映画感想 [401-500]
高踏的な外見が娯楽を外さないうれしさと偉さがある。ただ、人の内面に入り込んでしまうと、やや踏み足の感があり。人の思考の扱いは、テクストと比べてしまうと、映像が苦手とする方面なのだろう。
ヘンリ・フォンダのお気楽米軍とパットンに鍵十時をつけて“タイガ〜”とはしゃぐ独軍が、本来であればヘタレ伍長と大佐殿の泣けるお話になり得たものを破壊。戦勝国映画は難しい(しかし、敗戦国映画は往々にして洒落にならなくなる)。
演技者にとって実存的な世界と演技者が演技をして構成する世界が混同し、後者の圧迫ともとれる暗示的な古典落語。カーウァイの語彙力がギリギリのところで物語を支えている。
説明長台詞アタック。邦画の見果てぬ悪夢は終わらず。
もっとも怖ろしい壁は雪山ではなく、松嶋菜々子であった。
災厄のなかで超人化してゆく苦悩あるおやぢども。萌えの極地である。
「うそつきめっ」――、萌えしぬ。
作品内で、何気なくジャンルを換えてしまうあたりが感動の職人芸。
知性でヘタレを隠蔽する行為自体がすでにヘタレ。
ジャンルを変えることで、前作のショックをうまく逃すところが巧妙。本作だけ見れば、これはどうかと思われる場面もないことはないが、そこから『新・仁義の墓場』→『極道恐怖大劇場・牛頭』の流れを眺めると、微妙な進路変更で行き詰まりを回避する三池の運動が見えるようだ。
普段は枯れているのに原節子の婿が決まるや、妙に活性化する笠智衆萌え〜が不安なのだが、後はしみじみ予定調和でちゃんと浮かせる職人技。
これもやはり『お茶漬けの味』の強烈な洗礼を受けないと難しい。逆に、それを知っていると、もう佐分利信の一足一挙動に辛抱堪らなくなる。
アラン・ドロンよりおやぢどもをもっと見せろ。
天才を目の当たりにしてしまったときの、畏怖、羨望、憎悪、そして、あきらめの笑顔。
ヘタレ体育会系への哀愁と文系への賛歌。軍部(体育会系)がかなりヘタレているため、かれらと文官(文系)の力量が均衡しているところがポイント。群衆劇であるがゆえ、物語を牽引する強力な人格を持つ単一の主人公は存在しないが、代わりに文系のおぢさんたちが総体として“文系”という抽象人格を形成して大突進。冒頭から絵もシブ過ぎ。
アッパー化したヘタレ女のさわやかな惨劇とそれをやさしく見守る中年おやぢ、ハーヴェイ・カイテル――と恐ろしく素敵な物語であるはずなのだが、どうも乗れない。ヘタレ女どものモテモテなのが原因であるな。
白痴は、白痴であることをやめなければならないときがやって来ます。そうでないと、白痴ではないオーディエンスの理解を超えるからです。また、理解しがたい集団の中に、理解し得る人格を発見したとき、彼は鑑賞者の感情を物語に引きつける求心力となり得ます。
白痴映画の確立された定型にとても忠実であったため、本作はまっとうな娯楽映画として成立を見たのですが、同時にそのことは本作の限界を規定します。白痴人格の肯定を、社会的に健常と認知される人格の白痴性を明示することによってなし得る物語は、白痴が白痴をやめようとする瞬間に、ある疑惑を鑑賞者の心の中に呼び覚まします。つまり、「けっきょく、こいつらは白痴ではないではないか」ということです。
白痴が理解可能な人格になって、感情移入がはじめて可能になるのですが、理解が出来ることは、白痴ではない事を意味します。その時点で、物語は肯定すべき対象を失ってしまうのではないでしょうか。
白痴が白痴をやめてしまう一方で、白痴ではないとされる「健常」な人格達の白痴性が浮上します。物語が、あくまで白痴性の肯定にこだわるのなら、最終的にその物語は「健常」な人格への賛歌へ帰納されるはずです。
だから、これは白痴になることすら出来ない健常人に対する哀感の物語なのではないでしょうか。白痴になれる人間はしあわせなのであって、本当に哀しいのは街の広場で訳も分からずなぎ倒されてゆく「健常」な人々なように思えるのです。
ジョニー・トーのちょっといい話。おやぢと人情で大変けっこうなことだが、あくまでどこか聞いたことのあるちょっといい話でとどまるところが物足りない。
技術の進歩に取り残された哀れな女優さんの物語。
これだから若者は嫌いだ。
ジャンルムービーとしての邦画は息絶えたが、代わりに黒沢清や三池崇史らが降ってきたということで、良しとするべきか。
ミサトさん(社会派エリートおねえさん)にメルヘンなヘタレ男は理解できないし、ましては救えないという喜びと絶望。コスプレ・パーティで体育会系化しても、所詮ヘタレはヘタレ、すごく弱い。そこが泣ける。
平衡状態の時はともかく、一気に症状が悪化したときの、そして、彼らが死を自覚したときの破滅へのダイナミズム(←誤用)が娯楽映画として上質。
いつまでたってもヘタレ続けていては、共感が苛立ち(なぜ娘をしあわせにしない!)へと変わってしまう。そこが惜しいところ。
武侠映画にありがちではあるが、主人公軍団が強すぎて、サモ・ハンを一方的に虐待している。ただ、最後にはいつも通りに彼我皆殺で、コテンパにやられていたサモ・ハン軍団が、手裏剣をまき散らして一矢を報い、爽快感がねっとり広がる。
西海岸ヒッピー文明の壊滅模様。疎外されたヘタレ男の「友だちはいない」に泣く。なのに、どうして途中退場を…、もったいない。
鬱陶しい元妻に追われた旦那に同情を感じた瞬間、今度は旦那の方が「いっしょにどっかへ行こう」と懇願するヘタレぶり。濃厚な人情模様を語り手はねちっこい視線で追っかける。
マービン様とブロンソン様のしっかりおやぢ組とへたれ若者組の夢のような対比。助け船をだすオブザーバーの少佐殿としまいには囚人と仲良くなるMPの軍曹殿にしぬ。そして、戦場に来た途端、一気にダウナー化。
健さんがコロンボばりに、気弱な三國をじわじわと追いつめ、いぢめ殺す。
「映画おたくめ、現実と混同するな」
青春映画はいつだって残酷である。
偽装ノミ屋に並ぶプロのおやぢたちの顔、顔、顔。しあわせのあまり卒倒しそうになる。
難病物のフォーマットで、何げに三國×津川のおやぢ友情を爆発させてしまう職人技。そして、三國が最後にたどり着く地平。こんなに素晴らしいものをなぜ世間は認めないのか。
80年代香港臭の漂う土俗的な演出を、裸ワイシャツで恋愛AVGなシナリオが支えるきつい図式。
ラテン版『ワイルド・ブリット』であるものの、トニー・レオンではありえない彼らに、為す術はない。ただヘタレてわめくだけ。とても疲れる。そして哀しい。
中年おやぢの内紛はみっともない。おやぢは背中で愚痴るものである。また、火事場で喧嘩するのもプロのおやぢのすることではない。
個々人のメロドラマが四散しつつも、岸部一徳を例の如く爆発させて、ただでは転ばない阪本文芸。
もっと論文のテーマを絞った方がよいのでは。
やっぱりのび太がヒーローになる世界は間違いだよな、実に正しい。「現実はこんなものだ」といつものバートン節。
いぢめられつづけたカート・ラッセルがジャイアンをメタメタにするところなどは、『ミンボーの女』の大地康男なみに涙が出そう。
とてもユニークな帰還兵ものになっている。
普通、帰還兵は戦場と日常の格差にとまどい、日常を戦地とすることによって自己の平穏を保とうとするものだが、戦場を知らない日常の住民たちとって、それはたいへん迷惑な話になる。
ところが、本作になると、戦場を誰もがかつて過ごした時代のノスタルジーに設定するので、帰還兵の心理が共有されやすい。オチも同じ帰還兵もの『パトレイバー2』っぽくてシブい。
まったく教範通りに動作するレンジャーと無茶苦茶な民兵の対比萌え。案外頑丈なハンヴィー萌え。RPG萌え(旧軍の軽擲弾筒みたいだぁ)。騎兵隊状態のパキスタン兵萌え。中途半端な社会性なんぞ、物語という悪魔に売り渡してしまえ。
セラピーでハッピーになるダグラス一家を余所に、メキシコ組のおやぢ共がかっこよく暴走。
飲む・はしゃぐ・打つ・狂う・燃やす・怒る――でおやぢ地獄二時間。息切れ持久走が後味の悪い達成感をぶちまける。
のび太は詰めが甘い。
物の怪がコント。
みんな命がけなのに、佐藤浩一だけがウハウハしている。しかし、雰囲気だけはシブい。やはり微妙だ。
「あおぞらざむらいっ」
。・゚・(ノД`)・゚・。
イーキン・チェンのモテモテのつけを物語が払わされて、終幕が大混乱。ライブ・アクションが80年代の香港映画から明らかに退化しているものの、代わり3Dが使えるのでまあいいか、という印象。
無意識であれ意識的であれ、3Dに演技をさせることへの恐怖が、物語を潰している。
出だしにドキドキするものの、落とし所が見えてくると失速。案外とこじんまりとしたゴールが敗因か。
秩序や整合性など人情のために犠牲にしてしかるべきだ。
ミュージカルが、雰囲気で動機付けの弱い恋愛を無理に成立させてしまっている。
世界を変えてしまったダメ人間たちの優しい物語。変容した世界を俯瞰していくラストカット、そこに垣間見える収束なき未来への可能性が泣ける。
道化とラスト説教を我慢できれば、廃城の向こうに見える青空が美しくなる。
生真面目を笑うはずの物語が、生真面目に侵略される。その余韻を愛でる。
「俺たちに未来はあるのか!?」
おやぢぃ…(;つД`)
上品な映画だが、成長過程が欠落気味で主人公と敵役のスケールがこじんまり。小さいリングが象徴的。
エリートが憎い、ソニーが憎い
↓
だから、ベータを後押しする通産官僚が憎い
↓
ついでに、ソニー勤務の恋人がいるエリート志向の技術者が憎い
雪だるま式の泣ける論理的飛躍。360度、泣きわめくおやぢ顔どUPに二時間、顔が緩みっぱなしであった。
志は理解されるが、伊丹十三を除いてどうも野暮ったい。
アイデアの割にオチはストレートであるが、シブい語りがある程度の救いになっている。
スペイシー様のイヤらしい笑顔が大写しになるたびにいたく昂奮する。なので、そのスペンシーさまを陥れんとする若僧弁護士軍団が憎く、また人権派サンドラがたいへん憎い。そんなこんなで、お話が進んでくると、はしゃぎまくるクー・クラックス・クランのおやぢどもが暴走を始めて、法廷物を支えるべきリアリズムが爽やかに崩壊。陵辱されるサンドラに、時代へのおやぢたちの怨念が見えてくるようだ。
副官! 部下! 頼れるおやぢどもの戦争映画…だが、オチにやや腰砕け。
実録『メトロポリス』シナリオ打ち(於りん家別荘・1998年秋頃?)
りん「クライマックスに破片ばらまきながら、レイ・チャールズを劇伴に自分探しな台詞でも吐かせれば、もうばっちりだらう」
大友「もう、ばっちりすよ」
それから一年、りんたろうは金遣いの荒さで業界を震撼させたのだった。
ヘタレ男たちと、体育会系スマイルな三船との組合せが不安感を煽る。人が分かり合えるのは難しい。
田舎者に文明の光を当ててやれば、チャン・ツィイーなど一発で撃沈、というイヤらしい世界観が素晴らしい。
「すわ、説諭か?」と身構えるもの束の間、服役中のノートン先生はおかまを掘られ、友情を結び、出所したら足を洗うのに苦労する実に堂々とした監獄人情物。
シリーズ中、舞台がもっともメルヘンなのに、話だけはもっとも普通。
やはりこのおやぢはスケコマしてなんぼだな。だから説教が始まるとつらい。
客が作品に対してとるべき態度を見失うあたりが、劇中のモチーフとリンクするわな。
ガイ・リッチーは文系に優しい男なので、安心感がある。ただ、基本的には体育会系軍団、ブラピ一族の話で、何となく距離を置きがち。
実は、艦長は男だったのだ――と、意外な人格の表出する物語と思えば、そうではないらしく、後に艦長が脳震とうで倒れ、「をを、難病物か!」と興奮するも、ただふらふらして場を荒らすだけ。お話まで深く静かに沈んでいる。
教科書通りに人生の動機と非日常を用意しているが、不思議なことに、非日常によって人生の動機が触発されるのではなく、進行しつつある非日常とは関係なしに、勝手に人生の動機が発現してしまう奇妙な構図が見られる。
デ・ニーロおやぢのラヴラブ紀行、三時間。鑑賞者が呆れてる間に、いつのまにか交友関係が崩壊し、唐突の感は否めず。湿度が高すぎて、心の洗濯には向かない
たとえヘタレであってもエリートは許せん、とレニー・ハーリンの恨み節が大発動。奇抜な殺され方に対する喜びと「ヘタレ死んじゃいやぁぁ」という感情の葛藤が心地よい。
感傷に流されるだけの前中盤はどうかと思うが、やがてトラウマが日本列島から極東一帯へ優しく広がってゆく。
作り手が確信的であるがゆえに、どうも腹がよじれない。頭がよいのも善し悪しなのか。それとも、信仰と莫迦は紙一重ということか。
込み入った表層の下にあるのは、意外なほど直球な物語であり、その感動は爽やかなものの、変化球かと身構えていた鑑賞者にとっては、肩すかしの感も否めないかも。
イーキンとアンディがお話そっちのけでモテモテ合戦。バリー・ウォン脚本、相変わらず意味をなさず。
「アレは宇宙人よ」と電波飛ばしがちな夢見るおねえさん(+西海岸な野郎ども)とヒッピー宇宙人の出会いに驚愕する東海岸な軍人たん。もう何を見ても笑えて泣けてしまう。
演出の伝統的な蓄積と技術の束縛が、火器をおもちゃに見せるが、刀剣ならば様になる。だから、刃物を格闘に用いる必然性を求めて舞台が変わる。見た目とは裏腹に、けっこう合理的な話。
バランスが悪いのか、ちょっと野暮ったい。
シナリオが恋愛AVG直球で唖然。劇伴はよいのですが踊りつきです。
ソン・ガンホと伊武雅刀が同じフレームに入っているお宝度。
中産階級の皮相な苦悩の内奥にも、生命の危機に際して誰もが感じる原初の恐怖を設定すると、ええ感じに。
勝新もてもて旅か……少々腹立たしい。
「挨拶をしろ」「礼を言え」「ノックしろ」「返事しろ」など、基礎的な教育への放埒な情熱が、やがて「粗大ゴミを川に捨てるな」や「エコばばあの自然回帰」、「ゴールドラッシュでインフレ」とエスカレーションすると、基本的な生存を促進する原始的な倫理だけではどうにもならない不安な感性が現れてくる。
「あんた警官だろ」
この台詞が聞けるのなら、客船の一隻や二隻、軽いものだ。
道具を残す安心感がやや微妙。
公安ベースの原作がアクション中心に解釈された結果、話の善し悪しよりも、軽歩兵同士の悲愴な白兵戦が今の邦画にも出来てしまったことの驚きが強い。第一空挺団のゲリコマ狩りなんて、生きてる内に観られるとは思わなかった。
政治を語るのではなく、政治を語ることを語るあたりに、おやぢの照れがある。
世界が中小企業経営者のセンスに染まっていく恐怖。『ミッドナイトクロス』の後に続けて観ると死ぬほど笑えて泣ける。
ルックがようやく貧乏から脱出したのに、話がどんどん野暮ったいことに。
日本語のトニーに萌えられるほど、わたしの病は深くない。
自分探しを止める映画。その清々しさに、教官のおやぢどもが人情の花を添えて良さ気だ。
戦前・戦中派おやぢどもの老いぼれを懸けた最後の戦い。ますます盛んになる情熱に身体がついていけず、みんな真面目なのに滑稽にしか見えないところが哀しい。
自分探しが地球市民的説教に拡大する様を、ラヴラヴ青春謳歌の雄叫びに乗せて描く一種の恐怖映画。
ヒッピーはインテリに弱いので、インテリを装えばヘタレ男でもヒッピー女の好意をかえるか知らん? しかしながら、実際にその論法でヒッピーの恋人が出来たとしても、彼女はインテリに弱い単純なヒッピーであるはずで、そんな娘の好意を被っても、愉快になれるのだろうか?
歳を重ねるほど、ラヴラヴへの欲求は強まるのだが、年寄りが一直線にらぶっても世間体という物がある。だから、隠れ蓑に政治を使う。作品の鮮度を保っているのは、おそらくそういった感性なのだろう。
なんか、語り手のいけないワクワク感が映写幕を突破してきておるぞ。こちらに長文の感想。
ハリウッド莫迦宇宙路線、最高潮に達す。こちらに長文の感想。
優しい孤独の物語。こちらに長文の感想。