地元の「女子高」が甲子園センバツで優勝しちまったよ!
えっ、×年前に共学化してるって、知らんもんそんなん。
宇和島東の上甲監督引っ張ってきたり、ロコツなことしてるとは
思ってたんですが、マサカなあ…。
久しぶりに高校野球で楽しませていただきました。
山形県勢初の8強の快挙も吹き飛ぶ春の椿事でした。
>perdidoさま
>これは、いかに韓が印象薄いか言いたかったのです。
韓にしろ鄭にしろ、あまりに真ん真ん中に位置しすぎたかもしれませんね。
大国に囲まれてすぐ身動き取れなくなる。
秦だとか楚とか燕とか趙とかみたいに広大なヒンターランドを抱えた位置の
ほうが勢力拡大はしやすかったでしょう。
>彼が病床で後継者の子大叔に語った現在でも通じる次の重い言葉ですね。
徳治がもっとも重要だが、水のように惰弱ではいけない。
寛政になれて腐敗し、結局人民を苦しめることになる。
というような意味でしょうか?
>曹徳さま
読詩会、無事終了おつかれさまです。
折り悪く僕は参加できなかったのですが、
http://hpcgi2.nifty.com/namazu_chan/patio/patio.cgi
のログは読ませていただきました。
曹操「短歌行」がいつ作られたか、はお話のとおり、実際のところ分か
っていません。
赤壁に先だって「槊を横たえて詩を賦」したというのは創作ですから。
ただ蘇軾の「赤壁賦」ではすでに赤壁で作られたことにされてます。
ここら吉川幸次郎『三国志実録』から。
たしかに若いころ作ったのかもしれませんね。
NAGAICHI様>再度メールを致しました。宜しくお願い致します。
ご連絡まで。
NAGAICHIさま>
>ショゲイの自殺の話は、『国語』晋語五にあるみたいです。
ありがとうございます。たしかこの話もあったかな、と漠然と思ったので...
>中国史の地図に鄭が水色、韓がほとんど同じ位
>置に水色に塗られてたりすると一瞬どっちがど
>っちだかわからなくなる...首都も(新)鄭だし...
これは、いかに韓が印象薄いか言いたかったのです。つまりなんで戦国時代に「鄭」があるんだろう??というような感覚。ま、実際戦国時代の初頭に、鄭は韓に滅ぼされる(
哀侯2年、375B.C.)のですが...
>春秋の鄭は荘公のころにけっこうふるったので、斉の桓公に先立つ準覇者かも
>しれなかったり。孔子の尊敬した子産が出たところでもあり。
そうですね。実は周王室をの力が名実ともになくなったのは、荘公のとき、繻葛の戦い(707B.C.)で周と衛、陳、蔡の連合軍を破ったからで、皮肉にも宣王の庶弟であった桓公友という一番周王室に近い始祖を持つ諸侯である鄭が周王室を完全な飾りものとしての地位に追いやって、覇者の先駆けになったわけなんですよね...
ただそのあと激しい後継争いなどで弱体化していき、晋についたり楚についたりする弱小国になる...
子産も孔子が尊敬していたということと成文法を作ったことで後世に名前が残っていますが、すごいのは、彼が病床で後継者の子大叔に語った現在でも通じる次の重い言葉ですね。
「徳のある者だけが寛大なやりかたで民を服従させることができる。次善のやりかたは、猛しくすることである。火は烈しいので、民は遠くから眺めて畏れる。それゆえ焼死する者は鮮(すくな)い。ところが水は惰弱であるから、民はそれに狎れてもてあそぶ。すると水死者が多くでる。であるから、寛大な政治は難しいのだ。」
>太白さま
>やっぱり韓・魏・趙の三晋のなかでは、趙が一番人気なんでしょうかね?
だと思いますよ。早い時期もそうだし、遅い時期でも廉頗・藺相如とか
長平で大敗した趙括とか、面白い人たちいますしね。平原君もいたか。
>でもやっぱり韓は陰薄いかもなぁ。
韓世家じたいがあまりエピソードがなくて薄いです。
僕も印象にないなあ。
>perdidoさま
>首都も(新)鄭だし...
春秋の鄭は荘公のころにけっこうふるったので、斉の桓公に先立つ準覇者かも
しれなかったり。孔子の尊敬した子産が出たところでもあり。
というか鄭世家のほうが韓世家より厚いですね。
やはり韓は存在感が…。
>ありかさま
はじめまして。
中国史全般扱ってますよ。漢代もOKです。
というか中国史以外のことでも話してます。
宣伝・広告は勘弁ですけど。
>鹿角さま
>話の中で曹ヒはずっと愛されてないんじゃないかと悩むし・・・
手のかからない子どもより手のかかる子どものほうが…
みたいな話でしたね。
>曹徳さま
えっと、そのメールというのを見てません。
最近変なメールが多いので、もしかしたら紛れてまとめてサクッと…
ということはないとは思うんですが、うーん否定できないなあ。
入り用のものでしたら、もう一度送っていただけませんか。
すみません。m(_ _)m
こんにちは!ご無沙汰しております。
蒼天三国志の曹徳と申します。
ところでNAGAICHI様、先日メールを差し上げたのですが届いておりますでしょうか?
ご検討いただけましたら幸いに存じます。
宜しくお願い致します。
失礼しました。
前回の追加 とりあえずホウ貴妃の本心が
仁宗にばれてしまって良かったと思います
彼女がまた元通りに仁宗の愛を取り戻すのは難しいでしょう
北宋では今のところ襄陽王はでてないけど
そのうちでてくるのかな?
ホウ太師と共同戦線張ったらコワイ・・・
安西篤子さんの曹操父子を扱った話を
異色中国短編大全という本で読みました
父親やってる曹操初めてみた・・・
話の中で曹ヒはずっと愛されてないんじゃないかと悩むし・・・
最後で曹叡の行動でやっと父の愛に気付くのに少し安心
その時の文を引用します
「父の愛は大きくて目に見え難い
息子はいつもそれに気付かない」
長編だとあまり父親してる暇が
曹操にはないんでしょうか?
ここは漢の時代については取り扱っているのですか
もう少し詳しいことが知りたいのです。http://www.lifecity.ne.jp/talkviewtown/timenote/special/index1.html
春秋時代の晋の名将でもあり良臣でもあった韓厥、このひとは、霊公に諫言し、趙氏もすくいました。403B.C.に諸侯に列したときの康子虎、申不害を登用した昭侯、そして韓非子くらいでしょうね。中国史の地図に鄭が水色、韓がほとんど同じ位置に水色に塗られてたりすると一瞬どっちがどっちだかわからなくなる...首都も(新)鄭だし...
やっぱり韓・魏・趙の三晋のなかでは、趙が一番人気なんでしょうかね?
かくいう私も、一番最初に読んだ宮城谷小説が『孟夏の太陽』(趙衰〜趙襄子までを扱った
短編連作)だったんですけど。
でもやっぱり韓は陰薄いかもなぁ。魏は文侯とか恵王とかすぐ出てくるけど、
韓の君主は・・・だれがいたっけ?(笑)てなカンジです(^^;
>カウボーイビバップ
あ、あのビデオマニアが見ていたのはビバリーヒルズだったのか! 宣和堂さんありがとう。
長年の疑問が解けましたよ!
そうそう、プラネテスも面白いですよね。これも全話また見返したいアニメです。
同じソースを見ていても、感想は異なってくるもので。
以下あくまで私的解釈で、他の解釈を否定するものではないことをお断りして。
▽趙襄子(趙無恤)
この人の性格は、善悪や利害得失で判断すると分からなくなると思います。
智氏を怨みつづけ、晋陽の戦いで立場が逆転すると徹底的に報復したのは、
善悪では量れませんし。
予譲を見逃したり、自分の子をさしおいて兄の孫(献公)を後継者とした
のは得失では量れません。
この人の性向を貫いているのは、徹底的な恩讐の論理。
恩義を受けてもあだを受けても、それを返そうとする。
あまりに執拗だし激しく不気味ですらあります。
そこら晋文公にも予譲にも通じているのです。
この人に暗さを感じるとするなら、例えるに蒼天の劉関張の属している闇
なのです。
▽智伯(荀瑤)
>イケ面智伯は、ジャイアンと出来杉を足して2で割った印象です。
>稀有壮大だけど人の気持ちが分からないところがある。
智伯の性格については同感です。
文武両道で顔もいい、しかし人の気持ちをまったく忖度できない。
多くの美点を持っているのに、人として大切なものを持ってない男。
▽趙宣子(趙盾)
僕が趙盾のなにが好きって、君主さえ悪くなかったら、名宰相になれただ
ろうと思える大人物ぶりと、「趙盾、その君を弑す」と董孤に書かれて憮
然としながら悪名を受けた哀しきオヤジっぷりですね。
[金且]麑の自殺の話は、『国語』晋語五にあるみたいです。
two_yossyさん、情報ありがとうございます。
『裂果』、塚本氏がついに宮城谷氏のホームグラウンドに攻め込んだというかんじでしょうか。
私は文庫になったものから読んでいるので、当面宮城谷氏の作品が読書リストに続きそうです。
趙襄子の暗さは、母親が卑賤の出であったための暗さや苦労を感じるので自分はあまり不快に感じないのです。すごいつらかったのかな〜と思います。だけど、そんな弟を理解して快く跡継ぎの座を譲った伯魯の気持ちのよさも自分はとても好きです。
そんな兄の気持ちを感謝して、襄子は伯魯の子孫を跡継ぎにしたんだし...
>趙襄子、薄気味悪い
智伯は分かりやすいんですよね。能力あるけどバカ。稀有壮大だけど人の気持ちが分からないところがある。自分としてはなんだか憎めないんですよね。
対して趙襄子って、髑髏の杯も代王の件もそうですが、底知れない暗さがあるんですよね。智伯を破って恩賞第一だったのが、籠城しているときに敗戦の色が濃くなった時でも自分に対して礼を失わなかっただけの人を当ててたりするので、なんだかこっちのほうが悪人っぽいエピソードが多いような気がします。うーん…前蜀の王建もそうだけど陰険な人ってあんまり好きじゃないなぁ。
補足しておきますと、示ビ明(『左伝』では、提弥明)に食物を与えた話は、趙世家では桑下の餓人に寄食させたという記述で一行出てきます。「晋世家」と『左伝』が詳しいです。
趙盾が飢えていた示ビ明(『左伝』では、提弥明)に食物を与えた話とか、ショゲイの話は、趙世家でなくて晋世家なんですよね。霊公の暗君ぶりが晋世家のほうがくっきりしているのはちょっと意外です。趙世家ならわかるのですが...ちなみに『左伝』では、宣公2年の伝にこの記述があります。『国語』にはありますかね...
NAGAICHIさま>
あ、それから自分も趙盾好きですよ。とくに感動したのはショゲイが趙盾の立ち居振るまいをみて、感動し、「忠臣を殺すのも、君命を放棄するのも罪は同一だ」といって頭を樹にぶつけて自殺するところですね。彼が決して偽善者でなかった証拠だとおもいます。
それから、安西女史の小説ご紹介いただいてありがとうございました。さっそく注文しました。
どうもことばたらずで誤解を生んでしまうようです。
NAGAICHIさま>
趙襄子が優秀なのは、百も承知です。宮城谷「隼の城」にも引用されている宝の符を見つけた話とか父の簡子が「よく恥をしのべるから我が家をほろぼさないですむだろう」といった話とか。
イケ面智伯は、ジャイアンと出来杉を足して2で割った印象です。
智伯になめられて馬鹿にされている姿が子供時代ののび太にだぶるわけです。
晋陽の戦いもまさかの水攻めでさんざんだった。
>僕が考えるに趙襄子は内面的にすごく激しい人。
>晋文公重耳と同じくらい執念深くて、一度受けた怨みは忘れない。
>予譲を許したのは、自分と通じる激しさに共感したから…と想像。
これは、なるほど〜とおもいました。これこそ寛大では、まずかったのかもしれませんが、彼の器の大きさと自分は考えました。
宣和堂さんをして、頭蓋をしびんにするような執念深さというか激しさが気色悪いと思わせてるのかな〜と思いますが、どうなんでしょうか?
>perdidoさま
>趙朔(襄子の曾祖父)の孤児(趙武。襄子の祖父)を守ろうとする程嬰と公孫杵臼の話は
>感動的です。
「趙氏孤児」は有名な演題のひとつだったんですね。
『中国文明の歴史2春秋戦国』(中公文庫)p79-80によると
18世紀のフランスまで渡って戯曲になってるようですし。
>のび太に自分を重ねる少年たちみたいなものがあるのかもしれません。
話の展開上、趙世家を読み直してみましたが、
趙襄子(趙毋ジュツ)はのび太じゃないですよ。
趙簡子(趙鞅)の息子の中でいちばん優秀だったんだから。
智伯にいじめられてるように見えるかもしれないけど。
僕が考えるに趙襄子は内面的にすごく激しい人。
晋文公重耳と同じくらい執念深くて、一度受けた怨みは忘れない。
予譲を許したのは、自分と通じる激しさに共感したから…と想像。
>宣和堂さま
>それに、趙襄子ってなんだか薄気味悪いんですよね。
姉婿の代王を食事に誘って殴り殺させ、姉を自殺させてる話といい、
智伯の髑髏を杯にするという織田信長の元ネタになってる話といい、
たしかに気味悪い話が多いです。
気味悪いというより、信長タイプなんだと思うんですけどね。
代滅亡にかんしては、「代を滅ぼすことはなんでもない」と子供時
代に言わせてるという伏線つきなので、出来すぎなんですけど。
>フェイフェイが主役の回は面白いですよ。
見てるぶんには面白いけど、あまりお近づきにはなりたくない女性。
(^^;)
自分の過去を探し歩き、最後にそれを乗り越えたフェイ
刹那的空気を漂わせながら、結局過去を断ち切れなかったスパイク
という対比になってしまうのか。
悲劇であることはさておき、仲間無視してる最終回はやっぱ浮いてる。
宣和堂さま>
>戦国きってのイケメン君主だと思いますよ。それに、趙襄子ってなんだか薄気味悪いんで>すよね。
なんかよくわかるような気がします。自分の趙襄子好きには人生観が現われているような(爆)...どことなく無器用で要領が悪いのでイケメン野郎(や女の子たち)にバカにされてきたけど、ついにイケメンに勝利し、あだ討ちをしようとする予譲をゆるし続ける寛大さ、服をあたえてあだ討ちをさせた姿にかっこよさを感じた...
のび太に自分を重ねる少年たちみたいなものがあるのかもしれません。
>趙襄子
自分は智襄子に肩入れしちゃうなぁ…。田中謙二『資治通鑑』読むとどうしてもそうなっちゃいます。戦国きってのイケメン君主だと思いますよ。それに、趙襄子ってなんだか薄気味悪いんですよね。
>スピーク・ライク・ア・チャイルド
フェイフェイが主役の回は面白いですよ。この話もなぜかビバリーヒルズ高校生白書の第一話が流れてたりして面白かったです。
でも今見ると、デブリが原因で起こった宇宙災害で、あの位置にいて助かったフェイフェイはユーリのかみさんより(同じサンライズのプラネテス)も強運の持ち主だと思い知らされます。
自分としてはハード・ラック・ウーマンで終わっててくれたら評価は高かったんですけど、ジュリアがあれじゃあ…。
>太白さま
>秋葉原にビデオデッキを探しに行く18話とか好きでしたね。
あっ、この話最高です!
すったもんだの末にミッションは徒労に終わり、
無駄足だったと思いきや、目的は難なく達成。
最後はなぜかホロリとさせられてしまうというなんとも強引な展開。
いやー、いいです。
思わずニヤリとしてしまうレトロなアイテム(この話ではベータとVHS)が
うまーく配置されてるのもいい。
あのテープ、スパイクに無雑作にいじられるわ、デッキに噛むわ、アイロンに
までかけられるわ、悲惨な運命でしたが、なんであれだけ判読できるんだ。
(^^;)
>xiaoさま
>中国のVCDは字で名前が出てくることが多く、かなり通じゃないと理解出来ないものも
>多いです.
中国人あいてでも固有名詞は発音では判別しにくいから、字幕でフォローする
ということになるんでしょうけど。日本人とすると字幕ですら分からないという
ことになりかねないですね。
中国の時代劇の登場人物というのは、日本ではあまり知られてないですから。
僕も分からないものは分からないです。
張子房は、『項羽と劉邦』や『赤龍王』を見てる人なら分かるかな。
>perdidoさま
>趙襄子、小説化したひとってあと誰がいるんでしょうね...
こないだ安西篤子『洛陽の姉妹』(講談社文庫)という短編集を読んでた
んですが、その中の一篇「胡服の王」の前半に趙襄子が出てました。
小説としては焦点ぼけててあまりよくないかなあと思ったのですが、
同書所収の短編「趙氏春秋」と合わせて、戦国趙の前史の復習になる話
でした。
趙氏の歴史…ということでは、やっぱり僕は趙盾が好きだということを
再確認してしまいました。
趙襄子の小説、『裂果』っていうんですね。さっそく注文しました。
『史記』や『左伝』で、中国史上初めてという水攻めを考案したくらい一種の天才でもあった智伯を趙襄子が滅ぼす話に一族の智果の鋭さを感じ、予譲のあだ討ちの話に感動的しますが、趙朔(襄子の曾祖父)の孤児(趙武。襄子の祖父)を守ろうとする程嬰と公孫杵臼の話は感動的です。成公の姉であった趙朔の妻が屠岸賈の迫害に対して孤児が泣き声をあげるかあげないか祈って孤児が声を出さなかった場面もスリリングです。もうご存知かもしれませんが、その逸話を劇というか戯曲というかにしたHPです。
えつ!『趙襄子』でたんですか?
宮城谷『孟夏の太陽』「隼の城」とどうちがうんだろ?
趙氏の歴史はすごい好きです。大河小説になりますよね...
趙襄子、小説化したひとってあと誰がいるんでしょうね...
海音寺潮五郎氏や陳舜臣氏は小説化しましたっけ?
河出の『新十八史略』って小説じゃない?
どうも、ありがとう御座います.NAGAICHI様.
その言葉は有名ですね.中国の時代劇によく出てきます.中国のVCDは字で名前が出てくることが多く、かなり通じゃないと理解出来ないものも多いです.張子房(Zhang Zifang)など.
>カウボーイビバップ
僕的にはスペースシャトルをレストアする「ワイルドホーセス」(19話)とか、
秋葉原にビデオデッキを探しに行く18話とか好きでしたね。
あとヤバキノコも(笑)
>趙襄子
『霍去病』の塚本青史の最新刊も『趙襄子』でしたね。
あぁ、塚本青史は「白起」「呂后」「項羽」と買ってるけど、全然読めてないや・・・(--;
>xiaoさま
はじめまして。
豫譲は春秋時代の晋の人で、智伯に仕えました。
智伯が趙・魏・韓の三氏によって滅ぼされた後、
主君の復讐のために趙襄子をつけねらった人物です。
「士は己を知る者のために死す」という言葉で有名な人。
『史記』刺客列伝に話が載ってます。
オススメされてた「カウボーイ・ビバップ」ひと通り見たっすよ。
ドタバタあり、シリアスありのハードボイルドで面白かったです。
最終二話は…、たしかに納得いかないかも。
過去はどうでもいいと云いながら、
過去に殉じたとしか解釈しようのないラスト。
仲間無視してスパイクひとりの話になってるし。
敵役のビシャスも描ききれてないし。
無理矢理にでも最後を悲劇的に演出したかった…としか思えないのはどうも。
>two_yossyさま
王羲之はバカボンのパパですか〜。
こんにちは.中国のVCDを見ていて東周列国戦国篇1〜3部の豫譲という人物が分かりません.ご存知の方、お知らせください.
>コルテスさま
もう一件落着してしまいましたが、王羲之の件、所謂「十七帖」の中の「児女帖」ですよね。二玄社の「十七帖〈二種〉 東晋 王羲之」中国法書選14あたりがよろしかろうかと。手紙としては断片で、また真筆であるかは疑われているところですが、古来代表作として尊信されてきましたから、内容は信頼してよいのではないでしょうか。
「パパなのだ。パパには男の子が7人と女の子が1人いるのだ。みんなママさんが生んでくれたのだ。上の7人の子はみんな結婚したのだけれど、一番下の子(たぶん王献之)がまだ結婚してないのだ。この最後の嫁取りをかたづければ、あちらに行くことができるのだ。いま男の子と女の子の孫たちが16人いるのだ。とっても可愛らしいのだ。あなたの詳しい事情がわかったので、パパの近況をいろいろ教えたのだ」(意訳)。
といったところでしょうか(笑)。
高潔の士としての王羲之のイメージが崩れる?
これでいーのだ!
wo_yossyさま>
>いまの道化どもにもこのままやりたい放題やってもらって、破壊と死のシュミ
>レーションに誘導するほかないのでしょうか。
産みの苦しみということなのでしょうか...わたしもNAGAICHIさんに同じく勘弁ですが、このままずるずるいってしまいそうです。なににブレーキをかけなければいけないのか?とりあえず思い浮かぶのはアメリカ大統領選ですが...
それから、直接は辞書に載っていませんでしたが、¡No se pierda Usted!(あなた自身を見失わないで!)又は、¡No te pierdas!(君自身を見失っちゃいけないよ!)だと思います。
※seは、三人称の再帰代名詞。teは、二人称の再帰代名詞。両方ともyourselfの意味だが、Ustedは、あまり親しくない関係の場合あるいは敬意を示さなければならない相手の場合に、「あなた」という意味で使われる。
永一さん、Guang-Bi(光璧)さん、ありがとうございました。
迷宮事件が解決したかんじです。
>というのも、王羲之は「書聖」なだけに、彼の短い手紙文なども書道
>のお手本として残っており、その中に下のようなものがあるからです。
なるほど。
>殷景仁さま
自分の思想がゆがんでいるか否か、
タマシイの不健康な者には分かりませぬ。
人間信じたいものを信じますから。
例えば台湾の総統が撃たれました。
中国だ!国民党だ!自作自演だ!
真相はともかく、気の早い人はすでにひとり決めしてるもの。
>光璧さま
郗夫人が子ども全員を産んでいたんですか。
7男1女だったとは。
王羲之書蹟の模写という線があったんですね。(-_-;)
むかし支遁への手紙とかいうネタかましたことあったんですが、
そういう都合の悪いことはすぐ忘れるし。
いい加減な憶測はじいてすみませんでした。<コルテスさま
>two_yossyさま
>いまの道化どもにもこのままやりたい放題やってもらって、破壊と死のシュ
>ミレーションに誘導するほかないのでしょうか。
そ、それは勘弁してほしいです。
>perdidoさま
メール読みました。
僕のほうがいろいろ文意を取り違えてたようです。
すみません。
僕はあえて感情論を否定しません。
でも本当にいらだつところは、けっきょく他者の問題にしてしまっている
日本人たる僕の切迫感のなさ、気持ち悪さなんです。
僕が感じる居心地の悪さはこんな文章がぴったりです。
“We bomb, they suffer” “They bomb, we suffer”
http://www.yorozubp.com/0403/040320.htm
http://www.yorozubp.com/0403/040321.htm
「われわれが爆弾を落とし、かれらが傷つく
かれらが爆弾を仕掛け、われわれが傷つく」
僕の14万4千人の説はどうかご笑殺ください。
不信心者なもので、キリスト者という人種をみるとこの調子で
よくからかってました。相手は真摯な人らなのにね。
バプテスト派に属していた昔の友人が言ってたには
ヨハネ黙示録は聖書の中でももっとも解釈がむつかしいそうですね。
>perdidoさま
詳しいっすね、基督教関係。
自分は宗教的熱狂というものに対して、それが正統であると異端であるとにかかわらず、強い違和を覚える人間でして。同じ志からの発憤であるなら、謝ってもらうまでもありません。しかし今日びこの国でも台頭しつつあるネオコンや、かつての団塊の世代を覆っている卑屈な出世主義、また若い人たちの間にも浸透している保守的な考え方と冷静に闘っていくためにも、ぜひご自身を見失わないで(No perdido usted !)ください。
ネオコンや単独主義に関しては、自分もご多分にもれず、デウィット/金子「終わらない戦争」(岩波ブックレット)で知った程度の手合いです。興味深いんだけれど、最後まで読むのが堪えられない、「イヤな読後感」の本ってありますよね。なんか救いがないと言おうか。ゴイティソーロ「サラエヴォ・ノート」(みすず書房)もそうだったけど。
しかしなんと言いましょうか、一方で極端にコード化されて、シミュラークルとシュミレーションがもたらす産物となっているリアリズムがあって、その一方で数十年ものあいだ相手にもされなかった単独覇権主義や民族浄化や政教一致や改憲作業という、戯画的で極端な宗教的熱狂やイデオロギーの噴出が現れている。あらゆるイデオロギーが無化し、イデオロギー的闘争のすべてが無意味なものとなっているからこそ、ばかばかしいほどにあからさまな復古調が暴れ回っているのでしょうか。米国のボーイスカウト民主主義の滑稽さはまだしも、政界の主流になりつつある日本版ネオコンとそれを支えている社会には自分は嘲笑も出てきません。かつてゲルツェンは、ロシアの暴君にさらなる失政を求めて、帝政の崩壊と革命の促進を期待しましたが、いまの道化どもにもこのままやりたい放題やってもらって、破壊と死のシュミレーションに誘導するほかないのでしょうか。
ところでいま、山我哲雄「聖書時代史 旧約篇」(岩波現代文庫)を読んでいます。自分は学生の時分には西洋史学に籍を置いていたのですけれど、専攻はロシア・アヴァンギャルドだったもんすから、それほど聖書を熟読する機会もなく。ただ仮にも西洋史を学んだ人間である以上、聖書はいずれやらねばな、とは思っております。今回この本を読んでいて再認識したのですが、「聖書の世界=地域史」だったんだなと。地中海の東端に縦長に位置し、山地と砂漠に閉ざされたさほど広くない舞台。北(東)のアッシリアと南(西)のエジプトとの狭間で、常に外的影響を受けながらときに繁栄しときに衰退し、宗教勢力や部族をめぐる問題をかかえつつ、さらに王国の分裂、北王国の滅亡へと進んでいく。またそれら出来事を記述した史家たちが倫理観ゆえに過大・過小評価している部分もあり、エジプト/アッシリア側の資料が活かされる場面が出てくるとか。ちょっと勉強になったっす。
聖書学掲示板つくる? ←ウソです。
私にも、手の出せそうな話題なので(^^;
>コルテスさん
> 王義之には7人の息子がいたとされていますが、東晋時代の常識からして、
> 彼らは全て正夫人のチエイの子であると考えるべきなのでしょうか?
>NAGAICHI さん
> たぶん娘もいたでしょうし、全員正夫人の子というのは考えにくいのでは?
普通に考えると、NAGAICHI さんの考えが妥当だと思うのですが、
王羲之に関して「だけ」は若干事情が違うみたいです。
というのも、王羲之は「書聖」なだけに、彼の短い手紙文なども書道の
お手本として残っており、その中に下のようなものがあるからです。
「ぼくには七男一女があります。みんなおなじ母から生まれた子で、
すでに結婚していますが、ただ末っ子が残っています。」(訳文は、
吉川忠夫『王羲之 六朝貴族の世界』清水新書、1984年9月、の141p より)
もっとも、この辺の文章がどの程度、王羲之自身のものとして
信用できるのかなどの問題はあるのかもしれませんが、
とりあえずこれを否定するだけの史料もない……ですよね(^^;)
NAGAICHIさま>
>ヨハネ黙示録14章によると、14万4千人の男性しか救われないら
>しいので、聖書を字句どおり信じるのも救われないんではないかと。
確かに黙示録の14章1節のほかに7章4節に「14万4千人」の記述がありますが、一方で「私は見た。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数え切れないほどの大勢の群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って御座と子羊の前に立っていた。」
(ヨハネの黙示録7:9)
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」(ヨハネによる福音書14:2)
「あなた方に言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。」(マタイによる福音書8:11)と
あります。ほかにもこのような記述はあると思います。聖書全体から考えると、自然に、数え切れないほどたくさんの人々が救われるという解釈になります。
ちなみに、14万4千人の救いを明確に主張しているのは、「エホバの証人」です。
あとは、メールしましたのでお読みいただければ幸いです。
殷景仁さま>
>「そのたった一つの魂の病とはなんです?」とフランボウは笑顔で問いかえす。
>「自分がまったく健康だと考えることですよ」
わらえますね。
「パリサイ人は、立って心の中でこんな祈りをした。『神よ、私は、ほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のような者ではないことを、感謝します。私は、週に二度断食し、自分の受ける者はみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」(ルカによる福音書18:11〜14)
パリサイ人の「取税人」を「異教徒、共産主義者、イスラム原理主義者」と置き換えたらそっくりネオコンや宗教右派の主張になります。
perdidoさんへ:
>感情的になってすみません。
ファンダメンダリストのような連中に対する反感はよくわかります。ですので、ブラウン神父の一節を引用しました。
彼らの主張は確かに滅茶苦茶なものですから、そうした主張に飲み込まれていない一般人にとって、反感を抱くことはごく当然だとは思います。
ただ、感情に飲み込まれると、自分の思想もまたゆがんだ方向にいくことは往々にしてあるので、これは気をつけるべきでしょう。
それには、以下の「ヒルシュ博士の決闘」について書かれた文章が解毒剤になるかもしれません。ちなみに「折れた剣」のクレア将軍のモデルは、太平天国を鎮圧したゴードン将軍であるそうです。
ここからは「熱狂的な国民感情に」というものが、(ドレフュス無罪派のように)たとえ正論であっても、あまり益にならないといえるかもしれません(現在の日本のある状況もまた然りか)。
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/buraun/buraun5.htm
>perdidoさま
イラク戦争開戦から一年になってしまいました。
楽観的な予想をしていた人には悪いのですが、
やはり世界が以前より殺伐とした様相なのはいなめません。
>しかし聖書に忠実なんてウソだ!
聖書根本主義の教義面については、僕は知見がないのでなんとも言い
ようがないのですが…。
ヨハネ黙示録14章によると、14万4千人の男性しか救われないら
しいので、聖書を字句どおり信じるのも救われないんではないかと。
>こんな連中のために日本が巻き込まれて
巻き込まれて…というか
戦争がはじまるといち早く支持し、
いまも「正しい戦争だった」と首相が言ってるわけですから、
受け身で語るのもどうかと思います。
無差別テロをやる連中や戦争屋のネオコンの前ではともかく、
イラクで亡くなった民間人やその遺族の前で被害者ぶる気にはなれま
せん。
>この板は安全なので
ネオコン嫌いなのは僕も一緒なので、感情的になるのは是非もなしと
思います。
ただこの板のセキュリティーはそんなに高くないので、絶対安全では
ないかもしれません。管理者としても責任が取れる範囲でなるべく注
意はしますけど。
過去ログ化するとき、メルアド・リモホなどのデータは消去している
ので、そちらから抜かれることはないと思いますが。
>日本にも何年か前にそっくりなやつらが幅を利かせていました
いわゆる日本版ネオコンですが、弱体化してるようには僕には思えま
せんけども。むしろ若手中心で与野党横断的になってその傾向が強く
なっているようにみえます。
北朝鮮による拉致事件が発覚して以来、強硬な意見を吐くほど、世論
に受けるということで勢いづいていると思います。
……もしかして「分裂」って自由党のこと?
とすると「キリスト教系のカルト」は統一協会ですか?
それなら僕が取り違えていることになりますが。
>殷景仁さま
ミステリーも最近読んでないんですが、含蓄ある一節というのはある
もんですね。
優生思想と選民意識とオカルトとは結びつきやすいもので。
>コルテスさま
>道教の場合特に本流と異端の格差がはっきりしないという面があったのでは。
でしょうね。どうもつかみづらい。
>王義之には7人の息子がいたとされていますが、
名が伝わっているのが玄之、凝之、徽之、操之、献之の五人ですか。
たぶん娘もいたでしょうし、全員正夫人の子というのは考えにくい
のでは?確証はありませんけど。
>飛覇帥さま
はじめまして。リンクありがとうございます。
大飛覇帥帝国さんのところは以前から存じてまして、いつも笑わせて
いただいてます。
ああいうノリで紹介文書けたらいいんですけどね。
うちはどうも堅くていけません。
うちの簡易リンクは、礼儀にかなったものではないので、
正規にリンク貼らせていただきますよ。
しばらくお待ちください。
永一 直人さん。はじめまして、飛覇帥と申します。
自分のホームページにて以前に枕流亭さんにリンクをはったのですが、相互リンクのお願いをするのを忘れておりました。
すでに貴ホームページの簡易リンクのほうで宋名臣言行録のリンクをさせていただいておりますが、このたび、当ホームページで貞観政要をはじめておりますのでそちらのほうもリンクしていただけるとうれしいです。
よろしくお願いします。m(__)m
宋名臣言行録
http://homepage1.nifty.com/hihasui/souindex.htm
貞観政要
http://homepage1.nifty.com/hihasui/jouindex.htm
永一さん、失礼しました。
殷景仁さん、解説どうも。
『柳絮』の設定については、私も多少疑問に思うところがあったのですが、今テキストが手元にないのでまたあらためて投稿します。
道教の場合、経典の構成が雑多で、厳格な教義がないため、教祖のパーソナリティを強く反映した独特な教団がめまぐるしく興亡したという印象があります。こういった新興教団はどんな宗教でも派生していますが、道教の場合特に本流と異端の格差がはっきりしないという面があったのでは。
ところで、王義之には7人の息子がいたとされていますが、東晋時代の常識からして、彼らは全て正夫人のチエイの子であると考えるべきなのでしょうか?それとも、さすがに上の方の二人ぐらいが嫡出で、それ以外は妾腹と解釈するのが自然なのでしょうか?
perdidoさんへ:
perdidoさんの文章を見て、チェスタートンのブラウン神父の次の発言を思い出しました。
――
「まあ、この新興宗教についてぼくが知っているのはそんなところです」とフランボウは無頓着に言った。「もちろん、どんな肉体の病でも治せるという触れこみですがね」
「たった一つの魂の病は治せるのかな?」とブラウン神父は真剣に好奇心をそそられて言った。
「そのたった一つの魂の病とはなんです?」とフランボウは笑顔で問いかえす。
「自分がまったく健康だと考えることですよ」(「アポロの眼」)
「さっきも言ったとおり、アーサー・セント・クレア卿は自分の聖書を読む男だった。彼の問題はそこにあある。いくら自分の聖書を読んだところで、あらゆる他人の聖書を読んでみないかぎり、何の役にも立たぬということを、世間はいつになったら理解するのだろう。印刷屋は誤植探しのために聖書を読む。モルモン教徒はモルモン教の聖書を読んで、そこに一夫多妻制を見つけだす。クリスチャン・サイエンスの信者も、やはり専門の聖書を読んで、人間には手も足もないと考える。(「折れた剣」より)」
――
キリスト教系のカルト=ただしい聖書の教理に従っていないから異端として扱われています。中世では、聖書に忠実だったら教皇から異端扱いにされたのですが...
two_yossyさま>
感情的になってすみません。自分は「銀英伝」に出てくる自由惑星同盟の権力者にそっくりなネオコンみたいな連中が大きらいなので...吐き気がする。
日本にも何年か前にそっくりなやつらが幅を利かせていました(最近は分裂してお互いをけなしあって弱体化していますが...)
しかもキリスト教系のカルトがかかわっていることもそっくり。
>いまもローマ法王猊下より、アメリカの福音主義の一活動家牧師のほうが「強い」し
そうですかねえ...
世界のカトリック教徒がいるわけですからローマ法王の力は、中世よりは落ちたりとはいえ影響力あるとおもいますよ。
アメリカの場合は宗教右派が集団として大統領選に影響を及ぼすから強いだけで個人の牧師が強いわけじゃないです。(福音主義派といいたくない。ファンダメンタリスト(原理主義者)といったほうがいいですね。イスラム原理主義者とよく似た発想を持ってるから。)いま絶版ですが、グレース・ハルセル『核戦争を待望する人びと』朝日新聞社/1989.9.20を読めばわかると思います。読まなくても自分は、いろんなところから情報が入るので知っているのですが…)
しかし聖書に忠実なんてウソだ!
旧約聖書の釈義、特にカナーン征服の「聖絶」の釈義が誤っています。「聖絶」を表すヘブル語の意味は「忌み嫌うべきもの、根絶やしにして除くべきもの。」という意味ですが、主の聖なる民であるヘブル人が入植地のカナーンの宗教によって精神的に腐敗しないように、また「聖絶」して、神のために聖別し、ささげものにすること、ヘブル人がカナーンの先住民や家畜や彼らの持っていた財産をすべて神に捧げることで神への献身、自分自身を神様の働きにささげることによって神への献身を表し、神への献身を学ぶことを聖書はいいたいのに、自分たちが石油利権や神の名の下に異教徒を取り除く、そのためにも核兵器使用も辞さない、世の終わりには自分たちが救われる、ファンダメンタリストたちに近いデイスペンセーション主義者のキリストの再臨以前に選ばれたものたちの「携挙」があるという発想も独りよがりな一種の選民思想から来ています。500年前のスペイン人の征服者たちと発想がちっとも変わっていません。
聖書はなんて言ってるでしょうか。
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。その日には、おおぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイによる福音書7:21〜23)
異教徒を核兵器によって取り除いたわたしを御国にいれてください、とでも言うのでしょうか?でも世の終わりにはもっと巧妙な偽預言者が現れるそうです。お互いのスキャンダルを探し回って足をひっぱりあうテレビ伝道師、徴兵のがれを平気でやるようなネオコンなんていう連中は底が見えるだけかわいいのかもしれません。こんな連中のために日本が巻き込まれてやおらムスリムの方々の反感を買わないか心配です。
ここがいちばん詳しいのかなあ…。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-2.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-3.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-4.htm
士族の神仙道教と民間天師道との大きくふたつの流れがあったというので
いいのかなあ。
孫恩は士族連中の五斗米道とはホントに別物だったんだろーか。
>two_yossyさま
ぼかぁ薄いですよ。あまり本読まないから。
儒家と戦国思想界を二分した墨家が、なぜ煙みたいに消えちゃったのか、
昔っから謎に思ってたんですが、自説というほどのものは思いつかず、
焚書坑儒の「儒」は、広く諸生、もしくは主に墨家のことだったんだよ
とか考えるのが気が楽かなあ…程度で止まってたんですが。
叔孫通が秦二世に仕えてるくらいだから、単純に儒家が弾圧されたとも
思いにくかったし。
方士は神仙思想や黄老道を探求しながら百人百派の個人レベルで動いて
た連中だと思ってるんですが、やはりそれなりの門生は抱えてたと思い
ますよ。その後裔が民間信仰取りこみながら大規模に組織化していった
のが後漢期で、魏晋南北朝期は組織面では揺り戻しがあったような気も
します。個人主義的な求道精神回帰の動きがあったようにも思うんです。
仏教教団に対抗した組織化というのは聞くけど、寇謙之みたいなのばか
りみているとつまずくかもしれませんね。
ああ、やっぱり物知らないし、大したこと言ってないってのが自分で分
かる…(-_-;)
>永一さま
さすがですね。手元に資料も置かず、いい気になって書いていると、通人にゃあすぐ見抜かれちゃう。バケの皮がね、薄いもんすから。
墨家の衰退については、籔内氏・浅野氏のような専門家ですら明言していないわけですから、斯界の謎と言うべきです。ましてや儒墨論争の明証など挙げようもありません。ただまったくの私見ですが、自分は漢代にも生き残りはいたと思ってるんです。というのは、劉向の編纂以前にも「墨子」が読まれていた形跡があること(銀雀山漢簡)や、孟勝のときに集団自殺したあとも「秦墨」として生き残った組がいたらしく(呂氏春秋)、独自の論理学(墨経)は恵施や公孫龍らに受け継がれたようです(籔内 清)。荀・韓の記述などからも、始皇帝の初年にはまだある程度の勢力を維持し、秦墨の末裔は秦の博士になっていたはず(で、焚書坑儒に遭ったはず)。その後は公孫龍のともがらが楚漢に際会し、漢初に登用された刑名・縦横の吏の一端に加わる。即ちかつての力行の徒としてではなく、弁舌の士に変貌した形で後代に至ったのではと(墨経における科学的思考も漢代になって行われたのではと)...。推論の上に推論を重ねたようなものでオソマツ。
「方技」という集団について、以前から少し興味がありました。「典論」「博物志」などに見える後漢末〜三国に活躍した方士たちには、相当の門生がいたのではないでしょうか。黄巾・五斗米のような一大組織には及ばないまでも、そのときどきに影響力は持ち得たと思います(いまもローマ法王猊下より、アメリカの福音主義の一活動家牧師のほうが「強い」し)。その後「晋書」では「芸術」伝に入れられ、羅什尊者などといっしょに並べられているところからも、かれらの位置づけが伝わります。釈氏が清談思想界に加わってきたことは、「世説」(支遁)や「高僧伝」(慧遠)からうかがわれます。仏教の熱心な組織化やロビー活動が、むしろ道教側を刺激したと、どこかで読んだ気も...(ほら出た憶測!)
五斗米道については目下調べが足りません。申し訳ありません。
ハァ、それにしても永一さまの切り返しは鋭い。オッカム?
>太白さま
>なんか、山田風太郎の『人間臨終図鑑』を思いだしました。
本の紹介ありがとうございます。
山田風太郎だと、不謹慎=面白いなのではとか思ったり。
イノセンスの箴言はなんとなく選び方が偏頗な気もしたんですけど。
押井監督にとって中国の名言はすべて孔子さまなのかな。
>コルテスさま
僕は批判なんてしてませんよ〜。
ただ面白くないと言っただけで…(爆)。
ということで殷景仁さんにお譲りします。
>殷景仁さま
松枝茂夫・和田武司『陶淵明全集(下)』(岩波文庫)の年譜
確認しました。
---
孝武帝/(太元)18(年)癸巳/三九三/29(歳)/
畑仕事では生活を維持できなくなり、縁故をたよって江州祭酒として
出仕するが、少日にして辞任。一説に、五斗米道徒の江州刺史王凝之
に仕えるのをいさぎよしとしなかったためという。その後江州主簿と
して招かれるが辞退する。
---
安帝/義煕1(年)乙巳/四〇五/41(歳)/
三月、建威将軍劉敬宣の参軍として、都に使いする。秋、彭沢の令と
なるが、十一月、異母妹程氏の訃報に接して職を辞し郷里に帰る。
「乙巳の歳三月、建威参軍と為り、都に使して銭渓を経」「帰去来兮
辞」
---
以下は思いつきの憶測ですが、
41歳のときに書いた「帰去来兮辞」の序文の中で、
陶淵明自身が
「尋程氏妹喪于武昌、情在駿奔、自免去職。」
まもなく程氏にとついだ妹が武昌で亡くなったので、葬式にかけつけ
るため、自ら職を去ったと言っています。
郡の督郵が県にやってきたとき「我不能爲五斗米折腰向郷里小人」と
嘆いて職を去ったというのと合わないので、
五斗米の挿話のほうを無理矢理29歳のときに移してしまったんじゃな
いでしょうか?
でもやっぱり「五斗米」と「帰去来兮辞」のつながりを外すと変です
ね。県というからには彭沢県だろうし。
……どうでもいいけど岩波の年譜、異母妹程氏ってなんでしょう?
程家にとついだ「陶」氏じゃないのか?
……もひとつ、六朝期に多い「〜之」とついた名前は、五斗米道信
者のあかしとかいう説はホントなんでしょうか?
『宋書』の成立についてですが、トクトの宋・遼・金史ほどひどく
はないにしろ、撰者が中身をじっくり吟味する時間はなさそうで。
調べる気にならないと気づきもしなかったですが、正史以外の『宋
書』って4種類あったんですね。すべて散佚してますが。
(1)宋の徐爰の撰,65巻(2)斉の孫厳の撰,65巻(3)斉の王智深の撰,30
巻(4)撰者不祥,61巻
>two_yossyさま
>引き返すことのない中央集権化の時代に墨家を駆逐した彼らにとって、
ここ少し引っかかったので、一言。
墨家の消滅って、はっきりした通説あるんでしょうか?
秦の弾圧で急速に滅んだのか、漢に入ってゆるやかに衰微したのか。
政権に近いところで儒家との角逐みたいなものがあったのでしょうか。
浅野裕一『墨子』などでは秦による弾圧説を採ってるみたいですが。
>しかし後漢以降、民間宗教が拡大した「道教教団」が台頭し、仏教東漸
>ののち玄学清談において思想界でも重んじられてくるわけですが、
以下、興味がずれてるとは思いますし、疑問形だらけですが、少し喋ら
せてください。
後漢にあらわれたプレ「道教教団」というと太平道と五斗米道が代表で
すが、于吉−張角の太平道は、黄巾の乱の鎮圧によって教団が解体され
たようでもあり、「青州兵」がらみで曹魏に取り込まれたようでもあり。
また張陵の五斗米道は、張魯の死後、分裂したようでもあり。
これらが北魏の寇謙之が道教教団を確立するまでに、組織的にどういう
経緯をたどっていったのか、イメージがつかめません。
また南北の政治的対立は、道教組織の形成にどう影響を与えているんで
しょうか?
東晋で起こった孫恩・盧循の乱は五斗米道信者らが中心になって起こし
たといわれてますが、五斗米道全体が大きく加担したものだったのでし
ょうか、あるいは一部の分派行動だったりするんでしょうか?
なんとなくカルト的な匂いを感じたりもするんですけど。
ここらへん詳しく書いてある本とかないのかなあ?
ええと、こんなことを持ち出したのはなぜかというと、
殷景仁さんが五斗米の話を出したから…でもありますが、
『蒼天航路』30巻p120の張魯のあたりで
「五斗米道の名は消えた」
にすさまじい違和感を感じたからですね。
しかし蒼天の張魯のコスチュームが卑弥呼みたいだと思ったんだけど、
よく考えたら鬼道つながりで、ゆえんなきことじゃなかったのね。
two_yossyさんへ:
「儒林伝」「文学伝」が立てられなかったことについて、さらにもう一つ『宋書』の成立事情も原因に考えられます。
『宋書』の成立過程をたどると、南斉の永明5年に沈約は勅命を受け、その翌年二月に『宋書』一百巻が完成したという異例のスピードで書き上げられていることが分かります。
このようなことから、趙翼のように「沈約が実際に書いたのは、宋末の部分だけで、大半は徐爰らの先達らが書いたのをそのまま用いたのだ」という人もいます。そこまで主張するのは極論でしょうけれども、沈約が先行書に多くよっていることは確かでしょう。このように急いで書かれた書物ですので、内容に未整理なところが生じるというのは、大いにありえます。これに加えて、一芸ではなく、多芸に通じることが要求されたこの時代は、ある人物をどのカテゴリーに入れるべきかということを判別するのが難しかったという事情もあったのではないでしょうか。
たとえば、周続之という「尋陽の三隠」いわれ、陶淵明らと並び称せられた人物がいます。ところが彼は『毛詩』『礼記』『公羊伝』等に通じており、しかも隠者でありながら、劉裕ら時の権力者の招きに応じて『礼記』の講義を行ったりしております。『宋書』では一応「隠逸伝」に収められていますが、このような人物の場合、本当に隠者と呼べるのか、あるいは実際の行動から「儒林伝」などに入れた方がいいか、判断に迷うところがあります(こうした周続之の行動を、時の人は「通隠」と称していたそうです)。
つまり、この人は「儒林伝」この人は「文学伝」というように、人物を判別し、編集・収録するのに手間がかかるので、その過程を端折って個別に伝を立てた方が早いし楽だと、沈約が思ったということもあり得ます(鮑照などは、普通でしたら「文学伝」に入ったでしょうが、その場合、彼と身分的・文学的に同レベルな人物を選び出す、という手間が必要になります。ところが同時代で彼と並び称せられたのは、湯恵休ぐらい。いくらなんでも彼ら二人で「文学伝」を立てるというのは無理だったのではないでしょうか)。
>殷司空閣下。
頓首頓首。
「宋書」に儒林が立伝されなかったことについて、ご教示ありがとうございます。
両漢を通じて唯一の思想・学問にまで登りつめた儒教が、この時期に陵夷して「多くの中のひとつ」に転落したことは興味深いですね。そこにはやはり「仏教」の影響と、「道教の組織化」があるのでしょうか。漢代に儒家は法律も外交も神秘主義も修辞も学び、「包摂」していくことで他流を圧倒したはずでした。引き返すことのない中央集権化の時代に墨家を駆逐した彼らにとって、個人的思索にすぎない老・荘は恐るるに足りないものでしたよね。
しかし後漢以降、民間宗教が拡大した「道教教団」が台頭し、仏教東漸ののち玄学清談において思想界でも重んじられてくるわけですが、そのことが間接的に儒学の相対化を進めていったことはあると思います。しかしまた一方で、漢代で言うところの叔孫通・公孫弘・董仲舒・夏侯勝、班氏・馬融・鄭玄・蔡中郎らがいなかったこと、すなわち彼らを重用した君主がいなかったこともあるのでは? あるいは前代の晋朝式微から学んだ教訓の意味で、儒林の思索者たちを用いなかったのか。またかの国では、風流思索を愛する文雅の伝統と、役に立たないものを切り捨てる非情の意識との「ゆれ」もあったように思うのです(ですから本当は劉宋にも前代同様、儒者はウヨウヨしていて、それなりに敬意が払われたりしていたのだけれども意図があって立伝されなかったとか)。
自分は百花斉放の時代から、秦漢を経て儒教専一になっていく過程が知りたくて、正史の儒林伝訳を思い立ったのでした。それが実は単純な進化論形式ではなく、劉宋のころによりもどしがあって相対化が進んだことを教えていただき、ちょっと嬉しいです。縉紳先生たちにし申し訳ないけど。
死罪死罪。
コルテスさん:
>東晋を題材にした井上裕美子の「柳ジョ」について、中国文学への理解が足りないと批判していた
>と思うのですが、よろしければそのあたりをもう少し詳しく教えていただけませんか?
『柳絮』が、中国文学の理解に欠けると言ったのは私ですが、特に陶淵明と謝霊運の書き方を見るとそれが分かります。
まずは比較的参照しやすい陶淵明の方からいきたいと思います。
@事跡面について
「のちに聞いた話ですが、実は陶潜どのが不満を抱いていたのはその役職ではなく、上司たる凝之どの本人だったとも申します。凝之どのが悪いのではなく、凝之どのが五斗米道を信じておられたのが、気にくわなかったのだとか。(中公文庫版第180頁より)」
『柳絮』では、このエピソードを太元年間の終わり頃、陶淵明の若い(通説に従えば29歳)時期のことに設定しています。しかし、「陶淵明」の「五斗米」に関わるエピソードといえば、まず真っ先に思い浮かぶのは、彼が彭沢県令だった時(義熙元年、通説によれば41歳)の以下の話でしょう。
「歳の終わりに、郡から監察官が県にやってきたので、部下が『正装して会うのがよろしいでしょう』と請願した。陶淵明は『五斗米(わずかな俸給)ごときのために、郷里の小童に向かって頭を下げてられるか!』と嘆息して、即日辞職し「帰去来の辞」を賦したのである。(昭明太子「陶淵明伝」より)」
このエピソードは非常に有名なものです。ですから私は、井上女史が年代的にまったく合わないエピソードを無理やり詰め込んだと思い、また「五斗米の解釈がでたらめすぎる」と書いたのでした。
ただ、後で『柳絮』の参考文献を調べてみたところ、岩波文庫の『陶淵明全集』下巻の年譜に「一説に、五斗米教徒の江州刺史王凝之に仕えるのをいさぎよしとしなかったためという」という記述があり、これを参考にしたことがわかりました。
この「一説」というのをさらに調べたところ、逯欽立『陶淵明集』(中華書局)付録の「陶淵明について」という文章であることがわかりました。しかし、その逯欽立説も、読んでみると、なぜ五斗米道に反感を抱いていたのかという根拠が、先述の「五斗米」に関する有名なエピソードなのです。この「五斗米(わずかな俸給)」を「五斗米道」と結びつけるというのは、いくら何でも短絡すぎると言えるでしょう。
さらに、#&x902F;欽立は、王凝之が五斗米道信者だったことの他に、門閥貴族の王氏の一員であるという階級的要素にも陶淵明が反感を抱いていたと主張しています。ただこれも憶測の範囲を出ないものと言えるでしょう(岩波文庫の年譜には、こちらの主張はなぜか載せていません)。
もちろん、色々な説を主張し、その中からある説を取捨選択するのは各人の自由です。とはいえ、陶淵明のような有名詩人のそれも非常に有名なエピソードを取らず、このようなマイナーな(しかも立証の根拠が薄弱すぎる)説を取るのはいかがなものかと思ってしまいます。陶淵明なら、岩波文庫以外にも、日本語による関連書籍も他に多いのですから、それも参照すべきだったはずです。そうすればこんな珍妙な説を取るのが、かなり恥ずかしい事だと分かったでしょうに。勉強不足と言わざるを得ません(肝心の『世説』も、平凡社と明徳出版社の邦訳だけを参照というのもどうですかねえ……他にもあるのに)。
A文学について
「なんでも、陶潜どのは詩や文章を書くのが得手で、なかなか流麗な文章を書いていたと申します。(同第180頁より)」
これを読んだ時、首をかしげてしまいました。「陶淵明が流麗?」
中国文学史の書物で、陶淵明の作風を「流麗」と評価するのは、まずないでしょう。陶淵明の作風を評価する際、おおよそは「質・直・自然(質朴・率直・ありのまま)」という語が出てくるのが普通です(しかも「自然」というのは、かなり後の評価です)。つまり「同時代の修辞が重視された作風に迎合せず、地味だけれども含蓄のある表現で独自の作風を形成し、後世の高い評価を得た」というのが、文学史的な通説です。このような彼の作風が、どうして「流麗」と形容できるのか、私にはよく分かりません。これも井上女史の中国文学に関する知識不足としか言いようがありません。
かなり長くなりましたので、今回は陶淵明についての見解のみを指摘しておきます。
謝霊運については、次回に回します。お許しください。
殷景仁さん、謝霊運の紹介ありがとうございます。
ところで、永一さんが以前、東晋を題材にした井上裕美子の「柳ジョ」について、
中国文学への理解が足りないと批判していたと思うのですが、
よろしければそのあたりをもう少し詳しく教えていただけませんか?