は、90年代後半における映画周縁国の特徴になりつつあるようだ。
むかつくアメリカ女に対する反動でハウアー様を応援するが、終盤になってドイツ人の民族的トラウマが暴走する中、ハウアー様が根性なしに。テレビ映画ながら、ファシズムの視覚的効果を堪能できるところがお宝度高し。
原田知世話の妨害工作にもめげず、“90年代の末にもなって今さら何をやってるんじゃ”なニューシネマへちゃんと至ってしまう坂本順治の変な力量。
ホモ・セクシャル及びシスター・コンプレックスのアミューズメント性に支えられたさくらワールドは、その後のTVシリーズにおいて、娯楽の王道たるへテロ・セクシャルな選択肢を追加的に手に入れてる。その成果を基に本作が作り上げた“異性愛・同性愛・妹大好き”の三重螺旋行動がなかなかに手堅く転がしてくれる。すごいスケジュールで作った割には破綻も少なく、同時期、某劇場作品を手がけていたデスクを密かに悔しがらせた。
組織的結束が遅滞しながら発現し、それまではやや愚痴が多い。メルヘン度の高さが、かえって現実を強調してしまう恐れもあり、何となく不安だ。
漆黒の中世を理性の光で照らし出そうと意気込んだジョニー・デップが、逆にその暗闇に飲み込まれてしまうバートン的予定調和に、ヘタレがなぜか異性の関心を被ってしまう不条理が拮抗する。爽快に吹っ飛んでいく首級の数々によって、思ったよりも暗くならないのは、さすがというべきか。
ツァイ・ミンリャンの「女なんぞ救ってやらん」精神が軽やかに暴発。
今日のハリウッド大作が、いまだ超えることのできない60年代の壁。終幕のやけくそ度がリメイクを軽く超える素晴らしさ。
サイバーパンクの成立が高円寺の路地裏を近未来にする遙か以前にこの先駆性。それがゴダール的停滞と大綱引き。
“濃い女どもの愚痴(=反娯楽性)”を“交通事故死・薬物中毒・免疫不全症候群(=娯楽性)”が猛追撃。
語り手と物語の距離感によって抑圧された情緒が、エンドロールで大暴発、喜ぶ。
素人臭い警視庁第6機動隊特科中隊の体たらくに泣く。身内争いがなかなか終わらず興ざめする。
秩序を阻害する武闘派に対するいらつきが、やがて時代に取り残され敗北していく男たちへの感動に変わる物語の軌跡がうれしい。無限に格好いい終幕に失禁。
刑務所へ護送中の童貞 meets 創○学会…。このぶっ飛んだメルヘンを、ニューシネマのフォーマットへ堅実に定着させてしまうアシュビーの力量。
頑固な平田昭彦と怪しい中国人・フランキー堺の織りなす牧歌的風景をひたすらに楽しむだけの一品。
いつまで経ってもアマチュアから抜け出せない彼らの向こう側に、ヘタレは一生ヘタレのままという語り手の怨念が浮かび上がる。
身もだえするほどの凄まじい恥ずかしさがやがて快楽へ変わる。それは、人間性が地に墜ちる瞬間でもあった。
無尽蔵の破壊が残す哀しいまでの明朗さ。
不幸を呼び寄せる自閉女が、壮絶な社会的洗礼の末に、ヘタレ脱却を目指して娯楽の大通りをまったりと邁進する汚れ物恐怖映画。藤山直美と劇伴の案外なマッチングが、阪本文芸を見事にエンターテインメント化。
過剰にいちゃいちゃして、うらやましい。
倒錯的女性優位SFが文系男を滅ぼす様がつらく、後味が悪い。
人情を大量に投入したのに、莫迦宇宙路線(『コンタクト』とか『ミッション・トゥ・マーズ』)に組みせず妙に枯れてしまうイーストウッド文芸。バカになれるのは若者の特権だ。
食を求めて森を放浪する役所と、行動が理解不能で格好良すぎる大杉のこじんまりとした抗争が、なぜかセンス・オブ・ワンダーになってしまう子どもらしさに至福を感じる。世界の破滅に理屈などいらない。
ソン・ガンホに萌えるだけの一品。男の友情を鈍感なスイス女が木っ端微塵に破壊していく過程が凄まじい。
啓示で人を殺す不可解な動機に移入は難しい。ジジイがんばれ。
まったりサスペンスの果てに、ちょっとした人情の爆発。
「静寂な撲殺は男のロマン」と作り手の想いがあふれるのはよいが、本編と予告の落差が一億光年。詐欺だ。
潜入捜査は裏切られる友情と大銃撃戦のべたな温床だが、早々に身分がばれるため、人情追及の徹底が中途に終わり、肩すかし。
男は女よりも友情を選ぶべきだ。その友情が世界を救う、素晴らしい、という映画。スケール急速拡大の快楽がややあり。
青春を謳歌する若者はひとり残らず地獄行きである、と結論づける教訓映画。村落共同体の迷惑な足の引っ張り合いのかいもあって、不快はとどまるところを知らない。もっとさわやかに破滅して欲しい。
ガキとジゴロを使い、スピルバーグ文芸が精一杯の泣きアプローチ、潔い。
『女優霊』の柳ユーレイがまたしても酷い目に遭うあたりに、怖いと言うよりも世知辛い世の中を感じる。
常人には何をやっているのか理解不能な戦闘力で、人力追撃戦が展開し、早回しで首の飛ぶダークな世界に、音響効果さんの暴走が諸行無常に響きわたる。親玉が弱い『グラディエーター』方式は無念。
痛すぎて体育会系が没落する予定調和が楽しめない。
楽しさのあまり飽和状態に陥る後半は、中華料理責めに苦しむ「江南旅情と上海・蘇州・南京5日間ツアー」の日本人観光客を彷彿とさせる。キックとおしりだけでは、90分もたないのか。
九九式艦爆が現用艦スプルーアンス級をなぜか爆沈。「日本爆撃!」と威勢はよいが結局日本上空でぼこぼこにされる嬉しくも訳の分からない物語と、完全武装の日本兵約一個分隊を、超人化したB-25乗組員が全滅させる景観に、迷える体育会系男、マイケル・ベイの苦悩が見えてくる。
トムっちとウー先生の自慰行為が激突で手に負えず。『ワイルド・ブリット』より1万光年軽いのに、表層だけは濃縮になってしまったいびつな進化が、おかしくも悲しい。
「ジジイとババアは高得点」とエコロジーな視点であるのだが、レース委員の轢殺以降、 死の平等みたいなものへアプローチしてきて、ある意味深淵であるな。
自閉、電波、宗教、大杉漣。90年代後半の娯楽シーンをやけくそにぶち込んだ末に成立したのは、ダメ人間の心温まる救済と敗北の物語。哀川の怪演でワクワク感増幅。予告はアンチ・エヴァむき出し。
“さくら+社長+とら”のレアな組み合わせ等、全盛期を迎えた山田洋次の職人芸を楽しむ。というか巧妙すぎて、結果的に寅次郎が人情から疎外されてしまう。
愛を語るひろし。逃亡への願望を語るひろし。思わず妊娠しそうだ。
志村喬だけで腹一杯なのに、詰め込み過ぎかも。
とら屋住人の会話がメタフィクションになるまでに先鋭化。寅は愛欲を制御できず、壮絶に恐慌。寝込み、そして、恥辱のあまり「殺せ」と絶叫する。その裏で人の生きる証について語り、恋の病を論じるひろしが暗躍する。これ以上に何を望めと言うのか。
中村雅俊がとら屋を爆破炎上させる回。中村の壮大な奇態行為は、当初、寅を飲み込んでしまったが、後半に至り寅は巻き返しを計る。渥美清とゲストキャラの力量関係が均衡している頃のお話。これ以降、ゲストキャラが山田世界を圧迫し始める。
冷静な寅などいらない。永渕め。
律儀にCICへ潜って戦術指揮させるあたりに、語り手の成長があるな。
撮影がいつもの田中一成ではなくて、今泉尚亮の方。彼のフレームは狂騒を遠くで見つめる不思議に冷静な視点を語り、単純なジャンル映画が妙な文芸気分へ。
負のスパイラルを遅滞しながら下る物語進行と言うべきであろうか。“悪行→懲罰→悪行→懲罰・・・”の繰り返しは、『サタデー・ナイト・フィーバー』の一進一退構造と似ている。
寅の暴言に泣くひろしにもう夢中。
行くところまで行ってしまうかと期待していると、結局しんみりとした平衡に至り、破滅のカタルシスがあまりない。
停電、心の傷、悪天候、飛行機故障と不幸すぎる。こんな湾岸戦争最盛期のAWACS機のような環境下で新人を独りにする発想がおそろしい。本当に最後にならないと、チームの娯楽的な一体化がやってこないのが残念かも。
萌え話、挫折す。
津川の暑苦しさが、日本人の民族的トラウマを増幅。
よろづ屋の若旦那になりてぇ、と一部の鑑賞者をエキサイトさせる渡哲也に、吉永小百合のシュールな熱狂が襲いかかる。邦画、完全崩潰。
ラブ話の多重構造に物語が振り回される。金持ちの小娘に感情移入は不要。とっとと死ぬがよい。けっして、“死なない程度に蹴られたい”と思ったりしてはいけないのだ。
ルーカスもわかりやすい男である。ヘタレ男(メガネ)に、異性の好意をかわせ、体育会系男には小娘をあてがい、悦に入る姿が目に浮かぶ。しかし、この構図にも飽きてきたなと思っていると、後日談でいきなりヘタレへの近親憎悪が突発。ついでに、体育会系男抹殺。業が深すぎる。
物語が、局地的な事象として処理されていて、娯楽の一要素である社会化・世間化が示唆の形でしか表現されないので、何となく地味。
強固に見えたおもちゃのコミューンは、たわいもなく崩壊し、そして簡単に復活する。そのフレキシビリティが不安をかき立てる。
「書斎へ逃げ込む」と痛い表現で、文系批判。そして男は、血塗れの殺戮の末、自立を果たす。野武士は百姓に撃退された。清涼感は微塵もない。
体育会系が頭を使うと惨劇が起こるというヴァーホーヴェンの教訓映画。ただ、文化系が頭を使うと時として世界が滅びるが、体育会系ではそこまで至らず、こじんまりとした準密室ものに物語が落ち着いてしまう。そのスケールの小ささに、そこはかとなく、体育会系(=アメリカ)へのヴァーホーヴェンの愛が感じられる。
Are you living in the real world?
ちょwwwww
何でもNSAのせいにしやがって、と文句をたれつつ、NSA文系男どもの虐殺に涙するのだった。
たまには野菜食え、と思っていたが、実際のところ食っても無駄らしいという統計が出て絶望したのだった。
ムスタングの30分耐久自己破壊がほのぼの描かれ、世を儚む無常観が現れる。
文系のヘタレなテロリストに、鬼のごとくジョージ・クルーニーとFBI一派が襲いかかり、善悪逆転。深遠な主題をよそに、クルーニーはキッドマンといちゃつき、物語を浮かせる。
ここまでマンガになると一種の前衛であるな。
大地康男が「俺はブルース・リー、しばらく放浪していたぜ」と現れるお話。オチがやや弱いか。
ニコちんの善行への衝動を愛でよう。
物語は現実の物理法則を適用されないので愉快であると考えるが、ここまで破行するともっと重力や慣性を尊重してはとかえって変な心配がわいてくる。
キャラがばたばたと爽やかに死んでゆく“あっさりヤマト状態”に、「この世はそういうものだ」と明るい諦観が吹き荒ぶようだ。
ただただ部下を殺していく寒い連帯感が、狭いはずの潜水艦を妙に広々と寒々しく見せてしまうから不思議だ。
サラリーマンは抹殺せよ、な叙事詩を高らかに歌い上げる序盤に、「スピルバーグはわれわれの味方ではなかったのか」と戸惑うが、最後はやっぱり『わらの犬』になってしまう爽やかな予定調和。
ウー先生路線に与せず手堅くまとめる。派手な感動はないが、ほのぼの渋くてまったり気分。
ヒッピーと戦意高揚、あるいは家庭と仕事。通俗的に考えれば、トレード・オフの関係にあると思うが、メル・ギブソンは戦争しながら義理の妹をスケコマし。パーカッション・ロックな大時代映画よりも、ギブソンのまめ男ぶりに感嘆。
やっぱり、ラブラブ光線だったのですね、ちくしょうめ。
異性の好意を買いたいと卑しく思うのだが、半白痴・万引き癖・自殺願望な娘に熱愛されるのもどうかと。結局、かような物語を鑑賞すると、この世界は何と業が深いものかと逃避を行う様になる。
しかし、そんな奥行きありげなお話も、70年代東映の手に掛かってしまえば、発狂化した市民の皆殺しカーチェイス大会になり果てる。終盤の狂騒は『デスレース2000』が知的に見えてしまうほど壮絶で、開いた口をふさぐことに困難を感じる。
場合によっては自滅も辞さない中年親父どもの内紛劇に、莫迦若者三人組がとばっちりを受けておろおろおろおろ。終幕は限りなく頭が悪い。
有機体化の行き着く果てがスケコマシという身も蓋もなく正直な物語。
相変わらずマンガであるが、フランス人のまったりアクションは不思議な感じだ。
戦場でらぶらぶ光線を拡散させる若者達の強靱さに呆れる。『戦争のはらわた』から30年の停滞が哀しげだ。
いくらおやぢ好きといっても、全裸で川を遊泳してじゃれ合うのはどうかと思う。
東映まんが祭りの枠組みをまったりと越えようとしてやや挫折。
説諭を我慢して、「M113市街地暴走→逃走物→監獄物→脱出物→人情」とちゃんと娯楽映画してるところが偉い。英仏語をしゃべれる奴は、善良である可能性が高いと主張する物語。
組織結集・共同体形成の快楽がまったりだらだら、変な間延び。
けっきょく敗北しているのに、ラブラブいちゃいちゃ。やさしさが足りない。
囲は深刻顔なのに、非人間的な破壊力を誇るリー・リンチェイ一派だけラブコメ脱線ゲーム。真面目と滑稽の脳梅な釣り合いは、東洋のリュック・ベッソンことツイ・ハークの真骨頂。
反社会的な逸脱者が善人の共同体に押しつぶされる哀れな話だが、ババアが憎うて憎うてそんなことは微塵も感じない。
アル中ヘタレ、出所後自殺。善人おやぢ、所長と弁護士に全財産を奪われ脱獄→蜂の巣。金城武、発狂してやっぱりウォン・カーウァイ化。
なんですか、これは。
後年の和製アニメの追随なんか許さないスクランブルのシーケンスや、仲代達也のぶらり困った一人旅だの、ダンディズムにあふれるのだが、扱ってる主題そのものがとんでもないという複雑さ。終幕の自棄糞は爽快だ。
先任参謀・池部良と航空参謀・平田昭彦の最強おやぢタッグに失禁する一品。というか、こんな空母沈むわけはないと思うのだが。円谷特撮よりもむしろ本編へ目が釘付けになる年頃なのだ。
理科教師ができないことをやってしまうため、原発内の描写で時間が断片化。菅原文太は怪物化。中途半端なために、映画がマンガとリアリズムの狭間で苦悶している。
ああ、あの斜に構えつつ何げに情緒を爆発させてやるぜい、なヴォネガットの心地よいイヤらしさがすっかりそぎ落とされて、ご機嫌なロイ・ヒル節になっておる。
こんなドジなレクター様は、俺様のレクター様ぢゃないやい。