枕流亭総合掲示板過去ログ34(2004年1月25日〜2004年2月17日)



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上官桀って 投稿者:怨霊  投稿日: 2月17日(火)23時28分43秒

上官桀ですが、ご存知かもしれませんが、
大宛攻めに参加していたり、
漢書趙充国辛慶忌伝賛では山西の生んだ武人として名を残していたりと、
意外なところで名前を見ることのある人物です。
(同姓同名の別人の可能性もありますが。
 前漢では王莽とか京房とか張禹とか意外と有名人に同姓同名が多いし)


頓首叩頭 投稿者:two_yossy  投稿日: 2月17日(火)22時51分32秒

>怨霊さま・永一さま
>上官桀の字は「少叔」です。
>『漢書』卷五十四 列伝第二十四 中華書局版p2459
 叩頭して謝し奉ります。
 飛将軍の附伝の李陵伝に出ていたとは!!! 痛恨でございます。上官桀は反逆者ですから、冷遇されているわけで、字などまともに書かれていないのですけれど、よもや李陵と誼みがあって、かの人を朔方から呼び寄せようとしていたとは。この箇所を読んでいると、中島 敦の「李陵」が思い出されて、思わずしんみりとしてしまうのですけれども、いま慌てて作品中のこの箇所を見てビックリ!! 「その時任立政が陵に向って言う。漢では今や大赦令が降り万民は太平の仁政を楽しんでいる。新帝は未だ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟・上官少叔が主上を輔けて天下の事を用いることとなったと」と(「中島敦全集 3」ちくま文庫)。「李陵」は生原稿の写しまで持っているのに...。脳細胞死んでます。
 「霍光・金日テイ伝」ばかりに目が向いておりました。いま改めて史記の「李将軍列伝」漢書の「李広・蘇建伝」を読んで、李一族の不遇に涙したのをもって贖罪したいと思います(なんのこっちゃ)。ときに上官桀の野郎め、名は「桀」なんて勇ましいクセに、字は「少叔」とは可愛らしいヤツ。長男ではないんですね。
 欧陽生のほうは、自分は漢書「芸文志」、隋書「経籍志」、王劭「風俗通」、張華「博物志」、崔豹「古今注」、芸文類聚、孫星衍「尚書今古文注疏」序、皮錫瑞「今文尚書考証」凡例などを当たってみた(つもり)なのですが...。史記に「欧陽生」と書かれ、漢書でも名を記されなかったため、以降の正史でもずうっと「生」呼ばわり。それともなにかの「忌避」? まあそんなことはないでしょうが。唐宋代の類書にでも当たらないとダメですかね。


私白玉のほんとの諱??? 投稿者:perdido  投稿日: 2月17日(火)22時26分2秒

NAGAICHIさま>
張白玉は、宣帝が民間にいたときの名前で、第1巻では、はじめから劉詢になっています。バカ殿昌邑王賀も昭帝も詢と呼んでいる。

加藤四季さんは、病已を幼名として認識しておられるようです(『お嬢さまと私』第1巻「がとうじきのページ」参照)


取り急ぎ 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 2月17日(火)19時49分46秒

>殷景仁さま
>両名の著書が指摘しているのは「そのような呼び方を中国人はしない」
>ということです。

人物の呼び名についてのコラムのところですね。
これは僕が
「口語においても文語においても決してしません。」
とまで書いてしまったので、
指摘により文語ではこういう例がありましたということで
追記訂正したところです。
これは僕の誤りであって、高島俊男・田中芳樹両氏の誤りではないのは
おっしゃるとおりです。m(_ _)m

>two_yossyさま
うちの掲示板、質問はOKですよ。
学生さんの宿題のお手伝いとかは蹴ってますけど。(^^;)
検索かけてみました。
『漢書』卷五十四 列伝第二十四 中華書局版p2459
の顔師古注に「子孟,光之字;少叔,桀之字也。」
とあります。
ということで、上官桀の字は「少叔」ではないでしょうか?

欧陽生はちょっと分からないですね。


字はわかりますが 投稿者:怨霊  投稿日: 2月17日(火)19時29分1秒

>永一さま
おっと、宣帝の詔は既出の話でしたか。失礼しました。

>two_yossyさま
上官桀の字は「少叔」です。漢書李陵伝に出てきます。
欧陽生の名「容」の典拠については私もわかりません。
とりあえず漢書補注にはなかったですね。書経の注にでも書いてあるのでしょうか?


名無し? 投稿者:two_yossy  投稿日: 2月17日(火)10時19分28秒

唐突ですが、質問してもよろしいですか?
前漢の外戚で左将軍の「上官桀」の字(あざな)をご存知の方いらっしゃいませんか。それと、こっちはちょいとマイナーですが、尚書博士「欧陽生」の名を調べています。一説には(小竹訳「漢書」の注)「容」ということらしいのですが、出典不明...本当でしょうか。


こちらもそろそろ煮詰まってきました 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月17日(火)09時08分25秒

永一さまへ:

>避諱話も煮詰まってきた感じがします。
>まじめにやるなら影印本や和刻本も参照しないとダメですね。
>うーん、自分のレベルでは厳しくなってきた。

わたしのレベルでも厳しくなってきています。手持ちの中華書局版、或いはデータベースの
『二十四史』では、そろそろもうという気がしております。

>1.高柔の上奏文が「叡」をもともと使っていた
>2.高柔→陳寿の段階で「叡」に変わっていた
>3.『三国志』筆写のどこかの段階で「叡」に誤記した
>4.筆写のどこかの段階で避諱して「叡」となった
>5.もともと欠画の「叡」を使っていた
>並べてみると一番目と三番目の可能性が微妙に高そうな気がするだけで
>印象論しか述べられない僕としてはここらでお手上げです。

仮説を整理して下しまして、ありがとうございました。これ以上は、実際のところ
私のほうもお手上げというところでしょうか。あとは、東洋史を専攻している方が
修士論文の題材にでもしてくだされば幸甚、というところでしょう。

そろそろ予告の謝霊運の山水詩の紹介について取り掛かろうと思ってます。

中村さまへ:
>諱を戻す

確かにおっしゃるケースの通りなのでしょう。しかし、例として挙げておられるのが「歩叡」
「歩瑁」という「人名(固有名詞)」であるというところに、お互いの主旨がかみ合っていない
と拝察します。

繰り返しになりますが、固有名詞ではない「叡哲」ような語句を戻す可能性は低いのでは
ないかというのが、私の主旨であります。

しかも「英哲」「穎哲」「睿哲」のような代替可能な語句が存在するとすれば、なおさら
ではないでしょうか。むろん後世の人が避諱して原文を書き改めた事実がはっきりしている
というケースは、この場合省略します。

再び永一さまへ:
>日本の小説などで、劉備玄徳とか諸葛亮孔明とか書いてあるのがたまにありますが、
>決してそんな呼びかたはしません。ただし「姓+字+名」の順の表記はごくまれにあります。
>追記:「姓+名+字」の表記は全くないわけではないという指摘を受けました。

このあたり、主張されていることと指摘されていることとの主旨が、少々かみ合って
いないように拝察します。「名と字」を併称するという表記が存在することは、確かに
(むじんさまの「思而不学」にもご指摘あるように)事実ではあります。

ただし高島俊男・田中芳樹の両名が著書で書いているので、このような指摘があったと
推測しますが、両名の著書が指摘しているのは「そのような呼び方を中国人はしない」
ということです。
つまり「劉備玄徳」とか「曹操孟徳」という「姓+名+字」は、「書く」ことはあっても、
「呼ぶ(言う)」ことはない、というのが彼らの主旨であると拝察します。

長くなりましたので、これで失礼します。


難しい・・・ 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 2月16日(月)22時28分45秒

避諱話も煮詰まってきた感じがします。
検索かけてみると『晋書』も「虎」とか「民」とか全くないわけでは
ないなと見えました。しかし中華書局標点本ソースの悲しさ、欠画な
のかどうかはよく分からず。
まじめにやるなら影印本や和刻本も参照しないとダメですね。
うーん、自分のレベルでは厳しくなってきた。


>中根東竜さま

お久しぶりです。ご指摘感謝します。

>「亮の野郎の体はくたばりやがった、長くはあるまいよ」

ああ、司馬懿がこのニュアンスで言ったってのはホントっぽいです。

妙な例を出して、説明不足でしたが、
僕としては、テキストの細かい字面は各時代でこんなにも変化しうる、
だから高柔の上奏文では「叡」ではなかったけれど、
高柔→陳寿の段階で早くも変わっていた可能性があるんだよという話
でした。


>殷景仁さま
高柔の本来の上奏文が、「英哲」「穎哲」「睿哲」だったとか、
全く別の表現だったならいいんですが、
もとから「叡哲」だった可能性も全く排除できないところが
おそろしいですね。
1.高柔の上奏文が「叡」をもともと使っていた
2.高柔→陳寿の段階で「叡」に変わっていた
3.『三国志』筆写のどこかの段階で「叡」に誤記した
4.筆写のどこかの段階で避諱して「叡」となった
5.もともと欠画の「叡」を使っていた
並べてみると一番目と三番目の可能性が微妙に高そうな気がするだけで
印象論しか述べられない僕としてはここらでお手上げです。


>中村さま
敦煌文書ほか情報ありがとうございます。

>敦煌研究院にある敦煌文書の『三国志』残巻は「歩隲伝」が書かれて

「歩[王睿]」が「歩瑁」になってるテキストですか〜。
東晋のころに写されたものだというのははっきりしてるわけですか?

実は「歩瑁」が正しい名前だったなんてことはないですよね。

>それから引用がきちんと引いてない、ということですが、中国の古典
>資料を扱っている人たちではおそらく常識的なことかと思います。

今回いちばんハッキリしたのはこの点だけだったかも。(^^;)

>ですので、避諱の研究もそれほど進んでいないように思えます。これ
>だ、とはっきりしたことが言えないからです。でも、面白いですよね。

検索で電子テキストが出てくる時代でありますし、
今後こういう研究が進みやすくなるかもしれませんね。
(そういや故宮【寒泉】のほう復活してないっすか?)


>怨霊さま
two_yossyさんが挙げておられたやつですね。
ちくま『漢書』1巻p249で確認できました。


>perdidoさま
『お嬢さまと私』には白玉という作りの諱がなかったですかね。


宣帝ですか... 投稿者:perdido  投稿日: 2月15日(日)23時37分42秒

『お嬢さまと私』では、最初から「詢」なんだよな(爆)。病已から詢に変えるエピソードを漫画にしてほしかったけど...(爆)


漢皇帝の諱 投稿者:怨霊  投稿日: 2月15日(日)10時46分24秒

>中村さま
そうですか。避諱を元に戻すという事は実際にあったのですね。
私が言ったのはほとんど思いつきのレベルでしたが。

前漢では確実に今上皇帝の諱を避けます。
漢の宣帝、元康2年の詔に
「今、上書の中で諱を書いてしまって犯罪になっている人が多いらしいから、
 諱を(病已から詢に)変えるよ」(意訳)
というものがあるのです。
これは今上皇帝の諱を避けることになっているのでないと成り立たない話です。


避諱など 投稿者:中村  投稿日: 2月15日(日)03時14分53秒

みなさんの避諱に関する発言、非常に興味深くうかがってました。
自分も敦煌文書で避諱について少し調べたことがあるのですが、非常にやっかいです。

まず、唐代の避諱の厳しさについてはよく知られることですが、実のところ敦煌文書などではさまざまです。同一写本で避けているものもあれば避けていないものもあります(たとえば「民」そのまま・「民」→「人」・「民」の欠画が同筆同写本で見られる)。国家レベルでは厳格でも民間では。。。ということです。唐代以前は避諱はかなりあやふやで、「すべてを必ず避諱した」と言うことができません(言うだけの資料が少ないこともあり)。もちろん避諱した例はあります。その実態がなかなか明らかにできないということです。

次に避諱は戻されます。
敦煌研究院にある敦煌文書の『三国志』残巻は「歩隲伝」が書かれているのですが、彼の子供「歩叡」は東晋の元帝の諱を避けて「歩瑁」と記されています。現在歩叡を歩瑁に作るテキストは知られていません。これは避諱を戻した事例でしょう。他にも探せばあると思います。ではなぜ『隋書』や『晋書』は戻っていないのか。それは唐代が長く続き、さらにはそれが宋版に引き継がれているからです。諱を戻すきっかけを持たずに宋版などでテキストが確定したからでしょう(石経など唐では主要経典のテキスト一本化があり、「正字」という概念も強く意識された)。

魏の明帝(曹叡)相手に叡の字を使っているとのことですが、これにはまた避諱の難しい点があります。今上の皇帝の諱を避けるか避けないか、宋版については仁井田陞・長沢規矩也の論争があってはっきりと避けることが明らかになったのですが、宋代以前は分からないというのが実状のようです。ですので明帝にむかって普通に「叡」字を使った可能性もあるかもしれません(皇帝は朕だからか?//爆)。

われわれが見ているテキストから、唐代はともかく陳寿の頃の原文を想定することが難しいですよね。極端に言えばたとえば「叡」字が「避諱」されていたのかどうかですが、避諱されたが後で直されて「叡」になっているのか、避諱されずに「叡」のままなのか、は微妙なところです。

叡の字のうかんむりの下がない、ですが、これは欠画じゃなくてもとからそういう字体ということはないんでしょうか^^;

それから引用がきちんと引いてない、ということですが、中国の古典資料を扱っている人たちではおそらく常識的なことかと思います。今のように厳密に引く、という感覚はつい最近までない、と思います。テキストの異同はもちろんあったでしょうし、彼らは暗記していることが多いので暗記違いもあります(笑)。都合のいいように引くこともあります。『太平御覧』の引用の仕方などでも分かるかと思います。『尚書』など途中で散逸してしまった文献は注に引かれた文と違って当たり前ですけど^^;


と、とりとめもありませんが。。。。以上のように避諱とは実に難しいのです。

ですので、避諱の研究もそれほど進んでいないように思えます。これだ、とはっきりしたことが言えないからです。でも、面白いですよね。陳寿の時代にも避諱があったのは確かでしょうけれど、それがどの程度・どの範囲で、しかも現在のテキストからそれがうかがえるかが微妙ですよね。「『三国志』に見える避諱」なんか立派な卒論になることうけ合い^^; 誰かやって欲しいくらいです(笑)


なんか白熱させてしまったみたいで... 投稿者:perdido  投稿日: 2月14日(土)22時00分49秒

殷景仁さま>
>確かにperdidoさまに有利な情報と言えるでしょう。
う〜ん、自説の正しさを訴えたいと思ってるんじゃないんですよ(爆)。自分もびっくり仰天したクチで、自分の動揺を抑えたいから前レスみたいなことを考えたわけで...
その証拠に「きっと」という副詞が2回も繰り返されています(苦笑)。
確かに「叡」の冠の部分は横棒が版木の欠落等で消えやすいところといえます。郷里の自宅に和書の漢籍があるのでそれは自覚してるところですが願わくは中根さんのご指摘のとおりであってほしいという気持ちもあります(笑)。
ただし、『(正史)三国志』が西晋の時代に書かれた以上高柔の上奏文かあるいは同時代資料、すくなくとも魏の時代の資料でないと諱をおかす行為が黙認されていたこと、あるいは諱を積極的に避けようとする意識の範囲についてつかむことができないと思います。
つまり殷景仁さんが驚いているように常識だの定説だのされていたことを見直さなければならないかもしれないので、ちょっとたいへんなことを話していると思っています。(もっとも、この時代の避諱の研究がすすんでいて単にわれわれが結論を知らないだけなのかもしれませんが…)
その意味で、むじんさんの2月3日のレスに「操」字について、
>『魏略』儒宗伝の序に「よく筆を操る者は十人に満たず」
は言葉がでませんでした。つまり魏の時代の資料として提示されたと私は認識したからです。


さらにシンプルに 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月14日(土)13時38分12秒

>以上のことから、現時点の段階での私の考えでは、高柔の本来の上奏文では、「英哲」か
>「穎哲」となっていたのが、写本の段階で「叡哲」に誤記されたということが、一番あり
>得そうだと考える次第です。

先ほどこのように書きましたが、さらにシンプルに考えると、本来は「睿哲」だったのではないか、という可能性も考えられます。一応追加しておきます。

>中根東竜さまへ
>この部分の叡の字が一画欠けて居ます。ただ欠画の通例と異なり、最終画ではなくヘンの
>うかんむりの下が欠けて居ます。

先程考えついたことですけれど、これも欠画ではなく、誤刻(あるいは版木の欠落)の可能性はないでしょうか。このご指摘の箇所、よくよく考えてみると、見えにくいところですから。

テキストすべての「叡」字がそうなっているのでしょうか。よろしければ、公孫康とあわせて、さらに詳しいご確認をお願いします。


さらに追記します 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月14日(土)12時12分32秒

>公孫康を公孫晃とする

もう一度調べなおしましたが、公孫康(公孫淵の父)と公孫晃(公孫淵の兄)は別人でした。やはりこれは誤記ではないでしょうか。


色々ありがとうございます 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月14日(土)11時57分47秒

>perdidoさまへ
>諱を直接使うのは非常に失礼

まず済みません。こちらもそのことは存じております。
こちらも発見したとき、あまりの事に気が動転してしまい、書き込みに混乱を生じてしまいました。そのせいで、こちらの言いたかったことが、伝わりにくくなってしまったようです。そこでもう少し、皆様のご意見を取り入れまして整理した上で、現時点での私の意見を、ここに書き込まさせて頂きます。

>欠字
これはまず考えられないと思います。人名ならばともかく、上奏文という文体は、四字・六字を基調とするというのが、この時代では既に趨勢となりつつあります。しかも「陛下臨政、允迪叡哲」の当該箇所のように「四字・四字」の安定したリズムの箇所を崩す必然性はあり得ないと愚考します。さらに(むじんさんのご指摘されたように)「叡哲」は「英哲」や「穎哲」に代用可能でありますから、あえてここを欠字にする蓋然性は非常に低いでしょう。

>避諱を戻す
これは繰り返しになってしまいますが……
陳寿は晋代だから「叡」を避ける必要はありませんが、かといってわざわざ「戻す」という必要はあるでしょうか。
例えば『隋書』において、「斐世清」を「斐清」、「韓擒虎」を「韓擒」と表記しておりますが、後世の『隋書』の版本ではそれを戻しておりません(中華書局版では「韓擒虎伝」では題名のみ「韓擒虎」と表記し、校記において『原文は「韓擒」に作る……本書やその他の場所で「韓擒」と称してあっても、一々増補しない』と書いております。ただし『隋書』でも「虞世基(虞世南の兄)」「韋世康」と表記してある例があります。これについては、お互い考える必要があると思います。版本自体がそうなっているのでしょうけれど、これらに校記を入れていない中華書局版はいささか不親切ですね)。
それに、人名のような一応の事実ならばともかく、「叡哲」ような普通詞を書き戻す必要があるのかと思うのです。ですのでこの蓋然性も低いと思われます。

>欠画
私にとって、これが一番のネックです。問題はこの風習がいつまでさかのぼれるのか、というところなのです。
あくまで「私の感じ」という曖昧なものになってしまうのですが、「避諱のために欠画する」というのは、比較的新しい風習のような気がしているのです。ですのでこの点に非常に違和感があるのです。三国の頃にこれがあったでしょうか。この点について、さらなる情報を下されば幸甚に存じます。

以上のことから、現時点の段階での私の考えでは、高柔の本来の上奏文では、「英哲」か「穎哲」となっていたのが、写本の段階で「叡哲」に誤記されたということが、一番あり得そうだと考える次第です。

>中根東竜さまへ
>手元に在る『三国志』宋紹煕本(一応、最古のテキストのはずです)では、この部分の叡
>の字が一画欠けて居ます。
>ただ欠画の通例と異なり、最終画ではなくヘンのうかんむりの下が欠けて居ます。

貴重な情報をありがとうございます。欠画は、本来最終画を欠くのですが、中には途中の画を欠いたものもあるそうです(原田種成『漢字の常識』三省堂より)。ですのでこの点は、確かにperdidoさまに有利な情報と言えるでしょう。

>公孫康を公孫晃とする

現行の中華書局版でも、「高柔伝」でこうなっておりました。「康」「晃」両字が上古音でいずれも「陽部」に入っていることから考えて、避諱ではなく、写本段階での誤記の可能性はないでしょうか。


お久しぶりです。 投稿者:中根東竜  投稿日: 2月14日(土)05時39分8秒

久しぶりに書き込みます、中根です。
2、3指摘を・・

>永一さん
>明帝紀裴注所引『魏氏春秋』では、「宣王曰:『亮體斃矣,其能久乎?』」
諸葛亮伝裴注所引『漢晉春秋』では、「宣王曰:『亮將死矣。』」
『晋書』宣帝紀では、「帝既而告人曰:『諸葛孔明其能久乎!』」
『資治通鑑』巻七十二では、「懿告人曰:『諸葛孔明食少事煩,其能久乎!』」

この例ですが、この4種のテキストの中で最も成立が古いのが魏氏春秋ですし、其能久乎の四字が魏氏春秋・晋書・資治通鑑で共通しているので、結局この話の元ネタは魏氏春秋だと見ていいんじゃないでしょうか。漢晋春秋は裴松之が度々物言いをつけているようにかなり妙な本ですし。
魏氏春秋の文が後世の引用で書きかえられているわけは、おそらく魏氏春秋の
『亮體斃矣,其能久乎?』という言い方に品がなかったためでしょう。
斃はツカレルと訓読しますが、この漢字の意味は説文解字によれば「ぶっ倒れて死ぬ」、春秋左伝僖公四年によれば「毒見をして死ぬ」で、決して良い意味の言葉ではありません。しかも諸葛孔明に対して呼び捨てて敬意を払っていません。
こういったニュアンスを汲んで魏氏春秋を無理やり訳すと「亮の野郎の体はくたばりやがった、長くはあるまいよ」というような表現になるでしょう。これでは後世の人々はかなり抵抗があるのは当然だと思います。渡辺義浩氏が指摘するように、諸葛孔明崇拝は唐以降盛んになっていったわけですが、晋書ではそれを反映してか呼び捨てを改め、資治通鑑では「諸葛孔明どのは食も細く苦労なさっている、長くはあるまいよ」と恐ろしく丁寧な言い回しになっています。

>陛下臨政,允迪「叡」哲,
perdidoさんの推定の裏づけになるかどうかはわかりませんが、手元に在る『三国志』宋紹煕本(一応、最古のテキストのはずです)では、この部分の叡の字が一画欠けて居ます。ただ欠画の通例と異なり、最終画ではなくヘンのうかんむりの下が欠けて居ます。欠画の名残なのでしょうかね?なお、このテキストではしばしば欠画や避諱が見られます。(公孫康を公孫晃とするなど)
中華書局版では避諱・欠画を一律に改めてしまったと思うので、こういう部分も改められて
しまったのでしょう。


魏明帝の避諱について 投稿者:perdido  投稿日: 2月13日(金)22時25分24秒

殷景仁さま>
何かの本で読んだのですが諱を直接使うのは非常に失礼なので通常は字を使うという話だったので、
ましてや上奏文じゃありえないよ、きっと陳寿は西晋の人だから直接書いたんだよ、きっと「叡」の字も欠画か『隋書』倭国伝で、斐世清の「世」の字が欠字しているように、欠字したかになっているよ、と考えてレスしたのがこないだの文字化けレスでした。


避諱・注の引用ばなし 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月13日(金)14時13分37秒

perdidoさん、むじんさん、永一さんへ:

色々ご意見ありがとうございました。

>上奏文が避諱してないというのもすごい話で

そういうことです。最初発見したときは、仰天してしまい、皆さんどう思われるか、
そう思いご報告した次第です。

>陳寿や裴松之の時点で避諱するだけでなく、写本の段階で避諱があったかも知れませんね。
>叡字は英や穎に代用されるようなので、どこかの誰かが違う字を叡にした可能性は考えられませんか。

確かにその可能性もあり得ますね。ただ「避諱を戻した」というよりも、写本の段階
(或いは陳寿自身?)で「叡」に誤記されたということが、一番あり得そうですね。
もっとも、真相は恐らく藪の中でしょうけど。

それにしても、三国の皇帝たちって、

魏の皇帝:操・丕・叡・芳・髦・奐(璜)
蜀の皇帝:備・禅
呉の皇帝:堅・権・亮・休・皓

どれも避けにくい諱ばかりが多いですね。


風邪引いた 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 2月13日(金)09時17分5秒

うー、元気ないこのごろ。
体調・バイオリズムともに低調。
そのうち「マイ・プレシャス!いとしいしと!」とか
フロドとかサムとか騒ぎ出すと思うんですけど。

>perdidoさま
頁いろいろ紹介ありがとうございます。
ニヤの仏塔などはNHK「シルクロード」で見たような気がします。
うろ覚えですが。
西域のオアシス都市などは、人が住むところ自体が移動しちゃって古い
都市がそのままうち捨てられたりしますから、驚くほど古い建築物が残
ったりしますね。
南朝四百八十寺、というか江南のほうは、人の手が入りすぎちゃって
なかなか残らないですね。

>鹿角さま
王貞治(現ダイエー監督)氏のお話ですね。
台湾出身というのは有名ですが、外省人のかただったわけですね。
台湾の歴史というのも、いろいろいろいろありますので、ご苦労多か
ったろうと思うのですが。

女子十二楽坊はファンってほどでもないですね。
CD持ってないですし。
中華系では、いっとき安CD買い漁ってたフェイ・ウォンあたり好きだ
し、一青窈とか興味あるし。
それでもファンというにはおこがましいレベルですわ。

イケスミチエコさん…ですか。
知らない作家さんですね。検索かけてしまいました。
少女漫画系も妙に読んでる系統と読んでない系統があるもんで。
楊貴妃漫画と聞いたからには探してみようと思います。
「腹に何が詰まってるんだ」といわれるような体躯で胡旋舞を舞わない
安禄山は、安禄山じゃないやい!

>避諱・注の引用ばなし

上奏文が避諱してないというのもすごい話で。
なにやら思い出すのは、
「孔明は長くないな」という司馬懿の台詞がころころ変わってるという話。
明帝紀裴注所引『魏氏春秋』では、「宣王曰:『亮體斃矣,其能久乎?』」
諸葛亮伝裴注所引『漢晉春秋』では、「宣王曰:『亮將死矣。』」
『晋書』宣帝紀では、「帝既而告人曰:『諸葛孔明其能久乎!』」
『資治通鑑』巻七十二では、「懿告人曰:『諸葛孔明食少事煩,其能久乎!』」
歴史家というやつは主旨を変えない範囲で、人の台詞作ってるんじゃないか?
という疑いもありかな。喋り言葉を正確に筆記に残すというのはもともと難
しいですし。
高島俊男氏あたりがそういうこと言ってたんで。

ただ上奏文というやつは書面の正文があるはずなんで、どうだかなあとも
思うんですけど。高柔の本来の上奏文と陳寿の記録した文とが、主旨は
ともかく逐語的には違うってことは考えられませんかね。


引用文の適否 投稿者:two_yossy  投稿日: 2月10日(火)23時15分21秒

>怨霊さま
>三国志などの漢籍の注に引いている文についてですが、
>これは「必ずしも原典に一字一句忠実に引用しているとは限らない」
>という点に注意が必要かと思います。
ご指摘のとおりですね。自分も史記や後漢書を訳す中で、三家注や李賢注を追っていくと、引用文が通行本と違うのをずいぶん見かけます。経書の引用などは、字面だけを見ても訳せませんから(^ ^;)、ほとんどの場合、国訳の資料に当たるんですけど、なかには「ずいぶん団体な」相違もあって、悩まされます。
しかし、思うのですが、それらの引用者・注釈者の手元にあったテキストと、こんにち流布・通行しているものが違っているのではないか。漢学・唐学の性質を考えると、あの「超硬派」の訓詁家たちが、「いいかげん」に引いているとは考えにくい。かれらは、かれらの環境において、徹底的に厳密に学問していたのではないかと。
まあ、「印刷物」でテキストに当たれるようになった宋代以降になると、当然事情は異なってくるのでしょうが(それでもあえて流布本に逆らって、「秘蔵」のテキストを自慢したくて、一般的でない引用文を掲げる御仁もいたかも)。


訂正 投稿者:鹿角  投稿日: 2月10日(火)14時36分7秒

本放送はPM10:25からです
再放送がPM2:00から

以前テレビ朝日で女子十二楽坊の
スペシャルをやってましたが
見た人いますか?私は見ましたが・・・
ところで管理人さんは彼女達のファンですか?

イケスミチエコさんのかいた楊貴妃の漫画は
彼女と玄宗が美形なのは当然としても
安禄山がイケメンなのにビックリ!
私なら玄宗から乗り換えるかも・・・


難しい問題ですね 投稿者:むじん  投稿日: 2月10日(火)14時11分17秒

陳寿や裴松之の時点で避諱するだけでなく、写本の段階で避諱があったかも知れませんね。
叡字は英や穎に代用されるようなので、どこかの誰かが違う字を叡にした可能性は考えられませんか。
盧弼の手元にある版本では全て叡になっていたようですので、
だとしてもかなり古い段階で叡に置き換えられたということになりますが。

http://mujin.parfait.ne.jp/


避諱の実態について 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月10日(火)10時00分9秒

>perdidoさま

>『正史三国志』は、西晋の時代に陳寿が書いたものなので、「叡」を避ける必要はなかっ
>たと思います。

そうでしょうか?
確かに晋の陳寿は「叡」を避ける必要はなかったと思いますが、私が問題としているのは、
それならば、わざわざ陳寿が「叡」へと書き直す必然性もないのではと思うのです。

もちろん推測の域を出ることはないのでしょうが、現行の『晋書』『隋書』などが諱を戻していない
という点を考えれば、やはりここでの高柔の上奏文は、原文通りだったとみていいのでは
ないのでしょうか。


百年目の故郷 投稿者:鹿角  投稿日: 2月10日(火)09時10分49秒

王さんとその父仕福氏の二代に渡るお話
仕福さんは大陸出身なのに
王さんの国籍が台湾なのが意外
蒋介石に面談した時中国語が話せないのかと
聞かれたそうで・・・本人に悪意はないとしても
批難なのかと勘繰りたくなります
大陸と台湾の間で揺れる王さんには
我々の思いもつかないような悩みがあるだろうと思います
「756号が僕の人生をスポイルした」との発言には
少し驚きました

先週から教育テレビで三国志の英傑たちという番組が始まりました
話し手は北方さんで放送は月曜PM10:30で
再放送は翌週のPM2:30です
ところで北方三国志は面白いんでしょうか?


三国時代の避諱の実態がわかりにくいひとつの原因 投稿者:perdido  投稿日: 2月10日(火)00時33分21秒

殷景仁さま>
『正史三国志』は、西晋の時代に陳寿が書いたものなので、「叡」を避ける必要はなかったと思います。高柔の上奏文がもともと避諱していないのか、それとも陳寿が戻したのかは、魏の同時代資料に当たらないと難しいのではないでしょうか。『後漢書』も南朝の宋の時代に范曄が編纂したものなので、魏の時代の同時代資料がさがしにくいことがこの時代の避諱の実態をわかりにくくしている事情もあると思います。


三国魏の諱について 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月 9日(月)22時55分21秒

>怨霊様へ

台湾の中央研究院漢籍電子文献にある『三国志』の『魏書』で「叡」の字を検索してみました。すると「高柔伝」本文に次のような箇所がありました。

明帝(曹叡)即位……柔上疏曰:「臣聞遵道重學,聖人洪訓……陛下臨政,允迪「叡」哲,敷弘大猷,光濟先軌……」

これでは、明帝への上奏で、明帝自身の諱を冒していることになります。これはどう解釈すればいいでしょうか。乱世において、諱をそれほど云々出来る状況下になかったと言うことでしょうか。


(無題) 投稿者:perdido  投稿日: 2月 9日(月)21時03分51秒

操の字については、杜操という人物名を杜度と書換えている例があるそうです。
出典は、小学館『新選漢和辞典』避諱一覧表です。書虫で『史諱挙例』を注文しましたがだめなようで手に入っていません。持っている方ご教示いただければ...
「曹操 避諱」「操 避諱」「杜操 避諱」「避諱 魏」など検索をかけてけてみましたがHITしませんでした。唐太宗李世民の「民」字ばかり...

それから西域の仏塔についてのHPさがしてみました。
遺跡は、ニヤ、ミーラン、高昌故城など。漢代のものなどけっこう古いものもみられるようです。

http://oak.zero.ad.jp/~zae06141/chinaruin2.html
http://www.majo-ichioshi.net/kiji/silk/silk2/silk2-miran.htm
http://www.let.ryukoku.ac.jp/saiiki/rpt_sub3.htm


注について 投稿者:怨霊  投稿日: 2月 8日(日)16時17分21秒

三国志などの漢籍の注に引いている文についてですが、
これは「必ずしも原典に一字一句忠実に引用しているとは限らない」
という点に注意が必要かと思います。

例えば史記秦始皇本紀に、
「集解、漢書百官表曰「秦郡守掌治其郡、有丞。尉,掌佐守典武職甲卒。監御史掌監郡。」
という注があるのですが、これは漢書百官公卿表の当該部分から結構省略してますし、
順番も違います(漢書では監御史の方が先)。
つまり、必ずしも原典通りに引用するとは限らないし、省略しても注意書きも何もないのです。
もちろん文意は同じでしょうが、
注の引用をもって当時の字句を検討するのは少々問題があると思うのです。
省略や避諱や誤字があるかどうかは注釈者次第ですから。

その最たるものは多分資治通鑑の注(胡三省)でしょう。
確か彼は戦乱で(南宋末ですので)作った注を失い、
その後ほとんど記憶に頼って注を再現したそうです。
そのため、はっきりいって方々に引用文の誤りなどがあります。

「避けていた字を戻したかどうか」については私自身も
「その可能性もある」くらいなのかな、とは思いますが。

ところで魏って「操」を諱にしていたんでしょうか。実例って何かありました?
(既出であればご容赦を)


反切の説明 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月 8日(日)09時58分34秒

永一さま:
>反切
>殷景仁さんの解説でなんとなくイメージできました。

それはよかったです。今まで反切について説明してきましたが、中国語を学んでいない方々にはイメージしにくいところがあったのではなかったでしょうか。どうも長々と済みませんでした。

こんなわかりにくいものを説明してきた理由は、実は謝霊運の詩の中に「双声(声母の同じ二字を並べること。例:玲瓏(レイロウ))」「畳韻(韻母・声調が同じ二字を並べること。例:窈窕(ヨウチョウ))」という技法を使ったものがあるので、その伏線の意味もあったのです。

次回からはいよいよと行きたいところです(まだ少し時間がかかると思いますが)。


(無題) 投稿者:perdido  投稿日: 2月 8日(日)01時17分57秒

あれ、文章を読むと中国領の中央アジアっぽいところをお望みみたいなので、西域の話がいいんでしょうか?でももう眠いのでご容赦ください(苦笑)


中央アジアの古い仏塔... 投稿者:perdido  投稿日: 2月 8日(日)01時08分13秒

中央アジアの古い仏塔と言われて調べてみました。
すぐに思い浮かんだのが、モヘンジョ=ダロの「城塞」にある丸い仏塔で、1世紀後半から2世紀頃のクシャーナ朝時代の仏塔ですね。あとメルヴやテルメズかタキシラか…
ちなみに下記のURLにはタキシラのダルマラージカの仏塔の話が写真入りであります。アショーカ王時代(在位268B.C.〜232B.C.頃.)ということですから紀元前3世紀になりますね。
http://www.asahi-net.or.jp/~rx6y-nsht/tabi/paki/paki2.htm
それから碁盤目状(というか方形の区画状)の市街地のシルカップにも前1世紀の「双頭ワシのストゥーパ」があるそうです。
メちなみにタキシラは前6世紀〜5世紀にかけて東西交渉の中継地として繁栄したようです。
トルクメニスタンのメルヴ(‘99世界遺産登録)のギャウル・カラにも仏塔があってササン朝時代(6世紀)の生活を描いた壷などが出土しているそうです。


知識が中途半端だとやっぱり間違える〜 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月 8日(日)00時00分12秒

>永一さま

たびたびで本当に済みませんが、「u۸k」の韻は、最初「三等音の再構音」と書きましたが、さらに「二等韻」と訂正しました。しかし、もう一度疑問に思って調査した結果、正しくは、「徳(一等韻)の合口」でした。下の「永一さまへ」の書き込みはお手数ですが、再度削除してください。

知識が付け焼き刃ですと、本当によく間違えてしまいます。


どんなもの 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 2月 7日(土)23時33分19秒

>よーこさん
お久しぶりです。健勝そうでなにより。
リンクの件は諒解です。というかすでに修正してます。
また今度そちらにも挨拶します。
ばらちゃんや元ながたさんにもよろしう。

>同泰寺
九層の仏塔ですか。残ってたらすごかったんですが。
中国の現存仏塔で最も古い部類というと西安の小雁塔あたりですか?
中央アジアあたりにもっと古いのあったっけかな?
華北や乾燥地帯の土で作られた遺跡ってのはよく残るけど、
華中華南のものってのは、なかなか残りませんねえ。

六朝のころの建康(建業)の遺跡もいろいろ出てきたら面白い
けど。

>陶磁器の窯

石野陽虎さんのところのページですね。
あまりまじめに見てなかったとこかも…m(_ _)m。
唐三彩とか宋以降の青花とかは僕も旅先で時々見かけるんですが
六朝の陶磁というのはあまり見た覚えがない気がします。
あのころというとまず仏教美術を見ることになるんで。

>反切
殷景仁さんの解説でなんとなくイメージできました。
たとえば「長,知兩翻」の場合
「長」は、「知(zhi)のzh」+「両(liang)のangの三声」で、
「zhangの三声(上声)」の発音であるという解説法ですね。
うーん、漢詩作って平仄合わせられるような頭でないと思い
つかないやりかたですね。
日本語でも、
「長」は、「知(チ)の母音」+「両(リョウ)のョウ」で
「チョウ」の発音で合うこともあるのか。

perdidoさんの出した「۸」は、この掲示板では「۸」と書くと
出ますかね。

>「操」

注釈者が原文の明らかな誤字を修正するってことはあるのかも
しれないですが、避諱した字をもとに戻すってことがあるんで
すか。とりあえず、よく分からないのでむじんさんの見解に賛
成しときます。

>唐宋変革論
>自分が唐宋変革論に洗脳されていることがよくわかりました(爆)。

染まってる人のほうが多いんじゃないですか?日本では。(^^;)
僕もまだまだ説得力あると思いますし。
明からを近世とするのは欧米の学説の影響だというのは小耳に
はさんでますが。具体的にどんなものかはもうちっと勉強しないと。


余談ですが... 投稿者:perdido  投稿日: 2月 7日(土)13時47分13秒

余談ですが、۸はアラビアの文字の8ですね。手元に自分の大学の教授がバーレーンやカタールに発掘調査しに行ってるのでわかりました。発掘報告書が手元にあるので...

曹操の諱については、怨霊さまがコメントしてますね。よく読んでなかったみたいですみません。でも元の字に戻すなんて引用でしていいのか、なんて考えてしまうのですが...自分で調べる気がないのにまた余計なこと書いてすみません(汗)。


名著に洗脳?された自分の中国史観??? 投稿者:perdido  投稿日: 2月 7日(土)13時09分30秒

話を戻しちゃいますが小学館『新選漢和辞典』付録の避諱一覧表を見ると唐と五代と北宋だけで2/3を占めている状態で、五代十国の時代なんか十国各国の君主の諱を避けている例があってこれが避諱の盛行した時代背景をあらわしてるのかな〜なんて、思いました。
しかし、廃帝高貴郷公の甘露2年(257)前後という魏の時代に書かれた『魏略』に曹操の諱を避けてなかったなんて驚きです。魏の皇帝権力があまりなかった反映なのかもしれませんが...

NAGAICHIさま>
>僕も唐宋変革論に汚染されてる人間なんで。
>堀敏一『中国通史』(講談社学術文庫)の最後の章
>「中国史発展の大勢をどうみるか−時代区分問題と現在からの視点」
>あたりからはじめるのがホントはいいかもしれないんですが…。
ありがとうございます。自分が唐宋変革論に洗脳されていることがよくわかりました(爆)。読んだ内容なんかはほとんど忘れてることが多いのに(爆)。
おそらく宮崎先生と大林太良、生田滋両先生の『東アジア民族の興亡』ですね。
紹介された堀先生の読んでみます。

殷景仁さま>
>これは早い話、現在日本の、キャリア・ノンキャリの差を想像すればよろしいかと思います。
すっごいわかりやすい例でありがとうございます。


反切その他 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月 7日(土)12時26分48秒

コルテスさんへ

>反切は、通鑑読んでると胡注にようけこと出てきます。
>これって、もしかして「□、○○翻」ていうやつですか?

その通りです。「東、徳紅反」とあれば「徳(再構音:t۸k)」から声母「t」を取り出し、「紅(再構音:x۸uŋ)」から韻母「۸uŋ」を取り出して、両者を組み合わせれば、「東(t۸uŋ)」の音ができあがるという仕組みです(なお、再構音は三根谷徹『中古漢語と越南漢字音』に従っています)。

>東晋の時代には、名門である狼邪王氏や謝氏などの子弟が、次々と都督府の属官に就職
>していますよね?これは、どう解釈すればよいのでしょうか?

宮崎先生の本を詳しく読んでいただければ分かりますが
これは早い話、現在日本の、キャリア・ノンキャリの差を想像すればよろしいかと思います。

名門貴族にとっては、都督府の属官(参軍)というのは、せいぜい出世のステップの一階梯にしかすぎないのです。それでも、中央の指命で配属される官ですので、地方幕僚の中では上位に位置する官なのです。
ですから、寒門出身者にとっては、最終職クラスなのですが、貴族らにとっては、大抵は初任官(起家)あたりの段階で就くというのが普通なのです。さらに詳しくは調査しておりませんが、任期自体も、貴族の場合、非常に短いもので終わっていると推察します。


時代区分など 投稿者:コルテス  投稿日: 2月 7日(土)08時57分51秒

perdidoさん、永一さん、レス有難うございます。

>1.「交通」…開封を首都とし、運河交通が発達。
>4.「国民主義」…北方民族の民族王朝と漢民族の民族主義。

説得力のある説明ですね。宮崎先生といえば、最近九品官人法について読んだのですが、基本的な説明に関しては、世界歴史大系の方がわかりやすかったです。宮崎先生の真髄は、どちらかというと南北朝後半の各国における展開の研究にあるのではないかと愚考しました。

>反切は、通鑑読んでると胡注にようけこと出てきます。

これって、もしかして「□、○○翻」ていうやつですか?

それから、話がとんで恐縮なんですが、六朝の貴族は日本の平安貴族と同じく、兵を卑しみ、軍務を忌避していたというような話がいろいろなところで書かれていますが、東晋の時代には、名門である狼邪王氏や謝氏などの子弟が、次々と都督府の属官に就職していますよね?これは、どう解釈すればよいのでしょうか?


6世紀に中国で生産されていた陶磁器 投稿者:perdido  投稿日: 2月 6日(金)23時35分15秒

六朝時代の陶磁器について解説しているHPです。オリーブ色の釉の青磁で有名な越州窯
が操業していた時代のようです。まだ二彩や唐三彩は出現していません。
http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/touji-4.htm
操業していた窯跡のだいたいの位置を示す地図です。果たして仏具は生産していたのだろうか?
http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/touji-5.htm


同泰寺を発掘調査できたら... 投稿者:perdido  投稿日: 2月 6日(金)23時23分9秒

>NAGAICHIさま、殷景仁さま
同泰寺についてご教示いただきありがとうございます。
侯景の乱で破壊され隋軍によって建康が破壊されたなら、もし建物の基礎の部分だけ良好に残っていて整地されて田畑になっている、あるいは鶏鳴寺が整地された後に建っているなら6世紀の南朝の寺の伽藍配置が当時の仏具や運がよければ年代の基準となる陶磁器とともに埋まっていることになります。そしてそこからの出土遺物の年代は建康城の遺構なら589年まで、同泰寺の遺構なら550年前後という考古学上の編年の基準になる良好な資料になります。発掘してみたいものです。6世紀頃の中国ってどの窯が操業していたんだろ?


反語と同泰寺 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月 5日(木)21時15分26秒

>むじんさまへ
>こういう用途での反語というのは知らなかったです。
>新選漢和には載ってないなぁ…。

反語のこのような用例については、先述した趙翼の著書以外にも、顧炎武『音学五書』の「音論下・南北朝反語」に十ほど例が見られます。または諸橋『大漢和辞典』にもありますので、そちらをご参照ください。

>perdidoさま、永一さまへ
>同泰寺
寺内にあった九層にも及ぶ壮麗な仏塔は、当時でも非常に評判であったといわれています。
しかし、侯景の乱で大きな被害をうけ、さらに陳滅亡後、隋軍により建康城自体が徹底的に破壊され田畑にされてしまった(『隋書』地理志及び『資治通鑑』巻177より)際、同時に破壊されしまいました。
そのようなわけですので、今ある鶏鳴寺は、その後身とされていますが、場所が同じなだけで、南朝の同泰寺とは別物と考えた方がよろしいと思います。


なるほど 投稿者:むじん  投稿日: 2月 5日(木)17時41分14秒

>怨霊さん
そうですか、避諱する以前の状態に戻すこともありうるんですね。
ただこの件に関してみると、操字を使う必然性があまり高くないような気がしますね。

>殷景仁さん
こういう用途での反語というのは知らなかったです。
新選漢和には載ってないなぁ…。

http://mujin.parfait.ne.jp/


アドレス変更 投稿者:よーこ@プロバイダ難民  投稿日: 2月 5日(木)15時55分21秒

ナガイチ君おひさしぶり。
忘れているかもしれないが、
大学が一緒でサークル連が一緒で時々一緒に飲んだくれた
ざ・暇つぶし管理人こと「よーこ」です。

プロバイダ乗換えのため、ホームページとメールのアドレスを変更します。
取り急ぎお知らせまで。
それと、いまさらだが、
ネ ッ ト で 私 の 本 名 を 出 す の は や め て く れ w
よーこに修正してくれ。お願いだ。でわ。

http://park3.wakwak.com/~hima/tubusi/


避諱−孫炎−反切−同泰寺 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 2月 5日(木)02時46分56秒

避諱の話がこういう方向にいくとは思ってもいませんでした。(^^)

愛用の『中国歴史大辞典−魏晋南北朝史巻』(上海辞書出版)引くと
--
唐の許嵩『建康実録』によると:武帝が同泰寺を創(建)した。寺は
宮後に在り、別に一門を開き、大通門と名づけた。寺にたいして南門
にあたり、返語を取って「以協同泰」を名とした。
--
とか書いてありました。訳はいい加減。よく分からんです。

古同泰寺のモノクロ写真。
言われて見てみました……。

上掲歴史辞典の同項によると。
同泰寺は侯景の乱のときに壊されて、
五代呉の順義元年(922)に遺趾の上に台城千仏院が建てられます。
南唐のとき浄居寺が置かれ、円寂寺と改名。
宋のとき法宝寺となる。
明の洪武二十年(1387)に鶏鳴寺を重建。
だそうです。

反切は、通鑑読んでると胡注にようけこと出てきます。
発音あらわしてるってのは知ってたんですが、具体的に何言っとるん
ぞい…というのは今もよく分かってません。
やっぱりちゃんと勉強しないとダメですか?

『魏略』儒宗伝…曹操の諱も避けてないんですか。


どこからいこうか 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 2月 5日(木)02時44分29秒

しばらく放っておいたら、どこからレスつけたらいいのか分からない状態に。
テッド・チャン『あなたの人生の物語』(ハヤカワ)など読んでる場合では
ないのでせうか。面白いけど。
上海博物館展を見るためだけに高知に行く計画が挫折しそうになっているの
がいけないのでせうか。

>perdidoさま
>=ちがいで(苦笑)

イコールがついてたので違和感あったのですが、
検索かけると
「土台−上部構造」とか「土台→上部構造」みたいな対応関係を示す表現は
けっこうあるんですね。これは僕も意外でした。
僕も哲学よう知らんので、このへんで。
中野@福州さんとかが出現したら、解説してもらえそうですが、いまの話の
収拾がつかなくなりそうだし。(^^;)
スレッド式かツリー式の掲示板なら話題がいくら分岐しても構わないんです
けど。板人口が多い状態が定着するようなら、スレッドかツリーに借りかえ
ることも検討します。

>殷景仁さま
曹操「観滄海」、この前に雄大・雄渾だといってましたが、
分かりやすくもダイナミックな叙景詩ですねえ。
修辞を越えた感慨というと
芭蕉の「ああ松島や」を思い出しますが(爆)、
見たことのない光景が立ち現れそうだというところでは、
具体性に富むかもしれません。

次の謝霊運とどう比較するかを楽しみにします。

>コルテスさま
>個人的には、南北朝と唐より、唐と宋の違いの方が大きいように思います

これは同感です。僕も唐宋変革論に汚染されてる人間なんで。
堀敏一『中国通史』(講談社学術文庫)の最後の章
「中国史発展の大勢をどうみるか−時代区分問題と現在からの視点」
あたりからはじめるのがホントはいいかもしれないんですが…。
僕の好みを優先させていただきまして。

宮崎市定「東洋のルネッサンスと西洋のルネッサンス」では、
唐末から宋にかけての変革について次のものを挙げています。
1.「哲学」…北宋中期に起こった儒学の復興。宋学。
2.「文体」…韓愈・柳宗元以後の古文復興。
3.「印刷術」…大蔵経出版。畢昇の活字発明。
4.「科学の発達」…羅針盤と火薬の発明。
5.「芸術の発達」…南画・北画の大成。
ということでこの時期を西洋のルネサンスに先立つ文芸復興の時期と
みなし、宋以後を近世としています。

同じく宮崎『東洋的近世』
1.「交通」…開封を首都とし、運河交通が発達。
2.「社会経済」…荘園部曲制の崩壊。佃戸の出現。銅銭・銀塊二本
立ての貨幣経済の隆盛。都市の発達。分業の発生。
3.「政治」…貴族の没落と君主独裁権の確立。科挙の完成。士大夫
階級の成立。
4.「国民主義」…北方民族の民族王朝と漢民族の民族主義。
5.「文化」…宋学の成立。口語文学の発生。絵画の発達。
を挙げています。
細かくいうといろいろありますが、日本の東洋史では内藤湖南の影響
などもあって、長らく唐宋変革の考えは根強かったのです。
ただし、唐以前を古代、宋以後を中世とする前田直典・仁井田陞らと
後漢〜唐を中世、宋以後を近世とする宮崎らの対立がありました。

最近では、ヨーロッパとの関連で明清以後を近世とする議論もあるよ
うです。時代区分論争じたいが下火という話もありますが。


もしかして... 投稿者:perdido  投稿日: 2月 4日(水)18時40分2秒

むじんさま、殷景仁さま
同泰寺ですが、川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫,p.271に、写真があって鶏鳴寺(古同泰寺)とキャプションがつけられていましたが...これでいいんでしょうか。
そうだとしたらちょっと意外ですが...


反切と反語 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月 4日(水)18時26分20秒

>むじんさま
>大通→同泰
すみません。『南史』を調べましたら逆でした。つまり、同泰寺を建立したのにちなんで「大通」と改元したのだそうです。さらに同時に寺の南門の向かいに開いた門も、同じく「大通門」と命名したそうです。

>反語って?文意からすると反切っぽいな?と思ったんですが
厳密に言うと、反語の方が、反切よりも意味がやや広いところがあります。反切と同義なもの以外に、同泰→大通というような一種の言葉遊び的なものも含みます。まあ『三国志集解』の「反語」の意味は「反切」と取ってでいいと思います。

>大通→同泰 これは何か別の名前ありませんでしたっけ。えーと、なんて言ったかなあ…。
私も思いつきません。ひょっとして趙翼の『廿二史箚記』あたりにあるかと思い、調べてみたのですが、見あたりませんでした。どなたかご存じありませんか?

>怨霊さま
>反切は漢書注などでズイブンお世話になってますので、創始者には最敬礼ですね。
実はこの『漢書』注で、顔師古が引用する服虔・応劭の注に反切が数例見られるため、顔之推らの「孫炎が反切を作った」という説は否定されてしまったのです。顔師古は顔之推の孫に当たりますから、何とも皮肉な結果と言えましょうか。


反切 投稿者:怨霊  投稿日: 2月 3日(火)19時32分38秒

>殷景仁さま
そうっすか。孫炎が反切を作ったという伝説があったんですか。
知りませんでした。
反切は漢書注などでズイブンお世話になってますので、創始者には最敬礼ですね。

>むじんさま
三国志注で引かれているものについては、「注の成立時期」も考慮すべきかもしれませんよ。
実例は見つけてませんが、
「成立時は避けていたが斐松之にとっては諱ではないので本来の字に戻した」
可能性もあるんじゃないかと。
逆(本来の字を避けて引用している)はありますけどね。漢書や史記の注にはいくらでも。
(「虎」「世」「民」などを別の字に書き換えて引用)


避諱してない… 投稿者:むじん  投稿日: 2月 3日(火)04時37分31秒

『三国志』の元ネタの一つに『魏略』という史書があるんですが、
これは甘露二年からそう遠くない時期に作られたと私は思ってるのですが、
司馬氏の諱を避けていないのは当然としても(郝昭・李義字孝懿)、
なんと曹氏の諱すら避けていないんです。
王粛伝注に引く『魏略』儒宗伝の序に「よく筆を操る者は十人に満たず」
なんていうのがあるんですよ。
これはどう判断すべきでしょうか(^^?


反切 投稿者:むじん  投稿日: 2月 3日(火)04時24分49秒

ああ、やはりそういうことでしたか。
『三国志集解』を見たのですが「孫炎が反語を始めた」うんぬんとあって、
反語って?文意からすると反切っぽいな?と思ったんですが、
反切は後漢末期に始められたとも聞いてましたので、
もしかしたら別のことかも知れないと触れられなかったんです。
なるほど、やはり反切のことだったんですね。
「蒼頡が字を定め、孫炎が音を作った」とも言われたそうですから相当なものですね。

>大通→同泰
これは何か別の名前ありませんでしたっけ。えーと、なんて言ったかなあ…。


孫炎 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月 2日(月)20時39分51秒

むじんさまへ:

>今でこそ散佚してますが、当時はかなり有名な学者さんだったようです。

大学者であったことは確かです。顔子推『顔氏家訓』音辞篇・陸徳明『経典釈文』などを見ると、六朝末の人々からは、特に「反切」の創始者と見なされていたことが分かるぐらいですから。

反切というのは、漢字の発音を示す方法として発案された方法です。簡単に言いますと、ある漢字があるとしますと、その発音を、二つの漢字に分解して表す方法です。

古来、中国の漢字音は「声母(音節初頭の子音)」「韻母(介音+副母音+主母音)」「声調」の三要素に分割されます。つまり、ある漢字の音(反切帰字)を示したい時、その後ろに二つの漢字を並べ、前の漢字(反切上字)でその声母を表し、後の漢字(反切下字)でその韻母と声調を表すという方法を、反切と言います。

例を挙げますと、注釈などに「筆(ヒツ)、不律(フリツ)の反」などと表記する方法がそれです(ただし後世「反」の字は「叛」に通ずるということから「不律の切」のように表記されるようになっています)。

六朝時代は、こうした反切方法が非常に通好していたようです。例えば、梁の武帝が捨身したことで知られる「同泰寺」ですが、この命名は、この時の年号が「大通」だったことによります。つまり「大通」をそのまま反切とすれば、「同」の字が導き出され、二字を逆にして「通大」とすれば、「泰」の字が導き出されるという原理です。この手の例は、六朝から初唐にかけて枚挙にいとまがありません。

このように、中国音韻史上重大な発明をしたされている孫炎ですが、現在では清朝以後の研究により、彼が反切を創始したという説は、残念ながら否定されております。現在では、およそ後漢の末に創出されたというのが通説になっています。しかし、顔子推ら六朝の知識人たちが、彼を反切の創始者とみなしていたことが事実である以上、やはり相当な学者であったと考えていいと思われます。


また走り出した(爆) 投稿者:perdido  投稿日: 2月 2日(月)19時11分47秒

むじんさま

>なお魏志では公孫淵と書かれる人物を、晋書では公孫文懿と書いているようです。
なるほど〜。でもこれじゃ素人にはだれだかわかんないですな(苦笑)。

コルテスさま
>南北朝と唐より、唐と宋の
>違いの方が大きいように思います(もっともこれは素人の主観なのですが)。
同感です。唐には北朝からの連続性がいくらでも指摘できますが、宋になると完全に皇帝独裁、貴族の支配が一掃され科挙による官僚制が完備され、商業の発達、首都も五代の王朝から引き継いではいるものの開封という統一王朝としては中国史上全く新しい都市になっています。宋の時代を「亜近代」という人もいますし、またまた今度はわたしの主観なのですが(笑)、ヴェーバーの支配の類型で言えば唐までが「伝統的支配」の時代、あるいは其の要素が強い時代で、宋からは「合法的支配」、あるいはその要素がより強い時代じゃないかな〜と思います。


(無題) 投稿者:コルテス  投稿日: 2月 2日(月)09時50分34秒


確かに唐は魏晋南北朝と宋の過渡期だと思いますが、個人的には、南北朝と唐より、唐と宋の
違いの方が大きいように思います(もっともこれは素人の主観なのですが)。
宋の政治体制とか社会の安定性というのはかなりのもので、モンゴル帝国などという
予想不可能な災厄がなければ、かなり長続きしたような気がしますが。


(無題) 投稿者:むじん  投稿日: 2月 2日(月)01時55分39秒

>孫炎
今でこそ散佚してますが、当時はかなり有名な学者さんだったようです。

>三国志
陳寿は魏志を作るとき先行する魚豢魏略や王沈魏書をまるごと転載している部分があるらしく、
(呉志などでは即位以前の孫権を「至尊」と称したりしています)
転載元の表記によってばらつきが出た可能性もありそうです。

なお魏志では公孫淵と書かれる人物を、晋書では公孫文懿と書いているようです。

>怨霊さま
はじめまして。某所でのご活躍は伺っております。
今後もよろしくお願いいたします。

http://mujin.parfait.ne.jp/


曹操の叙景詩と謝霊運の山水詩について(其の二) 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月 1日(日)21時51分35秒

この詩の制作年代は、『三国志』武帝紀の記述などから考えれば、建安十二(207)年、烏丸討伐の勝利後、秋九月、柳城から鄴に凱旋する途中に作った作品と思われます。碣石山は、現在の河北省の海岸付近の山(具体的な地の特定については諸説あり。詳しくは&#x 9f94;学孺『三国志歴史紀行』を参照してください)。その名前は、既に『尚書』の「禹貢篇」にも見え、神仙思想と結びついた霊場として、秦の始皇帝や漢の武帝らが始皇帝32年(前215年)、元封元年(前109年)にそれぞれ行幸しています。

そのような神秘的な霊山の頂に立ち、大海原を眺めやることのできた曹操の感慨が、この詩にはストレートに表現されているかのようです。恐らく興の赴くままに作ったのでしょう。もちろんよく見れば、修辞的には素朴とも荒削りともとれる箇所があることは確かです。「樹木叢生、百草豊茂」という対句や「日月之行、若出其中。星漢燦爛、若出其裏」という隔句対など、詩句一つ一つを取り出せば、どうということもないといえるかもしれません。しかし、碣石山という山の持つ独自の神秘性、そして風吹きすさぶ荒海の情景に向かい合い、臆することなく自己の感慨を詠いあげた力強さが詩中から感じられ、そうした修辞的欠点を補って余りあるような気がします。さらに想像を逞しくすれば、戦勝気分で高揚する曹操の気持ちが、詩中の叙景の雄壮さにも反映していると見ていいのではないのでしょうか。まさに、英雄曹操の面目躍如たる詩と言えるのではないのでしょうか。

というわけで次回は、同じ海を眺める詩でありながら、制作状況も制作地も全く違う、謝霊運の「郡東山望溟海」を紹介して比較してみたいと思います。正直言いますと、この詩自体は謝霊運の作品の中で、格別優れているとは思えません。しかし、海を眺望するという詩自体が珍しいこともあるので、とりあえず比較として紹介します。彼の緻密な山水描写とその技法は、その後別の作品で紹介してみようと思います。


曹操の叙景詩と謝霊運の山水詩について() 投稿者:殷景仁  投稿日: 2月 1日(日)21時49分41秒

整然とした説明ができるかどうか心許ない限りですが、お約束通り、入谷仙介『古詩選』(朝日新聞社)などを参考にしつつ、曹操の叙景詩「観滄海」と謝霊運の山水詩の幾つかを比較をしてみたいと思います。

まずは曹操の「観滄海」の原文と書き下し、大意を紹介します。

(原文)  (訓読)         (大意)
観滄海   滄海を観る        青海原を観る
東臨碣石  東のかた碣石に臨み    東のかた碣石山の頂上より見下ろし
以観滄海  以て滄海を観る      そして青海原を眺めやる
水何澹澹  水何ぞ澹澹たるや     海の水は何と緩やかに波打つことよ
山島竦峙  山島 竦峙す       この山は(その海より)険しくそそり立つ
樹木叢生  樹木 叢生し       樹木は群がるように生え
百草豊茂  百草 豊茂す       様々な草が豊かに茂る
秋風蕭瑟  秋風 蕭瑟として     秋風が寂しげに吹きすさぶと
洪波湧起  洪波 湧き起つ      大波が盛んに湧き上がる
日月之行  日月 之き行くは     日月の運行する様子は
若出其中  其の中より出づるが若し  まるでこの大海原の中から出てくるかのようだ
星漢燦爛  星漢 燦爛たるは     天の川の燦爛と輝く様子は
若出其裏  其の裏より出づるが若し  まるでこの大海原の中から出てくるかのようだ
幸甚至哉  幸甚 至れるかな     幸せなことこの上ない
歌以言志  歌いて以て志を言わん   歌ってそれでこの気持ちを表そうではないか


誤記じゃないですよ〜 投稿者:perdido  投稿日: 2月 1日(日)20時53分30秒

NAGAICHIさま
誤記じゃないです。=ちがいで(苦笑)
土台=下部構造なのはおそらくそうでしょうが、理論の名称が社会学辞典でもネットでも「土台=上部構造」という名称になっていました。つまり、下部構造という言葉自体が使われていないのでちょっとびっくりしましたが...
アルセルチュールがどうとか詳しい論争史になったら哲学が苦手なので付いていけません(苦笑)


自分もいい加減なこといってるんで 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 2月 1日(日)17時28分49秒

ここ数日Mydoomウイルス付メールが大量に来てます。
いつものごとく差出人詐称です。
たぶん近くに感染してる人がいるはずなので、対応お願いしますよ。

映画「ラスト・サムライ」見てきました。
以下、ネタバレ含みで書きますが。
時代設定が西南戦争ごろなのに、侍は甲冑姿で刀や弓を用いて戦い、鉄砲使わない
という戦国時代以前の武器防具・戦術であるとか。
お約束のニンジャが登場するとか。
いろいろ笑える設定ではあるのですけども。
評判通り面白かったですよ。映像・ドラマ・演技ともに良かったし。
ということでオススメ。

>perdidoさま
まあ現代的な意味で「地方分権」と使うと妙かもしれませんね。
でもこんな場ですし、ニュアンスが伝わればいいと思いますよ。
大学とかだと厳しくツッコまれるんでしょうけど。

>上部構造と下部構造というより「土台=上部構造論」だそうで、

これは誤記ですよね。土台=下部構造で。
史的唯物論の基本の考え方で、
生産関係の総体(乱暴にいえば経済関係)が、下部構造=土台となって
法律、国家、政治制度、思想体系、宗教、芸術、観念、イデオロギーなどが
規定されるという。

また脱線ですけど、
『銀英伝』の中でヤンが「軍事は政治に従属し、政治は経済に従属する」と
か言ってたんですが、これもこの考えの一変種ですね。


おわびです(やっぱり走りすぎた...) 投稿者:perdido  投稿日: 1月30日(金)01時17分2秒

 どうも怨霊さまの「地方分権」という言葉がひっかかるなあ、と思ってたら自分が「年表」にカキコしてるんですね...すみませんm(_ _)m でも、いちおう?は、つけましたよ(苦笑)。
  行政マンなのにどちらかというと行政用語に近い「地方分権」を安易に使いすぎたなあ、と反省しています。ただ、
>漢の徴兵制や徴税がある程度維持できたのは、かつての都市国家である「県」単位での
>共同体が機能していたということだと思うのです。
>つまり城壁の内側に住む同士は運命共同体であり、
>共に生活するためには金や労力を提供するのが当然だった、
これは、「地方分権」とはいわないんです。最近の地方分権論は江戸時代の藩の単位をイメージしているようですが都道府県のようなけっこう大きな単位です。最近の地方分権以前にも、戦後の日本では、地域のムラの共同体は怨霊様がおっしゃる単位ではこわれつつも一貫して存在していたわけですから...
 地方分権一括法でいままで全部国の権限だったのが地方に任された。埋蔵文化財の仕事をやっているとやってることはほとんど変わらないのですが、保護法の条文を読むと都道府県と市町村に権限が移ったことがはっきりしています。

上部構造と下部構造も怪しげな使い方している。
上部構造と下部構造というより「土台=上部構造論」だそうで、人間の生産活動は、社会をなして存在している人間が相互に働きかける活動であって、生産に関して人間は相互に社会的な関係を取り結ばざるを得ない。これが生産関係で、さまざまな生産関係の総体を「土台」といい、法律、国家、政治制度、思想体系、宗教、芸術、観念、イデオロギーなどを「上部構造」といい、「上部構造」は、「土台」によって条件づけられる、という考え方のようで安易に使ってすみません。これも原典にあたらないといかんなあ、勝手なことばかり書いている...

NAGAICHIさま
>脱線な話ですが、ウェーバーはヴェーバーと濁るほうが原音に近い
>というのはホントでしょうか?
おそらくそうだと思います。ドイツ語のWは、ヴィルヘルム(Wilhelm)のように濁りますし、ウェーバーは、Weberと綴りますから、ヴェーバーのほうが原音に近いと思います。


帝国と地方と 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月29日(木)22時39分25秒

また妙なウイルス流行っているらしいですね。気ぃつけてください。

>怨霊さま
>唐はもう最初から中世というか魏晋南北朝の貴族社会からはほとんど脱皮している気は
>します。

まあ僕は中世から脱しているとか、貴族社会から脱しているとかは
思わないんですが、唐は六朝(南朝)の貴族社会とは異質でしょう
ね。
どちらかといえば北朝系の貴族社会を引き継いで胡風で尚武の気質
を保持しつづけているというか。

>秦から漢は、一貫して地方分権の時代だったと思います。
>帝国は、それをゆるーくヒモで縛っていた、程度の中央集権というイメージでしょうか。

郡県制・郡国制の経緯をみると、中央は集権化に努力しているんで
しょうけども、必ずしも成功していないでしょう。
三老のような伝統的なシステムのほうが脈々と生き続けて、後漢に
なるころには豪族が成長してきている。

古代を都市国家の時代と捉える見方はよくありますし、
都市国家から生まれた帝国は、都市国家の構造抜きにありえない。
古代の総決算を「東の漢、西のローマ」として、都市構造に迫ると
意外とよく似てるともいわれますね。
で、なにが言いたいかというと、おっしゃることはほぼ同感てこと。

>鹿角さま
>マホメットが出て来て三蔵と一期一会の出会いをするのが意外

読んでませんが、そりゃ作者遊んでますね。
定金『ジハード』みたいに荒唐無稽な面白さならいいんですが。

>また十二国記

僕としては、鈴と祥瓊の話は好きでもあり、同時に痛くもあるんですが、
それぞれ清秀と楽俊という出来すぎな人物に出会って
「人間変われる」ということを極端に示した話とみてます。
実際80年も変われなかった人間が、あんなに豹変できるのか、僕は
知りませんが。

悩める「簒奪者」月渓のお話は僕も好きですね。
まあアニメで内面の葛藤を表現したらああなってしまうんでしょう。
動画であまり長々うじうじ悩まれても。
最近「羊のうた」というアニメ見て、あまりに内面的でアニメとしての
動きのなさに辟易したもんなあ。

>perdidoさま
>ウェーバーが、支配の三類型として「伝統的支配」「カリスマ的支配」「合法的支配」
>を挙げていますが、中国の王朝の支配の形態はどれに当てはまるのかそれとも当てはま
>らないのか、

どれもあてはまると思いますよ。
そのうちのひとつにしか分類できないというわけではないはずで。
ケース・バイ・ケースの話ができると思います。
ただ長らく「伝統的(長老的)支配」が強かった国でしょうけど。

>始皇帝の時代は六国の不満が充満していたから、あるいは、ヒトラーやかっての東欧
>の社会主義国家、北朝鮮のような「カリスマ的支配」に近かったのかもしれません。

通説に沿っていえば、始皇帝の「合法的支配」があまりに急進的す
ぎて、旧六国の「伝統的支配」に抵触したのではありますまいか。
いや、始皇帝個人のカリスマを否定するわけではありませんが。

脱線な話ですが、ウェーバーはヴェーバーと濁るほうが原音に近い
というのはホントでしょうか?
アシモフは初期翻訳のアヂモヴのほうが近いというに似た話。


中国史のもうひとつの見方?素人考えの走りすぎですかね... 投稿者:perdido  投稿日: 1月29日(木)00時13分39秒

怨霊様>
>秦から漢は、一貫して地方分権の時代だったと思います。
う〜ん、本当にそう言ってしまっていいのでしょうか。全て地方分権みたいな議論になってしまいそうです。例えば、呉楚七国の乱以降も地方政権が一定の力をもっていて、あんまり変わらなかったというのならわかるのですが…
>ただ、中世などと違うのは、
>「地方」の側が(ある程度は)自発的に中央に従っている面がある点だ、と感>じます。
これがポイントだと思います。つまり、自発的に被支配者が服従する意欲をもたらす権威が、秦、漢帝国にはあって機能したということです。表現が悪くて申し訳なかったのですが(実は、地方分権?と書いたのはどう表現したらいいかの迷い)、自分が考えていたのは、王朝の中央政府が藩鎮なり諸侯なり塞王なりのある程度の独立性をもった勢力を抱えているか、あるいは、そういう状況が少なくて王朝の中央政府が機能している状態の区別をしたかったのです。ですから共同体が機能していたというレベルの話ではなく、中央政府のシステムが機能する状態と「自立できてしまう豪族」や「運命共同体の中に入れてもらえない隷民」という例でおっしゃるような、中央政府のシステムがうまく機能しない状態、別の言い方をすると、王朝の中央政府が、秦の郡県制、北魏の部落解散のようにして中央政府が支配の対象を把握できるようにした状態と南朝のように貴族や寒門の武将が力を持っていたり唐末の藩鎮や春秋時代の諸侯(これも厳密に言えば細かく分類しなければならないと思いますが)のような状態が交代して出現する様子を年表にしたかったのです。
もっと詳しく分類すれば、例えば
(1)完全に近い中央集権または王朝の中央政府の権威がゆきわたっている状態(始皇帝の秦、景帝以降の前漢も含む)
(2)豪族、貴族、諸侯などの比較的自立した勢力を抱えながらも王朝の権威がゆきわたって安定している状態
(3)王朝の権威はかろうじて認められているが、諸侯、藩鎮などが自立してしまって、王朝の中央政府に抑える力がない場合(春秋の諸侯、唐末の藩鎮など)
(4)完全な分裂状態(戦国時代、五胡十六国時代、五代十国など。ただこれも各国の内部の構造が(1)〜(3)のいずれかになってくる可能性がある)
みたいに分類できるかもしれません。(2)はさらに細かい分類ができそうだと思います。M.ウェーバーが、支配の三類型として「伝統的支配」「カリスマ的支配」「合法的支配」を挙げていますが、中国の王朝の支配の形態はどれに当てはまるのかそれとも当てはまらないのか、ウェーバーが気付かなかった新しい支配の形態があるのか興味深いところですが、秦、漢の場合、徴兵制や徴税がかつての都市国家である「県」単位での共同体が機能していた(=伝統、習俗の機能、共同体を守り続けて機能させようとする態度が習慣的にとられる)ので、ある程度維持できたのならば、「ある習俗がはるか遠い昔から通用しており、しかもこれを守り続けようとする態度が習慣的にとられることによって、神聖化された場合」「古い方の家父長や家産領主の行った「伝統的支配」」(この場合、家父長や家産領主の行った支配そのものを指しているのではなく「カリスマ的支配」「合法的支配」と区別する例として挙げている。)に当たると思われます。   マルクス主義ではありませんが下部構造、ミクロとしての地方、上部構造、マクロとしての王朝全体という論じ方もできるかもしれません。(1)〜(4)を細かくして、ウェーバーの支配の三類型をからめて論じてみれば一味違った中国史が見えてくるかもしれません。始皇帝までの秦、あるいは、景帝以降の前漢は、支配者と被支配者の双方が、内面的にしかるべき根拠から現行の支配秩序を正当なものであるという思い込み(「正当性信念」)がうまく機能している状態、あるいはそれを維持するシステムが機能している状態であったと思われます。始皇帝の時代は六国の不満が充満していたから、あるいは、ヒトラーやかっての東欧の社会主義国家、北朝鮮のような「カリスマ的支配」に近かったのかもしれません。いずれも厳密に区別するのは難しいとは思います。


また十二国記 投稿者:鹿角  投稿日: 1月27日(火)14時21分6秒

鈴 36話は格好良かった〜
  梨耀のもとで小さくなってたのが嘘のよう・・・
祥ケイ  40話で桓タイといい雰囲気でしたね
     ゆくゆくは職場結婚?(先走りすぎか・・・)
月渓  原作の乗月で悩みまくってたのが嘘みたいに
    アニメではいやにあっさりしてたなー
    まともにとりあげてたら2話くらいかけなきゃ
    いけなくなるから?でもこの人の奥床しさは
    阿選も見習えと言いたい
    (でもそうだったらあんなことしないか・・・)
昇紘 声が供麒と同じ!でもってカガリパパ(-_-;)
    二役は六太と景麒に続いて三人
    (にしても子安さんの老人声初めて聞いた
     役柄が離れているほうがやりやすいのかな?
    


西域伝 投稿者:鹿角  投稿日: 1月27日(火)09時18分53秒

伴野さんの三蔵法師物
頼むから刺客なしの長編を書いてくれー(T_T)
という私情はともかく(まあ伴野版西遊記と
思えばいいか・・・)マホメットが出て来て
三蔵と一期一会の出会いをするのが意外
隋唐演義と時代的に重なるせいか
李世民の出番がかなり多かった(-_-;)
伴野版隋唐演義ともいうべきかな

太宗はかなり熱心に彼を還俗させようと
あの手この手を使うけど全部空振り(^^;)
二人の対決シーンはドキドキしながら読みました
同じ長安に身を置きながら住む世界が違うと言う事が
太宗は理解できなかったんでしょうか?


鈍ってるなぁ俺 投稿者:怨霊  投稿日: 1月26日(月)19時50分59秒

>永一さま
いやはや全く簡潔すぎるというか駄レスでした。恥ずかしい限りです。
唐はもう最初から中世というか魏晋南北朝の貴族社会からはほとんど脱皮している気はします。
科挙の施行とはまた別に。
官僚制度的な面から言えば、
ロクに仕事しない連中がいつまでもふんぞり返っていられるものではない、
という所でしょうか。
(自分で言ってて耳が痛いな・・・)

>perdidoさま
秦から漢は、一貫して地方分権の時代だったと思います。
帝国は、それをゆるーくヒモで縛っていた、程度の中央集権というイメージでしょうか。
ただ、中世などと違うのは、
「地方」の側が(ある程度は)自発的に中央に従っている面がある点だ、と感じます。
漢の徴兵制や徴税がある程度維持できたのは、かつての都市国家である「県」単位での
共同体が機能していたということだと思うのです。
つまり城壁の内側に住む同士は運命共同体であり、
共に生活するためには金や労力を提供するのが当然だった、ということです。
秦・漢はそれを全国レベルで集約していたに過ぎないのではないでしょうか。
ですから、運命共同体から離れて自立できてしまう豪族が生まれ、
逆にその運命共同体の中に入れてもらえない隷民が増えてくると機能できなくなる・・・、

なんて、ずらずらと適当な事書いてしまいましたね。


話題が広いです 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月26日(月)18時24分47秒

>むじんさま
>叔然は晋武帝の諱を避けたものと裴注は説明しています。

新しい【寒泉】で確認しました。
『晋書』巻一百一 載記第一 中華書局版p2653
「劉宣字士則。朴鈍少言,好學修潔。師事樂安孫炎,沈精積思,
不舍晝夜,好毛詩、左氏傳。」

抜き出すと「劉宣が…楽安の孫炎に師事した」とあります。
この孫炎が孫叔然なら、陳寿がこれは避諱したんでしょう。
「避諱している箇所とそうでない箇所とが混在している」が
おっしゃるとおり正解ですね。m(_ _)m

>怨霊さま
>中世から近世へと至る道の途上が唐なのかもしれません。

うーん、簡潔すぎてツッコミどころがありません。(^^;)
京都学派の唐宋変革論にもとづくと、唐末から五代あたりが
中世から近世への過渡期ということになってます。
全然学閥関係ない立場なのに、京都の影響受けまくりな自分。
これというのも宮崎市っぁんの所為だ〜。

>perdidoさま
表ありがとうございます。
世の中乱れてくると割拠的になり、安定すると集権的になる
とかいう身もふたもないこともいえるんですが。
さておき、どんな時代だろうと地方制度は存在するわけで、
郡県制(州県制)と封建制のどちらに重きをおくかという時
代ごとの特色は出ます。
郡県制だから中央集権だとも断言はできないわけで、
魏晋南北朝などでは、なんたら都督とか行台とか肩書き持っ
た地方有力者が、刺史や太守を勝手に任命するということも
ありますし。
中央が地方の官僚たちを統制できなければ、郡県・州県も名
ばかりで中央集権とはいえません。
ということで、王朝の興亡につれて揺りもどしがくるわけで
すね。しかし、北魏はある程度までは中央の統制が効いてい
たと思います。

>two_yossyさま
>どうも小竹氏は光武帝の兄・劉エン( Unicode : 7E2F )と更始帝・劉玄と
>を同一人物だとお考えのようです。

ちくま『漢書』確認しました。
たしかに劉[糸寅](伯升)と劉玄(聖公)を混同してますね。
文庫化するまで20年あって、修正されてないというのは。
小竹武夫氏ご本人が亡くなっているので、難しいんでしょうか。


北朝 投稿者:NAGAICHI Naoto  投稿日: 1月26日(月)18時21分33秒

まず北朝ばなしから。

>MNOさま
>北朝は鮮卑等の異民族による国家なので、皇帝独裁権がかなり強いのでは
>ないかと思います。

草原の遊牧民族は、厳しい環境に適応するために、よりシビアに
強いリーダーを求める、ということは俗にいわれますね。
リーダーシップも強くなるということはあるでしょう。
ただ拓跋部も華北定住生活が長くなるにつれて、変容してるよう
にみえますけども。

>特に北斉では、高歓が多数の領民酋長(部落解散させられず世襲を認めら
>れた族長)を味方につけて権力を確立しました。

領民酋長の代表というと爾朱栄などで。(爾朱栄は高歓の下につ
いたことはなく、むしろ逆ですが)
部落解散は拓跋部の外に及んでいないと考えたほうがいいでしょ
うか?
六鎮の乱から北魏の分裂にいたる道筋はややこしいので、
この人はどういう出身のひとだっけ?ということが分からなくな
ることが僕にはあります。
北鎮系だったか、爾朱氏系だったか…とか。
しかし、どうも爾朱栄は董卓とキャラがかぶっていかんのですが。

>perdidoさま
>五胡諸国は有能な君主が亡くなったら傍系の有能な宗室に奪われるか崩壊
>するかのもろい構造だったのですが北魏はそれを部落解散によって免れた
>と思われます。

「部落解散」の解説ありがとうございます。
また素人考えですが、部落解散は部族社会の解体と胡漢の民族融
合に一定の効果があったと思いますが、傍系の有能な宗室に奪わ
れるのを防止したかどうかは、僕には疑問です。

北魏の宗室はけっこう軍権握って動いてますし、有能な人と、
ダメな人の差が激しい。
宗室が反乱起こして、あっさり鎮圧されるパターンも結構ありま
すし。
任城王元澄とかその気になりさえすれば、国を奪えたかもしれな
いし。元叉なんかは二歩手前くらいまでいって殺されてます。
北魏が150年続いたのは歴史の流れの妙に思えてしょうがない
です。
北魏の皇帝権力は羽林・虎賁あたりが基盤で、
あとは北来貴族層と漢人士族層のバランスの上に立っていたので
はないかと。

>北朝の皇帝権は、強かったのかと思いましたが、実質的には馮太后の摂政
>をはさんで孝文帝までで、

これは同感です。
太武帝あたりがいちばん強かったのではないかと。太武帝が宦官
に殺されたとき、崩壊してもおかしくなかったのですが、
文成帝が幼少ながら源賀・陸麗はじめ輔臣をえて守成につとめた
のが大きかったかと。
文成帝以降、年少な君主つづきでよく奪われなかったもので。

>怨霊さま
>北朝も似たような部分があったんじゃないでしょうか。

部族社会を完全に解体してしまえたわけではなかったということ
で、「緩やかな連合体」の部分もあったと思います。
半独立の勢力をけっこう抱え込んでましたし。
小規模の叛乱は連年のように起こってました。
ただ北魏には、草原社会や五胡ほどの離合集散がないひとときの
安定があったかと。


お察しのとおり 投稿者:怨霊  投稿日: 1月25日(日)21時32分10秒

>two_yossyさま
そのとおりですね。
該当部分は「初、世祖族兄聖公先在平林兵中」。
これは明らかに更始帝劉玄の事です。
なお、この劉聖公と劉伯升(光武帝の兄)は漢書王莽伝で一貫して字で呼ばれていて、
班固による一種の敬意表現ということらしいです。
それが混乱を招いてしまったのでしょうか。
誤訳や誤注は誰にでもあることですので、気を付けて読んでゆくしかないでしょうね。

>perdidoさま
漢代あたりの匈奴は一見強大な勢力を誇っているように見えても、
実は各地の王などの発言力が結構強く、緩やかな連合体だったんじゃないかという節もあります。
北朝も似たような部分があったんじゃないでしょうか。


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