映画感想 [501-600]
「生身の女」か「フィギュア」か、という二者択一が簡単に止揚されてしまったとき、これが最初から敗者ならざる者の物語であったことに気がついて空しくなるわ。むしろ、世界観のファンタジーな広がりに楽しみを見出すべきか。
天然ボケともうろくの断絶する理解と泣ける人生の交差。脳味噌を手に入れて興奮し、カンザスの酒場で演歌を熱唱する狂気の世界。
200年後に目覚めてみたら、ヒッピーが世界をのしてたという地獄絵図。ただただ明るいラグタイムだけが浮きまくり。
哀川&大杉の暗黒おやぢゾーンに飛び込んだ若手刑事の見たものとは? 重い余韻も哀川の核弾頭な歌声によって一瞬にして溶解。素晴らしい。
JACを率いて悦びの絶頂に達した千葉様が『地獄拳』並みに力みすぎて物語は見事に自壊。人馬の死体で築かれた山の上で、松方弘樹の怪演が満開の花を咲かせまくる。
感動は「虚構」だの「現実」だのという議論を越えた所でわれわれを待っている。
「友ある者は救われる」
すいません、友だちいないのですが…。
「日頃の訓練を生かせ」と説諭しても、頭が筋肉で出来ているので覚えておらず遺留物を残しまくり。ハックマン老、余り役に立たず。出来ないことのない米軍のジャイアニズムが、更なる男性化を目指すのは、鑑賞していて愉しいものの意味はない。
自閉症演技で冒頭十五分の内に頭の軽めな小娘をスケコマせたものの、後に主導権が逆転しておやぢが娘にめろめろに。渋いおやぢへの道は遠く険しい。
邂逅の大騒ぎの中で独りすごい形相をする澤田謙也にフレームが寄る度に、予想される惨劇にドキドキさせられる良質のエンタテインメント。
物語の半分を覆う執拗な過去描写が友情の勃発につながるあたり、たいへんな快楽ではあるが、敢え無い結末がその熱い友情に応えることが出来ず、やや欲求不満。三隅研次が完全にキレて血の味を覚えるにはあと十年ほどの歳月が必要なのであった(そして、その味を覚えたとき、彼にはあまり時間が残されていなかった)。
スケコマシはスケコマす対象者に対してその気が喪失した途端に成功の可能性を飛躍させるという「スケコマシ問題」を彼はついに発見して、意識的にスケコマさない態度をとっただけなのか。それとも人格的成長の結果がスケコマシにつながったのか。しかし、やがて映画はこの二者択一をこえて行く。
たるい今時の邦画ですねえ〜、などと油断していると、いつの間にやら霊感商法企業が年寄りのトラウマを利用して大儲け。調子に乗って、よせばいいのに三橋達也のトラウマまでも刺激して逆に返り討ち。終いには皆殺しで帰還兵物狂い咲き。
重すぎる男汁と目が腐りそうなくらいきつい青。物語が画面を支えきれない。
loserを「オタク」と訳す字幕作成者のセンスに大泣き。
今にして思えば、小市民な山崎努がいつラブホテルの経営に手を染め脱税を始める(十三キャラ化)のか気が気でならない不安感がある。
「手を叩く」を合理化するために、泥臭いスコアを大投入、腹一杯。
ジェダイとかフォースの様なオカルトに頼りすぎるから、セキュリティが大甘。影武者を何人殺せば、そのことに気がつくのだろうか。
娘の狼狽が始まってようやく勝負だな。なんか結構萌え萌えするぞ、くそったれめ。
劇伴だけで見事にもたせやがった。
身体の凄惨な解体を合理づける為にしか、そこには物語が存在していない。描きたいものを明確に認識している演出家は発狂気味で、何気なく首が転がる度に鑑賞者の理性も床に転がる。
「部下の罪は指揮官の罪だあ!」
「隊長! 俺達といっしょに戦ってくれえ」
「隊長! 武器を渡してくれえ」
「隊長! 口惜しいよ」
隊長! 発射するのはらぶらぶ光線ぢゃないですよ〜
またしてもイーキン・チェンのもてもてつけ払い映画。様式の極致を逝く終幕に腰が破損。
彼の銃はFA-MAS
2カット後にAK 要リテイク
傍観者の映画。ただでさえちぐはぐな作品のトーンは、mortarに「曲射砲」という字幕をあてる戸田奈津子の懐古趣味によって、さらに錯乱。
居住まいの正しさが普遍性を勝ち取るが、代わりに歪な高揚が棄却されてる。
ソフトフォーカス強な舛田らぶらぶ攻撃とさだまさしの熱唱電波攻撃に曝されて悩乱し、三船敏郎の前で幼児プレイをする仲代達也に丹波の開いた口は塞がらない。
「身寄りのない薄幸な娘」への節片淫乱症が相も変わらず暴発。
ライアン夫妻の場違いならぶらぶ光線が、おやぢたちの愛と友情と憎しみ合いの物語を融解。おかげで恐怖は大いに緩和。
過去発見の過程にドキドキわくわく。しかし、発見された過去は幸せ家族不幸計画で、「こんなもの発見したくないよ〜〜」と青ざめ。とばっちりを喰らってしまった井伊家のおぢさん達の方が仲代よりも可哀想に見える物語は、小林正樹の強迫神経症な演出の貢献により、ほとんどホラー映画と化す。
澤田謙也オナニー劇場。どんなものにでもすぐに無理な笑顔で反応してオカズにしてしまう兄貴に目の遣り所が困ってしまう。
佐々淳行オナニー劇場。しかしながら、自信満々な自慰はおやぢ同士のみっともない内部抗争に巻き込まれて翻弄され萎えて行く。その様子がたいへん愉快に見えるのは、演出家の勝利なのだろうか。痴話喧嘩の片手間に若僧どもを絶滅させる中年おやぢの過剰な精力が輝かしい。
資本家への憎しみと軍オタ精神が究極合体して、早すぎる破片へのフェティシズムをぶちまける時代の徒花。
長尺で変化に乏しいカットが鑑賞者の意識を持続させるのは、過剰な環境音あってのことだが、次第に生活音が孤独の海のざわめきとなって人々をゆっくりと飲み込んで行くいつもの文芸パターンで安心。
ヘタレ男が不相応に美人妻をめとるからこうなるんぢゃい、という鑑賞者の奇妙な余裕も、マクレガー兄ちゃんに間髪入れず投入される不幸の嵐にやがて崩落。ヘタレを追い込み虐め殺し上げて行く90分間を気持ちの悪い「ドキドキ」感が軽やかに走り抜ける。
「好きになってはダメなのよ〜〜」と我慢汁なニコちんであったが、やっぱり善人回路発動。嗚呼、ウーせんせい。
弱小なヘンリ・フォンダ一派の成り上がりが気持ちよいが、成り上がった末にそれまでの多数派はマイノリティに転落。善人の群集するフォンダ軍団に圧倒され、次々と押し潰されて行く頑固おやぢどもの散り様が美しい。
至る所でトラウマに来襲され、遠吠えをあげるニコちんの善良振りはもうひとつの娯楽ジャンルだな。薄幸な娘がたいへんかわゆく、神経症になったニコちんが思わず手を出すのも無理はない。
善人三国連太郎をいぢめ放題。案内人の娘にらぶらぶ光線を発射する余裕の健さんに安心な丹波哲郎。一方、雪中で現実逃避を頻繁に突発させ、若大将に中隊を乗っ取られるけつの青い北大路。役者を見ただけで展開の読める素晴らしさ。
おやぢ天国に違和感の固まりを散布しながら浸透して来る特車二課の若僧どもの方がよっぽど化け物じみていて恐怖を感じる。若者しね。おねいさん大好き。
優等生がらぶらぶ光線を浴び放題で、しかも人生の動機が欠落気味。ディズニーランドのアトラクション並に対岸の火事。
コバーン様が仕事もせずに酒浸りで格好いい。皆が皆、陰惨な顔でニューシネマ最果ての荒廃へまったりと突進。失禁ものであるな。
変態が度を超えて人たるをやめていくハードSF。ツイ・ハークの病的なサービス精神が物語の論理的秩序を完膚無きまでに破壊し尽くして鑑賞者の理解を拒絶。
俺様のおともだちと思っていた娘が、蓋を開けてみればアレでナニで敵だったと云う案外な様式。ナードのお兄さん、無罪で良かったねと一安心……ほへっ?
クルーニー様の厭らしいスマイルを眺めておれば、「これは失敗する訳ないぢゃん」と安心感がわたしどもを包むわけで、娯楽的な不安感消失。クルーニー様の仕事そっちのけらぶらぶ光線の方が、一億倍不安。
万引きしておねえさん先生を困らせたり、海で溺れておねえさんに人工呼吸されり、若妻に「うちの子にならない〜♪」なんてことを言われたりと、煩悩が炸裂しておるの。
何処から見ても変態の殺し屋にしか見えないジュード・ロウにトムっちが浮き足。冥府魔道が恐ろしく正直に理解されて、ほのぼのファミリームービーに。
「ベースはcoolだぜい」と云うおやぢがステージで何気なく脱臼。むさ苦しいおやぢのかたまりが90分間脱いで騒ぐのは至福と云えば至福なのだが、あまり目の保養にはならない。
殺人的な垢抜けの無さが、生ぬるい風を吹き込むたたずまい。最初から幸福な家族に復興も糞もないのではないか。
物語がプロジェクトXを語り始めたときの高揚感と、それがまったりと大失敗してしまう口あんぐりな気分が楽しい。プロジェクトとは関係のないところで戦場を架ける友情もいつの間にか崩壊したりする戦場蝉時雨な文芸志向。
わたしどもだって、体育祭の時、応援席で独り鼻糞をほじりながら本を読んでいた口なのに。どうして、どうして、体育会系の優しいおねいさんに愛されなかったのか知らん?
かわゆい娘に童女愛好心をくすぐられた事も幻影だったのは哀しい事かも知れないが、そちらの方に展開せずに、ナッシュ均衡がブロンドのおねいさんで労せずお気楽にアレでナニで個人的ショックなのよ〜とか、プリンストン大がどんどんヒッピー化して逝って面白すぎるとか、妙な詰まり具合をしている所が、アメリカ文明の度量の深さと云うべきなのか。
危機迫る→支援攻撃要請→皆殺し→やったぜい!→再び危機迫る→支援攻撃要請→皆殺し→やったぜい!のループ。アメリカンな戦争のやり方をとんでもなく正直に描いてしまったが故に悲壮感がぶっ飛んでしまった際物。
ネット社会に付帯するアングラなイメージを爽快に嘲笑う完璧社会順応ライフを送る様では、緩やかな『天国と地獄』が関の山で小賢しいわ、と強がりつつも初めてのOFF会はとっても恥ずかしい物ですよ。
デューク真田が結局は無敵状態で何となく安心。この安堵感が娯楽かどうかは、難しい問題であるが。
スピルバーグの嬉し恥ずかしニューシネマ。『バッドラン』と同様、若僧が若さ故に破滅の浄化を演出できない。
PTSDとイベントの束を調和させて至った終局でのトラウマ再現は、鼻につくまでの計算高さの産物である。が、同時に鼻につく臭気をかき消せるほどには計算高くはなかったのかも知れぬ。
「電脳=おたくまみれ」。その安易で的確な発想が凡人の不条理な超人化を促すとき、鑑賞者は疑問符の海に投げ込まれる。それは、香港映画に於ける永遠のテーマであり、且つ悲劇である。
一生童貞のままランディが死んで、涙で視界を曇らせる映画。
貧困の為に出稼ぎをする中井貴一の行動原理が、妙な美意識にすり替わって安定せず、迷惑な話になりがち。中井よりも巻き添えを喰らって困り顔な三宅祐司の方が哀れ気味だ。
エリートな楽団が悪循環でなかなか実力を発揮できない炭坑的なお話。英国ブラスバンド界の水準は斯様な底抜け脱線チームに栄冠を呉れてやるほど水準が低いのかと錯覚するほどの負志向振りが良くも悪くも旧世界風。
都合がよすぎる。
このわからなさというのは、中年女性の男日照り願望が金銭の関係無しに充足する世界はきっと理解不能に違いないというライターの哀しい悪意か。
一般に婿養子を語る物語は、経済的保証とその代償としての束縛される精神および行動のトレードオフを巡る苦悶を描画する。普段の人生に於いて、この苦悩は生活に対する潜在的で漠然とした不満感を形作るに過ぎないが、やがてどちらを選んだにせよ絶望的な期待値の待ち受けるこの選択肢を決定的に顕在づけるイベントが到来し、人格に人生の動機が与えられる。つまり、物語が誕生する。彼は意思決定に伴う様々な不快に巡り会いながら、ひとつの人生を決断し、選ばれ得なかった可能性を放棄せねばならない。そして、姑息な手法によって選択を先送りした人間には罰が与えられる。それもまた、ひとつの物語を形作る。
選択の先送りを罪と見なすこうした価値観の裏には、決定感覚の自律性に重きを置く神話がある。選択の機会を与えられながらそれを行使しなかった者への非難の眼差しである。だが、それとは別の価値観があっても良いだろう。例えば、経済的保証と自由の両者を獲得しうるファンタジーな物語があっても構わないだろう。山中貞雄はそんな寓話の中に、婿養子の行動的自由が百万両の価値と等号で結ばれる事を考察する。
幸福なファンタジーはトレードオフを解消し、現実の生活から夢見がちに乖離する。時として、それは鑑賞者の興醒めを引き起こすこともある。しかし、人格造形が巧く行きすぎた場合、逆に幻想的な幸福感が鑑賞者を嬉々として横転せしめる事がある。深い感情移入の結果、移入の対象になった人格の幸福は、容易く感情高揚を誘起する。その場合、物語に於ける全ての不幸は、来るべき大団円を規定する為だけに存在する事になる。物語の人格たちは父親を殺され、金を盗まれ、自宅に軟禁される。その不幸は途方もない勢いで幸福なる終局を計算高く形成している。
怪奇へのごく即物的な恐怖が、過ぎゆく人生を傍観するしかないもっと根元的な恐怖と出会い、最後は厭な溶け混み合い。悲劇に異様な前向き加減で立ち向かって泣きを誘う役所広司も、神主コスプレをした哀川翔という非日常の最たるものにとどめを刺される一夏の物語。
物語の求心点が、他者に求心点を求めて彷徨い、求心点が自己にある事を気づかない。気づいた所で、ぎりぎりで立ち止まる。青春のもどかしさが、ヒッピー集団(ヒッピーではないのだが、エリック・カートマン的に見れば同じ様なもの)の知的水準を高校生並みと暗に定義づけてしまう痛快な救いの無さに心が殺伐。
理屈で解釈は出来ても生理的には理解できないものを物語の中心に置いておけるはずもないから白痴映画は哀しい。ライター、演出家は周縁に配置された人格を立てに立てまくるが、余りにも立てすぎて、「弁護士のおねいさんらぶらぶよ〜」とか「娘かわいすぎ。童女愛好者の気持ちがわかるぜい」などと云う雄叫びが、仕舞いにはあんなおやぢから娘を引き離してまえと物語の高らかに歌い上げる倫理観とは逆行する感情へ結実する居心地の悪さにそわそわする一品。
不幸に巻き込まれても、下手に知恵があると彼はそこに文明批評を見出してしまう。童女愛好者な渋いおやぢは、愛するロリ娘が淫乱であっても動じない。そして死に際に理性の光を人生に降り注ぐ。
バスの運転台に座っている役所広司を見れば、直後に破滅がやって来るのは火を見るより明らか。それを察知してバスを去らなければ、人生は終わる。
小生意気な若僧と兄貴を追い出して、カタストロフの終わった静かな世界を宮崎あおいと二人っきりで小旅行。ほくそ笑む役所の暴走は止まらない。
未来の実感は減少して行く選択肢の幅と相関にある、と考えてみよう。例えば、物語の序盤に於いて、わたしどもは描画の始まったばかりの世界に対して、幾通りもの解釈の幅を想起するのかも知れないが、その終結に於いて、詰まり未来に於いて、わたしどもに去来する解釈の幅は冒頭のそれと比較して限定されるだろう。未来を実感しつつある人生は、齢の消化に伴う可能性の逓減とも云える訳で、この未来感は些かネガティブである。
『回路』と同様に、黒沢清の描く現代の成長物語は、優位にあるとされた周囲の人格のダウナー成長によって、いわばその相対性を下に達成されるという点で、不安な爽快感がある。煽りな視点の向こう側に居るはずだった浅野忠信や藤竜也は、共にクラゲへの執着が人格の限界性を示唆し、俯瞰される視点の下に置かれる。しかしながら、それに恍惚となる藤竜也は幸福そうでもあり、執着、詰まり選択肢を失う事が必ずしもネガティブにはならない感もある。彼が可能性を失って未来を生きるのは、何事かを獲得した代償に於いてかも知れない。
未来が未だ至らず可能性が解放されている事は、結局、何事も獲得し得ないと云うリスクと隣り合わせでもある。シニカルに考えれば、その可能性の方が高いとも云えて、未来を生きるわたしども(物語全容を把握しうる位置にある鑑賞者は、物語から見れば未来を生きている)は、かつて経験したその気持ちの悪い不安感を思い出してドキドキしてしまったりもする。しかし、物語が自身を自己完結の環に閉じこめつつある一方で、同時に可能性の解放へベクトルを向けようと足掻く様は、わたしどもがまだ未来を知らず、不安に苛まれていた中に見出していた、今となってもう忘却してしまったポジティブな何事かを想起させる様でもあり、それが演出家の優しさの様にも感ぜられる。
竹中直人の様な、明白な男色指向は軽快な笑いの下に置かれる些細な滑稽でしか過ぎないかも知れぬが、関係が精神的に浄化されて逝き、即物的な関係から浮揚すればするほど(ついでに映像も抽象化)、洒落にならない世界に突入する訳で、実に危険と云わねばなるまい。
決定・結論づけられないまま焦りすら忘却する人生と上映時間の問題。
神経回路網に鎮座する抽象的な現象としての物語は、物理的な表現の様式をもって実体化せねばならない。そう考えるのであれば、物語の在り方が、それにふさわしい表現を規定すると云える。一方で、表現を可能にする媒体を実現する為のコスト、詰まり俗世界の決まり事が、物語の実体を宿すべき媒体に対して選択の枠を作り、物語は媒体に適合すべく姿を変える事もある。心的な世界と俗世間のかかる均衡が、他者に共有される姿としての物語の誕生するところである。
しかしながら、現実は複雑怪奇な事に、俗世間ではなく演出家の技術的冒険心なる欲望が、表現の在り方とそれに相応しい物語の姿を見出す事もある。すなわち、モンタージュの欠落に由来する長大なワン・カットと云う和製商業アニメ演出家の夢が世界を規定する。
ところが、話数を重ねる内に、欲望を下に表現された物語は崩潰する。モンタージュは復活し、世界は継ぎ接ぎになる。物語を規定していたはずの欲望が、ついに物語という悪魔に飲み込まれてしまった瞬間である。
当事者の近視眼的な視点では、無計画で行き当たりばったりで訳の解らない成り行きも、終わってみれば一寸の隙もない秩序の広がっている木立の向こうの不思議な空と間抜け面の微妙な対比が微妙。
価値観を共有しているはずだった彼女が、理解の不能な世間であった時、自我の危機を乗り越えようと欲するのが『アニー・ホール』であるが、如何ともし難ければ、自己の所属する価値への危機が暗い困惑を産む。そして、途方に暮れた彼は、別の世間であった筈の人間に自己を見出し、そこですかさず文明批評。らぶらぶである。
かの世界観の素敵なる所は、せかいを発見してしまうまでの成り行きを語る物語にあると思うのだが、発見の先にある肝要のものが、孤独を忌避しようとコスチューム・プレイに興じる新興宗教団体と云う妙にプラグマティズムな香りのするたちの悪い冗談であって、さすがアメリカ人、考える事が違いますね〜と変な感心の仕方をしてしまう。物語を笑劇にしたくない日本人演出家は、せかいを発見する物語に逃げまくりで、ピーター・チョンのみが如何ともし難いコスチューム・プレイへまともに立ち向かい、しかも善戦していて立派だ。
実世界への異常な関わり合いが、物語を産む方策であったとしたら、物語はその存在の契機を得る為に、彼の現実への接し方を規定しているのかも知れぬ。
東海岸な意味合いでのハイカルチャー・サブカルチャー混交体世界に於けるセクト間の紛争がいつもの様に物語を構成するのではなく、それとは全く異なる価値観が演出家の所属する場所を照射し、其処に軽い違和感がある。同質相互の争いは、その同質性故に、深刻な理解不能の壁を意識せしめていたのかも。
去来する自己消滅への恐怖は、他者への信頼とその結果による有効な繁栄戦略への期待、或いはそれに伴う自己肥大が未来へ解放される感覚に代替されうるものであり、そうでもしないと人は生きて行くのが難しいのだが、不具の身体によって、代替の可能性を失った男は、死を神経症的に恐怖して怯え続けなければならない。しかしそんな敗北者にも、如何にも物語的と云う形容が似合う形で救済は突如やってくる訳だわな。
官憲の過剰な空想力をダシにして、高倉健、松方弘樹、成田三樹夫、丹波哲郎、三国連太郎が『AIR』をやってしまう情景に、喜んで良いのか恐怖しなければならないのか全く以てわからない混沌の地平。
ミアの娘に手を出した報いぢゃ。
執拗にワンカットで甲斐甲斐しく汗まみれに労働するおやぢ集団の身体を捉え得た事が、偏に演出家の情熱的なおやぢ愛の賜物と断言して然るべきなのは、終幕でぶちまけられる若僧やっぱりダメダメな世界観により、結果としておやぢの素晴らしさが強調されるのを観ても明かであり、取り敢えず「情けない奴め」と云う他ない途方に暮れるおやぢ賛歌。
触れ得ないと思っていたものに接触の感覚を得た時の驚きが、『降霊』や『回路』の幽霊にある訳で、其処に抽象物の物理転換する様がある。斯様な転換はある種の精神的成長をも物理的に表現することを可能にしてしまい、崇高な人間成長の物語は、一転して過剰な成長の莫迦らしさと素晴らしさを高らかに歌い上げ、座席からのずり落ちを鑑賞者に誘引する様だ。
レッドフォードが150分間スケコマし続けた果てに勝手に自爆する愛と哀しみな果て。
人間はイヤらしいもので、知恵がつくと文明批評(説教)をしたくなる。しかし、説教に熱中してしまうと、テクストに因らないで何かを表現することの出来るこのメディアの素敵なる所を忘れがちになってしまう。
ここの佐分利信に転がるためには、まず『お茶漬けの味』の洗礼を受けなければなるまい。
自閉するガキをスケコマすのは容易だが、おかんは難易度が上がると云うジャック・ニコルソンの嘆息みたいなものか。コミュニケーション・チャンネルの開閉に関わる問題ではあるものの、どうにも教科書的にセラピー臭く、せっかくの難病物も乗れない。邦題を『愛と哀しみの果て』と間違えた。
『発狂する唇』は論理的整合性の面で拡散を目指す物語であったが、今回は逆に混沌する世界を意味づけ秩序づける物語である様で、意味の不明が招来する笑劇が、笑えなくなって行く成り行きに興味をやや惹かれる。
「何気ない天気の会話に熾烈ならぶらぶ光線の応酬をかますのが大人という生き物なのだ。わかってるのか原節子ぉぉぉぉぉぉ!!!!」
作品とは直接関係のない演出家の個人的な情念が、またしてもアグファカラーの素敵な青空に響き渡るのであった。
高校生活をひっそりと教室の隅で送っていたわたしどもには、余り自己投影の余地のない物語であると云えそう。ただ、最後の最後、机上に上がれる生徒とそれの出来ない者との対比で、お話に残酷な奥行きが広がる様に思う。着席を続けざるを得ない猫背の俯いた背中達に、あの頃のわたしどもを見つけて、嬉しくなるではないか。
帰還兵や刑務所帰りは、たびたび集団的な心理療法みたいなものを波及させるイヴェントの契機になるから気を付けよう。
プロのおやぢがへっぽこになって行く余り麗しくない景観。肉弾戦をついつい指向してしまうやっかいなスナイパーによって、リアリズム崩壊。しかしながら、ファンタジーという程キレてもいない。
神経細胞まで筋肉で構成される体育会系は、コミュニケーションを取るにもいちいち肉体を用いなければならない。肉体言語のユートピアと云えば聞こえはよいが、何か意思を疎通せしめようとするたびにミュージカルに興じなければならず、物語はその都度進行を中断せざるを得ない。結果として、ほとんど原初の感情しか映画は語れない。考えられずに感じるだけ。ネジ一本抜けた哀れな老人を『残酷ドラゴン・血斗竜門の宿』ばりに三人がかりで虐め殺す後味の素晴らしさが浮きまくる。
コスチュームプレイで肥大化した腐女子と棄てられた障害者が互いにつぶし合うと云う…こんな非道いものが商業ベースに乗っかる不可思議。演出家のバランス感覚(まったりファンタジー気質)の賜物だが、それは同時に限界でもあって、破滅の快楽に至る前に物語はいつも中和してしまう。そして中途半端な絶望ほど気持ち悪いものもない。
突出しまくる全米ライフル協会の性格造形萌え。最後の大ボス、チャールトン・ヘストンが腰の悪いただの年寄りってのがもっと萌え。演出家の尽力によってほとんど異世界のメルヘンにしか見えない。出来の良いドキュメンタリーたる所以なのか。
過度の普遍化に拡散された人生を、一個人の動機へまったりと集約して、人格を物語に取り戻す二時間の努力と、それをわずか1カットで灰燼に帰せしめる東条英機のコスプレをした竹中直人の犯罪的な違和感。篠田先生、今回は大丈夫ですよね(ドキドキはらはら)…(5分後)…ああ、もうだめぽ、な感傷も含めて楽しめる案外な詰まり具合で、単純な見せ物見物としては有意義な時間だったかも。
立場を異にする政治的アクターの取引、妥協、協調と、ミクロな政策決定過程の教科書みたいだな〜と云う所感が、後半に至って覆される娯楽風味。政治ゲームの介在できない事のイヤイヤさがたまらん。これは大陸的ファシズムの普遍的な景観と云うよりも、特異なリーダーシップ下の例外的な状況なのだろうなあ。
殺人という如何にも物語な非日常が、ウディ・アレンの仕様のない日常に吸収合併で、容赦のないほのぼのさ。
まあ人生が痛いとか、嬉し恥ずかしでいや〜んなラストカットはともかくとして、クレジットに突入するそのタイミングが映画として気持ちよいではないか。
無責任と男気が抗争するツイ・ハークの寂しい背中をバックに、ウォン・カーウァイの童貞臭いギャルゲーなシナリオが効力射。恥ずかしい。