>イノセンスメモ
なんか、山田風太郎の『人間臨終図鑑』を思いだしました。
この本は死亡した年別に、いろんな人の臨終の瞬間を記したものなんですが、
各章の冒頭ごとに古今東西(と山田風太郎)の死に関する名言が引用されているんですよ。
単に、歴史上の人物を年代ではなく、享年で並べ替えた列伝として読んでも面白い
(と書くと不謹慎でしょうが(^^;)ですよ。
宇宙から見える地上の建造物が3つあります。
ひとつはエジプトのピラミッド、
ひとつはオランダの干拓、
ひとつは中国の万里の長城です。
…というフレーズをカマしてくれたガイドがいたことを僕は覚えている
のですが、
http://www.people.ne.jp/2004/03/13/jp20040313_37552.html
そういうのもなくなってしまうんでしょうね。なんとなく寂しい。
>two_yossyさま
>というかもともとガンバルのがダメなタイプ
お、同じだ!
というかしょせん趣味ですから
その時々で気の向いたことをするのが長続きするコツだと思います。
無理はダメ…というのが中国史サイトなぞを5年弱続けてきた教訓。
いくら好きだろうと飽きるときは飽きるんだもの。
>殷景仁さま
儒者とか文学者とかいう専門のカテゴリで分けるのが難しかったという
ことですね。納得。
スペシャリストよりゼネラリストが求められたということですか。
>元嘉時代を「文治政治の安定した時代」と一括する傾向がありますが、
>この時代をよく読むと、必ずしもそうとは言えない面がうかがえます。
三年(426)に徐羨之・傅亮が殺され、謝晦が討たれたのが強烈ですが、
十年(433)に謝霊運・謝恵連
十三年(436)に檀道済、
十六年(439)に趙広・張尋、
十七年(440)に劉湛・劉斌、
二十三年(446)に范曄・謝綜・孔煕先、
二十八年(451)には劉義康、
三十年(453)には文帝じしんが太子に殺されるという
元嘉時代は内輪の陰惨な粛清がけっこうありますね。
梁の武帝の治世は粛清とかはほとんどなくて、
立場がまずくなったらみなさっと北朝に逃げちゃうし。
two_yossyさまへ:
南朝史書の翻訳は、是非とも頑張って下さい。
two_yossyさま、永一さまへ:
>儒林伝が立てられていない「宋書」はどうしたもんすかね(文苑すらない!)
>ところで、劉宋というのは文儒を尊ぶ気風が薄かったのでしょうか
>寒門武人の王朝の性格が強すぎたのでしょうか?
私見では、必ずしもそうではないと思います。ただ、後世と違い、儒学が学問の一部門として位置づけられていることによるからではないでしょうか。
例えば元嘉十五年、国子学を立てた際、儒学の他に、玄学・史学・文学の四部門が並立させられております(『宋書』隠逸雷次宗伝より。この事は後世、司馬光の『資治通鑑』で「天下無二道、安有四学哉!」と批判されていますが、六朝期と北宋期の人の儒学観の相違がうかがえて面白いところです)。ですから儒学を尊ぶ気風はあったと言えるでしょうが、六朝においては、それは学問の一部門としての位置づけであったというところがポイントといえます。
『宋書』において「儒林伝」「文苑伝(文学伝)」が立てられなかったのは、こうした六朝人の玄儒文史に博く通じる学問・教養の多面化・総合化を重視する傾向あったことが、もっとも大きな原因だったでしょう。
もちろんそれだけでは、続く南斉・梁・陳の史書において「儒林伝」「文学伝」が置かれている理由を説明できません。「儒林伝」が立てられなかったのは、上の理由に加えて、劉宋では謝霊運・顔延之という文学(及び学問)を代表するビッグネームの存在が大きすぎたからではないでしょうか。つまり、彼らに互するような存在が、儒学では現れていなかったこと、これが大きいと思います。
また「文学伝」が立てられなかった理由の方ですが、先述しましたように、玄儒文史を博く尊ぶ気風もあり、顔謝以外で文学をものした人々が、他の方面で注目されていて、文学のみで代表する人が相対的に少なく、独立した伝を立てにくかったことによるのではないのでしょうか(陶淵明は「隠者」と見なされたためか、「隠逸伝」に収録されています。また、鮑照は「臨川烈武王道規伝」に付属する「劉義慶伝」に、さらに付属するという扱いです。ただし、沈約は鮑照を評価していたようですので、これは便宜上の措置でしょう)。
あくまで私見ではありますが、『宋書』において「儒林伝」「文学伝」が立てられなかった理由というものを述べさせていただきました。ご参考までに留めおいてください。
以下は余談ですが、元嘉時代を「文治政治の安定した時代」と一括する傾向がありますが、この時代をよく読むと、必ずしもそうとは言えない面がうかがえます。むしろ水面下では、非常に熾烈な政治闘争が展開されていたという気がする位です。これに比べると、梁の武帝の治世の方が、少なくとも内政面では、はるかに平穏なものであったと思われます。
>永一さま
応援どもっす。
Ch.ベール主演ま「サラマンダー」のビデオ借りてきて観てるっす(←翻訳・補注作業にがんばってない。というかもともとガンバルのがダメなタイプ)。
さて、地元の図書館に「こう注」「和刻本」ともに届き、さあやれと。このままだとまた煮詰まっちゃって、南朝下降まっしぐらになりそうっす。じつは「南史」を先にやろうかなと思ったこともあるんすよ。吉川忠夫氏が最初に読んだのも「南史」だったっていう話ですからね。でもともかく文成公のアドバイスに従いま〜す(←今日は残業でちょっとヤラれてる)。
>太白さま
>面長な中井貴一には
>是非、劉邦を演じてもらいたいと思いました(笑)
シリアス系の印象あるので、酒好き・女好きのキャラはどうでしょ?
まあ何を演っても演じきれそうな実力はあると思いますけど。
>でも実際の歴史を知ってしまうと、純粋に活劇として楽しめないこともありますね(笑)
やっぱり…、お互い不純な楽しみ方してますね。
でもいい齢した日本人で「ラスト・サムライ」見て
甲冑つけて騎馬に乗って鉄砲使わない「西南戦争のころの」武士の姿に
ツッコめないとしたら、それはそれで受けた歴史教育に問題あるような。
考証のこと全く考えずに「HERO」とか「パールハーバー」とか見れ
たらいいんですけどね。
「トロイ」の予告編は、僕も見ました。同じこと考えてました。
>鹿角さま
『北宋風雲伝』、雑誌連載のほうはチェックしてないんで、どういう展開に
なってるのか知らないんですが、
>にしても一体誰?管理人さんはご存知ですか?
残念ながら存じません。
>でも玉堂が原作のままの性格で出たら
>彼のファンは大幅に減りそう(-_-;)
そうなんですか?
今の漫画の読者層ではそうなのかも。
>それに月華と展昭は原作では出会うなり婚約なんですね
少女漫画としては、これは×でしょう。
お約束として焦らさないといけないのです。
>郭皇后と梁淑妃がホウ貴妃の夢枕に立つのを期待する私(^^;)
ああ、ついに郭皇后亡くなりましたか。
>perdidoさま
>チャンバラばかりしてる文章のほうが楽だし読んでても訳してても楽しい(爆)。
そのへん通鑑は比較的気が楽ですよ。
古文でもあるし。
>two_yossyさま
『南史』に儒林伝ありますけど、筆頭の伏曼容が宋の明帝に周易を講義
したくらい…ですか。かれからしてどちらかといえば南斉の人だし。
劉宋のことはほとんど書いてないですね。
寒門武人の王朝の性格が強すぎたのでしょうか?
沈約が儒者ぎらいなワケはないですよね。
翻訳・補注作りがんばって下さい。
無責任に応援しています。(^^)/~~~
>殷景仁さま
『宋書』は難読ですか。
手元にないので、電子テキストで確認しないと…。
僕はとうぶん触ることなさそうなので、気楽なもんですが。
>宣和堂さま
>ロバが旅に出て、馬になって帰ってくるわけがない
素子がいなくなって、姿かたちは変わっても本質は変わらない
…とバトーが信じてるってことじゃ。
けっこうそのへん素直に取ったんだけど、さらに裏の意味があったり
しますかね?
>殷景仁さま
アドバイスありがとうございます。「陳書」儒林伝は少し訳し始めていたので、コイツをやっつけてみることにします。
ところで、劉宋というのは文儒を尊ぶ気風が薄かったのでしょうか。「三国志」にも儒林伝がありませんが、よく見ると王粲や何晏や譙周や虞翻などの大物がたくさんいるのに(武人・軍師偏重の気風の中にも、関羽と左伝の話や曹氏父子の文芸趣味は伝わっていますが)。儒林伝翻訳チーム(会員1名)としては悲しいかぎりです。劉宋代の「儒生ナンバーワン」というと、どのあたりでしょうか。
なお公開作業に向けて、目下Web作成ツールのハウツー本を読み直しているところです<(^o^;
>イノセンス
意外に孔子曰くが多かったですね。
あと、流石に三回も見せられると、
ロバが旅に出て、馬になって帰ってくるわけがない
に深い意味があるんじゃないかと勘ぐったりしますよね。
ともあれ、ナカナカ面白かったです。
two_yossyさんへ:
つたない謝霊運作品評をお読みいただき、まことに有難うございます。
>「宋書」はどうしたもんすかね(文苑すらない!)。
『宋書』は「謝霊運伝」で「文苑伝」を代表させているようなところがあります。
ですが、南朝の史書の中で『宋書』は一番手強い代物ではないかと思います。後回しにした方がよろしいかと存じます。
中華書局版で、劉宋という短命王朝に全八冊というあれだけの分量を費やしている理由は何でしょう。その人に関わる文章・小説的なエピソード等を細大漏らさず納めてしまっているからなのです。
例えば「謝晦伝」では、彼が荊州で文帝に反逆した際、「武帝陛下の忠臣であった徐羨之らを誅殺し、君側の姦として居座っている王弘らを取り除くため挙兵する」という文帝に宛てた上奏と、それとほぼ同内容の檄文をそのまま採録しています。
「謝霊運伝」も「山居の賦」や「河北を伐つを勧めるの上書」等の文章、それから彼の詩にまつわる小説的なエピソードなどをそのまま収録しますから、非常に長いものとなっています。
いわば正史『三国志』と『晋書』が一緒になったような内容です。さらに沈約の評も、凝った文体で書かれており難読です。劉知幾だったと記憶していますが、内容が蕪雑すぎるという評があるのも宜なるかなといったところです。
同じ南朝の史書でしたらば、『梁書』『陳書』の列伝あたりがお薦めです。趙翼が『廿二史箚記』の巻九で「古文自姚察始」と述べていますように、基本的に内容も明晰で分量も要領よくまとまっており、読みやすい文章に仕上がっています。
レスさぼって何してるんだかよく分からないですが、押井映画見たので、
拾い物ふくめて...〆(。_。)メモメモ
われわれの神々もわれわれの希望も、
もはやただ科学的なものでしかないとすれば、
われわれの愛もまた
科学的であってはいけないいわれがありましょうか
───リラダン『未来のイヴ』
自分の面が曲がっているのに、鏡を責めてなんになる。──ゴーゴリ『検察官』
鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。──斎藤緑雨
春の日やあの世この世と馬車を駆り──中村苑子
シーザーを理解するためにシーザーである必要はない。──マックス・ヴェーバー
人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。──ラ・ロシュフコー『箴言集』
孤独に歩め、悪をなさず、求めるところは少なく、林の中の象のように。──仏陀
その思念の数はいかに多きかな。われこれを数えんとすれども、その数は砂よりも多し。──『旧約聖書』詩篇
彼ら秋の葉のごとく群がり落ち、狂乱した混沌は吼えたけり。──ミルトン『失楽園』
忘れねばこそ思い出さず候。──高尾太夫
生死の去来するは/棚頭の傀儡たり/一線断ゆる時/落落磊磊
ロバが旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけじゃねえ。──西洋のことわざ
寝ぬるに尸せず。居るに容づくらず。──『論語』郷党第十
未だ生を知らず焉くんぞ死を知らんや。──『論語』先進第十一
多くは覚悟でなく、愚鈍と慣れでこれに耐える。──ラ・ロシュフコー『箴言集』
人体は自らゼンマイを巻く機械であり永久運動の生きた見本である。──ラ・メトリ『人間機械論』
神は永遠に幾何学する。──プラトン
小子、鼓を鳴らしてこれを攻めて可なり。──『論語』先進第十一
鳥は高く天上に蔵れ魚は深く水中に潜む。──斎藤緑雨
何人か鏡を把りて、魔ならざる者ある。魔を照すにあらず、造る也。即ち鏡は、瞥見す可きものなり、熟視す可きものにあらず。──斎藤緑雨
刀を鳥に加えて鳥の血に悲しめども、魚に加えて魚の血に悲しまず、声ある者は幸福也。──斎藤緑雨
正史は「史記」からして、冒頭はいきなり大上段に構えてかかってきますよね。それだからつい打ち負かされて読み進めなくなっちゃう。そこを上手く切り込んで相手の懐に飛び込み、あるいは右へ左へ躱して歩を進めていけば、どうにか一山越えたところで息がつけるわけです。晋書もその戦法で序文を乗りきりたいところですが、さすがに手ごわい。駢文の影響から、四字句・六字句に収めようと、さまざまな罠が仕掛けられてる(「而」や「於」などが省かれている場合が多い)。それと(内容は晋代のことが書かれているけれど)唐朝の文体であることも厄介です。さらに会話における口語表現、コテコテの駢文体である尺牘の引用など、まさに攻めの一手。猛攻に堪えながら、相手の姿ら目を凝らせば、やはりそれでもさすがに堂々たる名文なのです。
ところで、「こう注」が届きました。それで補注作りに弾みがつきます。続いて南朝をやろうかと思っているんですけど、儒林伝が立てられていない「宋書」はどうしたもんすかね(文苑すらない!)。なんかリクあります? それっぽいのを拾い読みするようですけど、殷景仁さまに敬意を表して、「謝霊運」伝だけで飛ばしてお茶を濁そうかな(手ごわそうだけど)。
>『晋書』巻91、のっけっからして難しそうっすね。
>チャンバラばかりしてる文章とは違うなあ。
すっごいわかる気がする(爆)。いろいろ調べなきゃならないから疲れますね。チャンバラばかりしてる文章のほうが楽だし読んでても訳してても楽しい(爆)。
来月の北宋で郭皇后と梁淑妃が
ホウ貴妃の夢枕に立つのを期待する私(^^;)
今月の北宋の作者コメントで
中身がいれかわる話が原作にあるそうですが
(例 玉堂と展昭(^^;) 或いは包公と公孫先生とか)
平凡社のにはありませんでした(T_T)
抄訳だから仕方ないのかな
にしても一体誰?管理人さんはご存知ですか?
再読してびっくりしたんですが
ホウ貴妃が原作では皇后だったんですね・・・
すっかり忘れてたな それにホウ太師もどこか影薄い
包公を呪詛した罪で罰せられてそれきりなんてね
このネタは漫画でもやるのかなあ
漫画では玉堂の仲間達は今のところ出て来ませんが
蒋平さんだけでも出て欲しいです
でも玉堂が原作のままの性格で出たら
彼のファンは大幅に減りそう(-_-;)
それに月華と展昭は原作では出会うなり婚約なんですね
その代償なのか月華は出番が少なすぎ(T_T)
それとも原典ではもう少し多くて
日本語になる時削られたんですかね?
>東京ジュピター=卵の殻
「出た」という行為よりは「出る」という事実の方を言いたかったつもりだったんですが、
どうも言葉足らずだったようで・・・(−−;
まあ言葉足らずなのはいつものことなんですが(スイマセン;)
>天地英雄
予告編を見た程度なんですが、面長な中井貴一には
是非、劉邦を演じてもらいたいと思いました(笑)
でも実際の歴史を知ってしまうと、純粋に活劇として楽しめないこともありますね(笑)
「ラスト・サムライ」なんかも、見てて突っ込んでしまいました。
勝元は「君側の奸を討つ」という名分で戦っててもいいんじゃないか、とか。
英語を話すぐらい開明的ならせめて火縄銃ぐらいは装備しててもいいんじゃないか、とか。
トロイ戦争時にあんなにガレー船の大艦隊はあり得たのか? とか。
(ってそれは予告編(笑)「トロイ」って映画やるみたいです)
>宣和堂さま
ども、ごぶさたです。
端的に内容が想像される感想ありがとうございます。
最初のほうをチラっと見たのですが、
なるほど固ゆで卵な話ですね。
>太白さま
綾人くん視点から見た場合、
ジュピターから出たのは遙さん(というよりイシュトリ)に無理
矢理連れ出されたわけで、そのこと自体は綾人くんの精神的成長
に直接結びついてはいないのですが、
ふたつの次元卵といいジュピターといい綾人の心といいミチルの
鳥籠といい、殻を持つものがやたらと出てくる話で。
朝比奈の話は、悲劇に終わったとはいえ、母親からも某組織から
も自立してやっていこうという「大人の階段」上っちゃうエピソ
ードでしたしね。「ブルーフレンド」…うー、青春の青ってなん
て苦くて甘酸っぱいんだ!
>殷景仁さま
海を描いた…というよりは海辺の情景を描いたっぽいですね。
眼前の明るい情景にも関わらず、断ち切れない憂思というのが
切々と伝わってきます。
『楚辞』を踏まえて作ったということであれば、
すさまじく鬱屈した愁いが込められてるんでしょう。
詩の技巧は、やっぱ対句に現れるんですね。
>two_yossyさま
正史儒林伝翻訳ご苦労さまです。
『晋書』巻91、のっけっからして難しそうっすね。
チャンバラばかりしてる文章とは違うなあ。
>MNOさま
「天地英雄」歴史ものと思って見るとズッコケますね。
なんで700年なんて設定にしたのか謎ですけど。
突厥はトルコの「先祖」で音も通じてるからまあ間違っては
いないんですけど、簡単にしたつもりがかえって混乱する表記
だった気も。
普通に楽しみました。NAGAICHIさまの指摘のように
時代背景の設定がよくわかりませんでしたが。
特に字幕の「トルコ」という表記が気になりました。
突厥で良いのでは?
「天地英雄」見てきました。
微妙ーっな話でしたね。ラストの意外性というのはありましたが。
最近、映像美で売ってる作品ばかり見てるせいか、一昔前の映画を見てる
ような気分もありました。
中井貴一といい、趙薇といい、役者は名演だったんですけどね。
話の本筋のネタバレは控えときますが、実際の歴史から見てという話をしと
きますと。
★西暦700年というと、
武則天(唯一の女帝)の時代で、彼女は周という王朝を立てているので、
正確には唐朝ではありません。
★西域三十六カ国という言い方は漢代のもので、あのあたりは七世紀中頃に
は、すでに唐の版図に入っています。
★(東)突厥は630年に唐に降り、682年に再興しているものの、700年ころ
に新疆あたりを唐と争うような力はすでにありません。西突厥も弱体化して
います。
★来栖の遣唐使派遣年次が謎。第五回(665)、第六回(669)、第七回(702)。
西暦700年の25年前っていったい。
★煙草は新大陸原産でしょ。煙草くさいってあのさ。
★黒色火薬はまだ発明されてないので、火薬使った兵器はありえません。
ああいう火箭はたぶん明代以降のシロモノ。
ツッコミどころ満載な映画でした。
「後漢書」儒林伝の補注作りから逃避して始めた「晋書」(儒林伝)訳が後半に入り、そっちの補注作りも始めないといけなくなって、地元の図書館に「こう注」と「和刻本」のリクエストを出したところ、両方とも来週には届きそうな気配...やばい。
またもや濃い話に引き戻すようで恐縮ですが…
ずいぶんお待たせしてしましたが、謝霊運の山水詩の紹介に参りたいと思います。まずは、曹操の「観滄海」の比較から、同じく海を眺めて作った詩「郡東山望溟海」を取り上げましょう。謝霊運の作品にしては今一つという気がしないでもありませんが、その理由については後述します。
なお詩は、逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1984年)、森野繁夫『謝康楽詩集』(白帝社、1994年)等を参照しておりますが、文字の異同・書き下し・解釈につきましては、私自身による判断を適宜採用しております。
詩が作られたのは、宋の少帝の景平元年(423)の春正月。これより以前、武帝劉裕の次男、廬陵王劉義真の取り巻きであった謝霊運は、武帝・少帝劉義符の宰相である徐藻V・傅亮らと対立し、その結果、劉裕の死の二ヵ月後、永初三年(422)の秋七月に、永嘉郡(現在の浙江省温州)の太守に左遷されてしまいました(後、徐藻Vらは少帝を廃立、さらにこれを弑殺し、劉裕の三男、宜都王劉義驕i文帝)を擁立ますが、少帝廃立の前年、義髣i立に邪魔であった義真までも、庶人に下し殺しています)。
僻地に左遷された謝霊運は、憤懣やるかたなく、太守の職務をそっちのけで郡内を周遊し、この地の美しい自然に触れることにより、彼独自の山水詩が生まれたといわれています。実際この時期、彼の代表作といえる作品がかなり書かれてはいます。しかし、本人としては不本意な境遇であることには変わりありませんでした。景平元年の秋には太守を辞職し、故郷の始寧(会稽郡付近)へと隠棲してしまいます。以下に採りあげる詩にも、現状に対する不本意・隠棲への希求がにじみ出ています。
郡東山望溟海 郡の東山にて溟海を望む
開春獻初歳 開春 初歳に献(すす)み
白日出悠悠 白日 出でて悠悠たり
蕩志將愉樂 志を蕩(のびやか)にし 愉楽せんことを将(ねが)い
瞰海庶忘憂 海を瞰(なが)め 忘憂せんことを庶(ねが)う
策馬歩蘭皐 馬に策(むちう)ち 蘭皐を歩み
控緤息椒丘 緤(たづな)を控え 椒丘に息う
采寶大薄 宸采り 大薄に遵い
搴若履長洲 若を搴(と)り 長洲を履む
白花q陽林 白花 陽林にq(て)り
紫虈曄春流 紫虈 (こう)春流に曄(かが)やく
非徒不弭忘 徒(た)だ弭忘(びぼう)せざるに非ず
覽物情彌遒 物を覧て 情 弥(いよい)よ遒(せま)る
萱蘇始無慰 萱蘇 始めより慰むる無し
寂寞終可求 寂寞 終に求む可し
(大意)
初春、歳の始めにと時は進み、白日はかなたより昇ってくる。
気持ちを伸びやかにし心を楽しませようと願い、海を見下ろし憂いを忘れようと思う。
馬に鞭打って蘭の生えている皐(おか)を歩き、手綱を操って椒の丘に休む。
尅垂採ろうと大きな茂みに沿って行き、杜若の草を取ろうと長い洲を越えて行く。
花の白さは南の林の中で映え、よろいぐさの紫色は春の川の流れの中で一際明るく輝く。
しかし(憂いは)忘れられないだけではなく、これらの風景をながめていると、その気持ちはますます募ってくる。
忘れ草などでは、始めから心を慰めることはできないのだ。隠棲によって得られる境地こそが、私の最後に求めるべきものなのだ。
一見しただけでも、曹操の「観滄海」とは随分趣を異にしていることがお分かりいただけるでしょう。この詩を最初に読んだ時の私の感想を率直に述べますと、「海の眺めた詩という雰囲気があまりない」というものでした。
かろうじて最初の四句のみが、詩題どおり「海を眺める」ということを述べてはいますが、それ以降は、全く海の情景が現れてきません。実は、この詩は主に『楚辞』の表現を踏まえて作られているのです。具体的にあげていくと次のようになります。
冒頭四句:九章「思美人」の「開春初歳兮、白日出之悠悠。吾将蕩志而愉楽兮、遵江夏以娯憂」による。
第五六句:「離騒」の「歩余馬于蘭皐兮、馳椒丘且焉止息」による。
第七八句:九章「思美人」の「擥大薄之芳茞兮、搴長州之宿莽」及び九歌「湘君」の「采芳洲兮杜若」による。
第十句:「紫虈」は「白芷(よろいぐさ)」のこと、香草の一種で紫色の茎を持つ。
最終句:「寂寞」は「寂漠」に同じく、ここでは隠棲のことをいう。宋玉「九弁」の「君棄遠而不察兮、雖願忠其焉得。欲寂寞而絶端兮、竊不敢忘初之厚徳」による。さらにそれによって得られた、心の平穏な境地を求める(『荘子』天道篇より「夫虚静・恬淡・寂漠・無為者、天地之平、而道徳之至」)。
『楚辞』の主な舞台は、長江中流域ですから、その表現を多用してしまうと、ここが海辺なのかと疑いたくなるような現象が、この詩では起きている気がします。私がこの詩を余り評価できないのも、このあたりにあるのではと思っています。
ただし、作品制作前後の謝霊運の境遇から推測すると、おそらくこの詩における主題は隠棲への希求であり、海を眺めてその叙景を描写するということは主眼になかったともいえるでしょう。また、『楚辞』といえば屈原ですが、最終句の「寂寞」という語を用いたところに、自らの現在の境遇を屈原と重ね合わせているようなところが伺えます。謝霊運というと、「山水詩人」としての評価が高く、ついその叙景表現に関心が向いてしまいがちですが、この詩の主題が、むしろ「懐志不遇」と「隠棲への希求」とに重点があるというのならば、そちらについて何らかの評価を下すべきかもしれません。
あるいは、山水を表現する手段として、旧来の手法を借りた時、そこに実際の山水と齟齬をきたしてしまった。そのような点を、表現的に未熟だと思ってしまうのかもしれません(ただし、永嘉時代の作品にも、代表的な作品はいくつも生み出されているので、そう簡単に断言することはできませんが)。
けれども「白花q陽林、紫虈曄春流」の対句は、さすがに巧みな表現といえるでしょう。この対句には、「白」と「紫」という色彩の対比だけでなく、「q」と「曄」という動詞にも、よく調べると、微妙な対比が施されているのです。この「q」と「曄」は、どちらも「かがやく」の意味ですが、そのニュアンスが微妙に異なっております。「q」は「映える・陽光に照らされて白く輝く」という様子、「曄」は「赤々ときらめくように/燃えるように輝く」という様子といえましょうか。つまりこの対句は、「白」と「紫」という鮮烈な色彩を対比させるのみならず、動詞までもが、「反射光」と「直接光」というように、その「かがやきかた」を微妙に変えて対比させられているのです。このように色彩の鮮烈な対比と動詞の微妙な対比とを織り交ぜた表現にこそ、謝霊運の詩人としてのすごさの片鱗が窺えるかと思われます。
「直接光と反射光の対比」というのは、既に興膳宏「謝朓詩の叙情」で指摘されているように、やや後世の謝朓の作品「和徐都曹出新亭渚」にも見られます。以下その引用をしておきましょう(もとよりこの論文では、謝霊運と謝朓の詩の違いも指摘されているのですが)。
――
「日華は川上に動き、風光は草際に浮かぶ」。この対句、一見したところでは、日華・風光と近似したことばを列ねて、二句で類型的な光景をくり返しているように見えるかもしれない。『文心雕龍』では(中略)、全く同じ内容をくり返しただけの対句を、「対句の駢枝」、つまり対句のよけい者と批判している。前掲の謝朓の詩は、一見このタイプに属しそうで、よくみると、実は駢枝どころか、彼らしいゆきとどいた観察眼の窺える句であることがわかる。「日華」はもちろん太陽の日ざしだが、「風光」の「光」とは、日ざしがいったん地上に照りつけて、反射し屈折した光線なのである。(中略)謝朓は直射日光と屈折した反射光を、対偶表現を利用して描き分けたのであった。
――
上述した謝霊運の対句も、このような謝朓の表現と共通するものといってよいのではないでしょうか。このような凝った対偶表現をよしとするかしないかは、人それぞれによって、さらに大きくは、時代の変化によって変わってくるでしょうし、それにつれて作品自体の評価も変わってくることでしょう(現に北宋以後の詩話には、こうした謝霊運の作品を、対偶表現の行き過ぎとして批判する向きも見られます)。しかし、現代の我々は、(『文心雕龍』に代表されるように)当時のパラダイムでは、こうした表現が「美」とされていた、という前提を認識した上で評価を下す必要があるでしょう(それは、何も文学作品に限ったことではなく、歴史上の人物の言動に対しても、同じようなことがいえるでしょう。つまり、当時のパラダイムを認識しつつ、その上で是非を下すという態度を、我々は取るべきであろうと思います)。
ともあれ、このような対比の表現がさらに徹底されるのが、始寧に隠棲した時代の作品になります。次回はその時期に作られたと思われる「從斤竹澗越嶺溪行」を紹介しようかと思います。史書によれば、謝霊運の始寧隠棲は二回あり、この作品が作られたのは、どちらの時期であるかは定まっていないようです。そうした考証は抜きにしても、この詩は、対偶表現の徹底と鮮烈な叙景描写という点から見た場合、それだけに限ったとしても、謝霊運の作品中、屈指の傑作であるように思います。
>カウボーイビバップ
永一さんがここんとこ掲示板で挙げてらっしゃるアニメから考えるに、
きっと楽しめる作品だと思いますよ。
>卵を破って出てくる…
そうなると、第1話の舞台となった東京ジュピター自体が巨大な卵だったのかも知れませんね。
だったら、既にそこから脱出した時点で成長していたのかも。
個人的に綾人が成長したな、って思ったシーンは、朝比奈との同棲のくだりなんですが。
つまり、誰かを守る為に戦うことを決断していれば、それでいいと思ってます。
カウボーイビバップをビデオ借りて全話観たんですが、良い作品だったと思います。
最終話は東映任侠映画みたいですが…。まあ、評価は人それぞれなのだと思います。
>カウボーイビバップ
みんな熱く語るんですよね………最終話見るまでは…。アレ見ると腰が砕けちゃう…。
自分としては出来ればテレ東版の最終話で締めてくれた方が良かった気もするわけです。
とりあえず、ハードラック・ウーマンは最高でした。それ以降は忘れた方がいいかもねと…。
ま、菅野よう子の出世作なのでBGM聞くだけでも良いんじゃないでしょうか?
世間的にはスペースルパン三世という捉え方なわけですが、自分にとってはサンライズ版の銀河旋風ブライガーだったり、題名の付け方にモスピーダへのオマージュを感じて懐かしかったりしたわけですが、ま、全然関係ないですね…。
>MNOさま
カウボーイビバップは残念ながら今のとこ見てません。
なんとなく軽そうで敬遠してたかも。そのうち見てみます。
>two_yossyさま
恥ずかしながら、僕がよく知らない儒道仏三教の世界ですね。
すみません、ノリが悪くて。
「法苑珠林」は王玄策の遺文があるらしいので、多少興味のある
アイテムなのですが、その目的のためだけに八千円使うのは流石に
悩ましすぎますので。
でも、頑張ってほしいです、中華書局。(^^)/
>太白さま
僕もそれほど頭ないので、単に思いつき書いただけです。
純文系の頭してますから。数字や単位が出てくるとダメです。
筋道だって考えるより、概念やイメージで把握するもんですから。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kakekomi/xephon/top.html
あたりの解析みながら感心することしきりで。
でもSFとか抜きにして、調律後の世界をどう解釈するかなんて、
人それぞれで結構面白いですよ。
主人公の成長物語ってのは、広い意味でのファンタジーの基本ですけど。
しかし、そういう意味ではラーゼフォンは微妙です。
物語最初のほうで功刀に言われ、最後のほうで久遠に指摘されている
主人公の綾人君の「知ろうとしない」性格、外界や人間関係に強い関心を
持たない態度(卵の殻にこもった状態)から卵を破って出てくる…
というのが、いちおう成長テーマなのかもしれないけど、
…綾人君、人間じゃなくなっちゃったからなあ(^^;)。
母親(摩耶)の庇護から抜け出すってのも裏にあるかもしれませんが。
僕は綾人より遙や摩耶や功刀や樹のほうがキャラとして面白かったので、
ごめんなさい。一色や小夜子も狂言回しとして楽しい動きしてくれたし。
あまりキャラ立ってない主人公だったなあ。
ファンタジーでいうと作中TV版では「オズの魔法使い」や「たんぽぽ娘」、
劇場版では「鏡の中のアリス」とか、いろいろ素材が出てきてるんですね。
オリン、イシュトリ、カトゥン、なんかはアステカ・マヤ系術語らしいし。
普通に見てても気づく音楽用語とか。疑似科学用語とか。
今のとこ、他人の解析の後追いしてるだけですが、噛めば噛むほどスルメ味。
>永一さん
僕はあまりそういうSF的視点から考察できる程、賢くはないので(笑)、
ビルドゥングスロマンというか、普通に成長譚として鑑賞してました。
ちなみに、リアル系ロボットアニメの個人的な定義は、
「主人公が大きな力(この場合ロボット)を手に入れ、大人達の間で戦いながら成長していく」
ということにしています。父親ないし母親がそのロボットを作っているとか、
美形のライバルキャラとか、量産型が存在するとか細かい部分はあまりこだわってないですw
実際僕の好きなガンダムであるクロスボーンガンダムやターンAガンダムは
主人公の両親とガンダムに関わりはないし。
>MNOさん
僕もカウボーイビバップ大好きですよ!
いつかビデオで全巻そろえたいくらいです。
まだ劇場版とDVDのベスト版ぐらいしか無いですけど(笑)
もうご存じとは思いますが、中華書局から道教典籍選の新タイトル、張君房「雲笈七簽(全5册)」と、中国仏教典籍選の釈道世「法苑珠林校注(全6册)」とがリリースされたようですね。両シリーズは目録だけで休刊しちゃってるのかと思ってました。ともに満を持した(?)大物なので嬉しいかぎり(嬉しいのは日本人漢文愛好者だけ?)。正史儒林伝翻訳計画も発足したばかりなのに、もうそっちの匂いに食指が...。ぜひ今後とも新編諸子集成や十三経清人注疏シリーズもガンバってリリースしてくださいね、中華書局さま !!
個人的にはかなり面白い作品だと思うんですけど。
なんとなく、ヘミングウェイの小説みたいな感じがしていいです。
↓「なんとかの猫」は「シュレーディンガーの猫」でした。
まあ「世界の選択」とか「世界の観察者」とかは、劇場版だけに当ては
まる設定なので、どうでもいい補足です。
しかし、無数に分岐する平行宇宙論&不確定性原理の世界と、
物語中のMU⇔現実世界の二元世界観は、実はフィットしてないです。
矛盾が少なくよくまとまって見える劇場版のほうが、TV版より
根本的な世界観設定に問題があるかもしれません、SFとしてみると。
>だおさま
「ターミネーター3」は僕も見てるけど、その台詞というのを覚えてないなあ。
似たようなことを言った台詞で僕が思い出すのは、
知る人ぞ知る、高河ゆん『源氏』の弁慶の台詞だったりするんだけど。(爆)
怒りや悲しみは、絶望やアノミーより上位の感情だみたいなことを言ってたと
思う。
元ネタはなんだろうと思って、いろいろ探してみたけど。
専門外の分野だから情報の探し方からしてよく分からんわ。デュルケムとか
ぶち当たったけど、あの辺かな。
>太白さま
いや全然OKっす。
まあロボットのフォルムが生物的だとか
バーベム爺がゼーレの老人に似てるとか。
十項目以上の類似点が指摘されてるらしいですが…。
僕は似て非なる話として楽しんでます。
パクリだからいかんという人たちとは一線画したほうがいいでしょう。
遙サイドから見直したり(映画版なんか真っ直ぐそういう視点)
何回か見直しても楽しめますわ。
一回見ただけじゃ分からないとこ多いし。
「世界の選択」とかいうタームも、
たぶん箱の中の猫が生きてるか?死んでるか?(なんとかの猫)とか
平行宇宙論とか入ってると思うんだけど。
ああいう解釈ってSF的に実際どーなんだろー?
今度物理卒のやつにでも訊いとこー。
僕は世界観もキャラも好きですね。
妙に遙に感情移入してしまったのは、自分が歳食ったってことかなあ?
いちばん泣けたのは朝比奈でしたが。
「ラスト・エグザイル」とかぼちぼち見てるんですが、これも面白いわ。
というわけで劇場版ラーゼンフォンですが、まぁ、よくエヴァンゲリオンの亜流とは
言われますが、良く見れば違うんですけどね。でも、アニメに詳しくない人がみれば区別
つかないかも。ライディーンと(笑)
それでも、難解なセリフ回しとかちりばめられた謎とか、やはりエヴァを想起せずには
いられないというか・・・。
とにかく難解なアニメでした。キャラよりあの世界観が好きなんだけどなぁ。
そもそも映像を楽しむものだったのかも、とか思ったり。
>あと如月久遠の性格が全然ちがいますか。
綾人と久遠と会うのが後半なので、TV版にあった彼女とのエピソードはほとんど
無かった、というより出番が少なかったです。
人格より存在が必要なキャラだった、って感じでした。
(僕も結構好きなキャラだったのになぁ)
さて、一緒に借りてきた「スパイ・ゾルゲ」も観なきゃ〜
心理学においては怒りや不安さえも絶望には勝るそうです
そういえば「ターミネーター3」でもそんなセリフがあったなあ
ということでなるほどと思っちゃいました
>太白さま
>サイトが出来そうな程、濃い話ですね〜。読むのがやっとです(笑)
同感です。
管理人のメンツにかけて、なんとかついていこうとしてたんですが、
途中から話を誤魔化しはじめました…(苦笑。
>藤水名子先生や最近では十二国記の影響なんでしょうか?
新聞広告でジュニア小説の書き方の通信教育みたいなのがあって
「中国史」がファンタジーとかのジャンルと並んでて驚倒したりする昨今。
いちジャンルとして認知されてるんでしょうか。
十二国記の影響は、そうとう巨大そうな気がしますが。作者はもともとミ
ステリー畑の人だというのに。
あとフジリュー封神を読んでたティーンエイジャーが大人になりつつある
というのも、忘れてはいけないかも。
そういう世代が裾野広げてくれると嬉しいっすね。
>ここまで描いて、劉裕だったら北方謙三が描いたらいいんじゃないか
そうですねー。男くさいモチーフだし、北方氏向きだという気はします。
>あと奇遇ですが僕もラーゼフォンの劇場版、レンタルしてきました。
話合わしてもらってどーも。
最近、アニメもちょろちょろ見てるんですが、
「ロビン」とか「攻殻機動隊」とか、それなりではあったんだけど
ハマるとこまでいかず。
「ラーゼフォン」は何故かどっぷりハマっちゃったのです。
エヴァの二番煎じなんだけどなあ。
近未来で、少しSF入ってて、思わせぶりな伏線引きまくって。
人間関係もおもしーし。
劇場版は、でっかい伏線を最初からオープンにしてますね。
TV版よりは分かりやすい構成してます。
あと如月久遠の性格が全然ちがいますか。
感想あったらお願いします。
しかしここんとこ最近、掲示板だけ編集したら一つのコンテンツに、いやいやそのまま
中国史サイトが出来そうな程、濃い話ですね〜。読むのがやっとです(笑)
で、ちょっと六朝の話がでたので。
トップページにリンクされている「復刊ドットコム」で、僕は『劉裕』(吉川忠夫・著)に
一票を投じたんですが、投票者の中には中国の歴史小説を書きたいので資料に読みたいっ
て人が最近多いみたいですね。藤水名子先生や最近では十二国記の影響なんでしょうか?
・・・と、ここまで描いて、劉裕だったら北方謙三が描いたらいいんじゃないか
とか思いついてみたり。王建とか銭鏐とか、無頼の徒から皇帝になった系の人。
もしかしたら劉邦は構想してるのかも(笑)
あ、あと奇遇ですが僕もラーゼフォンの劇場版、レンタルしてきました。
やっぱスパロボ効果で(笑) ちっとも中国史の(以下同文w)
観たら感想など書きましょうか?
>two_yossyさま
「ロード・オブ・ザ・リング」完結編、ご覧になりましたか。
映画ならではなところがありましたね。
ミナス・ティリスのお城はかっこよかったし。
象兵暴れるシーンもなんとも迫力ありました。
レゴラスの足には吸盤でもついてるのだろうか(笑)。
幽霊軍団は反則だけど、あれはああいう話ということで。
霍光にかぎりませんが、
権勢を保ったまま長く続いた家なんて古今東西ありませんしね。
例外といえば、孔子の家か、張天師の家かというくらいで。
世俗の権力から一歩引いたところで長く名声を保ってるわけで。
黄老的処世術といえるものはあるかもしれません。
上官姓というと、唐の上官婉児とか上官儀とか思い出すんですが。
金庸の小説の人物にもいるんですね。
>コルテスさま
東晋なら、北府・建康・西府のパワーバランスと土断が関わってくるんでしょうね。
白籍をもつ人々の核は、北府でしょうから。
ただ具体的に史料から読めるのかというのは、勉強不足で分かんないんですけど。
>鹿角さま
いま時分、中国にバラ色の未来を見ている人っているんですかね。
ちょっと前に、大前研一の本があったくらいかなあ。
一昔前に中国賛美をしていた人もだいぶ引いてると思いますし。
まあ時代がかった賛美調も、逆の暗黒史観もあまり真に受けないほうがよいと思い
ます。今の成長もどこかで壁にぶつかるでしょう。
オリンピックバブルがはじけるのか、超高齢化社会のためか、貧富格差や腐敗が原
因となるのか、分かりませんが。
……去年、今年の日本の景気↑も中国が牽引してるところ大なんで、他人事じゃな
いんですけど。(-_-;)
>殷景仁さま
勉強させていただいてます。
長文はあまり気にしてないので、ご遠慮なく。
まあ掲示板でやってると、気兼ねや気遣いってのはどうしても出てくるので、
WEBで自己表現するのがいちばん気楽なんですけどね。自己責任ですから。
しかし、自前で客寄せするのが、なかなか難しい。
コルテスさん:
>殷景仁さん、重ね重ねありがとうございます。教えていただいた文献で、少し勉強してみます。
こちらこそ、お話しを通じて、改めて手持ちの資料を再確認したりと、随分勉強する機会を下さいました。ありがとうございます。
東晋時代の社会状況というのは、こちらも必要に応じて勉強中というのが現状です。専門に研究するなら一次資料に当たる必要があるのでしょうけれど、まあ私はそうではないので、ほとんど既成の論文に頼っているのはご容赦下さい。
永一さん:
>一点、訂正しておきますと、僕は「解體晉書」に現在のとこ参加しておりません。
そうでしたか、それは失礼しました。あちらの掲示板には、私も顔は出していますので、早とちりしてしまいました。
まだ翻訳されている箇所は少ないですけれど、校訂や注釈もきちんとしているように拝察します。長い目で充実したサイトに成長することを望んでいます。
前から予告している謝霊運作品の紹介は、三月までお待ち下さい。纏めるのが難しいというのが主な理由ですが、文章自体が長いので、この掲示板を私物化しかねないように自粛する必要があるなと思うからです。
しかし彼の作品は、当時の文学観や美学と照らし合わせた上で読み込むほど「すごいなあ」と思わせるところがあります。
イケスミチエコさんの作品は
残酷なグリム童話スペシャル号に載ってます
今中国というとバラ色の未来で
満ち溢れているように思うひとは
この本読んで考え直した方がいいです
はっきりいえば内部がいかにでたらめかというもので
日本のことをあげつらうまえに
やるべきことがあるでしょうといいたい
しかし進出した企業がほとんど失敗しているのは恐い・・・
周恩来の非情な一面にも触れてるのが意外・・・
>六朝通じて幾度も行われてますが、不正も多くてなかなかうまくいっ
>てはいないようです。
ええ、蘇峻、祖約とユ亮の対立にも土断の問題が関係しているように思えるし、それを鎮圧した
チカンも、王導と結んでユ亮を牽制したようだし。それが桓温の時代になると、京口の軍団の
将兵を特別扱いしてくれれば、一般論としては反対はしないというかんじに見えます。とまあ、
想像は膨らむんですが、史料からそこまで細かいニュアンスが読み取れるのか、それが
気になっているところです。
>永一さま
自分も観ました、「王の帰還」。混んでてちょっと集中できなかったのと、事前にビデオ借りてきてちゃんと予習しなかったので、少し消化不良。機会があったらもう一度観たいな(それに一度で観るにはボリュームでかすぎ!!)。
>やはり昭帝のころの大人物の筆頭は霍光
そのとおりですね。ただ「霍光伝」の後半、没後に妻子が滅亡していくさまを読むたびにつらくなりますね。尊貴を極めたままそれを遺したのは賢明ではありませんでした。「金玉 堂に満つるは、之を能く守る莫し。功遂げて身退くは、天の道なり」(老子)と。これを実践できたのは、まあ陶朱公ぐらいでしょうか。それに武昭二代にわたって謹厳を尽くしたそうですが、豊太閤ばりの出自でしたから、それもやむを得なかったものの、はやり「仕え」の道は引きだけじゃダメ。その点で、自分は「汲黯」が好きです。ちなみに陳子昂先輩も汲黯ファンのひとりです。キーワードは「侠」かな。
ところで珍姓の「上官」。金庸の「射チョウ英雄伝」で「鉄掌党」の先代党首の姓が「上官」だったような記憶が。
次いで六朝貴族ばなし
>コルテスさま
土断は、
西晋太康五年(284),司馬亮・衛カン
東晋咸康七年(341),
興寧二年(364),桓温,「庚戌土断」
義煕九年(413),劉裕
宋大明元年(457),王玄謨
元徽元年(473),
斉建元三年(481),
梁天監元年(502),
陳天嘉元年(560),
六朝通じて幾度も行われてますが、不正も多くてなかなかうまくいっ
てはいないようです。
いちばん最初の西晋武帝のときの司馬亮と衛カンの上疏によると
「土断をすることで、郷論にもとづいて才能ある人物を推挙し、
九品中正制の流弊を糾そう」とか言ってます。
な、なんかイメージ違うなあ。
最初の目的はそうだったのかもしれませんが、東晋以降では
徴税上の不公平を解消する目的と、建康政権の財政力を強める目的と、
両面あったと思うのです。
>殷景仁さま
勉強になるなあ、と思いつつ管理人自らロムしてました。
>『三国志演義』の武将たちのように、彼らが武器を持って直接前線で戦った
>というようなイメージは持つべきではないでしょう。
正史に列伝が立つほどの人物で、自ら陣頭に立つようなタイプの武将は、
たいてい弓射をよくしたとか、体格がどうだったとか、書かれますしね。
そうでない人はたいてい後方で指揮を取ってたんだろうと、僕は想像し
てるんですが。
一点、訂正しておきますと、僕は「解體晉書」に現在のとこ参加しており
ません。外から無責任な応援はしてますけど。
通鑑のほうにメドが立てば、何かしらお手伝いしたいなあという気持ちは
ありますので、将来的には分かりませんが。
指輪映画「王の帰還」を見て、サム&ロージーの結婚式やフロドの出港
シーンに涙したり、今どきアニメ「ラーゼフォン」にハマっていたり。
ちっとも中国史のアタマになってないんですが…。
まずは上官桀関係のまとめレス
>two_yossyさま
中島敦「李陵」のナマ原コピーですか。いいもの持ってますね。
僕は中島敦「李陵」「弟子」あたりは、読み返すたび感動するので。
しかし上官桀は、外戚としての勢威をともかく、霍光と比べるとだいぶ
小ぶりな人物という印象をいなめません。
息子殺しの金日テイとかは、いびつな感じがするし。
やはり昭帝のころの大人物の筆頭は霍光だわ〜。
「歐陽生」で検索かけても要領えないですね。ネットで手軽には無理か。
>怨霊さま
『漢書』外戚伝上でも、趙充国辛慶忌伝でも、上官桀は上[圭β]の人らし
いので、同郷の同姓同名の有名人ってのは可能性はかなり低いと思います。
上官姓じたい珍しい姓ですし。
殷景仁さん、重ね重ねありがとうございます。
教えていただいた文献で、少し勉強してみます。
コルテスさんへ:
後になりましたが、さらに考えついた資料として、
『芸文類聚』『初学記』『太平御覧』などの類書に見える佚文
それらと史書が載せる文章を収集した、清・厳可均の『全上古秦漢三国六朝文』
そして論文としては、佐藤正光『南朝の門閥貴族と文学』(汲古書院、1997年)
などを、取り急ぎ追加させていただきます。
コルテスさんへ:
>ところで、東晋時代の土断や兵戸、僑州軍県の行政上の位置づけについての基本史料は、
>やはり晋書の記述なのでしょうか?どうも具体的な運用の細部のイメージがわかないんですよ。
>僑州軍県は、具体的には屯田のようなもので、当然白籍だったろうなとか、想像はするの
>ですが、そこまで細かいことが記録に残されているのかな。
私も史学専門ではないので、このあたりになってくると、もうそろそろ資料的に限界というところがあります。これまで使用してきた資料も、宮崎市定『九品官人法の研究』・吉川忠夫『劉裕』(いずれも中公文庫)、『晋書』『宋書』(中華書局)その他から引いてきたに過ぎません。
未見ではありますが、土断などを含むこの時期に関するその他の資料を挙げておきます。
・越智重明『魏晋南朝の人と社会』(研文出版、1985年)第三章第二節「宋の武帝と土断・官僚層対策」
・葭森健介「晋宋革命と江南社会」(『史林』63-2、1980年)
・同上「研究ノート 中国史における貴族研究に関する覚書」(『名古屋大学東洋史研究報告』7、1981年)
・石田徳行「劉裕集団の性格について」(『木村正雄先生退官記念東洋史論集』、1976年)
・川勝義雄・谷川道雄『中国中世史研究 六朝隋唐の社会と文化』(東海大学出版会、1970年)
・同『中国貴族制社会の研究』(同朋社、1988年)
・同『中国中世史研究続編』(京都大学学術出版会、1995年)
・都築晶子「六朝貴族研究の現況―豪族・貴族・国家―」(『名古屋大学東洋史研究報告7、1981年)
・中村圭爾『六朝貴族制研究』(風間書房、1987年)
などがあります(さらに、渡邉義浩氏の著書なども含めるべきかもしれません)。
あとは、国立国会図書館のNDL-OPACで論文資料検索をおかけになさるか、ここの管理人永一さんも参加しておられる「解體晉書」(http://www.jin-shu.com/)のサイトの方に訊いてみるのもよろしいかと存じます。ひょっとするとより詳しい情報が入手できるかもしれません。
>以前から北府軍に所属していた兵戸(代々の職業兵)が多く、この期に及んでまで、
>わざわざ土断をする必要があまりなかったからかも知れません。
このあたりは、吉川忠夫『劉裕』第三章「京口」の記述や、そこにあった郗鑒の上奏文から推測したまでです。専門の方から見れば、また違う解釈が存在するのかも知れませんので、あくまで参考までに留めて下さい。
>庾亮の土断
『晋書』巻7「成帝紀」によると、咸康7(341)年4月に土断を行ったという記事が見えますが、庾亮はこの前年、咸康6年に死去しています。ですから土断を実施したのは、正しくは、彼の弟で当時中書監であった庾冰や中書令何充・尚書令諸葛恢(諸葛誕の孫)たちということになります。この場をかりて訂正させてもらいます。
満足な回答ができずどうも済みません。
疑問点を的確と答えていただいて、大変有難うございました。
>以前から北府軍に所属
>していた兵戸(代々の職業兵)が多く、この期に及んでまで、わざわざ土断をする必要が
>あまりなかったからかも知れません。
なるほど、実はこのあたりの事情がよくわからなかったのですが、北府軍の兵戸も、白籍のまま
特権を保持して宋の時代に入っていったわけですね。
ところで、東晋時代の土断や兵戸、僑州軍県の行政上の位置づけについての基本史料は、
やはり晋書の記述なのでしょうか?どうも具体的な運用の細部のイメージがわかないんですよ。
僑州軍県は、具体的には屯田のようなもので、当然白籍だったろうなとか、
想像はするのですが、そこまで細かいことが記録に残されているのかな。
それとも市定全集で勉強した方が早いでしょうか。
あ、いや学生の宿題じゃありません。
チカン、チ超、王恭、劉牢之らの人物像を考えていて、そのあたりが引っかかったもので。
>そうすると、淝水で晋軍を指揮した謝玄、謝石や、桓温の参謀だった郗:超などは、かなり軍事に
>直接携わっていたような印象がありますが、彼らは貴族の中では例外的な存在だったのでしょうか?
戦場に出たという点では、例外的だったと言えましょう。ですが、『三国志演義』の武将
たちのように、彼らが武器を持って直接前線で戦ったというようなイメージは持つべきで
はないでしょう。直接戦闘に参加したのは、その下の武将達であり、その後方で指揮を執
っていたと思った方がいいでしょう。
>それから、北府軍の出身である劉裕が土断を行ったということは、ある意味で自らの
>出身階層から既得権を奪ったということになるのでしょうか。
これははっきりと「NO」です。というのも、徐・兗・青の三州に本籍を所有し、
かつ晋陵郡(京口)内に在住している流寓してきた者、すなわち戸籍上、劉裕と同じ
(或いはそれに近い)者は、この時の土断の対象から免除されています。
この行為ついては、「徐・兗・青の三州の有力な流民群が寄寓している所は抵抗が
大きく、土断を避けざるを得なかった」という解釈(宮崎市定)と、「漢の劉邦が、自ら
の故郷である豊沛両県の民に徭役を免除する特典を与えてやった故事に倣った」という解
釈(吉川忠夫)の二つがあります。
どちらの解釈も正しいのでしょうが、私見をもう一つ加えますと、京口の流寓民は、その
大半は郗:鍳が元来率いていた者たちの子孫ですから、以前から北府軍に所属
していた兵戸(代々の職業兵)が多く、この期に及んでまで、わざわざ土断をする必要が
あまりなかったからかも知れません。それよりも、貴族の荘園内にいる白籍の流民を土断
することの方が、遥かに重要だったのではないでしょうか。
殷景仁さん、懇切な説明、ありがとうございます。
そうすると、ヒ水で晋軍を指揮した謝玄、謝石や、桓温の参謀だったチ超などは、かなり軍事に
直接携わっていたような印象がありますが、彼らは貴族の中では例外的な存在だったのでしょうか?
それから、北府軍の出身である劉裕が土断を行ったということは、ある意味で自らの
出身階層から既得権を奪ったということになるのでしょうか。
コルテスさんへ:
都督府には、その属僚として、長史・司馬・参軍がいますが、長史・司馬の役目について、補足
しますと、次のようになります。
長史:都督府の幕僚の総元締めとして、軍管区の全権を掌握するとともに、州の治所である郡太守
も大抵兼任した。
司馬:将軍・都督の幕僚で、長史に次ぐ位で軍事を主に統括する。戦時においては長史より重い職
となる。
このように、都督府の幕僚長である長史は、東晋になると、むしろ都督の代理として、その管轄地
の統治をすることこそが、主な仕事であったことが分かります。
司馬も軍事を統括するとありますが、戦時以外での仕事として、通常はおそらく、部隊の編成や
軍需物資の確保などを主に勤めていたのではないかと思います。
参軍は、長史・司馬の次の位に位置する幕僚です。西晋末ごろから、様々な部局に分かれて事務を
担当するようになります。
まず、最上位に位置するのが、諮議参軍(諮議)という職です。これは、無任所の参謀格として
長史・司馬に下ること一等であったといいます。
その次にくるのが、記室参軍(記室)です。位としては別に他の参軍と区別はなかったようです
が、文書を扱う職として重視され、時に諮議参軍が兼任することもあったそうです。
その後に各参軍が存在するわけですが、軍務を実際に担当したのは、中兵・外兵・騎兵の三曹の
参軍であったようです。これらには、大抵寒門あがりの武人が任命され、雑号将軍を付与されて
いたようです。おそらく彼らは一生をこうした参軍として都督府に勤務する身であったと宮崎氏
の著書には書かれています。
また参軍は「正参軍」「板正参軍」「行参軍」「板行参軍」「長兼行参軍」という五種の格が
あり、その下に見習いとも言うべき参軍督護があったそうです。
東晋〜南北朝初期の時代では、寒門出身者には最終位である参軍という地位(それもよほどの文才
か軍功が無ければ就けない)も、貴族の場合ですと、大抵初任官で、しかもすぐ栄転できるという
仕組みになっていたのです。
このように、都督府の属僚は、貴族出身者の場合、必ずしも軍務を担当したり、軍を指揮するとは
限らないことがお分かりいただけるかと存じます。
コルテスさんへ:
>「反」のかわりに「翻」の字を使っていたんですね。
そういうことです。通説によれば、中唐以後あたりから「反」は「叛」に通じるということで
代わりに「切」や「翻」の字を使うようになったようです。
ただし、南宋の朱子や胡三省の音注は、時代の変化により、切韻系韻書の音韻体系(中古音)
とは異なる場合があるようなので、注意が必要です。
>平安貴族とは違って、軍隊の指揮を忌避したのではないということですね?
必ずしもそうとは限りません。というのも、都督というのは、本来州兵を指揮する武官ですが、
東晋〜南北朝の時代になると、しばしば州刺史も兼任するようになり、都督府は時には数州
以上の軍・政の両面を統べる一大組織となります(以前どなたかが、既にここでご指摘してお
りましたが、改めて指摘しておきます)。
ですから、その属僚である参軍の役目も多様化しておりますので、必ずしも軍の指揮をしていた
わけではないとお考えください。記室参軍(記室)などは、文書を起草する書記官です。
また、貴族が初任官として行参軍に任命された場合、ポストを後任に回す必要から、その任期は
短かく、そのため実務に携わることも非常に少なかったと思われます。
>庾亮、桓温、劉裕の三人の「土断」は、内容的に差があるんでしょうか?
>また、土断は、北方流民の既得権の剥奪という解釈で正しいんでしょうか?
まずそれでいいと思います。江南に移住した北方流民たちは、元来土地を持っていないという
理由から、白紙に移住前の土地を記入した白籍が使われ、兵役・徭役が一切免除される恩恵が
認められていたのです。しかし時代が下るに連れて、移住者も世代を代え、その子孫たちも江南
に定住し土地を確保できるようになると、兵役・徭役が一切免除される白籍は、北方移住者の
子孫たちの特権へと性格を変えるようになってしまいます。
この不公平を是正するため、白籍から現在の居住地へ戸籍の内容を改めるのが「土断」という
政策です。
しかし、庾亮の時代は、まだ北方移住者が生存していた頃ですから、徹底した土断は実行
できなかったとみていいでしょう。吉川忠夫『劉裕』(中公文庫)によれば、劉裕の時代にようや
く徹底した土断が行われたようです(ただし、その後の劉宋時代でも、土断は実施されていす)。
殷景仁さん、遅くなりましたが、ご教授ありがとうございます。
「反」のかわりに「翻」の字を使っていたんですね。
>宮崎先生の本を詳しく読んでいただければ分かりますが
これは早い話、現在日本の、キャリア・ノンキャリの差を想像すればよろしいかと思います。
平安貴族とは違って、軍隊の指揮を忌避したのではないということですね?
それから質問続きで恐縮ですが、ユ亮、桓温、劉裕の三人の「土断」は、内容的に差があるんでしょうか?また、土断は、北方流民の既得権の剥奪という解釈で正しいんでしょうか?