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| 第七章 海彼の寇--海賊から妖怪へ |
一三六八年、庶民から身を起こした朱元璋(明の太祖)は元朝をほろぼし、中国の支配権を約八十年ぶりに漢民族の手に奪還した。太祖は即位するや、東アジアの華夷秩序を回復しようとして、はやくも周辺諸国に使者を派遣し、王朝交替の情報を天下に知らせ、朝貢関係の確認を要請した。
ところが、元帝国の崩壊期に、海防がゆるみ、沿岸地帯に行なわれた密貿易への統制力が著しく弱化してしまった。そのため、方国珍や張士誠らの軍事集団が海上を横行し、ときには倭寇と呼応して山東や江浙の沿岸都市を荒らしまくった。
こういう反体制の勢力がまもなく粛正されてからも、倭寇の跳梁はちっとも収まらず、その勢いが日増しに強められる傾向さえある。したがって、倭寇の問題は東アジアに君臨しようとする明帝国にとって、最大の陰患のひとつであり、対日政策の争点ともなった。
これまでに中国人が目にしてきた日本人といえば、使節と僧侶ばかりであった。モンゴル軍の東征前後から、日本人の残忍さが噂されるようになったものの、こうしたイメージを一般の庶民に鮮烈に印象づけたのは、ほかならぬ倭寇の来襲なのである。
中国の正史のなかでも、『明史』の日本伝は異例な長文である。文中にはさまざまな日本人が登場してくるが、もっとも読者の印象に残るのは、この結びの一文であろう。
明が終わるまでの世、倭に通ずるの禁は甚だ厳しい。閭巷の小民は、倭を指して相 詈罵るに至る。甚だしきはこれをもって小児女を噤ませるという。
つまり「お前は倭人だ」というだけで相手をひどく侮辱することになり、「倭人が来るぞ」と脅すと、泣いていた子供が恐れてすぐにおとなしくなるという。
この一例で、倭寇への憎悪と恐怖とがどれほど民間にしみ込んでいるかを推し量ることができよう。そして、こうした凶悪な倭寇像が、明代の日本像に大きな影を落としていることは多言を要すまい。