増えて食べられるなんて・・・
>かっしいさま
>蛇足ですが、玄宗は楊貴妃の前に武恵妃(武則天の身内)とラブラブだったはず。
さらに蛇足を加えると、楊貴妃には安禄山とラブラブだった疑惑が。(-_-;)
>こ、これはまた随分と強烈な方々…。(゚.゚)
いえいえ、毛潤之君と藍蘋君ほどのインパクトはございませんよ。(ゴマカシ)
>私の趙普のイメージは、「ちょっとだけ融通の利くオーベルシュタイン」なのです。(笑)
ええと、僕の趙普のイメージは、「本当に男だったヒルダ君」なのです。
>真樹操さま
>面白いけど……JASRACのほうは大丈夫ですか(笑)?
た、たぶん大丈夫かとA(^_^;)。
「ピクミン 替え歌」でヤフーで検索したところ、500件越えてましたし。
替え歌専門の掲示板もあるみたいですし。
もし、やばくなったら証拠隠滅して逃亡します。
いちおう「ピクミン」の公式頁
http://www.nintendo.co.jp/ngc/gpij/index.html
どうもあの歌に洗脳されてしまったようで。
あのシュールでユーモラスでリリカルな歌詞にハマってしまったのです。
>ところで蘇軾といえば、「赤壁賦」が有名ですが、もっと軽い「念奴喬 赤壁懐古」
>という作品があるんですよ。
これは紹介ありがとうございます。
「赤壁賦」じたいも2種類あったような気が。
本棚から出てこない〜。ムキー(T_T)
とりあえず「前赤壁賦」の有名なフレーズが、
--
「月明らかに星稀に、烏鵲 南に飛ぶ」とは、此れ曹孟徳の詩に非ずや。西のかた
夏口を望み、東のかた武昌を望めば、山川相繆い、鬱乎として蒼蒼たり。此れ孟徳
の周郎に困しめられしところに非ずや。その荊州を破り、江陵を下り、流れに順い
て東するにあたりてや、舳艫千里、旌旗 空を蔽う。酒を釃みて江に臨み、
槊を横たえて詩を賦す。固に一世の雄なり。而るに今は安くに在りや。
--
これには小喬出てこないけど、やはり曹孟徳(曹操)V.S.周郎(周瑜)ですね。
>そしてまた、「周瑜といえば小喬」であって、この二人はラブラブであると相場が
>決まってます(^^)。
なるほど、美青年と美女はお互い面食いであって…、いやゴホンゴホン。(>_<)
分かりました。お約束どおりツッコミませんぞ、、。
ど〜も、しばらくご無沙汰しました。ロムってはいたんですが。
>替え歌
面白いけど……JASRACのほうは大丈夫ですか(笑)?
流行ってますねえ、ピクミン。あの「食べ〜られ〜る〜♪」のインパクトが強烈。
ところで蘇軾といえば、「赤壁賦」が有名ですが、もっと軽い「念奴喬 赤壁懐古」
という作品があるんですよ。あまり有名ではないのですが、ちょうど周瑜と小喬の
話題も出たところなので、ここでちょっとご紹介したいと思います。
わかりやすい作品なので、自称「ポエムは苦手」なきいわこさんにも、きっと
気に入っていただけると思います。
大江東に去り 浪は淘(あら)い尽くす 千古風流の人物を
故塁の西辺
人は道(い)う 是れ三国周郎の赤壁なりと
(中略)
遥かに想う 公瑾 当年にして
小喬初めて嫁し了(おわ)り
雄姿英発
羽扇綸巾にて
談笑の間に 強虜は灰と飛び煙と滅せり
故国に神(しん)は遊ぶ
多情 まさに笑うべし 我の
早(つと)に華髪を生ぜしを
人間(じんかん)夢の如し
一樽 還(ま)た江月にライす。
(ライ=酉へん+「埒」の字のツクリ。酒を注いで神を祭る意)
私の心は古戦場をさまよう。多情(なる昔の英傑たち)はきっと、私がもう白髪になって
いることを笑うだろう。まことに人の世は夢のようだ。この酒を長江の月にささげよう。
「羽扇綸巾」は、ここでは周瑜のスタイル。
「武装もせず、普段着のままで」というようなイメージですね。
北宋のころまで、「赤壁」といったら「曹操VS周瑜」であって、諸葛孔明は
かすりもしないのだっ!
そしてまた、「周瑜といえば小喬」であって、この二人はラブラブであると相場が
決まってます(^^)。
歴史上、実在の周瑜がどうであったかには関係なく、中国の人のこころの中でもう
そういうイメージが固定してしまってるようで、映画でもドラマでも小説でも漫画でも、
みんなそうです。
たぶん、「小喬とラブラブでない周瑜」というのは、「臆病な張飛」というくらい、
考えられないものなんでしょう。
ちなみに、赤壁の戦いのときは、周瑜と小喬が結婚してから十年ほど経っているはず
だから『初めて嫁し』というのはおかしい、というツッコミは却下(笑)。
なにやら「ピクミン」の替え歌の中国史バージョンを考えていた某亭主です。
--
「愛のうた〜伯夷・叔斉バージョン♪」
ぼくたち兄弟あなただけについていく
今日も逃げる 登る 籠もる そしてワラビ食う
いろんな命が生きているこの星で
今日も逃げる 登る 籠もる そしてワラビ食う
徳をしたって 国を出て 失望して
でも 私達 愛してくれとは言わないよ
徳をしたって 国を出て 失望して
でも 私達 あなたに従い つくします
--
「愛のうた〜蘇武バージョン♪」
ぼくは蘇武クンあなただけについていく
今日も逃げる 捕まる 流れる そして羊飼う
いろんな命が生きているこの星で
今日も逃げる 捕まる 流れる そして羊飼う
とっつかまって スカウト蹴って 流されて
でも 私だけ 愛してくれとは言わないよ
とっつかまって スカウト蹴って 流されて
でも 私だけ あなたに従い つくします
--
「愛のうた〜赤壁バージョン♪」
ぼくたち曹兵あなただけについていく
今日も進む 戦う 蹴散らす そして鎖でつなぐ
いろんな命が生きているこの星で
今日も進む 戦う 蹴散らす そして鎖でつなぐ
江にせまって 病をえて 火に焼かれて
でも 私達 愛してくれとは言わないよ
江にせまって 病をえて 火に焼かれて
でも 私達 あなたに従い つくします
--
「愛のうた〜宦官バージョン♪」
ぼくたち宦官あなただけについていく
今日も謀る さぶらう 走る そして利益をきずく
いろんな命が生きているこの星で
今日も謀る さぶらう 走る そして利益をきずく
ひっこぬかれて ヒゲ消えて 皺ふえて
でも 私達 愛してくれとは言わないよ
ひっこぬかれて ヒゲ消えて 皺ふえて
でも 私達 あなたに従い つくします
>永一さん
>たぶん周瑜は倖せだったのでしょう。(含みあり)
その含みを想像して思わずニヤリとしてしまいました。全く同意であります。
ま、略奪云々は正史を読む限りどのようにも解釈できるってことで。
>玄宗と楊貴妃
あー、そうですよね。なんでこのカップルが先に思い当たらなかったんだろう。
蛇足ですが、玄宗は楊貴妃の前に武恵妃(武則天の身内)とラブラブだったはず。
>劉邦と呂后とか、薛懐義と武則天とか、咸豊帝と慈禧太后とか、孫中山と宋慶齢
こ、これはまた随分と強烈な方々…。(゚.゚)
他にも李世民と長孫皇后は随分仲が良かったとか。
中国史人物評番外・ラブラブカップル編なんて企画したら、面白いかも知れませんぞ。(煽動)
>趙普にも親しみやすいエピソードはあると思うんですが。〜
あぁ〜、お恥ずかしい、永一さんの挙げられたエピソードは知りませんでした。
でも、やっぱり私の趙普のイメージは、「ちょっとだけ融通の利くオーベルシュタイン」なのです。(笑)
>そんな話があったんですか。初めて聞いたような気がします。
「カエルもなかなか美味いじゃないか。」みたいなことを詩か文集の中で言っている、
という話をどこかで拾ったような…。記憶が曖昧ですので、軽く聞き流して下さい。
>米フツ
皇帝の硯をおねだりしてせしめたとか、
逆に潔癖症が災いして、自分の自慢の硯に唾をかけられて逆上し、それを手放すハメになったとか。
あと蘇軾とも親しい交流があって、お互いに文才を認め合っていたとか。
>石野陽虎さま
アドレスが少〜しシンプルになりましたね。
成功してよかったです。失敗してたら、わたくしゃも罪悪感にさいなまれていた
かも…(^_^;)A。
こちらのリンクも修正しました。
今後ともよろしくお願いします。
最近、ウチは履歴に出すような更新を全くしてません。
細かいところはちょくちょく手を入れてるんですけどね。
マンガのコーナーなんか少し見やすくなったかなあ?
元旦の計(=一年の計)は、早くも潰えつつあるし・・・。
>かっしいさま
略奪愛!いい響きの言葉だなあ。
我が脳幹の寅午コードに引っかかってる気も…しますけども。
たぶん周瑜は倖せだったのでしょう。(含みあり)
さて、中国史上で最高のおのろけ度と知名度をもつカップルは、玄宗と楊貴妃なの
でありますが。
僕の腐れた脳みそに連想されるのは、劉邦と呂后とか、薛懐義と武則天とか、咸豊
帝と慈禧太后とか、孫中山と宋慶齢とか、ちょっとこわいかたがたなのでした。
>どうにも堅物で仕事人間のイメージであまり親しみが湧かない人です。
そうですかねえ。趙普にも親しみやすいエピソードはあると思うんですが。
--
あるとき、盗賊百余人が捕らえられ、全員処刑されることになったが、趙普はその
なかに必ず無実のものが含まれているにちがいないと思い、趙匡胤にたのんで、改
めて尋問した。そのお陰で多くの人が無実により釈放された。
--
趙匡胤が野外で宴を開いていたとき、にわか雨がやってきたため、怒って左右に当
たり散らした。趙普は「近頃百姓は雨がなくて困っていたところです。雨が降って
困るといえば、楽人の衣裳を濡らすばかりことでしょう」と諫めて趙匡胤を喜ばせ
た。
--
趙匡胤の魅力の半分は、趙普が支えていたんではないかとさえ、僕には思われるん
ですが。
>記憶が曖昧なのですが、この人、蛙を食べたひとじゃなかったでしたっけ?
そんな話があったんですか。初めて聞いたような気がします。
>米フツ(くさかんむり+市)なんていう奇人変人な文人がいますな。
彼の行くところ、かならず人垣ができたという傾奇者らしいですね。
奇石に対して礼拝したとか。
ずいぶんな潔癖性だったとも。
>井上裕美子の『公主帰還』という短編集があります。
うーん、これも読んでないです。紹介ありがとうございます。
>きいわこさん・Kayさん
>いえいえ! おもいっきり若いじゃありませんか!
単純に若さを見るなら、十七歳の時から暴れ回っていた李世[責+力]もいますよ。
たしか去年末に、北方騎馬民族系の美丈夫ってことになっていたハズ。(笑)
>私自身は、周瑜も小喬とラブラブなのが好みです。
周瑜と小喬ってラブラブだったのでせうか。ひっかかったので正史を読み返すと…。
「…(白+完)を攻め落とした。このとき、橋公の二人の娘を捕虜にしたが、ともに絶世の美人であった。孫策は姉を妻とし、周瑜は妹を妻とした。」
…って略奪ですか!? さらに注の『江表伝』にて孫策曰く、
「橋公の二人の娘は、美貌であるとは言え、我々二人を婿にできたのだから、喜んで良いのではないかな。」
開き直ってるし。(笑) なれそめはどうあれ、結婚後はラブラブであったと信じましょう。
中国史で他のラブラブカップルとなると… ちょっとすぐには出てきませんねぇ。
Kayさんのおっしゃる劉秀と陰麗華以外では… 呉三桂と陳円円とか。ラブラブかと言われると疑問ですが。
あと、意外に思われるかもしれませんが、朱元璋と馬皇后なんてどうでしょう。
朱元璋が親分の郭子興に幽閉されて食事も与えられなかったとき、馬皇后は自分の胸が火傷するのもかまわずふかしたての饅頭をそこに隠して運び、夫を助けた。朱元璋もそのことを生涯感謝し、彼女に先立たれたあとは皇后を立てなかったとか。
>永一さん
>ぐうたら〜
最近私もぐうたらしておりました。
ガンダム『MS08小隊』のビデオを今頃借りてきて、なかなか面白いじゃないかと感嘆してみたり、
某漫画で「セイレイ殿下、可愛いっ!」と感嘆してみたり・・・。
>山岸涼子『日出処の天子』を再読しました。
私も5〜6年前に立ち読みしました。なかなか強烈な漫画でしたね。
期待していた内容ではなかったのですが、得体の知れないパワーで最後まで読まされました。(^^ゞ
>人物評
趙普:
この人も晩年は浮き沈みが激しい人ですよねぇ。どうにも堅物で仕事人間のイメージであまり親しみが湧かない人です。
趙匡胤は夜中に自ら彼の家に訪ねたり、割とフレンドリーに接しているようですが。
蘇軾:
旧法が復活したとき、新法の免役法だけは廃止しないほうがいいと言っていますね。私も新法贔屓ですので、ポイント高いです。
記憶が曖昧なのですが、この人、蛙を食べたひとじゃなかったでしたっけ?
范仲淹:
韓奇と一緒に対西夏戦の指揮をとってますね。狄青を抜擢したのもこの人ですし。
張邦昌:
し、しぶい。言われてみるとこの人にも同情が湧きますねぇ。
南宋に帰順した後、一度は僭称を許されたのに、結局殺されてしまいますし。
他に米フツ(くさかんむり+市)なんていう奇人変人な文人がいますな。
この人の奇行も結構面白いです。
北宋まわりのちょっとマイナーな題材を集めた小説で、井上裕美子の『公主帰還』という短編集があります。
もう御存知かもしれませんが、なかなか面白かったですよ。
いつもお世話になってます。「中国歴史あら?カルト!」の管理人
石野陽虎です。
相互リンクをしていただいて、どうもありがとうございます。
リンク先のアドレスについて、お願いがあり、書き込みをさせて
いただきます。
このたび、私のサイトのアドレスについて若干手直しをいたしました。
現在、そちら様で私のサイトのアドレスを
http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/index.htm/
で、リンクいただいていると存じます。
今回の修正で、末尾のindex.htm「/」、つまり、
「index.htm」の後にスラッシュ「/」がついていると
不都合(ファイルが見つからない)が生じるようになりました。
何度もお手数をかけて、本当に申し訳ないのですが、
リンク先アドレスを
http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/
か
http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/index.htm
のいずれかに、ご修正いただけないでしょうか。
お手数をおかけして、本当に申し訳ないのですが、伏してお願い
申し上げます。
それから、もし、この書き込みをご覧の方で、私のサイトを閲覧の際、
不都合が生じる方いらっしゃったら、アドレスについて上記のとおり
ご確認いただけたら幸いです。
貴重なスペースをお借りし、どうも失礼いたしました。
・・・と、他人行儀な文章ですんません。
お手数かけて、ほんと申し訳ないんですが、お時間がある時にでも
変更していただけると幸いです。スラッシュつけろとか、取れとか
面倒なことばかり言いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
ぐうたら管理人です。「バトルロワイヤル」をビデオで見ました。
なるほど、これは噂にたがわず問題作ですわ。
舞台世界観にあまり必然性(というかリアリティー)を感じなかったんですが、
設定内部では、よく作ってあります。
映像として見てて正直なとこ、胃の痛くなるような不快さと、痛快さが同居し
てるんですね。
大人なら大人なりに、子供なら子供なりに考えさせられるストーリーだとも思
います。
大人に対しては、ああいう極限状況であの子供たちより賢明な選択ができるの
か、と突きつけてるし。
子供に対しては、大人の都合で決めたルールに乗っかっていると、いいように
やられて終わってしまうかもしれないぞ、と挑発しているかな。
非倫理的だ、という批判も然りだと思いますが、こういう表現を政治権力が規
制してはいかんでしょう。
しかし「腹腹時計」なんてアイテム出てくるとは思わんかった。カルトだ(驚)。
山岸涼子『日出処の天子』を再読しました。
大学時代以来で懐かしかった。厩戸の壊れっぷりにしびれます。
やはり自分は刀自古のファンだなあというのも再確認。
>石野陽虎さま
まあ、乗りかかった船ですから…。
細かいところは石野さんご本人でないと分かりませんが、ご成功をお祈りします。
ええと、さてさて五代・宋編の自分の贔屓が中途半端になっていたと思います。
五代と遼は挙げたと思うので、・・・
[北宋]
趙匡胤─酔って眼を覚ますと黄袍を着せられていた宋初代皇帝。演出なのか天然な
のか、魅力あるエピソードの多い寛仁君主。
趙普─宋の文治政策のレールを引いた名宰相。
王安石─新法改革に乗り出した名政治家。文章家としても一流。
蘇軾─文人一家の跡取り。旧法党の雄。海南島に流されてもあくまでマイペース。
北宋はなんとなく文人政治家タイプの人に魅力ある人が多いですね。
范仲淹・欧陽脩・司馬光なんか次点に挙げたい。
范仲淹って、先憂後楽で有名だけど、李元昊と対峙してたりもするんだなあ。
[南宋]
張邦昌─金軍に囚われ傀儡皇帝に、でも逃げて南宋に帰順。数奇な運命をたどり、
毀誉褒貶のはげしいおかた。なぜかしらんが好きだ。
李清照─書画骨董をかかえてエンヤコラ南遷。愛に破れ…たかどうかはしらない
が、不遇に終わった女流詩人。
南宋はあまり思いつきませんでした。抗金名将や崖山の悲劇あたりも、一個人に
あまり思い入れてはないんだなあと。
[西夏]
いないですね。李元昊に多少興味あり。映画「敦煌」のイメージが多少残ってい
るかな。
[金]
考えたけど、これもいないです。
あえていうなら海陵王かな(笑)。困った人代表で。この人、詩も残していたは
ず。暴君ぶりがなかなか洗練されていて…なにが言いたいんだ、自分は。
王重陽とか邱処機とか全真教の人々にもいくらか興味あり。
と、自分でも反省してますが。
>削除したいディレクトリの中身のファイルをいったん全部消すか移すかして
>空にしないといけなかったと思います。
私が使っているのはWS−FTPというソフトですが、昨日、リモートホストに
webdataという名のディレクトリ(フォルダ)があったので、開いて、
中のファイルを全部削除して、その後でディレクトリを削除してみると・・・
削除できました。
この調子でいけば、リモートホストのindex.htmディレクトリの中の
ファイルを全部削除したら、このディレクトリも削除できるのでは?
それから、必要ファイルを転送したら、何かアドレスも正常に復するような気はします。
ただ、ハードディスクの中のwebdataフォルダには、将来の更新に備えて、
サーバにはアップしていない画像や文書もいっぱい保存してるので、必要なファイルを
選ぶのがけっこう大変かな?と。
ただ、この土日は更新を休んで、このアドレス修正にチャレンジしようかな、と思ってます。
もし、成功したら、また報告に来ます。
kayさんも、いろいろアドバイスありがとうございます。今のFTPソフトでだめなら、
FFFTPも試してみようと思ってます。以前、りあん(とびかげ)さんにもすすめて
いただいてダウンロードはすませていますので。
>石野陽虎さま
僕はあまり役に立ってませんよ。
FTPのこともKayさんにフォローしていただいたようで。
>Kayさま
>> 五代十国をうまく解説した良書
ご紹介ありがとうございます。
僕が持ってるのは、礪波『馮道』だけですね。
あとの2冊は、どこかで聞いたような気がする…くらい^^;。
探すぞ〜。
>でも王景仁や夏魯奇は出てこない‥‥‥
やはりソースは正史ですか。
『旧五代史』か『新五代史』か。
>劉秀(光武帝)くんと、その幼なじみの美女陰麗華(陰皇后)ってのはどうでしょう?
「妻にめとらば陰麗華」ですね。
ホントに五角関係だったら、コミカルだなあ。
それでなくても、光武帝はナチュラルで楽しそうなのに。
光武帝小説がんばってくださいよ。
そういえばもうひとりの光武帝小説作家のミキオさんの消息が気になりますね、最近。
> 五代十国をうまく解説した良書
乱世の皇帝−後周世宗とその時代/栗原益男/桃源選書1968
馮道−乱世の宰相/礪波護/中公文庫1988
五代群雄伝/松村暎/中央公論社1972
この三冊ぐらいでしょうか‥‥‥でも王景仁や夏魯奇は出てこない‥‥‥
> そういや趙匡胤は、劉備そっくりの身体的特徴を持ってませんでしたっけ。
四角い顔に、大きな耳。しかも、タク郡の人。
●石野さま
無神経にも勝手に話題にしてしまって‥‥‥(^^;) 私はもっと初心者。つい自分のサイトの問題に気づいたもので。ああいうことに。
> ‥‥‥index.htmファイルは「これはディレクトリやから転送できまへん」‥‥
>「index.htm」ディレクトリを‥‥‥削除できませんでした。
私も Hyper Edit を使うと同じことが起こりました。ところが、以下で入手した、フリーソフト FFFTP では、フォルダのアップや削除が可能です。フォルダを削除すると、中身も全部まとめて消去されました。
http://www.ahmic21.ne.jp/yamada/ren/ren3.htm
以下、むりやり割り込み。方向に関係なくてすいません。
●きいわこさま、かっしいさま
> いえいえ! おもいっきり若いじゃありませんか!
若さならやはり、光武帝の家臣、No.1ケ禹とNo.4耿廾に尽きるでしょう。
ケ禹:24歳にして司徒となり100万の大軍を率いて戦った。統一後は裏の宰相として光武帝を助けた。
耿[合/廾]:21歳で初陣、23歳で大将軍となり、戦えば必ず勝つ名将。31歳で引退し、その後の行動は不明。民間に放浪し医師として生きたとも。
二人とも年齢は数え年。光武帝政権は、ほとんど大学生内閣? って感じです。
> 私自身は、周瑜も小喬とラブラブなのが好みです。
劉秀(光武帝)くんと、その幼なじみの美女陰麗華(陰皇后)ってのはどうでしょう?
将来を誓い合った若い二人、ところがここに名門のお嬢さま郭聖通(兵力10万人のおまけ付き)が割り込んで三角関係に! この三角関係の謎は、とても面白いのです。あっ、さらに謎の仏教徒許夫人も加わり四角関係か? またさらに、陰麗華を守護(劉秀と離ればなれになっていたとき)していたケ奉将軍が、劉秀に反旗を翻し五角関係!?
劉秀と陰麗華は、長生き・仲良し・ハッピーエンド・美男美女のカップルです。息子の明帝がマザコン気味なのが問題かな?
劉秀 ≒ 中居正広 ⇒ 二枚目有能だがしゃべり過ぎ
陰麗華 ≒ 奥菜恵 ⇒ 純粋・まじめ・やや天然の美女
郭聖通 ≒ 米倉涼子 ⇒ 皇帝すらふってしまう気の強いお人
光武帝関連は無茶苦茶面白いんですよ〜。
>中身の入ってるディレクトリは削除できないでしょう、たぶん。
あ、やっぱり。実は、ディレクトリを空にしてみようかな?とはちらっと
考えたのですが、4周年記念更新をアップしようとしてたんで、失敗して
いきなりHP全体が見れない状態になってもなあ、と思い、自粛したんです。
しばらくして、時間に余裕ができたら、試してみたいと思ってます。
いつも、ありがとうございます。
……連休中はなにやってたんだろ〜なあ、いったい。
特記するような何事も起こらず、また何もせずゴロゴロと時間を浪費。
ハァ〜、なにやってんだろ。
>Kayさま
王景仁、夏魯奇、両人とも恥ずかしながら知らなかったです。
五代にも猛将・良将がいるんでしょうが、ぜんぜん知識がありません。
中国史迷を称していながら、ここらへんは通りいっぺんのことすらあやしい
ですからねえ。五代十国をうまく解説した良書があればと思いますが。
趙匡胤は僕も好きです。中国の王朝創業者としてはもっとも寛仁な君主とい
えるんではないかな?と思ってます。
「點検作天子」は、符瑞(字合ってたかな)に類するエピソードじゃないで
すかねえ。聖天子に(天から)下される嘉祥であるとか、創業の天子を神聖
化する特異な現象や予言や身体的特徴などなど。当然ながら民心を引きつけ
るために演出されることも多いやつです。
評判のよい天子の出来過ぎた話には、これを疑うべきかと。
そういや趙匡胤は、劉備そっくりの身体的特徴を持ってませんでしたっけ。
>石野陽虎さま
ええと、僕も去年メールでもやり取りしましたが、用語の説明とか結構怪しか
ったので、こちらも申し訳なかったりしますが。
http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/
で見ることができない理由の理解としてはだいたい合っていると思います。
僕も各種のFTPに詳しいわけじゃないのですが、
サーバー側のディレクトリを削除するには、削除したいディレクトリの中身の
ファイルをいったん全部消すか移すかして空にしないといけなかったと思いま
す。中身の入ってるディレクトリは削除できないでしょう、たぶん。
少なくともうちのFTPは確かそうだった(と思います)。
>きいわこさま
>「ベルサイユのばら」で、オスカルとアンドレが結ばれたのが、どう考えても30代後半
有名な話ですね。ついでにマリー・アントワネットとフェルゼンはおいくつとか。
これも禁句か。
>信長人気って、すごいですね。
信長って、あまり日本人気質なとこが少ない日本の英雄なんだけどなあ。
良きにつけ悪きにつけ、大陸気質なかんじがいなめない。
なんで人気があるんでしょうね?
人間は自分にないものに憧れるんでしょうかね、やっぱし。
>北宋は、やっぱ王安石
新法党がまたひとり。(^_^)
>鉄枴さま
はじめまして。
「太真王文人」ですか?ええと手元ではちょっと分かりません。
太真王「夫」人なら耳にしたことありますけどね。
「夫人」なら、西王母の末娘じゃなかったかと思いますが。
もう少し調べてみます。
はじめまして。
突然ですみませんが、先日彫刻の見学に行った折、
趙雲や阿斗の彫刻とともに「太真王文人」という
彫刻に出逢いました。脇に琴?を抱き、龍と波が
あしらわれていました。この方は誰なんでしょう?
制作年代は1837年頃で、所有者もよくわからない
とのこと。誰かご存知でしたら教えて下さい。
こんばんは、すごい時間帯にお邪魔してます。
<かっしぃさん
>少女漫画的に見るには… 即位の時点で三十二〜三ではちとトウが立ってませんか?
いえいえ! おもいっきり若いじゃありませんか!個人的には、かなりおいしい年です〜。
中学生のころは、洋楽で30代のおじさんアーティストに夢中だったもんで・・・。
>それでも敢えてやるなら、柴栄 × 趙匡胤? …勘違いしてますか?
・・・まあ、それは別の方にお任せします。私自身は、周瑜も小喬とラブラブなのが好みです。(周瑜は、本屋に売ってる本でさえ、あっちの世界に引きずられてますが)
<永一さん
>長屋王君いくつとか、カイル・ムルシリ君幾歳とか、メンフィス君何歳とか聞いて
>はいけないのです。(爆)
ちゃんとわかってらっしゃるじゃありませんか!
「ベルサイユのばら」で、オスカルとアンドレが結ばれたのが、どう考えても30代後半ですが、気にしちゃいけないんです。
里中満智子「天上の虹」の額田王になると、還暦に近くなっても皺一つありません。
>後周世宗(柴栄)≒信長説
はい、うちの掲示板で話題になっておりました。信長人気って、すごいですね。
自分の掲示板にも書きましたが、NHK「その時歴史は動いた」の、「日本を動かした人物」投票で、1位になりました。
北宋は、やっぱ王安石です。自分の掲示板にも書いたのですが、仕事の鬼でマイホームパパ。いいなあ〜。
どっかの課長某島耕作(もう部長でしたっけ?)みたいに、遊びまくったりしないし。
人物評には参加せずに、この話題ばかりで申し訳ない。
私のHPを置く場所は~yamamottというディレクトリ。index.htmのファイルも
例えばlink.htmというファイルも、いわば、~yamamottというお皿の上に、
同じように、むき出しで並んでないといけない。
ところが、私は、いろんなファイル(index.htmも含めて)をフォルダという
袋に入れて、お皿の上に並べてしまった。
「〜~yamamott/」というアドレスは、~yamamottという皿の上にindex.htmというファイル
が並んでいる、とHTMLソースで表示されていることを意味しているのに、実際は、
袋を開けないとindex.htmというファイルは見つからないという形になっているので、
NotFoundというエラーメッセージが出てしまう・・・ということなのだと思います。
この理解で合っているとすれば、それは永一さんの粘り強いご指導のおかげ。
さて、正月休みに古い資料を探してみました。開設当初の説明書などです。
WS−FTPというソフトを使ってInfowebにアップロードする場合、接続時に
表示されるサーバーのリモートディレクトリに、何もいじらずにローカルの「ウェブ
データ」というフォルダに入ったファイルを袋から出して、アップロードすればよかった。
ところが(わけのわからんことに)「index.htm」という名前のディレクトリをリモート側に
作ってしまった。
ディレクトリの名前がindex.htmなんで、何か話がややこしいのですが、別に
これが例えばwebdataという名前であっても、その中にindex.htmを含んでしまっている
なら同じことが起こっていた。
先日初心に返って、いきなり(=リモートの方をいじらずに)ローカルのwebdataフォルダ
内の各ファイルを転送してみました。ところが、index.htmファイルは「これはディレクトリ
やから転送できまへん」という英文メッセージが出ました。
それでは・・・とリモートの中の「index.htm」ディレクトリを選択して「デリート」ボタン
を押したのですが、削除できませんでした。
う〜ん、亀の歩みですが、何とか直してみたい。
あ、それと、永一さん、kayさん、恥ずかしいのは恥ずかしかったのですが、非常に
参考になりました。ありがとうございました。
ええと、ぐうたら管理人です。疲れたぞ〜。
苦役から解放された気分で、久しぶりに掲示板を見ると、すごいことになってますね。
(-_-;)
>かっしいさま
今年もお世話になります。
>嗚呼、彼にあと二十年、いや十五年の寿命があれば、きっと天下を統一したでしょうに…。
これはたぶん…あくまで歴史のIFですが、同感です。
その場合、趙匡胤がどう身を処したのかには、興味あり。
>『長楽老自叙』で自分の事跡の自慢話をしているのがどうも鼻につきますな。
いやまあ、恥と思っていなかったんでしょう。
>晋書より読みやすいと思います。と言っても、大体の意味を掴めるという程度ですが。
なるへそ。やはり四六駢驪体より「ふつうの文語」(なんだそりゃ)のほうが読みやす
いんですな。
>即位の時点で三十二〜三ではちとトウが立ってませんか?
いやいや、歴史系少女漫画で歳をうんぬんするというのは野暮な行為です。(^^;)
長屋王君いくつとか、カイル・ムルシリ君幾歳とか、メンフィス君何歳とか聞いて
はいけないのです。(爆)
>寇準:范仲淹:王安石:
宋代って惚れる文官が多いと思います。
僕はどちらかというと新法党(笑)ですが、蘇軾や司馬光の気節にも感ずるものが
あったりして。名言も多いし。
>Kayさま
まあ、そういうことです。(^_^;)
>きいわこさま
旧年中はいろいろとご迷惑を。
よろしくお願いします。
>柴栄は、確かにカッコいいですね〜。少女漫画的にいいかも
そういえば後周世宗(柴栄)≒信長説が書かれていたのは、きいわこさんとこじゃあ
りませんでしたっけ?
統一政権のさきがけとなった点や、武断的な政策手法や、まだこれからというところ
で夭逝したところあたりが似てますかね。
僕はアンチ信長党ですが、かっこいいことは否定できない。(^^;)
>ちなみに私は、隠しページなんて作ってません〜。
うちも隠しページらしきものはあったんですが、
隠しページとは言えなくなってしまいました。
まあ、大した内容じゃないですし。
ファイル名にその残滓が残ってます。
>パソコンの法定耐用年数は6年といいます。
その計算でいくと、うちのPCはあと2年半くらいで逝ってしまうことになります。
買い換えるカネもなし。2年半後にも多分なし。大事に使いませう。
>石野陽虎さま
あああぅっ、そんなつもりでは…なかったんですぅ!
年始はなにやら、頭に仕事と酒の毒が回っていて、配慮が足りませず。m(_ _)m
>生まれてきちゃってごめんなさい〜、htmの後にスラッシュがついちゃってごめんなさい〜
いや、そこまで恥ずかしくないです。
大半の人は言われなきゃ気づかないですよ。
>Chineseさま
Nice to meet you! I'm a webmaster of this site.
Sorry, I can read writting in English a little.m(_ _)m
ええと、どう申し上げたらいいんでしょうか?口はばったいことを言うしかないような。
僕はいわゆる「南京大虐殺」(中文名:南京大屠殺;英文名:Nanking atrocities)が
あったと認める立場です。
しかし、貴方がこの掲示板に下のような長文の書き込みをなさる意図がはかりかねます。
南京事件についての、議論がしたかったのでしょうか?日本人一般の注意を喚起したかっ
たのでしょうか?
この掲示板(BBS)は、あくまで個人の(Private)中国史愛好者のものです。
注意を喚起したいのであれば、WEBをご自分で立てるなり、しかるべき場所で発表なさっ
てください。
議論したいのであれば、中国史の扱う範疇である以上は排斥しませんが、あまりまともな
お相手はつとめられないと存じます。「YAHOO!JAPAN」や「2ch」などの中国関係の掲示
板でなら日本人でも議論したがる人がおられるとも思いますが。
まあそれ以前に、挨拶も前置きもなしに自己の主張を開陳したり、コピー&ペーストのみ
を貼りつけたりするようなことは好まれません。やり方をできればご再考なさってくださ
い。
##
宋代人物の拙評を論ずる気力と体力がまだないです。充電してきます。
主要な人はさっさと出てしまいましたので「おまけ」を。
王景仁(王茂章):呉→呉越→梁と国を渡り歩いた。
朱全忠との戦いで、酒を飲んでは戦いその豪胆さを見せつけた。朱全忠が感嘆して、「この男を得て将軍とすれば、天下を平らげるのも簡単なこと」と絶賛した。
夏魯奇(李紹奇):あの王彦章の一番弟子? 運命の子弟対決は、弟子に軍配が挙がり、無敵の神人王彦章ついに敗れる。
燕の猛将・単珪廷と元行欽を二人まとめて一騎打ち(?)して一歩も譲らず。あまりの凄さに兵士たちも戦いを止めて観戦したという。
城の防衛に当たり善戦するも、飢え死にしてゆく民を見て、民衆の命と引き替えに自決して城を明け渡した。
あと、ベタなところを敢えて推すと宋の太祖趙匡胤。かっこいいセリフがいっぱい。
宮殿ができたとき、門をすべて開け放ち、
「これが私の心だ。曲がった心があるか、見てみるがよい」
元南漢の皇帝にお酒を勧めると、相手が毒入りと疑って飲まずに命乞いしたのを見て、
「朕は赤心を推して人の腹中においておる。お主だけが別ということがあろうか」
そういって、相手の酒を飲んで見せた。光武帝の言葉の引用やね。
気になる関連エピソードとしては、世宗が病に倒れたとき「點検作天子」という文書を見て、點検を張永徳から趙匡胤に更迭したこと。これは世宗が内心では趙匡胤に継がせようとしたことを示すのか?
> htm/
石野さま、勝手に肴にしてしまい恐縮です。FFFTPというフリーソフトを使うと、フォルダのアップや削除もできるようですが、それだとフォルダ内部を全部消してアップし直すことになりそう。
"All prisoners of war are to be executed. Method of execution: divide the prisoners into groups of a dozen. Shoot to kill separately. Our intentions are absolutely not to be detected by the prisoners."
There was a ruthless logic to the order: the captives could not be fed, so they had to be destroyed. Killing them would not only eliminate the food problem but diminish the possibility of retaliation. Moreover, dead enemies could not form up into guerrilla forces.
But executing the order was another matter. When the Japanese troops smashed through Nanking's walls in the early predawn hours of December 13, they entered a city in which they were vastly outnumbered. Historians later estimated that more than half a million civilians and ninety thousand Chinese troops were trapped in Nanking, compared with the fifty thousand Japanese soldiers who assaulted the city. General Kesago Nakajima knew that killing tens of thousands of Chinese captives was a formidable task: "To deal with crowds of a thousand, five thousand, or ten thousand, it is tremendously difficult even just to disarm them ... It would be disastrous if they were to make any trouble."
Because of their limited manpower, the Japanese relied heavily on deception. The strategy for mass butchery involved several steps: promising the Chinese fair treatment in return for an end to resistance, coaxing them into surrendering themselves to their Japanese conquerors, dividing them into groups of one to two hundred men, and then luring them to different areas near Nanking to be killed. Nakajima hoped that faced with the impossibility of further resistance, most of the captives would lose heart and comply with whatever directions the Japanese gave them.
All this was easier to achieve than the Japanese had anticipated. Resistance was sporadic; indeed, it was practically nonexistent. Having thrown away their arms when attempting to flee the city as the Japanese closed in, many Chinese soldiers simply turned themselves in, hoping for better treatment. Once the men surrendered and permitted their hands to be bound, the rest was easy.
After the soldiers surrendered en masse, there was virtually no one left to protect the citizens of the city. Knowing this, the Japanese poured into Nanking, occupying government buildings, banks and warehouses, shooting people randomly in the streets, many of them in the back as they ran away. As victims toppled to the ground, moaning and screaming, the streets, alleys, and ditches of the fallen capital ran rivers of blood. During the last ten days of December, Japanese motorcycle brigades patrolled Nanking while Japanese soldiers shouldering loaded rifles guarded the entrances to all the streets, avenues, and alleys. Troops went from door to door, demanding that they be opened to welcome the victorious armies. The moment the shopkeepers complied, the Japanese opened fire on them. The imperial army massacred thousands of people in this manner and then systematically looted the stores and burned whatever they had no use for.
TO BE CONTINUE
In trying to understand the actions of the Japanese, we must begin with a little history. To prepare for what it viewed as an inevitable war with China, Japan had spent decades training its men. The molding of young men to serve in the Japanese military began early: In the 1930s, toy shops became virtual shrines to war, selling arsenals of toy soldiers, tanks, rifles, antiaircraft guns, bugles, and howitzers. Japanese schools operated like miniature military units. Indeed, some of the teachers were military officers, who lectured students on their duty to help Japan fulfill its divine destiny of conquering Asia and being able to stand up to the world's nations as a people second to none. They taught young boys how to handle wooden models of guns, and older boys how to handle real ones. Textbooks became vehicles for military propaganda. Teachers also instilled in boys hatred and contempt for the Chinese people, preparing them psychologically for a future invasion of the Chinese mainland. One historian tells the story of a squeamish Japanese schoolboy in the 1930s who burst into tears when told to dissect a frog. His teacher slammed his knuckles against the boy's head and yelled, "Why are you crying about one lousy frog? When you grow up you'll have to kill one hundred, two hundred chinks!"
In the summer of 1937 Japan finally seized the opportunity to provoke a full-scale war with China. One night in July several shots were fired at members of a Japanese regiment, garrisoned by treaty in the Chinese city of Tientsin, and a Japanese soldier failed to appear during roll call after the maneuvers. Japanese troops advanced upon the nearby Chinese fort of Wanping and demanded that its gates be opened so that they could search for the soldier. When the Chinese commander refused, the Japanese shelled the fort. The confrontation escalated, and by August the Japanese had invaded Shanghai. Conquering China proved to be a more difficult task than the Japanese anticipated. In Shanghai alone Chinese forces outnumbered the Japanese marines ten to one, and Chiang Kai-shek, leader of the Nationalist government, had reserved his best troops for the battle. For months the Chinese defended the metropolis with extraordinary valor. To the chagrin of the Japanese, the battle of Shanghai proceeded slowly, street by street, barricade by barricade.
LITTLE WAS SPARED ON the path to Nanking. Japanese veterans remember raiding tiny farm communities, where they clubbed or bayoneted everyone in sight. Small villages were not the only casualties; entire cities were razed to the ground. Consider the example of Suchow, a city on the east bank of the Tai Hu Lake. One of the oldest cities of China, it was prized for its delicate silk embroidery, palaces, and temples. Its canals and ancient bridges had earned the city its Western nickname as "the Venice of China." On November 19, on a morning of pouring rain, a Japanese advance guard marched through the gates of Suchow, wearing hoods that prevented Chinese sentries from recognizing them. Once inside, the Japanese murdered and plundered the city for days, burning ancient landmarks, and abducting thousands of Chinese women for sexual slavery. The invasion, according to the China Weekly Review, caused the population of the city to drop from 350,000 to less than 500. By the time Japanese troops entered Nanking, an order to eliminate all Chinese captives had been not only committed to paper but distributed to lower-echelon officers. On December 13, 1937, the Japanese 66th Battalion received the following command:
TO BE CONTINUE
THE CHRONICLE OF humankind's cruelty is a long and sorry tale. But if it is true that even in such horror tales there are degrees of ruthlessness, then few atrocities can compare in intensity and scale to the rape of Nanking during World War II.
The broad details of the rape are, except among the Japanese, not in dispute. In November 1937, after their successful invasion of Shanghai, the Japanese launched a massive attack on the newly established capital of the Republic of China. When the city fell on December 13, 1937, Japanese soldiers began an orgy of cruelty seldom if ever matched in world history. Tens of thousands of young men were rounded up and herded to the outer areas of the city, where they were mowed down by machine guns, used for bayonet practice, or soaked with gasoline and burned alive. By the end of the massacre an estimated 260,000 to 350,000 Chinese had been killed. Between 20,000 and 80,000 Chinese women were raped--and many soldiers went beyond rape to disembowel women, slice off their breasts, nail them alive to walls. So brutal were the Japanese in Nanking that even the Nazis in the city were shocked. John Rabe, a German businessman who led the local Nazi party, joined other foreigners in working tirelessly to save the innocent from slaughter by creating a safety zone where some 250,000 civilians found shelter.
Yet the Rape of Nanking remains an obscure incident. Although the death toll exceeds the immediate number of deaths from the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki (140,000 and 70,000 respectively, by the end of 1945) and even the total civilian casualties for several European countries during the entire war (Great Britain lost 61,000 civilians, France 108,000, Belgium 101,000, and the Netherlands 242,000), the horrors of the Nanking massacre remain virtually unknown to people outside Asia. The Rape of Nanking did not penetrate the world consciousness in the same manner as the Jewish Holocaust or Hiroshima because the victims themselves remained silent. The custodian of the curtain of silence was politics. The People's Republic of China, Taiwan, and even the United States all contributed to the historical neglect of this event for reasons deeply rooted in the cold war. After the 1949 Communist revolution in China, neither the People's Republic of China nor Taiwan demanded wartime reparations from Japan (as Israel had from Germany) because the two governments were competing for Japanese trade and political recognition. And even the United States, faced with the threat of communism in the Soviet Union and mainland China, sought to ensure the friendship and loyalty of its former enemy Japan. In this manner, cold-war tensions permitted Japan to escape much of the intense critical examination that its wartime ally was forced to undergo.
早速眺めて身悶えしております。目録で知っている名前を見つけて喜んでみたり。
とりあえず太祖本紀一から眺めてみると… 大体の経緯を知っているだけに割とすんなり読めますね。
晋書より読みやすいと思います。と言っても、大体の意味を掴めるという程度ですが。
あと、いわゆる「文学的表現」がよく解らなかったり…。
>きいわこさん
>柴栄は、確かにカッコいいですね〜。少女漫画的にいいかも・・・
ハイ、男から見ても惚れるデス。でも少女漫画的に見るには… 即位の時点で三十二〜三ではちとトウが立ってませんか?
それでも敢えてやるなら、柴栄 × 趙匡胤? …勘違いしてますか?
>柴栄の前の郭威もなかなかの方とお見受けしますが・・・
ハイ、この人もなかなかの方だと思います。柴栄の雄飛の前に、この人も民生に力を入れて貯金を作ってますから。
ちなみにこの人、後漢に息子を全て殺されてるんですね。それで柴栄が後を継いだ訳ですが、個人の不幸が天下の幸福になった典型でしょうか。
さて、では人物評・宋偏をば
趙匡胤:
生粋の軍隊育ちでありながら、文治主義の王朝を創業したのは見事。周から禅譲を受ける時の流血を最小限に抑え、功臣も殆ど粛清せずに任意引退させたのも高感度高いです。石刻遺訓には深く感動させられますね。
曹彬:
品行方正の名将。私としては、周の柴栄の御世でまだ茶酒を掌る下級官吏の頃、趙匡胤に酒を求められた時に「官の酒には手を出せないから」とわざわざ自腹で市販の酒を買って振舞ったというエピソードが高感度高いです。
寇準:
剛直の宰相にして壇淵の盟(壇はサンズイ)の立役者。浮き沈みの激しい人ですが、頑固一徹ジイチャンのイメージがいいです。
范仲淹:
「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」(でしたっけ?)この名言で惚れます。
王安石:
新法の主宰者。「一民の生、天下に重し 君子、与に秋豪を争うに忍びんや」は今の政治家に聞かせたい。でも、仁宗は「人情を欠いている」と言ってあまり近づけなかったとか。確かにちょっと強情かも。
宗沢:
「黄河を渡れ!」の一言が泣かせる。生意気な岳飛を使いこなしたのは年の功でしょうかね。若い頃の事跡が全く知らないので気になるところです。
文天祥:
「正気の歌」を読むと本当に泣いてしまう…。某作家にも小説にされましたね。あくまで宋に殉じたのは五代の馮道とは対極の考え方でしょうけど、どちらも己の信念に基づいて行動した所が立派。
むむー、南宋が殆ど出てきませんね。「抗金の名将」達はあまり好みではなかったりします。
あと、悪役ですけど、賈似道は結構好きな方かもしれません。なんとなく憎みきれないというか、ただの性悪ではないところがなんとも。
4,5日ぶりに来たら、私のことがいろいろ出ていて、非常に恥ずかしく
消え入りたい気持ちになりました。
>石野さんのサイト、確かに不思議ですね。htm/ って。
そう、変なんです。私も、いろいろなHPのアドレスをいくら探してみても
htm/ ってなってるアドレスなどないことに気付いた時には、たまらん気持ちに
なりました。
>ふつうありえないことですが、「index.htmというフォルダ」の中に
>「index.htmファイル」があるからです。
うぎゃ〜。ふつうありえないことをしてしまった〜
>これは僕が石野さんにも指摘して、理解していただいたと思ってます。
>(結構クドく言ってます)
熱心に教えていただいたのに、理解が悪くてすみません〜。
>石野さんのとこのFTPの環境も分からないし、そこまでフォローし
>きれません。
そりゃそうです。おっしゃるとおりです〜。自分でもうちょい勉強します〜。
でも、また質問すると思うのですが、よろしいでしょうか〜?(←もうヘロヘロ状態)
>石野さんとこは、
>http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/index.htm/
>http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/index.htm/index.htm
>が同じだから問題なのです。
そうなんです。そこがとても変なんです〜。
もう、「フルーツバスケット」の「りっちゃんさん」というか、
生まれてきちゃってごめんなさい〜、htmの後にスラッシュがついちゃって
ごめんなさい〜という心境です。
>「index.htmというフォルダ」を除去した後のファイル
>間のリンクの見直しも面倒そう。
そうなんです。FTPを最初からやり直してみたいとは思っているのですが
リンクの調整が大変そうだし、手間がかかるだけならいいのですが、下手すると
全く表示できなくなったり、ファイルがどっか行っちゃいそうな気がして、どうも
怖くて・・・
七草粥も終わって、いまさらですが、あけましておめでとうございます。
えー、五代は・・・すいません。勉強しなおしてきます。
(柴栄は、確かにカッコいいですね〜。少女漫画的にいいかも・・・何をいってるんだか。
ちなみに、柴栄の前の郭威もなかなかの方とお見受けしますが・・・よく知りません)
>index
うちのプロバイダ(サンネットです)では、トップページのファイル名をindex〜にするように言われました。
ちなみにこのワザは、隠しページを作るときにもある程度使えるかも。
つまり、中をのぞかれたくないフォルダにindexファイルをおくと、フォルダにアクセスしようと思っても、そのindexファイルが開かれるわけですね。
ちなみに私は、隠しページなんて作ってません〜。
>ADSL
ISDNに変えて2年経ちます。悔しいので光ファイバー待ちです。
ISDNルーターやケーブル工事を思うと、2年ぽっきりで変えるのが虚しいので・・・
パソコン自体も3年前にいろいろ増設したきりで、よくフリーズしますが、元気です。
なにせ、パソコンの法定耐用年数は6年といいます。(法律が変わっていなければ)
きっと官公庁では6年前のパソコンを使っているんでしょう。
新年早々変な書き込みですみません。今年もよろしくお願いします。
なーるほど、こういうことですか。
http://www2.justnet.ne.jp/~kays/index.htm/a-main.htm
http://www2.justnet.ne.jp/~kays/index.htm/
勉強になりました。いつも使っている Hyper Edit はフォルダをアップできないのでなかなかわかりませんでした。
※ index.htm ファイルを作り、それを index.htm という名前のフォルダに入れて、フォルダごとアップロードした。
新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
…曜日が一巡してから言っても今更ですが、まぁ決り文句ですからね。
それでは早速去年からの続き、人物評五代・宋偏いきますか。とりあえず五代から。
私の贔屓の人物は文句無しに柴栄! 五代随一の名君なのでベタですが、中国史の中で三人挙げるならこの人が入るくらい贔屓です。
郭威の後継者として即位するなり遼の侵攻を自らの陣頭指揮で退けたのを皮きりに、その後も開墾・治水・綱紀粛正・軍制改革・廃仏令と立て続けに治績を挙げて天下統一に邁進するも、在位わずか6年で病死。享年39歳。嗚呼、彼にあと二十年、いや十五年の寿命があれば、きっと天下を統一したでしょうに…。
他にも、彼の後継となった7歳の恭帝の替りに、後漢に殺された上三人の息子が生きて後継者となっていればとか、ついつい「たられば」を口にしたくなります。
まぁ冷静に考えると、柴栄があと十年も生きていれば奢侈に溺れ、唐の玄宗のようになっていたかも知れませんが。
ともあれ、彼の皇帝としての6年の治績はケチの付けようが無いし、突然の死は寂寥を感じずにはいられません。
さて、五代で他の贔屓の人物というと… 出てきませんねぇ。私の知識不足もありますけど。(汗)
でも鶏肋が二人ほどいます。
まずは王彦章。
王鉄槍とあだ名される勇将で、なんといっても死に際の「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」のセリフが心を打ちます。
でも、詳しい事跡はよく知らない…。惚れたのはセリフだけだったり…。(-_-;)
もう一人は真樹操さんも挙げられた馮道。
この人の毀誉褒貶は、陳氏『中国の歴史(四)』P427〜P432の説明が最も公正で簡略で解り易いと思います。
遼の太宗が開封を占領して軍が略奪をしそうになった時、太宗本人に言ったセリフ、「この時、百姓は仏出ずるも救い得ず。ただ皇帝のみ救い得る。」には心を打たれます。
正に「社稷をもって重しと為す」という彼の美点がよく解ると思います。
私も基本的に李卓吾の評価に賛成なのですが、馮道が晩年に書いた『長楽老自叙』で自分の事跡の自慢話をしているのがどうも鼻につきますな。
この自慢話に関してのみを言えば、欧陽脩の「其れ廉恥無き者と謂う可し」という非難ももっともです。
さて、柴栄と馮道は五代を代表する人物かなと思うのですが、私見を少々。
馮道は五代という軍隊が強い力を持った群雄割拠の時代にあって、その災いから民衆を守ろうと尽力しつづけた訳ですが、結局目前の現実への対処に追われて世に太平をもたらす事は出来ませんでした。言わば現状維持までが彼の限界とも見える訳です。
時代の悪習を一新して新しい秩序と安寧をもたらす、即ち現状を打破する力強い新風は、柴栄という英雄によってもたらされました。志に限界を設けてしまった馮道に対して、柴栄は閑職をあてがって退けてしまいます。この時馮道は柴栄に対してどう思ったでしょうか?
制御の効かない若い皇帝を危惧して天下を憂えたかもしれないし、或いは英雄の出現と自分の役割の終わりを悟って身を引いたかも知れず…。
こういうことを考えているうちに私は馮道より柴栄が贔屓になってしまうのですが、この二人の立場の違いも考慮すべきかも知れませんね。
馮道は臣下の身であり、柴栄は最初から皇帝として自分の思ったことをやり易い立場でしたから。馮道の限界は、臣下として出来る範囲の限界でもあったのでしょう。
『長楽老自叙』の末尾のセリフ、「大君の為に一統を致し、八方を定むる能わざりしは、誠に歴職歴官に恥ずる有り、何を以って乾坤の施しに答えん。」は、彼の人格を評価する上でちゃんと汲み取ってあげないといけないところだと思います。
私はもう一つ、このセリフの「大君」は、柴栄のことかな? と、また別の妄想をするのですが。(^^ゞ
長くなったので、宋偏はまた明日。
>Kayさま
旧年中はお世話になりました。
某書2冊は珍重しております。m(_ _)m
年末はKayさんの該博な知識に圧倒されながら、楽しんでました。
>石野さんのサイト、確かに不思議ですね。htm/ って。
いやそうなった原因はともかくとして、
どうしてそういう表記になるかは分かっているのです。
ふつうありえないことですが、「index.htmというフォルダ」の中に
「index.htmファイル」があるからです。
これは僕が石野さんにも指摘して、理解していただいたと思ってます。
(結構クドく言ってます)
ただそういう階層構造になった理由は分からないです。
解消する方法もあるはずですが、説明するのは難しいかなと。
石野さんのとこのFTPの環境も分からないし、そこまでフォローし
きれません。「index.htmというフォルダ」を除去した後のファイル
間のリンクの見直しも面倒そう。
HTMLファイルの拡張子は「.htm」「.html」でも通常いいはずですが。
「〜/」というアドレスを指定すると、ふつう指定のアドレスの階層
内の「index.htm」または「index.html」をブラウザで表示します。
indexファイルがなければ、その階層内のファイルすべてを表示します。
http://www2.justnet.ne.jp/~kays/
http://www2.justnet.ne.jp/~kays/index.html
は現在同じもののはず。
石野さんとこは、
http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/index.htm/
http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/index.htm/index.htm
が同じだから問題なのです。
まあ、気にしなければ支障はないという話もありますが。(爆)
>真樹操さま
今年もよろしくお願いします
ああ、うちはまだ年末年始モードが解消されてません。
例年だったらこの時期はもう少し楽してるはずなのに…。
早く通常のぐーたらモードに戻りたいよ〜。(泣;)
>五代といえばやっぱり「五朝八姓十一君」の馮道。
無節操…んにゃシブいですよ、この人は。単なる無節操だったらあの時
代に五朝八姓十一君に仕えられるわけありません。それに宰相級の地位
に何度もつけるわけありません。
礪波護氏の本を読んで以来、いや李卓吾君がこの人を誉めていると聞い
て以来、この人はワタクシャの中では名政治家なのです。(^^;)
>政治家はヘタに理想家であるより、現実主義者であったほうが世のため人のためだと
あぁぁっ、そう簡単明快に結論を出していただくと、政治やニュースを
批評したり貶したりする楽しみが……。(^_^;)
まあ、歴史を見てると同感な部分もあるのですが…。理想を追求するあ
まり×人殺しましたなんて立派な人もいますし。
しかし、利権あさりにだけは長じた「現実に流された」政治屋とか官僚
とかのほうが、「現実的なすぐれた」手腕を発揮した政治家より数は多
いわけで。理想を喪失した政治もつまらんと思います。
理想家やユートピアンだからこその魅力もありますし。
しかし、政治思想と政治的構想力と政治的調整能力と行政的実行手腕は
それぞれ関連はしてるけど所詮別の能力であって、すべてを一個人で兼
ね備えることはできないのかもしれないなあ、とか愚にもつかないこと
を思います。
SLGなんかではすべてごっちゃにしてしまいますが。
>中国史上人物の品定め(6)〜五代宋編
行きますか〜。年初ながら半端に始まりますが。
★五代
贔屓の人物は、張承業ですかね。李克用に信任された宦官。
克用に後事を託されて李存勗を補佐し、軍政の大権を握りました。
ここらへん誰かに似てませんか〜。いや宦官ぢゃないけど(^^;)
かれは、存勗が帝位につこうとしたとき、諫めが容れられなかったので、
絶食死してしまうのです。
蜀漢の諸×亮あたりより人物の陰翳があって好きです。この人を主人公に
したら悲劇っぽい作品とかできませんかねえ。またまた妄想中。
五代十国の人物はあまり知らないんですが、呉の徐温(南唐徐知誥の親父)
とか楚の馬殷とか興味ありますね。
★遼(契丹)
断乎として、耶律倍(李賛華)君です。
かれのことは、かれのお母様とともに、うちのコラムページで讃えておりま
す。え゛っ、ちっとも讃えてない…?んにゃむにゃくにゃ。
遼というと、ほかに耶律休哥とか興味あるかな〜。
★宋とか金とか西夏とか
う〜、これはまた今度にしてください〜。
すなおに宋太祖・趙匡胤君とか登場する予定。
爆竹一声送旧年
梅花万枝迎新年
世間が年始モードから通常モードに戻りつつある時、
遅ればせながら(^_^;)、新年のご挨拶にまいりました。
今年もよろしくお願いします。
ところで五代といえばやっぱり「五朝八姓十一君」の馮道。
無節操といえば無節操かもしれないけれど、彼は自分の職務に対して忠実だったのでしょう。
王朝が交代したからといって、職務を放棄するほうが無責任だと思ったのではないでしょうか。
政治家はヘタに理想家であるより、現実主義者であったほうが世のため人のためだと思います。
政治家が「理想の王国」を地上に実現しようとすると、たいていロクなことになりませんからね。
おめでとうごさいました。永一さん、今年もよろしくお願いします。中国史上人物の品定め、そろそろ知識圏外へと近づきつつあり、読む専門になりそうです。
●不思議です‥‥‥
石野さんのサイト、確かに不思議ですね。htm/ って。私の貧しい知識ではさっぱりわからんなあ。そういえばそもそもウチのサイトには階層構造がないぞ。これも変な気がする‥‥‥。
調べると、ジャストネットには、メインページのアドレスに.htm がついてるのなんてない。みんなログイン名/ がメインページのアドレスだ。ウチのサイトでこれを入力するとファイルのインデックスが出てくる。うーん‥‥‥
(実験中)‥‥‥(!)
index という名前のファイルを拡張子htmlで送信したら、拡張子が消えた。
というわけでウチのメインアドレスは
http://www2.justnet.ne.jp/~kays/
おおっ、すっきり短くなったぞ!
もしかすると、石野さん、拡張子を htm ⇒ html にしたらうまくいくかも?
●なんと、驚いた!
新風舎、出版点数が多いとは聞いてたけど、他にもあの憎っくき、もとい度胸ある偉〜い新風舎から本を出している人を掲示板で発見するとは、奇跡に近い偶然か?
>石野陽虎さま
こちらこそよろしくお願いします。
旧年中は…なにやら恥たらしぃな思い出が…走馬燈のように。
ご迷惑をよ〜けお掛けしました。_(_^_)_
今年はなるべく迷惑かけないようにしますので。
ADSLですか〜。
いまだ劇遅アナログで、電話と共用の環境のワタクシにはコメントの
しようもなく。
わたしゃの眼の黒いうちにマツヤマに光ファイバーが来たら、乗り換
えてやるぞ〜。くそぅ〜。
>ふくらさま
不義理をしておりまする。m(_ _)m
本年もお見捨て下さりませぬよう。
うちのPageも漢籍バリバリ訳したり、解説したりしたいなあ…。
(浪速のことぢゃないけど)夢のまた夢。
>シンドウ243さま
あけましておめでとうございます。よろしうお願いします。
うちは旧暦元宵節までは新年正月ということで、p(^^;)
自分もこれから新年挨拶に行こうと思っているところがたんまりと。
「悪だくみ(笑)」はどうなるか分かりません。
早くても公表するのに3カ月はかかるかと。もし挫折しても、忘れて
いただける頃合いかなあ(^^;)。
陰謀成功のためには、別の鯖(サーバー)借りないといけないだろ〜
しなあ。
ええと今ある悪だくみは「秘密」ですが、中国史と田中某作品に関連
していることだけは予告しておきます
NAGAICHI Naotoさん、4日になってしまいましたがあけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
去年に復活してから・・・なんと日のたつのが早いことか(笑)
昨年は本当にいろいろとアドバイスなどをいただき、ありがとうございました。
>本年は、WEB上での陰謀(ぢゃなくて抱負)らしきものがある
それはとても楽しみな悪だくみ(笑)
楽しみにしておりますよ♪
あけましておめでとうございます!
「中国兵法」でリンクさせてもらっている、ふくらです。
今年もよろしくお願いします!
・・・元旦はすぎてしまいましたが、今年もよろしくお願いします。
新年を職場で迎えられたよし、おつかれさまでした。
ADSLを導入したのはよいのですが、メールが送受信できない。
HPの更新もできなかったのですが、これは何とか今日復旧しました。
しかしながら「index.htm/」の問題は2002年に持ち越して
います。
どうか本年もご指導のほどを。
ご来訪のみなさま
新年明けましておめでとうございます。
旧年中は、
更新ペースが遅い、素人くさい、焦点が定まらない、の3K…ぢゃなかった
「3い」サイトにおつき合いくださいましてありがとうございます。
本年は、WEB上での陰謀(ぢゃなくて抱負)らしきものがあるので、実現に
向けて努力したいなあと思ってます。(お約束はできないので、内容は秘密-;)
壬午年(2002) 元旦
管理人拝
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2002年1月1日の日記
今日は、予定通り?職場で新年を迎え
朝、実家に帰って爆睡
夕、お雑煮食ってしあわせにひたり
餅とカレンダーを実家からガメて帰宅。
さきほどWEB表紙を新年用に変える。
(どこが変わったかはよく分からない?)
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>門田鳳雛さま
いやいや新年一番乗りしておきながら、遅いなんてことはないでしょう(^o^)
>私の方はバラ売りしている物を少しずつ買い集めています。
図表とかもモノクロですが未見だったものがちらほらと。
装丁もよいし、美味しいなあと。ウットリ〜
あけましておめでとうございます。(遅くなりました(^^;)
本年も引き続き宜しくお願いいたします。
>今回買った『中国歴史大辞典』は、大枚はらっただけの価値ありました。
おぉ、ついに買われましたか。いいなぁ。
私の方はバラ売りしている物を少しずつ買い集めています。
一気に買った方がはるかに安いのですが、お財布と本棚の都合が・・・(笑)
お仕事もお忙しい様ですが、寒さも厳しくなっていきます。お体には充分にご自愛くださいませ。
またまた新年は職場で迎える予定です。(^^;)
今年は世界でもテロはあるは戦争はあるは不景気はおさまらないは、
個人的にいってもどっかから病原菌もらってきて他所様に迷惑かけるは…、と
ろくでもない年だったのですが。
来年は自他ともにウマくいく年であることを願ってやみません。(マジ)
「明日がある♪」とか浜田が歌っているのを聞きながら、ぼくらのしあわせっ
て、いつまで経っても明日のものであって、今日のものにならないのね、とか
黄昏ちまったりしてさあ〜。
>かっしいさま
>読めもせんのに書虫で『明史』を発注した
うーん、似たようなことしてますね。(@_@)
うちにも読めもしない中華書局版の漢籍が、本棚1段以上はあるしなあ。
今回買った『中国歴史大辞典』は、大枚はらっただけの価値ありました。
上下巻合わせて3502頁、67154項目。上古から辛亥革命までの事件・
人名・地名・官名・年号などなど網羅されていて、たいていのことは調べがつ
きます。簡体字記述なのがちと残念ですが、(多少の歴史知識があれば)中国
の新聞などよりもよほど読みやすいです。中検準4級のワタクシが辞書なしで
7〜8割は読めるので、中国史好き中級者にはいいかも。
>なんで張居正がいないんじゃ〜と心の中で文句言ってました。(^^ゞ
『しにか』改革者特集、買ってみてから思ったけど、古代はあんまり目新しい
話なかったです。近現代のほうがまだいくらか面白かったというか。
960円払う価値があったかどうかは???です。
張居正もたしかに取りあげてほしかったですね。
楊炎とか、隋唐あたりの人物もあったらよかったのに。
中国史上人物の品定め(6)〜五代宋編はどうしましょうか?
コロ助さんが安史の乱について、何か言いたそうにしておられたので、
隋唐を続けてもいいんですが。
まあ、また話が前に戻ってもいいということで、新年初頭には五代・宋の人物を
挙げてみますか。
さて、今年出てくるのは最後でしょう。
ではでは、みなさまよいお年をお迎えください。(^^)/~~~