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逆説の日本史 2 投稿者:鹿角  投稿日:10月11日(金)10時39分12秒

>管理人様
元の場合と清の場合はちょっと違うと思います。
日本に対してある意味領土的野心が元には感じられるのに対して
清の場合には全くそれが感じられないし・・・
江戸幕府が見捨てた形になったのは
秀吉の失敗の後遺症ではないかと思いますけど・・・

でも秀吉がもしヌルハチの存在を知り 
共同戦線をくんでいたら
明はどうなっていたでしょう?
だけど明を滅ぼしたとしても
戦利品のとりあいでこの二人モメそうだなあ(^^;)


英雄は死なず、ただ去り行くのみ? 投稿者:エリス  投稿日:10月11日(金)00時03分53秒

 管理人さま、レスありがとうございます。
 井沢元彦氏面白いですよ、本当に。歴史学としてどの程度正確かは分かりませんが。多分正確ではないのでしょうね(笑)しかし正確さを重視したものが面白いとは限らないわけで。

 三別抄について
 鎌倉武士海を渡る。いいじゃないですか、面白そうで。モンゴル戦士どもを蹴散らして、日本刀のさびに変えてやりましょう。そして半島に万代までも日本人の名と恩を売りましょう。半島の民は恨みを忘れない人々ですが、恩を忘れることもしない人々です。

 織田信長について
 マインドコントロールを解く術はありませんが、とりあえず「逆説の日本史9戦国野望編」をお読みいただきたいです、としかいいようがありません(笑)
 六角氏?ちゃんと名前も残っていないんだ?楽市をはじめた人なのに?
 ここで評価されているのは革新性もあるのですが、戦略性、実行力、決断力、など総合的なものですね。革新性や独創性だけあってもだめなのではないですか。現代のビジネスでも特許をとった人が皆、億万長者ではないですしね。それに少し手を加え、上手く市場に出して富を築けば、ビジネス関係でもてはやされる成功者になるわけです。どうしてある人は最初にアイデアを出した人で終わり、どうしてある人は大きな業績を残すことが出来たか、そこまで考えてくれなくては、はっきりいってただ英雄とされた人間を引き摺り下ろして喜んでいるだけではないかと思います。こんなことを書けば真実を追求する真面目な研究者の方からは「学問とはそのような英雄崇拝をするものではない!」とお叱りを受けるでしょうがね。いや、所詮私は学究の徒ではないし、某小説家田中氏のように人から批判されるような巨大な影響力を持っているわけでもないですから。

 毛利元就について
 井沢氏の見解では彼が英雄。それは何故か。一言で言うと「寄らば大樹の陰」とは正反対の生き方をして成功したからですね。では、引用を。
「つまり、相撲の番付で言えば、尼子氏は「中国場所」における、、文句なしの横綱であり、大内氏は甘く見て大関かせいぜい関脇、そして「関取」とも呼ばれない幕下クラスが毛利氏なのである」
 毛利元就は弱小な大内に味方し、大勢力の尼子と戦う決意をします。
「尼子は滅ぼされ、大内の領土もすべて元就一代のうちに彼のものとなった。これは歴史上本当に起こったことなのだ。こういう人間を英雄と呼ぶ。英雄にとって最も必要なことが何か、おわかり頂けただろうか?」
 いいですねえ、名文です。ちなみに井沢氏は元就を謀略の天才と書いています。

 李世民について
 「貞観政要」に書かれた彼ははっきりいって虚像ですよね。このようにあろう、として努力はしていたかもしれませんが、あのままが彼の本性ではないのですよね。(三英傑のタヌキさんも読んでたのですよね、これ)
 それで、井沢説の「日本人は調整型の過激なことをしないリーダーを好む。たとえ必要であっても苛烈なことをした者を評価しないし、果断なタイプのリーダーを好まない」というのが正しければ、やはり李世民て好かれないですよ。彼は本当はとても気性が激しいし、かなり苛烈なことをしていますからね。
 ちなみに井沢氏は源頼朝が弟の義経を討伐したこと、信長が仏教勢力を徹底的に潰したこと、家康が豊臣家を潰し、その幼い子供も殺したことも、高く評価しています。後顧の憂いを絶つために必要な決断だったのに、それを日本人は正しく評価しないのだ、といっています。あくまで、井沢氏が、ですよ、念のため。
 「中国文明の歴史5」(中公文庫)を読んでいます。ここに書かれた李世民は本当に素晴らしい。「手放しで」賞賛できる英雄って感じですね。でもコロ助さまやその他の本で読んだりしたことが頭にあるので、所々「ああこれはウソ話なんだな」と思いながら読んでいますが。
 煬帝と彼が似たところがあるというのは本当なのでしょうね。
 しかし例えば、会社を潰して他人に乗っ取られた二代目と、乗っ取りと創業を手伝い、その後自分で大きく発展させた二代目とを、普通同列に判断しませんよね。両者に似たところがあるならなおのこと、どうして片方は失敗し、一方は成功したのか、それを書いてくれないと、(以下は信長について書いたことと同じです)。
 ただ運が良かっただけって言うのはやめてくれ(笑)それじゃ本は売れんから(笑)

 リーダーシップについて
 おそらく、管理人様のおっしゃることが正しいのでしょうね、きっと。
 


脱線ばかり 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日:10月10日(木)21時50分42秒

だめ管理人です。
イギリスの話でもレスに困ったんですが、井沢元彦氏の話でも困るなあ。
たんに読んでないというのが、いかんのですが。
読み物としては面白い(……)という話は聞きますね。

>鹿角さま
>三別抄から救援要請があったのに見殺しにした
>この時応じていれば戦いの仕方も随分ちがったはずだとの指摘には

まあそりゃ違ってたでしょうね。
良いほうに転んだとはどうも思えないんですが。
まあ、客観的な情勢として当時の日本が海外派兵できるような状況だったか?
というシミュレーションが必要でしょう。
鎌倉・京都の二重政権が解消されてないのに、それが現実的かどうか。
まあ承久の乱以来、軍事的にははるかに鎌倉有利でしたが。
国内で混乱が生じた可能性もあるかと。
このころの日本の水軍(松浦党?だけでもなし)もどんなものだったのか。
15・16世紀ころほどの力を持っていたように思えないんですけどね。
んまあ、蒙古側も急造の艦隊ではありましたが。
不可能とは言いませんが、軍事的冒険になったろうと思います。

似たような話で、17世紀初頭に鄭氏台湾政権が日本請師をしたことがあ
りましたが、結果的に徳川幕府は鄭氏政権を見捨てました。
応じていれば歴史が変わっていたでしょうけど、
家光のころの江戸幕府は昭和期の軍人以下!という評価になるでしょうか?

(まあ、脱線ですが、昭和期の軍人も兵士クラスより、統帥権の独立がどうこ
う言ってた参謀連中がどうしょうもないですね。硫黄島よりはるかに以前の話
です。)

>エリスさま
>私はこれですっかり信長ファンになりましたね(笑)

僕はいまだアンチ信長なんですが。
どなたかこの強固なマインド・コントロールを解いてやってください。(爆)

(三英傑の中では比較的タヌキを評価してますかねえ、ぼかぁ。
いや三英傑じたいそれほど好きじゃないんですけど。
ウチの頁のどこかに尼子経久が好きとか、変なことが書いてあるはず。)

脱線ついでにいうと、僕は一向一揆シンパなので根刈りをやったキチク信長は
キライです。(笑)

まあ好き嫌いは置いときまして、最近の史学の信長評価は、信長の革新性を過
剰評価しない方向に向かってるように思います。
楽市をはじめたのは六角氏でしょ!とか、
兵農分離は信長の時代の特色とはいえないでしょ!とか。

それでも否定できない信長のインパクトってのはありますね。
日本の中世を終わらせた破壊者として。

>「こういう人間を英雄と呼ぶ。英雄にとって最も必要なことが何か、おわかり頂けた
>だろうか?」

毛利元就のどういう部分を指しているのか、読んでないので分かりませんけど。
僕の元就イメージは、調略家・権謀家なんですけどね。
元就は少なくとも天下を目指してはいなかったし、知恵をつかって生き残りを
図る中で勢力を拡大したんでしょう。
傑物ではあっても、英雄ではないと思ってますが。
ああむろん、だから悪いってわけじゃないですよ。
むしろこの人は好きな部類です。

>李世民て日本人に愛されないタイプの人かな、と言う気がしてきます(苦笑)

過去をみるとそうでもないでしょう。
『貞観政要』はそこそこ知識人に読まれてて、名君評価されてたわけですし。
ただ最近の歴史学というやつが無粋なことに虚構を暴いてしまってますので。

>私個人は強いリーダーシップのある人間は好きですね。なんなるワンマンではダメですが。
>ただ、権力が暴走しないよう、抑止する制度は強固に作っておくべきですね。

歴史を長いスパンで見ると、「強いリーダーシップのある人間」が良い政治家
である確率と悪い政治家である確率がともにあるわけですよ。悪かったときは
強いほうが不幸が大きいですよ。
「権力が暴走しないよう、抑止する制度」を作ると、こんどは強いリーダーシ
ップがなかなか発揮できないわけで。
僕が言いたいのは、リーダーシップの強弱なんぞより、フォロアーの意識の高
さ・眼力のほうが重要だってことです。なにせ現代は代表民主制の時代ですか
ら。
万人に都合のいい救世主はどこにもいないわけですし。


天下布武 投稿者:エリス  投稿日:10月 8日(火)23時00分13秒

どうも、管理人さま、鹿角さま、レスありがとうございます。

 ちょうどいいタイミングで織田信長の話が(笑)今、ちょうど「逆説の日本史」9巻を読んでいますが、私はこれですっかり信長ファンになりましたね(笑)まあ、ここに書かれた、井沢元彦氏解釈するところの織田信長が、好き、というのが正しいでしょうか。実は今まではあまり好きではなかったのですが。井沢氏は社会評論の本も書いていますが、管理人さまおっしゃるとおりの紋切り型で(笑)、「今の日本には織田信長のようなリーダーが必要だが、和をもって貴しとなす日本人はそのような果断なリーダーシップをとる者を好まない」という論調ですね。まあ、確かに現実の今の世に信長はちょっとなあ、という気はさすがにしますが(笑)「逆説〜」に書かれた信長は本当にすごいですね。井沢氏が英雄とも名将とも讃える他の戦国武将たちは確かに傑物ではあっても、やはり日本人の枠を超えてはいないのですが、信長だけは何か大陸のDNA(笑・・・鹿角さま、この表現気に入りました)が入っているのじゃないかと思わせますね。
 P239の毛利元就についての言葉、「こういう人間を英雄と呼ぶ。英雄にとって最も必要なことが何か、おわかり頂けただろうか?」の文章にはしびれましたね。いや、書いて欲しいですね、「逆説の隋末唐初」(笑)・・・しかし井沢流日本人論を読むにつけ、李世民て日本人に愛されないタイプの人かな、と言う気がしてきます(苦笑)そういう意味では、確かに光武帝の方が日本人受けしそうです。
 元寇に関しては、三別抄は救援していたらどうなったでしょうね。確かに上層部に関しては批判的ですが、個々の鎌倉武士の武勇に関しては、わりと高く評価していたとも思えるのですが。そういえば、太平洋戦争のときも、アメリカは日本のことを「兵士と下士官は良いが、人の上に立つ将がいないので勝てる」と評していたそうな。日本人は高所にたった戦略眼が欠けがちとかも聞いたことがあります。そうなのでしょうかね。

 私個人は強いリーダーシップのある人間は好きですね。なんなるワンマンではダメですが。ただ、権力が暴走しないよう、抑止する制度は強固に作っておくべきですね。


逆説の日本史 投稿者:鹿角  投稿日:10月 8日(火)11時09分40秒

>エリス様
あなたも読んでらしたんですか。
ここでも仲間がいるとは・・・(^_^)
第六巻の鎌倉幕府の危機管理能力のなさを
徹底的に批判したときは
「政府がいざって時駄目なのは
今に始まったことじゃないなー」と
(もちろん文永の役いぜんですが)
蒙古襲来で金将軍の最期に泣いたせいか
三別抄から救援要請があったのに見殺しにした
この時応じていれば戦いの仕方も随分ちがったはずだとの指摘には
凄く納得できます。
敵を知る努力を全然してないというか・・・
独断に満ちた言い方かもしれないけど
太平洋戦争においての硫黄島に
この時の耽羅は似てると思えるし・・・
(ここが落ちたらもう本土が危ないという点で)

文永の役前後の鎌倉幕府は昭和期の軍人以下!
(ちょっと言い過ぎ?)
それでもまともになるには
文永の役の壱岐 対馬 博多という多大な犠牲を払わなければ
ならなかったのですから・・・
弘安の役の対応はまあまあといっていいけど
(元側はチームワークがたがただし・・・
南宋を滅ぼした同じ軍とは思えない)


記憶に頼って書くと 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日:10月 8日(火)02時26分41秒

記憶に頼って書くとろくなことにならないと、つくづく感じてるこのごろです。
前レスで
>>西突厥なんかたしか東ローマと戦ってたもんなあ。
とか書いたのですが、
岡崎文夫『隋唐帝国五代史』(平凡社東洋文庫)p55あたりを引用すると、
「ソクディアナの商人は遂に東ローマ帝国に説き、突厥と同盟して波斯を討たしむ
ることに尽した。かくてローマ、波斯、突厥の間に連年にわたる戦争が起きること
となったが、この間に於て突厥人はすぐれた軍人として多数東ローマ境内にも入り
込んだと考えらるる」
ということでした。不正確なこと書いてすみません。m(_ _)m

>perdidoさま
>ハレー彗星という話もあるが1910から1066を引いてもハレーの公転周期76年で割り切れない!

理科年表を見ると
1066年以前に発見された彗星で、軌道計算されてるのは、
Halley(239B.C.発見,76年周期)とSwift-Tuttle(68B.C.発見,135年周期)しかあり
ませんね。計算苦手なのでよく分かりませんが。
こういうのを真面目に研究した歴史の本とかないのかなあ?

>じゃあ、呂布と似てるんですかね。丁原、董卓を裏切ったように、

劉牢之が呂布ですか。
馬に乗った姿が似合うかどうか…って、論点違いますか。
僕としては印象がかなり違うんですが、節操のなさは似てますかね。

>日本の将来を見極めるという意味でも非常に気になる国です。

あえて日本とイギリスの共通点をあえて挙げるなら、
島国であり、海を対外交渉線・国境線としたこと、
近隣に巨大文明圏があってその影響を受けたこと、
近代に工業化に成功して帝国主義的政策を取ったこと、
くらいですかね。
相違点も多いんで、かならずしも現代日本の師表となる国だとも思いませんけど。
大英博物館と倫敦塔には多大な魅力を感じますが。(笑)
目の黒いうちに一回は行っておきたいです。

>コロ助さま
>この様な事を考えると、中国だけ見て中国史やるなんて、ナンセンスだなぁと思います。
>やっぱ東アジア・北アジア・東南アジアを視野に入れてやんなきゃなぁ。

考古発掘にもとづく研究と東西(南北)交流史については、どんどん新発見で移り
変わっていくんだなあと、アマチュアの肌でも感じますよ。
中国開放で出てきた新文献なんてのもあるんでしょうけど。これはミクロに偏るん
でしょうしね。

>武徳八年、頡利可汗に一方的に、突厥を属国扱いしますが、逆に突厥にボロ負けし
>てますね。

確認しました。ご指摘感謝します。m(_ _)m

>エリスさま
>尚書令は日本でいうと、総理府と内閣を一緒にしたようなもので、すべての行政権
>はここに集中した。

まあそんなイメージだと思います。
元首的なところはありませんけども。
中書・門下・尚書による一種の三権分立があって、そのうちの行政権を司る長とい
うことです。

>まあ確かに李淵は李建成の廃太子まではさすがに考えてはいなかったでしょうが、

廃嫡するほどの落ち度がなかったでしょうしね。
逆に李世民をその能力ゆえに信任していたのかどうかも、分かりません。
そういうことでいえば元吉だって信任されてましたし。
後継者争いに悩む李淵(優柔不断な李淵)像というのも、史書の歪みや後世の脚色も
あるようですからなんとも言えないです。

>調整型政治の日本では、強力なリーダーシップをとるタイプの指導者を受け入れない傾向が
>あるからだ

逆にいえば、独裁者を生みにくい風土だという類の批評じゃないですか?
ここらから織田信長が異色の指導者だ!とかいう歴史談義になったり。
紋切り型ですよね。
日本の調整型リーダー=会社における稟議制=ムラ社会につなげたりするパターンで。
ムラ社会の共同体そのものが崩壊していってる現状をどう説明していくのかなあ。
価値観が多様化しているといわれながら、学校教育やマスメディアなどを通じて画一
化していくベクトルもたしかに存在するわけで。いまならITもありますか。
もしかすると、とんでもない独裁者が日本で生まれる可能性だってゼロじゃないですよ。
小泉支持9割のとき、僕はそう思いましたもん。

英国病もたまらんですが、ワイマールドイツもたまったものじゃないので、
強いリーダーを無条件に歓呼する気にはならんです。
強いリーダーシップには裏返しに強烈なフォロワーシップもあるはずなんですよ。


英国と日本と中国と 投稿者:エリス  投稿日:10月 5日(土)19時31分20秒

>perdidoさま
 レスありがとうございます。
 う〜ん、イギリスはともかく、スウェーデンは良く分かりません。マークス寿子さんの本は読んだことがあります。この方は日本の一部の方には批判されていますね。あまりにも英国を持ち上げすぎで祖国である日本を貶めるのは許せん、というわけで。私は面白く読みましたが。でも確かに、同じ島国ということで、中国やアメリカよりある意味親近感を抱きやすいというのはあると思います。サッチャーはやはり興味深い人物ですよね。何年か前のニューズウィークという雑誌にこのようなことが載っていました。「日本ではサッチャーのような政治家が実権を握るのは難しいだろう。女だからではない。調整型政治の日本では、強力なリーダーシップをとるタイプの指導者を受け入れない傾向があるからだ」と。
 で、またエリザベス1世の話を(笑)彼女が名君として後世に名を残すと、彼女の時代のものは何でも素晴らしいということで、その治世の庶民の暮らしなどもかなり始めのうちは黄金のヴェールをかけられていたそうです。実際には浮浪者があふれ、食べるにも困る人々が多くいた。そんな国内の困難を抱えながらの統治時代だったのです。で、彼女はメアリー・スチュアートの処刑でかなり評判を落している気がしますね。当時でなく、後世に、ということですが。私などはメアリーがあまりにも政治的判断が甘すぎるのだと思えるのですが。一介の貴族の令嬢ならともかく、女王としてはちょっとな〜と思うのです。でも、そうは思わない人も多くいるようです。まあ、男性の支配者が冷徹なのも許せんという人が結構いるようなので、女性が怜悧なのはもっと許せんのでしょう。
 で、エリザベスは気性が激しく、同時に優柔不断なところもあり、臣下はその気まぐれに振り回されることもあったよう。お世辞を言われることを好み、メアリー・スチュアートにもかなり競争心を燃やしていたようです。・・・と、まあ、恥部となるところを上げていけばきりないのですが、要は完璧な人間などはいない。善政を求めるのは当然だが、その人格に完璧を求めるのははっきり言って筋違いだと思えるのです。

 話は変わりますが、今、井沢元彦氏の「逆説の日本史」を読んでいます。いや〜面白いですね、これ。私はかなりこの方の言説が好きですが、人によっては抵抗を感じる人もいるでしょう。隋末唐初だけでいいから、中国史もやってくださらないでしょうかね(笑)私の考えではこの方なら、李世民が玄武門の変で行ったことも、「義侠の人、トウ建徳」を滅ぼしたこともきっと高く評価するはずです。陳舜臣氏とは感性が全く違います(笑)
私はとう建徳も好きなのですが、陳氏の書くように彼を生かしておいたら、唐にとっては内紛の種を抱えるだけだったのではないかな〜としか思えないのですよ。そして逆の立場で、もしとう建徳の側が勝っていたら、李世民を生かしておくわけにはいかなかっただろうな、と思います。


英国史の魅力?? 投稿者:perdido  投稿日:10月 5日(土)09時13分45秒

>エリスさま
いーえ、少なくともエリスさまのほうがエリザベス1世に関しては詳しいです(汗)
でも、英国史は、まじで面白い、というか気になりますね。
先史時代の世界遺産級の巨石遺跡
7王国がどのように覇権をあらそったか、
ノルマンの征服でどのように英語が変化したか
最初の議会(北欧のアイスランドという説もあるが)が
どのようにできたのか。
貿易摩擦に関連して、穀物法の廃止はどのように英国内に影響をあたえたか
どのようにしたから「日の沈まない帝国」を築けたか
「日の沈まない帝国」はぢのように衰退したか
それを立て直すためにサッチャーはどのような改革を行ったのか
あと番外編でアラン島のセーターの歴史とか、ケルト文化とか、紅茶とか
マークス寿子が書いたように今の日本とは違って「大人の国」であるとか
興味が尽きません。(ただ、このことを自分が詳しく知ってるわけじゃないのが申し訳ないのですが)
 イギリスとスウェーデンは、日本の将来を見極めるという意味でも非常に気になる国です。


東西の名君 投稿者:エリス  投稿日:10月 5日(土)02時19分17秒

>コロ助さま
 本当にどうもありがとうございました(ペコリ)
 ちっ、李密にはしてやられたんだな・・・。
 でもやはり、突厥ボコボコにやっつけたのって気持ちいいな。天河汗の称号を受けたのが630年、李世民32歳のとき。突厥の大挙侵入にあたるための玄武門ですか。それが通説になれば救国の英雄ですね。
 あるサイトの中国人留学生へのインタビューで、「お国の英雄は誰ですか?」と尋ねると、「唐太宗、諸葛亮、韓信です」と答えていた、というのがありました。旧来の完全無欠の名君像こそ崩れたものの、それでこの評価なら充分でしょう。
「お前ら、こんな兄弟殺して帝位について、散々史書をごまかしたヤツを英雄扱いしてんじゃねえ!」と言いたい日本人は多いかもしれませんがね(笑)
 しかし、自分の下へ遣唐使を派遣した、東夷の島国と思っていた人々の子孫からこうも
恥部を暴きたてられ、散々批判されることになるとはまさか彼も思ってもみなかったでしょうね・・・。こんなことになるのなら、最初から堂々としていればよかったのに・・・。

>perdidoさま
 英国史、お詳しいですね。エリザベス1世の評価が高いのは、大英帝国の基盤を彼女の時代に築いた、とされているからみたいですね。
 彼女の時代は、国家財政は破綻の危機にあったそうです。で、彼女は新たな資金源を開拓するのはできなかったようで、王領地を切り売りしたり、自分の宝石まで売却しなくてはならなかったそうな。
 各地で食料暴動が起きていて、救貧法も焼け石に水みたいな感じだったときもあったとのこと。「イングランド庶民の生活水準はこの世紀、最低にまで落ち込んでいったのであった」(「エリザベス1世 大英帝国の幕開け」講談社現代新書より)
 と、いうわけで必ずしも輝ける黄金の治世とはいいがたい部分も多々あったようですね。でもやはり対外戦争に勝ち、国難を救うというのは、英主として讃えられるに充分な条件です。彼女は内政をないがしろにしていたわけではありませんし。
 ヘンリー8世は暴君的なイメージが強いですが、英国国教会制度は大きな功績ですよね。まあ、暴君的な君主が大事業に手をつけてくれたり、大きな改革をしてくれると、後に続く統治者はあまり過激なことはいないで済むので、名君としての名声を得やすいかな、というのはあるとおもいますね。やはり英国でのエリザベスの評価って高いのじゃないですか、映画にもなったし。女性君主なので持ち上げたいというのもあるのですが(笑)

>管理人様
 レスありがとうございます。
 宰相は確かに一人だけではないと思っていました。詳しいことは知りませんでしたが。
 でもかなり高い地位にあったのは確かですね。李淵が皇帝になると、建成が皇太子、世民が尚書令・秦王になったとのこと。で、「尚書令は日本でいうと、総理府と内閣を一緒にしたようなもので、すべての行政権はここに集中した。尚書令は、表の官僚制度のトップといえる」(「皇帝たちの中国」岡田英弘より)・・・なにが一武将だよ・・・ちなみに「一武将」という書き方は、「一将軍」よりさらに低くさげすんだ表現のように思われます。わざとそういう書き方をなさっているのでしょう。
 ・・・まあ確かに李淵は李建成の廃太子まではさすがに考えてはいなかったでしょうが、やはりかなり李世民を信任していたと考えるのが妥当ではないか、と。
 あと、「同僚の」というのは「同格の」、つまり彼の指揮下にいない将軍ということですよね。「格下の」将軍なら世民の指揮下にいるということでしょう。普通、指揮下にいた将軍の成果ってその上の将の功績でもありますよね。瑣末な指示を出さなかったから、彼の功績でない、というのは変なのじゃないかな、と思ったりしますが。それをいえば光武帝も天下統一の戦いのとき、全ての軍を自分が直接率いていたわけではないでしょう、と思うのですが。
 なるほど、Kayさまとおっしゃる方は大変よく研究なさっておられるようですね。そのことには素直に敬意を表します。いろいろと失礼なことを申し上げました。しかし自分が嫌いな皇帝だからといってことさら貶めるような書き方をするのはどうでしょうか。「いかなる理由があれ、兄弟を殺したりするべきでなかった」「史書をごまかすべきでなかった」とおっしゃるのなら、事実を基にしていますし、正当な意見と思いますが。(ちなみに私は前者には賛成しませんが、後者なら同意です)

 ちなみにエリザベス1世はメアリー・スチュアートびいきの人には嫌われているようですね。政治的判断力とか冷徹さ(冷酷・非情とさえいえるほどの)がないがゆえに敗者となったのですが、それゆえに人間味、人情味があり、好かれる、という面があるわけです。あとは判官びいき的な感情ですね。ちなみにエリザベスもメアリーも二人とも美人でした。



突厥と中国王朝 投稿者:コロ助  投稿日:10月 5日(土)01時40分27秒

>永一様

>李孝恭
そうですよね。李孝恭は、私のお気に入りの人物です。
朱粲は、食人マニアで「酔っ払った人間の肉が一番うまい。」とか
言っていますね。ホントか?

〉服属民にやらせてたのでは?
漢人を何百・何万単位でさらってきて
やらせていたみたいです。ただ覊縻時代の
鉄勒人や突厥人は唐の指導で農耕をやっていた見たいです。
突厥は疑問符付きですが。

〉隋の統一のころには、逆に突厥が分裂状態
隋の時は、長孫無忌の父、長孫晟が総大将となって、諜報戦
で、突厥を分裂させていますね。突厥と中国王朝の謀略戦は、
面白いですよ。唐初では、突厥が隋の亡命傀儡政権を作り、
竇建徳・梁師都・王世充らで、唐包囲網を作りあげる所は、
想像するとゾクゾクします。
あと、北周と北斉が突厥に争って財を傾けて婚姻を求めたこと
に対し、歩離可汗が「我南に在りし両児常に孝順,何ぞ貧を患わんや!」
という大言は、グットきます。この様な事を考えると、中国だけ見て中国史
やるなんて、ナンセンスだなぁと思います。やっぱ東アジア・北アジア・東南アジア
を視野に入れてやんなきゃなぁ。

〉李淵は臣礼を取ったままでしたし
李淵は、劉K闥を平定した後、武徳八年、頡利可汗に
一方的に、突厥を属国扱いしますが、逆に突厥にボロ負けし
てますね。


桓玄、劉牢之 投稿者:perdido  投稿日:10月 5日(土)00時04分18秒

NAGAICHIさま
>桓玄はともかく、劉牢之は簒奪を考えていたのかどうか。
劉牢之が桓温、桓玄のように簒奪するつもりでいた、という意味で書いたわけじゃないのですが、どう考えても、簒奪を考えていたっていう文章になってますね。
>あの三反は日和見なご都合主義にしか見えないです。
>どちらにしろ王敦や桓温ほどの傑物ではないなと感じます。
>劉裕は傑物というか雑草の強さを思いますが。
 そうなんですか。じゃあ、呂布と似てるんですかね。丁原、董卓を裏切ったように、
王恭、司馬元顕を裏切り、桓玄を裏切ろうとした...
 もっとも司馬元顕は、自分の私腹を肥やすことしか考えてないし、桓玄は簒奪を狙う野心家...そう考えれば、割りに合わない死に方したな、とおもいますね。
 劉裕=雑草の強さですかあ。自分にうとっては、雑草というよりも「たたき上げ」って感じです。
わずか数十名で長江の対岸の桓氏の軍を破り、1700の兵で建康を攻撃、初めから逃げる準備をしていた桓玄と勇気や決断力が違います。やがて桓玄を破って敗走させます。


話は飛ぶ 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日:10月 4日(金)22時38分52秒

>perdidoさま
>桓玄、劉牢之などは、どこか中途半端で東晋を簒奪できる器じゃなかったんです。

桓玄はともかく、劉牢之は簒奪を考えていたのかどうか。
あの三反は日和見なご都合主義にしか見えないです。
どちらにしろ王敦や桓温ほどの傑物ではないなと感じます。
劉裕は傑物というか雑草の強さを思いますが。

>吉川忠夫『劉裕』青い表紙の古い本でしたっけ?『馮道』とかもあるシリーズ?

はい、人物往来社→中公文庫のやつです。
中公文庫のものも絶版になってて、かの「復刊ドットコム」のリストに入ってますので、
みなさん投票よろしくです。m(_ _)m
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=9057

>宣和堂さま
コロ助さんのツッコミが入ってますが、
>>同僚の将軍の功績の部分が多い。
ならそうかも、と思わないでもなく。
同僚というより一段二段と格下の将軍たちの功績ですが。

一将軍は行き過ぎですが、現場指揮官として瑣末な指示を出した上での功績だったのか
はたしてどうか。

>コロ助さま
河間元王の李孝恭という人も、よくよく見ると巨大な功績を挙げてますね。
山南招尉大使として巴蜀三十余州を下し、朱粲を破り、
信州総管となって、江陵の蕭銑を降し、輔公[示石]の反を討ってるようで。

朱粲を破ったときに、諸将が「朱粲の徒は人食いの賊だから穴埋めにしちまえ!」
とか言い出したのを抑えてるのがポイント高い。豪毅だけど自制が利いてる性格と
いう感じですね。

>あと遊牧民でも、若干は農耕はするのですよ。

これはエリスさんと同じ疑問を感じますが。
服属民にやらせてたのでは?

>その突厥を覊縻政策下に置いただけも太宗はスゴイと思います。

突厥と中国との力関係はこのころ目まぐるしく逆転してますね。
北周・北斉が南朝と鼎立してたころは突厥優位でしたが。
隋の統一のころには、逆に突厥が分裂状態になって、突利が啓民可汗の称を
もらって煬帝に臣従したり。
隋末の群雄は逆に始畢可汗に臣従。
李淵は臣礼を取ったままでしたし。
太宗になって、やっとこさ北伐によって東突厥をつぶしたってところですか。

突厥って世界史地図とかで見る印象以上にデカいですよね。
西突厥なんかたしか東ローマと戦ってたもんなあ。

>その経過とは、李世民は薛挙と対峙している時、和平交渉をしようとしたが、逆に、
>薛挙軍の逆襲を受けたとうもの

これは初めて聞きました。ありがとうございます。
なるほど、いろいろ操作してあるんですねえ。

>エリスさま
初唐のことは、どう考えてもコロ助さんのほうがご存じなので。
まあ、眉に唾つけといて下さい。

>そうですか、李世民は宰相だったのですね。

あ、ここ僕はむかし誤解してたので一言。
コロ助さんははっきり「宰相に名を連ねてます」と書いてますが、
唐の宰相は複数制です。(もしご存じでしたらごめんなさい)
中書・門下・尚書の三省のトップは宰相ですし、
中書門下平章事や中書門下三品なども宰相です。
場合によっては、六部の尚書だかなんだか分からない官職でも宰相になるんで。
李世民は武徳元年(618)六月に尚書令になってますね。

>あのサイトを作っている方も漢籍はお読みになれるようですが、李世民については
>それほど詳しくは調べていないということも。

Kayさんについては、そんなことはないと断言しときます。
以前、李密や魏徴や李勣の話をしていたときに、ぼかぁ完敗しましたから。

>再びperdidoさま
うーん、英国というとヴィクトリア期が好きですけどね。
たんに昔シャーロック・ホームズものが好きだったという理由だけですが。

ノルマン征服以前のイングランド史というのを大学の講義で聞いてた記憶が
あるんですが、もうさっぱり忘れました。

エリザベス1世女王って、マンガとかに出てくると悪役の印象が強いです。
『サラディナーサ』とかそうでしたし、
『JOJO』にも出てこなかったっけ?(メアリ・スチュアートがらみで、
記憶違い?)
エリザベス1世は最初の救民法を作ったという話もむかし聞いたような。


ノルマンの征服 投稿者:perdido  投稿日:10月 4日(金)22時08分30秒

ノルマンの征服を題材にした小説です。
http://www.asahi-net.or.jp/~cn2k-oosg/miyoizan.html
ノルマンディー公ウイリアムは、王位継承争いでつかれきったイングランド王ハロルドをイギリス南部のヘースティングスで破ります。その時空には大彗星が現われたという話があります。(ハレー彗星という話もあるが1910から1066を引いてもハレーの公転周期76年で割り切れない!)

 それから、ドイツ語とよく似ていた古英語は、ラテン系の語彙を吸収して変化していきます。また名詞や冠詞の格変化も語順重視になっていくことにより消失します。


英国史上最高の英主は?? 投稿者:perdido  投稿日:10月 4日(金)03時07分37秒

>エリザベス1世は、英国史上最高の英主
なるほど、彼女の功績を大きなもの2つを挙げると
父王ヘンリー8世の離婚問題から始まった国教会制度を首長令を発布してローマカトリックから英国国教会を独立させて完成させたこと、スペインの無敵艦隊を破ってスペインの覇権を揺るがし、イギリスの植民地体制の基礎をつくったことですが、
中産階級の登用、通貨の改革、救貧法の制定など内政面の業績も多いようですね。
 あと、ノルマンの征服を1066年に行ったウイリアム1世は、ドームズディブックを作って検地制度を整え、王権の強力な集権的な封建制の基礎を築きました。
 さかのぼって9世紀のアルフレッド大王は、デンマーク方面から攻めてきて海賊行為を行うデーン人を破り、その進出を食い止め、法典の編集、政治、軍制改革をおこないました。
 ヴィクトリア女王は、在位64年というのが目立って具体的にエリザベス1世のように何かをしたというものが思い当たりません。
 あと、1016〜1035までイングランド王だったクヌート(デンマーク王スヴェン1世の子)は、1026年にノルウェー王オーラヴ2世を破り、ノルウェーを征服、北海をまたに駆ける最大版図を築きました。(あ、彼を挙げるのは反則か(笑))

「女王の治世に英国は栄える」のジンクスから考えても彼女が英国史上最高の英主ということなのでしょうか。


太宗の評価とか 投稿者:コロ助  投稿日:10月 4日(金)02時22分28秒

〉エリス様

そこまで、わかっておいでで、李世民を評価しているなら、私は何も言うことは
ありません。自分は布目先生の研究に触発されて、隋末唐初の研究をやっている
部分が多いので、私の煬帝と太宗の評価については、布目先生のそれに近いです。
自分としては、貞観の治の評価は、内政面よりも対外関係にあると思います。玄
武門の変に対する有力な学説として、高祖・太子建成と秦王世民の対立には、前
者が消極路線で、後者が突厥の部族を反間によって分裂させる路線という路線対
立があって、玄武門の変が起こった、武徳九年六月こそ唐・突厥間が最も緊張し
た時であり、李世民が変事を起こしたのは、突厥の大挙侵入にあたるためという
ものがあります。実際、隋末の突厥の強さは尋常じゃないですよ。李淵も含め、
華北・北辺の群雄がすべて臣礼をとりましたからね。その突厥を覊縻政策下に置い
ただけも太宗はスゴイと思います。

〉セツ挙・仁果戦では敗戦ということなのですか?

対薛挙・仁果戦で、李世民は病になり一時戦線を離脱し、軍を劉文静に
委ね持久戦を指示しますが、劉文静は、命に背き決戦を挑み、逆に大敗します。
以上が『正史』や『通鑑』に見える話です。李世民が病気で云々というのが、
いかにも胡散くさく、曲筆くさいと思っておりましたが、丸橋充拓「唐太宗の紀功
寺院建設−政権正統論形成をめぐって−」(『大谷大学史学論究』7号、2001年)と
いう論文中に、朱子著奉勅撰「昭仁寺碑」に編纂史料と異なる経過があり「李世民
神話」の綻びが見えると論じられていました。
その経過とは、李世民は薛挙と対峙している時、和平交渉をしようとしたが、逆に、
薛挙軍の逆襲を受けたとうもの。まぁ、どっちにしろ最終的には浅水原で薛仁果軍
に勝利するのですが…。

〉李密の反乱は皇帝李淵がわざと反乱に追い込んだと思っていましたが
李密の反乱の経緯は、正史・『通鑑』・『高祖実録』、魏徴撰「李密墓誌」
(『全唐文』等に録されたものと、実際出土したものでは、文面が若干異なる)
では、異なる経緯を載せています。墓誌(出土版)では「元帥秦王とともに東し
て洛邑を討つ」と明記されており、それを踏まえて李密が反乱を起こす頃の
『通鑑』の記事を読むと、ちゃんとこの時期に、李世民軍が洛陽方面に進発
している事が記されています。恐らく李密軍の監視役で後詰めの軍隊を率いて
いたのに、その役目を果たせなかったので、史官が消したのでしょう。李淵が
そのように考えていたとは思いません。殺すのなら、適当に罪をでっち挙げて
やるでしょう。わざわざ、虎を野に放つ行為はせんでしょう。

〉エリザベス女王
うぅ、その辺は、世界史に毛が生えた程度しか知りません。
最近読んだ西洋史モノで面白かったのは、『傭兵の二千年史』
と『聖書VS世界史』(ともに講談社新書)ですか。

〉正確で深い知識には敬服いたしております。
私なんて、まだまだですよ。六朝隋唐なら多少、論文や史料を読んでま
すが、他の時代なんて概説に毛が生えた程度しかしりませんよ。逆に
ここに書き込みされる方のレベルの高さはスゴイなぁと思います。
これから、忙しくなるのであまり書き込みはできませんが、また書き込み
した時は、よろしくお願いします。


ありがとうございます 投稿者:エリス  投稿日:10月 3日(木)00時24分47秒

>宣和堂さま
 どうも、ありがとうございます。助かりました。おせっかいなどではありませんよ。探してみます。できれば図書館にあればいいな。


いらぬお節介かと思いつつ… 投稿者:故宮の番人・宣和堂  投稿日:10月 3日(木)00時20分16秒

>(唐太宗が)「煬帝とやっていることはかわらない」という内容の本
 布目潮[シ風]『つくられた暴君と明君 隋の煬帝と唐の太宗』清水書院 ですよね?


専門家にこんなことをいうのは失礼かもしれませんが 投稿者:エリス  投稿日:10月 2日(水)23時00分03秒

>コロ助さま
 布目潮ふう氏が書いている「隋唐帝国」(講談社学術文庫)を改めて読んでみたのですが、確かに玄武門の変にかかわる記述では唐太宗と煬帝の兄弟殺害と父親を排除したことを並べて記述しています。史書の記録に関しても、兄弟を貶め、自分のことだけ良く書いたことを批判的に述べているようです。それから貞観時代には戦乱のため国土が荒れ果て、とても理想の治世とはいいがたかったことも書いてあります。しかし全体としてみると、唐太宗には概ね高い評価を与えているようですが。「たしかに、歴代帝王中、一流の人物であって、たんに兄を殺して帝位を奪いとった野心家だけの人物ではなかったことはたしかである」(P78〜P79)
 それから煬帝のところでは、彼と唐太宗に共通する点として、兄弟を殺して帝位に就いたこと高句麗遠征失敗のことを述べています。史書編纂の事情が両者の後世への評価を分けたことも書いてあります。しかしこれは、唐太宗を批判するのでなく、煬帝の事跡を高く評価するための記述と解釈したほうがいいと思います。布目氏は武則天にもかなり好意的に書いておられます。要するにいままで不当に貶められてきた統治者への再評価をするという意図を持っておられるのでしょう。
 コロ助さまのおっしゃる(唐太宗が)「煬帝とやっていることはかわらない」という内容の本は、探してみたのですが見つかりませんでした。しかし「隋唐帝国」の内容を見る限り、多分太宗を貶めるのでなく、煬帝を再評価する意図の方がより大きいのではと思います。まあ、名君と呼ばれてきた人間をバッシングするよりは、暴君とされてきた施政者を高めようとするほうが精神的に健全でしょうね(笑)
 「隋唐帝国」では唐太宗に関しては好意的に書いておられると思います。太宗が生前から自分が良く書かれるよう史書の記述に気を配っていたことはこの本にも書いてあるので、当然そのことには充分気をつけながらのこの評価であろうと思われますが、いかがでしょうか。
 ・・・それから私はそんなに李世民のことを褒め称えていましたかね?(笑)感情レベルでは特に好きでもない朱元璋や曹操のことをむしろ褒め称えていた気が自分としてはするのですが(笑)確かに好きだということは散々いってきましたが、過度に褒めてはいないと思います。もし私の過去の書き込みでそのように感じられるところがあるなら、ご指摘いただければ幸いです。

 たまには西欧史も、と思い、英国のエリザベス1世の本など読んで見ました。中国史上最高の名君と呼ばれてきたのが唐太宗なら、英国史上最高の英主は彼女でしょう。で、読んでみるとやはり彼女にしても失政や性格上の欠陥は結構大きくあるわけです。それでも「女王の治世に英国は栄える」として彼女を自国の賢君として英国民の多くは讃えているのでしょう。唐太宗を中国第一の英主として讃える声も中国人民の中に強くあるようです。中国の歴史教科書を読んでみたのですが、玄武門の変のところなど公平な視点で書かれていると思いました。
 賢君とされた人間とて、確かに手放しで賞賛は出来ないでしょう。誰のことでもそうです。それでも彼らがそれぞれの国で、過去の歴史を代表する名君とされていることは間違いないことだと思います。

 では長々と失礼いたしました。コロ助さまの、正確で深い知識には敬服いたしております。これからも書き込みを楽しみにしております。では。


お待ちしておりました!(喜) 投稿者:エリス  投稿日: 9月30日(月)21時12分11秒

 どうもコロ助さま お久しぶりです。そしてありがとうございます。
 私は漢籍は読めないので、史書を直接読んだわけではないのですが、一応日本語で読める本をいろいろと。「旧唐書」に曲筆が多いのは知っていました。いや、だからよく分からないですよね。実際どの程度の功績があったのかは。でもだいたいは、史書の誇張を割り引いても、まあ、まずまずの名将、名君であった、というのが大勢の意見のようだと思いましたが。・・・なんとなく、こうであってくれたらいいなあ、というような期待があるのも確かですが(笑)
 今まであまりにも、中国史上最高の名君、と持ち上げられすぎたので、実像が分かるとがっかりするというのはあるかもしれません。

 そうですか、李世民は宰相だったのですね。かの「一武将に過ぎなかった」とは光武帝ファンのサイトにあった言葉です。まあ、貶めているのは確かでしょう。出来るだけ光武帝を持ち上げたいですからね(笑)あのサイトを作っている方も漢籍はお読みになれるようですが、李世民についてはそれほど詳しくは調べていないということも。
 それでは李淵は、やはり全権を握った皇帝ではなかったのですか。陳舜臣氏の「中国の歴史」によると、李淵が李世民を殺しておけばよかったのに!といわんばかりの書き方ですが、例えそうしたくても出来ない状態だったのですね。下手すれば唐の内乱状態に。
 李靖は、なるほどそういうことですか。李世民が彼の命を父に頼んで助けてもらったというのは本当なのでしょうか。もし本当でないなら、李せきと違ってほとんど李世民と行動を共にしたことの無い彼は、なぜ李世民側につくことにしたのでしょうか。
 天下統一は、李孝恭という人が南側を、李世民が北側を攻略していったわけですね。
 対セツ挙・仁果戦では敗戦ということなのですか?李密の反乱は皇帝李淵がわざと反乱に追い込んだと思っていましたが。
 煬帝=作られた暴君であり、唐太宗=作られた名君、というのは聞いたことがありますね。まあ、易姓革命が起こると、最後の皇帝は悪く書かれ、長期王朝の始祖はきわめてよく書かれる、というのはよく読みます。この時代は特にそれがはなはだしかったのでしょうか。しかし唐王朝約300年続いたのは、やはり幸運だけではないと思いたいですね(笑)その基盤はやはり唐太宗の時代に築かれたのかな、と。

 遊牧民の農耕は、捕まえたり、支配下に入れた農耕民にさせていたとか、ずっと前のレスでどなたか書いておられましたよね?

 では本当にいろいろ教えていただいてありがとうございます。いや、あんなに昔のことが良くこれだけ分かるものですね。研究は大変でしょうが、これからもがんばってください。ところで、大学院の方ですか?どうして隋末唐初の研究をしようと思われたのですか?もしよろしければ、教えていただければ幸いです。
 
 


秦王李世民は唐の一将軍か? 投稿者:コロ助  投稿日: 9月30日(月)03時07分42秒

永一様、皆様どうも、コロ助です。

表題の問題ですが、一武将とは、少し貶めすぎでは?
少なくとも、武徳時代での地位は、太子建成の次ぐ地位だと
思いますが。一応宰相に名を連ねてますし。
高祖の権威は、建成・世民・元吉の三子に侵害されていたらしく、
三人の命令書が高祖の詔勅より優先される場合があったらしいです。
又李世民は、陝東道大行臺尚書令として、河南経営の大権を握って
いて、独自の地盤を築いていましたから、ただの唐の一将軍ではな
いでしょう。それに直属の軍隊も持っていますし、仮に高祖が世民の
誅殺を命じてもオメオメ殺されるかどうか?

>エリス様
〉秦王府の幕僚と説明してくださった方がいらっしゃいましたが。

すいません、少し訂正させて下さい。李靖が秦王府にいたのは、
一時的の事で、上記の孝恭の元に配属され、群雄蕭銑平定後、
桂州總管になっています。だから、李世民とは官制的な統属関係
は無いのです。ただ、私的に李世民に忠誠を誓っております。こ
の点は李勣も同じです。まぁ、平たくいっちゃえば、李靖・李勣は
裏で、秦王のために暗躍したといった所でしょうか?

〉問題はをした李靖
山南・江南攻略の総大将は、趙郡王李孝恭で、あくまで李靖は
副将です。孝恭は、豪放な性格で、かといって驕る所が無く、
智勇兼備の人だったようです。江淮及び嶺南諸州の経営をまかされて
おり、天下統一という事に関しては、太宗と同等の功績をあげております。
エリスさんが、李世民を褒め称える気持ちは、解るのですが、史書に書かれ
ている太宗像及び貞観時代像というのは、虚飾も多いので手放しに、太宗を褒め
られません。名君なのはたしかですが…。
一応、この時代を勉強している端くれとして、この時代を扱った漢籍及び
出土墓誌・墓碑等の資料、論文等を読んでいると、所謂、曲筆の類という
のは、甚だしいものを感じます。対薛挙・仁果戦や李密の反乱事件での失敗
をすべて隠していますし、玄武門関係は、言わずもがなです。布目潮ふう先生
は唐の太宗=作られた名君と評しています。布目先生は「煬帝とやっている事は
変わらない。」という趣旨の本を出しております。

あと遊牧民でも、若干は農耕はするのですよ。突厥第二可汗国の時、
可汗が則天武后に穀物の種子を求めた事がありました。


感情論でしょうが(笑) 投稿者:エリス  投稿日: 9月29日(日)23時42分22秒

 どうも皆様、レスありがとうございます。(ペコリ)

 いや、しかし、そもそも、「唐の一武将に <過ぎなかった> 」というのが気に喰わんし(笑)

>PERDIDOさま
 どうも同意いただいて恐縮です。
 曹操はですね、軍略・政治だけでなく、芸術家、文化人としても偉大だから、ここは一目置いておきたいですね。文化の国の中国ならとりわけここは大きなポイントですよね。現代日本人が「孫子」を読めるのも彼のおかげですよね。・・・だがしかし、それは理性的に判断した場合で、感情論としては特に曹操が大好きというわけでもない私(笑)彼の詩はとても好きなのですが。

>管理人様
 まあ、その前漢や唐に関する評価は全くの本気ではなく、なんというか、意図的にあえて過激なオーバーな表現をしているということもあるのでしょうが(笑)しかし、どこだったかな〜。もう一度探してみたけれど見つからないのですよ。まさか私の見間違いではあるまい。ひょっとすると光武帝だけのサイトでなく、中国史または歴史総合サイトの中の一コーナーの中の言葉であるかもしれません。
 
 劉裕については、その名将振りは詳しくは知りませんでした。貧困の中から皇帝になった人物というのは知っていましたが。貴族社会の南北朝で、確かに並みの人物ではありません。
 しかし将軍としての能力というのは、つまり自分で実際に兵を率いて戦う能力ということですよね。あそこで上げられていたのは、秦の始皇帝や漢の武帝なんかもありましたから、実戦指揮能力はあまり問題ではないのではとも思いますが。
 確かに劉裕て在位期間短いですよね。もう少し長く生きていたらどうなったかな・・・。しかし曹操、趙匡胤は天下統一の基礎を築き、光武帝、唐太宗は生きているうちに天下を統一しました。この辺の違いも・・・まあ、運の要素もあるだろうけれど。南から北を、っていうのは難しいから・・・。

 中国へ日本文化を輸出したいというのは同感です!でもグレイのコンサートもあったし、少しづつ変わってきてはいるのかな、と。やはり、漫画とアニメとゲームを広めたいですね。海賊版対策が大変でしょうが(笑)日本食は都市部ではけっこう人気だと本で読んだことがあります。文化的侵略行為だ!などと言われなければ良いのですが。

>宣和堂さま
 だから「〜に過ぎなかった」というのが気にいらんし(笑)少なくとも最も優れた将軍たちのひとり、ではあったはずだ、とは思うわけですが。問題は江南攻略をした李靖ですよね。彼の直接の上役は李世民でなくて李淵なのですか。この前の書き込みで秦王府の幕僚と説明してくださった方がいらっしゃいましたが。でもあるサイトの(兵法書関係)李靖の伝の訳を読んだら、直接の命令はやはり李淵が出していたみたいだし。でも最初はやはり李世民の下にいたみたいだし。なんだかよく分かりません。しかしもし彼が李世民の下にいたなら、少なくとも「同僚の」将軍、ではないはずでは、と。「配下の」将軍ですよね。
 しかしあの光武帝サイトに書かれていた、「この基準だとナンバー1は朱元璋だよな」には同意ですね。やはりヤツは傑物であるには違いありません(笑)

 なるほど遊牧民がお好きなのですか。では清朝の満州族などは微妙ですね(笑)狩猟民で農耕もしている、となれば。でも辮髪ですけど。


 ・・・しかし女がある一人の男性に惚れ込んだら、その能力・功績・人物等々を全く公平かつ客観的に見るのは不可能ではないとしても、とても難しいんですよ!(爆)


劉裕、その他 投稿者:perdido  投稿日: 9月29日(日)22時39分49秒

あ〜NAGAICHIさんに劉裕のことくわしく書かれてしまった(笑)
付け加えれば、桓玄、劉牢之などは、どこか中途半端で東晋を簒奪できる器じゃなかったんです。北伐でも後秦、南燕を滅ぼして、一時的にも中原を回復するという大戦果を挙げたし、桓玄を打ち滅ぼしたときの果断さなど傑物ぶりがうかがえます。曹操と同時代だったら好敵手になったでしょう。将軍としても君主としても感情的になってむやみに夷陵の戦いを呉にしかけた劉備より上ではないか、と個人的には思ってます。
土断法もやったんですか。勉強になりました。 
総論では、NAGAICHIさんに同感です。
吉川忠夫『劉裕』青い表紙の古い本でしたっけ?『馮道』とかもあるシリーズ?
ご紹介ありがとうございます。
それから「舞姫」のエリスについては、おっしゃるとおりです。
ドイツで主人公の役人(名前忘れた)の恋人になった薄幸いの美少女です。この主人公も結構勝手だな、と思いましたが。
『椿姫』を思い出す。
でもHNエリスさまに失礼になるかもしれないと思ってなかなかいいだせませんでした。


うーん… 投稿者:故宮の番人・宣和堂  投稿日: 9月29日(日)20時24分32秒

◇エリス様曰く…
>先の光武帝サイトのこと
 kay様のサイト見ましたが、問題にされているのは

>また、李世民がリーダーとして登場するのは、玄武門の変以降である。それ以前は、唐の一武将に過ぎなかったし同僚の将軍の功績の部分が多い。

…とされてるところですよね。うーん…そうすると自分も概ねkayさんと同意見ですね…。それに、ワザワザ李世民のところで最初の領土が(3)となっているのは、李淵が李世民に引きずられるような形で…という従来の説も考慮した形ではないでしょうか?玄武門以前は確かに生殺与奪の権を父親に握られ、兄弟に脅かされてるわけですから、権力は大きいとはいえ一武将とされるのは別段不思議とも思えませんが…。
 まあ、kayさんもお遊びでやっておられるんでしょうけど、領土の多寡で皇帝の評価はできんと思うんですけどね。
 自分は最近遊牧民の方に肩入れすることが多いですし、好きな皇帝って言うのは亡国の君の方が多いので、そう思うんでしょうけど。


どこかな 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 9月29日(日)20時17分44秒

>エリスさま
>やはり光武帝ヨイショのサイトで、「前漢や唐のように一見華やかだが中味のない空虚な
>時代と違って後漢は(このあとかなり褒める)」といった書き方してあったので

光武帝サイトは4つくらいしか知らないんですが、それは初めて聞きました。
どちらでせう?
前漢や唐を指して「中味のない空虚な時代」とは、極論というか、何も知らない
で書いてるのでは?と疑ってしまいます。

>宣和堂さま
>中国大陸では日本は独自の文化が…という意識はなく、

平均的な日本人は、まだしも多少なり中国のことを知っています(料理とか武侠
映画とか古典小説とか戦争がらみとか、当然知識には偏りがあります)けど。
でも平均的な中国人は、そもそも日本のことを教科書に書かれるようなこと以外
ほとんど知らないのではないでしょうか?
だから中国人の知る日本人の代表格が東条英機になってしまったりするわけで。
日本の文化もとうぜん中国の亜流としか見てないってことになるかと。
古典的なアメリカ人のサムライ日本観よりひどいかもしれません。
これは中国にアニメとカラオケをどんどん輸出するしかありませんぜ。(笑)

>再びエリスさま
>李世民が光武帝や曹操はともかく、劉裕にまで負けたとされるのは納得がいかん!

うーん、君主としての器とか政治力はともかくとして、
単純に将軍としてなら、劉裕のほうが上だと思いますよ。
吉川忠夫『劉裕』とかあちこちで聞いた話などを平均しても、劉裕は中国史上
有数の名将というかんじです。
かれは大陸を縦横無尽に駆けめぐって孫恩・盧循の乱を平らげ、三つの王朝を
滅ぼしてます。
李世民がもともと門地の背景があったのに対して、劉裕が寒門の出で成り上が
りだったということもありますし。

むろん君主の器は軍事能力や領土拡張だけでは測れないと僕も思いますが、
劉裕もそれなりの人物ではあります。
劉裕は「土断」という政治的功績もあるんですよね。まあこれは桓温のパク
リですが。
しかし、君主としては李世民のほうが上ってのは、総論賛成です。
というか、劉裕は君主であった期間が短かすぎた…。

>エリスは適当に語感がいいのでつけたHNです。

意図があって希神話から取ったものと思ってました。
perdidoさんがおっしゃるまで「舞姫」なんて忘れてました。
たしか「舞姫」のエリスは薄幸な美少女でしたか。


自分の李世民評? 投稿者:perdido  投稿日: 9月29日(日)18時07分01秒

エリス様
>本当に偉大な人間ならその功績を並べただけで偉大なことが伝わるでしょう。
激しく同感です(笑)。
貶めることがきらいなのですね。考え方がまともだと思います。たいへん失礼しました。
>李世民が光武帝や曹操はとも
>かく、劉裕にまで負けたとされるのは納得がいかん!(領土>拡張でははるかに地味な趙匡胤だって曹操はともかく劉裕より
>劣る君主とは夢にも思いませんがね。)
同感です。でも、李世民ファンなら、曹操より上って考えてもよほど相手が曹操狂というくらいのファンでない限り許されると思いますよ。
あの290年続いた偉大といってもいい唐王朝の立役者なのは間違いないのですから。


比べるのはどうかな〜 投稿者:エリス  投稿日: 9月29日(日)11時26分11秒

> PERDIDOさま
 レスありがとうございます。
 私は光武帝も好きなので、彼のことが称揚されるのはいっこうにかまいません。いいことだと思います。彼と比べて他を貶めるようなやり方が気に入らないのです。例えば劉邦や朱元璋がやった功臣粛清にしても・・・。それはもちろんいいことをしたとは思いません。正直好感をもつのは難しいです。しかし彼らは卑賤の身から皇帝にまでのし上がった人物です。光武帝や唐太宗のように皇室の血を引いていたり、大貴族の出自だったわけではありません。自分の実力以外何一つ皇位を正当化するバックとなるものを持たないのですよ。(劉邦は実力さえもなかったかも・・・笑)ヤツにできたことなら俺にだって、といって簒奪を狙うのでは、と思っても無理ありません。要するに条件が違うのだから比べてどうこうではないと思うわけです。私は唐太宗と唐の時代が好きですが、だからといって他の建国の皇帝たちを彼と比べて貶めようとは思いません。光武帝や彼が築いた後漢時代にしても、です。本当に偉大な人間ならその功績を並べただけで偉大なことが伝わるでしょう。
 ちなみに、エリスは適当に語感がいいのでつけたHNです。特に由来があるわけではありません。

>宣和堂さま
 確かに中国の人たちは明治維新、日本の近代化より前の時代の日本については興味がほとんどなく、自分たちのまねっこだけだと思っている方が大半のようですが(笑)まあ、あそこに書いたセリフは、あくまでもののたとえです。要は好き嫌いがあるのは仕方ないとしても、本当に中国の歴史や文化に興味を持ち、かつ敬意を払うのであれば自分の好きな時代だけ持ち上げて他を貶めるのはどうかな〜と思ったわけです。中華史伝掲示板のほうでは私も宋朝弱兵については散々なことを書きましたが、それも宋代のことが嫌いだからではありません。好きだから北方異民族にやられて欲しくなかったと思うし、もし本当にどうでもいいと思っていたら、金にやられようがモンゴルに滅ばされようが知ったことでないと思うわけです。あ〜王安石の改革が成功していればな〜。どうもこの辺りには私は思い入れがあり過ぎるのですね。

 で、先の光武帝サイトのことですが。しつこいようですが、さらに(笑)
 リーダーとなってからの最初の挙兵からの領土拡張で皇帝の業績の比較をしていましたが、李世民が光武帝や曹操はともかく、劉裕にまで負けたとされるのは納得がいかん!(領土拡張でははるかに地味な趙匡胤だって曹操はともかく劉裕より劣る君主とは夢にも思いませんがね。)まあ、太原挙兵からずっと李世民が実質のリーダーだったというのは旧来の説で、今では李淵も単なる無能な皇帝でなかったとされてはいますが、しかしそもそもあそこに上げられた数値に疑問があるのですけどね〜。彼が皇帝になってから北の突厥皆彼の足元にひれ伏したので、あの辺のモンゴル高原はみな唐の領土でしょう(笑)


この中華主義者め! 投稿者:故宮の番人・宣和堂  投稿日: 9月29日(日)08時34分16秒

◇エリス様曰く…
>唐代のこと
 まあ、日本でマイナーな時代のこと扱っていると、どうしてもそう言いたくなるんですよね。猫も杓子も『史記』マニア、明けても暮れても『三国志(演義)』論議ですからね。そして、モンゴル史やベトナム史をやってる人は、いたるところに中華の影を感じて表題のようなことを吐くそうです。
 自分も安史の乱以降の方が文物等の関係で、想像しやすい時代だと思います。唐代以前は何にしても資料が少ないので…。
 でも、中国大陸では日本は独自の文化が…という意識はなく、唐代の文化がそのまま息づいてる生きてる化石みたいなイメージで見てましたよ?コレが台湾になると、司馬遼太郎の訳本が街の本屋で買えたりするので、ちょっと違うんでしょうけど…(確か海賊版の信長の野望とかあった気がする…)。


好みがあるからたいへんだ 投稿者:perdido  投稿日: 9月29日(日)01時11分45秒

エリスさま
光武帝ヨイショのサイトで李世民批判でかなりお怒りになっているようですが....。
しょせん、200年しか続かなかったんでしょ。名君だって最初の3代しか続かなかったじゃん。唐は、太宗李世民がきずいて290年近く続いたのよ、ってほくそえんだら、けっこうすっきりするんじゃないでしょうか。
両王朝とも宦官には苦しめられたようですが。
ところでつかぬ事をお伺いしますがHNの由来は鴎外の「舞姫」ですか?
いやな場合は無理にお答えいただかなくて結構ですよ♪

NAGAICHIさま
『マヴァール戦記』じゃなくて『マヴァール年代記』ですね。
ありがとうございました。


ありがとうございます 投稿者:エリス  投稿日: 9月29日(日)00時32分05秒

>管理人様
 
 レスありがとうございます。
 私はやはり日本人は世界にも稀なる文化吸収力を持っていると思いますね。なぜならそのように自分の民族、国民に特技、良いところがあると思うと、自分たちに誇りや自信が持てるからです(笑・・・いや冗談抜きで)私も国民性に関するジョークが大好きです。国民性や民族性の話は、人によってはとても熱心ですが、人によってはかなり抵抗を示す人もいますね。多分それは、ものごとを大局的あるいは大雑把に見るか、逆に細部を別個に見ることが得意なのか、その違いによるのかもしれません。
 まあ、それはともかく。
 光武帝のサイトご紹介いただきありがとうございます。これは以前にも見たことがありました。光武帝人気ありますよね。この方のサイトを見ても、本当に光武帝が好きなんだなあ、と思えますね。このサイトは良いサイトだと思います。やはり光武帝はかなり徹底して、奴隷解放をやったようですね、これを見た限りでは。
 ・・・でも、天下統一時からの領土拡張のことを書いたところで、「李世民は唐の一武将に過ぎなかった」なんて書き方してあったので少し、いやかなりムカツキました(笑)
 そういえばどこで見たのかは忘れましたが、やはり光武帝ヨイショのサイトで、「前漢や唐のように一見華やかだが中味のない空虚な時代と違って後漢は(このあとかなり褒める)」といった書き方してあったので、これにもムカツいた記憶があります(笑)あれはどこで見たのだったかな・・・?
 もし中国人から(まあどこの国の人でも)「平安時代や江戸時代のように一見華やかだが中味のない空虚な時代と違って鎌倉時代は(このあとかなり褒める)」みたいなこと言われても私は日本人としてあまりうれしくありません。それにしても日本人が生命の危険を冒して遣唐使を派遣し、文化を吸収しまくった唐の時代を指して、「中味のない空虚な時代」とはよくもいったものですね!朝鮮半島やベトナムあたりも唐の長安文化の吸収をしまくったはずなので、少なくともこの三つの国は「中味のない空虚な文化」をきっちり取り入れたことになる(笑)


「天統IV」は買わなくてよかった 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 9月28日(土)22時00分10秒

題とカキコの内容はまったく関係ありません。(*^_^*)

>エリスさま
>日本人が真似するのが得意なのは事実だと思いますが。

どういったらいいか、いわゆる国民性とか民族性の議論に僕が懐疑的なだけです。
ある程度の性質の差異はあるんでしょうが、大ざっぱな話になるんで、どうしても
比較対象内部の多様性や時代性を取り落としがちになるんですよ。
それでも県民性の話とか、国民性をめぐるジョークとか好きですけどね。

まあ、文化や技術のマネっこやパクりは実際は世の常です。
たぶん日本人に限らない話で。
ただ歴史上には巨大なインパクトとなる時点がありますよね。
それが日本では明治維新であったり、敗戦であったりしたわけで。

>やはりそちらのほうにもモデルはいるはずですよね。

僕もペルシア史は分かりませんが、いるんでしょうかね。

>ちなみに、「あるお方」とはどなたでしょうか?

名前を挙げてよいものかどうか。
http://www2.justnet.ne.jp/~kays/s-china.htm
のかたです。(^^)

>宣和堂さま
>ガンダムエースも次回はククルスドアン出てくるんですかね?

「ガンダムエース」はチェックしてないんですが、安彦さんの単行本は買ってたり。
本筋でない話なので、カットしようと思えばできますが、
できりゃやってほしいですね。

>perdidoさま
>イシュトヴァーンとか出てくるし。

イシュトヴァーンとか言われると、僕は「紅の傭兵」「ゴーラの殺人王」のイメージが
湧いてくるんですが。ってそりゃ栗本薫『グイン・サーガ』。(^_-)
『マヴァール年代記』は、あまりに敵が情けなさすぎてコケた感じですね。
主人公も陰鬱すぎたし。


こちらこそすみません 投稿者:エリス  投稿日: 9月28日(土)21時24分27秒

>宣和堂さま
 胡坐の件は、こちらこそ、分かりにくくて申し訳ありませんでした。
 宣和堂さまは辮髪がお好きなのですね。宣和堂さまのサイトのコラムは笑えて面白かったですが、辮髪そのものはあまり好きではありません。蘭陵王て辮髪青年だったのですね。しかしあのかた、実際の戦いぶりを見るとそう大した名将でもないような気がするのですが。やはり美青年で早死にってところが、悲運のヒーローとして持ち上げられたわけですかね。
 唐皇室が辮髪でなくて本当に良かったです。辮髪の李世民なんて絶対いやです(笑)。


う〜ん、紛らわしい 投稿者:perdido  投稿日: 9月27日(金)01時12分55秒

そっか、アル戦は、ペルシャがモデルですか。マヴァール戦記が中世ハンガリーだな。
イシュトヴァーンとか出てくるし。アヴァール(カール大帝に征服された当時パンノニアつまりハンガリー盆地にいた民族)とマジャールを掛け合わせた名前だし。


時間よ、とまれ 投稿者:故宮の番人・宣和堂  投稿日: 9月26日(木)22時00分33秒

永一様
>ファーストガンダムのあの島が、八丈島?なんですか。
 さかのぼること十数年前の記憶をたどってみると、ボンボンか何かで木馬の航路が書いてある地図にそんなこと書いてあった気がしたのですが、『ガンダムオフィシャルズ』引っ張り出してきたところ、五島列島だったようです。
 ギレンの野望で、いきなり五島列島に独立勢力が出てきて、軍団長がククルス・ドアンだったら面白いのになぁ…などと、天下統一っぽいことも考えてしまいました。
 ガンダムエースも次回はククルスドアン出てくるんですかね?あ、そうか…前後してガルマ臨終か……じゃあ、その次?意外にセントアンジェまでやったくらいですから、ドアンが出てきてもおかしくないですよね?

エリス様
 いや……洒落を理解できない無骨者で申し訳なかったです。


やはり日本人て真似するの好きだよね 投稿者:エリス  投稿日: 9月26日(木)21時00分19秒

>管理人様
 日本人が真似するのが得意なのは事実だと思いますが。明治維新の時はけっこう鮮やかといっていい変身ぶり(中華帝国からすれば変節か?(笑)日本討伐論もあったそうですが)だったと思うし・・・。明治時代の、あれらが全て日本オリジナルのわけはあるまいと思えるし(笑)あのときは外圧で追い詰められていたというのもありますね。今はそこまで緊迫していないから。あるいはこう言えばいいかな・・・外側に目標があると奮い立って追いつこうとする、と。アメリカも不景気だし。今のブッシュ大統領を見ていると模倣する気は失せるでしょう(笑)やはり目標が見えないのは辛いと思います。確かに、バブルの後遺症も大きいとは思いますが。まあ、問題は複合的でどれかひとつには絞れないでしょう。
 
 アル戦はですね〜私はペルシャあたりの歴史なんて知らないですからね。やはりそちらのほうにもモデルはいるはずですよね。でも中国史が好きなら、やはり中国からモデルをとったかな、と思いまして。
 劉秀の奴隷解放政策は、結局徹底しなかったのでしたか・・・?ちなみに、「あるお方」とはどなたでしょうか?


アル戦とか 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 9月26日(木)02時36分43秒

ためてたレスを

>エリスさま
>しかし今や明確な模倣の対象がなくなり、日本は初めて自らの道を自らの手で切り
>開かなくてはいけなくなったのです。

なんかすごーく昔に聞いた議論に似てます。
日本人は外部から取り入れた文化や技術を模倣して改良するのが得意な国民なのだ!
という話。これは実際ホントなのかな?
いや、国民性の議論の是非は別として、日本の今の停滞の原因が、先に進むモデルが
なくなったことによる産みの苦しみなんでしょうか?
もともと1985年のプラザ合意以来の円高基調−それでも好調だった内需を背景にした
バブル経済−株も土地も上がり続けると無邪気に信じ込んだ狂爛的投機・投資−それ
が破産したあとのツケの後始末を先延ばしにし続けた無責任な社会のありよう。
モデルがあるとかないとか、自らの道を新たに…とかの問題じゃ本来はないと思いま
すよ。

>今の日本は上の人たちがダメダメなのですよ。

僕にも、官僚主導の護送船団方式の経済や従来型公共事業依存の景気対策がダメダメ
なのは見えてます。
ですが、エリスさんが支持する規制緩和・自由競争ならいいのか?というと、さて、
ちょっと待ってくださいって意見なんです。市場には「神の見えざる手」はたぶん
ないでしょうし、けっきょく弱肉強食の経済原理が待ってるだけではないですか?と。

>「春の魔術」って田中芳樹先生の新作ですよね。

さよです。「夏の魔術」のシリーズの最新作で、いちおう完結だそうで。
まあ、それほど面白いアイデアはなかったです。
でも一気に読ませてしまう筆力はまだあるかな。

>光武帝や李世民の話をいつか書きたいとか、言ってなかったですか

田中氏が光武帝について書きたいって言ってたのは、僕も覚えがあります。
しかし劉秀君はアルスラーンよりさらにボケボケキャラでないと、僕のイメージには
合いませんが(笑)。
そういえば、劉秀が奴隷解放をやったのか?って議論がいつかどこぞであったよーな。
あるお方が召喚されてくださらないかしら。(^^;)

>それでダリューンのモデルは

関張クラスの名将であれば…いやそれよりも親友と毒漫才をやれる人で、異国で大恋
愛をした人物でないと…あいや思いつかないですが。

>perdidoさま
>なるほど。吉本隆明『私の「戦争論」』p.243

吉本ばななの親父さんの本は読んだことがないので…(恥)。
ただ16世紀までのアイヌも20世紀初頭までのサンカもチンギス・ハーン以前の遊
牧民も、必ずしも「国家」を必要としてはいなかったよなあと。「国家」の歴史も遡
れたところでせいぜい五、六〇〇〇年といったとこですし。
まあ現代の僕らにしても、必要としているのは、福利やサービスや利害調整のための
機関であって、必ずしも国家である必要もないのかも。
歴史を見れば二千年前のクニと、現在の国家の役割がずいぶん違うように。仮に二千
年後に国家が存在したとしても、現代の人間が想定しているものとは、かなり違うも
のだろうとは思ってます。

>花火でUFOもろとも撃墜された間抜けな異星人を描いたものがありましたが

それはギャグですね。(^^;)
シリアスな映画としては、そのくらい惨いかも。
ネットで「サイン」の評価を確認したら、非難囂々だったので、少しだけ安心し
ました、って違うっ!
オチがオーソン・ウェルズの「宇宙戦争」のパクリなんてっ!水が弱点な異星人
なんて!
前カキコの伏せ字をバラしてしまった…。

>宣和堂さま

カキコの内容よりサブジェクトが謎で。
ファーストガンダムのあの島が、八丈島?なんですか。


田中芳樹先生は・・・ 投稿者:エリス  投稿日: 9月24日(火)23時52分16秒

 「春の魔術」って田中芳樹先生の新作ですよね。
 そういえば、光武帝や李世民の話をいつか書きたいとか、言ってなかったですか、あの方は?でも絶対光武帝はアルスラーンみたいな性格になりそうだな(笑)というよりアルスラーンのモデルがいるとしたら、そのうちのひとりは絶対光武帝だ、と思っていますが。奴隷解放やってますし。それでダリューンのモデルは李世民に仕えた尉遅敬徳。黒衣の猛将、めちゃくちゃ強く、そして忠実無比、とくれば。あるいは楊大眼あたりも入ってますかね。彼も黒衣の猛将なのですね。
 しかし「風よ万里を駆けよ」を読んだ限りでは、李世民よりトウ建徳のほうに好意を持っている気がします。いっそトウ建徳主役で、唐が敵役でもいいかな、と。格好良ければ(笑)でも書く気はないのだろうな・・・。


(無題) 投稿者:perdido  投稿日: 9月23日(月)23時56分15秒

アニメーションe-mailに花火でUFOもろとも撃墜された間抜けな異星人を描いたものがありましたがそれを思い出させます(爆)


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