映画感想 [701-800]

 『キル・ビルVol2』
 アメリカ[2004] 監督:クエンティン・タランティーノ

ふたり以上の人間が相互交流を行ってる集団を観察し、その成員の力関係を知ろうとするとき、わたしどもは、何を以て序列の基準にするか、考えねばなりません。あるいは、既成の階層秩序が、いかなる基準を以て人々を序列化してるのか、確かめなければなりません。それは、物語が往々にして語りたがる景観のひとつでもあって、わたしどもは、物語の語る人々の行為や態度のなかに、その力関係が徐々に明示されて行く過程を見ることになります。

この、力関係を同定せねばならぬという、人間にとっては始原的ともいうべき欲求は、それが達成されない場合、当事者と観察者を不安に陥れます。タランティーノが語るのは、座標軸が欠落することによる不安と、その不安が流転という時間の要素と結合することで生まれる儚い情緒です。

座標軸の欠落が意味する所は、物理的な暴力によって秩序づけられる、ドラゴンボール風の牧歌性にあふれるこの世界にあって、いったい誰が誰より強いのか、まるでわからないことによる混沌です。オラ強いやつと戦うとわくわくするんだ、ということですが、ではいったい強いとは何か?

地位や容貌、怨み節から判断してオーレン・イシイの方が、飲んだくれのビル弟よりも物理的な暴力において優れてるように思われます。ところが、案外にも、オーレンをメタメタにしたブライドは、ビル弟にメタメタにされて、ここで、ビル弟>ブライド>オーレンという序列が成立し、ダメダメな弟は実は韜晦というやつか、と納得します。

バドは後に、ダリル・ハンナにメタメタなので、とりあえず、ガラガラヘビ>ビル弟>ブライド>オーレン。この辺から何かおかしいことに気づき始めますが、そこですかさず投入されるリュー・チャーフィが緩衝剤となって、序列化は一応の完成を見ます。すなわち、師匠>ビル>ガラガラヘビ>ビル弟>ブライド>オーレン。

しかしながら、せっかく安定した力場は、次々と襲来する不可解なイベントにより否定され、灰燼します。ダリル・ハンナは最強と目されたリュー・チャーフィをやすやすと毒殺し、階層を大番狂わせにしたのも束の間、こんどは彼女がブライドにメタメタにされてしまい、ここいおいて仮定された序列は崩壊してしまいます。しかも、ビルは瞬殺される始末で、後に残されるのは力関係も糞もない不安な奥行きです。


先に、わたしどもが階層を想定し得たのは、地位が物理的な保証によって成立してるとする前提でした。簡潔に言えば、ビルは偉いから強いだろう、という世界観です。けれども、物語は、地位と暴力の相関を否定します。そして、ビルの感傷的な、師匠を評する台詞の中に、その理由が語られます。

「奴も年をとった」

かつては、地位とスキルが整合していた見た目の美しい世界が存在していたのでしょう。ただし、それぞれの成員は、固有の成長曲線を所持する以上、時間の進展に応じて、実際のスキルによる順位付けは変動を被らねばなりません。老化によりスキルを落とすばかりのメンバーもいれば、いまだ成長を続けるメンバーもいるでしょう。他方で、構造としての地位は、構造であるからこそ、変動を吸収せねばなりません。つまりは、それを保証するスキルはどうであれ、いったん成立したものは、惰性である程度までは継続が可能なのです。

もちろん、あくまである程度までであって、やがて混乱の後に、順位の再序列化が行われるか、それに能わない場合は、構造そのものが消失することになるでしょう。ビル一派も、そんな端境期にあり、しかも先行きには悲観的です。ブライドとしては、そんな混乱期にかちこみが出来て運がよいと見るべきでしょうが、その代償として、行為のモチベーションを失い始めます。時間が何もかもをスポイルしてしまったのです。

 『華氏911』
 アメリカ[2004] 監督:マイケル・ムーア

システムがその内容の錯綜に応じて自律性を獲得するという考え方あって、例えば、回線と結節点の重層が精神を生む景観は、サイエンス・フィクションにおいてしばしば観ることができます。ここでの自律性なる言葉には、制御下におかれていたユニットがもはやそうでなくなるというネガティヴな意味合いもあり、古代中国の訓話などは、巧妙なる造形がゆえに制御を逸脱してしまう工芸美術品の故事を語ります。

上の寓話が、『華氏911』と如何なる関連の上で述べられてるかというと、それは、マイケル・ムーアの人格造形技術を評する際に、わたしどもが嘆じずにはいられない、作家と物語と鑑賞者をめぐるコミュニケーションの悲喜劇を連想させるからです。すなわち、演出家の意図するイベントが、鑑賞者によって誤解されることです。

この問題は、作家が物語を思惟の精確なる伝達媒体と見なさない場合、言葉をかえれば、精確な意思を伝えようとする様式では表現できない情報を語る際には、ある程度は演出家に受容されるし、むしろすれ違いを興味深く思う人もあるでしょう。ところが、特定かつ精確な思惟を誤解なく伝達することにこだわり始めると、どうなるでしょうか。ここに、冒頭のアレゴリーの語る如くな悲しむべき滑稽な図式の生まれる余地があるのです。

その悲喜劇というのは、悪役を人格造形するムーアのスキルがたいへんに巧妙なる所に、全ての原因があります。『ボーリング・フォー・コロンバイン』の全米ライフル協会を観てみれば明らかで、物語は悲嘆に呉れる市井の人々を眺めるかと思えば、次のカットではそれをあざ笑うかのように「ガハハ」とはしゃぐ全米ライフル協会の集会を描画します。ここで、演出家の意図する所は明白ですが、同時に、わたしどもはその意図に全く反した、ある情緒の衝動が芽生えるのを覚えます。このおやぢどもの無神経が、世界の不合理な側面を示唆するに及んで、彼らが大変に愛おしく思われてくるのです。

『華氏911』もこの基本形に忠実で、むしろそれを増幅した景観を語ります。結果、市井の人々の惨状が強調されるほど、ドジ娘ブッシュたんのドジっぷりを愛でるような態度、ドメスティクなたとえ話で語るのなら、森内閣の時の福田官房長官のような心地、を要請します。演出家の人格造形技術は、本来は憎悪すべき対象を知らぬ間に魅力的に造形するほど、優れていたというべきでしょう。

 『評決』
 アメリカ[1982] 監督:シドニー・ルメット

女性をpick upするという行為は、それが成功した暁には、引っかかった女性の人格的資質に一定の留保を課すことになり、その筋の人をして、「まぶいスケというものは何と希少なことか」と嘆じせしめることになります。俺様がpick upしたくらいで引っかかる娘はきっとろくでもないものに相違あるまい、ということです。わたしどもとしては、pickup対象者の人格を保証するという意味で、その行為を正統化せねばならないでしょう。では、その戦略や如何に?

実は、上述の愚痴の中にそのヒントはあって、pickupする所の主体である俺様へ高い人格を想定するなら、新たな解釈を導入できるように思います。すなわち、俺様の人格的資質が度を超してるために、娘が引っかかるのも無理はない。ここにおいて、資質を問う議論は俺様へ転嫁されており、娘の人格は問題とされません。『ヒート』のデ・ニーロが、かろうじてpickupの正統性(納得性)を確保し得たのも、この戦略あってのことでした。

残念なことに、『評決』のポール・ニューマンがこの戦略を活用できるかというと、人格的資質に欠ける所が大であると言わざるを得ません。そこでは、彼の人格的基調は、テスト前の中学生とも言うべき、準備不足への悔恨に彩られた道化芝居として描画され、その人格を以て高度なpickupを遂行する余地はまったく見あたりません。彼のドジ娘振りは、物語にスリルを導入するために要請された宿命的設定であり、法廷ものとしてはエンターテインメントに欠けた勝敗の明かなゲームをニューマンのドジが不明瞭にすることで、物語が運営された代償と解せるでしょう。

以上の議論により、ニューマンの人格的限界から、彼にpickupせられる娘はその程度が知れる訳な筈なのですが、あろうことか、彼はシャーロット・ランプリングを一夜にして引っかけてしまい、わたしどもを違和感で苛みます。何かが絶対間違っているのです。

物語は、その不自然に作為性の介在という回答を与え、論理の一貫性を誇示します。同時に、不自然な作為でもなければシャーロット級おねえさんの好意なんか享受できるもんか、というpickup問題の困難を提起するのです。

ところで、このpickupに関する恋愛の困難、つまり俺様に惚れるような娘に惚れたくないような感覚は、微妙な変容を経て、愛情表現にまつわる主題として、再度展開されることになります。愛情を表現しようとした途端に、愛情が欠落してしまうあの呪わしき現象です。

クローズド・シークエンスを想起してみましょう。もし、ニューマンがシャーロットのらぶらぶコールに飛びついたとしたら、どうでしょうか。彼は、らぶらぶコールに飛びつくくらいに、彼女の行為を痛手と見なしておらず、したがって、彼女に対する思い入れの度合いが疑問に付されます。言うなれば、彼はおのれの愛着の深度を表現したいが為に、電話を取って愛着を表現してはならなかったのです。

 『ワイルド・ギース』
 イギリス[1978] 監督::アンドリュー・V・マクラグレン

軍隊生活やムショ暮らし等、厳格な統制を生活に課すようなプロジェクトが終わって娑婆へ放出されたとき、いったい俺は何をすればよいのかしらん、と自失の病に罹患してしまうのはありがちな現象で、人はそれを適応障害と呼んだり、選択肢の地平が拡張されたことによる意思決定の困難とか称したりして、人生の悲喜劇を愛でることになります。

生活空間への違和感ともいうべきこの事態は、たとえば、『うなぎ』における役所広司の如く、温暖な順応に至るケースもあれば、自滅的な色彩の濃い戦略で解消が志向されることもあります。統制された生活への回帰という現象です。

冒頭でわたしどもが、いつかは解放されるべき非日常へプロジェクト、つまり、前方への投射というある種の運動を示唆する言葉を用いたのは、日常と非日常の区別を、空間の把握に関して運動が介在するか否かに求めたからです。ムショ帰りの役所広司が刑務所生活の結果による極端な歩行運動で人々を驚かせたように、非日常は空間把握のために特異な身体・運動感覚の発達を促し、それに比して、平坦な日常を送るわたしどもは、停止した身体が視角の内にパースペクティヴを見出す形で、空間を把握する技術を習得せねばなりません。なぜ、日常という空間がそんな形で把握されねばならないかというと、話は簡単で、みんながみんな運動して空間を把握するようになれば、邪魔かつ危険極まりません。逆にいえば、運動によって空間を把握せねばならない非日常は、厳重に囲われるか隔離した空間で構成されねばならないでしょう。そこは、運動が想定されるために、保安上の問題から厳しい統制が要請される空間なのです。プロジェクトから解放された人々の被る生活空間への違和感は、空間把握のルール変更に耐えきれない身体の疼きみたいなものといえるでしょう。

『ワイルド・ギース』というお話は、いうまでもなく、日常という静止した空間把握のルールを要請する場所に適応できず敗残したおやぢどもの顛末に関する言及であり、よい意味でも悪い意味でも教科書的な対比が提示されます。すなわち、ロンドンの街角でくすぶる静止したおやぢどもの身体と、ドリル・サージャントに尻を追っかけられて喜ぶおやぢども。物語はおやぢどもへ移動に次ぐ移動を要求し、悪化する状況にはしゃぎ回る彼らをフォローして行きます。戦場でしか生き残れなかったおやぢどもの、対処療法風な切なき景観を目の当たりにできるのです。

 『シルミド』
 韓国[2003] 監督:カン・ウソク

「君はアウトローだね」

今は18禁アニメの脚本家として健筆をふるわれてる元上司のK氏にそんなことを言われたのは、四年前、五日市街道を走る車中でのことでした。アウトロー。わたしどものうぬぼれを誘うに価するなかなか格好のよい響きでした。

「男はやはりアウトローとして生きるべきだねえ」

そんなことを仰るのですから、わたしどもはますます増長の一途をたどらねばなりません。ところが、K氏は続けて曰く――。

「しかし、君の場合は、狙って道を外れたのではないな。知らぬ間に踏み外してしまったんだな」


『シルミド』という物語は、たいへんに明快な基準を以て、人間をカテゴライズします。すなわち、DQNか否か? 冒頭の、たいへん巧妙にその生態的特徴を捉えた船上におけるDQN描写を眺めれば、彼らのなかから非DQNを識別するのは困難に思われてきますが、物語はさまざまなフィルターを用意することで、DQNと非DQNを区分けして行きます。そして、その振り分けの基準となるのが、冒頭に語られた寓話の示唆する無意識・無自覚という病です。DQNがおのれをDQNと認識した瞬間、かれはもはやDQNではない、ということです。

わたしどもにしてみれば、DQNというたいへんにリスクの大きい生き方を理解の射程に収めるのは困難で、したがって、分離抽出した非DQN、たとえば第二班長の萌えおやぢ、等の人格を活用することで物語を運用したり、あるいは、DQN連の過去物語を掘り起こして、非DQN化を推進するのが定石であろうと思われます。ところが、物語はわたしどもの甘い期待をこれでもかと破壊します。萌えおやぢは実にもったいなく途上で殺害され、本来なら大いにわたしどもの情緒を刺激したであろうDQN連の過去は、その一切が執拗なまでに隠匿されます。これはなぜか?

じつは、そこに、このお話の男気かつ無謀な戦略があって、DQNを安易に非DQN化して安っぽい涙を誘うを良しとはせずに、DQNを不可解なDQNのまま温存して溶鉱炉に放り込むことで、無自覚という病理としてのDQNという生き方へ正面から立ち向かおうとしたのでした。

ライターの解したDQNという生き方。それは、徹底徹尾、無自覚という概念で語られて行きます。目的が喪失することで、動機への自覚が抹消し、ただ肉体のみが進化して行く心身の分離。超人化した肉体を制御できない幼稚な頭脳の焦燥。得体の知れない本能の赴くままバスジャックが敢行され、そして、かれらがそこで知るものとは――。自分が何者なのかわからない。つまり、自分に対する無自覚が、暑苦しい断末魔とともにようやく自覚されるのです。

 『地下鉄のザジ』
 フランス[1960] 監督:ルイ・マル



「お父さん、家の階段って今あるのかなあ?」
「そんなことどうでも良いだろう。急いでるんだから早く靴を履け」

(玄関口における或る親子の会話より)


視角の外にある世界の現存性を疑うことは、ごく初歩的な問いかけでありながら、且つほとんどの人間には実感の欠けてしまう考え方でもあります。おそらくは、階段は大工が作ったのだから、見えない所でもちゃんとその形をとどめているかも知れないし、あるいは、その親子の会話で父親が端的に述べた如く、それはそもそも「どうでもいい」、つまり、視角の外に世界があろうとなかろうと、視界の中に何事か見えてさえすれば日常の生活には支障がなく、したがって、考えるだけ時間の浪費だとされます。

もちろん、世の中は広いもので、視界の外で階段が消えないかどうか気になって仕方がなく夜も眠れないようになってしまい、日常の生活に支障を来してしまう人も居ないことはありません。けれども、ごく平穏な日常を謳歌する多くの人は、その疑念から免れています。それでは一体、先に触れた大工の存在以外に、彼らの確信を支えるものは何なのか。言い換えれば、フレームの外に在る風物は如何にして実感されるのか。


冒頭のリヨン駅構内で、フィリップ・ノワレはホームを突進しつつ近接してくる姉を待ちます。彼は、姉が自分の胸に飛び込むことを措定して身を構えるのですが、わたしどもの眺めるフレームの外には姉の恋人とやらが居て、彼女の突進せる所の真の原因を成しています。フレームの境界を明確にする映写幕の性質を利用したありがちな茶番で、ノワレは世界の案外を感ぜるが如くな顔をせねばなりません。それは、姉の目標物を見誤ったことによる肩透かしであり、また、視界の外に他人があったことの驚きです。フレーム外に世界のあることを姉貴の突進が想起させた形です。

ノワレ(と鑑賞者)の困惑はこの直後にも続き、こんどはフレームの外から何らかの攻撃を彼はその脚部に被ることになります。その時、フレーミングはノワレのバストショットで、わたしどもにしてみれば、彼が肉体的な苦痛に苛まれているのはわかりますが、いったい何が苦痛なのか不明です。そこで、カメラがパン・ダウンすると、彼の脚部に打撃を喰らわせたと思われる娘が居る。フレームの外にも世界があった訳です。

このふたつのサンプルは、いずれも、フレーム外の事象に依存する因果関係を言及しています。前に、空間把握の事例として挙げた『ソナチネ』のかちこみショットもこの文脈で語れそうで、フレームの外へ消える被写体と、フレームの中へ次いで現れるマズルフラッシュの対比とその前後関係が、フレーム外の空間を示唆します。


『ソナチネ』で述べた如く、空間のかような広がりにわたしどもは概して浮き浮きしがちです。わたしどもの視角の外にも世界があったという素朴な悦びとも言えるし、あるいは、もっとお話を拡張すると、自分が独りぼっちではなかったことへの安堵へつながって行くような気もします。


 『ブラザーフッド』
 韓国[2004] 監督:カン・ジェギュ

ぼ〜っと眺めていると、既視感がある。つまり、今さらいうまでもなく、これほど『SPR』の露骨な影響下におかれたお話はない。けれども、イベントの継起が重なる毎に、その既視感が気持ちの悪い歪み方をする。言葉を換えれば、語り口が『SPR』に近づきながら、同時に、そのシナリオを構成する思考のフレームが、『SPR』のそれとは完全に乖離してしまう。では、何が違うのか。

シナリオ構築の技術的な観点に限定すれば、『SPR』を答のあるお話、と解しても違和感はないだろう。ライアン一等兵の問題提起、すなわち、過剰な自己犠牲という不均衡は、その犠牲の貢献で彼が生存し、そして確保された何事かに、計数的な明快さで贖われている。ところが、『ブラザーフッド』にはまるで答が欠落していて、年老いたウォンビンは、発掘された兄貴の残骸を前にして、鑑賞者とともに面食らうことしかできない。答どころか、むしろ病理的な闇が広がっている。チャン・ドンゴンのなれの果ては、かたくなに意味と解釈の付与を拒絶してしてしまのだ。そこで、わたしどもの作業は、そもそもこの兄貴って何?――、という素朴な問いかけから始めねばならないだろう。

ドンゴンの行動を、お話が目論むようにレスキューミッションとして評価すると、これは恐ろしく過剰な二重遭難であり、ほとんどコントの域にまで達している感もある。彼の初期行動は、ミッションという過程そのものが目的になる、というごく標準的なパースペクティヴにとどまることは確かだろう。ところが、超人化のあげく完全にぶち切れて自爆してしまうあの極端な顛末を、この枠組みの延長に措定するには、どうしても亀裂を認めない訳にはいかない。嫁とウォンビンの安直な欠損では、燃料に不足するように思われる。兄貴の評価へ新たな視点を要請する由縁がここにある。

レスキューミッションではないとすれば、そもそも何なのか。

先のパラグラフとの重複になるが、『ブラザーフッド』を否定的な文脈で扱う際によく指摘されることとして、不条理なまでに端的な兄貴の超人化が挙げられる。ドンゴンが無茶苦茶に強すぎて、ないやらもうわけがわからん。しかし、この断絶は合理化できないこともない。ドンゴンは超自然的な現象の結果として殺人マシーンに変貌したのではない。もともと彼は天然に殺人マシーンであって、そもそも平時にあっては、その恐ろしげな素質は単に潜在化していただけである。

殺人マシーンとしての兄貴からすれば、弟の存在は束縛でまたあり重しでもある。そこから見えてくるのは、弟の未来のために食いつぶされて行く兄貴の才能という物語である。そして、非日常の到来は、ウォンビンという重しを外し、兄貴の中の眠れる怪物を解き放つ。ここで以て、物語はドンゴンの視点で自身を語るのをやめてしまい、視角は弟によって担われるようになる。怪物に物語という論理秩序は語れないからだ。

弟にしてみれば、ドンゴンは、自分の責任によって誕生してしまった災禍であり、そこで初めて、自分は兄貴の従属物ではなく、むしろ兄貴の暴走を制御する主体であることが判明する。それは、原子力発電のアナロジーみたいなもので、燃料制御棒としてのウォンビンは、原子炉たる兄貴を制御すべく、炉心を往来する。遠すぎると兄貴は暴走する。近づきすぎると運転は停止。

したがって、わたしどもはこう答えることができるだろう。『ブラザーフッド』とは、怪物の誕生、及びその制御の試みと失敗を標榜する怪獣物語であると。兄貴の残骸に向けられたウォンピンの眼差しは、船上にあってオキシジェンデストロイヤーの泡沫を眺める志村喬のそれであったと。

 『ドーベルマン刑事』
 日本[1977] 監督:深作欣二

刑事捜査の担体となる集団の特性から、刑事ドラマはしばしばバディムービーを語り、したがって、バディムービーが語るところの、異質なる構成原理の闘争および和解に論及します。それは、一例において、世代間の物語かも知れません。『野良犬』('49)や『セブン』('97)の老刑事と若手刑事、『砂の器』('74)の中年刑事と若手、というよりも丹波哲郎と森田健作の恐るべき対置。あるいは、また、それは文明と野蛮のコンタクトにおいて語られることもあるでしょう。たとえば、『殺人の追憶』('03)の田舎刑事と都会刑事の対比。

埃っぽい農村で土俗的な活動に勤しむソン・ガンホに、キム・サンギョンが文明の光を当てるのですから、とりあえずは『殺人の追憶』を文明優位型と解すことはできるでしょう。これが、『ドーベルマン刑事』になると、立場は逆転して、石垣島から出てきた千葉真一は、不条理極まりない捜査手法で、藤岡重慶らを攪乱します。もっとも、藤岡重慶が文明を担ってる時点で、かなりアレな感じもしますが、それをいったら、七十年代の東映京都に文明が語れるか、という致命的な疑惑にまで至ってしまいそうなので、ひとまずは問題を強引無視して、文明と野蛮の類型でこの物語をみて行くことにしましょう。

この時代の東映京都は文明と野蛮を如何に語ったのか。その対比が実録路線のフォーマットとして機能していたことはl前に指摘しました。関西の広域組織(文明)と地方の弱小組織(野蛮)。小林旭、成田三樹夫と菅原文太、松方弘樹、そしていうまでもなく千葉真一の間で行われる抗争なのです。野蛮を体現する田舎刑事に千葉の身体をあてたことは、適切な配役でした。

ところが、前述の通り、問題は文明を担う配役にあって、藤岡は文明というよりも困惑する世間が似合ってしまう男です。だから、物語は文明を支えるべきもうひとつの人格を配置せねばならない。しかも、千葉に対抗できうる強烈な個性を。そこで松方弘樹の登板となるのです。実録路線では、千葉とともに野蛮を象徴する人格だったのですが、その千葉に比べれば松方も文明的に見えてしまう。これは、『沖縄やくざ戦争』('76)の構図に一致します。

さて、藤岡は捜査の合理性を強調することで文明を擁護し、松方は計数的な行動で以て、文明の何たるかを知らしめます。けれども、同じ文化圏に属しながら、このふたりは対立関係にあります。また、同じ捜査担体でありながら、文化圏が異なるため、藤岡と千葉は相容れない。松方と千葉の関係についても同様です。つまり、不明瞭な多元主義が、物語を覆い始めてしまう。

この重苦しさを検討するにあたって考慮したいのは、文明・野蛮の分割図式が、東映京都にあっては、実録路線に特化し、それと表裏一体をなしていたことです。やくざのある風景のなかで育まれたその様式を、刑事ドラマなる異質なフォーマットへ拡張した結果、そこに生じてしまった亀裂を覆うが如く人格と事件が逐次的に投じられてしまった。

松方とジャネット八田のプロットは、東映京都の暴力的な作風から乖離した、案外なほど直球勝負な刑事ドラマを謳います。そんなフォーマットにあって、どこまでも異質でしかない千葉は、ただただ松方の情緒的な物語を追いつめ破壊することしかできません。それは、千葉と八田の再会がそうであったように、東映実録路線と70年代刑事ドラマの不幸なる出会いだったのです。

 『デス・ハント』
 アメリカ[1981] 監督:ピーター・R・ハント

競合関係にあるふたりに論及する物語は、しばしば、両者のいずれかに偏るような評価付けを避けるように要請されます。それは、たとえば、パチーノおやぢにもデ・ニーロおやぢにも花を持たさねばならぬ、という形で問題とされます(『ヒート』('96))。ところが、かかる競合関係が、デ・ニーロおやぢの敗退に言及することなしに、パチーノおやぢを持ち上げることができないような極端なゲームで語られるとなると、公平なる評価付けの作業は困難を極めるものになります。演出家とライターの腕が試されるところですが、とりあえず、その代表的な解法を挙げるのなら、ふたつの理念系を指摘してよいでしょう。ひとつには、「不幸」だけが万人に平等であることへ注目した語り。今ひとつには、ゼロ和ゲームが、非ゼロ和として再解釈できるような、プレイヤーの価値観を発見すること。

竹内力と哀川翔を語るにあたって、三池崇史が撮影現場に至ってすら結末をめぐり思い煩ったことは、広く知られたエピソードです(『DEAD OR ALIVE』('99))。けっきょく、その解答は、北半球の蒸発なる奇観を映写幕にぶちまけることになりました。競合する二人を公平に語るには、共倒れなるネガティヴな意味合いを物語に託する他なかったのです。

マイケル・マンも、三池ほど理念的とはいえないまでも、やはり、不幸の平等性を利用した語りで以て、おやぢの競合関係の眺めるように思われます。パチーノおやぢは家族問題で不幸に苛まれ、デ・ニーロおやぢを相手にするどころではありません。翻って、デ・ニーロおやぢは大人の恋愛にうつつを抜かしている。ところが、この不幸の傾斜は、デ・ニーロおやぢの最終的な敗退で逆転し、物語全体を眺めれば、不幸の濃度がパチーノ、デ・ニーロ両おやぢにおいて等しくなっている。

不幸なる平等性は、簡潔な語りであるがゆえに、実際上の適用に工夫が必要であることは明らかでしょう。三池は完全にぶち切れねばならなかったし、マイケル・マンは回りくどい言い回しで、不幸が平等に訪れる様を語らねばならなかった。けれども、表現が迂遠かつ複雑になると、おやぢの平等性が実感として伝わりにくくなってしまう。それが、不均衡を解消するというよりも、むしろ不幸で隠蔽するという、どこまでもネガティヴな語りにすぎないからです。したがって、よりエレガントな解法が求められるところとなります。


ここで、わたしどもは、『生死決』('83)の対照的なおやぢども、チョイ・シウキョンとリウ・リンジェンを検討してみましょう。三池やマンと同じく、そこでは競合するおやぢの両立を要請する標準的な物語が語られます。

おやぢどもが相対立するとき、彼らは立場は違えどその性質において類縁性を有し、それがために奇妙な連帯感を誇ることが度々です。ところが、シウキョンとリンジェンを語るに際し、チン・シウトンはその造形に対照性を導入し、おやぢどもの微妙な仲間意識を排除します。シウキョンは所属するコミュニティの名誉を過剰に負っていて、たいへんに深刻な顔をしている。他方、リンジェンは森の動物さんと戯れ、概してお気楽です。

このふたりの競合は、物理的な側面を見れば、シウキョンの敗退で終わります。そして、今や事切れようとしている彼は、海の向こうにある自らのコミュニティへ眼差しを向ける。その一連の動作を、片腕を飛ばされたリンジェンが見守っている。そこで、わたしどもは気づいてしまうわけです。ゲームのルールが変わってしまっていることを。シウキョンの利得が、自らの身体の棄却を以てしか語れない何事かであったことを。さらに、その価値観が、お気楽なリンジェンを今まさに侵犯しつつあることを。


おやぢどもの競合は、敗北が利得につながるような人格なり機能なりを、一方のおやぢに見出すことにより、平等なる眼差しの基で語られます。言葉を換えると、おやぢなる存在は決して一様ではなく、おやぢ性の機能分化の可能性が、その競合に救いを含意するのです。ブロンソンおやぢを取り逃がしたマーヴィンおやぢは、『デス・ハント』なるゲームに敗北したのか。答は明白です。ただ、おやぢ性なる理念を追求しさえすればよいブロンソンおやぢに比べれば、コミュニティの理念とおやぢ性との狭間で苦悶せねばならぬマーヴィンおやぢの立場は複雑です。彼は、ブロンソンおやぢに自らの理想を見出します。しかし、だからといって、ミッションを放棄すれば、無責任なおやぢとして、そのおやぢ性を喪失してしまう。彼は、しぜん、飲んだくれたおやぢにならねばならない。けれども、その苦悩ある景観が、ブロンソンおやぢとはまた異なるおやぢ性を謳う。かくして、地球はおやぢどもの愛に包まれて行くのです。

 『スクール・オブ・ロック』
 アメリカ・ドイツ[2003] 監督:リチャード・リンクレイター

これは、本稿でわたしどもがよくやる問いかけで、またこれからもよく使うことになるであろう視角なのですが、まず手始めに、ジャック・ブラックの置かれた座標を検討することにしましょう。つまり、音楽的資質に関して、彼は如何ほどの能力を有するとされているのか?

冒頭のシークエンスでわたしどもに示されるのは、ステージでのたうち回るブラックとその奇態に興醒めるメンバーとの対比です。この前後のシークエンスを参照する限り、彼らの対立は、情熱の差異に因るものとして語られ、したがって、ブラックが追放の憂き目に遭うのも、文化の違いのためであることが示唆されます。そこで、わたしどもとしては、決してスキルの欠陥がために彼が追い出されたわけではない、そんな風にぼんやりと考えてしまうのですが、実のところ、その時点では、彼の素質を明確に論評できる手がかりが無いだけの話で、それどころか、最後まで、物語はブラックの音楽上の資質を執拗に問題にしようとはしないように思われます。

ところが、夜のステージが終わって、朝を迎えるとき、そこには身も蓋もない現実が待ち構えていて、たとえお話が、てえめはヘタだと言明しないまでも、わたしどもには彼の能力的限界がありありと見えてくるのです。

では、やはり物語は才能の欠落を提起しているではないか、という話にもなりそうですが、これ以降、物語が小学校のシークエンスへ移行し、座標系が変換されてしまうことで、彼の才能的欠乏は相対的に隠蔽されることになります。逆の見方をすれば、ブラックの貧困を覆い隠すがために、舞台をスキル云々などは問題とされない小学校へ移さねばならなかった、そういう含意さえ見て取れるのです。


『スクール・オブ・ロック』はふたつの位相に引き裂かれた人々の物語です。それは、生徒たちと萌え校長ジョーン・キューザックにしてみれば、管理教育と人格的個性なるものとの間で発生します。もっとも、物語は、生徒どもにあってこの亀裂が最大に顕在化するように語りますが、管理と個性の関係が実はあまり排他的なものではなく、したがって、この様式的な対立が物語のために創られた神話であることを知っているわたしどもにとっては、これは分裂どころではなく、むしろ、ブラックが苛まれている亀裂を強調するための悪意ある装置のように思われてきます。職業の要請する機能と人格との間でいちばん引き裂かれてしまうのは、大人であるキューザックの方で、たとえば、保護者の集団に職業意識を問われた彼女は、思わず階段の踊り場(中間/境界)に逃げ込んで、佇んでしまう。これが、本作品最大の濡れ場であることは言うまでもないでしょう。

肝心のブラックの方に話を戻しましょう。このおやぢは才能の貧困が隠蔽されたのを良いことにはしゃぎ回って、シリアスな生徒とキューザックとの落差も相まって、何とも居たたまれない気分を醸成します。けれども、やがて彼は、生徒の中に眠る才能の片鱗を見つけてしまう。そこで、管理と個性の対立する様式的な言説が始まり、才能が管理に抑制されているがごとく語られます。が、これを前述したように、ブラックの動機を照射する装置として見なすとき、この紋切り型の視角は完全に反転することになります。すなわち、その表現の才能は金のかけられた教育の産物ではないかと。事実、彼らが即席の教育でバンドを編成し得たスキルの土壌には、お金持ちなカリキュラムの存在が厳然とあり、それは物語でもはっきりと言及されています。服飾趣味やVJのオペレーターをやってのける少年たちはどうでしょうか? わたしどもの眼前には、ど〜んと効果付きで金と才能の問題が突きつけられるのです。ただ、これ以上、それを追求するとプロレタリア文学になってしまいますが、このお話の文脈では、それはブラックの抱える亀裂の問題と連関します。才能と情熱の亀裂、という問題で、これが生徒どもの開花する才能によって、わたしどもの前に明確化されます。才能の隠蔽は差異の明示であったのです。


おしまいのシークエンスは、物語の語るものが一種の循環であることを暗示しているようです。“スクール・オブ・ロック”が順調に軌道に乗っている様が語られ、その子どもたちの中にあって、醜い中年おやぢであるところのブラックの違和感が哀しいまでに際だちます。成長を遂げた“スクール・オブ・ロック”は、やがて、ブラックの制御を離れ、巣立つことでしょう。冒頭で、自分の結成したバンドに彼が棄てられたように。

そんな未来の惨劇を予感させる景観の傍らでは、社会復帰したマイク・ホワイトが、欠落した才能とにこやかに折り合いを付けようとしています。ブラックに対する痛烈な皮肉であり、また同時に、ブラックにほんらい相応しい才能、つまり、才能の呼び水としての機能を暗示します。彼がそれを受け入れるかどうかは、開かれた未来の(それもまた残酷な)物語です。

 『東京流れ者』
 日本[1966] 監督:鈴木清順

常識に従えば、カメラ・フレームの外には何らかのオブジェクトなり、空間なりが広がっているはずですが、通常、わたしどもはフレームの外を覗くことがありません。覗くことのできる場所は、すでにフレームの外ではないからです。『地下鉄のザジ』で検討した問題はそこにあって、ではフレームの内にありながら、如何に外なる世界の存在を証明するか、その手法が問われるわけです。枠外への関心は、やがて高次言語風の語りへ演出家を誘い、フレームの外面を視野に入れるべく、ステージからの物理的な後退を視角に要請することになるでしょう。『ザジ』でいえば、終幕の最中に饗宴の内にある群集は、やがて撮影スタッフをも勢い余って飲み込んで行きます。また、一面において鈴木清順や大和屋竺との脈絡で語るのことのできる押井守の『トーキング・ヘッド』('92)だと、千葉繁がセットを破壊して行く様が、舞台装置の外からロング気味の俯瞰でぼんやりと眺められています。

ところが、ここでまた、覗けるものはフレームの外ではない、という困難が再展開することになります。舞台の裏に視角が回った途端、フレーム外への志向は、「ふ〜ん、メタですな」という鑑賞者のつぶやきとともに、視角の内に回収されてしまいます。つまり、けっきょく、フレームにとどまりながらフレームの外に言及できるような模索に回帰せねばならなくなるのです。


さて、『東京流れ者』でも、枠外から舞台を眺めるかのようなショットを指摘することはできるでしょう。中でもあからさまのが、射殺される浜川智子を天井の明かり取りの外から眺めるカットで、「外から眺める」その構図は、前述した押井のカットと類似します。けれども、あくまで明かり窓から眺めているという前提もあって、そのため、枠の外から眺めてる感覚は保存されながら、決してフレームから視角が離脱して、ステージの裏が見えることはなく、視角をそこから完全に引いてしまって、セットの全容を明らかにした押井との違いは明かです。視角は、フレームの外に離脱するギリギリで立ち止まる、あるいは、「フレームの外」というセットが設定されることで、フレームの外から眺める物語がフレームの内に収容されているのです。

ラスト・シークエンスがアルルの「ステージ」に設定されたことは、本稿の文脈からすれば、その意味するところはかなり露骨です。事が終わると、渡哲也はステージ/セットの外へ退出し、わたしどもの視角から一端は消えてしまいます。視角は泣き崩れる松原智恵子をしばらく眺めた後、フレームの外に消えた渡を思い出したかのように移動を開始して、あたかもセットの外へ脱するように、ステージの裏へ回ります。しかし、セットの裏と思われた空間には、やはりセットと目される廊下が続いていて、去りつつある渡の背面が捕捉されます。この廊下は、不思議な(いったい何処から?)光源を内包していて、明らかにセットでありながら、しかしセット外の空間を前提とせねば成立しないような境界のイメージで語られます。

これ以降、このシークエンスでは、視角は固定されたままとなり、廊下の向こうへ遠ざかりつつある渡を眺めるだけとなります。やがて渡は突き当たりに至り、そこを左折して本当に視角/セットの外へ出て行こうとします。彼の身体は壁の向こうに隠れて見えなくなり始め、まさにすべてが視野から消えてしまう直前、編集点がやってきて、カットが変わり、新たなシークエンスが始まります。渡の退出運動は、限りなく外の位置まで達しながら、しかし、最後まで、セットの外に出ることはなかったのです。

 『人間の証明』
 日本[1977] 監督:佐藤純彌

好意的な言い方をすれば、岡田茉莉子が奇しくも時期を同じくして見舞われることになった二つの刑事事件は、連鎖して襲来する不幸の特性みたいなものを語っていて、しかも、災厄の奇妙な連なりは、それに遭遇する人格を変えて繰り返されます。しかしながら、脳天気な息子どもの招いたこれらの同時多発イベントは、ストーリーの構成技術を軸に物語を眺めてみると、刹那的かつ恣意的なものを予感させるどころか、むしろ、何らかの論理的な背景を基に語られているようにも思われてきます。その論理性を明らかにする鍵は、やはり、人格叙述の教科書的な理解、つまり、過去に形成された潜在的な人生の動機が今日のイベントによって顕在化する、という処理手順の中に得られるでしょう。岡田の二人の息子、ジョー山中と岩城滉一は、前者が彼女の潜在動機(過去)を、後者が現在進行性の動機を担うがゆえに、イベントは二つ、しかも同時に発生せねばならないのであり、言い換えれば、この物語にあって情緒の高揚装置は複数の人格によって分割されているのです。そして、あくまで過去の機制として設置されている山中は、物語のリアルタイムの流れに接触した途端に抹消されてしまい、冒頭のシークエンスを除いて、わたしどもが彼を知るのは回想の中においてのみです。

ところで、よく指摘されるように、『人間の証明』はそのプロットの多くを、『砂の器』('74)に依っています。たとえば、岡田の動機が、過去に対するやや抽象的なおののきによって構成されているところは、加藤剛←緒方拳←加藤嘉で語られた連想的な恐怖を思い起こしてもよいし、だからこそ、岡田の抽象的な動機は、加藤と同じような弱さを共有し、殺害に相当するような条件を満たしていないように思われてきます。これでは、ことによると、人格の嗜虐性を強調されかねず、それゆえ、曖昧な動機を合理化する語りが要請されることになります。類似する構造を基に生まれた『砂の器』と『人間の証明』ですが、その解決については、全く異質の方向を目指し始めます。

『砂の器』の語る動機の合理化は、恋愛の不可能性のバリエーションともいうべきもので、端的に述べれば、Aに会うために、Aそのものに会ってはならない、という感覚であり、かつ表現は代替せねばならない、という技法に準則したものでもあります。したがって、直接にアプローチを仕掛けてくる緒方拳は、プロットの技術上、葬り去らねばならない。言葉をかえれば、緒方拳=加藤嘉に出会ってしまったら、加藤嘉に出会えなくなる。なぜなら、出会うことの実感はもはや代替の表現を以てでしか構成できず、リアルの彼に会ってしまったら、その表現がスポイルされてしまう。橋本忍と山田洋次のロジカルなシナリオワークが窺えるところでしょう。

次に、『人間の証明』の方を検討してみると、まず、ジョー山中が、「冒頭を除く」シークエンスでは直截に語られないことを再度思い起こす必要があります。つまり、「冒頭」では、ちゃっかりリアルタイムの場所に乗り入れていて、しかも最悪なことに、岡田茉莉子にいきなりアプローチして瞬殺。加藤嘉がようやく共時的な地点に合流するのが、『砂の器』ラストシークエンスの真っ最中だったのに比して、ジョー山中は物語の冒頭でミッションを終えてしまい、リアル加藤嘉が居るのに、彼に会っては会えないような禅問答が、早々に息子を欠いた岡田には成立し得ません。

加藤剛にとっての加藤嘉は、当人が述べる如く宿命であって、丹波哲郎が過去を発見しようとしまいと、演奏会場は押さえられているわけです。対して、岡田茉莉子にとってのジョー山中は偶発的な事故で、そもそも回復しようと思ってもいなかったもの、かつ、いきなり回復を迫られるもの、かつ、回復しようにも瞬殺してしまって回復できないもの、そんな徹底した欠落で語られるものです。動機が動機としてあらわれることが動機を失うこと――、という物語装置がいきなり実効してしまったこと。それは、動機が成立するとか成立しないとか、そういう情景が可能となる地平すらもはぎ取られ制御の効かなくなった無法地帯。プロットが自在に連結し、また自在に分離し、たまたま寄ったおでん屋の客が大滝秀治で、西条八十をいきなり吟ずるような、たまたまニューヨークへ出かけたところ、ジョージ・ケネディが親の敵だったりするような、異常に豊穣な世界に投じられ、疲弊して行くような感覚。『人間の証明』が物語としての動機を獲得する場所なのです。


ラスト・シークエンスは、完全にキレた岡田茉莉子の大演説を以て、幕を閉じることになります。大勢の観衆を前にして、具体的な言辞を用いて、おのれの心象を解説する彼女を、物語はもはや自己顕示欲の怪物として扱い始めていて、その気勢の押されるように、未確認飛行物体の如く麦わら帽子が飛翔します。あの帽子はどこに行ったのか? おそらくは、動機の不在を埋めるため、彼女の不幸な出自を松田優作一味に見つけてもらうため、物語を遡行して行くのでしょう。

 『28日後...』
 オランダ・イギリス・アメリカ[2002] 監督:ダニー・ボイル

それが物語である以上、普段は異性の好意を被ることのない男が、非日常のイベントに際し、女性をたちまちの内に骨抜きにしたとしても、まあ良くあるお話だと片づけることが出来ます。では、キリアン・マーフィがそんなタイプの男かというと、これが良くわからない。なぜなら、事件が起こる前の、いわば普段のマーフィに関する情報がほとんど語られず、わたしどもはこの男が、本来において女性を一目で壊してしまうような類のスキルを持っていたのか、それとも今日における彼のモテ振りは、非日常の為せるものなのか、判断がつかないのです。ただ、印象的なラスト・シークエンス、陸の孤島に築き上げられた彼のハーレムを眺めていると、その壮大なるイヤらしさが、彼のモテ振りが何やらシステマティックな背景に支えられていることを示唆するのではないか――、とそんな予感でわたしどもを苛め始めるようにも思います。

それで、次に問題となるのは、かかるイヤらしさの醸し出す体系の予感が、どうして「苛める」という不安な実感で語られねばならないのか、ということになるでしょう。察するに、彼のモテ振りが何らかの犠牲を以て成立していること、しかも、その代償は、或る人のモテ振りが他者の非モテ振りとのトレード・オフであること、そういう感覚が、爽やかな結末に陰影を与えているのではないか。

最初、マーフィのモテ振りは、ナオミ・ハリスをめぐる三角関係の内に顕れます。この関係は、競争相手の不慮死によるマーフィの不戦勝で幕を閉じています。マーフィはおのれのスキルでナオミのパートナー化に成功したというよりは、むしろ、棚からぼた餅的な外在的要因の方が、大きな貢献を占めるように思われますし、これ以降、彼のハーレムが拡大する要所要所において、このメカニズムは顔を出すことになり、そういう意味で、彼のモテ振りにはシステマティックな臭いがつきまとうのです。

ミーガン・バーンズ親子も、基本的に同じフォーマットを踏襲します。まず、マーフィ・ハーレムに新メンバーが加入する際、それは仲介者を通して行われる。仲介者は、そのメンバーの既得権者であり、つまり元々のパートナーであるので、マーフィ・ハーレムへの彼女の加入はその保護者/既得権者たる男を伴い、いわばヒモつきである。したがって、マーフィの集団がハーレムとして成立するには、くっついてきた既得権者には退場してもらわなければならない。ナオミ・ハリスだと、先述のように、感染者によって仲介者は始末されたのですが、ミーガンのおやぢになると、少し説明を足さねばならないでしょう。このおやぢも、確かに、マーフィのあずかり知らないところで始末されます。ところが、それを実行した人間の集団が、今度はハーレムまでも危機に陥れてしまう。ついに、マーフィにもおのれのスキルを試されるときが来てしまい、教条的な物語の様式が実効したように思われます。が、いざその攻撃的な集団の描画が始まると、わたしどもは再び奇妙な感覚を見出さざるを得ないのです。

クリストファー・エクルストンとその仲間達、呪わしきほど類型的に造形された彼らは、まるで薄暗い部室で蠢動する欲求不満な中学生の如く語られ、性の不平等ともいうべき概念で、わたしどもの憐れみを誘うようです。なぜか知らぬ内にハーレムのただ中にあるマーフィに性の衝動は皆無で、他方、女性に縁のないエクルストン一味は、もう辛抱たまらなくなっている。この欲求の格差は、ひとえに戦歴の差によるもので、非日常の発端からおよそ一ヶ月遅れて参入したマーフィにしてみれば、エクルストンの野郎どもに比べれば、そう欲求がたまってるはずもない。これはとても不平等な話で、より長期間ストレスに晒された人間が、それだからこそ、モテモテからほど遠い距離に置かれてしまっている。ここにおいて、エクルストン一家は、既得権者でありながらマーフィにパートナーを奪われた、不幸な仲介者たちとつながるのです。

かくして、『28日後...』は、恋愛劇の或る普遍的な情景に至ります。それは「○○君って、ホントいい人だよね」と呼ばれ、懸想の相手の恋愛相談に乗り、彼女を他の男に笑いながら渡してしまう、あの男たちの物語。血と暴力に彩られた恋愛マニュアルが、誕生するのです。

 『ビッグ・フィッシュ』
 アメリカ[2003] 監督:ティム・バートン

ここで実証性の疑われているアルバートおやぢのふかしは、物語を観察しているわたしどもには、それこそ物理的にあり得ないだろうと思われるオブジェクトまで、具体的なイメージを以て、ともかく開示されます。それは、アルバートおやぢの高機能な空想癖の賜物であって、その描画自体が余興として機能するのことは言うまでもありません。ところが、物語がそもそも語られるべきイベントとして端を発する場所は、かかるおやぢのふかしに対して発せられた、ビリー・クラダップの不信であり、おやぢがあり得そうもないふかしを拡張させて、アミューズメントに走るほどに、虚妄性が高まりが、アルバートおやぢの人格を否定しにかかります。アルバートのおやぢのふかしは、エンターテインメントの発祥でありながら、それを否定してしまう、そんな不思議な構造で語られる場所にある。明るい装いの下にあるものは、気持ちの悪い中庸をさまよい続けるバートン的な不安の領域なのです。

この気持ちの悪い均衡は、空想癖の自家中毒に留まるものではないでしょう。『ビッグ・フィッシュ』は豊穣な物語装置の併走で構成されたお話ですが、それらのコンポーネント同士は時に競合し、またしても物語を宙づりにするように思います。おやぢのふかしが、自己に組み込まれるような不安を装いながらも、一応アミューズメントであるとすれば、息子クラダップの、信憑性を物証によって確認しようとする物語も、良質のミステリーとして作動したはずです。しかしながら、探偵小説は、その進捗を断念せねばなりません。あるいは、おかんのジェシカ・ラングは曖昧なほのめかしで、わたしどもをぢらさねばなりません。探偵小説がおやぢのふかしにとって負の関数になっていて、探求は他方の装置の含有するアミューズメントを破壊しかねない。おやぢのふかしは、それが小細工なしにもろにふかしであるがゆえに、探偵小説は腫れ物をさわるように周縁をたどり、情報流出を抑制せねばならなかったのです。


全ては、おやぢのふかしがふかしであったがゆえに悪い、ということなのですが、仮にそれが全くふかしではなく、奇人軍団が葬儀に押し寄せたとしても、物語の物理的な秩序に疑問が呈されるばかりで、事態はより一層悪化したかも知れません。だから、これは、ひとつの解答としては、それは奇人軍団そのものではなものの、しかし、それをシンボライズするような、そんな言説へ物語を着地させる必要があったでしょう。

実際に『ビッグ・フィッシュ』の降り立つ地平は微妙です。そこは、比喩的でも何でもなく、身も蓋もないほど即物的な世間です。物語はシンボライズ路線ではなく、今まで知識というフォーマットにあった情報が、視覚の中に実際に送られてくる感覚へ向かったわけで、それはそれで気品のあるアミューズメントを語ります。が、この帰結は同時に、アルバートおやぢの人格を評価する座標のすり替えであり、また座標そのもののへの信頼性へも言及しているかのようです。かくして、物語はバートン的な不安に行き当たるのです。

 『暴力金脈』
 日本[1975] 監督:中島貞夫

特に初期の人間関係に言及する際において、この物語は希なる牧歌的な美しさを歌い上げていると言わざるを得ません。そこは、いうなれば、然るべき人物が、然るべき場所に投じられ、然るべき行動をする安堵感、あるいは、そうした定型性から脱しようとする努力すらも、けっきょく予定調和に還元される、しかしその平穏感がまさに娯楽として機能してしまう場所。早い話が、それは、波の向こうから押しつけがましく現れ私どもを色々な意味合いにおいて圧倒し続けたあの三角マークの語る空気に他ならなかったのです。

『暴力金脈』を支える娯楽装置の多くは、計画描画と成長物語のふたつに因っていて、具体的には、段階的に強化される競合を如何に乗り越えるという意味において、計画・機能的であり、それを順次達成するという意味で、成長を語る物語なのです。訪れた大破壊におどおどして対処療法的になりがちなこの時期の東映にあって、かかる標準的で明るい娯楽のプロットは際だっており、早くも翌年の『広島仁義・人質奪回作戦』('76)の中盤で、ほぼ同じ舞台が同じく松方弘樹によって再演されることになります。すなわち、実録路線とそのバリエーションでは非常に希有な、何を間違ったのかワクワクするようなお話なのです。

物語の高い彩度は、すでに最初のシークエンスからあからさまに認められます。松方の薬物的に高揚したラジオ体操から始まり、それが山城新伍に合流することで加速され、これでよいのかと不安を感じてしまう。もちろん、それもまたひとつの東映的な景観なのですが、そんなジャンルを予期していなかった鑑賞者としては、心地よい肩すかしを喰らうことになるでしょう。最初の難関である田中邦衛の投入にも同じことが言えて、その堂々とした絶対に間違っている大物っぷりに、私どもは恐れおののかなければなりません。

しかし、これらの嬉しい誤算も、田中邦衛当人の化けの皮が梅宮辰夫一味に剥がされ、あの愛らしいいぢけ顔が展開されるに及んで、やはり誤算にすぎなかったことが明らかになります。そして、田中亡き後、すかさず投入される丹波哲郎の丹波哲郎っぷりはもはや安心の極地で、それにまた、コスプレした池玲子を追い回す衝撃的な演技だけで注目されがちな若山富三郎と大沢秀治、つまりこの物語の語られるフォーマットからはやや異質な位置づけにあるふたりも、暴力路線から乖離した財界人として投じられている。冒頭で述べたごとく、『暴力金脈』は、然るべきところに然るべきものがある物語なのです。しぜん、私どもとしてはいつまでもこのぬるま湯につかっていたいと願います。けれども、やがて物語は決定的な破綻に至らねばなりませんでした。

この物語の著しい美しさ、けっきょくそれは、来るべき破綻とのコントラストでありました。結末がグロテスクであるからこそ、物語の美醜がいっそう目立ってしまったわけです。 問題は、この正統的なワクワク感を結末へ誘導する技術を、当時の東映が持ち得なかったところにあり、そこで私どもは『ドーベルマン刑事』('77)の議論へと立ち返ることになるでしょう。いずれも東映というジャンルムービーとは相容れない異質な物語だったのです。もっとも、そのカタストロフィーの度合いにおいては、『暴力金脈』の方がはるかに上を行きます。完全に行き詰まった松方/物語が最後に導入するのは、物語の倫理的な整合性に重大な危機を及ぼす視角でした。万策尽きた彼は、若山を攻撃する際に、ついに不正な商取引そのものを根拠とするに至ります。しかし、散々それで甘い汁を吸ってきた松方当人は如何?――、という倫理的な嫌疑が直後に鑑賞者を襲い、混乱を招きます。さらに、鑑賞者のかかる嫌疑自体が、社会的公正への接続を要求するイデオローグにさらされるものと思い至れば、お話が政治主義との終わりなき戦いに突入してしまったことは明らかでしょう。物語にとっては完全に領域外からの視角が導入されることで、その立脚する地盤そのものが崩落してしまったのです。


先述の『広島仁義』は、『暴力金脈』のリベンジであったとも言えます。異質なるプロットたちは、牧口雄二の手によって再会を果たし、ようやく融合に至るのです。


 『大日本帝国』
 日本[1982] 監督:舛田利雄

舛田利雄の語るこの途方もないセンチメンタリズムが単なる感傷を越えて一種のナンセンス劇に到達する様は、例えば、サイパン島における三浦友和終焉の地に見ることができるでしょう。彼がそこで目の当たりにしたものは、米兵が全裸の白人女性とビーチで戯れるという、いくら何でも1944年のサイパン島でそれはないだろうな情景でした。かくして三浦は、物語を眺めるオーディエンスともども気が触れてしまって、米兵の衝動的な殺害に至ります。果たして、この戦記映画に何が起こったというのか、それを検討するにあたって私どもはまず舛田が一貫して物語に求めてきたある即物的な欲望から出発せねばならないでしょう。すなわち、ソフトフォーカスで撮った濡れ場を絶対に物語に挟まねばならない。


丹波哲郎を初めとするおやぢどもを除外すると、この物語は三つのプロットに分割されるように思われます。床屋業のあおい輝彦、京大生の篠田三郎、そして士官学校出の三浦で、このうち輝彦のみが内地に生還を果たし、後のふたりと明暗を分かちます。輝彦が経験しなかった、しかし篠田と三浦が共通して遭遇したイベントをここで指摘して良いでしょう。サイパン島現地には三浦と準婚姻関係にある佳那晃子が配置されていて、同じく篠田は、フィリピンの現地娘、夏目雅子と懇ろになり一部オーディエンスの憤激を誘います。けれども輝彦だけが、銃後に関根恵子を残すのみであり、戦地でラヴラブモードに突入することがありません。

一見すると、これは何らかの倫理的な問題を語っているように思われます。戦地でラヴラブモードに突入するとは何事か、という語り手の無意識に巣くう妙な嫉妬みたいなものがあり、また他方で、庶民主義への傾倒みたいなものがあって、三浦・篠田のインテリ組がモテモテになりつつも最後は精神的なホラー映画へ放り込まれてしまい、対して、庶民派の輝彦だけがちゃっかりと生き残っている。

しかしながら、冒頭で触れた舛田世界の基本的なフレームワークにこの物語も準拠しているとするなら、戦地でのラヴラブモードはむしろ積極的な意味合いを帯びることになるはずです。つまり、それは、どうしても語らねばならないものとなります。けれども、ラヴラヴモードが戦場でそう容易に出現し得るものなのでしょうか。私どもは、ここでようやく、この物語のコアな部分にたどり着いたように思います。「ソフトフォーカスで撮った濡れ場を絶対に物語に挟まねばならない」とする要請は、次の文句を伴うことになるでしょう。「そのために、時空の整序はもはや問われない」 


三浦と篠田を見舞った血まみれのファンタジーは、不条理な社会現象に翻弄される個人を語るごく標準的な物語でした。が、同時に、物語はあるアナロジーを語っていたことにもなるでしょう。不条理なる社会現象=うおおソフトフォーカス!――、そして語り手の欲望に解体されるキャラクターたち。物語を語る上での普遍的なトピックスがそこにあったわけです。


 『25時』
 アメリカ[2002] 監督:スパイク・リー

この物語が、被写体をリスク・テイカーとして語ろうとしていることは、明白でしょう。ノートン先生の職業についてはいうまでもないことですが、より図式的でわかりやすいのが、バリー・ペッパーの初出するシークエンスで語られるもので、おそらくもっとも慣用されているであろう文脈(市場、マーケット)で、リスクなる言葉が描画されます。この二人に比べれば、遙かにリスクから離れた位置にあるはずのホフマンも、なぜか教え子から逆性的嫌がらせを被ったりして、教師の不祥事だとか社会面だとかそんな言葉の連想とともに、この世をつつがなく生きることの困難を教えてくれるようであり、あるいは、もっと踏み込んだ言い方をすれば、ホフマンの逆セクハラの方が余程にドキドキで危険が沢山のようにも思われてしまう。物理的なリスクと精神上のドキドキ感が乖離してしまうかかる不条理は、ひとつには、オーディエンスとキャラクターの距離に起因するものと見てよいでしょう。ノートン先生もバリー・ペッパーも中産階級に属する標準的なオーディエンスの理念像とかみ合うようには思えません。対して、ホフマンは、もう俺様、完全に俺様、アレは絶対に俺様。逆に典型的に俺様過ぎて、イヤらしい。けれども、このイヤらしさというものが、『25時』のある核心を語っているようにも考えられるのです。

ノートン先生が、トイレの鏡に触発されてMCになってしまったシークエンスを想起しましょう。彼は、そこで、人種や職業差別に関する言辞を並べ立てます。ノートン先生当人にとっては、あくまで人の見ていないところでの独り言に過ぎないので、この発言に対してリスクを負っているわけではありません。リスキーなのはむしろ、この言辞が他者の目に触れることを意識している物語自体の方です。しかしながら、物語は、台詞のお尻に、「でもいちばん嫌いなのは俺様だああ」というようなノートン先生の自己批判を付け加えることで、けっきょくリスクを回避します。『25時』は、リスク・テイカーの物語であるようで、その実、世界はセイフティ・ロックによってがちがちに固められているようにも思われてくるのです。例えば、教職のホフマンが、同時に資産家の息子であるように。

見方を変えれば、この物語に要請されている戦略は、セイフティ・ロックの枠からいかに抜け出して真のリスクに至るのか、というものになるでしょう。では、どうすれば殻を破れるのか?

ノートン先生を苛ましているイベントは、彼に適用されている非合法でアングラなルールを考慮すれば、その苦悩自体もまたルールの一環として世界の秩序に組み込まれるようなもので、規則というセイフティ・ロックから逃れることがどれほど困難なのか、かえって知らしめるようなものです。したがって、ノートン先生のリスクにならないリスクは、それがリスクとして実効する場所へ持って行かねばならない。ノートン先生の擬似的なリスク、つまり、肉体への物理的な暴力は、それが真のリスクであるような空間、すなわちホフマンの平穏たる身体へと向けられねばならなかったのです。「何てことをするんだ」というバリー・ペッパー台詞はとても的確な評価だったといえるでしょう。適用してはならないところで、ルールが実効してしまったのですから。


オーディエンスともっとも視角を共有しているであろうホフマンに適用されるアングラの規則、この図式は『友へ チング』('01)がどうしても越えることのできなかった壁を示唆するようにも思われます。渡世と堅気商売の間に横たわる障壁は、ノートン先生とホフマンの暑苦しい涙の奔流を前に崩れ去ったのでした。


 『少林寺三十六房』
 香港[1978] 監督:ラウ・カーリョン

基本的に多くの武侠映画とその周縁が語る物語、たとえば、同じラウ・カーリョンの『阿羅男』('86)や、あるいは、キン・フーの『龍門客桟』('66)は、悪代官をやっつけるなどという勧善懲悪のシンプルな倫理性に準拠しています。ところが、これらの物語が結末に至り、実際にその悪代官を殺傷する場に至ると、何やらよってたかって目標をなぶり殺しにしているような描画を始まり、一見すると本来の倫理性が、フェアという別の倫理性と拮抗するように思われて来る。見方によれば、これはこれで面白い景観ですが、私どもがここで問いたいのは、オーディエンスを混乱に導かない語り口はいくらでもあると思われるのに、どうして、武侠映画のライターたちはそれを避けるのか、ということです。言葉を換えれば、彼らは敢えて準拠する倫理点をスポイルするように見える。それはなぜか?

本来の倫理性を保存する見地からすれば、けっきょく、複数の人間が個人をなぶり殺しに至ることも、視野を引いてみると決して公平性を犯すものではない筈で、なぶり殺しにされる当人は行政当局者として組織された暴力を動員できる立場にいて、実際に動員しています。けれども物語は、かかる組織的な描画よりも、それが果ててしまった後のいわば掃討戦に比重を置いてしまい、結果として、行政当局者をなぶり殺してしまう。『少林寺三十六房』では、特に、勧善懲悪なる倫理に対するこうした操作が目立つように思われるのです。

まず、ひとつには、リュー・チャーフィーが少林寺で修行することの社会的コストを指摘してよいでしょう。チャーフィーが修行の専業化を果たせたのは、一定の社会的余剰があってのことです。しかし、そんな社会を運営し得た行政的な基盤に目を向けるとき、チャーフィーと悪代官が変な形でつながってくるのではないか。もっとも、これはこれでひとつの理屈で、前述のように違う語り方は可能なはずです。問題なのは、チャーフィーの先鋭化する政治性をあくまで抑制しようとする少林寺当局者側の描き方で、社会への介入を避けようとする彼らの態度を通して、物語は、プロ修業を可能にした社会のメカニズムの視点に立ってチャーフィーの行動を解釈するよう、暗にオーディエンスへ要請してるようにもとれる。また、公平性の観点に立てば、アマチュアリズムとプロフェッショナリズムの相違というものも、見えてくるように思われます。修行のプロと化したチャーフィーに、日常業務の合間に修養せねばならない悪代官が敵うはずもありません。

これだけ公平性への嫌疑を醸しだし、しかも、その行動自体が、愛されて止まない師匠どもへの裏切りともとられかねない描き方をしてまで、この物語が語りたかったものとは何でしょうか。私どもは、そもそも文系のチャーフィーが、体育会系の天国たる少林寺へ走らねばならなかった背景を思い出さねばなりません。それは、自分のスキルと時代の要請がずれてしまった、つまり需要と供給のタイミングが合わなかったが故でした。

ここで、この物語の直系ともいえる『Kill Bill vol.2』のモチーフを想起してもよいと思います。殺傷の対象者にようやくたどり着いたとき、目標は目標である資格をすでに失ってしまっていた。タランティーノにおいて、この感覚は感傷的なものとして扱われています。他方、ラウ・カーリョンにあっては、スキルが時代に合わなかった、それで修行したところ今度は過剰適応してしまい、公平性を欠くまでに至ってしまった、というような形でタイミングのズレが語られます。そのすれ違いは、目標がその資格を喪失したからではありません。修行のやり過ぎでチャーフィーの脳が筋肉になってしまったのです。いわば、これは、考えることを止めてしまった男の物語だったのであり、彼がさもすると無神経な人格として言及され、ことごとくタイミングを外してしまうのも、思慮の鈍化とセットで語るべきことだったと思えてならないのです。


 『時をかける少女』
 日本[1983] 監督:大林宣彦

たとえば、スケジュールが伝わっていなかった、というありがちなアクシデントを想定してみましょう。当事者としては、この事態を克服して安心を勝ち取るために、一種の合理化を始めねばなりません。つまり、何がいけなかったのか? おそらく、その罪科のソースは、二つに分けられるはずで、ひとつには、情報が伝わっていたにもかかわらず、受け手が忘却していた。あるいは、送り手が、未だ情報を送付していないことを忘却していた。もし物証が残っていない場合、そこにおいて優性になるのは、より高い記憶の強度を有している者になるはずです。渡した、渡さないを強弁し合う競合が始まることでしょう。ところが、この競走がネガティヴな方角を指向し、両者とも近ごろ物忘れが激しくて、記憶のレースに参入できない場合、それは、均衡を見出せずただ墜ちていくだけのボケ合戦になりかねません。彼らは、共通して頼るべき記憶の準拠点を失い、混沌に飲み込まれてしまう。原田知世が直面したアクシデントとは、そういう類のものだったと思われるのです。

上述の議論を簡潔にまとめれば、誰に認知の障害が生じているのか、その場所が求められていることになります。原田にしてみれば、繰り返される既視感は物理的な外因のもたらすものなのか、あるいは、自分の側頭葉かどこかがおかしくなってしまった、いわば病理的な現象なのか、解釈は二通り考えられるはずです。

おそらく、普通の大人ならば、コスト概念に基づいて、何らかの病理を自らの内に見出し、血相を変えて病院へ駆け込むところです。事態を外因のものと判断する際、『トゥルーマン・ショー』とかそういう極端な商業資本でも想定しない限り、多くの人々が自分を計画的に欺く理由がないし、あったとしてもコストがかかりすぎて、実行は出来ないように思われます。物語も、失神する前の原田が何やら異臭をかいだことに触れたりと、それがけいれん性の疾患であることを示唆しています。

ところが、これで一筋縄でいかないのが、原田知世(&大林)のファンタジーなところで、この天然まっしぐらな少女は、社会的通念に基づく判断を下せるはずもなく、かといって、『トゥルーマン・ショー』もいまどきアレだし…、と判断は保留されたままに置かれます。オーディエンスとしては、この惚け娘め、といらだつ他ありません。けれども、尾美としのりの投入に至り、物語は最悪の事態を迎えることになります。

そもそも、原田ひとりの認識メカニズムや、彼女を取り巻く社会環境だけに限定されていたおかげで、原田がおかしいのか、何か陰謀でもあるのか、解釈はふたつだけにとどまることが出来て、ごく常識的なオーディエンスとしては、原田に疾患があるのだろうと推測したのでした。しかし、原田に対して、「ぼくは未来人だあああ」と尾美が発言したとき、オーディエンスは自らの判断の枠組みが覆される不安におののかねばなりません。原田の天然をはるかに上回る、尾美の病理的な発言により、問題を、原田の空想癖ばかりに帰すことが出来なくなるのです。

原田がおかしいのか、尾美がやばいのか、あるいは、どちらも狂っているのか? かくして、判断の準拠点は失われます。この不安は、記憶をなかったことにされた二人は、再び接触できたとしてもお互いを認知できるのか、という問いかけの形で、ラスト・シークエンスにおいて具現するのです。


 『チャーリーズ・エンジェル フルスロットル』
 アメリカ[2003] 監督:マックジー

妙齢の時期を通り過ぎようとしている女性の悲哀や焦燥に論及することで、このお話はごく普遍的な、あるいは古典的なトピックに接続を試みています。それは、たとえば、同期の結婚によってもたらされる、取り残されるような疎外感、いつかは引退せねばならない現実、といった形で語られますが、おそらく、視覚的に考えて、いちばんオーディエンスに彼女たちの物理的な限界を知らしめるのは、よりによって女子高校生に扮してしまった、あの無惨なコスチューム・プレイでしょう。これは、一連のコスチューム・プレイと同様、コントとして割り切ってしまえば、たわいもないショットとして受け流せたはずです。ところが、上記の妙齢に関わる問題がオーディエンスの胸に去来するとき、彼女たちの姿は、グロテスクの一言では済まされないような、むしろ、何か病理的なものを示唆するような、そういう戦慄すらも与えかねないように思われるのです。

この違和感は、単に歳不相応というタームで説明されるものではなく、より構造的な問題によるものと見てよいでしょう。そのために、まず考えてみたいことは、そもそもどうして、彼女たちはあれほど頻繁にコスチューム・プレイに勤しむ必要があったのか、ということです。

おそらく、ひとつの解釈として、彼女たちの素質と職務からの要請が齟齬を起こしていることが考えられます。どうしようもない自己顕示欲と、ミッションの要請する隠匿性。あのコスチューム・プレイは、これらの相対立する事情を考慮して考案されたもので、彼女たちの不穏な外貌を市民社会に埋没させると同時に、それがあくまでコスチューム・プレイだとする高揚感みたいなもので、当人たちの自己顕示欲にも対応するという、たいへん微妙なラインを狙った方策だと思われるのです。

ところが、この戦略は、それが繊細な均衡によって成り立つからこそ、ひとつ間違えば、瓦解することになります。繰り返せば、コスプレという社会との同一化願望は、ミッションの遂行、つまり、ある意味で社会からの突出を狙うとも解せる願望の手段でした。しかし、『フルスロットル』で見受けられるのは、自己顕示欲の手段としてのコスチューム・プレイが強調された結果、ミッションとコスプレの主従関係がいつの間にか失われ、コスプレを以て自己顕示欲を充足したいがために労働をする事態を迎えています。コスチューム・プレイは、隠匿し、かつ欲望を充足させる機能を捨て、単に群衆から突飛するための道具と転換していったのであり、彼女らの女子高生コスプレが怪奇的なのは、そのように意図されていたからに他ならなかったのです。


けっきょく彼女たちは、どこへ向かえばよいのか? おそらく解答は、常に世界の中心を占めながら、決して見えることのないチャーリーの身体にあるのでしょう。


 『ギター弾きの恋』
 アメリカ[1999] 監督:ウディ・アレン

頭の弱い娘を保護して悦に浸る。恋愛の物語でたびたび言及されがちなこの手の様式は、性の政治的な問題に抵触することをのぞいても、物語の戦略としてけっこう効果的ではないかも知れません。そもそもそれは、頭の弱い娘であるならば、もてない俺様でも女性の好意を享受できるに違いあるまい、という後ろ向きな発想から生まれたものでした。ところが、実際のところ世間は冷酷で、そんな娘とねんごろになれたところで、見込まれる情緒の高揚には乏しいものがあり、物語としては「本当は頭が弱くなかった」などと実にイヤらしき人格発見の戦略を展開することになりがちです。娘の薄弱は、好意を享受する契機にすぎなかったわけです。

『ギター弾きの恋』は、この手の戦略からするとけっこうイレギュラーかつ興味深いものがあって、サマンサ・モートンを引っかけるのは、これまた同様に頭の弱いショーン・ペンであり、いわば、頭の弱い男性ならば、頭の弱い娘とねんごろになって不思議はあるまい、といった語り手の高笑いが天からこだまするようないたたまれなさがあります。

いずれにせよ、サマンサに人格発見戦略を適用するのは困難であり、彼女に知性の片鱗が見いだされたとき、ショーン・ペンは瞬く間に捨てられてしまうはずです。サマンサが逆にショーンを憐れみ、彼を保護する方策も想定できますが、そうなると彼女の思い上がりみたいなものが強調されてしまい、オーディエンスの支持が失われかねません。言いかえれば、物語の要請した、彼女の果たすべき機能はそれだけ微妙な位置にあり、その人格の恒常性が設定されて初めて、物語は最後の主題につながることができたのでした。したがって、語り手としては、人格の相対効果とでも呼ぶべき、他キャラクターの投入によって、サマンサの隠された能力の発見や人格的成長を回避せねばなりません。まぶいスケであるところのユマ・サーマンであり、結果的に彼女の劣悪さがサマンサの造形を支えているのです。

しかしながら、けっきょくサマンサの人格自体が物理的に保持され得たところで、ショーンが棄てられることに代わりはありません。物語が一面において、サマンサの品位を落とすことなくショーンを棄却できるような戦略を模索したからだと言えるでしょう。他方、ショーンの側から見れば、これは倫理上の報復であり、加えて、等位あるいは下位にあると見なしていた人間が本当は違ったような、あの古典的な孤独感が言及されます。物語は、この孤独感が彼のスキルを開花させたとする結論に至りますが、これが何げに微妙で、つまり『ラジオ・デイズ』で見られたような才能問題が、再度ここでも顔を出すように思われるのです。

この引っかかりのようなものが最も出てしまうのは、ショーンがギターを破壊してしまう決定的なショットでしょう。そこで彼を眺める視界は、老齢期のウディ・アレンが好んで用いるような、近くも遠くもない中途半端なフル・ショットで、オーディエンスとしてはその距離感がどんな感情を語っているのか曖昧で、ぼんやりとしてしまう。あるいは、すごいことになってるショーンの情緒と画面サイズがそぐわないように思われてしまう。結果、壊されるギターの素材が、ドリフの物損コントにおける小道具のように、非情に軽いものに感ぜられる。

才能の開花する場所が、この軽さで語られてる意味とは何でしょうか。これから付加されるスキルに疑問が呈されてないとすれば、おそらくはそこに至るまでの過程、彼のスキルが獲得されるまでの成り行きが問われているであり、そこでこのお話は、物語の表層的な結論に逆行するかのように、『ラジオ・デイズ』のミア・ファローにつながってしまうと思われるのです。すなわち、才能に人格的な高まりは本当に必須なのか? PTSDの洗礼なしに、クリエーターは生まれないのか?


 『拝啓天皇陛下様』
 日本[1963] 監督:野村芳太郎

特に後年の『男はつらいよ』と比べてみると、物語を眺めている視角に関して、このお話にはちょっとした変動なり揺らぎなりがあると思います。冒頭、その景色を眺めるのは渥美清の視界であったり、相棒の長門裕之のそれであったりと、いささかの混乱が見受けられます。ところが、除隊後、二人が離ればなれになり、視角が物理的に共有される機会が失われたとき、物語は長門の視野に依存しがちになって、ようやく視点の一貫性が確保されます。渥美ではなく長門の語り口を借りねばならなかった理由は明白で、作家である彼の目を利用せねば、景観を物語という論理的な空間へ定着できない。言葉を換えれば、渥美の人格そのものが、オーディエンスの情緒を肯定的に左右するものへと造形されていない。

この図式は、そのまま70年代の『男はつらいよ』に受け継がれていて、渥美清当人ではなく、たとえば倍賞智恵子の視角を通過し解釈された渥美の造形が、語られるべきものとされます。また、80年代以降、若僧ゲストキャラの躍進によりその全盛期が終わろうとしていたとき、物語は、さくらではなく渥美の視角を以て、満男とゴクミの生態を眺めるような事態に至っており、もともと物語の視角を把握できまいとされた人格が物語を語り始めてるわけですから、凋落もやむを得まいと思われるのです。

いずれにせよ興味を引くのは、すでに60年代の初めから、渥美を語る視点に関してある程度の問題意識があり、『拝啓天皇陛下様』にあっては、作品の中で試行錯誤が行われた後、渥美自身の視角を切り捨て、彼を完全に他者の観察対象とするような語り口が後半に至って確立されたことでしょう。そして、ここで特に指摘したいのは、そのトライ&エラーの中で、われわれのよく知る渥美清なる造形とはまた別の、いわばもうひとつの可能性とか未来とか言うべき人格すらも、試行されていたことなのです。内務班時代の中隊長、加藤嘉であり、彼によって渥美に施策された教化工作の存在です。

『拝啓天皇陛下様』は、プロジェクトとか機能描画といった装置とは基本的に縁遠い物語です。ところが、そんな牧歌的な語り口の中で、機能的なわくわく感を唯一利用しているシークエンスもあります。入営した当初の渥美は識字に困難があり、彼をして物語を語らしめる障害の一つとなっていました。見かねた加藤は、教諭経験者の兵隊を彼につけるだけでなく、営倉入りになった渥美の隣でわざわざ長時間正座を敢行したりすることで、彼の野蛮な身体に文明の光を照射します。物語は、渥美の育成プロジェクトを語り始めたのでした。

このプロジェクトの成果は、お話のタイトルとなって一端は結実したと言えるでしょう。渥美は、ついに手紙が書けるまで文明化し、もしこのまま成長を続ければ、彼はやがて自身の視角で別の物語を語れたのかも知れません。しかしながら、実際は、物語は前後に断絶しており、加藤の教化は無効にされた如く、内面へ理解の及ばない人格としての渥美が語り続けられ、この後二十年以上にわたり展開されて行くことになる痴話騒動の原風景が物語を覆います。文明の象徴であった加藤は、後に中国で戦死してしまいます。


文明化された身体としての渥美は、どうして断念されねばならなかったのか? あるいは、なぜ渥美は物語を語れない道化のままに留めておかれねばならなかったのか。わたしどもはそこでようやく、この物語の底流で行われているイデオローグ間の闘争に到達することになるのですが、その詳細に立ち入ることは、本稿のコンテキスト(芸風?)からすれば、野暮なことでしょう。


 『ニュージーランドの若大将』
 日本[1969] 監督:福田純

このお話の若大将はオーストラリアに赴任している設定で、二年ぶりの帰国の際、マトンを携えて実家のすき焼き屋に戻ります。食材として使おうというわけです。父親の有島一郎は羊肉に対する拒否感を口にしながら、一方では、猛烈な勢いでマトンの咀嚼を始めます。

有島によって行われた、いくら何でもそれはと思われるようなコントは、加山の上司である藤岡琢也において、より大胆に展開されており、たとえば、初対面のとき田中邦衛を鼻にもかけなかった彼は、田中が金持ちのボンボンだと知るや、戦慄すべき追従に走ってしまいます。

しかしながら、これら類型的なコントの群れは、それが犯罪的なほど類型的なために、かえって有島や藤岡への評価に保留を促すようでもあります。彼らの奇妙な振る舞いは、何なのか? もっと踏み込んで言えば、彼らは、その突飛なアクションによって、何からオーディエンスの目を逸らそうとしているのか? 端的に述べれば、それは『若大将』なるファンタジーを脅かしかねない現実なのです。

まず、有島に強いられた表現の戦略から検討してみましょう。加山にマトンを煽られたとき、有島に要請されたことは、経営者の権威と合理的な方策を併存させる試みでした。どういうことかというと、プロの飲食店経営者が素人の案にそう易々と乗ることはできない。しかし、マトンは旨い。これはむしろ有島と言うよりも、彼の性格を知る加山がもっと配慮すべき問題だったのであり、有島の矜持が保存できるような形で選択肢を提示するような政治性が要求されていたのです。基本的に無神経な若大将の性格造形がよく出ているエピソードと言えるでしょう。が、そこで若大将の欠落する神経が明らかになってしまうと、非常に困る。『若大将』が、無神経の危ういバランスによって、あるいはその性質をきわめて肯定的に解釈することで、誕生した物語であるからに他なりません。有島は、物語を守るために、ひたすらマトンを口内に放り込まなければならなかったのです。

元来、若大将の無神経が持つ浸透力は、言語を絶するものでした。彼はアコギ一本で、シドニー湾を「加山雄三」以外に呼びようもない土俗的な空間に転換してしまう男でした。 そんな彼が、これまた案外なことに田中邦衛と物語の常識圏を形成できたのは、有島や藤岡の身を挺した道化芝居による対比効果あってのことだったのです。けれども、さすがに17作目にもなると、論理的な構造疲労は至る所に散見されます。たとえば、冒頭のスタッフ・クレジットの間、ひたすらニヤけ続ける若大将に、その脳内が何かに侵されつつある印象を受けても仕方がないでしょう。


さて、顔の美醜に関して劣悪な水準におかれた田中邦衛がいつも敗北せねばならないことから、このシリーズに内在する倫理的な不安は常に指摘されてきました。しかし、40年を経た今日、オーディエンスの目に映るものは、若大将のいかなる資質が星由里子と酒井和歌子を翻弄し続けたのか、全く解らなくなってしまったような、一種の不条理劇です。むしろ、青大将への虐待が強調されると、かえって田中が魅力深い造形に思われてくる。 ただ一人、二十一世紀まで生き延びることができた彼の資質だったからこそ、若大将とマドンナの間を意図せざる形とはいえ媒介することができたのだと言えるでしょう。


 『インサイダー』
 アメリカ[1999] 監督:マイケル・マン

ラッセルの卵のような顔が、フレームの半分を覆っている。彼の顔をナメた奥には会社の重役だとか弁護士などがいて、ピンが彼らに送られるや否や、ラッセルをビシビシといぢめ始める。手前にあるアップ・ショットのラッセルは、ダンテ・スピノッティのシブいルックの中で微妙にいぢけ、オーディエンスをドン引きにする。

『インサイダー』は全編に渡ってラッセルをいぢめつづける物語である。その迫害が生じる場所では、しばしばフレームの半分ほどがラッセルの地肌で埋め尽くされ、ごく一部の嗜虐的な中年おやぢマニアを喜ばせるようでもある。ただ、彼の萎縮が微妙であると先ほど述べたように、このお話では重量級の体格として設定された彼の顔面には厚めの肉が被さっていて、喜怒哀楽の激しい振幅は、一応はっきりとは外面に出ることない。あるいは、出すことができないといった方が正確かも知れない。そこで、フレームはラッセルの表情に何事かを読むべく近接する。彼の内面を増幅しようと、しぜん、ルックは陰影まみれになり始める。

逆に対照的なのがパチーノで、そもそも物理的な外貌が陰惨であるため、当人の内的状態の如何にかかわらず、深刻に見えてしまう。したがって、ラッセルとパチーノが同じフレームで並ぶと、パチーノの方がテンパってるように思われる。けれども、実際に生活の危機を迎えているのはラッセルであり、焦燥の生じるべき母体にすれ違いがある。

『インサイダー』は、コントロール問題と近似する現象に巻き込まれたように見えるのだが、あくまで問題そのものでもない。たしかに、リスクとの距離感によって、空間は抽象的ではあるが現場と会議室に分割できる。生じたリスクの当事者はラッセルで、彼はいわば現場にいる。ところが、プレイヤーとして、現実にこれまた現場で稼働することになるのはパチーノである。しかし、彼は、ラッセルに比べればより長期的で曖昧なリスクしか負っていない。現場でリスクを負ったプレイヤーと、間接的なリスクを負うコントローラーの対比が混線している。外貌的焦燥の掛け違いと、かかるプロット上の攪拌はリンクしていると見てよいだろう。

コントロール問題は、言いかえればリスクの共有問題である。リスクの及びにくいコントローラーにリスクを課さねばならない。『インサイダー』にあっては、ラッセルとパチーノの落差によって、そして現場が司令室にねじり込まれることによって、リスクの中和が試されている。そして、その成功の可否は、ラストショットのパチーノに萌え転がったり、あるいは、物語がパチーノのプロモーションに墜ちたと見なしたりするオーディエンスの情緒の中にあるだろう。


 『春夏秋冬そして春』
 韓国・ドイツ[2004] 監督:キム・ギドク

カットの持続時間とフレームに収められた情報量の濃淡に、ある程度の相関を認めることはできるだろう。カットに対するオーディエンスの集中力は、レイアウト、ルック、サウンドエフェクト、劇伴、オブジェクトの動作、ワーク等に依存する。言葉を換えると、カットにふさわしい的確な情報量はオーディエンスにとって感ぜられる時間経過を加速するはずだ*1。かくして、宮崎あおいは『ユリイカ』のバスを音速に至らしめてしまう。

ただし、この図式はひっくり返して眺めることもできる。カットが被写体を求めるのではなく、逆に被写体の情報量がカットの長さ、ひいては物語のあり方を要請することもある。すなわち、そのショットは、宮崎あおいを語るには余りにも儚すぎる。あるいは、もっと俺のあおいを見せやがれ*2


タイトルからすでに予想されるように、『春夏秋冬…』は、濃密な視覚情報を伴ったショットでその多くが構成される。けれども冒頭から、この特異な舞台装置を長々と眺めていたいオーディエンスの欲望は裏切られる。オーディエンスを充足させる直前で、カットは容赦なく切り捨てられ、結果として、カットの継続時間が背景の情報量にそぐわないと思われてくるのだ。

かかる齟齬は、ルックそのものの質に目を向けてもやはり立ち現れて来て、廉価な画質が景観に追いついていない、むしろその情報量が、光学上の低廉を強調するようでもある。偏光・フィルタリングされた光学情報は、充足しないカットの継起時間を正当化するかのようだ。

おそらく、問題の底辺には、語り手の意図とオーディエンスの欲望との隔たりがあるのだろう。しかし同時に、その偏差から生じるオーディエンスの違和感こそ、むしろ語られるべきものでもある。欲望の充足する寸前で止まり続けるカットは、やがて、娘と一つ屋根の下に放り込まれた童貞の、あの強烈な焦燥感と接続してしまうのであり、そこに至って背景の情報量は、むしろカットを萎縮させるために利用されている。


寺刹と湖の空間設計が許す限りにおいて、この物語は多様な歓楽のフォーマットに依拠している。動物虐待から始まり、前述の煩悶青春コメディ、クライムサスペンス、ファンタジー、それに最後はなぜか功夫映画。そして、その不可解な修行を眺める視角は、いつの間にか、この手のジャンルに即応するように、遅滞したモーションで被写体を切り取り始めている。背景の情報量にカットがようやく追いついたのである。


*1:「時間と空間の代替関係」を参照。

*2:たとえば『理由』('04)の大林。しかしながら、娘が宮崎あおいだったら、おやぢが危ない橋を渡ってしまうのも至極うなずける話だな。


 『インファナル・アフェア II 』
 香港・中国・シンガポール[2003] 監督:アンドリュー・ラウ/アラン・マック

語り手はそれを語ろうとしている。けれども、語られるべき被写体は執拗にフレームの外へ配置され、オーディエンスの視野に入ることはない。前作の冒頭で、物語の視角は、大演説をするエリック・ツァンを追い続け、彼が語りかけを行っている対象の正体をなかなか明かさなかった。今回の冒頭でも、フレームは発話を続けるアンソニー・ウォンに向けられたままであり、対話の相手を視覚的に除外する。あるいは、アンソニー・ウォンの発話が独り言であるかのようにすら思われてしまう。かかる語られぬものが姿を現すのは、シークエンスの末端になってからだ。ツァンの目前に配されていたのはアンディ・ラウで、ウォンの前に座っていたのはエリックである。いずれも以降において語り手が何よりも語らねばならぬ被写体であり、その前で演説を続けていたアンソニーは、いわばフレームをエリックに嚮導するよう機能している。では、どうして語られるべきエリック・ツァンは隠匿されねばならなかったのか。これが本稿の問題提起となる。


この物語の踏まえるプロットは、人格の成長にアプローチするもので、つまり、そのおやぢたちは、かつてオーディエンスが知ったような“おやぢ”に成長せねばならない。ところが、当のエリックとアンソニーは、初っぱなからおやぢそのものであり、これ以上に成長の余地があるかどうか疑問だ。だから、そこで要請されるのは、ある種の記号的な介入であり、彼が熟成を果たし得たことを、変わりようのない彼自身の素質へ依存せずに指し示さねばならない。

変容の視認が困難である代わり、おやぢと“おやぢ”を区切る境界線については、この二人において明確である。アンソニーならば、相棒が目の前で爆殺されてプギャーとなるカットであり、エリックにとって見れば、親友に銃を向けられた以前と以降で、人生が分割されるだろう。一連のアクシデントの後、二人は再会し、そこでアンソニーの容貌を見たエリックは、なぜか腹を抱えてしまう。アンソニーの熟成は、エリックの指し示しによって、オーディエンスに伝達された訳だ。

アンソニーのかかる解りやすさに比べるとエリックの方は対照的で、明確な指し示しは、最後のシークエンスを待たねばならない。何より、境界線の決定的なショットは直前で打ち切られ、オーディエンスはしばらくエリックの情報から遠ざけられてしまう。彼にあって、人格の分割線は、場所を特定されながらも、あくまで視覚的に隠匿される。その成長が、成長そのものに言い及ぶ事でもっともらしさを失ってしまうような、微妙な性格を帯びているからだ。

即物的に考えると、ここでエリックは『インサイダー』のラッセル・クロウにつながると思う*1。他者による指し示しは、エリックの肉厚を貫けない。もし貫通できたとすれば、その肉体は嘘になってしまう。したがって、彼はアンソニー以上に肉体を保全して成長せねばならない。あるいは、保全し変わらないことが、成長への言及の前提となる。アンソニーの変貌を彼が認知できたことは、座標軸の固定性を示唆するものであるし、また、明らかに変容を迫られる地点に至るや、彼はオーディエンスの視界から遠ざけられねばならない。少女は男の見ていないところで女になるのであり*2、おやぢはフレームの外で“おやぢ”となったのだ。



*1『インサイダー』の感想を参照。

*2:このおやぢくさいフレーズは、学生のときに受講した一般教育科目「哲学」の講師から発せられたものである。



 『LOVERS』
 香港・中国[2004] 監督:チャン・イーモウ

アンディ・ラウの基本的な配役戦略からすれば、『フルタイム・キラー』('01)はちょっと異質な作品で、アッパーな童貞演技で反町にモテ合戦を挑んだ彼は、あえなく自滅している。モテモテな従来のテンプレートからは明らかに外れており、その違和感がジョニー・トー文芸にどす黒い花を添えている。

このあたりの転向には、イーキン・チェンら後続からの圧迫を考慮してもよいし、また、『インファナル・アフェア』('02)で明らかになったように、善人路線トニー・レオンの脅威を想像してもい。それは、不毛なモテモテ合戦と善人合戦との間に見出されたニッチと言えそうで、アンディ自身の成熟とトーの偏執文芸が、かかる転換をバックアップしている。もっとも、隙間戦略の内容そのものに目を向けると妙なパラドックスがあるようだ。熟成したアンディのたどり着いた造形は、神経質な童貞という非成熟そのものである。


先ほど触れたように、アンディの造形戦略はトー文芸のニッチ戦略と密接な連関がある、あるいは、トー文芸の産物としても評価できる*1。言いかえれば、ジャンル自体の成熟とアンディの変貌を結びつけて考えてよい。かかる構図は、『LOVERS』だとアンディと金城のダイアローグで露骨に語られており、あわよくば欲望でミッションをぶち壊そうとする金城を、アンディが頬をピクピクさせながら抑止することで、アンドリュー・ラウの90年代水準とも言うべき、モテ合戦に走りがちな悪癖が迂回されている。ただ、この辺はイーモウのミステリー趣味を反映している所でもあって、アンディの無理な笑顔が神経症的な童貞演技だとわかると、単なる迂回ではない異質のモテ合戦、つまり、モテ男に挑む童貞のいたたまれなさが見えてくる。

プロットのかかる効率性には、90年代アンドリュー・ラウを軽く超えるイーモウの余裕がある。また、ダガーの気持ち悪い滞空感と宙づりにされた童貞感のリンクに、そろそろ知命を超え始めた彼の境涯がある。


*1:アンディに対するジョニー・トーの血迷った波及については、『マッスル・モンク』('03)でその最たるものを観ることができる。


 『黒い太陽七三一』
 香港[1989] 監督:ムウ・トンフェイ

ここで語られているイデオローグを本気印と考えるか、あるいは素朴なスプラッタを導入し正統化する手段にすぎないと受け取るべきか。このオルタナティヴはけっこう厄介で、むしろ、イデオローグは本気印でありながら、また同時に猟奇性を擁護することで、プロットの経済性に準拠していると思われる。ところが、とにかく即物的に、スプラッタ関連の組み込まれ方に着目すると、かかる理念的な効率の一体感とは裏腹に、特撮映画のようなストーリーラインの分離感が現れてくる。三つの唐突で明確なスプラッタのピークをメインのストリーラインと関連づけるのが難しい。クリアなプロットの構造が、かえって様々な意図の混線を強調しかねない。

混乱は、一連の実験場面の詳細を追うとやはり明らかになる。腕を冷凍したり、減圧で腸を捻り出したりあと、さり気なく食事のシークエンスが続くのだが、ある種の肉食の思想を反映したこれらの構成は、その何気なさがポイントで、そこに止まっている限り、イデオローグとスプラッタの整合性はギリギリところで保たれるように思う。しかし、最後の難関、子どもの生態解剖に至ると一線は越えられてしまい、取り出した各種内臓器官を抱えたおやぢどもが一杯やろうと気勢を上げて、ただの露悪的なモンド映画となる。もっとも、問題を厄介にしているのはその後の話で、語り手は何事もなかったようにイデオローグ寄りの路線に回帰して物語を閉ざしてしまう。けっきょく、異質な思考が融和せずバラバラに投げ出されてしまい、偶然にも作品の表層上のモチーフを構造がたどってしまう。

香港というジャンルのくくりで考えると、生体解剖で昂奮したおやぢどもの先にあるものが、『八仙飯店之人肉饅頭』('92)であることは明かだろう。そこにあって、猟奇趣味と社会問題の混同は、文芸という名のパースペクティヴによって集約された。その意味で、『黒い太陽』は『人肉饅頭』の壮絶な前哨戦だと言えそうだ。香港映画は、ダニー・リーという偉大な才能を待たねばならなかった。

しかしここで、あくまであのイデオローグは本気印であるとする最初の解釈に戻ってみたい。この立場からすると、実は文芸というパースペクティヴで物語が統一されてしまうのはまずい。これが文芸だと評価されることで、特定のイデオローグが無効になってしまう恐れがあるからだ。そうなると、異質なストリーラインの混在は、プリミティヴな賜物と言うよりは、そうでなければならぬものとして扱わねばならなくなる。作品評価の困難が顔を出す所である。

 『アトミック・カフェ』
 アメリカ[1982] 監督:ケヴィン・ラファティ / ジェーン・ローダー / ピアース・ラファティ

『黒い太陽』は、異なるイデオローグ間の強度競争に翻弄され、結果、分裂症に至ったと解釈できるだろう。政治的なイデオローグと文芸が排他的な関係に置かれ、前者が後者に脅かされた。同様に『アトミック・カフェ』でも、政治が文芸のイデオローグに転換する様が見受けられるようだ。ノスタルジーなプロパガンダへの排撃はイヤらしいといえばそうなのだが、やがて、プロパガンダの牧歌性が露骨な現実によって贖われるに及んで、妙な浄化が生まれてしまう。こういったところは、邦画らしい多湿感が開けっ広げな残虐描写に復讐される『男たちの大和』('05)と似ている。

『アトミック・カフェ』のイデオローグが到達した場所は、無知が人類の大罪であるとする文芸の領域だ。ただ、『黒い太陽』との違いがあって、これまでのイデオローグが新たに獲得された文芸のイデオローグと対立するかというと、必ずしもそうは見えない。あるいは、排他的なのかどうか、その評価の土台すら事によると曖昧で、つまりそれだけ巧妙なやり方で転換が行われている。

かかる制御のあり方は、全米ライフル協会に激高するあまり、なぜか彼らを萌えキャラに昇華させてしまったマイケル・ムーアの厄介な無意識と対照的だ。

 『パッション』
 アメリカ[2004] 監督:メル・ギブソン

必ずしもそうとは言えないが、しばしば空間と時間の浸透力において優勢な文芸のイデオローグは、初めから斯くあった訳ではない。他のイデオローグとの強度競争、つまりは淘汰過程を経た結果だと見てよいだろう。たとえば、この物語の行政当局者側の明るく清潔な(アポロン的とでも言えばよいのか?)空間が大司祭側と対比され、オーディエンスが後者に不快を覚えるとき、そこにおいて文明圏の生存競争が暗黙の内に語られている。前者のイデオローグが、幾たびもの淘汰を経て、オーディエンスの文明圏と接続していることになる。

ただし、物語があくまでオーディエンスと同じ文明圏に属する美術スタッフ等によって語られたことを考慮すると、この親近感は当たり前のものとも言える。いずれにせよ同じ文明圏の産物だからだ。かくして、過去のイデオローグが今日に繋がり、逆に今日のイデオローグが過去を照射するような循環の構図が現れてくる。

 『極道恐怖大劇場 牛頭』
 日本[2003] 監督:三池崇史

やくざ犬という概念は、オーディエンスの世界にあってはイレギュラーな考え方だ。このことは、石橋や曽根の態度を見ると物語の世界でも共通のようで、哀川が“やくざ犬”を潰殺したとき、彼らは哀川が発狂したと考える。ただ、留保せねばならないこともあり、行為に至る直前、今からやることは冗談だと哀川は宣言している。冒頭から、物語は思考の基準点に軋みを来している。

かかる亀裂は、早くも続くシークエンスで致命的となるようだ。哀川は石橋らによってやくざの処分場に送られた。やくざ犬はダメで、やくざの処分場は適正だとされることで、物語の物理法則が一挙に見失われる。類似する感性は、名古屋の風土ネタが迷走する様にも形を変えて出現し、名古屋と母性の恐怖を接続する謎のメカニズムが執拗に語られ、物語はしばし停滞を被っている。

もっとも、かかる無効化された条理の反面、あるいはその反動として、このお話には強烈な、かつ、あざといとも言える論理性の輻射が内包されており、それがメカニズムの不明を解体するとき、謎解きの愉悦感らしきものが認められる。冨田恵子の奇妙な乳ネタは、情報量の欠落に伴う女体への恐怖として、曽根の童貞と連関し、いざ彼が吉野きみ佳と事に及ぶとき、世界のもっとも謎めいた身体、哀川翔が現れてくる。


『DOA』('99)の先はもはや荒野だろうと思ったら、『DOA2』('00)が待っていたものだった。本作にもそれと似た感慨があり、そこに人間の喜びと勇気がある。

 『乙女の祈り』
 イギリス・ドイツ・ニュージーランド[1994] 監督:ピーター・ジャクソン

多数のストーリーラインが誕生しながら、いずれも中途半端に頓挫し、なかなか統合を見ないいら立ちがある。師匠と弟子の動態関係かと思えば、すぐに友達になり、才能問題へアプローチするかと思えば、自己満足がラインを閉鎖する。ヘテロセクシャルが同性愛を脅かしても、何となく取り繕われ、ヴァイタルな物語に至ることはない。フレンドシップの求心力が強すぎて、物語の諸契機を無効にしてしまうのだ。

したがって語り手としては、この求心力自体が裏目に出てしまうような装置を考えねばならなくなる。反対に言ってしまえば、ラインの混乱はかかる求心力を強調するために設定されたともとれる。そこに狡猾な計算高さみたいなものが現れてくるようだ。物語は、運動が全く正反対の効果につながる風景に至り、プロットの論理性を際立たせる。

こういった数学の美しさと併走して、本作には文芸的というか、裏モチーフ上の統合らしきものも認められてよいと思う。解る人には解ると思うが、かかるイベントはすべからくオーソン・ウェルズの呪いと見てよい。「キモいっ!」とわめいて彼のプロマイドを河に投げ捨てたりするから、当然あんな事になる。いわばマニアック(偏執的)なまとまりの良さが水面下に広がっており、監督名を見ると、ああ、これはピーターの作だったか…という変な説得感がある。

 『悪い奴ほどよく眠る』
 日本[1960] 監督:黒澤明

本作のプロットには、ちょっとしたギミックが見られる。ミイラ取りの古典的な作劇を侮ると、ミイラの香川京子が身体障碍!――という恋愛AVGが現れ、動揺を誘う。シンプルな復讐談かと眺めていると、語られるべき三船から次第に視線が逸らされ始める。その向こうにあるものは、恐怖に震えるおやぢどもの身体だ。

おやぢどもへ半ば無意識に誘導される視角は、プロジェクトに投入される努力の差異と関連している。情報量の格差から、三船とおやぢどもの間にはゲーム状況が成立しておらず、場面は彼らに対する三船の一方的虐待で構成されがちである。加えて、アタックに関する技術的な制約の有無があって、事を起こすとき、おやぢどもは一定の規則や手続きに準拠せねばならない。身体の保全を優先しながらアタックすることの困難がある。

結果として、プロジェクトに投じられる労力において、三船とおやぢどもでは差が出てしまう。三船は一人で複数のおやぢどもを葬ることができたが、反対におやぢどもの視点に立てば、三船一人の身体を葬るために、いったい何人のおやぢを損耗せねばならなかったか、ということになる。その先にある風景は、必死に強がりを装う森雅之であり、小悪魔的な微笑みと絶望の落差で魅せる志村喬をはじめとする、途方もなく愛らしいおやぢどもの物語に他ならない。三船はおやぢどもの冷や汗の濁流に飲み込まれてしまった。

この構図は、いわば『羅生門』('50)の再襲とも解せそうだ。黒澤の教条的なモチーフが娯楽を歪めたのか、あるいは、検非違使庁でポツリと座る志村喬の意図せざる愛らしさが、説諭を乗り越えたのか? 物語は語り手の制御を離脱して羽ばたき続けている。

 『ウディ・アレンのバナナ』
 アメリカ[1971] 監督:ウディ・アレン

恋愛感情が地位の変数となったとき、つまり、要職に就いた彼が、それまで見向きもされなかったヒッピーの好意を被ったとき、次のような問いが現れる。感情はしょせん人為的なものなのか、それとも地位が彼の造形を変えてしまったのか? この主題は、声質の変貌が人格の成長と結びつく『ラジオ・デイズ』('87)のミア・ファローに引き継がれ、やがて『世界中がアイ・ラヴ・ユー』('96)に至ることになる。

 『レディ・キラーズ』
 アメリカ[2004] 監督:ジョエル・コーエン / イーサン・コーエン

冒頭の警官にとって、イルマ・P・ホールは理解の及ばない怪物として語られ、したがって、物語の常識線から外れているのだが、そんな彼女がハンクスと相対したとき、常識の基準線は二人の間を行き交い始めている。プロジェクト管理の職能を負ったハンクスは、物語の基本的な視角を構成してしかるべきはずだ。けれども、彼の病理的な笑癖とナルチシズムがイルマを呆れさせたとき、基準線は明らかに彼女の方へ移っている。二人とも、確たる基準線を担える資質に欠けるのである。

意外なことに、基準線を巡るハンクスとイルマの闘争が膠着する中で、暗黙の常識線として現れてくるのが、ツィ・マーだろう。ハンクスが行き詰まったとき、彼の機能主義が物語を誘導する。発話(情報量)を抑制することで獲得された属性と見てもよい。

けっきょく機能性の担い手となった彼が、何か不可解なメルヘンによって葬られねばならなかったのは、その機能性の故であった。彼の死後、物語は『ミラーズ・クロッシング』('90)に類似する主題をど〜んと発動させる。それは、事物があたかも人の手を経ず制御され、視角の外でいつのまにか事が完遂する風景であり、したがって制御者がいては都合が悪い。ツィ・マーを滅ぼした何気ないメルヘンは、フレームの内から見た語り手の作為だったのだ。

 『天国から来たチャンピオン』
 アメリカ[1978] 監督:ウォーレン・ベイティ

予期し得ない突然死があり、終わりの見える緩慢な死があって、記憶の継続問題に至る。しかし、これらのラインが或る情緒へ終着する発達過程として機能している印象は少ない。緩慢な死は難病物ほど情緒に執着せず、記憶断絶後も継続する恋愛のモチーフについても、『時をかける少女』('83)、『暗戦』('99)、『バタフライ・エフェクト』('04)、その他諸々の恋愛AVGと違って、感情の実効に必要な空白期間がなきに等しい。結果、ラインはそれぞれの効果を打ち消し、中和している感がある。

 『ベイブ』
 オーストラリア[1995] 監督:クリス・ヌーナン

プロットの不穏な逸脱ないし脱線みたいなものが、続編の『都会へ行く』('98)にあった。本来、都会のテレビ局に向かうはずが、なぜか保健所の脱出プロジェクトにすり替わってしまい、目的は全く別のアプローチから解決されてしまった。こういった物語の運動は、本作を眺めると何となく理解できると思う。豚焼きからの逃避をはかる一種のサバイバル劇が、猫を起こさないためのスリラーに変貌したりして、事細かにあらぬ方向へと誘導が試みられている。いずれも、あの見るからに旨そうな子豚によって想起されるオーディエンスの食習慣をオミットさせるためだと言えそうだ。サバイバル劇は、サバイバルから遠ざかることでかえって作動し、その慣性が『都会へ行く』の物語運動に影響を及ぼしたと思われる。

 『ライムライト』
 アメリカ[1952] 監督:チャールズ・チャップリン

映像のお宝度は別として、チャップリンとキートンの絡みから今日のオーディエンスが慰めを見つけるのは難しい。ただ、時代によってこの手の文脈が変わりやすいことを思えば、仕様がないとも言える。したがって、オーディエンスとしては、かかる可笑しさを劇中の人々に指し示してもらわねばならない。劇中劇を眺める彼らの態度を観察することで、演じられるコントの評価を推測せねばならない。ところが、劇中の観衆には、かつてさくらを行った前科がある。そこで、この笑劇を眺め、驚くほどのオーバーアクションで昂奮する彼らが、果たして本心からなのか、それとも演技なのか、一切が不明となる契機が現れる。認知の基準が振動する古典的な主題が語られている。

おそらく語り手にとって見れば、最後に表出する認知の動揺は意図しないものだろう。しかし、これがうまく語り手の制御に入ると、たとえば、チャップリンの神経衰弱を語るために、劇中劇の虚構性が利用されたりする。あるいは、あのイヤらしい老人のスケコマシテクも思い起こして良い。クレア・ブルームをいったん突き放すことで、ますます辛抱堪らなくさせてしまい、結果的に彼女を間接制御してしまう微妙さにも、そういった感覚が内包されているようだ。

 『恋する幼虫』
 日本[2003] 監督:井口昇

新井亜樹には極端な人格の立体構造が組み込まれていて、それが荒川良々の語り手たる属性を侵し始めている。あるいは、同じシークエンスにあってすら、何の遠慮もなく語り手の頻繁な移動が二人の間で発生している。

かかる語り手の転換は力関係の変動とリンクしており、その限りでは教科書的である。それまで物語の視角を担っていた荒川に対して、彼よりも弱者である新井が投入された結果、語り手は荒川の優位性を表現するために、彼の内面に踏み込めなくなる。下手に情報を開示したら、ボロが出るからだ*1。したがって、荒川は新井によって眺められる人格に転換する。しかし先述の通り、新井の人格には極端な可変性が設定されている。彼女はキレやすいのだ。そこで、新井が凶悪になってしまうと、視点は荒川の元へ舞い戻ってくる。


本作の視点動態をマクロに眺めると、初め荒川の元にあったそれは、新井の登場により彼女へ移動し、次に新井がキレることで荒川に返還され、最後は、新井に再譲渡されることで、物語は閉鎖されている。上述のような視角の混乱は、いずれも視角移転の合間に起こっていることだ。そして、かかる混乱期において、視角を移転し安定させようとする語り手の努力は、キャラの器官に対する物理的な作用として現れるようだ。

かかる感性は、荒川の少年期を回想する冒頭から既に語られている。荒川は、あこがれるおねえさんの情交をふすまの隙間からのぞくのだが、その視線は、次のカットでは何事もなかったように無効化され、語り手の視角は、荒川の盗み見る被写体のバストショットになる。それは荒川にとって不可能な視角だ。ところが数カット後、今度は彼女の眼球が物理的に引きずり出される描画が始まり、視角の混乱とその統制の欲望が、恋愛の困難と結びついてしまう。

エピローグで視角が新井に譲渡される際、荒川の頭部がすべからく欠損するのも、同様の感覚から語ることができるだろう。認知のメカニズムを物理的に失った彼は、もはや語り手たり得ない。視点動態に翻弄された物語は、そこでようやく安楽の地に至っている。



 『インテリア』
 アメリカ[1978] 監督:ウディ・アレン

ダイアン・キートンとペイジおかんが壁際に立って対話を行う場面がある。この二人はやがて腰を下ろすのだが、その動作に入った一瞬、妙な違和感がフレームに現れるようだ。このとき、カメラは下にフォローして被写体の動作を追っている。ところが、被写体の背後にある壁が、かかるフレームと被写体の動きに連動せず、停止してるかのような錯覚をもたらす。この効果は、ゴードン・ウィリスの暗いルックに因るものだろう。そしてまた、被写体を背景に埋没させるような、色彩設計の意志も指摘して良い。

類似する感覚は、海岸を歩く被写体をロングでフォローするカットでも語られている。彼女らは歩いてるはずなのに、背景は停止してるかのように思われる。まるで動く歩道を逆進するかのようだ。

本作のタイトルを考慮すると、被写体と背景の格差を埋めようとする志向に、ペイジおかんの意図を見てよいだろう。デザイナーである彼女は、家族を背景へ溶解することで、彼らを統制する欲望を充足させていた。したがって、ダイアンらは歩行しているはずなのに前進ができない。また、モーリンおかんが、視覚的に目立つ温色のコスチュームで投入されるのも、その意図するところは鼻につくほど明白だ。

夜明けの印象的な色彩設計にも、かかる計算高さは現れている。家族の統制がペイジおかんからモーリンおかんへ移動するその場所は、夜色と朝焼けの入り交じった不思議な色彩で語られている。

 『楢山節考』
 日本[1983] 監督:今村昌平

今村昌平は基本的に板付き編集をやらない人で、風景は几帳面にカットで分割されることが多い。しかし、そのような語り手のフォーマットから見れば異質なカットがひとつだけ、本作に見られる。高田順子一家をボコボコにして、生き埋めにするシークエンスだ。

かかる長回しには、モンタージュで省略せずちゃんと埋めてますよ――な含みがあると思われる。ただ、長大な尺で語られるその風景を眺めていると、そこで描画される作業の手間と困難が伝わってくるようでもあり、やがてかかる徒労感は、閉鎖された空間における人口制御の難しさにつながっている。死体処理場に立ち入った緒方とオーディエンスを驚かせたのは、ボディの量であった。つまり、処理場はもはや満杯で、現行の循環システムでは行き詰まりが見えていたのだ。

 『ミッドナイト・ラン』
 アメリカ[1988] 監督:マーティン・ブレスト

とにかく電話が一杯出てくるお話で、回線に情報を集約したい意図がある。それは複線化したストーリー・ラインを制御したい欲望であり、あるいは、情報のベクトルに沿って、オーディエンスの視線を誤誘導する方策でもある。隠されるべきものは、彼に情報の優位性があるという情報だ。

ただ、プロットの図解的な明快さと拮抗するように、物理法則がイベントを制約する割合に疑問がある。世界がキャラの行動に寛容すぎる。情報を制御したい意志が、物語装置の物理的なフィールドに変な波及をもたらした感がある。

 『黒い雨』
 日本[1989] 監督:今村昌平

みんなくたばったのに、ひとりダイ・ハードな北村和夫が感づいてしまうお話、自分が神に選ばれたことを。北村が地味で愛らしいおやぢだけに、その衝撃はシャマランの遙か先を行く。

 『ボーイズ・ドント・クライ』
 アメリカ[1999] 監督:キンバリー・ピアース

クロエ・セビニーの投入以降、物語の観測点は揺らぎ続けるようだ。投入当初、彼女は座標系の中心にいるヒラリー・スワンクに優勢する人格として語られながら、数分後には何ともいたたまれないカラオケを披露する始末で、内面情報の開示に遠慮がない。対してヒラリーの方は、曖昧な笑いでかかる情報を眺めるだけで、自らの内面情報を詳細に語ることはない。情報がばれたらまずいからである。

座標軸の争奪戦は情報開示の競争でもある。そして語り手は、この競争に介入できないまま座標軸を占め続けるヒラリーに、倫理性の遺棄らしきものを見出しているようだ。暴力を眺める視線に悲劇の色合いは希薄で、むしろ復讐の爽快と童貞の怨念が込められてる。

 『田園に死す』
 日本[1974] 監督:寺山修司

劇中劇は、差異化の必要から、劇中とはまた違う語り口に準拠せねばならないだろう。そして、かかる語り口は、しばしば劇中より稚拙に語られがちだ。語り口のもっともらしさにおいて、劇中劇は語り手を超えてはならない。

寺山は、指し示しの偏執性らしきものを用いることで、語り口の野暮ったさを表現してるように思う。たとえば、人が死ぬと、わざわざ「死んでる〜」と発話で解説される。好ましい感情はイメージカットで説明され、脱出願望に駆られると汽笛のSEが入り、時には辞書まで引っ張り出される。フレームはまさに語りたい被写体に接近し、シーケンスを差異化すべくルックはあからさまに変わる。そして、母親が幼児を川に流すと、どんぶらこと川上からひな壇が流れてくる。かかる明示性の最たるものが、葬儀場の巨大な矢印になるだろう。

後に『ウテナ』でこの矢印を活用した幾原邦彦は、指示が強迫的になる機微をよく理解していたと言えそうだ。彼は寺山の巨大な矢印を無数に分割し、アイレベルの向こうに消失するまで、それらを陳列したのだった。

 『アイ、ロボット』
 アメリカ[2004] 監督:アレックス・プロヤス

ウィル・スミスがコーヒーに多量の砂糖を投じて、イヤがらせをするお話。ただ、あれが本当に計算された示威行為なのか、それとも単に素なのか、あるいは、意図された行為としても、それを示威として把握する価値観はどうよ――、という問いかけに至ったとき、語り手が背景とする文化コードの臨界が見えなくなる。『ダークシティ』('98)の不安定なモチーフが何気なく構造の内面に組み込まれ、暗にウィル・スミスを逆襲している。

 『スチームボーイ』
 日本[2004] 監督:大友克洋

危急に際し、二人は何か重い物体を走らせようと試み、「こんなの走らない」「いいから押せ」と会話を交わす。このダイアロークが奇妙なのは、台詞の間に広がる見た目18kほどの空白である。事態が切迫しているので、おそらくこの半分も間は要らないだろう。

この例に限らず、語り手は動作の間に奇妙なバッファを設置しようとする。やはり至急の時、銃を取った男はしばらく佇んでしまう。エレベーターに乗った男は、同乗した女を誰何するまえに、溜息をつかねばならない。

ところが、段取り芝居のかかる集積も、蒸気機関のあり得ないエネルギー効率が語られ出すと、違和感がなくなくなる。動作の間にあったバッファは、内燃機関の効率性に親しんだオーディエンスの感覚とスチーム・エンジンの出会いを、文字通り緩衝していたのだ。

 『紳士協定』
 アメリカ[1947] 監督:エリア・カザン

おっかない、といえば語弊が出るが、よりスリリングに思われるのは、認知の容易な主題よりも、それを語るスタイルによって意図せずに明らかにされる教条らしきものだろう。本作だと、語り口において見出される明確な亀裂に、表層のモチーフを裏切るかのような快楽がある。優れて物語ライクな本線の語り口と、まるで教育映画のようなジョン・ガーフィールドの説教シーケンスだ。語り手は、かかるフォーマットの断絶を敢えて放置している。

このあたりは、人格造形の生存競争を眺めても明らかになりそうだ。グレゴリー・ペックとセレステ・ホルムの万能感がイヤらしい。ドロシー・マグワイアの転落劇はわかりやすすぎて不安である。では、誰が生き残ったというのか。半世紀を経て、未だに輝きを放つのは、偏見に打ち負かされて行くおやぢども。頭でわかっていても体の伴わない、あの愛らしい身体群であった。

 『オールド・ボーイ』
 韓国[2003] 監督:パク・チャヌク

『JSA』('00)のイ・ビョンホンは、飛び降り自殺中の同僚とたまたま目が合ってしまう。このとき珍妙な現象が起こっていて、ビョンホンは同僚の瞳に自分の鏡像を見出している。距離感と時間の常識から、物理的にあり得ないこの風景は、したがって、一種のエフェクト・カットの体を為しており、基本的にシブいサスペンスである本作のルックから突出している。わざわざ視覚的な違和感を呈してまで、このカットを語らなければならなかった明快な動機を、作中に見るのは難しい。

『オールド・ボーイ』でも、鏡像を利用したダイアローグとそれに類するシーケンスは幾度か登場する。理髪店でチェ・ミンシクが対話を行ったとき、二人は鏡の正面に並び、互いの鏡像に向かって会話をしている。

このシーケンスに限るのなら、例によって語り手の癖が出ておるな、という印象で済んでしまうのだが、続くユ・ジテと姉貴の恋愛AVGがおっぱじまると、かかる感覚がプロットの構造に深く食い込んでいる有様が見えてくるようだ。弟と事に及ぶ彼女は、同時に手鏡で自らの鏡像を観察している。そこに、他者の行為を利用して自らの身体を操作するような図式が見え隠れする。

最終的に、間接制御の感覚は、ユ・ジテのミンシクに対する関係に派生すると思う。彼がミンシクに望んだことは、彼自身のPTSDがミンシクの行為を経て開示されることであった。もちろん、PTSDの解明を志向することは、標準的なミステリーのフォーマットを超えないし、PTSDの内容もごくありふれた恋愛AVGである。しかし、そのプロセスの回りくどさが、いかにもパク・チャヌクらしい。

 『世界の中心で、愛を叫ぶ』
 日本[2004] 監督:行定勲

いい加減、PTSDを暴いて悦に浸るフォーマットから逃れたいと思うのだが、しかし、これに比類する装置がなかなか見つからない。そこでひとつの妥協として、相変わらずPTSDは用いるものの、そこに何らかの付加価値を添える戦略が開発されてくる。先述の『オールド・ボーイ』もかかる観点から眺めることができるだろう。また、『模倣犯』('02)における森田芳光の苦闘も思い返してよい。彼は、中居正広のPTSDにほんのちょっと触れるだけで、あとは山崎努の眼差しに未来を託し、物語を閉鎖したのだった。

ところで、山崎は本作でも狂言回しっぽいロールを担っていて、森山未來に「未練がどうのこうの」と愚痴説教をしたりする。このような悔いの感情は、大沢たかお自身が回想に入る際にも語られており、走る脚部のショットでつないだそれらのカットは、過去に飛んだとかと思えば、また今日に戻り、そしてようやく回想にはいるような、もどかしさがある。それで、そこに何が待ち受けているのかというと、「朔ぅ朔ぅ〜〜」と愛くるしく発声して飛びかかってくる俺様の嫁だった訳であるな、はっはっは――、怖ろしい。

 『ハムナプトラ2』
 アメリカ[2001] 監督:スティーブン・ソマーズ

そもそもの事件の発端を見ればわかるように、本作は制御系の配線ミスに関する物語である。復活したヴォスルーの操縦に失敗して、物語の動機が始まった。ただ、ヴォスルーの制御を意図した者だけではなく、ヴォスルー自身にも、明確な自覚はないかも知れないが、やはり指揮系統の不明に由来する混乱らしきものが見られる。なぜか手下を神殿の柱にぶつけてしまう焦燥、あるいは、いきなり乱入してきた謎の大サソリへの戸惑い。かかる感情は、また、語り手がヴォスレーの内面に踏み込んでいった証左でもある。

これは前作から継続する特性だと思うが、語り手には、皮肉ではなしに、制御系の混乱を好意的に、あるいは前向きに解釈し利用しようとする傾向がある。どこからともなく湧き出てくる昆虫とマミーの群れに、物理法則への配慮は見失われがちだ。ところがやがて、こうした制御の欠落が、何となく奇妙な情緒に結びついてしまう。前作では、自棄糞な明るさが、無情な死生観をあおり立ててしまった。そして本作にあっては、制御の混乱がヴォスレーの内面において構造化されたとき、なぜか直球の恋愛AVGが始まる。

けっきょく、主役を張るべきだったフレイザー一味は、ヴォスレーに喰われてしまうことで、前作同様、脳天気な白痴性を危なげに際立たせていると思う。そして、こういったプロットの図式に、スティーブン・ソマーズの優しげで生真面目な眼差しをうかがえる。

 『雲のむこう、約束の場所』
 日本[2004] 監督:新海誠

何が「ボクタチハコレカラハジマル」だ、くそ。全カットリテイクぢゃ。

 『2046』
 中国・フランス・ドイツ・香港[2004] 監督:ウォン・カーウァイ

舞台の狭隘さとフレームの運動に相矛盾する欲求がある。カメラは前作と同様に香港の狭苦しいフラットへ放り込まれるのだが、そうされてもなお、何かしらの広がりを求めてやまない。視線は空間なき舞台をフォローするために、手前の被写体をワイプして移動し続ける。時には同じショットの間に時間経過の字幕を入れることで、時間という空間を語る。

舞台から被写体の方へ目を向けると、トニー・レオンが相変わらずイヤらしい笑顔で娘どもにからみつき、骨抜きにしておる。腹立たしい限りだ。ただ、本作ではトニーのかかる性質が逆手に取られている感もあり、やがてスケコマしテクが神業になるほど恋愛の確証が困難になる例の問題が現れてくる。

語り手は、恋愛の実効性を事後的に確証されるものとするようだ。トニーが彼女を辛抱堪らなくさせるのは別れ際のことだし、そんな彼女を想起し得て辛抱堪らなくなったトニーは未来にいる。恋愛の成立が距離感を要請しているのである。それは、他者の内語が把握され得ない距離と言いかえてもよい。

ここでようやく、シナリオの理念は冒頭のパラグラフに組み込まれると思う。距離感を必要とした恋愛は、その距離ゆえに成り立たない。その情緒が、狭小な空間にあり得ない広がりを求める視角とつながる。

 『生きものの記録』
 日本[1955] 監督:黒澤明

一家政上の問題について、志村喬には傍観者であることの後ろめたさがある。そこで彼は、戦略兵器を媒介することで不安を共有し、かえって安心している節が見受けられる。

また、語り手のイデオローグが素朴なリスク計算に終始した結果、東野英治郎の経営する農園に行くぐらいなら滅びた方が増しといった、変な男気があふれかえっている。なかなか底の見えない作品だ。

 『アイデン&ティティ』
 日本[2003] 監督:田口トモロヲ

宮藤官九郎は、時に、オーディエンスへメタフィジカルな罠を仕掛けることがある。たとえば、『GO』('02)の窪塚は、クラブに出かけて落語を聴き、「こんなところで落語をたしなむ俺様はなんとオサレなことだろう」と悦に浸る。また、本作の麻生久美子が「うふふ〜オサレだから聴いてごらん」と峯田和伸に渡すのは、ボブ・ディランである。いずれも、身の毛もよだつような俗物根性が感ぜられる。

もっとも、実際のところ、当人たちはただ望むままにやっているだけで、他人が行為をどう解釈しようと関係はない。むしろ問われるべきは、彼らを俗物根性と解釈する精神の方である。オーディエンスの俗物根性をかえって照射するかのような、宮藤の罠が待ちかまえているわけだ。

身を犠牲にして相手を照射する感性は、峯田の大説教を眺める眼差しにも見つかるだろう。彼は本番の真っ最中に商業資本を批判するのだが、そんな彼の演説を視聴者に媒介しているのは商業資本そのものだ、という変な撞着がそこに出てくる。『トゥルーマン・ショー』('98)のオチっぽい感覚である。

ただ、ここでは峯田の倫理性に着目するよりは、彼の行為によって結果的に浮かび上がる中村獅童らの造形に注意したい。峯田が暴走することで、商業資本との整合性に苦悩する中村の愛らしさが強調されてくる。

 『スター・ウォーズ エピソード 3 シスの復讐』
 アメリカ[2005] 監督:ジョージ・ルーカス

もともとパルパティーンさんは体育会系気質の人だったらしく、慣れぬ文系仕事でストレスが貯まっていたためか、ジェダイ連中と戦うとき、「ウケケ」と本来の人格が出てしまい愉しそう。しかし、議場でヨーダと武侠映画を始めるに至ると、衆院本会議場で河野洋平が東京地検と一戦交える絵が浮かんできて、引いた。メルヘンは難しい。

 『マッスルモンク』
 香港[2003] 監督:ジョニー・トー / ワイ・カーファイ

いささか混乱を来したこの物語は、とりえず、能力があるゆえに伴ってしまう責任の問題と解されるだろう。アンディ・ラウはそのスキルに関連したPTSDを抱えている。これはおそらくアメコミによくあるフォーマットと思われるが、本作にあっては、かかるフォーマットの組み込まれ方が、アンディの外観に怪異な反転を及ぼしている。アメコミでは筋肉男が筋肉の醸し出す能力ゆえに苦悩する。ところがアンディは、苦悩ある能力がゆえに、その姿を肉襦袢として描き出されている。

モチーフの変則的な適用は、セシリア・チャンの扱われ方にも現れてる。たとえば潜入捜査のフォーマットでは、捜査官自らの退場によって、潜入先で培われた友情に対する後ろめたさが贖われる。これが本作になると、セシリアが自殺に近い身勝手な死に方をすることで、かえってアンディの後ろめたさが緩和される形となってしまう。

PTSDからの回復を謳う結末の理念自体は、たとえそこに至る手法は異質であったとしても、ごくありふたものだ。しかし、回復されたアンディの造形を眺めても、やはり、何か異常なことが起こっているように見える。語り手は、PTSDから吹っ切れたアンディを、もはや人間の基準では計れない何事かとして把握し始めており、そこにまた、肉襦袢を放棄することで初めてスーパーヒーローになってしまうような、オリエンタルな倒錯感が語られている。

 『赤ちゃん泥棒』
 アメリカ[1987] 監督:ジョエル・コーエン

トレイ・ウィルソンにとって、事件は当人の知らぬ内に発生し、知らぬ内に解決されている。『レディ・キラーズ』('04)もイルマの視点に立てばそう語れるだろうし、『ミラーズ・クロッシング』('90)も然りである。

ただ、『レディ・キラーズ』との比較で言うと、本作では、トレイから赤ん坊を引き離し、やがてもとに戻す循環は、ケイジ夫妻、ジョン・グッドマン一味、他一名の三単位に担われており、それぞれのユニットは別個に運動している。他方『レディ・キラーズ』の運動を担うのは、トム・ハンクス一味だけである。

おそらく偶然だろうが、本作の三ユニットは合計五名から成っており、『レディ・キラーズ』のハンクス一味も五名から構成されている。人数配分を操作することで、モチーフのバリエーションを語る姿勢が、何となくわかる。

 『アレックス』
 フランス[2002] 監督:ギャスパー・ノエ

物語を牽引すべき未知の情報を語るために、語り手は何事か隠すことを語らねばならない。ところが、字面だけを見てもわかるように、それはいささかパラドキシカルな営みである。隠すことを語った段階で、既に隠れてはいない*1

映写幕の語る情報は実時間的で、それを押しとどめるすべはない。情報は否応なく流出してしまう。かかる光学の波にさらされながら情報を隠すとは、いかなる営みなのだろうか。


ヴァンサン・カッセル一行とセットに入った視角は、常に忙しげだ。不明な情報を開示すべく、フレームはセットを目まぐるしく巡回し、何事かを探索するカッセルの心理と同期している。

しかし、フレームの過分な運動は、かえって本来の目的を阻害するかのようだ。フレームの執拗な走査による光学の奔流は、むしろ観測者の認知処理に挑戦している。いったい何が起こっているのか、訳がわからないのである。情報を抑制するために、情報は過剰に語られている。

情報への欲望がその獲得を断念させる意味で、ここでもまた、フレームのワークはキャラクターの心理と連なるだろう。そして、この図式は、やがて移動を緩和し、停止に至る視角の運動と呼応する。そこは、ようやく物語が語られる場である。


ところで、事を光学情報に限定せず、聴覚情報も併せて考慮すると、情報制御は配分の問題としても現れてくるだろう。これは、テロップのイン、アウトがリズムと連動する冒頭でも顕著なのだが、視覚上でモンタージュの欠落した物語は、環境音のトーンを変えることで、たとえば空調の音やサイレンの音によって、意味をなさない光学情報に代わり、シーケンスが変わったことを伝えてくれる。情報は、視覚と聴覚の間で、配分先の割合を操作されることで、流出の制御に関与している。

*1:「誤誘導戦略(キーワード)」も参照。

 『CASSHERN』
 日本[2004] 監督:紀里谷和明

本作の語る絶縁の感覚は、何よりもまずシナリオ上の理念なのであるが、同時に、かかる感性は表現のスタイルに特異な介入を行っている。それは質感の分離であり、また、エディトリアルな亀裂でもある。

たとえば、麻生久美子が凹んだ伊勢谷をヨシヨシして呉れる場面。そこで語られるのは、ひとつの対話劇を全く異質なルックがシリアルに受け渡し合う風景である。同一のシーケンス内で、共時的なラインを追っていたルックは、いきなり回想処理に引き継がれる。しかし、ルックを除いて物語が回想に入った気配はない。同じラインのダイアローグをたらい回すために、視覚上の亀裂感は否応なく強調されるようだ。

こうしたエディトリアルな剥離は、生身の人体が機械とのバトルに至るに及んで、ライブアクションとポストプロダクションの亀裂を巻き込み、絶頂に達している。シーケンスは、タイムラインが進むにつれて一連のカット尺を縮退させ、ライブな身体とポスプロな機械の身体の融和を試みる。ところが、これらの間に横たわる異質な質感は、モンタージュによってどこまでも時間の上で近接しながら、決して埋まることはない。あるいは、近接してしまうからこそ、分離感がかえって現れてしまう。

カットをつなぐべきモンタージュが、かえってカットを切り離している。これは一見したところ非映画的な出来事であろう。だが、冒頭で触れた本作の理念を振り返ると、かかる剥離感は、視覚情報が物語の実体化である部分を含む以上、そうあるべきものとして解されるようでもある。けっきょく、そこで醸成されつつあったものは、きわめて映画的な現象だったのだ。

 『茶の味』
 日本[2003] 監督:石井克人

これは穀倉地帯の物語なので、屋外で被写体を追うとき、背景は緑がかることが多く、なんとなくモノトーン気味である。そして、時折、アクセントのように赤い屋根が見える。

冒頭を走る少年は、学ランを着用しており、その黒に牽引されたかのように、中性色の緑はどことなく寒々しい。

ただ、寒色調の屋外にあって、際立つように暖色で設計された例外の場所もある。枯れ草の中にたたずむ幸子の鉄棒だ。そこは後に、物語における特別な座を占める場でもあり、映画は田園色を軸にして色彩のシーソーゲームを語っていたのだった。

 『北京原人の逆襲』
 香港[1977] 監督:ホー・メン・ファ

当初、浮気という形で相手に棄てられたダニー・リーにとって、恋愛の瓦解は倫理性の欠陥として把握されていた。この図式は、エブリン・クラフトとの出会いで欲求不満が解消された結果、一端はダニーの中で成立しなくなる。

倫理の準拠軸は、代わりに捕獲された原人によって担われ始めたようで、それは、ダニーとエブリンの和合に微妙な抑制を示し、彼女がクー・フェンに襲われるや否や、香港を破壊し始める彼の態度に表れている。

ただ、見方を変えると、ダニーとエブリンを眺める原人に、三角関係の微妙な危うさを見出した語り手は、ダニーのモテ気質そのものの危うさにも、かかる際どさを還元している。棄てられた女との意図せぬ再会が、エブリンの嫉妬を催し、なぜか香港の大破壊に至る様は、倫理の問題というよりも、女難の神秘であり、いかにもダニー・リーらしい。

もっとも、この主題を、特に市街戦に突入してからは、より広範な問いかけとして捉えることもできるだろう。つまり、広東人にとって怪獣とは何なのか、その災厄によって喚起される彼らの公共の概念とはいかなるものなのか?

 『バートン・フィンク』
 アメリカ[1991] 監督:ジョエル・コーエン

作家主義と商業資本の軋轢はお馴染みのモチーフだし、作家がホテルで缶詰になるのもよくある風景だ。ところが、定型通りに出発した動機は、なぜか面妖な軌道をなぞりにかかる。

このような構成上の肩透かしは、モンタージュの意趣にまず現れる。

タトゥーロが初めて部屋の扉を開けたとき、フレームは彼のバストショットを押さえ、次カットでその切り返しと思われる部屋の全容を語っている。物語の観測者は、これがタトゥーロの主観カットだと思うのだが、直後、同フレーム内で、部屋に入って行く彼の背中がインしてしまう。視角は、タトゥーロの主観から微妙にずれた位置にあったのだった。

予期された主観ショットのすれ違いは、また次のような場面にも見受けられる。

室内でいささか神経症的になったタトゥーロは、何事かを発見して凝視している。しかし、ショットは彼の正面を捕捉していて、オーディエンスには彼が見ているものがわからない。だから、われわれとしては、来るべきカットでは視角が切り返され、彼の見つめる物体がフレームに入ることを期待してしまう。が、やはり叶わない。フレームは被写体を捕捉するどころか、一気に引いて、室内の状景ショットになってしまう。

では、タトゥーロはいったい何を見ていたのか。それは一種のイミテーションだったのだが、終わりのシーケンスに至ると、海辺を眺めるタトゥーロの背中越しに、あのイミテーションが実体として再現される。

そこにあって、不安定だった視角の運動は、既視感の不思議な感覚をともない、タトゥーロの眼差しの先にある現象に収斂されるかのようだ。そして、さらに向こうに広がる海面へ、憑き物が剥離するかのように、何やら物体が落下し、間の抜けた水没の音を立てる。変な映画だ。

 『隠し剣 鬼の牙』
 日本[2004] 監督:山田洋次

語ってはならないものをあくまで語らないと、かえって、明示的になるものだ。しかし他方、かかるメカニズムを逆に利用することもできる。それを語るために、敢えて語るべきではないことある。


ミキシングを眺めてみると、ここで語られている庄内平野は、鳥のさえずりに覆われ、一見したところ、パストラルな恍惚感を誘いがちである。たとえば、野外の行軍訓練に喜劇がちの眼差しを送るフレームは、ウグイスから発せられた間の抜けた音声の装飾を頻繁に受けたりする。けれども、のどかな景観の裏側では、黒沢清ばりの不穏なサウンド・エフェクトの意志が策動するようでもある。

永瀬正敏が師匠と立ち会う場面。二人が向かい合ったとき、鳥のSEがここぞとばかりにさえずり始める。あるいは、それは、特定のSEを抽出すべく、他の環境音が消失した結果かも知れない。露骨な言い方をすれば、ここで鳥は、今からアクションが始まりますよと喧伝しているわけだが、その現象が実効的になる一歩手前まで進むと、今度は音が全く消失してしまう。語られつつあったものが不意に欠けたとき、空間が特定化されて来る。


何らかの抑制を、むしろ能動的な語りに組み込む感覚は、永瀬と松たか子のもどかしい恋愛AVGによく似合うようだ。しかし、かかる停滞した眺めと対比されるように、彼らの傍らでは、ヘタレたサラリィマン軍団が何気なく組織化されて行き、その単線的な近代の運動が舞台に奥行きを与えている。

そして最後に放たれるツンデレ台詞の一撃。円熟した職人の仕事が暴発した。

 『オアシス』
 韓国[2002] 監督:イ・チャンドン

脳性麻痺の患者に、何かしら「人間」の機微を、たとえメルヘンにしてまでも見出そうとする。そうでなければ、移入のできる物語が成り立たない。しかし、そこに、ネガティヴな意味でのヒューマニズムが暴露しかねない。彼女をあくまで、人間として回収されねばならないものとして扱っているからだ。『四日間の奇蹟』('05)と同じ構図であり、また、人間の認知の限界を、自意識のハードルを下げることで、語っている。

他方で、あるいはその裏返しとして、このメルヘンは、明るい実用主義に満ちている。就業の過程を語るプロジェクトの快楽、恋が部屋を秩序立てる機能描画、それに、ムン・ソリを何のてらいもなく人の形をした恋人に仕立て、恋愛の困難を語るために白痴性を容赦なく利用する娯楽へのひたむきさ。

これらすべてに、文芸というイデオローグの冷徹な実利性を見てもよいのだが、大らかな語り口を眺めていると、かかる類の突っ込みも野暮のように思われてくる。言い方を変えれば、そう思わせてしまうあたりに、語り手の確かな技術があるのだろう。

 『コラテラル』
 アメリカ[2004] 監督:マイケル・マン

ジェイミータクシーの客になったトムクルは、ジェイミーのヘタレを嘆き、初っぱなから説諭をたれる。

「口ではなく行動しろ。男は仕事でものを語るのである」

ジェイミーにとっては迷惑この上ないことだが、考えてみると、そこにはロジカルなバグがある。口ではなく手を動かせ、と口で言ってる時点で、すでに破綻している。

この発話で語られた自家撞着は、表裏ある本作の構造を象徴するようだ。

トムクルは出来る男と執拗に喧伝されながら、実際の機能的側面については、かなり錯誤ある人格として扱われている。その点を見る限りでは、語り手の分裂気質を思いたくなる。

ただ、ジェイミーとの絡みも含んでしまうと、成長する人格と凋落するそれの対比を扱う、古典的なフォーマットが浮かび上がってくる。トムクルのラインと併走して、文系男、ジェイミーの成長が語られている。

トムクルを語る態度がスキゾフレニアなように、かかる成長の対比にもちょっとした工夫というか、可笑しさみたいなものがある。トムクルにしてみれば、焚きつけたジェイミーが一夜のうちに思わぬ成長を遂げてしまったために、プロジェクトが頓挫してしまった。つまり、成長の対比が、制御の不能の自棄糞として、組み込まれている。

また、トムクルの挫折に思いを馳せると、殺人鬼への哀憐へ転化する恐怖映画のフォーマットが見えてくるようでもあり、あるいは、プロットに隠蔽されていた主題がようやく顔を出すようでもある。ジェイミーがトムクルに巻き込まれたように見せかけておいて、実はトムクルの方がジェイミーという怪物に巻き込まれたのだった。


けっきょく、トムっちの破綻せる台詞は、そうあってしかるべきものとして合理化されるだろう。そして、かかる微妙な論理性のハーモニーが、終幕のけだるい徹夜明けに映えるようである。

 『金融腐蝕列島 呪縛』
 日本[1999] 監督:原田眞人

空間は、配色によって区別されることで、何事かを語り始めるものだろう。けれども、その配色へ込められた意図に思いを寄せたとき、そこに、激高と皮肉の区別が付かなくなったような、あるいは、混乱したユーモアと言うべきような、語り手の感性があらわれてくる。


空間の配色戦略でひとつ対照的なのは、役員室や株主総会の会場といった暖色系の場と、寒色系で語られているブルームバーグの局内である。

これら二つの場は、違う意味でも対照的で、ブルームバーグの方は、あえて意識しないと配色などに目は行かないのだが、役員室は、ウェス・アンダーソンのルックのように、息詰まる暖色系をしている。

色彩の突出は、違和感の裏返しのようでもある。巨悪の中枢とか、権威主義で以て語られる場所が、暖かい色で語られている。映画はそこで何を意図しているのか。住人たる仲代達也の造形を見れば答えは明らかだろう。色彩のちぐはぐな質感は、彼の、やもすると道化じみた愛らしい言動につながっている。あるいは、これから住人になろうとする根津甚八の、小動物的な愛らしい繊弱さを迎え入れている。同系色の株主総会で、生ぬるい人情が溢れてしまうのも無理はない。

この愛すべきおやぢ天国を傍若無人に荒らし回るブルームバーグが鋭利な配色で語られるのも、まことに教科書的だ、と言いたいところだが、原田眞人は一筋縄では行かない。若村麻由美が、まるで空気の読めない天然として造形されているのだ。仲代とはまた別の意味合いで道化をしており、その寒色系は、冷たいと言うよりもむしろ寒い。


若村のかかる造形は、おそらく、『浅間山荘事件』('02)の役所広司へと受け継がれるものだろう。非当事者が現場を荒らすことへのいら立ちが、人格の造形に復讐されているようだ。

 『解夏』
 日本[2003] 監督:磯村一路

色彩が空間によって分割されたとしても、被写体が交互に空間を往来できると、各空間は不可逆の関係におかれず、色彩は循環することになる。対して、往来が不可逆になると運動は単線的となり、物語の末端が見えてくる。難病物を語るフォーマットの類型である。


この物語は動機付けの段階で一種の発明を行う。大沢たかおは、失明に視界の暗色化を想定しているのだが、被験者は反対のことを彼に語っている。それはむしろ白色に至る運動だ、と。

かかる運動はロケーションの転換によって担われる。

校舎、医務室、フラットのワンルームと、教員時代の大沢を語るルックは、暗くモノトーン気味だ。これが、長崎に行ってしまうと一気にコントラストと彩度のパラメーターが上がる。

こうした指向性は最後まで一貫し、最後のカットで、われわれは石田ゆり子を乳白色の中にロストしてしまう。そして直後、さだまさしの歌唱が襲いかかる。計算高い感傷の集積が炸裂だ。

 『カンフー・ハッスル』
 香港・中国[2004] 監督:チャウ・シンチー

普通なら助からないと見込まれる高さから、家主の夫が落下しても絶命しない。あるいは、シンチーが家主の女房と行うカーチェイスのあり得なさ。それは、バリー・ウォンの残照のような漫符であると把握されるのだが、一方で、斧頭会の語られ方には、シリアスな物理法則が介入している。描画の抽象度の違いが、座標軸の不思議な揺らめきを語る。

かかる齟齬の合理化は、実は体が頑丈だった、という二重の漫符で処理されている。ただ、 言葉を返せば、手法はともかく、ちゃんと合理化してしまうあたりに、バリー・ウォンを装いながら、やがてそれを超えてしまう物語の躍動があるようだ。

語り手の論理性は、また、構成の図式的な明快さにも見て取れるだろう。昂奮したシンチーが交差点の公共物を素手で損傷する場面を想起したい。

そこでシンチーの損壊したものは分厚い金属板で、素手で傷つけることは困難な代物である。したがって、オーディエンスとしては漫符だろうと思いたくなる。しかし、漫符はいつまでも物理的な実体として残存し、シンチーの相棒を不審がらせる。漫符が漫符でなくなってしまったのだ。

あの交差点は、物語の性格を断絶する楔であり、また、80〜90年代のバリー・ウォンと、21世紀以降のアンドリュー・ラウを隔てるかのような場所でもある。語り手は、香港というジャンル自体の系統進化を謳っていたのだった。

 『グリード』
 アメリカ[1924] 監督:エリッヒ・フォン・シュトロハイム

ジャンルの文芸上の蓄積が進み、語られる感傷は複雑になってきたのだが、テクニカルな蓄積が追いついていない。つまり、いまだトーキーには至らない。音声情報に制約があるのなら、視覚情報を多角化して、抽象的になった感傷に対応せねばならない。ところが、かかる多様性が、かえって、そこで語られる感傷の定義を困難にする。歓喜から不安へコロコロと急転するザス・ピッツの顔が本当のところ何を語ってるのか、わからなくなる。

物語の観測者は、けっきょく、そのショットをテクストで補完してくれる字幕が出るまで、感情を確定できなくなる。あるいは、確定する努力をあえて放棄してしまう。いずれにせよ、直後に解答があるからだ。かくして、解かれるべき情景の提示と字幕による解答の間隙に、感傷の凪が訪れる。しかし、その中性的な感傷の間も語り手の制御下に置かれると、何事かを語り始めてしまう。


ストーリーラインとしての本作は、コアユニットの恒常性を問題としているようだ。富くじを当てた妻は、環境の変動から貨幣量を保全するために、精神のバランスを崩し始める。物語の良識ある眼差しだったギブソン・ゴーランドも、妻につられてバランスを崩し、観測者は準拠すべき枠を失う。感傷の困難な定義付けは、ストーリーラインの構造と結節する。

そこで語られる主題自体はいたって標準的で、コアユニットの取り違えが訓話調に解されてるともいえる。しかし、語り手が二人の狂走に執拗な眼差しを注ぎ始め、ぶっ飛び具合のレースがスリラーに転化したとき、何かを変えないために変わってしまうことの妙が顔を出してくる。

 『忘れられた人々』
 メキシコ[1950] 監督:ルイス・ブニュエル

就業という機能描画の快楽があり、逐一それを妨害するスリラーもある。学校という社会化の過程にようやく組み込まれ、プロジェクトの完遂を見た直後、街角を曲がると“で〜ん“と悪友が待ち構え、少年を悪の道へ引きずり降ろそうとする。恐怖映画然とした、あるいはトリアー級の不運な図式がイヤイヤで美しい。

『網走番外地』だと、高倉健は丹波哲朗の誤解を解いて救済されるのだが、ブニュエルはそういうタイプの語り手ではないので、後は墜ちるしかなく、就業と堕落を巡り、信頼と不信の狭間で動揺したあのスリラーも消失してしまう。

もっとも、スリラーはまた、別のフォーマットに憑依したとも言えそうだ。物語が、停滞した貧困の悪循環に戻る訳ではなく、あえてアクティヴに破滅へと転げ落ちる様は、趣味の悪さと言うよりも、むしろ、語り手の倒錯せる優しさを迂闊に語ってしまうようにも思う。自棄糞の爽快さとも言うべき新たなスリラーが、娯楽映画としての本作を救うのである。

 『Ray レイ』
 アメリカ[2004] 監督:テイラー・ハックフォード

この映画には途方もない安心感がある。

技芸であれマネジメントの分野であれ、ジェイミーのスキルが生得的に決定されていて、しかも、それを脅かすも他人を語り手は作中に投じない。むしろ脅威は、PTSDとヤク中として、彼の内面に設定されている。あるいは、スケコマシの高度なスキルが、策士の策におぼれる形で、自らを復讐したりする。

しかし、実際に障碍が立ち現れたとしても、やはり、スキルが何とかしてしまう。PTSDもドラッグも容易に克服され、刹那的な盛り上がりの部品に過ぎなくなる。


被写体の技芸上の資質は、また、オーディエンスの界面により接近して不思議な効能を及し、安心感を総括するようだ。スコアを流しておけば、結果として、何となく保ってしまうような感覚である。

もちろん、劇伴はシナリオの持てる資質を増幅できても、救うことは出来ないので、スコアだけで保っているとする認識は錯覚だろう。ライターとしての語り手は、自らを映画の内に埋没できたことになる。が、自然の内に埋没すること、あるいは、愛らしいジェイミーにおおよそ不安が立ち現れないことをどう評価すればよいのか、と問うと、その安心感が微妙な含みを映画に与えるようだ。

音楽家の伝記映画として同年に公開され、強烈な難病物を謳い上げた『五線譜のラブレター』と、おもしろい対比を為すと思う。

 『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』
 日本[1976] 監督:山田洋次

マドンナに惚れ込んだまではよいが、彼女のラインでは別の物語が進行しているし、寅の家族もそれは周知だ。しかし、寅次郎だけはいつも情報から疎外される。したがって、限定された情報を基に行われる彼の行動は、全容を把握しているとら屋の住人や物語の観測者にとってみれば、しばしば不快に映ってしまう。

特に本作では、京マチ子の死病というデリケートなトピックを扱うため、かかる情報を知らないまま言動を行う寅は、まるで腫れ物であるような、あるいは、制御されるべき怪物であるかのように語られがちだ。

実はこの時点で、本作は既存のテンプレートから明らかに脱しつつある。本来であれば、たとえ寅自身に情報が欠けていたとしても、観測者の方は寅の心理を逐一把握できるようにストーリーラインは構成されている。ところが本作では、寅が傍若無人な人格として扱われるあまり、やがて内面の見えないキャラとなってしまう。観測者には把握できない情報が出てくるのだ。

こういう『男はつらいよ』っぽくなさは、さくらの視角が物語に介入を始める所にも現れてる。

たとえば、京マチ子の病を知ったさくらが、とら屋の一家団欒に耐えきれず台所へ逃亡する場面を想起したい。フレームの手前では、バストショットのさくらがメソメソしている。そして、彼女の肩越しの向こうには、何も知らない寅とその仲間たちが莫迦をやっていて、何ともわかりやすい対比ができあがる。

もはやこれを『男はつらいよ』のフレーミングと呼ぶ事はできないだろう。語り手がさくらの心理に近接しすぎているのである。どうしてこんなことが起こったのか。

結論から述べれば、語り手は、情報の潮流をさくらに偏向することで、何かを故意に隠蔽しようとしている。それは、寅の内面で密かに行われている活動である。つまり、マドンナの内面を知らない寅という文頭の図式が、ここでは寅と観測者の間で成立してしまう。


テンプレートの特性として、難病物は死者を代替的に回収したり、あるいは、かの人生を意味づけるアクションを起こしたりせねばならない。観測者から隠蔽された寅の内面で行われていたのは、かかる作業であり、同時に、それは京マチ子の情報を知らない寅ではないと行え得ない事であった。彼女の生存を前提とするプロジェクトが、彼女の死後、意図せぬ形で機能するからである。彼女の余命を知ってるキャラにとって、生存を前提とするプロジェクトは行えなかっただろう。

また、その隠匿された作業は、寅の人格を発見するプロセスだったともいえる。柴又駅のホームで寅の口から初めて解答が発せられたとき、何も考えていないと思われた男の内面では、別のラインがちゃんと進行していたといような、意外性の喜びとも言うべきものが語られるのである。

 『シンプル・プラン』
 アメリカ[1998] 監督:サム・ライミ

不正に取得した現金をめぐる仲間割れは、情報の漏洩にかかわっている。物語の良識は、官警への通報をほのめかし、使い込みをたくらむ野蛮人を制御しようとする。そこにあって、舞台の視角を担っているのは、もちろん、ビル・パクストンであり、兄貴のビリー・ボブ・ソーントンをはじめとするエイリアンの一味ではない。

かかる情報のゲームは、次第にキャラの主導権争いへと入れ替わるのだが、それもまた、情報制御の案配にかかわるものだろう。具体的にいうと、パクストンの視角が、兄貴のビリーに浸食されてしまう。飲んだくれたビリーのアップショットが、弟の姿を肩越しに追いやったとき、物語はパンクストンの視角を棄てている。物語という情報の一定の枠内において、誰の内面がいかほどの割合を占めるべきか、という問題が現れている。

視角の転移は兄貴の内面を発見する手段であり、むしろ発見されるために、兄貴の視角は語ってはならぬものだったとするのなら、本作は、先回触れた『寅次郎純情詩集』の構図と一致するだろう。両者とも、エイリアンの内に発見されたのは、機能性がある種の詩情に連接する風景だった。渥美清の中には人生の解答を求めるプロセスがあり、ビリーの内部には、友人に対する天然な反応が実は計算だったというような、機能性の発見がある。

後に、この機能性は自己を分析するスキルとして作動する。告白の形で兄貴の中から詩情が引き出され、いわゆる童貞の哀しき闇が暴発している。如何にもサム・ライミらしい予定調和が美しいではないか。

 『害虫』
 日本[2002] 監督:塩田明彦

発話がたまたま欠けたために、本来は環境に後退すべきサウンドエフェクトが顕在した訳ではないだろう。むしろ、サウンド・エフェクトを語るために、発話はあえて省かれてしまう。宮崎あおいが図書館で手話を目撃するように。

情報の伝達を念頭に置くと、ここにもおなじみのトレード・オフが現れている。発話を省略したために、語り手は何を失ったのか。音を手に入れることで、何を伝え得たのか。これは結局、いかなる配分が効率的なのか、という計数的な問題に至るはずだ。しかし他方で、よりネガティヴな見方もある。比率の問題というよりは、何かを語ることが禁じられたために、それを隆起させねばならなかった。常にフレームの中心にありながら語ることのできないそれとは、宮崎あおいの内面である。

おそらく、かかるブラックボックス化は、ほとんど漫画然とした行動の記号化に派生すると思う。たとえば、あおいはあんまりにも堂々とストーキングされちゃったりして、作品の現実感を興ざめ的に見失わせるのだが、語り手がその内面にアプローチせずして、あおいが壮絶な美少女であること語らねばならない事情が見えてくると、ストーキングが外的な指し示しの装置として働き始めるようだ。

では、どうして漫画にしてまで、あおいの内面を見せてはならなかったのか。

実はここでも、SEと発話の間に見られた倒置が再現されている。内面がブラックボックスになったのは、物語の観測者から情報を隠蔽するためというよりも、あおい自身から自らの内面を遮蔽するためである。観測者にとっての情報の欠落は、その副次的な効果なのだろう。

したがって、不明な内面を巡る煩悶とその探索の試みと解せば、本作は非常に伝統的な思春期劇のテンプレートに沿っていると見なせるだろう。ただ語り手は、内面の不明な身体に自動性とか制御の諦念らしきものを託すことで、このテンプレートに付加価値を加えている。そして、体が勝手に動くことの、戸惑いと不思議の混濁したその感性は、流れる車窓を眺める最後の眼差しなどに、よく現れていると思うのである。結婚して呉れ。

 『世界中がアイ・ラヴ・ユー』
 アメリカ[1996] 監督:ウディ・アレン

一夜漬けの知識であっけなく崩落してしまうジュリア・ロバーツ。酔った勢いで寄りを戻しそうになるゴールディ・ホーン。それに、「頭に酸素が届く」ことで民主党に転ぶ保守主義者の息子。いずれも、生化学の作用が人格に及ぼしてしまう端的な効果が語られている。

これらの改変は余りにも易々と行われているために、理屈で考えると、人格の継続性というロマンティシズムが損なわれるような、ある種のメランコリーを見たくなる。事実、けっきょく元の鞘に戻るジュリアの件に、生化学的な効果の限定性がダウナーに語られている。

しかし他方で、かかる限定された時間に、人間不信だけではなく、また別の感傷を見出そうとする機制もありそうだ。特に、酩酊したゴールディのワイヤー・ワークに、この傾向は顕著だと思う。アルコールの作用がなくなれば、この時間は失われてしまう。が、そこに、イベントがモメントであること、それを希少価値として評価する古典的な態度も現れてくる。

この感傷は、あるいは逆算されて、生化学の人為性を強調し、かつ合理化しているとも言える。イベントがモメントであったために、結果として感傷が生まれたのではなく、感傷を語るために、イベントは敢えてモメントであらねばならなかった、ということである。

 『IZO』
 日本[2004] 監督:三池崇史

刺客のパラメーターが段階的に上がって行くのではなく、強かったり弱かったりと、多様性が横の方に広がっている。この偶然性らしきものは、予測の困難をもたらす意味では有効なのかも知れないが、決して意図的に為されたものでもない。エスタブリッシュメント側の混乱が、泥縄の逐次投入につながり、それがかえって、中山一也を当惑させている。

両者の混乱は混乱のまま交叉し、それはそれで何らかの均衡に至るようである。相互の誤解は、プロジェクトの疲弊と頓挫、しかし世界は回る的な、お馴染みの大風景を語っている。たぶん、語り手の準拠した社会派の視点を借りれば、この風景こそ問題であるはずだ。が、おやぢ版千年女優かと解せばそれもまた一興かも、と何となく諦めもつく。

 『ヴィレッジ』
 アメリカ[2004] 監督:M・ナイト・シャマラン

その風景は、物語の観測者に予測を促す。しかし、語り手にとってみれば、その予測は誤った想定でなければならず、来るべき風景は予測と違うものでなければならない。そしてさらに、観測者は語り手の心理を予測して、これから語られるであろう風景は、いま予測する眺望から外れたものだろう、と憶測しワクワクしてしまう。ところが、実際に語られるイベントは、初期の予測そのもので、かえって当てが外れてしまう。

シャマラン節の思わせぶりな率直さは、カット単位に渡って細々と見受けられる。

たとえば、何事かに不安な眼差しを送る御婦人たちを俯瞰するショットがある。彼女たちの視線の先には何かやばいものがあるのだな、と予測は容易なのだが、例によって重厚なルックが、予見の平易を罠に見せてしまう。しかし、パン・ダウンして、視線の向こうにあったオブジェクトがフレーム・インすると、そのものズバリが転がっていたりして、当惑を誘う。あるいは、何かすごいものを見たような顔をした被写体のショットが切り返されると、何かすごいものがそこにある。森林でみさき先輩を襲ったものは、光学情報の欠落に由来する誤認された何かではなく、なまはげそのものである。

こういった何気ない誤読は、解釈に幅を持たせるため不安を与えるものだ。しかし、警備小屋のダイアローグに至ると、これまた例によって語り手の悪のりが止まらなくなる。「これは話してはいけないことだ」と語る側から、その話してはならないことが、これ見よがしなわざとらしい説明台詞口調で発せられる。

火に油を注ぐようなシャマランらしいヒューモアは、反面、安堵感のともなう変な風格すらも漂わせている。ここに至って、予測はようやく調和したと言えるのだろう。

 『陽のあたる場所』
 アメリカ[1951] 監督:ジョージ・スティーブンズ

既得権の侵犯が問題視されている、という前提は常識的だが、既得権者の娘を、移入のおおよそ不可能な鬱陶しい人格とするあたりが変、あるいはイヤらしい言い方になるが文芸的でもある。

対照的に、ゴージャス娘のエリザベス・テイラーは、それなりに妥当ある性格として造形されている。そのため、益々、シェリー・ウィンターズを虐待する方が正しい態度のように思われがちで、ついに彼女が水没したときには、恐怖映画の敵役を葬ったときの達成感もあれば、他方で、既得権問題との関連から、怪獣映画の巨獣を葬ったときの居心地の悪さもある。

結果的に見れば、モンゴメリー・クリフトのモテ振りは贖われており、倫理的な前提は一貫している。ただ、恋愛のゲームとしてはまるで勝負にならないものを娯楽として処理するために、最後は恐怖映画のテンプレートに依らねばならなかった、とは言えそうだ。

 『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』
 日本[2003] 監督:本広克之

現場主義というよりも負け犬根性になりがちな作風が、アンチ・アファマティブ・アクションを経由して、無能で無神経な女性の悲劇に連結している。真矢みきをいぢめるのに手一杯で事件が片手間になるところは、『あさま山荘事件』を彷彿とさせて良くも悪くも邦画らしい。

それにしても、あの調子だと青島は本庁に一本釣りされて、エリート刑事様になりかねない。そうして所轄の刑事をあごで使い始めたときに、彼の奴隷根性は自我同一性の危機に陥るのだ。また野暮を言えば、一課の管理官って、たいていノンキャリのおやぢだと思う。

 『男はつらいよ 噂の寅次郎』
 日本[1978] 監督:山田洋次

題名を見てもどんな話だったのか、なかなか思い出せないのだが、志村喬が冒頭に出てくると言われると、ああっと納得するような、そんなテイストである。

とにかく最初のフレーム・インから、志村の印象は苛烈で、死臭を放つ老いぼれ振りが、彼の造形をシリーズの色調から隔絶させてしまう。怪談をモチーフにして行われる訓話も、かなりイヤイヤな出来合いである。

寅にもよほど印象的だったらしく、とら屋に帰還した彼は、志村の怪談を早速に披露し、それを聞いたおいちゃんは漫画調に深刻めいてしまう。が、他方でさくらの方は、そんなおいちゃんの様子に微笑んでしまう。つまり、作品世界における人格の立ち位置らしきものが、志村の怪談を物差しにして現れている。

志村という世界の準拠点が、不吉な色を以て語られたこと。これらの符号は、『男はつらいよ』の発達史において、本作の置かれた座標を考慮すると、納得の行くように思う。前にも触れたとおり、80年代前後というその場所は、寅からゲストキャラへとパワーバランスが傾き始める不安定な時期である。

その顕著な兆しは、マドンナの叙景を行うフォーマットが寅のそれと抗うことから、けっきょく誰の視界かわからないような不思議な触感が残るあたりによく出ているし、冒頭で指摘した志村を除く印象の希薄さも、そこに由来するのだろう。準拠点としての志村は、かかる権力闘争の橋渡しとして要請されたのだった。また、その不穏な造形は、かみ合わない視界によって結果的に語られた、鈍感なマドンナの無邪気な残酷さと調和している。

 『永遠に美しく』
 アメリカ[1992] 監督:ロバート・ゼメキス

まず、身体の破損という現象を思索的な方向へ活用すると、前に触れた『グリード』の主題と変なところでつながってしまうのだが、生体の継続が保障されるほどに、パーツがどんどん破壊されてしまう不思議な風景が広がる。けれども、既製品よりも使用期間が延びるのだから、それだけ損壊を被る機会は増えるわいな…という理屈もあるわけで、奇矯な文芸風が、ちゃんと生真面目に合理化している面もある。

また、即物的な活劇の手法として、これを眺めれば、具体的な損壊の描画で、つまり恐怖映画のフォーマットで浮かんでくる物語も見えてくる。

悪趣味の導入として文芸が語られたのか、それとも、文芸が思わず悪趣味になっちゃったのか、この区別は不明瞭で、多分あまり意味もない。ただ、身体の破損というひとつの風景が、活劇としても思潮面でも活用されてしまった実用的な態度が印象に残る。病的な実用主義が恐怖映画になってしまう機微を指摘してよいだろう。

 『サイダー・ハウス・ルール』
 アメリカ[1999] 監督:ラッセ・ハルストレム

環境の特殊性から、孤児院でモテるのも納得できなこともないような気もしないわけではない。が、農園でシャーリーズ・セロンをまんまと撃墜するとなると、天然のモテ気質が鼻につき始め腹立たしく、また、シャーリーズの連れ合いを不具にして、天然には身障者をぶつけろといった、異様な負志向振りにエキサイティングなイヤイヤ感が漂う。

 『いま、会いにゆきます』
 日本[2004] 監督:土井裕泰

記憶を失ったところに挙動不審な中村獅童を投入してしまえば、警戒を招かない方がおかしいのに、それが問われない。あるいは、そんな彼が同僚の市川実日子をまんまとプンプンさせる不思議と腹立たしさ。これらは、むろん、様式美ではあるが、その実、かかるフォーマットを突き破ってしまう論理の躍動もある。細かいところでは、中村のドジ描写が竹内の歓心を誘発してしまうイヤらしい論理性あり、やがてこの運動は、中村がとんでもない天然の色魔だったことを暴き、あの様式美をすべからく根拠づけてしまう。

しかし、これはまた撞着に至る運動だったともとれる。論理性の依拠する場所が、「天然の色魔」という非論理的な風景だからだ。


語り手にとって見れば、物語の情緒は論理的な操作の賜物である。けれども、論理的であることは、中村のドジ描写で顕著なように、鼻につく苦しみも伴いかねない。語り手としては、論理的にファンタジーを語る他ないのだが、これは物語の風景としては、ごく普遍的なものだろう。

他方で、論理性と幻想文学の宙づりを、冒頭で触れた居心地の悪さにつなげると、歓楽かどうかはともかくとして、本作に固有の感傷が見え始める。どっちつかずの違和感が、記憶の錯誤をねらって猟奇的なプロジェクトを進行させつつある恐怖映画の予感で、絶えずわたしどもを脅かしてしまう。ただの恋愛AVGでは終われない、一種の差別化が誕生するように思う。

 『サイダー・ハウス・ルール』
 アメリカ[1999] 監督:ラッセ・ハルストレム

環境の特殊性から、孤児院でモテるのも納得できなこともないような気もしないわけではない。が、農園でシャーリーズ・セロンをまんまと撃墜するとなると、天然のモテ気質が鼻につき始め腹立たしく、また、シャーリーズの連れ合いを不具にして、天然には身障者をぶつけろといった、異様な負志向振りにエキサイティングなイヤイヤ感が漂う。

 『浮雲』
 日本[1955] 監督:成瀬巳喜男

最初に、南方の開放的な自然を利用した森雅之のイヤらしいスケコマシテクに引っかかってしまったのは、高峰秀子の方であった。だから、どちらが先に惚れたのかはともかくとして、恋愛の主導権は森の手の内にあった。

ところが敗戦後になると、物語ライクに主導権はひっくり返り、森のほうがアタックをかけ始める。高峰にとって見れば満更でもないはずなのだが、かかる森のアタックが、かえって恋愛の信憑性を損なっている予感もある。二人の間で反転したのは、恋愛の感情だけではない。経済関係にあっても、主導権は高峰の奪われている。そこで、森のパッションが金目当てではないか、もっと普遍化して言えば、恋愛の感情は経済関係に規制されるのか、という不安が生じる。もっとも、この感性は、金目当てであれ、とりあえずパッションが進行中なのだからどうでもよい、といささか自棄気味になって、泥沼なイヤイヤ感へと帰結する。

恋愛と経済が取りだたされるように、とにかくフィジカルなお話である。高峰の所得は体を売ることで好転し、物語の終局は彼女の病身を以て導かれる。病人連れでロード・ムービーを始めるに至っては、『真夜中のカーボーイ』('69)級の恐怖映画な乗りになってしまう。それが五十年代邦画の端正なルックで語られてしまうのだから、イヤイヤ感は青天井である。

 『八月のクリスマス』
 韓国[1998] 監督:ホ・ジノ

男は語り手であるために、その内面は開かれている。他方で、われわれも男も娘の内面を直截に見ることはできない。

教科書に従えば、二人の力関係にあって、内面の観察しうる点で、ハン・ソッキュの劣勢は確実であるはずだ。しかし、開示された内面にオーディエンスが見出すものは、規制された恋愛の感情でもある。彼の感情が娘の行動に依存しないのなら、それを武器に、男は内面の見えない娘と拮抗することができる。本作のゲーム状況は、こうして生まれている。


とにかく、何気ない外観の反面、イヤらしい程に整理されたお話である。あるいは、論理性への指向が、フラットな風景を語ったのか。まず、見知らぬ娘と面識ができあがることが合理的な風景とは、という執拗な問いがあり、並行して、病という娯楽活劇の時限爆弾が動作をする。

34分目で難病は開示され、時限爆弾に火が点く
45分目で相合い傘、娘ドキドキ
72分目、ツンツン娘はついに切れて墜ちる

かつて読み取りの出来た男の内面は、やがて、オーディエンスの眼前で風景化し閉鎖され、恋愛の微妙な均衡はそこで終わるのだが、逆に、敗北し取り残された娘は、ニクい男の跡に写真として風景化された自身の鏡像を見つける。風景化したニクい男は、風景という同じレイヤーを以てしか、もはや自分を語り得ない。

 『花とアリス』
 日本[2004] 監督:岩井俊二

鈴木杏の詐術が贖われてしまった、と考えれば、シンプルな勧善懲悪の風景ではある。しかし、その復讐は、然るべき当事者によって敢行されたわけではない。蒼井優の寝取りは、偶然であり事故みたいなものであって、周到な準備を伴わない。鈴木杏の膨大な労働力を費やした工作は、蒼井にとって見れば、ほんの些細なお遊びに過ぎなかった。

勧善懲悪のフォーマットは、才能の不均衡を語った帰結だったと思われる。落語とバレエの対比自体が既にアレだが、お終いで現れる人生ゲーム、つまり、庶民として取り残された鈴木が、セレブリティの入り口に達した蒼井と強いてはしゃぐ風景に、勧善懲悪としては割に合わないイヤイヤ感が透けて見える。その通底にあるのは、おそらく、鈴木の暗い記憶、幼年期の引き籠もりであろう。才能の劣勢は、生物としての資質を問うまでに至り、けっきょく岩井俊二らしいことに、刑事ドラマ風の、あるいは恋愛AVGの標準的なPTSD作劇が立ち上がる。

ただ、少女活劇に対する、その何気ない織り込まれ方が、付加価値になってると言えばそうだし、あるいは、何気ないからこそ、これまた岩井らしいことだが、余計にグロテスクに感ぜられる部分もある。

 『みなさん、さようなら』
 カナダ・フランス[2003] 監督:ドゥニ・アルカン

語られるシーケンスが、執拗にフェイド・アウトで末端を迎えるといっても、カウリスマキのように、様式化した優しいリズムを伴うわけではない。むしろ、手短なフェードがせっかちに従う。したがって、ダイレクト・カットに比べれば、余程にシーケンスの末端を意識するのだが、複数のシーケンスを消化する内に、唐突な断絶の重なりが、かえってターミナルへの意識を中和する。死の予感がルーティン化し、本当にそこへ至ったとき、変な戸惑いが感ぜられる。死ぬという作業の遮蔽が、ようやく理解される。


たしかに、病室を確保する過程の描画も、ヘロインの売人を捜すことも、プロジェクト描画の良質なサンプルで、活劇に値するものだった。ヤク探しの果てに来るジャンキー描画すらも、段階的に活劇を語り得たはずだった。しかし、機能描画の全うは、プロジェクトの成果として訪れた平穏なる環境の内に、活劇を喪失しかねない。そこにあって、中毒を克服する動機は最早あり得ず、逆に、薬漬けが即物的な苦痛を隔離する点で、活劇はぬるま湯に浸かる。あるいは、移入した人格の平穏を愛でることで、別の穏やかな歓楽が始まった、とも解せる。

けっきょく、息子があまりにも機能的で、緩和ケアが過剰な成功に導かれたという点では、原題の語るようなおやぢの感慨は的確だった、ということであり、それが結果的に活劇を抑制する辺りに、物語としては余り適切でない形とはいえ、おやぢの無念が表出していると何となく思われるのである。

 『ミスティック・リバー』
 アメリカ[2003] 監督:クリント・イーストウッド

他人の内にPTSDを見つけることや、PTSDの内容自体が問われたのではなく、語られたのは、それを環境へ波及させる技術の方だった。したがって最初からPTSDは開示され、秘匿されたトラウマを発見して、きゃっとなる事もない。また、PTSDの内容自体を問わないためか、被験者の奇態を見せ物として語る動機にもいささか欠ける。ティム・ロビンスはせいぜい、飲んだくれていぢける程度である。もちろん、ショーン・ペンのイケイケ振りが過激なために、ティムをいぢめて、おやぢのいぢけ顔を愛でることに活劇を求めた節もないことはない。が、取り返しのつかない誤解が発覚し、虐待が加虐者に跳ね返ってきたとき、むしろ、加虐されるべき愛らしいおやぢはショーンへ移転したようにも見える。

物語の類型から考えてみると、そこで現れるのは逆転劇の一風景だろう。あるいは、PTSDの技術論からすれば、他人のトラウマがやや強引な形であれ自分と結託することで、当事者意識を効果的に語ってしまった、とも思われる。

 『マッハ!』
 タイ[2003] 監督:プラッチャヤー・ピンゲーオ

香港映画とは対照的で、パトロンとしての宗教を過剰に自覚しているのである。つまり、スキルの獲得が共同体の恩恵で達せられたことについて、悲愴な実感がある。そこで、今度は実感のもっともらしさを語るため、義務感が共同体の外部へ拡張して行く。田舎者は都会へ出て騒擾をもたらし、文明批評の基本的な作劇が現れたのだった。

――と一瞬思ったのだが、案外に機能的なトリックスターの造形が開示されてみると、また違った質感もある。たとえば北野版『座頭市』ふうの制御問題、あの怪物を如何に操作すべきか、という意識である。

しかし、いずれにせよ、文明批評も制御問題も互いにかち合ってしまい、中途半端に頓挫するほかない。あるいは、煽り立てられた共同体への罪悪感が、個人の選択を束縛するまでにヒートアップしたようにも見える。

だから政治的な見方をすると、本当は田舎批判ではないかと勘ぐれないこともないが、他方で、そういう見方が野暮というのであれば、ゲームの成り立たない風景として解するのもありだろう。ゲームバランスの考慮を欠いた作劇が、ライバルの居ない孤独として処理されたのである。

 『Mr.インクレディブル』
 アメリカ[2004] 監督:ブラッド・バード

後天性は未来に向かう運動を語り、生得の体質に苛む男の悔いは過去に向かう。少年とおやぢの交叉とは、時間的なものである。そして、唯一、環境から自身を隔離し得て、造形の恒常性を保存し得た母親は、彼らを総括するような、快楽ある身体をしている。


少年の動機にPTSDを組み入れるやり方が、まことに北米の生化学劇らしい。

彼の生い立ち自体は、もろにPTSDであったのだが、語り手は、単に逸脱を合理化するためにそれを利用するだけで、殊更に悲喜劇を語ろうとしない。あくまで、行動の理屈付けと説得感が優先される。かかる事件が今日の事態を招いた、嗚呼――という感慨には、まるで向かわないのである。

しかし、このこだわりのなさが逆に病的でもあり、PTSDを真っ向から語るよりも余程に、少年の過去へ私どもを駆り立てかねない。PTSDに文芸を見てしまう作劇群の風景にあって、それを神経生理学の観察対象としか扱わない即物的な態度が、かえって目立つのである。

 『愛と死をみつめて』
 日本[1964] 監督:斉藤武市

関西弁の吉永小百合が、そもそもあり得そうもないのだが、それを浜田光夫が引っかけてしまうのも、またあり得そうもない。同室のミヤコ蝶々に絡まれ、恥辱の余り「きゃっ」と布団に潜り込む吉永など、これは、もう、にわかに信じがたい。しかし、童貞の焦燥する恋愛を謳う意味では、それは、あり得ないものでなければならぬし、失われる恐怖は常に語られねばならぬ。そこで、難病物の間口が何となく広がるようにも思う。

ただ、症状が進む吉永にあっては、失うか否かの可変性はやがて崩れ始めるので、浜田の焦燥は、あり得ないものが、あり得るものへ着地をする過程の裏返しともとれそうだ。この辺は、難病物にありがちな、見舞われた事故への怨嗟をともなって、もはや泥仕合の体になる。が、代わりに、もっとも何気ない生き物と思われた笠智衆の造形が、あり得る地平に立って、気高さの何事かを背中で語り始めるようでもある。

 『ローレライ』
 日本[2005] 監督:樋口真嗣

役所広司の温情主義が一貫できうるために、技術はブレイク・スルーせねばならぬ。しかし、かかる優位性は、戦闘中に艦内で堂々と歌唱を行ったり、既存技術側の米軍がASWで魚雷を用い、容易に時代水準を超えることで、またたく間に中和されている。ゲーム状況の成立と思えば理解も出来るが、これが、高校球児や柳葉敏郎の扱いから窺える、温情主義のあっけない挫折に至ると、もはや、娯楽映画の分析ツールでは語り得なくなる。結果的に、われわれがたどり着くのは、頑なに移入を拒むような、いさかさ平坦な造形でパッケージングされたかのように見える、不思議な語り口に他ならぬ。

 『事件』
 日本[1978] 監督:野村芳太郎

田舎の閉塞感に耐えかねて都会へ出ても、大竹しのぶのいぢけ顔に憑依して、村落共同体はどこまでも追ってくる。他方、都会は都会で、丹波哲朗のウハハ笑いと共に田舎を侵略し、西村晃をいぢめる。丹波の使いっ走りと化した文明の伝教師、山本圭のへいこら振りは、『新幹線大爆破』の対比から、なかなかに泣ける。


ナイーヴな永島敏之は、文明と田舎に圧迫されて滅んだわけだが、では、その狭間で他にどんな生き方があり得たのか、というと、何となくフォークロアな香りも漂ってくる。トリック・スターとしての渡瀬恒彦であり、土俗化への無意識が深化しすぎて、結果的に田舎と文明を越えた大竹であり、また、ほとんど出家僧と化して浮き世を眺める佐分利信である。

まあ、それで何の解決になるかといえば、どうにもならず、特に佐分利信などは、非当事者の無責任に見えぬ事はない。が、かかるおやぢの刹那をも、愛おしく語ってしまうところが、佐分利信の凶悪なクオリティ。

 『大統領の理髪師』
 韓国[2004] 監督:イム・チャンサン

明るい風刺が、これは風刺だと宣言してフォローを行い、更に、実行されたフォローを隠蔽すべく、語り手は悲劇を語り始める。電気は息子に期待の効果を及ぼさぬが、しかし、彼は不具となる。物語の付加価値となるのは、物理学の改変であり、ほとんどSFと化するソン・ガンホの身体である。

 『五線譜のラブレター』
 アメリカ・イギリス[2004] 監督:アーウィン・ウィンクラー

男漁りに倫理的な違約を見るとなると、考え方はふたつある。ホモセクシャル自体がダメなのか、それとも、パートナーの固定が奨励されているのか。あるいは、因果論に走ることもできて、つまり、同性愛が恋の移り気をもたらしたのか、はたまた、多情の結果として、性愛は性を問わなくなったのか。

もちろん、殊更に問題を分化する必要はないのだが、ここではむしろ、区別に能わなくなる不安は、語るに値する歓楽として意図される。そして作中、この手の気苦労を誰よりもまず被るのは、性愛を実行しつつある当事者ではなく、傍らで現象を観察するアシュレー・ジャドであり、他方で、夫のケヴィンがこの手のイヤイヤ感を受容するためには、やはり、彼も現象の観察者とならねばならなかった。それは、自らを回想する形で、いわば時間的に処理され、未分化の不安は、回想処理のノンリニアな運動として、なぜか現れてしまう。舞台劇は視角の後退に伴い、試写室の映写幕に集約され、さらにそこで舞台が始まるような、その混在劇において。未分化の不安は夫婦に共有されても、不安の中身に次元の異なる開きがある。

歓楽劇としては、この辺の始末を付けなければなるまい。懸念は質的にも共有せねばならぬし、つまるところ、テクストと視覚情報の交通整理をやって、いささか混乱した回想劇の尻ぬぐいをやりたい。かくして夫婦は、身障者物と難病物の兇悪なコラボへと還元される。

 『地球を守れ!』
 韓国[2003] 監督:チャン・ジュヌァン

刑事が語るように、表と裏しかあり得えず、エイリアンか否かへ問いかけが集約されるに及んで、エイリアンであってもなくても、不測の感慨に欠ける。したがって、青年の内に、ど真ん中勝負なPTSD劇が照れもなく発見されて来る程に、結末はかえって浮き彫りになり、PTSDは来るべきコントの煙幕に過ぎないことが理解される。しかし、思考のかかる誘導こそ、二者択一を免れる戦略ではなかったか。

何の期待も違わないコントは、果たして投入されるのだが、何の期待も違わないからこそ、目も覆わんばかりに生真面目で情熱的なPTSD劇を覆してしまうには、非力すぎるのだ。むしろ、コントがPTSD劇へ荷担を始める。

古典的なPTSDを突き詰める余り、物語の底が抜けてしまった、と考えるのもありだし、あるいは、コントと悲劇の無差別性という、また別の古典的な作劇を見てもよいのだろう。

 『香港国際警察 / New Police Story』
 香港・中国[2004] 監督:ベニー・チャン

ベニー・チャンの作家性からすると、彼に顕著な、プロット上に見られるライン同士の分離感は、先発する『ジェネックス・コップ』('99)の方が明快で、たとえば、おやぢ同士の内紛劇に、頭の軽い若者たちが浮き上がるだけとなったりする。世代間の融和などは、全く考慮されておらず、結果的に本作が待たれることになった、という解釈もできるだろう。が、それは言いかえると、プロットの分離感を抽出するのに、世代間の確執を利用することがなくなった、ということでもある。分離感は、体制の側に、あるいはジャッキーにあって内在化することで、ずっと巧妙に仕込まれたのであって、そこでターゲットとなったのは、現実感覚を失ったチームが機能性を復帰させる物語で、そこに現れる分離感とは、泥酔したジャッキーの前に現れる青島コート、つまり反機能的なメルヘンであった。

かくして、以下のような問いかけが可能になってくる。

機能性への志向が反転してしまう以上、その復帰を予測した時点でエラーが生じたのであり、かえって人情の深度が問われているのか? しかし、だとしたら、チームがぬるま湯で機能不全を起こした描画はどうなるのか、あるいは、機能性と人情はまるで関連しないのか? よかれ悪しかれ、ベニー・チャン文芸が波に乗ってしまった証左である。

 『半落ち』
 日本[2003] 監督:佐々部清

作中のおやぢ濃度というか、おやぢと若者の在り方を象徴するのが、あのイヤらしい取り調べのシーケンスであったように思う。いよいよ、寺尾聡のいぢけ顔から情報流出が始まるわい、と柴田恭平ともどもワクワクしておると、若僧のコント然とした邪魔が入る。『日はまた昇る』('02)につづく、佐々部清のおやぢミドルショット天国は、吉岡や鶴田の挑戦を度々に受けるのである。こちらとしては、寺尾の泣き顔や、柴田と石橋の疲弊したしかめっ面、西田のおやぢ笑い等々を観ていたいだけなので、極めて遺憾である。

要するに、これは一種のアイドル映画かも知れぬ。プロットの穴はおやぢどもの汗と涙で満たされている。

 『理由』
 日本[2004] 監督:大林宣彦

フェイク・ドキュメンタリーの如何にもな装置の数々は、イヤらしいというよりも、むしろいじらしいし、品位に欠けるというよりは、何かに怯える風である。マイクロフォンはフレームの外より闖入し、被写体は不自然な眼差しを送ることで、自己を声高に主張せねばならぬ。彼らが怖れるのは、回想パートとの同化であり、求めるのはフォーマットの差別化だ。リアルタイムと回想の境界は、同質のルックにより、さもすると架橋されかねない。したがって、リアル・タイムを担うドキュメンタリーパートとしては、語られつつあるシーケンスがリアルタイムであることを、あくまで主張せねばならぬ。それは、回想パートとしても同じ事で、自らの領域に語りが入るや否や、カットは事細かに刻まれる。更に駄目押しとして、シーケンスの境界に情景ショットがけたたましく楔として打ち込まれる。

統合されたパッケージングとしてお話を評価するとなると、同化と分離の抗争がフォーマットを中途半端にしていて、あまり美しいものではない。が、前述した、本来楔を打ち込むべき遠景ショットが、まるで逃げ出すようなインサートでしかない事情を考え始めると、 フォーマットの抗いは抗いのように見えて、実は同化の求心力に荷担しているのではないか、とも思われ、そこで、何となくの文芸風が吹くようにも感ぜられる。岸部一徳の小市民おやぢ振りや宮崎あおいのカメラ目線も人外に可愛らしく実り多い。後者に関しては、今となっては、もうどうでもよいことだが。


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