HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録

第二章 宝物の島--実像と虚像の間

  古代中国人の遙かなる東方へ馳せるユートピア幻想は、秦漢以前の日本観の基層をかたちづくった。戦乱を避けて故郷を離れる流民、理想を燃やして新天地を求める君子らが陸続として東方へ移りすもうとする背景には、このユートピア幻想がつよく働いていたにちがいない。

 秦漢より以後、中日間の使者往来の航路がようやく開かれるようになってからも、中国人は依然として従来の先入観をもって日本を観察しがちである。いいかえれば、実像のなかに虚像の片鱗を発見し伝説の真実を証明していく過程に、魏晋から隋唐にかけての日本像がしだいに成立し、展開していくのだった。

 漢代から始まった日本の朝貢使節らは、貧弱なものながら国産のお土産物を持参して、中国の歴代王朝へ服従のしるしに献上したのである。しかし、四方を海にかこまれて周囲との物質交流がわりと少なかった日本のものだけに、これらの貢物は中国人から意外と珍しがられた。

 『隋書』(倭国伝)に「新羅・百済、みな倭をもって大国とし、珍物多しと為す。ゆえにならびにこれを敬仰し、つねに通使して往来する」とあり、倭は「珍宝の国」として周囲の隣国から尊敬されていた例である。

 中国にあまりみられない珍しい品物が、遠方の島国から運ばれてくると、従来の神仙郷のイメージと重なりあって、「宝物の島」という新しい日本像を浮かびあがらせるきっかけともなった。

 唐宋時代になると、およそ二百五十人~五百五十人から構成される遣唐使団はもちろんのこと、聖地巡礼をめざす僧侶や海外貿易にたずさわる商人の動きも著しく活発となり、日本産の宝物類はもはや入手しがたい「珍物」でなくなった。

 しかし、「宝物の島」なるイメージはこれで影を潜めてしまうのでなく、それにかわって登場してくる精巧な工芸品によって、より現実的な「器用な民」という日本像に生まれ変わっていくのである。
 第一節  倭王の貢物
 第二節  復元された倭錦
 第三節   黄金と宝石

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