道賢経筒をめぐる諸問題

――道賢をめぐる人間関係を中心として――

　中日文化交流の史実を裏づける物証として、日本側には正倉院をはじめ膨大な量に達する実物が現存しているのに比して、中国側にはこうした文物はきわめて少ないと言わざるを得ない。それゆえに、西安（長安）唐墓出土の和同開珎の銀銭、寧波（明州）天一閣所蔵の博多在住宋人の石碑などは、希有の例として注目を集めている。[1]

　ところが、唐と宋とに挟まれる五代十国（九〇七〜九六〇年）は、遣唐使の廃止をきっかけに海外渡航のケースが激減したこともあって、文化交流を物語る文献資料も実物証拠も中日ともに少ない。この意味で、中国歴史博物館に現存する道賢の奉納経筒は、貴重な文物となるわけである。

中国では、道賢経筒への関心がわりと強く、これまでに数点の論考が公表されているが、日本では経筒に刻まれた銘文に疑問を持ち、延長三年（九二五）の成立を認めない研究者が主流を占めており、学問的な検証はほとんど加えられていない。

　本稿は、延長年間（九二三〜九三一年）、従来より注目されなかった来日の中国僧湛誉と智�眠および長秀、五台山巡礼をめざして中国へ渡った寛建一行の経歴を検討し、道賢をめぐる人間関係を中心に、経筒奉納の可能性を探ろうとするものである。 

一、経筒の由来と先行研究

　道賢の経筒は出土品なのか伝世品なのか、その出自さえ今のところ明らかにされていないが、一九三九年に古美術のコレクターである李泰�腸が山西省の骨董商から購入したと伝えられ、一九六四年三月に中国歴史博物館の所蔵に帰することになった。

　一九八三年、中国歴史博物館は長崎市の唐人館を会場に催された「中国古代文物展覧」にこの経筒を出品し、初めて日本に里帰りさせた。その時の展示目録には「旧く顕通寺に蔵する」と書いてあるが、これという証拠はない。[2]

　経筒は銅板を成形した円筒形で、表面には金メッキが施されているものである。蓋は失われており、高さは十七．四センチ、直径は五センチを測ることができる。筒身の表面にはしっかりした楷書で、「倭国椿谷椿山寺奉納三部経一巻為父母菩提敬白延長三乙　　酉年八月十三日道賢法師」という三十六文字が、三行にわけて刻みこまれている。

　この経筒を中日交流史の物証として、もっとも早く注目したのは梁容若氏である。氏は一九八一年以前に書かれた論文を『中日文化交流史論』にまとめ、一九八五年七月に商務印書館より上梓した。そのなかに「五代日僧巡礼五代山之遺物」と題する一篇があり、道賢の生い立ちを紹介しながら、経筒の将来者や奉納地を推定し、銘文の史料的価値をたかく評価している。

　つづいて一九八四年に、中国歴史博物館の石志廉氏が、「日本延長三年道賢法師経筒」と題する論文[3]を公表し、内容的には梁容若氏の論文を超えるものはほとんど見られないが、経筒の写真と銘文の拓本を挿図として初めて公開したことで、ひろく注目を集めた。

　拙稿「五代日僧寛建一行入華事跡考」は一九九三年にまず学会で口頭発表し、のちに学会論文集に収載された。[4]経筒そのものについては新しい見解を提示するところはないが、道賢と寛輔のかかわり、寛輔らの渡海年次および中国での行動などについて、自分なりに考察を加えている。

　道賢経筒に関する最新の論文として、梁豊氏の「日本延長三年道賢法師経筒芻議」[5]を挙げることができる。氏は石志廉氏の論文をふまえて、顕通寺の由来、経筒の発生、埋経の風習、「倭国」表記の意味などについて、興味深い議論を展開している。

　以上のように、中国側の研究者は、経筒の信憑性を疑う動きはなく、銘文の記載をそのまま信じるが、日本では関秀夫氏をはじめ、経筒の製作技法のほか、銘文に見られる「倭国」や「為父母菩提」の語句および斜めに分け書きする干支を十世紀前半に類例はないとして、ニセモノ説をつよく示唆している。[6] 

二、中国商船の来航

　道賢経筒は、銘文にしたがえば延長三年（九二五）に造られたので、中国へもたらされたのはそれより以後のことになる。ここで、いくつかの問題が浮上してくる。つまり、経筒製作のきっかけは何なのか、それを中国にまで持っていったのは誰なのか、経筒の所持者はいつ中国へ向かったのか、これらの疑問を議論の前提として、まずクリアしなければならない。

寛平六年（八九四）遣唐使が廃止されて以降、中日の往来はもっぱら中国側の貿易船に頼るようになった。木宮泰彦氏の統計によれば、五代十国のつづく約五十年間、中国商船の来航はあわせて十回を数えるのみである。（表１）[7]

表１　五代における中国商船の来航

不思議に思われるのは、延長五年（九二七）寛建一行が中国の商船に便乗して渡航した記録は複数の中日文献に見られるのに、延長三年（九二五）前後の十五年間に、中国商船の来航記事がまったく見られないことである。

　ここで『大日本史料』を丹念に調べてみたら、商人来航の史実を示唆する記事が見つかった。つまり、『貞信公記抄』延長二年（九二四）六月二日の記事に「中使伊望朝臣来、有恩問。又被問雑事、唐人事云々」とあり、朝廷がわざわざ使者を出して「唐人の事」を聞かせるという行為は、何かの対応に迫られて体勢を整えるためではなかろうか。

果たして、『貞信公記抄』に「十一月十一日、唐人送物将来。十二日、唐物令覧内裏」と記述がつづく。すなわち十一月十一日に、「唐人」[8]の「送物」は大宰府から京都に送られ、翌日には天覧に供されたらしい。

表１に掲げられた来日商船は、最初の二回（九〇九年、九一九年）は中原王朝の後梁から来たとの意見もあるが、[9]承平五年（九三五）より以降の八回はすべて呉越国から出航したのである。延長二年の商船の出港地は不明だが、帰途に南方の福州をめざしていることから、やはり呉越の商船だった公算が高いと判断される。

十世紀の最初の三十年間、日本船の海外渡航がすっかり途絶えており、中国の商船も平均して十年に一回しか来航しなかった。したがって、延長二年（九二四）六月二日に、商船来航の急報が大宰府から届けられると、畿内の皇族や公家または文人や僧侶らは待ちに待ったかのように興奮し、絶好のチャンスを逃さんと動き出したようだ。

もっとも顕著な事例は、寛建一行の五台山巡礼をめざしての渡航であろう。そして、道賢経筒の製作も、この渡航事業と関連づけて考えるべきである。 

三、寛建一行の渡航年次

寛建は奈良興福寺の学僧で、五台山を巡礼する志を早くから持っていたかもしれないが、それを現実に移すようになったのは、中国商船の来航が決定的なきっかけとなったに違いはない。渡海の時期については、中日の文献に諸説があって、誤解を招きやすい。

　まず『宋史』（日本伝）は、�公然の献じた『王年代紀』をひいて、「次に仁和天皇、此土の梁の竜徳中に当たり、僧寛建らを遣わして入朝す」と書き記している。

日本の歴史上「仁和」と称する天皇は見あたらないが、光孝天皇の治世（八八四〜八八七年）に「仁和」の年号を使ったことはある。それは八八五年から始まり、宇多天皇治世（八八七〜八九七年）の八八九年にまで襲用されている。「竜徳」とは中国五代後梁の年号で、九二一年から九二二年まで二年間しか使用されなかった。

次に日本側の文献を調べてみると、『和漢合符』には「（延長四年）五月、興福寺の沙門寛建が唐に赴き、帝は黄金一百両を与う」とあり、『日本紀略』（後編）は「丁亥五年正月二十三日、僧寛建らは太宰府の牒を賜わり、大宋国の福州府に赴かんと欲し、五台山を巡礼するためなり」と記載している。（表２）

表２　寛建渡航に関する諸説

『宋史』（日本伝）の記載には明らかな混乱が認められ、ことさら検討するまでもないが、ここでは主として延長四年（九二六）と延長五年（九二七）の二説について、考察してみたい。

「延長四年」説は、『扶桑略記』や『大日本史』などにも見られ、とくに『扶桑略記』（二十四・醍醐天皇下）の記載はもっとも詳しく、ひろく引用されているので、該当個所をまず掲げておく。

　（延長四年）五月二十一日、寛建法師を修明門の外に召す。奏して唐の商人の船について入唐求法し、及びに五台山を巡礼するを請う。これを許す。また黄金小百両を与えて、もって旅資に宛つ。法師はまた此間の文士の文筆、菅大臣・紀中納言・橘贈中納言・都良香らの詩九巻を請う。菅氏・紀氏それぞれ三巻、橘氏二巻、都氏一巻、但し件の四家集を追って与うべし。道風の行・草書それぞれ一巻を寛建に付して、唐家に流布せしむ。相従って入唐すべき僧ならびに雑人らは、従僧三口、童子四人、近事二人なり。

右の文面を吟味すると、延長四年（九二六）五月二十一日とは、寛建が五台山巡礼を奏請して醍醐天皇から勅許を賜わったばかりで、まだ平安京を発っていないのがわかる。ここまでは、諸書によく引載されるが、それにつづく記述も見逃してはならない。

勅して元方を左大臣の宿所に遣わし、寛建法師の入唐する由を、宜しく書を大貳扶幹朝臣の許に遣り、その旨を仰すべし。六月七日、院の仰せあるにより、勅して黄金五十両を奉じ、これ入唐求法する沙門寛建のために与うるものなり。

つまり、醍醐天皇は寛建の奏請を許可してから、さっそく元方を左大臣（藤原忠平）のところへ遣わし、大宰府の大貳（次官）扶幹朝臣に公文を移し、寛建渡航の件を通達するよう命じた。六月七日、すでに退位していた宇多法皇はさらに黄金五十両を寛建らに賜わった。

その間、中央と地方の間には書類の往来があり、寛建らも着々と渡海の準備に取りかかっていると思われるが、出港地の博多へ向かったのはどうしても六月七日以後のことになる。そして、『日本紀略』によれば、翌年（九二七）正月二十三日までには、大宰府に到着していた。

『国史大辞典』をはじめ、ほとんどの研究者は『日本紀略』を依拠として、寛建一行の出航を「延長五年正月二十三日」と決めつけているが、それは「太宰府の牒」を受けとった期日であって、渡航の日とは限らない。

遣唐使の例を考えれば、渡航船は大宰府で所定の手続きを済ませて、まず博多から福江へ立ち寄り、そこで飲用水などを補充して、じっと信風を待つことになる。また宋代の貿易船の例を見ると、日本からは正月よりも三月以後の出発ケースが多かったことをも考慮に入れるべきであろう。[10] 

四、経筒製作の動機

　さて、故国を後にして荒海へと姿を消していく寛建らは、果たして道賢の奉納経筒を携えていったのだろうか。この問題を解きあかす前には、まず経筒製作のいきさつを明らかにしておく必要がある。

　道賢こと日蔵については伝記資料が多く、成立のもっとも早い『日蔵夢記』（十世紀半ばころ）によれば、延喜十六年（九一六）二月、十二歳にして金峰山にのぼり、剃髪して真言系の椿山寺に出家した。のち母親の病状がひとしお重くなったと聞き、延喜二十一年（九二一）三月ごろ、平安京に戻って母の看病につとめた。それから十年間、年に一回は金峰山にのぼって修業をつづけたという。また『元亨釈書』などによれば、その間「東寺に居して密教を学び、而して金峰を往来す」とある。

こうして、商船来航の情報が畿内に伝えられ、唐物が内裏に展示された延長二年（九二四）のころ、道賢の生活拠点は平安京にあったことがわかる。したがって、朝野を騒がした寛建らの巡礼計画が、道賢の耳にも当然入っていたはずである。病弱な母親への孝行心と聖地五台山への強い憧憬とが、道賢をして奉納の経筒を造らせる動機となった蓋然性は、決して低くはなかろう。[11]

寛建らの渡航奏請は、延長四年（九二六）五月二十一日に醍醐天皇から勅許を賜わったが、それはあくまでも一種の儀式にすぎず、所属の寺院や管轄の役所などとの交渉、それにつづく資金集めや随員募集などの準備作業は、延長三年の早い時期から本格的に始まったと考えられる。「延長三乙　　酉年八月十三日」という経筒の紀年は、その時期と重なり、一連の準備作業のひとつと見てよかろう。

ところが、経筒に刻まれた銘文には、これまでに疑問視される点も少なくはない。以下、関秀夫氏の指摘した疑問点をめぐって、簡略ながら考察を加えてみる。

関秀夫氏は、まず銘文冒頭の「倭国」の呼び方について、八世紀から「日本」の国号がすでに定着し、「わが国の椿山寺僧道賢が、十世紀の前半に自国の名を『倭国』と記したものかどうかという点に疑問が残る」と指摘する。[12]

梁豊氏は、国内向けの奉納ならば「日本国」とするのは普通だが、海外向けがゆえにへりくだって「倭国」を用いたのだろうと推測する。その理由としては、中国の仏教聖地を敬い仰ぐ心情が込められているという。[13]

八世紀ごろを境として、日本人は自称としての「倭国」をほとんど使わず、中国でもそれ以後の官撰史書は、「日本」を正式な国号とするようになった。しかし、民間とくに南方一帯では「倭国」を慣用表現として長らく用いつづけていた。たとえば、『諸蕃志』に「倭国」、『開慶四明続志』に「倭人」とあるのは、ほんの一部の例にすぎない。 

五、湛誉と智�眠

ここで、想像を逞しくして、銘文の中国人撰述説の可能性をさぐってみたい。

この経筒は、もし最初から五台山へ奉納する目的で造られたとすれば、案文作成の際に中国人の手を借りたという推測は、まったく無理とは限らない。延久四年（一〇七二）に入宋した成尋の『参天台五台山記』をひもとくと、成尋から宋の役所や寺院に差し出した文書の大半は、宋人に案文の作成か潤色または清書を依頼していたのである。

　関秀夫氏は「倭国」のほかに、「為父母菩提」についても「近親者の追善供養を表面的な願意とする埋経例は十一世紀の初め頃には見当たらない」と指摘し、また「延長三乙　　酉年」については「干支の斜め分け書きの例は鎌倉時代も終わりにならなければ見られ」ないと強調する。[14]

　五台山へ奉納する経筒に、中国の人に読んでもらうために書いた銘文という成立背景を考えると、日本出土の経筒の銘文に見慣れない表現があるからと言って、経筒そのものを簡単に否定してはどうかと思われる。真相解明のためには、今後はひろく中国の同時代の文字使用例をも視野に入れる必要があろう。

道賢経筒の銘文は、いわゆる願文に属するもので、敦煌文献には父母追善のために書かれた願文が多く含まれているし、平安末期に博多在住宋人の造った石碑にも父母追善の碑文が彫りきざまれている。[15]また『玉葉』（二十五）に「醍醐聖主、延長三年奉為母后、雖書写一乗、不勤修八講也」とあり、経筒製作とちょうど同じ年に、醍醐天皇は母親のために写経したのである。これらの例から、父母追善を願意とするには、なんら違和感を感じない。

道賢経筒は、日本出土のものとして最古の藤原道長の金峰山埋経より八十二年も早い遺物であり、同時代の出土品がない限り、後世の様式をもって測られるのには限界があることを知っておく必要がある。また奉納を目的とする道賢経筒を、埋蔵を目的とする日本出土の経筒とは区別して見る必要もある。

「倭国」については、道賢が母国をこう自称したかどうか、たしか疑問がいくらか残るが、もし中国（とくに呉越国）の人々からすれば、ただの慣用表現にすぎないかもしれない。ひとつの可能性として、平安京にいた中国人が道賢に頼まれて、銘文の作成にかかわったのではないかと考えてみたい。

ところが、鎖国状態に近い十世紀の初めごろ、来航の商人や呉越国の使者でさえも太宰府に足止めされ、果たして平安京に中国人がいたかどうかは大きな問題となる。木宮泰彦氏の『日中文化交流史』には呉越人の上洛は一例もなく、この時代の常識としても異例なことかもしれない。しかし、この「常識」を破るような記事は『扶桑略記』（二十四・醍醐天皇下）に見つかった。正確さを期して、原文のままに掲載する。

　（延長三年）十月七日丙寅、令伊望朝臣給勘唐僧湛誉・智�眠等給物文。仰唐僧長秀衣服・食料、宜量令宛給。左大臣令申云、湛誉・智�眠等相従来時、其事分明、（長秀）実雖唐人、大宰府未申其由。且以穀倉院物、令給食料。月白米三斛、略准湛誉例、衣服年給絹二疋・綿十疋、准智�眠例。

唐僧長秀（平秀とも）の処遇について、朝廷は伊望朝臣をして、同じく唐僧の湛誉と智�眠の先例を調べさせた結果、湛誉の例にしたがって毎月白米三斛を、また智�眠の例に准じて毎年絹二疋と綿十疋を穀倉院から供給することに決めた。

「延長三年十月七日」とは、中国商船の来航が報じられた翌年にあたり、また道賢の経筒が製作された直後だった。唐僧らに与える食料と衣料が穀倉院から支出されるというのは、この時点で唐僧らが平安京に来ており、しかも学者扱いにされていることを示唆する。[16]

長秀は後述するように、父と波斯国（ペルシア）へ向かう途中、風雨に阻まられ、延喜二十年（九二〇）日本に漂着したのである。『扶桑略記』の記事による限り、湛誉と智�眠の来日時期は不明である。

湛誉と智�眠については、来日の年次もその後の活動も明らかではないが、『扶桑略記』延長三年（九二五）六月七日の条に「主上にご瘧病あり、増命僧正はお召しに依って参内する。尊儀は平安にしてお悩み気なし。湛誉法師は合眼の間に、鬼が殿を下って去り、御衣をもって僧正に賜わり、並びに僧らに禄を与うるを見たり」とあり、唐僧湛誉が天台宗および醍醐天皇と近い関係を持っていたように思われる。[17]

延長年間の商船来航は、朝廷にとって文字どおり「国家の大事」であり、左大臣の藤原忠平と中使の伊望朝臣が、一部始終の処置に対応していた。寛建らが五台山巡礼を企画していた段階で、恐らく朝廷側の藤原忠平や伊望朝臣と協議しつづけ、また皇室に近い存在だった在京唐僧の湛誉と智�眠からアドバイスを得ていたと推察される。

したがって、もし道賢経筒の銘文作成に中国人がかかわっていたとすれば、湛誉と智�眠は候補者として無視できないであろう。しかし、この二人よりも蓋然性の高い候補がいる。

六、長秀と浄蔵

　長秀の来日は偶発的な事故によるもので、それ自体が興味津々たる一篇の伝奇物語となる。ことの詳細は『扶桑略記』（二十三・醍醐天皇上）に述べられており、そのあらましをかいつまんで紹介しておく。

　波斯国をめざして渡海中の長秀親子は、悪天候に妨げられて燈爐島[18]に避難したが、数ヶ月の辛労がたたって父が胸病（肺炎か）にかかり、危篤の重症だった。そこで、たまたま商船が通りかかり、それに便乗して命からがら日本国にたどりついた。延喜二十年（九二〇）十二月二十八日ごろのことだった。

その後、父の病状はちっとも好転せず、堪えがたい激痛に苦しめられ、ほとんど昏睡状態に陥った。父の命を救わんと、長秀は天台宗の座主増命に書状を出して助けを求めた。増命は「わが朝に十人の験者あり。浄蔵はこれ日本第三の験者なり」と言って、厄除けの達人浄蔵を推薦してくれた。

　それを聞いた浄蔵はすぐに駆けつけてきて、「薬師真言」を百八回も唱えたら、父の病気はたちまち治った。この霊験を目の当たりにした長秀は「唐朝はインドと隣り、仏法の霊応、甚だしきをもって掲げられり。然れど未だにこれの如き人あらず」と嘆いたという。

　浄蔵は『拾遺往生伝』[19]巻中に「大法師浄蔵」として詳伝がある。俗姓は三善、参議清行の第八子、母は嵯峨天皇の孫娘にあたる。寛平三年（八九一）平安京に生まれ、七歳のときに出家し、十二歳のころ宇多法皇に召されて弟子となり、院宣によって比叡山にのぼり、登壇受戒して玄昭より密教を受け、大慧に悉曇を学んだ。その後、熊野・金峰・那智の名山霊地に足を運んでは修行をつづけた。

このように、浄蔵は天台宗の僧ではあるが、慈覚大師流（円仁の伝えた台密）を汲む玄昭から密教を受けており、しかも真言宗の徒と同じく金峰山などの霊山で修行していたのである。長秀親子が上洛してきたとき、浄蔵はちょうど平安京にいて醍醐天皇の内親王のために法会を営み、厄病を払ったころだった。

ここに至って、唐僧長秀と道賢との間に、いくつかの接点を見出すことができる。そのひとつは、金峰山で修行し、天台系の密教を学んだ浄蔵という人物である。今ひとつは、寛建らが五台山巡礼を奏請した平安京という場所である。この二点よりも重要な接点は、病弱な親をかかえ、その回復をひたすら密教的な呪法にたよる信仰である。

もし、道賢経筒の銘文を渡来僧の長秀が作成したとすれば、「為父母菩提」という一句に、道賢の祈願のみならず、長秀の父への強い愛情も込められているのであろう。 

七、寛建と澄覚

　銘文作成については、新しい可能性を指摘するにとどめ、これ以上の憶測を避けて、経筒が誰の手によって中国へ運ばれたかという次の問題に視線を転じてみたい。

　これまでに、候補者として議論されているのは、道賢自身か道賢の弟子か寛建一行の誰かである。道賢の渡唐伝承は『教訓抄』『平家物語』『源平盛衰記』などに語られてはいるが、それを裏づける確かな文献記録はない。[20]また「（道賢の）遺言を聞いた弟子らがこの経筒をつくり、中国へ届けた」[21]とする菅谷文則氏のコメントも傍証さえなく、ただの憶測にすぎない。つまるところ、経筒製作の直後に中国渡航の事実がはっきり認められるのは、寛建一行のみである。

　寛建一行は、『扶桑略記』によれば「従僧三口、童子四人、近事二人」を随員とする計十人だが、永観元年（九八三）入宋した�公然が従僧の一人だった超会から「総十一人」と聞き、寛建のほか寛輔・澄覚・長安・超会の名前が伝えられている。[22]そのうち、道賢から経筒を託されたのは、いったい誰なのだろうか。

　これまでの諸説をまとめてみると、ほぼ寛建・寛輔・澄覚の三人に焦点が絞られている。梁容若氏は「この経筒は澄覚・寛建ら一行によってもたらされた」とし、[23]石志廉氏は「五台山にのぼったことのある」寛建・寛輔・澄覚をあげ、[24]梁豊氏は「寛建とその随員」とくに五台山を参拝した澄覚を経筒将来者として示唆している。[25]筆者は前掲論文（「五代日僧寛建一行入華事跡考」）で寛輔を特定しているが、今もこの推定に変わりはない。

　寛建を候補にあげるのは、ある誤解によるものと考えられる。石志廉氏は、寛建の名を五台山参拝者のリストに入れ、曹復氏は「寛建は五台山参拝のあと、続けて各地を回り、寺詣でのかたわら、朝廷から託された使命を全うするために日本の漢詩集と小野道風の書を広めて歩いた」とまで断言している。[26]二人とも依拠しているのは�公然の『在唐記』である。

ところが、『鵞珠鈔』に引かれた『在唐記』逸文を調べると、「寛建上人於建州浴室悶了」と明記されている。寛建らの便乗した商船が、本国の福州をめざしたことは、前掲の『日本紀略』延長五年（九二七）正月二十三日条によって知られる。建州（今の建甌）は唐の武徳四年（六二一）に始めて設置され、福州・泉州・�HO州と並んで�罨国を構成するもっとも重要な地域である。その位置は建陽渓（�罨江）をさかのぼって福州の北西にあり、中原に通じる陸路の要所である。[27]

寛建は福州に上陸してまもなく、おそらく水路をとって建陽渓沿いに北上し、建州に到着してしばらく休憩を取ったらしい。ところが、思いがけないことに、雄志を半ばにして、地元の浴室で不幸な最後を遂げたことになり、当然のことながら五台山参拝にも、その後の寺詣でにも加わっていなかった。

筆者が寛建を候補者リストから外そうとするには、もうひとつの理由がある。つまり、日本にあっても、道賢と寛建との間に、これという接点を見出せないからだ。寛建の所属寺院について、『扶桑略記』は「興福寺」と明記している。興福寺は七大寺のひとつ、奈良市大路町にある法相宗の大本山である。したがって寛建は法相宗の学僧で、教派上は真言宗の道賢と必然的な関連が認められない。

それでは、澄覚はどうか。�公然の『在唐記』は「寛建上人於建州浴室悶了」につづいて、澄覚の在華経歴を次のように書き記している。（ただし、衍字と誤字を私意によって直した）

　澄覚らは長興年中に入京し、五台山に詣で、及びに諸方の聖跡を遍礼して、鳳翔・長安・洛陽城などに到る。その後、澄覚は漢語を学習し、『唯識論』と『上生経』などを講じて、資化大師号を賜わる。帰朝の心あり、遠く両浙に去る。

「長興年中」とは九三〇年から九三三年までの四年間で、一行は九二七年に福州に到着してまもなく、建州にたどりつき、さらに予定の五台山参拝をめざして北上したようだ。寛建が亡くなってから、澄覚が一行の引率者となったらしく、これは二人の師弟関係、もしくは同宗関係を推定させる。さらに、「『唯識論』と『上生経』などを講じ」るのを見ると、澄覚を法相宗の僧侶と断定することができよう。

以上のように、澄覚は寛建と同じく奈良の興福寺に属する法相宗の僧侶と見られ、京都の東寺と奈良の金峰山を行き交う真言宗の道賢から、信仰心をこめた奉納経筒を託される必然性は見出せない。 

八、道賢と寛輔

　最後に、道賢と寛輔の関係を考えてみよう。寛輔の在華経歴は、幸いなことに中日双方の文献に書き留められており、その華やかな活躍ぶりをかいま見ることができる。まず、『在唐記』の記録を引用しておく。

　　寛輔は京に在り、瑜伽大教を弘め、弘順大師号を賜わる。当の京に元より真言教が弘まず、寛輔が来てのち密教を弘め、授法灌頂の弟子は三十余人あり。逝去してのち数年なり。

　右の記述は「澄覚らは長興年中に入京し、五台山に詣で、及びに諸方の聖跡を遍礼して、鳳翔・長安・洛陽城などに到る」云々につづき、寛輔が澄覚らとともに五台山を参拝して、しばらく洛陽にとどまり、後晋（九三六〜九四七年）の遷都（九三八年）にしたがって�凪京（東京）に移住してからの様子を伝えたものである。これによって、寛輔が五台山を巡礼したこと、瑜伽大教（密教）を広めたことをまず確認できる。�公然が�凪京で超会と出会ったのは、九八三年のことで、「逝去してのち数年」とあるから、寛輔は中国に渡航してから、五十年以上も活躍していたことがわかる。

　五十余年の間に、寛輔はもっぱら聖地の巡礼と瑜伽大教（真言宗）の普及につとめ、その活動の一端を五代後周の僧義楚の著わした『釈氏六帖』（『義楚六帖』または『六帖』とも言う）にうかがうことができる。

義楚は斉州（今の山東省済南市あたり）開元寺の僧で、寛輔と直接の交遊関係があったらしく、その著『釈氏六帖』（巻二十一・国城州市部・四十三）によれば、後周の顕徳五年（九五八）に「日本国伝瑜伽大教弘順大師賜紫寛輔」とめぐりあい、寛輔から次のような金峰山の話を聞いたという。

　　本国の都城の南五百余里に金峰山あり。頂上に金剛蔵王菩薩あり、第一の霊異なり。山に松檜・名花・軟草あり、大小の寺は数百、節行高道の者これに居す。曾て女人上ることを得ず。今に至って男子上らんと欲すれば、三ヶ月に酒肉欲色を断つ。求むる所みな遂ぐ。云わく、菩薩はこれ弥勒の化身にして、五台の文殊の如しと。

右の記載は伝聞によるものとは言え、内容的にはすこぶる正確であり、平安中期の金峰山の状況を知るうえで貴重な史料とされる。蔵王信仰にしても、女人禁制にしても、御嶽精進にしても、弥勒化身にしても、実状と符合しないものはない。

寛輔が中国で瑜伽大教を弘め伝えた事実は中日両方の文献に記録されており、彼は道賢と同じく真言宗の僧侶であることに、まず間違いはなかろう。しかし、『釈氏六帖』に記載されたとおり、これほど金峰山の詳細を知りつくしている人物ともなると、寛輔は道賢の金峰山修業の仲間と思われてもおかしくはない。したがって、もし道賢が寛建一行の誰かに奉納経筒を託したとすれば、寛輔をおいてほかにいないであろう。