HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録

第六章 白骨の山--日本像の豹変

 南宋の景定五年(一二六四)、モンゴルのフビライは首都をカラコルムから大都(今の北京)に移して年号を至元と定め、一二七一年に国号を大元と改め、みずから世祖と称した。一二七九年、さらに江南に落ちのびた南宋の残存勢力をほろぼし、中国全土を統一して元朝の支配を確立した。

 元の国号は『易経』の「大なるかな乾元」に基づいたもので、乾元とは天の意味である。秦漢から唐宋に至るまでの王朝は、いずれも封邑や出身の地名から国号を立てているが、大元は天地統一の理想を表わしたものである。

 秦漢と隋唐の中国統一と同じように、元朝による中国統一も周辺諸国にその余波を及ぼし、東アジア世界の秩序再編に向けて、各国が中国との連携を強めながら動きだすはずだったが、こうした歴史的なシナリオはついに再現されなかったのである。

 その原因としては、以下の三点をあげることができるかもしれない。

 まずは、元王朝がモンゴル族によって建てられ、従来の漢民族王朝とは性質を異にしており、周辺諸国は中国との長い連携関係をそのまま継続させるのに疑問と不安をおのずと感じるということである。

 または、モンゴル族は遊牧民を主体とし、強大にして精悍な騎兵隊をたよりにして中国を支配下におさめ、さらに全世界を征服しようとする欲望を持っており、つまり漢民族の世界観とは明らかに異なり、武力に訴える外交折衝の傾向がつよく現われているということである。

 さらに、日本では武士政権がその頂点に達していることをも見逃せない。中世時代の主役として活躍した武士層は、風雅をたしなみ漢学に憧れる軟弱な貴族層とはちがって、礼節よりも実利を重んじ、外国よりも日本に目を向け、武力による社会秩序を整えていたのである。

 以上のような内外情勢の変化によって、中日の接触は従来のそれとは大きく行きちがい、元軍の東征と倭寇の跳梁という最悪の結果を招いてしまった。中国人の視野には、向学心に燃え、君子の振る舞いをみせる日本人の姿がたちまち消え失せ、獰猛なイメージがあらたに浮かびあがってきたのである。

第一節  日本像の断絶
第二節  孤遠の島夷
第三節  元代の倭寇像

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