おねいさんは豹変する
難病物の一情景
内向的で他者と会話する事さえ気後れを感じるおねいさんが、ある日、いきなりわれわれにらぶらぶ・アタックをかけてきたらとしたら、この事態をどのように解釈すべきであろうか。
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仲村佳樹『一秒のロマンス』
P.17 |
われわれは、覚悟を決めなければならないだろう。なぜなら、実はそのおねいさんは、難病患者で余命幾ばくもなかったりするからである。
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仲村佳樹『一秒のロマンス』
P.17 |
ヘタレが好意を享受できても不思議はない人格として、われわれは前に「入院おねいさん」というカテゴリーを挙げた。長期入院中のおねいさんは閑を持て余しているので、河原でぼ〜っとしているヘタレ男に気紛れに声をかけても断じて自然な成り行きである。
難病で積極的になったおねいさんは、この「入院おねいさん」の別な側面である。余命を知ったおねいさんに、怖い物などないのだ。
自己の残存生存期間の認知とそれを巡る人格の感情変化・動機づけが、難病物の娯楽の最たるものと考えるのなら、この「難病で積極的になったおねいさん」はその美しい(あるいはベタな)事例と評することが出来る。
一方で、鑑賞者(ヘタレ)の感情移入の視点から考えると、また違った点が見えてくる。アクティブに変貌するおねいさんには、その初期要件として、変貌前には内向的(つまりヘタレ)であらねばならない。
そして、難病認知の段階で、彼女は脱内向的な軌跡を描き始めるのだが、これは前に議論したヘタレ鑑賞者を想定する物語における感情移入理論の典型的な事例である。
ベタなものにはベタなものたる所以があることを、このケースからわれわれは学ぶことが出来る。