枕流亭総合掲示板過去ログ33(2004年1月6日〜2004年1月25日)



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まちがい ? 投稿者:two_yossy  投稿日: 1月25日(日)19時18分4秒

 またきました。
 いま「後漢書」儒林伝を訳しています。その私注を作っているときに気づいたんですが、筑摩書房から出ている、小竹武夫 氏の「漢書」の全訳の中で、「王莽伝」列伝69下の訳文に疑義が。
 「漢書8」454頁に、「はじめ、世祖の族兄聖公―劉伯升―はまず平林の兵の中にいた」とあり、その少し前、453頁の「たまたま世祖は兄の斉武王伯升、宛の人李通らとともに舂陵の子弟数千人を率い」の部分に、「劉聖公のもとの字」(481頁)と注しています。
 どうも小竹氏は光武帝の兄・劉エン( Unicode : 7E2F )と更始帝・劉玄とを同一人物だとお考えのようです。更始帝は「後漢書」列伝一・劉玄伝に、劉エンは列伝四・斉武王?伝に記されています。漢書の記述からも二人が別人だということは推察できるはずなんですが......。小竹訳は結構重宝しているので、ちょっとギョッとしました。


こういう見方ってどうなんでしょう? 投稿者:perdido  投稿日: 1月23日(金)23時56分34秒

素人考えでちょっと乱暴ですが中国史を振り返ると次のように考えることができるのではと思いました。

封建制(=地方分権?)
周の東遷
  ↓
諸侯の強大化=地方勢力の割拠
  ↓
秦の統一
郡県制=中央集権
始皇帝の死
陳勝・呉広の乱
旧六国の独立=地方勢力の割拠
前漢
郡国制(藩屏としての親族の王)(=地方分権?)
呉楚七国の乱
郡県制=中央集権

赤眉の乱、更始帝etc.=地方勢力の割拠
後漢
豪族連合

王を封じるも国替をして勢力を押さえる=中央集権
西晋
親族を藩屏として王に封じる(=地方分権?)
八王の乱
東晋・南朝
豪族連合、貴族に支えられる
北魏
部落の解散=中央集権
六鎮の乱
 均田制の発生
北周、北斉
豪族(貴族)連合
 府兵制の成立
隋・唐
 律令制、均田制、府兵制、官僚制
 中央集権、官僚制(則天武皇后まで)
 領域の拡大=府兵制の崩壊
貴族勢力のゆり戻し、安史の乱
 藩鎮の強大化=地方分権
   ↓
五代十国
  ↓
宋の統一=中央集権、皇帝独裁、官僚制

元末=地方勢力割拠

藩屏としての塞王=郡国制に似る
靖難の変

 けっこう似たことを繰り返している。呉楚七国の乱、八王の乱、靖難の変結果は全然違うけど構造はけっこう似ている。
 部落の解散は北魏の帝権の強化に貢献したと思われます。しかし孝文帝の漢化政策によって、貴族制のヒエラルキーが出来上がってくると、貧富の差が激しくなり、下層軍人の不満が、辺境軍隊を中心とした六鎮の乱で爆発し、中央の軍隊はこれらの内乱をを防ぎきれず、遂には534年高歓による東魏、宇文泰による西魏に分裂し、東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周によって滅ぼされることになります。
 北朝の皇帝権は、強かったのかと思いましたが、実質的には馮太后の摂政をはさんで孝文帝までで、東魏も西魏も傀儡政権で、北周すらも武帝が皇族の宇文護を「誅殺」するのにかなり時間がかかったことを考えると六鎮の乱以降はあまり強くなかったのではないかと思いました。


(無題) 投稿者:怨霊  投稿日: 1月23日(金)22時55分12秒

>永一さま
>某古代中国&読書サイト
ご名答です。当時は違う名前でしたけど。

>perdidoさま
前回は正直十分な回答ではなかったですね。すいません、不精して。
永一さま等がおっしゃるように唐についてはいろんな要素があります。
凄く大雑把に言うと、漢という古代の完成形と、
宋以降の中世から近世へと至る道の途上が唐なのかもしれません。
唐が安定していた時期は結構短いですから。

>むじんさま
はじめまして。HP拝見しております。
皆さん精力的に成果を出していて恐れ入ります。
某所で適当な事を書き連ねているだけの私には真似できません。
>孫叔然
そうか、「叔然」は「炎」の字なのですね。
「然」=「燃」、即ち「炎」と関係深いですもんね。
漢書では「然」=「燃」として使用してますし。


陳寿避諱の例 投稿者:むじん  投稿日: 1月23日(金)18時58分15秒

『三国志』王粛伝の末尾、楽安の孫叔然という人物について記載され、
叔然は晋武帝の諱を避けたものと裴注は説明しています。
つまり避諱している箇所とそうでない箇所とが混在しているわけですね。

http://mujin.parfait.ne.jp/


どうやら 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月23日(金)14時10分36秒

>呉壱と呉懿
むじんさん『集解』引用ありがとうございます。

けっきょく陳寿が懿・師・昭・炎などの字を避けてなかったという前提と、
呉壱のほうが本名らしいという結論は、当たりだったみたいですね。
途中、紆余曲折がありましたが。(^^;)

>唐朝三〇〇年
怨霊さんがおっしゃってたように「それだけではない部分」ってのが
あって、あまり図式的理解に拘泥してもだめなのでしょうけど。
南朝の皇帝たちが貴族・豪族たちと寒門武人・恩倖たちとの危うい
バランスの上に立っていたのに対して、
唐の皇帝たちは門閥貴族と科挙官僚たち、藩鎮や宦官といった勢力間
のこれまた危ういバランスの上に立っていたと思います。
それでも三百年続いたのはなぜか、と考えると、これまたいろいろあ
るんでしょうね。

唐を進士出身者たちを主役にした闘いの歴史と見た場合(笑)、
武則天のころ、官僚たちが力を伸ばして、このままいくと「正義派」
官僚たちの天下だと思えたんですが。
開元のあいだに貴族や皇族たちの巻き返しがあって、張九齢が失脚し
たあたりから、流れがおかしくなって。
また地道に力をつけて、牛僧孺を頭にはって李徳裕ら「悪の」門閥貴
族たちと党争やったり、天子担いで宦官一掃をくわだてたりしたわけ
ですね。(^^;)

北朝はまた今度。


北斉・北周の軍事基盤 投稿者:MNO  投稿日: 1月23日(金)01時23分25秒

北魏の体制も、523年の六鎮の乱の後に崩壊して北斉・北周両朝
特に北斉では、高歓が多数の領民酋長(部落解散させられず世襲を認められた族長)
を味方につけて権力を確立しました。北周はどちらかといえば、有力な豪族から成る
郷兵集団(後の府兵制の元)を権力基盤としています。ただ、両朝とも北鎮系軍人が
中心となって活躍しています。


Re:北朝の権力の源 投稿者:perdido  投稿日: 1月23日(金)00時30分15秒

北魏は、道武帝の時代に部落を解散して部落の君長である「大人」から部落統率権を奪って、国家が直接部落民(=北族)を一定地域に集住させて支配することによって帝権を安定させることができたことが、谷川前掲書、川勝前掲書にあります。『魏書』に「太祖散諸部落、始同為編民」の記述があり、『北史』賀訥伝に「其後離散諸部落、分土定居、不聴遷徙、其君長大人、皆同編戸、訥以元舅甚見尊重、然無統領、以寿於家」とあります。
 五胡諸国は有能な君主が亡くなったら傍系の有能な宗室に奪われるか崩壊するかのもろい構造だったのですが北魏はそれを部落解散によって免れたと思われます。
 それから、姓族詳定という施策によって漢族の四姓(櫨(木偏無し)、崔、王、鄭)と北族八姓を頂点とした貴族制ヒエラルキーを確立していきました。


北朝の権力の源 投稿者:MNO  投稿日: 1月22日(木)01時45分27秒

北朝は鮮卑等の異民族による国家なので、皇帝独裁権が
かなり強いのではないかと思います。なにしろ軍事権(実質的な統治権)は異民族が
掌握しており、彼らの長が皇帝なのですから。そのため、北魏の名臣で漢人の崔浩は
皇帝の信任が厚くても、あまりにも漢族中心的な考え方を持ち過ぎて皇帝を含めた
鮮卑人らの反発を受けて処刑されました。
北朝は、全体的に各異民族の部落に権力の源があるように思うのですが…


唐朝300年の謎!? 投稿者:perdido  投稿日: 1月21日(水)23時41分57秒

NAGAICHIさま
>ただ唐代はまだ科挙制度が確立していく過程で、貴族の蔭官は多くあった
>し、門下省が貴族の牙城で、皇帝の政策に対する事実上の拒否権をもって
>いたので、宋代以降ほど皇帝権力は強くなかったと思います。
>科挙官僚が貴族と互角に争えるほどの力をつけたのは、唐が傾きはじめた
>牛李の党争のころではないでしょうか?
ありがとうございます。盲点でした。確か唐の時代も貴族がいたよなあ、科挙もあったのにそのへんどうなんだろう。皇帝独裁は宋からだろうし...とそのあたりの知識が全く欠落してたものですから...
あと、唐って塩でもうけてたんですね。唐朝300年の謎?秘密?が解けた(爆)

 ぼんやり意識してなかったのですがなんだか自分は五胡のあと南朝にばかり関心があったみたいです。「上品に寒門なく下品に勢族なし」の言葉が焼きついていたのか、本当はそうじゃないつもりなんですが、本能的に暴君を滅ぼして名君が皇帝になるみたいな話がどうも好きみたいです(爆)。北朝には、均田制や府兵制がはじまったとか北周の武帝とか本当に限られたことにしか関心がなかったみたいです。
 北朝については、谷川「隋唐帝国形成史論」と川勝「魏晋南北朝」があるのでおさらいしておこうと思います。


ご意見ありがとうございます 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月21日(水)21時24分27秒

ご意見・情報ご提供頂きまして、皆様ありがとうございました。

むじんさまへ:
『集解』の情報ありがとうございます。

>錢儀吉曰:先主穆皇后之兄呉壹,華陽國志作懿.潘眉曰:書中懿・師・昭・炎字,
>皆不諱,不應獨改此名,當是傳冩之誤.

確かにこれが一番穏当な見解ですね。私のは穿ちすぎかもしれません。

永一さまへ:
>これは考えにくい気がします。
>そういう改竄をする理由がちょっと思いつきません。

確かに、自分でもあの考えは穿ちすぎだったと思っています。
永一さまのご指摘の中では、個人的には2か3の可能性が高いような気がします。


呉壹と呉懿 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月21日(水)20時14分35秒

>two_yossyさま
>呉壱 - 呉懿の典拠が話題になっていますが、常キョ(Unicode : 74A9)の
>「華陽国志」ではすでに「呉懿」と表記されている気配ありっす

『華陽国志』は見てなかったです。
suiteさんのとこに、テキストと日本語訳の一部があるんですが、
http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/san-gokushi/index.htm
ここのテキスト信頼しますと、「呉懿」と表記されてます。
通鑑もこちらを信用したのかなあ。

>「史記」五帝本紀の索隠に、「尭は謚なり。放勲は名なり」とあり、舜に
>ついては本文で「名を重華と曰ふ」と書いてあります。

こりゃすみません。
ちくま訳『史記』に騙されました。小竹兄弟にダマされました。(-_-;)
自信満々で書く前に台湾中央研究院で先に確認しとけばよかったですね。
『史記』も三家注つきのやつが手元にあればいいんですけど。
中華書局版か、できれば『史記会注考証』があればいちばんなんですが。

>でも孫星衍の「尚書今古文注疏」や皮錫瑞の「今文尚書考証」などを読ん
>でいくと、だんだんコンガラがってきます

経書もその考証も、僕は触ってないので、よく分からん世界ですが。
閻若據がニセモノ扱いした古文とか、康有為がハマった今文とか、
なかなかディープそうな世界で。


>殷景仁さま
>「壱」の旧字体は「壹」ですよね、この字「懿」の左半分と同じです。

いくつか検討しなければいけないのは。
1.本当の名は呉懿であり、陳寿が意図的に呉壹と改竄し、裴松之も訂正
しなかった可能性。
2.本当の名は呉壹であり、なんらかの理由で常キョが呉懿と誤記した可
能性。
3.意図的ではないが、筆写伝世のうちに誤記が発生してテキストに混乱
が生じた可能性。
4.司馬光が通鑑で呉懿の表記を採用した理由はなにか?

いろいろ考えてると、可能性でしか論じられないような気がしてきました。

>温公先生は、正史の「壱」は「懿」の省略だと解釈して、わざわざ書き直
>したのではないのでしょうか。

これは考えにくい気がします。
そういう改竄をする理由がちょっと思いつきません。


皇帝権力の伸張 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月21日(水)20時12分8秒

どうもありがとうございます。10万アクセスの内訳を予想するに
1万くらいは自分で(爆)、
2、3万くらいは内輪で、
5万くらいはたまたま立ち寄ったけど、5秒で去っていった人で、
中身見てくれた人は…じゃないかと。

>perdidoさま
>魏晋南北朝は、九品官人法が地方の地主層の子弟を官僚に登用するように
>機能して貴族化し、皇帝はこの貴族に支えられる一方、寒門出身の武将に
>支えられる不安定な政権であったが、

僕も素人考えですが、
いろいろ読んだうちで、そんなふうに理解してます。
ただ、六朝についてはそういえるけど、北朝は微妙に違うんじゃないかと
思ってますが。

>隋唐以降は、科挙で直接官吏を登用し、律令制、均田制、府兵制によって
>税収と安上がりの兵士の確保がなされて皇帝権力が強化されていったとい
>うことでいいんでしょうか。

ここら多少異論があります。
科挙と皇帝権力の関係については、科挙制度が完成し旧貴族が払底された
宋代に皇帝の独裁権力が確立してるので、科挙による官僚制の確立が皇帝
の権力強化に役だったといえるとは思います。
ただ唐代はまだ科挙制度が確立していく過程で、貴族の蔭官は多くあった
し、門下省が貴族の牙城で、皇帝の政策に対する事実上の拒否権をもって
いたので、宋代以降ほど皇帝権力は強くなかったと思います。
科挙官僚が貴族と互角に争えるほどの力をつけたのは、唐が傾きはじめた
牛李の党争のころではないでしょうか?

律令は一種の法治主義なので、体制の安定には役に立ったとは思います。
ただ均田制は北魏が起源で、府兵制は西魏が起源で、どちらも盛唐の玄宗
のころにはほぼ崩壊しています。国の財政面と軍事面を安定させる効果は
一定あったと思いますが、皇帝権力の強化に直接結びついているのかどう
かはよく分かりません。
均田制は敦煌文書とかをもとに、いろいろ議論があるようですし。
府兵制も理想通りにいってはいなかったようですね。

>怨霊さま
>とりあえずこれくらいヒント、なんつって。

うーん、お話したの、某古代中国&読書サイトですかね。違いますか?

>「この字は使っちゃダメ!」っていうのを徹底させるのは皇帝の威光を示す
>イイ機会、とも言えるかもしれません。

身もふたもないですが、そういう発想は実にありそうですね。

>唐を真に支えたのは塩専売の暴利だったとか。

これはそうみたいですね。安禄山の乱の後、あれだけ持ったのは塩専売の
財政収入あってこそで。暴利ゆえに黄巣君みたいなのが暴れちゃったりも
するわけですが。


三国志集解では 投稿者:むじん  投稿日: 1月21日(水)19時03分24秒

こんにちは。
三国志集解にちょうど話題に関連する記述がありましたので、ここに転載します。

《蜀書劉焉傳》幷州殺刺史張益,梁州殺刺史耿鄙.
《集解》華陽國志益作壹,梁作涼,此誤.耿鄙事見馬超傳注引典略.官本考證曰:張益,宋本作張壹,後漢書作張懿.梁州,後漢書作涼州.錢大昕曰:後漢書靈帝紀中平五年,休屠各胡攻殺幷州刺史張懿.此作張益,蓋避晉宣帝諱改之.紀又稱,中平四年,涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂,鄙兵大敗,不言被殺,與此傳異.漢時無梁州,此稱梁者,音之譌也.錢儀吉曰:先主穆皇后之兄呉壹,華陽國志作懿.潘眉曰:書中懿・師・昭・炎字,皆不諱,不應獨改此名,當是傳冩之誤.

文字化けするかな…。并州と銭大キンです。

http://mujin.parfait.ne.jp/


「壱」と「懿」 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月21日(水)14時00分43秒

永一さま、two_yossyさまへ:

お二方、ご情報ありがとうございます。

>「呉壱」が「呉懿」だというのは、いくら正史や裴注を繰っても出てこないので、
>初出はたぶん『資治通鑑』だと思うのですが。

まず『資治通鑑』の方は、倭刻本が手元にあったので確認しました。
私は、元明ごろの民間文学しか想定していなかったので、温公先生のような大学者
までが「懿」と表記していたとは、予想外でした。

ただ、藤堂明保『中国語概論』(大修館書店)第八章「歴史的音韻論」によると、
既に北宋の中ごろの開封では、「一」の音は「イ」のように発音されていたようです。
ですから、司馬光も「壱」の字を「イ」と発音していたとは思います。
さらに「壱」の旧字体は「壹」ですよね、この字「懿」の左半分と同じです。

ここからは、全くの私の憶測になってしまうのですが…
温公先生は、正史の「壱」は「懿」の省略だと解釈して、わざわざ書き直したのでは
ないのでしょうか。ちなみに『資治通鑑』では、他にも蜀の「陳式」を「陳戒」と
書いています(こちらは単なる誤写でしょうが…)。
しかし相手は司馬光ほどの大学者。本当のところはどうでしょうか…

>「華陽国志」ではすでに「呉懿」と表記されている気配ありっす

『華陽国志』は手元にないので未確認です。ですが事実とすると『資治通鑑』以上に
厄介になります。

というのも、著者の常璩が東晋時代の人だからです。この時代では「入声の消滅」という発音上の理由を根拠に出来ないので、そうなると、字形の相似ぐらいしか根拠と
して思いつきません。どなたか確認できたらお教え下さい。

>劉禅が徐州で生まれたとか、拐かされて人買いに売られたとかいうやつですね。
>あの話、魚豢『魏略』だったんですね。そりゃー怪しすぎますわ。

そうです。裴松之が「此魏略之妄説」といっているあれです。
他にも「諸葛亮伝」で、孔明が劉備のもとを訪ねていって、劉備が旄牛の尾を軍旗に
繋いでいるのところを批判し、それから彼の軍師になったとエピソードを紹介している
のも『魏略』です。これも裴松之に批判されていますよね。
まあ、徐庶の伝記も『魏略』なので、魏に仕えた人物については、全く信用できないと
するのはどうかとは思います。劉知幾が言うように、この書の記述は玉石混交と見るべき
でしょうね。

>観点はぜんぜんちがいますが、僕にとっても退屈な小説だったのは確かです。
>変な小説でもツッコミ甲斐があって別の楽しみが湧くようならいいんですが。

それは同感です。田中芳樹の『奔流』ぐらいに、五島勉ばりのハッタリを利かせて
くれたら、ツッコミ甲斐があって楽しいですからね〜

>井上祐美子さんの歴史小説では、『梨花槍天下無敵』がイチ推しで

タイトルから樊梨花が主人公の物語かと思ったのですが違うのですね。
機会を見つけて読んでみます。ありがとうございました。


続いていますね。 投稿者:two_yossy  投稿日: 1月21日(水)00時56分22秒

 またきてしまいました。続いていますね、名前の話し。
 呉壱 - 呉懿の典拠が話題になっていますが、常キョ(Unicode : 74A9)の「華陽国志」ではすでに「呉懿」と表記されている気配ありっす(手元に資料がなく、Webサイト「錦繍中華」調べ)。相変わらず不確か情報。
 それから「古先哲王」のお名前の件ですが、なにしろ姓・氏・名・字・廟号・生号・謚号などの区別も判然としないほどの大昔のことですからね。「史記」五帝本紀の索隠に、「尭は謚なり。放勲は名なり」とあり、舜については本文で「名を重華と曰ふ」と書いてあります。同じく夏本紀では「名を文命と曰ふ」とあり、「殷本紀」の索隠には「湯 名は履、書に「予小子 履」と曰ふ、是れなり」とあります。「大戴礼」帝繋篇もだいたい同じ。でも孫星衍の「尚書今古文注疏」や皮錫瑞の「今文尚書考証」などを読んでいくと、だんだんコンガラがってきます(尚書そのものがコンガラがった文章ですし)。「古先哲王」の姓字氏名にこだわるのは、どうやら古文学派の流れのようで、つきつめていくとどうも気が塞いできます。
 今回のスレはすこし健康的ではありませんでした。「腐儒」と呼んでください。


10万アクセスおめでとう 投稿者:怨霊  投稿日: 1月20日(火)22時38分34秒

どうも。
>永一さま
見ていただけていましたか。ありがとうございます。
私の過去の名は伏せときますが、2年くらい前には別の掲示板でお話していました。
とりあえずこれくらいヒント、なんつって。

どうも皇帝の諱を避けるのは、乱世ではどうなってのかも分からなくなり、
(=適当になり?)
統一されると厳しくなる、というような感じがあります。
「この字は使っちゃダメ!」っていうのを徹底させるのは皇帝の威光を示す
イイ機会、とも言えるかもしれません。

>perdidoさま
基本的にはおっしゃる通り、官僚制という点では科挙のスタート、
民衆支配という点では律令体制等によって、隋唐の中央集権化が進んだ、
という理解で良いと思います。
(私も専門家等ではないので間違いがあればお許しを)
もちろんそれだけではない部分も多々あるとは思いますが。
唐を真に支えたのは塩専売の暴利だったとか。

漢の宣帝はやはり人気ですね。私も漢の皇帝では哀帝の次に好きです。
宣帝については色々と話がありますが、それはまた。

>殷景仁さま
そうですか。「三国志」は避諱が厳格でない(していない?)ですか。
そういや蜀の元号「炎興」とかそのままだなー、とか、色々ありますね。


(無題) 投稿者:perdido  投稿日: 1月20日(火)19時52分2秒

>NAGAICHIさま
>いつの間にやら10万アクセス越えたようで。
おめでとうございます。

>two_yossyさま
はじめまして。

>>しかし天下に禁令を発して重罪を科するのではなく、あっさり自分の方から改名しての>>けるところがなんとも愉快。

>そこらが宣帝の市井の出らしいところですか。
NAGAICHIさんに同感です。ますます宣帝がすきになりました。

怨霊さんの
>晋などで避諱が適当のようで、唐などが厳格だというのは、
>皇帝権力の伸長と関係しているのではないかと愚考します。
が、気になってます。
素人考えで本当は東洋史専攻の方に聞けば簡単に答えが出てくるのではと思うのですが
科挙と律令制の整備が中央集権化=皇帝権力の強化につながったのか...と思うのですが
 魏晋南北朝は、九品官人法が地方の地主層の子弟を官僚に登用するように機能して貴族化し、皇帝はこの貴族に支えられる一方、寒門出身の武将に支えられる不安定な政権であったが、隋唐以降は、科挙で直接官吏を登用し、律令制、均田制、府兵制によって税収と安上がりの兵士の確保がなされて皇帝権力が強化されていったということでいいんでしょうか。初歩的な質問ですみません。
 日本では、645年に大化の改新のクーデターがおこり、天皇の名前が現われ、律令体制ができていく時期にあたりますが、隋唐の動きと関連して考えるのが自然だと思うし、歴史の授業でもそう習った気がするので...

再びNAGAICHIさま
>まあでも、避諱と文字の獄は、かたちはやや異なりますが、
>当事者の発想は似たようなものだったかも。
同じじゃないかな〜と思ったのでカキコしてみました。しょうもない話ですけど人が死んでしまうんだから笑えない話です。


避諱と文字の獄 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月20日(火)18時52分2秒

>怨霊さま
はじめまして…ではないのですか。
2ちゃんでご尊名はお見かけするのですが、別の名というのが見当つかず。
鈍いもんですみません。

>また唐の「世」については、史記、漢書の注が軒並みこれを避けてまして、
>「世家」「世本」を「系家」「系本」などと表記していたりしますね。

そういえば張守節とか司馬貞とか顔師古とか、唐の人でしたね。
唐はやっぱり面倒くさいんですね。

>晋などで避諱が適当のようで、唐などが厳格だというのは、
>皇帝権力の伸長と関係しているのではないかと愚考します。

perdidoさんの挙げられた文字の獄なんかも
皇帝による知識階級に対する思想統制の一環として理解されてることが多い
ようですし、たぶん似たような理由で避諱の厳格さかげんも皇帝権力の伸長
と無縁ではないんでしょうね。


>perdidoさま
>異体字じゃないんだよお、と書きたかったのですが

これはすみません。

>明洪武帝朱元璋や清の雍正帝が有名ですが、朱元璋は、臣下の徐一キが「光天の下、天は聖人
>を生み、世のために則を作る」と書いたとき「生は僧、光はわしの禿げていること、則は賊の
>音と同じ」と激怒した(おそらくその後殺された)と伝えられています。

なんとなく出来過ぎた話のような気も。朱元璋は字謎が趣味なのか。
粛清事件の理由の後付けで、市井の茶目っ気のある人間が創作したってことはないですか。
まあでも、避諱と文字の獄は、かたちはやや異なりますが、
当事者の発想は似たようなものだったかも。

>two_yossyさま
はじめまして。

>しかし天下に禁令を発して重罪を科するのではなく、あっさり自分の方から改名してのける
>ところがなんとも愉快。

そこらが宣帝の市井の出らしいところですか。

>自分を誹謗した楊ウン(立心偏+軍 Unicode : 60F2)を赦してやるほどの器量は持ち合わせて
>いませんでした。

以前この掲示板で話をしたことありますが、
そのときの紹介は司馬遷の外孫で『史記』を祖述した人(^^;)でした、楊ツ君。
しかし楊ツ君も高慢なところはありましたが、処刑されるほどのこともなかったかも。

>ところで、「古代の天子の名は字が難しく諱を避けやすかった」という話しは本当でしょうか。

前漢から見た古(いにしえ)といえば、三代(夏・殷・周)くらいまででしょうが、
必ずしも難しい名ばかりとは思えません。
ところで、「放勲」「重華」って名なんですかね。
『史記』五帝本紀に「号」と書いてあるみたいなんですが。


千客万来 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月20日(火)18時51分18秒

千客万来で、ありがたいことです。m(_ _)m
いつの間にやら10万アクセス越えたようで。

>殷景仁さま
>私が見た限り、ここにあるむじんさんのご意見が最も妥当だと思えます。

僕もあちこちで「新説じゃないー」って書き飛ばしてたんで、むじんさんのご意見は身に
つまされるものがあったんですけどね(-_-;)。今は賛成です、はい。
沈伯俊氏は新説とは言ってないし、異論はあっても学者としての資質を疑うべきではないし、
この件で学会で発表がおこなわれたわけでもないでしょう。いろいろデマが飛んでますが。

>劉禅の荒唐無稽な出生記事などもあるので、蜀漢人物関係の記事については眉唾物と見て
>おいた方が無難と思います

劉禅が徐州で生まれたとか、拐かされて人買いに売られたとかいうやつですね。
あの話、魚豢『魏略』だったんですね。
そりゃー怪しすぎますわ。

>井上祐美子の歴史小説に『柳絮』というのがありますが、あれには失望しました。

観点はぜんぜんちがいますが、僕にとっても退屈な小説だったのは確かです。
変な小説でもツッコミ甲斐があって別の楽しみが湧くようならいいんですが。
井上祐美子さんの歴史小説では、『梨花槍天下無敵』がイチ推しで、
あと短編でいくつか面白いのがありますが、
ほかは褒め言葉を見つけるのに困るんですよね。

>これは正確には「欠筆」或いは「欠画」といいます。

ええと、不正確な言い方しました。どうも。

>ちなみに唐代では、李世民の諱を避けるため、「乱世」を「乱代」、「民心」を「人心」と
>呼び、また高宗李治の諱を避けるために、「政治」を「政理」と言い換えていたそうです。

人心はともかく、乱代はあまり聞かないですね。
政理はいちおう漢和辞典にあるみたいですが。
しかし、たいへんだなあ。

>蜀の武将に「呉壱」という人物がいます。

劉備の妻の呉夫人(穆皇后)の兄貴ですね。
伝が立てられず、季漢輔臣賛のほうで簡単な紹介があるようで。
「呉壱」が「呉懿」だというのは、いくら正史や裴注を繰っても出てこないので、
初出はたぶん『資治通鑑』だと思うのですが。
「呉懿、費観等、璋の婚親なり」(巻六十七漢紀五十九、献帝建安十九年=214年の記事)
「五月、辛巳、漢主が夫人呉氏を立てて皇后と為す。后は、偏将軍懿の妹にして、故劉璋の
兄瑁の妻なり。」(巻六十九魏紀一、文帝黄初二年=221年の記事)

以下、憶測ですが。
避諱を気にする必要のない劉宋の裴松之が何も言ってないですし。
たぶん「呉壱」が正しかったんでしょう。
「呉壱」→「呉懿」になったとしたら、通鑑成立時点かまたはそれ以前で。

もしかしたら「呉懿」が正しいという通鑑独自のソースがあったのかもしれませんが。
どなたか『資治通鑑考異』でも持ってませんかね?

演義は、正史をあまり参照せず通鑑を参考にして作られていたと言う話なので、
「呉懿」を採用したんでしょうね。


避諱ネタは続く…「定説」を疑え(爆) 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月20日(火)07時13分27秒

『三国志』の避諱ネタでふと思いついたことですが…

蜀の武将に「呉壱」という人物がいます。
正史『三国志』では「呉壱」となっていますが、『演義』では「呉懿」となっている人物です。

よく三国志関係のネット上で「『司馬懿の諱』を避けて正史では『呉壱』となっている」とありますし、これが定説扱いされているようです。

ですが、既にこの掲示板をご覧になった方はおわかりのように、陳寿は『三国志』において特に司馬懿の諱を避けていませんので、この説は疑わしいと思われます。やはり、正史のように元々の名前も「呉壱」だったのではないのでしょうか。

では、なぜ『演義』では「呉懿」にされたのでしょうか。恐らくこれも宋元以後、中国語の発音の変化によって、両字が混用されてしまったからだ、と考えた方がいいと思います。こちらの方が、少なくとも諱を避けたという話より説得力があると思うのですが、皆様はいかが思いますか?


避諱ばなし 投稿者:two_yossy  投稿日: 1月20日(火)00時44分1秒

 はじめまして。旅の途中で立ち寄ったついでに話しの輪に入れてください。
 NAGAICHIさんが紹介している漢の宣帝の話し、「漢書」宣帝紀・元康二年の条に、「古への天子の名は、知るに難くして諱むに易きなりと聞けり。今 百姓の上書するに諱に触れて以て罪を犯す者多く、朕 甚だ之を憐む。其れ諱を詢と更む。諸々の諱に触れること令の前に在る者は、之を赦す」という記事がありますよね。宣帝は乳幼児期には病弱で、「病已」と名づけられましたが、二字ともに平易な文字のため、禁忌に触れることが多かったことは容易に想像されます。しかし天下に禁令を発して重罪を科するのではなく、あっさり自分の方から改名してのけるところがなんとも愉快。民間から出た宣帝は、夏侯勝や黄覇らの「不敬」を放免する程度には寛大でしたが、自分を誹謗した楊ウン(立心偏+軍 Unicode : 60F2)を赦してやるほどの器量は持ち合わせていませんでした。
 ところで、「古代の天子の名は字が難しく諱を避けやすかった」という話しは本当でしょうか。尭は「放勲」、舜は「重華」、禹は「文命」、湯は「履」だということですが、あまり難しい名前だとは思えないのですが。まあ墨子が言うところでは、古代は「賢者」を推戴して王としたわけですから、避諱のことなど取り沙汰しなかったのでしょう (神話・伝説中のことなのでむろん確証なし(^-^ゞ)。


避諱やら文字の獄やら 投稿者:perdido  投稿日: 1月18日(日)23時03分58秒

>殷景仁さま
ありがとうございます。異体字じゃないんだよお、と書きたかったのですが「欠画」という言葉がど忘れで出てきませんでした。

怨霊さま
>皇帝権力の伸長と関係しているのではないかと愚考します。
何かの本で読んだことがありますが、唐の皇帝は臣下と対面して座りながら話をしていたが、宋の時代になるとひざまずいて奏上するようになったという話で皇帝権力が絶対化していったみたいな話を読んだことがあります。うろ覚えの話ですみません。陳舜臣さんの本だった気がしますが...
 再拝稽首がいつのまにか清代には三跪九叩頭になったように絶対化していったのか...

避諱とは違いますが、避諱の話をカキコしながら考えたのは文字の獄のことです。
明洪武帝朱元璋や清の雍正帝が有名ですが、朱元璋は、臣下の徐一キが「光天の下、天は聖人を生み、世のために則を作る」と書いたとき「生は僧、光はわしの禿げていること、則は賊の音と同じ」と激怒した(おそらくその後殺された)と伝えられています。
解説すると、僧は朱元璋が昔托鉢僧(というかひらたくいえば乞食坊主)であったことから「僧」と音の通ずる「生」の字を嫌った、賊は、朱元璋が紅軍の兵で、彼らは元朝の政府や官僚、地主たちから「紅賊」と呼ばれていて、かって韓林児のもとで戦ったものは「賊」とののしられることを嫌ったことから、「賊」と音の通ずる「則」の字を嫌ったということです。
それから名前に関することでいえば、洪武3年(1370)に、庶民は、名前に、天、国、君、聖、神、堯、舜、ウ(夏の初代)、湯、文、武、周、秦、漢、晋等の文字を使うことを禁止され、さらに、洪武26年(1393)には、太祖、聖孫、龍孫、黄孫、太叔、太兄、太弟,太師、太傳、太保、大夫、待詔、博士、太医、太監、大官、郎中の文字を使うことが禁止されたそうです。

>「四、疾病」なんか、いけないというけど、
>霍去病とか劉病已(漢宣帝の本名)とか、堂々と「病」がついてますし。
>もちろん「病を去る」とか「病が已む」とか、ネガティブなものの否定としての
>命名ですけど
そうですね。春秋時代の諸侯の君主の諱に「去疾」だの「棄疾」だのあってへんだなと思ったことがあります。


はじめまして いきなり失礼します 投稿者:怨霊  投稿日: 1月18日(日)22時10分17秒

はじめまして
以前より拝見しておりましたが初めて書き込ませていただきます。
実は永一氏とは別のところで別の名でお会いしているのですが。

欠画ですが、明清あたりの版本などでもよく見かけます。
清では「弘」とか「曄」とかが避諱対象で、
「曄」の最後の一画(縦棒)が抜けているのをかつて講義で使用しました。

また唐の「世」については、史記、漢書の注が軒並みこれを避けてまして、
「世家」「世本」を「系家」「系本」などと表記していたりしますね。
別の時代の史書にさえ関係して来るんだから、唐皇帝の諱は罪作りです。

晋などで避諱が適当のようで、唐などが厳格だというのは、
皇帝権力の伸長と関係しているのではないかと愚考します。


避諱についての補足 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月18日(日)21時40分41秒

>李世民の「民」の字を避諱して一画書かない例とか挙げてあります。
>異体字でごまかすってのはありますよね。

これは正確には「欠筆」或いは「欠画」といいます。基本的には字の最後の一画をわざと欠いて書くという習慣で、開成石経などにも見られます。

ちなみに唐代では、李世民の諱を避けるため、「乱世」を「乱代」、「民心」を「人心」と呼び、また高宗李治の諱を避けるために、「政治」を「政理」と言い換えていたそうです。


張飛と曹操の関係について 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月18日(日)14時49分33秒

昨日、たまたま耳にして驚き、気になって調べてみましたが、内容は「なあんだ」というものでしたね。
ですが、コメントした沈伯俊氏が悪いとも言えなさそうです。私が見た限り、ここにあるむじんさんのご意見が最も妥当だと思えます。単に無知な新聞記者が暴走して特ダネ扱いしたという感じです。
http://bbs11.otd.co.jp/mujin/bbs_plain?base=821&range=1

ちなみに、私は沈説には懐疑的です。
沈氏が第一の根拠としているのは、裴松之所引の『魏略(別名『典略』)』の記述です。
ですが、この書物、信憑性のある記事もあることはありますが、劉禅の荒唐無稽な出生記事などもあるので、蜀漢人物関係の記事については眉唾物と見ておいた方が無難と思います(「全く信用できない」という強い言い方は、敢てここでは避けておきます)。

むしろ問題とすべきは、張飛の字は「益徳」であって「翼徳」でない、という部分の方でしょう。もちろん沈氏の言うように、正史の記述する「益徳」が正しいのですが。その理由として「何人かの人が、張飛の『飛』という名であったから、史書の記述を読まず、勝手に『益徳』を『翼徳』に変えたのだ」と言っていることです。これは研究者としては少し軽率な見解でしょう。
件の記者が、沈氏のコメントを勝手に削除したという可能性もあるので、これだけで沈氏を批判するべきではないかもしれません。
ですが、敢て言わせてもらいますと、発音の変化によって、元の頃「益」と「翼」の発音が同じになってしまい、両者が混用された可能性があるという理由の方を、「前提」として挙げておくべきだったと思います。

永一さまへ:
>張昭が「王朗とともに旧君の諱を避けることに関して議論をかわし」た
>ってのは、後世このような議論が発生するのを皮肉に予言したのだろーか。(^^;)

そうだったんですか〜 『三国志』見て確認しました。これは気付きませんでした。


>アバウトなほうを支持したいような…。

私もそう思います。例の陳寿についての見方は、穿ちすぎだったかもしれません。

>たしかに見るからに難しそうな面子ですね。

でもいいですよ、謝霊運の作品は。じっくり鑑賞してみると、かれの作品のすごさがわかります。また、いかにも貴族然とした「ゴージャス」な行動や「美」に対する執念のような物を感じさせるところがあって、非常に好きです。個人的に何となくロベール・ド・モンテスキュー伯爵を連想したりしています。
そういえば、井上祐美子の歴史小説に『柳絮』というのがありますが、あれには失望しました。というのも謝霊運のそういったところが全然出てこないんですから。暴走を許して頂いて言わせてもらいますが、私が編集者だったら「もっと文学史の基本を勉強しましょう」とコメントして、原稿を送り返したでしょう。それに無理矢理陶淵明(小説では「陶潜」と表記)を登場させて、史実と齟齬を来したりしてますし(有名な「五斗米」の逸話の解釈もデタラメすぎ)、陶淵明が「流麗な文章を書く」なんて書いているので「何だよこれ〜」と思いました。とにかく『世説新語』と正史の上っ面しか見ていないような薄っぺらい人物像には、大いに失望しました。まあ、彼女は基本的にファンタジーが本領なんでしょうね。

今回はここまでにします。謝霊運の作品については、書き込めるとしたら二月ぐらいになりそうです。それまでお忘れ無かったなら幸甚です。


避諱と史書 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月17日(土)21時57分31秒

ぜんぜん進まねえ
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/9761/088.html
ってことで、なにやら年表の隋のあたりいじってました。
隋文帝と煬帝って、煬帝のほうが派手なだけで、やってることはかなり似てる
んだけどなあ。宮殿造営して、運河掘って、高句麗で大勢死なせて。

>perdidoさま
>2年前の秋の【解体晋書】掲示板は、避諱ネタでもちきりでした。

自分も見てたと思いますが、すでに記憶の彼方です。

>李徳祐は、父の名が「吉甫」であったので、周瞻という人物との面会を、一月以上拒否した。

ここら極端というかやりすぎですよね。それじゃ身動き取れませんよ。
僕らは面白いで見てられるけど。
唐代あたりはことに煩雑な印象があります。

>古来の避諱の範囲は、「名前が二字で、うち一字が避諱に触れる場合は避諱しない」「読みが
>同じ場合は避諱しない」ということのようです。

本来、そのくらいの緩やかなもののハズですよね。
なんでやたら細かく言い出したものやら。
どのような思想も末流になるほど教条的になるってケースかな。

>諱をつける際の「六避」というものがあったそうです。

ああ、それでも充分面倒ですわ。
陳舜臣さんが体験談としてどっかに書かれてたけど、
命名のときには、家系図引っ張り出してご先祖様とダブらないようにするんだ、と。
親の名前の一字継承とかやってる日本人は気楽ですわ。

「四、疾病」なんか、いけないというけど、
霍去病とか劉病已(漢宣帝の本名)とか、堂々と「病」がついてますし。
もちろん「病を去る」とか「病が已む」とか、ネガティブなものの否定としての
命名ですけど。

>ともかく、陳寿の本文のほうはどうなんでしょうね。

陳寿『三国志』「呉書」の張顧諸葛歩伝弟七の本文は、
「張昭は、字を子布といい」からはじまって、
昭、昭の連呼です。
張昭が「王朗とともに旧君の諱を避けることに関して議論をかわし」た
ってのは、後世このような議論が発生するのを皮肉に予言したのだろーか。(^^;)

>李世民の「民」の字を避諱して一画書かない例とか挙げてあります。

異体字でごまかすってのはありますよね。
というか、世とか民とか律儀に避字してたらやってられんですよね。

>殷景仁さま
>手始めに「元嘉三大家」と呼ばれた、謝霊運・鮑照・顔延之らの作品を概観してみましたが、
>感想を述べさせてもらいますと「難しい〜」の一言に尽きます。

たしかに見るからに難しそうな面子ですね。
松枝茂夫編『中国名詩選・中』(岩波)とか見ても、頭痛くなりそうな人たち。
曹操とか陶淵明とか李白とかは、分かりやすいのがいいです。(^^;)
ハマったら難しいのも面白いのかもしれないけれども。

>もう一つ考えられる原因は、「史家としての立場」と「現実」との妥協によるのではないので
>しょうか。

陳寿の「史家としての立場」と「現実」への配慮のバランスも面白いですよね。
魏の帝が亡くなると「崩」、蜀主が亡くなると「殂」、呉主が亡くなると「薨」
って差別がなんともいえないですし。
蜀主は「先主」・「後主」で、呉主は諱を呼び捨てという。

>陳寿は『魏書』では、「司馬宣王」「司馬景王」「司馬昭王」という表記を用いています。

司馬昭は司馬文王ですよね。
三少帝紀には「中撫軍の司馬炎を撫軍大将軍とした」とかあったり。
アバウトなほうを支持したいような…。

『晋書』などは、その点かなり厳格な感じですね。
逆に通鑑などは避諱なんて存在しないんじゃないかと思うほど史家寄りで。


避諱ネタは続く... 投稿者:perdido  投稿日: 1月16日(金)18時46分57秒

殷景仁さま

三国時代や陳寿の避諱の情報本当にありがとうございます。
それから偉(人偏なし)曜の件、コピペが残ってしまいすみません。
あと避諱には一画を書かないとかあったようですが小学館『新選漢和辞典』の巻末付録に太宗李世民の「民」の字を避諱して一画書かない例とか挙げてあります。この付録は知る人ぞ知るもので便利なようです。今職場にあってほかの例が確認できませんが図書館でこの辞典がおいてあれば確認できると思います。  
司馬丘明さんのHPに諱をつける際の「六避」の件ですが、ほぼ同じことが『礼記』曲礼に載っていました。
 名子者、不以国、不以日月、不以隠疾、不以山川。(曲礼上第一)
 不敢與世子同名(曲礼下第二)


避諱のつづき(追記) 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月16日(金)09時30分19秒

石崇の「王明君詞」序文を改めて見てみましたが、「王明君なる者は、元々王昭君という。文帝の諱に触れるので
これを改めた」と書いてあるのにもかかわらず、その序文中でさえ、「(前漢の)元帝、後宮の良家の子 昭君
を以てこれに配す」とあったり、「其の明君を送るにも、亦た必ず爾る」とあったりで、「昭」
と「明」の字が
混用されていたりします。

やはり晋代は、避諱の制度は後世に比べて相当アバウトだったようです。


さらに避諱のつづき 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月16日(金)08時54分23秒

>perdidoさんへ
台湾中央研究院の電子検索を使って調べてみましたが、やはり陳寿は「懿」の字も
避けていませんでした。本文でちゃんと使っています。『蜀書』に至っては、地の文で
「司馬懿」とさえ表記しています。

なぜ『三国志』の作者陳寿は、避諱にこだわらなかったのか。
perdidoさんのように、当時はまだアバウトだったとも考えられますが、
もう一つ考えられる原因は、「史家として立場」と「現実」との妥協によるのではないのでしょうか。
それが証拠に陳寿は『魏書』では、「司馬宣王」「司馬景王」「司馬昭王」という表記を用いています。
史実から見れば、司馬懿と司馬師は「王」にすらなっていません。
しかし晋朝に生きる身としては、彼らを「司馬懿」「司馬師」と表記するわけにはいかないでしょう。
かといって、史家としての立場からは、王にすらなっていない人物を「帝」と称するのは抵抗がある。
そこで『魏書』では「王」という妥協的表記を用いたのではないのでしょうか。
そして「王」であって「帝」でない人物は避諱する必要はない。
避諱に対するこのような行為に、陳寿としてのギリギリの選択が見えるように思います。

あと、もと蜀漢の人として、司馬懿らを「帝」と表記するのに抵抗があったのかもしれませんね。
この前挙げた石崇は、父の代から晋朝に仕えておりますが、こちらは「王明君詞」序文でも、
司馬昭を「文帝」と表記しています。

避諱にかんしても、このように深読みすると、個々人の立場の違いが現れているようで面白いものですね。


避諱のつづき 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月15日(木)22時49分56秒

>perdidoさまへ
>陳寿の本文のほうはどうなんでしょうね。

『呉書』「薛綜伝」に引用される華覈の上疏文に以下のような記述があります。
…至少帝時、更差韋曜・周昭・薛瑩・梁広及臣五人…

陳寿の本文自体がこのように「韋曜」と「周昭」とを並記していますので、
おそらく避諱していなかったと見る方が、妥当ではないでしょうか。


文字化け理由のご教示のお礼と現在の状況について 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月15日(木)22時32分12秒

>永一さま
>この掲示板、タグ文字をブラウザ上でまんまコピペすると化けますんで。
>タグ文字は正規表現(半角で琨とか)しか受けつけません。

了解しました。これからは気を付けます。それとご教示ありがとうございます。

さて、予告通りの約束を果たそうと、現在謝霊運らの六朝詩人達の作品を見ております。
手始めに「元嘉三大家」と呼ばれた、謝霊運・鮑照・顔延之らの作品を概観してみましたが、
感想を述べさせてもらいますと「難しい〜」の一言に尽きます。

でも、謝霊運はまだましといえましょう、残る二人は本当に難解です。
特に鮑照の場合、新語・造語とおぼしき語句が頻出するので、有名作品でも、本当のところ
どういう意味であるのか、すべてを正確に理解するのは困難といえる作品ばかりです。
杜甫が尊敬するためか、割と有名詩人ではありますが、うっかり手を出すと、痛い目に
遭いそうです。顔延之の方は、典故をやたらと多用するので、その方面では難しいのですが、
却って『文選』李善注などを頼りに「調べればわかる」という所があります(面白いかは
別ですが)。
あれやこれやで、次回はだいぶ時間がかかりそうです。それまで気長にお待ち下さい。

ところでこのシリーズ、永一さまの他にも、太白さまが興味を示されてくださったようですので、
こちらとしても嬉しい限りです。

そのほかの方も、何かお気づきの点がございましたら、感想程度のコメントでも結構ですので、
お気軽に書き込みをしてくだされば幸甚です。


ひさびさの避諱つづき 投稿者:perdido  投稿日: 1月15日(木)20時04分37秒

校正してからカキコしようと思って誤っていっぺんにペーストしてしまいました。
>『三国志』で、「張昭」なども、「司馬昭」の諱をおかしていたりしますよね。

この疑問が解けました。本当にアバウトだったのか?

>裴松之(劉宋の人、正史『三国志』注釈家)の注釈の中でも、最大級のチョンボだと思っ>ています。

>これを書いたとき、呉の「張昭」の存在をどうも裴松之は忘れていたようです。

疑問なのは、裴松之が劉宋の人なら、帝室の皇帝などの諱として「昭」の字を避ける必要はなかったはずだとおもいます。ともかく、陳寿の本文のほうはどうなんでしょうね。
正史『三国志』の本文読む気がないので言いっぱなしになりそうですみません。


銭大キンは、他にも『三国志』中、「昭」を避諱していない人物を挙げており、
韋昭には、もともと「韋曜」という別名があったのだろうと推測しています。
恐らくそうなのでしょう。


ひさびさの避諱 投稿者:perdido  投稿日: 1月15日(木)19時35分56秒

あけましておめでとうございます。みなさんの勉強ぶりに感心しながらROMしてました。
実は、光璧さんは、当然、NAGAICHIさんもご存知かもしれませんが2年前の秋の【解体晋書】掲示板は、避諱ネタでもちきりでした。
『晋書』は唐代に書かれたので、大きな話題になったんです。唐代の人々の避諱の感覚は、度を過ぎると思われるほど厳しかったようです。
例えば、唐代の詩人の李賀は科挙の進士科の進と父の名前晋粛の晋の字が
同音であることから、科挙試験の際非難されたという話とか、
【解体晋書】掲示板で、一昨年の10月26日にhermaさんが紹介している話を引用すると、

植木久行『唐詩物語』(大修館書店、あじあブックス)には、

賈曽は、父親の名が「忠」であったので、「中書舎人」に任命された時、当初、就任を固辞した。

李徳祐は、父の名が「吉甫」であったので、周瞻という人物との面会を、一月以上拒否した。理由は、「周」の
字の中に、「吉」の字が含まれていたからであった。

唐代、試験問題に受験者の家諱に触れる文字が出る時は、急病を理由に早退するのが習慣であった。
という例があっとそうです。
古来の避諱の範囲は、「名前が二字で、うち一字が避諱に触れる場合は避諱しない」「読みが同じ場合は避諱しない」ということのようです。『礼記』に書かれているそうですがまだ確認していません。

避諱で印象深かったのは、『晋書』載記の名称で、劉淵の諱を避けて「劉元海」にするのはすぐ理解できたのですが、なぜ石虎の諱を避けて「石季龍」にするのか理解できなかったのです。高祖李淵の父が李虎だと知ってからようやく理解できました。
 
ちなみに、姓については、漢の宣帝の諱[言旬]を避けて、荀子が「孫卿」になったりとか、後漢の明帝の諱荘を避けて荘子が「厳子」になったりとかあるようです。 
 ですから、もしかしてとっくにご存知かもしれませんが、司馬丘明さんのHPに諱をつける際の「六避」というものがあったそうです。つまり、諱にこの字を使ってはいけないという話です。
 要約すると
一、自国名 
二、官名 
は、変更しなければならなくなるから
三、山川 
避諱により名前を変更すると祭祀に支障をきたすから。
(以下五、畜類 六、器幣も同じ。) 
四、疾病 
そもそも縁起が悪いから。
>三国志の中で、「師纂」の姓の「師」は司馬師の諱の「師」に被ってるなあ、とふと思いましたもので。

『三国志』では、そのほかにも、「張昭」なども、「司馬昭」の諱をおかしていたりしますよね。
あくまで私見ですが、『三国志』においては、避諱はかなりアバウトなところがあるのではないでしょうか。


曹操の詩と避諱 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月14日(水)00時29分1秒

>殷景仁さま
すみません。お手数取らしまして。
この掲示板、タグ文字をブラウザ上でまんまコピペすると化けますんで。
タグ文字は正規表現(半角で琨とか)しか受けつけません。
中国ネタ扱うには、ダメな掲示板だよなあ…。
以前使ってたOTDの板はコピペできたんですけどね。

>曹操の詩
>すなわち「あまりに個性的すぎた」とお考えください。

曹操の詩って、アルカイックですもんねえ。
うったえる感情も直裁的だし、表現も直球だし。

>曹操の詩を彼らと同列に評価するというのは、かなり特殊な評価と申せましょうか。

曹操の詩が陶淵明・鮑照・謝朓らと同レベルとは、すごいですね。
極端といや極端ですが、再評価の過程で出てくる突飛な意見ってのはやはり
面白いです。

>そして(五言)詩において、鍾エがもっとも重視するのは「風力(骨気・気力)」という
>概念です。

曹操の詩にも、「風力」はあるんでしょうけど、やはり↓のように。

>しかし、いかに鍾エが詩の「風力」を重んじたとしても、やはり「文(ここでは「修辞の
>華麗さ」を意味します)」を重視する、当時の文学観の限界を否定できないところも存在
>するのです。そして、「修辞の華麗さ」という点では、曹操の詩は、あまりに表現がスト
>レート(荒削り)過ぎると判断されたゆえに、「下品」に分類されてしまったとみるべき
>ではないでしょうか。

むむ、残念です。

>陶淵明でさえ「中品」に入れるのにも、このような言い訳が必要だったとするならば、

おっしゃるとおり、参考として頭に置いときますが。
再評価の努力をしつつも、評価が時代に制約されてしまうという、
苦労をしのばせる話ですねえ。
そう言う話は、最近でもよくあったはずです。

>避諱
>「君主の諱を避ける(忌諱)」に次のような記述があり、気になりましたので
>ここに指摘しておきます。

ご指摘ありがとうございます。
近いうちに追記・訂正させていただきます。

>これを書いたとき、呉の「張昭」の存在をどうも裴松之は忘れていたようです。
>銭大キンは、他にも『三国志』中、「昭」を避諱していない人物を挙げており、
>韋昭には、もともと「韋曜」という別名があったのだろうと推測しています。

さすが清朝考証学…というか、
言われてみれば、あ、なんだ、という感じではありますが。
僕も全く思いいたりませんでした。
ちくま『正史三国志』でもよく見ると訳者の注記が見えますね。(8巻P196)
『二十二史考異』は、僕もほしい本ではあるんですが。

>例えば、西晋の石崇の楽府に「王明君詞」というのがありますが、これは「王昭君」の
>「昭」を、司馬昭の諱を避けてこうなっているのです。

避諱って、罪つくりですねえ。後世からみると面白い挿話満載ですけど。
漢高祖劉邦のせいで、相邦が相国になったとかいうし。
某通鑑がらみで『晋書』戴記とか見ながら、劉元海とか石季龍とか、そこだけ
不自然な字表記を見ると、苦労してるなあと思います。
世間の迷惑にならないように、皇帝になる人は命名には日常用いられない漢字
を使ったとか。でも皇帝になる予定のなかった人とか、あとから追尊された人
じゃ、どうにもならないし。


避諱について補足です 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月12日(月)18時04分50秒

永一様へ:

先の書き込みで「裴松之の大チョンボ」と書きましたが、今、重大なことを思い出しましたので急ぎ書き込みます。

正史『三国志』では「昭」を別に避けていないという、清の銭大キンの指摘は恐らく正しいでしょう。けれども、西晋の時代に「司馬昭」の避諱が全くなかったかといいますと、それも違います。

例えば、西晋の石崇の楽府に「王明君詞」というのがありますが、これは「王昭君」の「昭」を、司馬昭の諱を避けてこうなっているのです。

こちらの方を忘れておりました。取り急ぎお詫び申し上げます。


ありがとうございました 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月12日(月)07時47分52秒

永一様へ:

文字化けした投稿、削除してくださいまして、ありがとうございました。
おかげでずいぶん見やすくなっております。

感謝の言葉を述べた後に、このようなことを指摘するのは恐縮ですが…
「枕流亭こらむ」の「中国の歴史人物の呼び名について」の中で、
「君主の諱を避ける(忌諱)」に次のような記述があり、気になりましたので
ここに指摘しておきます。

陳寿の正史『三国志』の中に、呉の韋曜という人物が出てきますが、本当の名前は韋昭ということが分かっています。なぜ韋曜に変えられたかというと、『三国志』が書かれたのは晋の時代なので、晋の文帝・司馬昭の諱を避けるためだったのです。

実はこれは(既に清の銭大キンが指摘するところですが)裴松之(劉宋の人、
正史『三国志』注釈家)の注釈の中でも、最大級のチョンボだと思っています。

これを書いたとき、呉の「張昭」の存在をどうも裴松之は忘れていたようです。
銭大キンは、他にも『三国志』中、「昭」を避諱していない人物を挙げており、
韋昭には、もともと「韋曜」という別名があったのだろうと推測しています。
恐らくそうなのでしょう。

済みませんでした。


曹操の詩について(其の七) 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月11日(日)12時15分18秒

もう一つ、傍証として、『詩品』の陶淵明評「宋徴士陶潜詩(中品)」を具体例としてあげときましょう。

「其の源は応キョに出で、又た左思の風力に協(かな)う。文体 省静にして、殆ど長語無し。篤意 真古にして、辞興 婉キョウなり。其の文を観る毎に、其の人徳を想う。世、其の質直を歎ず。『歓言し春酒を酌む』、『日暮れて天に雲無し』が如きに至りては、風華にして清靡、豈に直(た)だ田家の語と為すのみならんや。古来隠逸詩人の宗なり。」

「真古」「質直」というように、当時の文学観から言えばマイナス要素と取られかねない評語がみられます。さらに個人的に気になるのは、「世、其の質直を歎ず」という文章です。この「歎」の字について、「感嘆する」という解釈と、それとまったく逆に「嘆く」と取る、二通りの解釈があります。私見を述べさせてもらいますと、ここでは後者の「嘆く」の意味の方がいいような気がします。そうすると、(訓読ではわかりにくいですが)その直後に「至如〜〜」という「上文に述べた事柄を大きく屈折させる時の表現(高木正一『鍾エ詩品』東海大学出版局より、ただし高木先生は「歎」の字を「感嘆する」の意味に取っておられますが…)」が、より生きてくるように思われるからです。さらに、続く「豈に直(た)だ田家の語と為すのみならんや」という評価も、鍾エ独自の強い主張として見なせる利点があるように思われます。つまりここで鍾エは、「野暮ったい」というような、陶淵明の詩に対する世間一般のマイナス評価に対し、「でも、陶淵明の詩句にも、〜〜のような、洗練された句だってあるのですよ。ですからただの『田舎親爺の詩』とみなすわけにはいきません」と弁護して、彼を「中品」に置いた言い訳をしているだと、私は思っています(この点については、まだなお検討の余地がありますので、ご参考までに留めておいてください)。

陶淵明でさえ「中品」に入れるのにも、このような言い訳が必要だったとするならば、曹操の詩においてはどうでしょう。やはり、とても彼を上の方には置けなかったとみるべきではないでしょうか。

ずいぶん長くなってしまい、お付合いいただいた方には、どうも済みませんでした。次回こそは予告通りに、謝霊運等の山水描写について書いてみたいと思います。

それと、上の文章について何かお気づきの方、どんな些細なことでもよろしいですから、ご指摘お願いいたします。


曹操の詩について(其の六) 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月11日(日)11時57分39秒

実を言いますと、『詩品』の撰者、鍾エの文学観にも、南朝後期の主流だった文学観とは異なる点がまま見られます。当時を代表した詩の声律・形式美を重視する、沈約・謝朓らの「永明派」の詩風を、彼は批判しており、その意味では結構大胆な文学観の持ち主だったといえましょう。そして(五言)詩において、鍾エがもっとも重視するのは「風力(骨気・気力)」という概念です。詳しく述べると難しいのですが、ここではとりあえず「文学作品における、読者の心を動かす気迫・力強さ(それを支える構成力)」のようなものであるとお考えください。「現在流行している詩には、本来あるべきそうした力強さに欠ける」と考えていたところが、どうも鍾エにはあったようです。

例えば、(五言詩に評価を限ったところもありますが)、「建安七子」の筆頭に、通常置かれるべき王粲ではなく、劉驍置いたというのも、詩の「風力」を重視する、鍾エ独自の文学観が影響したとみていいでしょう。「曹(植)・劉(驕jは殆ど文章の聖」(「序文」より)、「貞(ただ)しき骨は霜を凌ぎ、高き風は俗を跨(しの)ぐ」(「上品」劉髟]より)、「故に孔子の門、如(も)し詩を用うれば、則ち公幹(劉驕jは堂に升り、思王(曹植)は室に入る。」(「上品」曹植評より)、という記述からも、その姿勢はうかがえます。

しかし、いかに鍾エが詩の「風力」を重んじたとしても、やはり「文(ここでは「修辞の華麗さ」を意味します)」を重視する、当時の文学観の限界を否定できないところも存在するのです。そして、「修辞の華麗さ」という点では、曹操の詩は、あまりに表現がストレート(荒削り)過ぎると判断されたゆえに、「下品」に分類されてしまったとみるべきではないでしょうか。それが証拠に、「三祖の詩は、文或いは工(たく)みならざれど…」(「序文」より)という記述があります。さらに(後述しようと思いますが)緻密な表現で定評ある謝霊運を鍾エは「上品」に置いております。そこからは、いかに「風力」重視の鍾エといえども、「文(文彩)」を無視するわけにはいかなかった、という姿勢がうかがえるように思われます。ちなみに、息子の曹植は、「骨気は奇高たり、詞彩は華茂なり」と、「骨気」と「文彩」の両方を備えた存在として、「上品」中でも最高の評価(「陳思(曹植)の文章に於けるや、人倫の周(公)・孔(子)有り。」)が下されています。


曹操の詩について(其の五) 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月11日(日)11時56分13秒

永一さんへ:

前回の予告を変更し、以下にあげる永一さんのご質問に対し、取り急ぎご返答申し上げます。先にこのご質問に答えた方が、曹操の詩と後世の六朝詩との詩風の比較が理解しやすくなるかもしれない。そう思いましたので、以下に思うところを書き記させてもらう次第です。「がんがんやっちゃって下さい。僕も勉強させていただきます。」という永一さんのお言葉に甘え、これもかなり長いものになると思われるので、その点についてはご容赦ください。

>しかし曹操の詩が梁代に下品に分類されたのは、その個性ゆえでしょうか、
>没個性ゆえでしょうか。

結論から先に述べさせてもらいますと、前者が当てはまります。すなわち「あまりに個性的すぎた」とお考えください。ただし、永一さまは「梁代に」と書かれていますが、「『詩品』の鍾エが下品に分類した」とする方が、より正確と申せましょう。といいますのも、鍾エは評価の対象を、あくまで「五言詩」というジャンルに限定していますし(とはいえ、現存する曹操の五言詩は少ないので、彼の雑言詩・四言詩も参照する必要はありますが…)、この時代、他にも曹操に対する批評が、いくつか存在するからです。

曹操の詩の評価は、時代が下るにつれて、非常に高くなってきています。例としてあげますと、明の王世貞は、「曹公、下に屈第するは、尤も公ならざると為す。(『藝苑巵語』巻三より)」と主張しています。さらに清の「神韻説」の領袖、王漁洋に至っては、その著書『漁洋詩話』巻下の中で、曹操(下品)・劉琨・郭璞・陶淵明・鮑照・江淹・謝朓(中品)らの詩人を「宜しく上品に在るべし」とまで主張しているのです。陶淵明・鮑照・謝朓は、既に蘇東坡(陶淵明)・杜甫(鮑照)・李白(謝朓)がそれぞれを高く評価しているので、妥当なところでしょうが、曹操の詩を彼らと同列に評価するというのは、かなり特殊な評価と申せましょうか。


いいなあ 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月11日(日)08時04分19秒

>お客さま?
管理人です。初めまして。
いのししさんの「太白遺風」ですが、うちも昔リンクしてたのですが、現在行方不明です。
検索してみましたが、どこもリンク切ればかりですね。




話の脈絡はないですが、
いやあ、いいなあ。
http://www.ufo.org.tw/study/fk22.htm
「UFO五千年史-----中国古書の中の不明飛行物体の記録」
こういうの大好きです。

自動翻訳したらもっといいかも


初めまして 投稿者:  投稿日: 1月11日(日)00時34分15秒

突然、お邪魔してすみませんが、
以前『太白遺風』というサイトがあったと思うのですが、
どうなってしまったかご存知ありませんか?


こういうのが僕の哀情 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月10日(土)22時56分24秒

冬はあまりものが腐らないけど、油断してるとカビが発生しますね。
放っといたら餅が黴びるわ、干し芋黴びるわ、ああもったいねー。
黴びないのはお酒だけよ。(^^;)

>殷景仁さま
>「詩人の個性」というものが強調されてしまう現代の文学観(芸術観)が大きな原因と
>なっているのではないのでしょうか。

詩人の個性に注目されるのはいいんですが、そればっかりになってしまうと
見失われてしまうものもありそうですね。
やむなきことでしょうか。
しかし曹操の詩が梁代に下品に分類されたのは、その個性ゆえでしょうか、
没個性ゆえでしょうか。

>1:興膳宏編『六朝詩人群像』

これはうちの市立図書館にもあったくらいですから、まあ手頃でしょうね。
『六朝詩人傳』のほうは、『しにか』で宣伝打ってたけど、ちょっと懐具
合が…と言いたくなる本ですが。

>2:白川静『中国の古代文学(二)―史記から陶淵明へ』

いつでも買えると思って買ってない本の代表みたいな本ですね。
白川ワールドも『孔子伝』以来読んでないなあ。

>次回は、曹操の「観滄海」と、六朝の謝霊運などの山水詩などに見られる自然描写の
>違いなどについて、思うところを述べてみたいと思います。

がんがんやっちゃって下さい。
僕も勉強させていただきます。

>太白さま
こちら、一月第二週はどうもひどい週だったみたいですけど。
女の子いない、年賀消えない、一般信も仕事始めのあとでドサッと。
 ─  ─  ┘└
 ─  ─  ┐┌
ということで通常モードにもどります。(って、何が変わるんだか)
なにはともあれ(-_-;)、今年もよろしくお願いします。


曹操の詩 投稿者:太白  投稿日: 1月 7日(水)20時02分36秒

年は明けてるんだけど、月が変わった程度の感覚しかないなぁ・・・(−−;)

>永一さん
年始より日が経ち、そろそろお仕事の面では一息つけそうな時期でしょうかね?
なにはともあれ、本年もどうぞ宜しくお願い致します。

>殷景仁さん
いつも為になります。やはり、曹操の生きた時代イコール後漢末の騒乱期であるわけで、
後世から見れば、「乱世の英雄(姦雄)」というイメージで固定されているんでしょうね。
詩を詩として独立して鑑賞してみれば「詩人曹操」がちゃんと見えてくるのかもしれません。

やっぱり、この後漢〜三国時代は諸葛亮と曹操が一番複雑ですね。
固定されたイメージがある反面、その実像は余り知られていないっていう。


曹操の詩について(その四) 投稿者:殷景仁  投稿日: 1月 7日(水)08時58分30秒

いささかしつこいですが、曹操の詩についてもう少し述べさせてもらいます。

>ただ曹操の詩に、庶民的哀情やら神仙思想やらが出てくるのは、
>「曹操の詩=雄壮」といった理解では言い尽くせないんで、

こうした思想というものは、それ以前の「古楽府」や「古詩十九首」にも共有されるところですので、「詩人の個性」というものが強調されてしまう現代の文学観(芸術観)が大きな原因となっているのではないのでしょうか。

ちなみに、前に述べました「人生有限」の認識を詠った詩は、戦国末〜前漢頃に成立した「薤露」「蒿里」という楽府詩に既に現れております。そうした認識からどのような態度をとるか、というのが後世の中国古典詩歌のテーマの一つかもしれません。

>有名な「短歌行」や「亀雖寿」は、曹操の英雄らしさが垣間見れますものね。
>兵士の悲しみを唱ったような詩はあまり有名でない。(-_-;)

先に述べたのと同様ですが、このような戦乱における兵士・庶民の苦しみ悲しみを詠った詩が有名になれないのは、他の「建安七子」らの作品にも同様の作品が存在し、曹操の詩の独自性というものが、相対的に弱いからではないでしょうか。

例としては、王粲の「七哀詩其一」「従軍行」、左延年「従軍行」、陳琳「飲馬長城窟行」、阮瑀「駕出北郭門行」などが挙げられます。

やはり他の詩人と違って、曹操という人物が、最高権力者で、なおかつ抜群の業績を上げた人物であったという点は大きいと思います。詩においても、こうした最高権力者(為政者)としての気概を述べた箇所に、後世の文学者(研究家)たちの注意が向いてしまうのは、やむを得ないことかもしれません。

なお、参考にした文献のうち、入手しやすいものを挙げておきます。興味をお持ちになりましたら、ご覧になってください。

1:興膳宏編『六朝詩人群像』(大修館書店あじあブックス。値段は手頃で、この時代の詩人達を知るのに打ってつけです。ただし「しにか」の連載物であったせいか、詩人それぞれの見解については、執筆者と興膳先生との間にずれが見られますし、記述にやや不正確な面が見られます。より詳しくは、興膳宏編『六朝詩人伝』(大修館書店)の方をご参照下さい。)

2:白川静『中国の古代文学(二)―史記から陶淵明へ』(中公文庫、神仙思想や歴史的背景から文学者の文学意識をとらえようとする意欲的試み。ただ個人的には、文学のとらえ方や見方に関しては、異論があります。)

次回は、曹操の「観滄海」と、六朝の謝霊運などの山水詩などに見られる自然描写の違いなどについて、思うところを述べてみたいと思います。しつこいですが、それでも付き合ってくだされば幸甚です。


冷や汗;出まくり 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月 6日(火)22時35分35秒

>むじんさま
>うちの更新が早いのは、草稿段階でどんどん表に出しているせいもあると思います。

うちも人物事典なんかはそういうスタンスですが、
通鑑翻訳は下訳がまとまった時点で出してるものでねえ。

>あとは方々にリンクを張ることも重要な更新作業の一つです。

むじんさんとこは漢籍翻訳のポータルなわけで、それは重要ですね。
僕たちはシャイなんだ〜といいつつ、すごい精力的だなあと見てるんですが。

うちも枕流亭をはじめたころは、人様の迷惑かえりみず宣伝打ちに出かけてた
ものですが。(懐旧)
春秋を経るにつき、腰が据わっちゃってなかなか。
ぼかぁホントに人見知りのシャイなんです。それ以上に面倒くさがりなんです

>『資治通鑑』の場合は、通鑑と正史と最低テキスト2冊は必要になるので、

2冊いるのかな?
通鑑晋紀翻訳に手をつけはじめたとき、『晋書』持ってなかったような。(爆)
いまは家にありますけどね。(-_-;)
通鑑の文章は聞くところによると、平易らしい(自分でやってるくせに伝聞型)ので、
敷居高くないよ〜!とフォロー。

>光璧さま
おめでとうございます。

>でも、便利なんですよね(^^;)

そうなんです。ええ、特に作ってる本人にとって。(^^;)
某リンクもそうなんですが、
アンテナがこんなに役に立つとは思わなかった。

>google だと内容が文字化けして、検索でヒットし難くなってしまうので、

そっか、METAタグのcharset定義って、そういう役に立つんですね。
ファイル軽くするためだけに、いらないと判断したタグをがんがん捨ててた時期が
あるので、僕のHTML理解はそうとう歪んでます。
どうもありがとうございます。早速試してます。

>KJさま
いらっしゃいませ。
KJさんの「三国検索」には注目してますよ。
今後ともよろしくお願いします。

>鹿角さま
陳さんの日本史物…未読ですが。
太平記の人物を中国にたとえるとは、陳さんならではですね。力技だ。
ガラシャ夫人(玉子さんですか)も、
明智がらみで離縁されたり、洗礼受けたり、石田方に人質にされたり、
数奇な運命たどった人ですねえ。

北宋風雲伝は単行本でチェックしてるんで、雑誌はどうなってるのか
知らないんですが、7巻の展開からしてそーなるんでしょうねえ。
仁宗がとてもいい人…もともと仁孝寛裕な人らしいから、って意味ちがう。

しかし郭皇后…ああ見てはいけないのに中央研究院『宋史』見ちゃったよ。
この展開ではまもなく曹氏が出てくるんでしょうね。


今月の 投稿者:鹿角  投稿日: 1月 6日(火)13時54分15秒

北宋風雲伝は必読です
仁宗がとてもいい人になってて
郭皇后に初めからやり直そうと
語り掛けるシーンはじーんときます

両替機で100円いれたら
600円になりました(-_-;)
さすがに運転手さんに
500円返しました


山河太平記と人物 日本史記 投稿者:鹿角  投稿日: 1月 6日(火)09時14分0秒

意外なことに陳さんの日本史物
尊氏は宋の太祖に似てるとか
新田には人望がないとかの指摘は意外
元がそうだから仕方ないけど
中国史からの引用が多いです
南北朝が中国と違うのは
民族対立がないから深刻にならなかったのだそうで・・・

日本史記の方は鑑真とガラシャがでていて
鑑真は玄宗のことをかなり意識してます
ガラシャの方は忠興の描き方が従来と同じ(T_T)
嫉妬深い夫なのがちょっと・・・
以前私が読んだ永井さんと杉本さんの対談で
「彼女がキリシタンだとばれたら
細川家はぶじではいられないから
御家安泰のためにしたのだ」という
指摘があったので「一理ある」と思った物ですから


こんにちは 投稿者:KJ  投稿日: 1月 6日(火)00時16分9秒

こちらでははじめまして。KJと申します。
NAGAICHIさんのサイトはこちらだったのですね。
まずはご挨拶まで。
今後ともよろしくお願い致します。


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