映画感想 [601-700]
テレパシーで機上通信だとか、松村とキムタクの存在自体がアレだとか、いろいろ詮方ないものの、どこか遠い異国のおとぎ話と思ってしまえば、そんなに腹は立たないかも知れぬ。むしろ、集団的な難病物(自己消滅への肯定的な定義付け)の体をなすところが、転がり風味。少し足りないために、死ぬ事への理由を見つけられない松村も、それがゆえに物語を超えるメタな眼差しを獲得しちゃったりして、ついでに「どうして飛行兵になった?」→「神さまに近い場所だからさ」な〜んてわたしどもを喜ばせるような台詞をキムタクがニヤリと吐いたりしちゃって、それなりに興奮す。
コンセプトなき人生を物語として語るには、とにかく非日常のイヴェントで世界を飽和させねばならぬ。だが、飽和はコンセプトがない故に脈略のなさにつながり、世界はあざとい前兆現象で満たされる。ところが、そんな伏線の数々が最後に待ちかまえるもっともあざとい伏線をかえって隠蔽しちゃって昂奮す。
どれだけのカットを釈由美子へ注ぎ込むかが勝負だったはずなのに、ロングで平坦なレイアウトで着ぐるみがポカポカやるたびに、「釈おねえさまがあ〜」と涙に暮れる。本来は人生の動機を引き立てるべきエフェクトカットが、かえって動機を消化不良にしてしまう悪循環。
センチメンタルな燃料をこれだけ投下しても、自我の分裂気味なおやぢには効力なし。ほのぼのハッピーで穏和に狂う。生きてることの不思議と言うべきか。
原作との比較で語れば、時間経過に関する体感の相違が顕著で、映画が多くの時間を語らないことは、結果として生命の危機をマンガに比してかなり薄くしているといえる。つまり、かれらは生命の危機に瀕するチャンスもないほど早々に、舞台から去らねばならぬ。
「友情はねぇ〜」と語り出す中居の漫画のような人格造形。沖縄にぽ〜んとシークエンスが飛んでしまうあたりから笑いが止まらなくなる。しかしながら、非難囂々の泥臭い逸脱も、やがてドロドロ過去発見型正統的刑事ドラマに収斂する人情模様、すなわち原作への敗北。物語に刃向かい足掻き通しの挙げ句に、3Dモデリングの中居もろとも四散する森田芳光。これぞ男の生き様である。
らぶらぶなママンは他人の男の嫁になっていて、それでいて窓の外から楽しげな家庭が…いや〜んとまあ、こんなにメルヘン。でもなぜかごく人並のセンチメンタル具合。最近のスピルバーグ文芸はなぜか微妙。
狂気を自覚できる程度の狂いっぷりがメルヘンというか、「人殺し→トラウマ→絶叫→嘔吐→死に場所探し」なレスリー暗黒モードのわかりやすさがらぶらぶ。上品な語り口が、余計に癒しを誘う。
合理化を叫ぶグローバリズムのスローガンが、興奮した大量の会社員を破壊活動に至らしめ、かえって非合理を驀進する不思議。そして疲弊し、街頭で屍を晒す一個中隊の会社員。邦画黄金期の過剰がミュージカルの狂気を何処までも増幅。
脆弱に見えて案外にたくましい文系戦場サバイバル。時折、パンツァーファウストがぼ〜んでこれまた案外な娯楽風味。ドイツ兵の皆さんがやや劇画調に動作する古くささがちょっと無念。
けつの青い若僧への愛欲とおやぢの貫禄との狭間で生まれる苦悶が、ヘマを大招来。己の美意識を認知されたくない美意識が空転して騒動するが、平田昭彦には全てがお見通しであった。
シャブ中でヘナヘナな文太と男色を迫られ泡を吹く千葉様が、抗争する前に女々しく内紛で自壊。そこにフランキー堺を投下する悪魔的なキャスティング。文太の嫁に手を出し、人質を取って籠城し、警官隊に射殺され一部の好事家を喜ばせる始末。成田三樹夫は高笑いで物語を萌やす。鶴田浩二は苦笑いで物語を浮かせる。
夜な夜な童女のムービーで至福に浸る薬漬けなトムっちのイヤらしい笑顔がいや〜ん、な倒錯的興奮の溢れるスピルバーグ文芸。「どうやって入ったんだ!?」「これよ〜!」→“ば〜ん”とトムっちの使い古し目玉。セキュリティのこの狂い具合が人権問題よりも恐ろしい。
いそいそと隠し妻に通う中村鴈治郎とミイラ取りがミイラになる若尾文子に由来するドキドキ感。中村一家再生と崩壊のエキサイティングに、宮川一夫の不穏な陰影が花を添える。
文系然のクリストファー・ウォーケン、文化祭の準備だけに燃え上がる。そして戦場で狂い、祭りの後に後悔。人間の営みである。
プロフェッショナルの死に場所探しと美意識のギャップが生む物語な景観。プロは釣り場で友情を結び、刃を通して友情を語らうのよ→いや〜ん――といささかの昂奮を得るも、勝新もてすぎでやや困惑。
3Dでウディ・アレンをやれる文化産業の驚異的な土壌で花開く自由な全体主義(セラピー完備)という自家撞着への憧れ。実験国家アメリカの苦悩みたいなものか。
英国くんだりまで出征しても、戦争そっちのけでらぶらぶ光線の応酬。Bf109より恐ろしい中年のスケコマシテクニックに小僧瞬殺。これでは強制労働キャンプ行きもやむを得ないと納得の訓話である。
堅気の旦那衆がVシネマを高みの見物でシナリオ工学の無駄作り。渋いルックが物語を無理矢理牽引すればするほど、視覚と内容が分裂してたいへんなことに。
映画的日常の中で熟成されるべき人生の動機が、非日常のインフレーションに潰される。半世紀ぶりの娑婆が如何にファンタジーであるか、その証左であった。
映画が人生と世界について語りを始めるまでに、一時間を経ねばならぬと言うのではいかんともしがたい。それで時間がないから、後はダイジェストに語りまくる。首ごろ〜ん、車どか〜ん、そしてフリークス。和製ジャンルムービーの断末魔が聞こえる。
「先生!」「先生!」「女王様!」と奥崎先生の身体を解体して行く自棄糞な叫声とそこに見る映像業界最末端の絶望。世界が愛おしくなる景観である。
治安の悪さはメルヘンなのに、移入可能な人格を描出し得ても集団劇の人混みに彼らが埋没して、物語がファンタジーを語れない。集団劇に典型的な徒労感と主人公の童貞喪失シークエンスの異様な浮き立ち振りに疲弊する。
おそろしく偏差値の高い莫迦。感心する。
日常は彼を救済できない。救済はそもそもが非日常である――というわかりの良い正統的なヘタレ男救済物語。あり得ない救済の訪れが物理法則を徐々に蝕む。
澄まし顔でスケコマシのデ・ニーロおやぢと崩壊する家庭、リスカする娘に板挟みでヒスを起こすパチーノ。感心を誘うその超人的な体力と耐えられない精神の物語。
フェリーニパロにヘソで茶碗をわかす。
サバゲーにも見えない戦場空間を放棄して、乳幼児育成シミュレーションに活路を見出すのは多分に正しい選択といえそう。しまいには『地獄の警備員』ばりの即物的ホラー。でも、サバゲーにも見えないためホラーがホラーなりきれず、その半端な情感がかなりイヤイヤでドン引く。
『ぼくんち』の元ネタであるな。ただ、西原の視点が共同体から脱して行く人間のそれなのに比して、こちらは共同体を離脱する人間を見送る視点で物語を浮かせる。何気ないふりして、実はシナリオ工学の鬼なので油断ならない。
思い出と後悔に生きる(©西原理恵子)総会屋姉妹が、警備主任の倉田先生をいぢめ殺し。家電趣味が過剰に高じすぎて、司法当局に監視社会のフリーパスを「役立ててね(はあと)」と引き渡しちゃうラディカルさ。
何でゴダールなんかまたしても借りたのだろうか。
中学生的な恋愛は、心的な内情が客観化する事へ恥辱を覚えがちだ。従って、抑制された意思は、それが恥辱にならない形で発露される様な舞台を設定することにより、顕在を促さねばならない。素面でないなら発露に支障ないというのがその表面的帰結であったが、でもでも本当はしらふだったのですわあああ――と過剰な演技の生む巨大な恥辱感に見る灰燼。
「男は寝て喰ってるだけではダメなんだああ」
そういう事で眠らず徹夜をしてみた訳だが、もう若くもなく夜明けが気持ち悪い。そして徹夜明けの疲弊は、なぜか人を詩人にする。
出来の悪い弟子に錯乱されて人生を終える教官の苦悩で、実に立派なエンターテインメント。というか、童女が薄着になるに伴い萌えそうになり、たいへん危険だ。
強迫的な物質的・時間的貧乏性に晒される一般の人生からすれば、過剰の余り人生の消化に困るアリストクラティックな生き方というものは、羨望と言うよりも何とも効率の悪い生き方のように見えて、居心地の悪さにそわそわせねばなりません。ただ、過剰が限度を超え集団的な白昼夢に至り、わたしどもの理解を受け付けなくなったとき、世界に不安が訪れるように思います。幸福な田園が、過剰を保障し得なくなりつつある世界の悲鳴を囁いて呉れるのです。
カウリスマキと云う人は、性別によって、というよりもカティ・オーティネンか否かによって、人生の狂わせ方の過程を分別して呉れるわかりの良い所があります。オーティネンでないのならば、というか不幸にしてオーティネンの配偶者であれば、容赦のない物理的暴力が理由もなく彼を襲います。『過去のない男』ではいきなりやっちゃって吃驚です。
オーティネンは基本的に理性的で常識のある人なので、不幸への対処療法的な行為にも安心なわたしどもである訳ですが、他方の配偶者やパートナーであるとこのろのカウリスマキ的なヘタレ男――此処ではカリ・ヴァーナネン――は、常識と微妙な天然の狭間で生まれる、人生に対する意味のない自信で、しばしば、わたしどもの不安と泣きの温床になります。
善良なる造形に成功した人々への不幸は、常にエキサイティングと云わねばなりません。そして、不幸が常態化し、日常となってしまった人々は、ほとんど莫迦の様に襲来してしまった救済に浮き浮きしながらも、世界のいい加減さと、安易な幸福が安易に崩壊しかねない予感に分別臭い恐怖を覚えるのです。
才能と欲望の混合体を引き留めるものは何か。それは倫理において他ならぬのであって、欲望エンジンの目指すべき地平の向こう側にある真っ白な灰は、いつも良識的説話に脅かされるものです。もっとも、視点を返せば、倫理はいつも暴走する才能に困惑せねばならぬ運命にあります。才能についてゆけない倫理は、説諭すべき対象を失い空転せねばなりません。しかし、その自家中毒の様態そのものが、御婦人のハートをピックアップする秘訣だとしたら? フランス人という生き物はつくづく度し難いと思わざるを得ないのです。
兎にも角にも死に際になれば、人間なにかとらぶらぶ光線を被りやすくなるもので、普段はその恩恵からほど遠い人にも、死にかければらぶらぶぢゃんという不思議な夢があります。しかし、夢はおおかた悪夢だと云わねばならないのも世の常であって、ヘタレ男の妄想は死と引き換えにしないと成立しないほど、実現の困難な代物だったのです。ようやくぶつけられたらぶらぶ光線の悦楽も、目の前に迫りつつある実存の喪失感に圧倒され、台無しになってしまい、人生の如何ともし難さをわたしどもに気持ち悪く知らしめて呉れる始末なのです。
才能に応じた行為をすべしとする社会的な強迫観念は、優れた能力を持ちながらもそれを発揮せざる事を罪と見なします。才能は高い動機に支えられねばなりません。が、才能ある人生のふたつの分岐、すなわち怠惰と勤勉は、けっきょく同じゴールにたどり着かざるを得ません。動機を持ち得ない人生は漂流の末に、動機の有り余る人生は疲弊の末に、どいつもこいつも地獄行きで、秩序立っていない壊滅の疲弊感を残すばかりなのです。
辺境へ教師として赴任すると、その文明の威光によってらぶらぶ光線を浴び放題な程、中国大陸が夢と浪漫に溢れかえっているのならば、逆に辺境へ下放してくる都会の娘を待ちかまえて、田舎生活に於ける依存の対象としての中年おやぢたる身分を利用し、らぶらぶ光線を享受するのもまた一興哉、と思ってたら娘が、娘があああ――。おやぢは驚きと哀しみと途方の中で成長し、娘を保護すべき対象と見なすようになります。と云うより、過剰に成長しすぎて、ついにはわたしどもの理解を超えてしまいます。行為が思索的なるまでに、文革期の大陸は夢と浪漫に溢れすぎていたのです。
逸脱への観念的なあこがれは、殊更に斜に構えたがる人ではなくとも、一度は抱きがちな空想であったりするのですが、実際、逸脱に直面してみると、思わず顔が歪んでしまうのもまた、人間という生き物の哀しい所であったりします。わたしどもの住まう世界は、どうやら思ったよりも偏狭らしく、規範を超えてしまった人格が、わたしどもの認知できる世界にとどまる事は出来ません。では、次々と人格が逸脱を始めてしまったらどうなるのでしょうか? 物語は世界を守るために、次々と代替となる人格を補充せねばなりません。そして、その運動が、生真面目な因果と循環を語るのです。
社会的属性の基にあるわたしども人間は、世界とつながったり、あるいは世界が拡張したりする景観に、ついつい興奮を催してしまう習性があります。そこで世のライターや演出家は、如何にして世界とつながる景観を具体的に語り得るか、そのレパートリーをめぐる思索に人生を消費して行く事になります。
厳密に考えれば、世界とつながることは、決して世界とつながっていることと等価ではありません。世界とつながることに見る高揚は、進行形の事象に由来するのであって、すでに世界とつながってしまっているのでは、これからつながろうとする理由がなくなってしまいます。ゆえに、物語はつながれない世界から出発せねばなりません。一端、世界から断絶された人格は、徐々に再開示される世界に希望を見出します。それは、鑑賞者の高揚でもあるのです。
ところが、高揚はあくまで進行によるものです。完遂、つまり世界と遂につながっちゃってこれ以上つながりようがなくなり、物語が運動を語れなくなった時、彼が見る景観は如何なるものでしょうか。物語は人格の視点をまたぎ、今度は自殺幇助で苦悩する看護婦へ接近を試みるのです。
「しょうがないよ〜」としょうがなく笑う佐分利信に萌え死ぬ。夫婦はお茶漬けの味だあ!
吉田戦車の言葉を借りれば、オーティネンの悲嘆する顔の造形は、何とも嗜虐心をそそるものがあります。世界というものは、基本的に正直で、彼女のような生物を見ると、兎に角いぢめたいと欲し、そして実際にいぢめてしまいまがちです。それは、同時に、世界の人間に対する愛情表現の不可解なあり方だったりもします。
前向きなオーティネンは、彼女の保有する感性と知識の水準なりに、世界を愛そうと試みるのですが、カウリスマキの気紛れな世界は、もともとオーティネンを幸福にする機能に欠ける節があり、詰まる所、無駄な足掻きなのです。
でも、どんなに生活の水準が落下したとしても、矢張りオーティネンはオーティネンと云わねばならず、彼女特有の理知性は発動せねばなりません。誰も贔屓しない公平な環境景観にあって、過剰に情緒的な劇伴が物語を浮かせ、世界が破壊される時、彼女がたどり着いたのは世界の本当の愛し方だったのです。
記憶のない娘と謂われれば、真っ先にも保護してやりたいと思うのが人情というものです。他方、拾ってしまったのが「カウリスマキタイプの前向きで常識の範囲内で天然男」だとしたら、わたどもも大変に困惑してしまう他ないのですが、さりとて打ち捨ててしまう訳にも行かず、嗚呼こまったこまったと呟きながら、でも拾ってしまうのもまた人の世の習わしのような気もします。
このお話は何気に隙がなく、通例ならば、オーティネンと暗い漫才を行うはずの「カウリスマキタイプの前向きで常識の範囲内で天然男」に、相方が見あたらない冒頭が、鑑賞者に無限の不安を投射します。なので、暫くを経て、矢っ張りオーティネンを世界に発見し(この辺にはバルザック風の悦びがあるような気もしないことはありません)、どう猛にスケコマシが開始されたり、なぜかジュークボックスを拾ってきたりする下りになると、嗚呼、カウリスマキと世界に秩序が訪れて、わたしどもも高枕なのです。
線路を走る人生は爽快そのものですが、福本伸行な言辞を用いれば、その路線の着工に至るまでには、膨大な勤勉の投入が課せられます。計画ある人生が刹那なそれよりも価値がおかれる場合、人々の念頭には、まさにその勤勉量の投入の違いがある訳で、逆の言い方をすれば、これだけ勤勉を投入したのだから、人生が爽快にならなくて堪るものかえと謂う説話的な感慨が、人々を労働への衝動へ駆り立てます。しかし、世界は常に公平だったのです。プロジェクトある人生も、無軌道な人生も、等しく不幸に包まれて行くのが、世界の優しさみたいなものなのです。
白痴顔をした人々の群れに冷ややかなイーストウッドを放り込んでしまえば、「何か考えてそうぢゃん」と云う期待を抱かない方が困難であって、イーストウッド様に任せておけモードでわたしどもも幸福な安心感に包まれるはずだったのですが、ライターと演出家は意地の悪い生き物らしく、物語は有事に至って、実は何も考えてねえと壮大な云う行き当たりばったりを語ります。けっきょく大切なのは欲望と物量だけ。その即物的な世界の景観がティーガーの砲煙の向こうに広がります。
トニーやアンディといった若い衆は、世界を語るおやぢどもの理念を物理的に支えています。行動が物理的であるために、それだけ生命のリスクに晒されています。ただ、トニーとアンディでは、リスクに差が開きすぎていて、過重な負担を一方的に負わねばならぬトニーは、その国宝級の善人演技とお気楽アンディのもてもて出世モードに対する鑑賞者の反感から、歩く説教ことアンソニー・ウォンと共に物語を支配します。失うものが何もなくなってぶちキレたトニーに守るべきアンディの日常が脅かされた時、物語はようやく均衡に至り、おやぢどもの共倒れを情緒的に語ります。
ガダルカナル・タカの心的なヴェクトルは、彼に人格の膨張を促します。それは、具体的には、他者の人格の模倣となって表れ、この物語の究極的な見せ場を構成しているように思えます。では、他者に好意を寄せる斯様な景観自体が好意に値すると云うこの図式が、示唆するものは何でしょうか? 恐らくは、血に飢えた殺人マシーンをコントロールに関する技術上の課題です。そして、タカがその人格によってマシーンの制御に成功した時、物語は技術を超えた説諭を血飛沫で語っているのです。
しばしば世界の壊滅に至りがちな想像力の過剰という現象は、精神に身体が追いつかない小市民的な億劫により抑止均衡され、わたしどもの住まう社会は平穏に包まれる事になります。この物語が語るのは、斯様に非日常的な空想とか詮索に、体力とか行動力が追いついてしまったら如何?――という怖ろしい仮定です。ホワイトカラーのおやぢが、悲愴な情熱とトラウマによって超人化し、爆走する車で街を破壊して行く景観は、かなり迷惑ですが、そんな苛立ちも含め何もかも灰燼に帰してしまう爽快感が、罪深いエンターテインメントを楽しげに醸成して呉れるようです。
クエンティンといえども、オリエンタリズムから逃れられないのか。
妄想シミュレーションは欲情によってヴェクトルが課せられ破壊される宿命にあるものだが、逆にシミュレーションが世界をバラ色に侵略して行く景観は如何にもラティーノなファンタジーで、腹立たしい。
「知識も学位もあれば、らぶらぶ光線浴び放題だぜい!」
そして、らぶさえあれば何とでもなるんだああ。迂闊で浪漫家なわたしどもは、ついついそんな通俗的空想に身を任せがちです。ハニーテイストな近親相姦のドキドキ感に比べれば、倫理の後ろめたさとか社会的迫害による経済的困窮なんぞ、屁でもないのです。
ウィンターボトムが語るのは、かかる甘い幻想が、貧困という諸悪の起源にゆっくり破壊されて行く即物的な景観です。ただ、インテリ娘へ貧困が及ぼした作用の解りやすさは、即物的と表現するには、余りにもファンタジーであり、演出家に内在する薄幸への猟奇的な嗜好の予感が、不安定なエンターテインメントに結実しているようにも思います。
秦王、ネゴシエーンション巧すぎ。あれは恐らく、FBIの犯罪交渉人用訓練プログラムか何かの賜物ではないかと、わたしどもは時代を跳躍した余計な詮索をせねばならないのですが、その奇妙に行動科学的な情景の甲斐あって、トニー・レオンはやっぱり善人化の一途を辿り、その予定調和がわたしどもを法外な安心感で以て包み込みつつも、トニーに比べれば所詮、小役人風情に落ち着いてしまうリンチェイ先生に涙したりもする結構な慌ただしさなのです。
肉体で、劇伴で、レンズフレアで世界を語れと、何気に重層する情報量の貢献で、余程に泥臭い男泣きが語られています。むしろ、余りにも朗らかに泥臭いので、妙な勘ぐりを入れたくなるのも人情というもので、つまり、身分には相応のリスクが付きまとうが、それは結局、大したことのない身分に降りかかるリスクは、フィリップ・シーモア・ホフマン程度のやさしいお気楽さだよもん――という質量保存な世界の構造をおなじみ接吻トラック・アップが忙しげに語ってくれている気がします。
視覚できる物語ならば、肉体で世界を語ってこそ漢ではないかと思われないこともありません。しかし、わたしどもはこの命題を忠実に履行したがために玉砕したリンチェイ先生の悲しき事例(『阿羅漢』)を知っており、肉体言語は機敏に動作する身体と決して等価ではない世界の有り様が、世界中の一部の演出家の空想を苛めるようにも思います。同時に、言語でもって直截に世界を語れない欲求不満は蓄積せざるを得ず、やがて彼らの心の平衡を破壊します。
いずれにせよ貧困は、まず身体で世界を語る能力を人から剥奪します。空腹が物理的な身体の動作を阻害するからです。本来は身体で物を語るべきブルーワーカーであった彼は、語る手段を喪失した今、演出の前述の如くな欲情――世界に対するオーラルなアプローチ――と結託せねばなりません。けれども、おやぢはブルーワーカーであり、つまり、世界を語る語彙に欠けてしまい、言語を放出する運動だけが空回りして、世界を語り得ないのです。
かくしておやぢは閉塞を迎えねばなりません。肉体でも、言語でも世界を語れない。では、如何にして語らねばならないのでしょうか? わたしどもが物語の終局で立ち会うのは、ギャスパー・ノエなりの鼻息荒い解答です。その景観は随分とあざいとい物には違いないのですが、他方でおやぢがそれまで数百カットに渡って放出してきた発話行為の大群が、その一カットの景観にも及ばないという事実の開示は、わたしどもに映画という表現媒体の特性をあらためて思い起こさせようでもあります。
わたしどもがしばしば罹患してしまう、世界に体系的な意味を与えたがる病理は、その放擲に際し、相当な勇気をライターに要求するように思います。情緒の高揚装置を即物的に羅列する刹那な勇気は、構成力の欠如とワンセットにされがちです。意味の放棄で生まれる物語の空白は恐怖の温床に違いないのです。
この恐怖に対して演出家が取った処置は、度を超えたシンプルな形でわたしどもを印象づけます。世界の体系的な意味など阿呆らしくなるほど、情緒の高揚に意味づけを行わない物量攻撃が語られるのです。世界は急速に意味を失って行かなければなりませんが、その喪失が却ってある種の体系を語ってしまう如何にもな景観が広がるのです。
「マンガは心を乱すからダメなんだぞおおお〜〜〜」と乱心してしまう根本的な論理矛盾が、物理法則からの寛容を世界へ認可したのでしょうか。隙の多い世界に甘える腕力だけが自慢のおやぢもおやぢですが、そんなおやぢを甘やかす世界も世界で、せめてボディチェックくらいちゃんとやったらどうかと要らぬ世話もしたくなるものです。管理社会を運営する困難には泣かされますが、次第に、この体たらくではこんな社会つぶれて当然と呆れ始め、唯一人クールな息子だけが、かろうじて物語を浮かせます。
エスタブリッシュメントへの参入障壁を突破しようと爆走するおかんの暑苦しさが、かえってプロジェクトを崩壊の危機に追いやる景観。娘を熱海に連れて行くのは良い方策だが、そこで忘我して娘の世界を破壊するようでは、おかんも隙が多すぎると言わざるを得まい。
軽度の注意欠陥多動性障害者に対する世間の生暖かい眼というのは、人格の優越感に由来する健常人の余裕に違いないと空想すれば、これまた何と罪深い景観かと震えなければなりません。もっとも、そんな余裕とは縁遠い卑小な視点から眺めれば、ジャック・タチの諸行動が理解不能で不快になり、これまた如何ともしがたいのです。演出家は素敵な視覚情報で景観を送出しますが、世界に対するサボタージュがこれを破壊して行く居たたまれなさで、情緒の遣り様に困ります。
物語は、結局の所、ジャック・タチを追放せねばならなくなります。そして、まさに彼の不在を始めた世界において、物語は最初で最後の泥臭い情緒を獲得します。伯父さん(=白痴)は永遠にわたしどもにとっては神秘かつ理解不能で、情緒の高揚そのものには何の貢献も果たすことはできません。しかし、あくまで間接的に、媒介として、物語の情緒に参与することはできたのです。
フレームの隅々を怒濤の如く埋め尽くすジョン・ヴォイトのヘタレ顔に圧倒されるばかりで、それに輪をかけて、汗まみれ涙まみれのスキンシップと演出家の粘着なワーク。自滅を以てしか果たし得ぬ階級間移動の困難ということで、『ステラ』のおかんとプロットを同じくするが、おかんがある程度の理知性で辛うじて鑑賞者の許容を支えていたのに対して、そういうものを望むべくもないジョン・ヴォイトでは、救いのなさも段違い。業が深いのう。
標準的なフィクションが、そこに鑑賞者の物理的な視点がないものとしての演技を要請するに比して、フェイク・ドキュメンタリーは、カメラが常に向けられていることを意識した演技を要請し、公衆に晒されている空間ではとうてい想定できない行動や感情の表出を制限します。そうでないとフェイク・ドキュメンタリーの強み――実存感に由来するエンターテインメント――が消失してしまうからです。物語が展開に従い、物語な非日常を語り始めると、そのトレード・オフの困難は、ポールブールドの苦悶する景観として、結実することになります。
文系然とした鎮台兵の皆さんを虐待することで成立しているプレモダンへの感傷も不安であるが、もっと動揺するのは、ニュージーランドのコミューンへ帰還したトムっちのよりにもよってラストカットでアップ・ショットになるあの凄まじいえろ顔。形而上な価値観へのトムっちの理解を語っていたはずの物語は、そのえろ顔によって論理的な一貫性を失うように思う。
田中邦衛から始まる生暖かい人情の洪水と逐次投入される人生の教訓にやがて脳は茹であがり、丹波哲朗の間の抜けた叫声という牧歌の極みが心地よさに転換。
運動でもやもやすっきり〜〜という体育会系的ユートピアと暗い情念の抗争を、2Dアニメの2DなPANとフィルムからデジタルに移ったばかりのコスモス白井さんの善良な悲鳴が聞こえるような平坦な入射光が、やさしく見守っている。
瞬間の内に世界が破壊されるただ中にあって、初めてマス夫さんの笑顔に情欲してしまうわたしどもが考えてしまうのは、これはつまり、それまで語られたきた物語な景観はすべからくマス夫さんラブの為に設置されていて、物語の論理秩序の決定的な破綻が、その犠牲の最たるものではないかと。そうなると、相も変わらず怪しげな逸脱を語るこの物語が、漢文調の訓話のように思われてきて、ブニュエルという人は案外に生真面目な人ではないか、あるいはそう解釈してしまうわたしどもが真面目なのか、色々と思惑を覚えざるを得ないのです。
小津安二郎というジャンルの安堵感に欠落するこの物語は、始めの内は先の見えぬ不安で鑑賞者を苛ますようでもある。われわれがこの物語を理解するに至るのは、中絶をした有馬稲子が原節子の二歳児娘に迫られ、悲鳴を上げる余りにも物語的なその景観を待たねばならないだろう。つまり、この物語は、ひたすら娘をいぢめるというトリアー的なジャンルの中で世界を語っていた。この理解あって、有馬稲子へギャルゲー的な不自然を以て襲いかかるイベントやそれに被さる斉藤高順の明るいスコア(『サ・セ・パリ』のカバーという怖ろしい選曲)を愛でうるようになる。
ところで、最初に触れた小津安二郎というジャンル、これはけっきょく笠智衆を緩慢にいぢめたあげく、全てを失った彼の見る世界の荒涼を語る物語のことだ。笠智衆を放置しておいて、娘ばかりいぢめてきた『東京暮色』も、最後に残るのは有馬稲子も原節子も失って独りぼっちになった笠智衆であり、物語は最後のショットで、笠智衆の背中を手前になめた東京の街並み――みんなが独りぼっちになって行く世界の景観――というあざとい、しかしだからこそ萌え萌なレイアウトで人生を語る。それは笠智衆をいぢめるという正統的なジャンルへの結実であった。
この物語へ投じられる娘は、常識という世界の視点を構成していて、機会あらば夢見る世界へ突入を企てるポエジーな中年おやぢを、ぎりぎりのところで制御しており、彼らの間に介在するその緊張が、物語序盤の色調を決めているように思います。しかし、しょせん娘は娘で、泣きわめくおやぢを制御できる器でもありません。常識人たる娘があきれて世界から退去した時、おやぢどもは生き生きとフレーム内を躍動してポエムを語り、世界とわたしどもの神経回路を荒廃へ変えて行くのです。
現世の物理法則をあまり顧みないジョニー・トゥらしいと言えばそれまでなのですが、アンディの病的な自己顕示欲が秘匿を要請する職業の倫理に全くかみ合っておらず、加えて人格が欲望に忠実すぎて、その解りやすさがかえって行動の予測を困難にしています。この混乱が、シナリオと演出家の目指す視覚的な景観作りのヴェクトルを乖離しているように見て、わたしどもの不安をかき立てます。ところが、サイモン・ヤムがなぜか(いつもの如く)狂い始めると、わたしどもはようやくこの物語の何たるかを発見することになります。その混乱こそがジョニー・トゥという物語のジャンルに他ならないことを思い出してしまうのです。果たして、物語はアンディの死に場所探しという動機付けによって、彼の病理的矛盾を止揚し、それにとばっちりを喰らう反町というどこかで見た景観――『暗戦』のアンディとサイモン・ヤムの如くな関係――を語り、かつ『ミッション』の如くな可能と現実が混じり合う不安定な終局を語ります。最初から最後まで、完璧にこの物語はジョニー・トゥという素敵なメルヘンを語っていたのです。
人格の逸脱に興じるルイス・ブニュエルが、本当は生真面目な人間ではないのか知らんという疑惑は『昼顔』で言及した如くです。彼のお話の楽しさというものは、真面目に世界からの脱線を試みる人格の奇行そのものではなく、可能上の未来と選択されたリアルの非差別が産むメタフィジックな不安にあるように思います。
『ファム・ファタール』はこんなブニュエル風の娯楽を、大いに劣化した形で提示して、わたしどもに間の抜けた開口を強いるのですが、『昼顔』の可能な未来が道徳のお時間に見えなくもないのに比して、デ・パルマは何の迷うこともなくそれを訓話として扱っていて、この演出家の根底にある善への原初的な欲求の存在――『スネーク・アイズ』のニコちんの如くな――をわたしどもに思い起こさせるようです。
未知の地平から共同体が形成されたり、組織が機能的になったりする過程の描画が、エンターテインメントに値するのならば、出獄物という古典的なジャンルムービーの様式は、その娯楽に相応しい物語といわねばなりません。彼の帰還する娑婆は未知の事象に他ならず、従って新たな秩序を形成する努力を彼に要請するからです。牧口雄二は『広島仁義・人質奪回作戦』で、出所した松方が足を洗い総会屋になる描画を通じてエンターテインメントを語りました。対して、宮坂武志の『人斬り銀次』は夏八木勲を過去に埋没せしめ、共同体の形成を果たせませんでした。
今村昌平の語るこの景観は、気持ちの良い程その様式に乗っ取って成功をした、きわめて古典的なエンターテインメントに溢れています。しかも、哀川翔を投じるだけに飽きたらず、役所に自殺願望の家出娘(清水美砂は娘という歳でもないのですが、ここは脳内補完せねばならないでしょう)を拾わせる始末で、古典的な様式を積み重ねる大切さを教えて呉れています。
『ザ・ロック』はたいへんに豊穣な物語です。『エネミー・オブ・アメリカ』の語るような挫折したプロフェッショナル老人と莫迦な若者のバディ・ムービー、すなわちジェリー・ブラッカイマーの幸福な人情活劇もあれば、『コン・エアー』のスティーブ・ブシェーミが象徴するような、意味の欠落に由来する思索的な不安もあります。
わたしどもがまずこの物語に驚かねばならないのは、前半のシークエンスでサンフランシスコの街並みに訪れる刹那な破壊とその意味のなさでしょう。鑑賞者の一瞬の関心を引く以外、何の目論見も存在し得ない態度は、不条理の域まで達するに至って、わたしどもに居心地の悪いエンターテインメントを語ってくれます。
もっとも、この気持ちの悪い景観にとどまったのでは、『コン・エアー』並の風変わりな娯楽活劇に終わったはずなのですが、異様な破壊活動を経て『ザ・ロック』が語り始めるのは、世界を語る師匠の物語であり、かつ成長する莫迦弟子のメルヘンです。かくしてコネリー老はヘタレた若者ニコちんとわたしどもに人生を語ります。
ニコちん「ベストをつくしますぅ」
コネリー老「それはloserのいうことだ。勝者は家に戻ってプロム・クイーンとファックするのだあああ」
ニコちんを酷い目に遭わせるのなら理屈などいらないという演出家のきわめて正しい態度の下で、コネリー老は色々な訓話でわたしどもを様々な意味合いにおいて泣かせるのです。
フェリーニの『アマルコルド』は、エンターテインメントというものを理屈で考える上でたいへんな脅威を感じるお話であって、つまり、その物語の牽引性を生真面目に考えると、それのどこが面白いのかかえって解らなくなるような気がするのです。テクストで把握され得ないということは、視覚と聴覚情報で語る物語としては、成功この上ないことと思われますが、わたしどもにとっては理屈で説明し得ないことへ不安がかき立てられます。
ところで、『クリクリのいた夏』は、そんなフェリーニの如く、多様な物語素を投入しながら、それぞれのプロットを結合する全体的パースペクティヴに幾分欠いた物語であり、その構造から受ける印象は刹那的です。鑑賞者を牽引するという意味では、この物語は尋常ではない数のプロットで構成されます。すなわち、帰還兵(ヴェルダン帰り)萌え、師弟的友情関係萌え、幼女萌え、共同体形成萌え、徐々に迫る近代化萌え、終末(第二次大戦)萌えなどなど。わたしどもはこれらの事象が共通して示唆する決定的な事態を期待するのですが、物語は鑑賞者に嵐の前の静けさの如くな緊張を強いながらも、寸止めを最後まで維持し、決定的な結合に至りません。
ここで、『アマルコルド』との対比がでてくるように思います。類似した刹那的構造で世界を語りながら、どうしてフェリーニは鑑賞者を浮かせ得るのに、ベッケルは萎え萎えなのでしょうか。けっきょく、冒頭の想定をひっくり返してしまうことになるのですが、ベッケルが本当に羅列的に世界を語っただけに比して、フェリーニは刹那的にシークエンスを配置しているように見えて、実はかなり生真面目で論理的な順列で空間を語っているのです。それは、季節的な変動という循環的な時間と共同体と人格の変動という不可逆な時間の明確な区別と、相互の螺旋階段状の交差に他なりません。
わたしどもが『クリクリのいた夏』を回想する時、沼地を回遊する混沌に目眩を覚えます。一方で、『アマルコルド』には、空間への明確な感傷が残ります。情緒は情緒そのものではなく、論理的な思考の枠組みによって、逆説的に伝達するしかないのであり、それが人間の思考の限界でもあるのです。
物語を語ると実存性が喪失するが、物語を語らねば始まらない。フェイク・ドキュメンタリーが演出家に課すこのトレード・オフを、『ありふれた事件』は中途半端に解消し損なう一方で、井坂聡はドキュメンタリーという様式を極端な物語が破壊するという形で、強引に解決します。その物語とは、おたくという生き方が一生を通じて被らねばならぬ生活経験――社会的抑圧→キレる・開き直る→諦念――を系統進化の如く一日の内に展開するあざとくも物語的な景観で、様式を放棄した代わりに獲得されたのは、『ありふれた事件』では望むべくもなかった湿度の高い感傷だったのです。
人間を完全にマトリックスに閉じこめておくには膨大な資金と時間が必要で、そこにある種のファンタジーな飛躍が必要とされます。よって、中村嘉葎雄ていどの金と暇では、せいぜい作為的な空間を一時的に構成して、優作ひとりをいぢめて神経衰弱にするのが関の山だったりします。しかしながら、この一時的にしか成立しない空間というものが厄介なもので、論理的に完結した自己準拠的なマトリックスならば、それを脱し別の系に移行した時、その把握が容易かも知れませんが、中村嘉葎雄の人工空間は貧弱であるが故に境界が曖昧で、原田芳雄の援助で中村の魔の手から脱したとしても、それが本当にリアルな空間なのか却って判別が難しいという嫌らしさなのです。
単身男性に接続される複数の恋愛回路、つまりもてもてをめぐる古典的な煩悶は、一般的にむかつく景観とされます。『アパートメント』は、一面において、男性へ投擲される複数女性からのらぶらぶ光線で鑑賞者の気分を破壊しつつも、また一方で、物語の大半に渡って単一のラインしか追従しない彼の行動の一貫性と、その選択に対する倫理的な支持を基に、意図のすれ違いと妨害のエンターテインメントを語ります。
主人公の恋愛行動を正統化するものは、先任者であることの優先権とその関係が他者の意図によって破綻したことへの配慮です。この正統化の裏返しとして、物語は、かつての関係を破壊したロマーヌ・ボーランジェをいぢめ、あくまで鑑賞者の欲望に忠実であろうとします。しかし、興味深いことに、このいぢめはラース・フォン・トリアー級のメルヘンに達するに及んで、今度は鑑賞者の不安をかき立て始めます。行き過ぎた勧善懲悪にありがちな、快楽の追求に伴う罪悪感です。同時に、主人公の行動へ情緒を移入する契機となってきたわたしどもの倫理的基盤が危うくなるのです。
物語は、恋愛の選択を道徳価値で比較して、行動を正統化したきたはずです。ボーランジェよりもモニカ・ベルッチの方が、物語の価値観において優先権があると判断され、その判断が鑑賞者の情緒移入を促してきました。ところが、ボーランジェが執拗にいぢめられ、その妙に嗜虐心のそそられる泣き顔に欲求の罪深い充足を覚えるようになると、結局、問題は顔面造形の問題に帰してしまうような気もしてくるのです。果たして、わたしどもの価値判断は、倫理的準拠ではなく、単に顔の好悪でなされていたのでしょうか。わたしどもの道徳的錯乱がこうして始まるのです。
パッケージを前にしてわたしどもがこの物語に求めるものは、いうまでもなく善人ニコちんの幸福と不幸の動態にちがいありません。物語は、その期待に反して、不幸の動態に関してはあまり刺激ある景観を語りません。ニコちんが最初から超人化を果たしていること、それに活動する空間が狭すぎて、不幸を挟み込む余地に欠けることが、生ぬるい空気を醸成するのです。もっとも、好感の持てる人格が幸福であれば、それだけでエンターテインメントでもあって、特にニコちんの困惑顔が見受けられないとしても、それはそれで幸せであったりする二十代後半男の微妙な乙女心なのです。
だがしかし、とわたしどもは逆接の接続詞をここで語らねばなりません。生ぬるい空気が更なる淀みに進展するなか、標準的なジャンルムービーにしては奇妙な景観がわたしどもの眼下に広がり始めるのです。当初は、意味を付加し得ない過剰で奇矯な破壊が、物語の違和感を構成しますが、やがて、ニコちんが的確に「マンガのような」と形容する形態で唐突に登場するスティーブ・ブシェーミ(=俺)の降臨を持って、物語はジャンルムービーであることを清々しく放棄してしまいます。
以降、『コン・エアー』はブシェーミ(=俺)が気障で影のある微笑みで世界を語る様の一々に興奮するだけの物語となります。『コン・エアー』最大のサスペンスを形成するのは、ニコちんの危機迫るアクションでも何でもなかったのです。それは、途中下車したブシェーミ(=俺)が、思わず童女とママゴトしちゃったりして、「ダメよ〜ブシェーミ(=俺)、童女に手を出しちゃダメダメよ〜」という類の情緒高揚のメカニズムだったのです。
『コン・エアー』のクローズドシークエンスは、様式的なアクションがはびこるこのジャンルにあっては、もはや神話的な情景といってよいでしょう。もうよかったねシーモア(=俺)@『ゴースト・ワールド』と、その情感はついに作品領域の枠を超えてどこまでも肥大して行くのです。
不安を隠蔽すると、かえって不安になるものです。ヘタレた若者の成功物語という完璧なエンターテインメントが、どうして不安を示唆するのか、不安にならざるを得ないのですが、すべてはティム・ロビンズの巧妙な惚け面で偽装されているのであって、その裏にあるのは、天然的才能に職業的経営者が敗北し、会社を乗っ取られる物語だったのです。いわば、凡才が天才に出会った時の気持ちの悪い恐怖を描画する古典ジャンルの変則形態であった訳で、これでは不安になるのも無理なかろうと安心して、直後にますます不安になる秋の夕暮れなのです。
ここでウィリアム・ホールデンはふたつの課題を背負っているように思います。ひとつには、ヒモ生活の脱却に関するもので、あくまでお話の枠組みの中での負い目です。もうひとつは、腹立たしいことに、ヒモの癖にもてもてモードに突入して、鑑賞者の倫理的不興と嫉妬を買ってしまうことです。夜な夜な抜け出して、娘とシナリオ制作ぅぅっ――などとライターは私利私欲で己の妄念を公のメディアに投影してはいけません。無人のセットでいちゃつくとは何事ですか。
このふたつの課題は、如何にして解決せねばならなかったのでしょうか。ワイルダーはそこで大いに根性を見せることになります。物語は、ヒモ生活の棄却によるもてもてモードの完遂、つまり最悪の結末を語る代わりに、何もかも棄ててしまう「ぶち切れて田舎へ帰る」カードを提示します。蓄積しつつあった鑑賞者の心理的疲弊は、ようやく打開するに至るのです。
晴れ渡る鑑賞者の心持ちに、すかさず情緒の花を添えるのが、言うまでもなくエイリッヒ・フォン・シュトロハイムの秘匿されたプロのおやぢ萌えです。最後は、このおやぢが青臭いホールデンを完全に喰ってしまい、さすがに『大いなる幻影』を超技巧的なやおい演技で浮かせただけはあるのです。
一般に人間は空虚に耐久性を有しない生き物なので、スケジュール管理の破綻で持て余された時間であっても、否が応に浪費せねばなりません。何かしていないと狂ってしまうのです。けれども、暇つぶしにも才能が必要らしく、ヴィム・ヴェンダースはマニュアルのような執拗さで、そうした才能の有り様を描画しつつ、他方で能力に欠けるがためにバーで飲んだくれるしかない人々へ生暖かな視線を送り、その明暗を対比します。そして、アートも酒もままならないのなら、仕事を求めて大西洋を越えるしかありません。しかし、そこに待ち受けるのは、中年おやぢのオールナイト説教だったのです。
俗世間の知恵が想定しがちな如く、果たして、恋愛AVGの手軽な恋愛へ過剰にのめり込むことは、現実なる恋愛の価値を軽量化するのでしょうか。むしろ、事態は逆と言わねばならないでしょう。哀しむべきことに、優しいメイドさんや難病に罹患してしまう白痴の娘や盲目の先輩といった、現実ではお目にかかるのが希な女性としか恋愛が成立しないような錯覚に陥り、恋愛という現象が余程に困難な事業に思われてくるのです。したがって、オードリーが男と一日いちゃついただけで、あそこまでもうダメダメなんてあり得ん、絶対まちがっとると変な意味合いにおいて興奮するのですが、多分あり得るのでしょう。
いずれにせよごく個人的な愚痴は放っておいて、わたしどもがワイラーから学べるのは、もっと別な事柄なのです。それは、感情の露出に制約がかかるからこそ、威力が乗数倍に膨張するらぶらぶ光線の非人道的な破壊力に他なりません。衆人環視下、ふたりは目で世界を語る他なく、以下アップショットで――、
オードリー「(目かららぶらぶ光線)」
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グレゴリー・ペック「(目かららぶらぶ光線返し)」
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オードリー「(目かららぶらぶ光線返し)」
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グレゴリー・ペック「(目かららぶらぶ光線返し)」
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オードリー「(目かららぶらぶ光線返し)」
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グレゴリー・ペック「(目かららぶらぶ光線返し)」
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何回、光線応酬のカットバックが続いていったのか忘れましたが、とにかく凄まじい粘着で、いったい半世紀も前に、ワイラーは何をやっているのでしょうか。
中年おやぢは、もっとスマートな生き方も可能であったと思うのです。道に迷った裸足の宇宙人を保護するのは仕方ないとしても、不用意に用途の不明なボタンを押してはなりません。人を何気なく信用してまんまと詐欺に遭遇するのも、中年おやぢとしての熟成が足りないと言わねばなりません。そして、何よりも不可解なのは、手短な問題解決行動を放棄してまで、利己的なプリュク星人に投げかけられる愛の在り方です。おやぢは、不器用と情熱で、そのおやぢの如くな造形を誇り、同時に災厄を招来して、相棒の若者とわたしどもに体で人生を語ります。
理念的な行動論が描画する世界と、おやぢの日常現実なる行動の不自然な乖離に思い至るとき、物語が露骨な訓話に過ぎないことの興醒め感に、わたしどもは襲われることになります。同時に、その感傷は心的混乱でもあって、つまり、おやぢの愛が不可解に思われるということは、わたしどもの倫理的感覚が世間のそれと逸脱している証左ではないかと、そんな不安にも苛まれます。良識の欠損が最終的に至るのは、孤独という感覚だからです。
ところで、かつて吉村公三郎先生は『きみぃ、ワンカット千年だよ』と助監にのたまったものでした。ワンカットで天文学的な時空経過を語りうるというこの示唆は、おやぢが越えねばならなかった訓話という物語の壁であったようにも思われます。おやぢは気の遠くなるその空間を、豪気極まりないダイレクトカットで横断し、循環するかのように見えてまるで異なる世界に到達します。彼がそこで出会うのは、メルヘンが訓話を瞬時に内に破壊する幸福な景観でした。
直截にアプローチすると感情の信憑性が疑われるゆえに、恋愛は特有のテクニカルとも謂うべきスタイルで語られねばならない。ヘレン・ハントが催眠術にかかった振りをして、恋愛を語らねばならなかったように(『スコルピオンの恋まじない』)。それでもって、今度はミア・ファローがウディ・アレンに催眠術をかけてみると、いきなりこの男は愛の告白を始めて、おたおたするミア萌え。ハントが意識的に感情を偽装したが為に、なおさら嬉しい恥辱感を増幅し得たのに比して、ゼリグのケースは、そこまで意思伝達の捻れはなく、印象は案外にストレートである。むしろ、ドキュメンタリーという語り口が、この古典なる恋愛と救済の物語の照れ隠しになっているように思われる。
このお話はけっこう動揺していて、ドラえもんのメカとしてのアイデンティティが、腫れ物を触れるが如く扱いになってる。メカであることを思索して狂ってゆく機械の集団とコンタクトしたドラえもんは、笑いながら「ロボ警報装置」なるものを仕掛け、貴様もネコ→タヌキ型ロボではないか、オートマンとしての誇りはないのかと突っ込みを許容する。
のび太をはじめをするヒューマン連中が、メカとしてのドラえもんを何も問題としないように、メカ娘どもも彼がロボであることを意識すらしていない。メカ娘が、真っ先にせねばならなかったのは、ドラえもんに対するイデオローグな思想工作だったはずだ。
のび太が全般に信頼し、メカ娘が最初から諦めねばならなかったドラえもんの思考。これが示唆するところは、彼の思考を語るアルゴリズムの完成度とそれにかかわる無数のエンジニア、数理論理学者に象徴される22世紀という広大な社会の基盤だろう。その層の厚さは、物語の終盤、メカ娘の家内工業的な生い立ちが明らかにされるに及んで、鮮やかな対比を成すことになる。
シュトロハイムがピエール・フレネーへ送出する眼差しの熱さは、腐女子というパースペクティヴを要請するようで、そうでもしないと行動に解釈を挟めなくなるほど、おやぢどもがフリーク・アウトする。これが最大の見所か。
ただ、おやぢどもの異様な盛り上がりは、劇中の若僧どもにしてみれば困惑千万で、あきれ果てた彼らは、この危険なる花園から脱出を試みている。若僧どもは、逸脱するおやぢどものアンチテーゼとして、物語に規範を与える訳である。
しかしながら、若僧どもは若僧どもで、自由の身になった途端に男日照りの人妻へ手を出す始末で、これではおやぢどもの方が増しではないかと、怒りを誘う。ちなみに、人妻の幼子に童女愛好癖を煽られそうになったことは内緒だ。
発声法で、人格を変貌させてしまったかのように見えるミア・ファローがけっこう微妙で、発声というきわめて表層の変貌に、人格への判断が依存しているのではないか、という不安がある。それは例えば、國府田マリ子と飯塚雅弓を比較する際の当惑みたいなものであって、つまりマリ姉がらっぶらぶで飯塚が白痴なのは、人格の差ではなく、単に演技に関するスキルの差に起因するものだとしたら、人を価値判断する際の人格傾斜主義は、そこで呆気なく崩落することになる。わたしどもは、仕方がなく、演技という技術の向上が人格の成長を伴うとか、逆に一定の人格的基盤がスキル成長の前提にあるという具合に、別なる想定に望みを託さねばならなくなる。
世間的知見からすれば苦行に類するものと思われる行為の数々を、リーアム・ニーソンが悦楽すらも覚えるかのようになってゆく景観が語るのは、障害者に生き甲斐を与えることに関する極端な訓話です。甘い物理法則、脇の甘い人々の群れも、ハンディキャップに相当する装置と見れば整合的です。もっとも、この思考は、ファイナルマッチの相手がただの高層建築フリークという『グラディエーター』ふうの結末へ結実するに至り、情緒の高揚に負荷を与えてしまうように思われ、ハンデを分配することの困難をわたしどもに教えてくれているようです。
炭坑物、という物語のフォーマットは、斜陽する大英帝国の生み出した世界に対する貢献のひとつだと考えられています。落盤事故、不況、近代化、閉山。炭坑という言葉から連想される物語の装置は数多く、どれもがエキサイティングです。そして、炭坑を前にして、演出家に課せられるのは、この魅惑的な舞台装置を用いて、いったい何を語るのか、という問題にほかなりません。宮崎駿老はロリコンだったので、炭坑へ少女を降下させてしまいました。マーク・ハーマンは、炭坑の吹奏楽団にタラ・フィッツジェラルドを送り込み、ダルドリーは、ゲイリー・ルイスの息子にバレエを習わせつつ、彼に「俺たちに未来はあるかあああ!」と叫声せしめ、物語を萌やしました。では、ジョン・フォードは、田舎娘のモーリン・オハラのもとへ何を送り込んだのでしょうか。それが、インテリ男、ウォルター・ピジョンだったのです。
物語という表現のテンプレートにあって、田舎へ出てきたインテリは、田舎娘の好意を享受してしまう宿命にあります。これは、田舎娘が文明という威光に脆弱であるという幻想が、わたしどもの中で如何に強いか、という証左でもあります。ジョン・フォードもその例に漏れず、オハラは一発で大学出の牧師さんにしてやられ、わたしどもに夢と浪漫を与えます。
しかし、腐ってもジョン・フォード。彼は、浮かれるわたしどもへ試練を与えることも忘れません。田舎へ出たインテリがもてもてになる景観を描画すると同時に、その限界についても言及します。つまり、金持ちのぼんぼんの登場であり、あるいは、チャン・イーモウで言えば、インテリは文革の余波で、チャン・ツィイーと別離せねばなりません。
インテリに投入されるこれらの障壁は、また、妨害によって過剰になる愛の古典的なあり方ともいえるでしょう。ぼんぼんの人妻とならざるを得ないオハラは、目かららぶらぶ光線を発射するしかなく、わたしどもを否応なく興奮せしめる体となるのです。
ケビン・コスナーの性善を段階的に描画する有り様が、よい意味で教科書的で、古典的な情緒高揚のメカニズムの大切さを沸々と訴えるやいなや、いきなり、キャンピングカーを破壊して、川辺で焼肉パーティーをおっぱじめるイーストウッド老の前衛。コスナーはコスナーで食堂のおばさんとスケコマシを開始。誰も必死にならない内に、終局は自分の方からいつの間にか飛んできて、困惑したイーストウッド老曰く「もう何もわからん」。不思議な文芸情緒が広がった。
この物語が語るエンターテインメントは、意図が不明で無秩序な行動が解釈される過程を通じて誕生します。逃亡先の大阪で乱脈する文太は、まだ理解の範疇に辛うじて収まるのですが、帰郷後の周囲を泣かせ放題な行動に至っては、もはやその意図を計ることができません。そこで、山下は、文太の周辺に梅宮、津川、渡辺文雄という大人を演じられる俳優たちを入念に配置し、文太の心理が彼らによって解体されるように仕組みます。
文太の行動はやがて、世界が彼を許容できる範囲を超えることになります。梅宮は、文太を見捨てたことの後悔から激情します。しかし、一方で、彼はあくまで大人であって、津川や渡辺とともに戦後処理に奔走し、事態は均衡から逸脱することはありません。演出家は理性への信仰を全うすることに成功したのです。
愛玩動物のサイズとその能力は、空間の把握という点で、ある独特の極端を可能にするように思います。通例、映画は人をメインの被写体としますので、愛玩動物の眼差しで世界を眺めるとき、基軸となるアイレベルは低めに設定されます。にもかかわらず、その固有の身体能力により、舞台の構造を用いた地平線に対する垂直的移動が容易ですから、アイレベルは簡単にその高低を可変します。都会というステージが、その垂直移動をさらに強調します。
光学的な幅の広さに由来する心地よさというものは、いわば、リー・リンチェイの肉体言語が、それだけでエンタテインメントに変容してしまう事と軌を一にするものです。モーション・ピクチャに固有の、他者の運動によって実感される空間の媒質感、とでもいうべきものでしょう。そして、それは、この映画の幸福でもあり、また、リンチェイ先生が往々にそうであるように、不幸でもあります。肉体で語られる世界は美しいのですが、しかし、ある種の情報伝達の効率性に劣ります。したがって、視覚的に認知の可能な空間の媒質感が、限りある時間の中で人生を語らねばならぬ、という目に見えない抽象的な時空間を圧倒し始めます。結果として、豚は狡猾にならねばなりません。他者の好意をどう猛に希求して、自己アピールに努めねばなりません。限りある時間の中で、世界を語るために。
ここで語られる恐ろしさというものは、イベントの進展に由来するというよりも、それを眺める視点の変容によって、特に恐ろしくないものが恐ろしくなってしまった類の現象といえます。また、別の言い方をすれば、物語は最後までイベントそのものを恐ろしいものとして描画することを避けがちです。最初にわたしどもが恐ろしいと思うのは、ソン・ガンホというトリック・スターの視点で世界が描画されてしまうことで、これは不安と同時にコントでもあります。物語が秩序を取り戻すには、常識人の投入という教科書通りの展開を待たねばなりません。それにともない、ソン・ガンホは一時的な退場を課せられます。
ところで、視点の変容による恐ろしさには、両義的な意味合いがあります。それは、前述したように、恐ろしくないものが怖くなることですが、同時に、自分が変わってしまうことそれ自体への恐ろしさでもあります。
白痴は成長せねばならぬというセオリー通り、ソン・ガンホは世界をより抽象的な次元から眺め始めます。これには、相棒の常識人がダウナー化して、ソン・ガンホとは対照的な成長曲線をたどるおまけが付きます。
ソン・ガンホには、天然系の捜査官にありがちなスキルがあって、人の目を見て犯罪者を感知することができました。あるいは、少なくともそう信じてました。ところが、成長を果たした彼は、犯人と目される、如何にも物語的に犯罪者っぽい青年の顔をのぞき込んで、嘆きます。「もう何もわからん」。
物語は、クローズド・シークエンスで、冒頭と同じ景観の中、ソン・ガンホに同じような行為をやらせます。彼は、排水溝をのぞき込み、そして田園を眺めます。景観は、数年前のそれと物理的な眺めはほとんど変わっていないはずなのに、冒頭に彼の目にしたそれとは明確な落差があります。その落差が、視線の抽象化と対応しているのです。
男色趣味に目覚めてしまい、それに倫理的な恐慌をおこすのは、個人の内面の問題です。そして、その感情のきっかけとなった恋慕の相手が、ホモセクシャルか否か、と問いかけがおこなわれるとき、それは他者を志向するにも関わらず、同時に、問題をさらなる個人的な内面に限定してしまいます。例えば、『マグノリア』のウィリアム・H・メイシーで、自分の恋慕の相手がホモセクシャルかどうか、彼にはわかりません。反対に、なぜか相手が同じ性癖となると、認めないとするおのれの性癖を他者から強迫されるコントが語られ始めます。『イン&アウト』であり、また、本作もその部類に入ります。ただ、『イン&アウト』の他者が欠損気味で、『御法度』が松田龍平を中心とした一極集中型とすれば、こちらのホモセクシャルは、関係の分散性・並列性を持って語られます。坂本×ボウイ組のようにパッションに走るか、北野×ローレンス組のように大人の愛をじっくり育むか、という提議です。それはまた、中学生の合宿を眺めるかのような視点を持ち込んだ演出家の優しさから、可能になった問いかけともいえるでしょう。
演出家が、リチャード・ギアを扱う際に直面せねばならぬ困難というものがあって、つまり、あのイヤらしい笑顔にいかなる始末を付けるのか、多くの人々の途方を長年にわたって暮れせしめています。ホブリットもその例外であるはずがなく、苦悩の末に、彼はある悪魔的な発想にたどり着かざるを得ませんでした。すなわち、あのニヤニヤ顔へノートン先生をぶつけてみたら、どうなるのであろうか?
リチャードの行動指針に関して、物語は首尾一貫しています。それは、ニヤケ顔による限界への挑戦と表現することができるでしょう。初っぱなから、元カノへニヤケ顔を近接させ、スケコマシを開始するのはもはやコントです。しかし、それがノートン先生となると話は別で、そんなにニヤニヤしていて大丈夫なのかと、わたしどものドキドキを誘います。むろん、大丈夫な訳はなく、ノートン先生はまたしても(といってもこちらが先なのですが)アレでナニなことになって、リチャード吃驚、鑑賞者は大喜び。
ただ、そうかといって、リチャードからノートン先生へ安直に主導権が渡ってしまうことはなく、リチャードは案外にも老獪に、アレでナニと化したノートン先生をニヤニヤとコントロールしてしまうのだから大したものです。物語は、大人の余裕の美しさを高らかに語り始め、それにともない、あのイヤらしい笑顔がらぶらぶになってくる恐るべき事態が招来します。ここにおいて、ニヤニヤという表層は、スキルという実体に裏付けられたと解釈できるでしょう。
すこし見方を変えれば、このお話は、ノートン先生という爆弾をたらい回すゲームともいえるでしょう。爆弾はリチャードの手から糞生意気な元カノの手に放られ、そこで爆発します。結果、失意で弱気になった元カノは、リチャードに口説き落とされる始末で、これが大人というものなのです。
しかしながら、これでよいのでしょうか? リチャードのニヤニヤに覆われた世界は、果たして、それでよいものなのでしょうか。そこでようやく、われわれは演出家の苦渋の決断を知ることとなるのです。
人生はテクストで語ることもできるし、モーション・ピクチャで語ることもできます。コストならテクストの方が有利でしょう。そのかわり、動画は情報量が豊富です。といっても、情報の種類によって、伝達の効率性も変わるもので、学術論文の語る人生を、モーション・ピクチャで語るのは、あまり適切な選択とは思われません。つまり、情報にはそれ相応の適切な表現媒体があるということです。
例えば、死に際のウディ・アレンが語らねばならない情報は、最初はテクストに近い形で、つまり当人のナレーションで語られます。視覚情報も、それを語る人間のバストショットです。やがて、OFF台詞はルイ・アームストロングにバトンタッチされ、ウディ・アレンのむくつけきカットは、シャーロット・ランプリングの破壊的な上目遣いらぶらぶ光線ショットに代わります。
アームストロングとランプリングのカップリングが語る人生は、その直前にウディのOFFが語っていた人生と同義です。ただ、表現の媒体が代わっただけです。しかし、その際、わたしどもは、情報の精度に根本的な違いがあることに気づかされます。情報は、その発現に有利な環境を求めて、移動していったのです。
『パト2』以降、押井守の中で顕わになってきたのは、大人の恋愛を描画する際に考慮せねばならない、ある忌まわしき問題への困惑だった。恋愛を恋愛として語った時点で、大人の恋愛ではなくなる、という困難である。この問題に関して、『パト2』『アヴァロン』では量的に、『攻殻』と本作では質的にアプローチされているように思われる。言葉を換えれば、前者は感情の隠蔽と洗練であり、後者は意識の微妙と表現されるだろう。
感情の隠蔽は、恋心の明確な意識を前提としている。隠蔽すべきものがないのなら、隠蔽が成立しないからだ。したがって、後藤さんは、明らかに忍さんへのらぶらぶ光線を自覚していて、その顛末は、赤裸々な告白という形で暴発し、一部好事家の乙女心を揺さぶっている。隠蔽と告白の洗練によって、恋愛を大人のそれらしく偽装する皮相的といえば皮相的な方法かも知れない。
対して、バトーはより原初的な階梯にあって、自身の感情が恋愛なのか友情なのか、あるいはそれらを越えたものなのか、分類の不明な混沌にある。小賢しい偽装などそこにはないのだが、これはこれで問題であって、つまり、情緒の未発達な小学生風の天然体になりかねず、事実、終盤で大好きな素子さんとはしゃぐ模様は、小学生であったりする。
一定の空間を封鎖することで成立するスリラーと旅客機というステージが、密室という点で基本的に親和性を有するのは想像に難くありません。しかし、航空機がスリラーに足りうる空間を果たして確保できるか否か、ということに視点を向けると、その相性を留保せざるを得ないように思います。機体の内部空間が狭すぎるため、とりうる選択肢に欠け、最悪、スリラーが損なわれかねません。そこで、『コン・エアー』は、不自然とも言える強引さで、スティーヴ・ブシェーミを投入し、スリラーを物理的次元から精神的なそれへ逸脱せしめなければなりませんでした。対照的に、『エグゼクティブ・デシジョン』は特定のキャラクターを排除することで、機体にスリラーを誕生させます。すなわち、セガールのほとんどコント然とした途中退場です。
セガールの如くな超人をあんな狭い機体の中に放り込んでしまったら、イヴェントが上映時間に耐え得るほど持続するはずがありません。よって、セガールは排除されねばならず、後に残されるのは、精神的支柱を失うと脆い体育会系と力仕事全般がダメな文系のへっぽこ混成団。物語は彼らのやせ我慢の日々を語り始めます。
それは、また、文系と体育会系の哀しき融和の物語でもありました。なぜ、哀しいのかというと、そもそも文系軍団の元締めが、カート・ラッセルであることが、何かの間違いだったと言わねばなりません。ラッセルはとっとと超人化してしまい、体育会系の敬意を勝ち取ります。文系と体育会系の融和は、文系の体育会系化を持ってしか、語り得なかったのです。
ストーリー工学からの要請で、物語は世界を防衛する事業を個人や零細企業に付託しがちです。本来ならば大規模な公的機関の仕事を一身に負わされてるわけですから、そこに何らかの歪みが生じても不思議ではなく、例えば、コナー家の一人息子は、人類を救う戦いの過程でPTSDに罹患しますが、そのプロジェクトがごくプライベートなものとして扱われてるため、ニート化した彼は社会福祉の恩恵を受けることができません。言葉をかえれば、共同体と個人の貸借関係がきわめてアンバランスな状態にあると表現してよいでしょう。成員への借りを共同体が全く返し切れていないのです。
共同体がその成員の思考を基盤にする以上、偏ったバランスシートは是正され、成員の共同体への信頼は回復されねばなりません。共同体への自己犠牲で見失われた個人の人生は、共同体の手で回復されねばなりません。かくして、ふたたび刺客が送り込まれ、コナー家の一人息子は人生の動機を回復します。その結果として、今度は共同体そのものが半壊してしまう有様で、いわば、個人のために共同体が犠牲とされた体であり、そこに至って物語は、こうした極端なやり方でしか愛を語れない人類の不器用を愛でる視点を獲得するようです。
世界が監獄という名称を受けるとき、それは、ごく即物的に語ってしまえば、行動の制約にかかわる問題であり、そして、その制約は、世界に対するコントロールの困難を示唆します。ジョーン・クロフォードにとっては、姉貴というユニットの制御が困難になりつつある事態であり、かつ、不具となった己の身体のもたらす行動の制約です。脱獄すべきステージが、これで用意されたことになるわけです。
反対に、姉貴のベティ・デイビスにしてみれば、クロフォードの行動は負の相関にほかなりません。妹が世界に対する制御を取り戻すに応じて、自分の自由が制約されかねません。両者とも互いの制御不可能性に怯え、かつ、競合せねばなりません。
けっきょく、世界というものは、ベティ・デイビスの前にひとつの謎として提示されます。競合に勝利を収め、下部ユニットを完全に把握するや否や、実は、その行動が、世界が人に寛容でいられる限界を超えています。彼女が制御すべき対象として認知していた下部ユニットは、同時に、彼女を制御していた上部ユニットでもあったのです。
チャン・ドンゴンが夜な夜なうなされる夢を、欲求不満の現れと考えるのなら、仲村トオルの「結婚しろ」という助言はきわめて的を得たものと考えねばなるまい。往々にして思想団体は、人のこうした心的混乱に乗じるもので、ドンゴンのつれて行かれた地下室には、“先生”と称されるいかにもアレな老人が待ちかまえており、曰く「君の知る歴史は歪められている!」 思えば、『マトリックス』のキアヌもこの辺から道を誤ったのだった。
と、これで終わってしまえばコントなのだが、異常に情緒的な大銃撃戦の最中、妄念が本気印に変換して行く際の神々しさを目の当たりにしてしまうと、ずっと洗練された『ブラザー・フッド』や『シルミド』が語ろうとして果たせなかったもの、つまり共同体への参与の正統化を、このお話はより巧妙に語ってるのではないか、そんな感慨も出てきてしまう。共同体という抽象物が、個人的な負い目のなかに実体を得て広がって行く。
世界に秩序を与えられない白痴娘が情緒の移入の障害になることは、幾度も指摘してきたことです。わたしどもは、そんな困難を克服して、世界に秩序を取り戻す手法として、娘を保護する健常者へ情緒を誘導する物語を検討しました。それは、例えば、トリアーの語るこの物語において、エミリー・ワトソンを保護する旦那――情緒の移入に障壁を抱えるその悪人面――が、彼女に対する感情配分の有り様を通じて、好意に値するその人格が発見されて行く過程です。
ただ、娘の周辺にあって彼女を見守る人格は、彼女の行動が理解をますます拒絶する方向へ深化するにともない、一種の背反が課せられます。理解不能な人格を理解する彼自身が、鑑賞者にとって理解が不能な人格になりかねないのです。
自らの混沌へ愛すべき旦那が引きずり込まれることに感づいたエミリー・ワトソンは、物語の秩序を妨害している自身の身体へ破壊の衝動を向け、世界に秩序を回復しようと試みます。破壊の後に訪れる寒々しいほどファンタジーな奇跡は、回復された世界の秩序を祝福して呉れているのです。