淳史さま>
ご年齢の話から考えてみれば、自分が中国史に目覚めた頃です。なんかなつかしい。
中学の図書館は古い床で校舎の片隅にあったこと、高校の図書館は、別棟の2階で『劉裕』(復刊ドットコムで紹介されているものの青いハードカバー版)を手にとって読んでたこと、両方暗かったことから、明るい学校図書館で小学校高学年向けのさ・え・ら書房の『史記』を借りて読んだら面白くてはまってしまった思い出は、小学校の図書館であることから、正確には、たぶん小学校高学年のころだとおもいます。
図書館の主と呼ばれていたので当時好きだった本のだいたいの位置を思い出せます。
それから、五胡十六国(4世紀の華北。3世紀半ばの三国時代よりあと)では、後趙の石勒と慕容儁までの前燕の君主と慕容垂がすきですね。くわしくは、NAGAICHIさんのこのHPの中国史人物辞典に簡潔で的確な紹介があるのでお読みください。
コピペのあと、いろいろ切り貼りしていて、誤って「投稿」ボタンを押してしまったので、二重になってしまった…(汗)
なお、前回投稿した遺跡の年代は、
Weaver, Muriel Porter 1993 「The Aztecs, Maya, and Their Predecessors: Archaeology of Mesoamerica」の裏表紙見開きの編年表の年代を使っています。
コーナーまわったあたりでperdidoさまにさされた。
鼻の差かと思ったら、投稿時間みると結構あいだが。
というより、自分この程度のスレ書くのに30分もかけてたんすね。
敗けたんで、ヤケクソで「荊軻」を挙げときます。
この人も正真正銘の大侠客だよー。
永一さま
>目録見ましたが、漢籍蔵書が多くてうらやましい。
>あれ全部訳す気がおあり…ですか?(^_^;)q
ええと、20年かかりますね、自分の才能と自由時間から計算して。というか、
計算不能?
本は買えるんです、読む時間がなくても。サラリーマンだから。それに10年以上
かけてコツコツ集めてきたし。いまは書虫あたりで簡単に買えますけど、昔は
大変でした。よく代々木の東豊書店あたりに出かけましたけれど、夏場は暑くて
すごいことになってんの! うちにある四部備要本はほとんどあそこで買いました。
で、淳史学兄の質問ですが、書き込みを拝見したおり、先陣を切るのは恐れ多いな
と思い、諸兄のご指導を待つことに。しかし13歳でかような伏魔殿、もとい書香の
集いに参加されるとは。後生畏るべしというところでしょうか。自分はそのころ
なにをしてただろ。だいたい就職まもなく子をなしていたら、もう学兄ほどの年齢に。
楽毅を挙げられているということは、そのあたりの年代にご興味がおありなので
しょうか。そのあたりだと...うーん、孟軻先生か屈原先生でしょうか。あいだを
とって藺相如かな。漢の大詩人・司馬相如をして名を改めさせたほどの大侠客です。
「五歩の内、相如請ふ 頸血を以て大王に濺ぐを得ん」
懐かしいなー。高校生のとき読みました、「廉頗・藺相如列伝」。漢文の授業で。
荘周先生も(実在していたら)このころの人。抜群です。いいセンスしてますこの人。
とりあえず時代を絞ってお答えしました。
NAGAICHIさま>
恐縮ですが、やっぱり「トンデモ」なんです。パレンケ遺跡のパカル王の石棺の蓋がロケットだとか、ナスカの地上絵が宇宙人に見せるものだというのといっしょです。
オルメカについては、2世紀頃に当たる時期のメキシコ湾岸地方のトゥシュトラ山塊の遺跡の文字などが解読されていて、前1000年〜前500年頃に繁栄したLa Venta遺跡の奉献跡4号についてのこのような解釈は、権威あるAmerican Antiquity誌,Laten American Antiquity誌,Ancient Mesoamrica誌に載ったこともありませんし、これからも載らないでしょう。
オルメカについては、紹介したHPに写真のあった巨石人頭像についてもそのネグロイド的風貌から、アフリカとの交流について一時期まじめに検討されたこともありました。前1300〜前1000年頃に繁栄したトラティルコ遺跡から「あぶみ型注口」といって、パイプ状の注ぎ口の下半分が二股に分かれて胴部にくっつく形の土器が出土していますが同じ時期にペルーで繁栄したチャビン文化との関連性といっしょにアフリカの土器でもよく似た土器が見つかっていたりした例があげられていましたが、時期がずれていたりなど問題があって、80年代には、研究がすすんで、巨石人頭についても、オルメカの君主の肖像であろう、ということにおちついています。ただいまだにトンデモ説は流布していますが。下記の本のように↓
http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0759644691/qid=1083169171/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl14/104-0170131-3125508?v=glance&s=books&n=507846
淳史さま>
わたしは、春秋戦国では、廉頗と藺相如がすきですね。藺相如が秦に脅されて取り上げられそうになった和氏の璧をみごとに国へ持ち帰らせた話、秦は、趙王に恥をかかせようと澠池の会を催したのに、趙王に瑟を弾かせたのに対し、ほとぎを秦王に打たせたり、城十五城を献上して、秦王の長寿を祝わせようとしたところ、都の咸陽を献上して、趙王の長寿を祝ってくれと切り返す場面など痛快です。藺相如が「国のために廉将軍と争わないのだ。」という話をきいて、それまで藺相如に恥をかかせてやるといっていた廉頗が、肌脱ぎになって、鞭を背負って、藺相如の屋敷まで謝罪しにいって、藺相如と廉頗は、刎頚の交わりを結んだという話も感動的です。
>two_yossyさま
目録見ましたが、漢籍蔵書が多くてうらやましい。
あれ全部訳す気がおあり…ですか?(^_^;)q
ウェブページ作成はこんなのを手本にしたりとか
http://web-channel.com/tips/webdesign/MIZ/031031.html
というのは冗談ですけど。
のんびりマイペースでも、長く続けるのがいちばんです。
ウチの網頁はこの間なんとか五歳を迎えましたが、
個人の力で作られたサイトは栄枯盛衰が激しいというか、
同好で休眠してしまった頁や消えてしまった頁をけっこう知ってます。
太く短く惜しまれて去るよりも細くても長く続くほうが積み重なるもの
は大きくなると思います。ゆっくりまったりやってくださいよ。
>perdidoさま
ご紹介の頁、台湾の雑誌ですけど。
許輝氏の説に好意的ながらも、懐疑的な意見を交えつつ紹介していて、
あまりトンデモという感じは受けませんでした。
扶桑国メキシコ説は、欧米や中国で支持されているようですが、
やはりマヤ文明で考えられているんですね。
>マリユスさま
舟に乗って酒に酔い、水面にうつる月を取ろうとして溺れ死んだ
という伝説のほうがたしかに有名ですね。
当塗県令の李陽冰の家で病死した…ほうが真っ当でしょうけど、
面白くないのであまり知られていないです。
奥が深いといっても、伝説か史実かである程度はっきり分けられる
ところはまだいいんで。境界線に入ってカンカンガクガク議論しな
ければならなくところでは、面白いけど疲れるという。(>_<)
>淳史さま
はじめまして。管理人の永一です。
お若いですねえ。いかんせん、倍以上生きちゃってますが、
一昨日までは同い年だったつもりですので。(^_-)
>皆さんはどの人物が好きですか?
僕としてはたくさんおりすぎて実に困った(笑)ご質問ですし、
数だけ並べ立ててあきれられてもいけませんから、
司馬遷・曹操・李白の3人を挙げておきます。
司馬遷は、『史記』という有名な歴史書を書いた人です。
李陵という将軍の敗戦を弁護して、ときの皇帝の怒りを買ってしまい、
処罰を受けたのですが、その悔しさをバネにして中国でいちばん有名な
歴史書を完成させました。
曹操は、『三国志』で有名な魏の太祖です。
軍人としても政治家としても詩人としても『孫子』の注釈家としても
知られている人です。ふつう小説では悪人ですけどね。
李白は、ついさきほども話してたのですが、唐の時代の人で、
酒好き・女性好き・伝説だらけの一生を送った詩人です。
比較的有名なところを挙げたのですが、
もしかしてあまり有名でない知られざる人物を紹介したほうが
よかったでしょうか?
>僕は楽毅なんですが
燕の楽毅と斉の田単で一セットにされて紹介されていることが多いのに、
なぜか楽毅のほうが一般に好かれてますね。
『三国志』の諸葛孔明が尊敬していた人だからかな?
それとも宮城谷さんの小説のおかげ?
燕の恵王に嫌われて亡命することになっても恨みごとを言わなかったから
かもしれませんけど。
初めまして淳史と言います。まだ13歳ですが皆さんのお話を聞かせてもらいます。
《本題》
皆さんはどの人物が好きですか?
僕は楽毅なんですがまだ多くの人物を知らないもので。
良かったら返事ください。
>李白の一命を救ったのは宋若思のようです
どうもお久しぶりでございます・・
ていうか、そんないきさつだったとは(汗。
じつは、李白は池でおぼれたというのが一般の説で、実は病死だった、ということまで聞いていたんですが・・そちらもなんだかあやしいですね(笑
そうかぁ・・やっぱり奥が深いんですねぇ。歴史って・・
>板屋を作り、城郭がないとか。文字があって、扶桑の皮を紙にしているとか。
>国の法律で、南北に牢獄があって、軽罪の者は南獄に入り、重罪の者は北獄
>に入るとか。いろいろ書いてあるんですが、これらが古代アメリカ史の考古
>の成果と合致しているのかどうかは僕は知りません。
アメリカ考古学協会(SAA)と古代アメリカ学会の末席をけがす自分がお答えいたしますと、
板屋は、もしかしたらマヤの神殿の本体部分、つまり基壇の上にのっている部分はそういえるかもしれません。あと中国的な城郭は確かにありませんでしたが、森林の地形を利用して堀と防壁を作っている都市はあります。しかし、そんな細かいことを書いているわけではないし、基本的に城郭都市である中国の感覚からすれば城郭がないというのは、該当します。
扶桑の皮ではありませんが、マヤでは、イチジクの木の繊維からこしらえた紙を石灰でコーテイングして、その上に、文字や絵を描いた古文書(絵文書、Codex,Codice)があります。先が若干平たいものと先のとがったものと2種類の竹ペンのような硬い筆記具で文字を書いたようです。
牢獄の話は、該当はないです。しかし、『ポポル=ヴフ』には、シバルバーという地獄にあたる場所の話がでてきます。闇の館、寒冷の館、焔の館、ジャガーの館、剣の館、カマソッツ(コウモリの化け物)の館などの懲らしめの館が
いっぱいあるということがかかれています。
しかし、タバスコ州ラ=ベンタ(La Venta)遺跡の奉献跡4号(offering4。いわゆる「会議の群像」といわれているもの)をこんな風に解釈するとは...
「と学会」はいってますね。
それから、NAGAICHIさん、『解体晋書』に加入を決心されたことをお聞きしました。心強いです。会員のみなさんも諸手をあげて歓迎のようです。こんごともよろしくお願いします。
拙い漢文公開サイト「方壺島」をゆっくり構築中。
どうにかindexページとtopページが。
まだ肝心の拙訳ページとリンクさせてないけど。
「解體晉書」さんに加入を申請。
理由としては、
1.『晋書』日本語訳をお手伝いしたい気持ちが小指の爪先くらいはなくもなく
2.自分の妙ちくりんな漢文読みの矯正
3.正史の列女伝を網羅したい気持ちもあったりなかったり
4.通鑑翻訳やってる都合上、他の組織の実状の偵察(笑)
フリーの百科事典「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
に書きこんでみました。
ここらの記事
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%B7%B5
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%92%8C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8B%92
を書いたのは僕です。まずかったら誰か改変してくれてもよいし。
うちの人物事典なぞ叩き台として放出してもいいかなあ?
>two_yossyさま
>60歳を過ぎてから18年もの取経の旅に出た法顕が行き着いたさきがエクアドル、
>というのもシュール。
結局、地名の比定の話になって邪馬臺(壹?)国論争みたいになっちゃうん
ですね。夢とロマンだけは大いにありますからねえ。
ちなみに僕は法顕がエクアドルに漂着したとは信じませんが、
扶桑国アメリカ大陸説は半分信じてるんですよ。里程を素直に取ると新大陸っしょ。
新大陸に幻の仏教国とかいうと、プレスター・ジョンの国みたいでいいなあ。
ご存じネタだとは思いますが、いちおスレっときますね。
幸田露伴の作品にその名も『晋の僧法顕南アメリカに至る? 日本に来る?』
という短文があり、その中で章炳麟の説を引いて紹介しています。
いかにもラディカルな大学者・章炳麟が考えつきそうな話しです。
>五世紀のアフガニスタンの坊さんがアメリカ大陸で仏教教えてる
のも凄まじいですが、60歳を過ぎてから18年もの取経の旅に出た法顕が
行き着いたさきがエクアドル、というのもシュール。
>two_yossyさま
>今回訳出した中では、やはり孔僖と楊倫のエピソードがおもしろいですよね。
「それなら武帝は犬だってことだよね」には笑いました。
梁郁君はせっかく素晴らしいツッコミの才能を見せながら、
上にチクって小人ぶりを晒してしまうとは実に惜しい。
…って注目すべき点が違うか。
>ちなみ一番苦労したのは、背景の「絵」です。イラレとPSを駆使して作りました
自作でしたか、それはある意味テキストよりもたいへんで(^^;)
>太白さま
>永楽以前だと・・・元や宋まで遡るのでしょうか?
いや、さらに以前です。
実はメンジーズさんの『1421』にもちゃんと載ってるんです。
「南北朝時代の永元元年、つまり西暦四九九年に慧深という仏教の僧侶が、
中国から東に二万里(八〇〇〇海里)離れた土地から帰ってきた。かの地に
育つ樹木にちなみ、彼はこの大陸に「扶桑」の名をあたえた。扶桑の木は
赤い梨のような実をつけ、若芽は食用にでき、樹皮は住人が衣服や紙に使っ
ている。この国には鉄がないという慧深の記述と考え合わせると、扶桑とは
中米・南米だけに育つマゲイの木ではないかと思われる。」(P137)
つまり扶桑国アメリカ大陸説なんですが、
手元に『南史』があったので、列伝69夷貊下を見たところ
「扶桑国とは、(南朝)斉の永元元年、その国の沙門慧深が荊州にやってき
て説いて云ったところでは…」
読み方間違ってるのかもしれないけど、これだと慧深は扶桑国の人で、向こ
うから荊州にやってきたように読めるなあ。
以下、大漢国の東二万余里で、地は中国の東にあるとか。
板屋を作り、城郭がないとか。文字があって、扶桑の皮を紙にしているとか。
国の法律で、南北に牢獄があって、軽罪の者は南獄に入り、重罪の者は北獄
に入るとか。いろいろ書いてあるんですが、これらが古代アメリカ史の考古
の成果と合致しているのかどうかは僕は知りません。
ただ地理的表記を素直に取るとアメリカ大陸のどこかにも見えるよねと。
「(南朝)宋の大明二年(458)、ケイ賓国の比丘五人がその国(扶桑国)に
行き、仏法経像を伝えて、出家を指導すると、風俗はついに改まった」
五世紀のアフガニスタンの坊さんがアメリカ大陸で仏教教えてる…のだっ
たらすごい。
掘り下げると面白いのかもしれないなあ、これ。
扶桑国については↓が詳しい
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/tanken.htm
ちなみに『山海経』大荒東経に
「大荒の中に山あり、…山の上に扶木(扶桑)がある」
とか書いてるので、慧深より以前に「日が昇るところに扶桑の木が」という
伝説がすでにあったんでしょう。そこから附会した慧深の作り話である可能
性も否定できないです。
でも夢を広げると、南北朝時代はおろか紀元前の昔から中国とアメリカ大陸
の間の交流が…とかいう徐福伝説よりあやしい妄想も可能かと。
仮に交流があっても後世にほとんど影響を与えていないと無意味なんですけ
どね。
ヨーロッパ人による新大陸発見はコロンブスよりヴァイキングが早かったっ
てのは通説らしいですけど、後世への影響が比べものにならないからどうし
てもコロンブスのほうに注目がいってしまう。
ただメンジーズ氏は鄭和の大航海の成果がコロンブスにも影響を与えている
と主張しているわけで、ほとんどありえないと思うけど、メンジーズ説が碩
学多数の賛同を得られれば、世界史の教科書書き変わっちゃいますね。
>永一さま
しかし横光三国志世代というのも、実は不滅なのかも知れません。
漫画と三国志のポピュラーさ(もちろん、面白さも)が不滅なように。
今現在、心をときめかせながら読んでいる少年&少女がいることでしょう。
>見そこなったんですよ。(爆)
あ、見れなかったですか? まあ本の方を読んでおられるなら特に見る必要もなかったような(笑)
いつものことながら、あの番組を見た一般的な視聴者は信じてしまいそうな構成でしたけどね。
(そういえば、何年か前に始皇帝をテーマにした回、一問も分かんなかったっけなぁ・・・(笑))
しかし、
>でも中国人がアメリカに到達していた年代はもっと古い可能性が
>ありますけども。(^_^;)
なんかその一言で全部がひっくりかえっちゃいそうですね(笑)
永楽以前だと・・・元や宋まで遡るのでしょうか?
まあ大秦王安敦の昔から西洋と中国史の接点はありますからね。
海でもそういったことが無いとも限らないでしょうね。
永一さま
>しかも舊假名遣ひだ。
えへへ、大したことないんですよ。旧かなは私淑する丸谷才一の影響です。
現代において旧かなで文筆業を続けるところがスゴい。思想もスゴいけど。
だいいち、suiteさまに早速ご叱責をお受けしたばかりで、嬉しいやら恥ずかしいやら。
文字コードについては、まあそういう環境の方にも配慮というところでしょうか。
今回訳出した中では、やはり孔僖と楊倫のエピソードがおもしろいですよね。
こういう楽しい列伝が多いと、訳すペースも上がるというもの。
ちなみ一番苦労したのは、背景の「絵」です。イラレとPSを駆使して作りました
(←で、あの程度かい!)。「蝶」は魏晋南北朝期に書かれたもの(貴族文化だから)。
そのほか先秦文献用に「饕餮」文、両漢は「龍」、唐宋は「唐風格子」と4種類。
次回晋書がアップできたら「唐風格子」をご披露。
>two_yossyさま
書き下しもご自分で起こされたんですよね。さすがです。
しかも舊假名遣ひだ。真似できません。ご苦労さまです。
S-JISやEUCでなく古いJISというのも渋いです。
儒家の学派とかさっぱり分からないんで、勉強させていただきます
よ。
>太白さま
>横光三国志世代っていうよりは、僕は横光史記世代なんですよね。
僕も中学時代に読め読めと勧められて読んだのが最初で
横光三国志世代の最後のほうに引っかかってるだけです。
最初は魏の武将なんか誰がだれだかの状態でした。
孔明のマジックやトリックが好きだったかなあ。
横光史記は読んだのが大学時分なんで、だいぶ余計な先入観もって
ましたから。
>昨日の「世界ふしぎ発見!」で、『1421―中国が新大陸を発見した年』
>をやってましたね。見てた人います?
あああ…珍しく事前情報ゲットして時間チェックまで入れてたのに
見そこなったんですよ。(爆)
ギャヴィン・メンジーズ『1421―中国が新大陸を発見した年』
(ソニーマガジンズ)は1800円払って読んでます。
眉唾本と承知で買ったので我ながら物好きだと思いますが。
この本を読んでの収穫は、東アジア系(場合によっては東南アジア
系やインド系まで含む)の人々がオーストラリアや新大陸まで到達
していた痕跡らしきものが多数あるということです。
それが鄭和の宝船艦隊であるとか、分艦隊の提督名とそれぞれの航
路まで特定するにいたってはついていけませんけど。
メンジーズ氏がこだわってる古地図も見方が変ですしね。
鄭和の第六回航海に注目して、これだけ世界中を調べ回った意気は
買いたいと思います。
でも中国人がアメリカに到達していた年代はもっと古い可能性が
ありますけども。(^_^;)
>鹿角さま
>今まで三国志は陳さんが一番だと思ってたけど
あら、そうだったんですか。
陳舜臣さんの『秘本三国志』はひとつの解釈としては面白いと思
うんですが、決してオーソドックスなものではないので、『三国
志』をある程度知っている人に対してこういう切り口もあるよ!
という小説だと思ってます。
北方『三国志』はよく知らないのでパスです。評判はいいですね。
>イン周伝説は未完のままか・・・それとも完結したんでしょうかね
『殷周伝説』は雑誌連載のほうが2001年に完結しているようです。
>襄陽王が今月から北宋に出てきました(^^;)
8巻も今月みたいですし、鹿角さん情報になるべく追いつくよう
にします。
>アクションモードの話の方が好きだし・・・
陥空島の五鼠(白玉堂除く)、早よ出ろ!かな?
影というべきなのか・・・
襄陽王が今月から北宋に出てきました(^^;)
非業の死を遂げた父の敵とばかりに
仁宗から帝位を奪うようなことをいってましたから
創竜伝 12で語られた悲劇が
北宋でも語られるのでしょうか?
ラスボスとでもいうべき人なので
もっと早くに出て欲しかった(T_T)
展昭・月華の長い春(^^;)な話より
アクションモードの話の方が好きだし・・・
だって原作は少女漫画モード無しなんですよ
恋愛話で引っ張るのは私的には好きじゃないから
余計そう感じてしまうのかな?
偏見かもしれないけど
さっさとくっつけて話を進めて
その分反乱話を掘り下げるとか・・・
(少しキツイ意見かな?)
読むまでは知らなかったけど
登場人物が実に生き生きしてます
今まで三国志は陳さんが一番だと思ってたけど
その印象が変わりそう・・・いいのかなあ?(^^;)
特に呂布!「北方三国志は呂布がいい」という
評価を前に聞いたことがありましたが
その通りですね・・・こんなに愛妻家だったとは・・・
あと愛犬の胡桃もいい味だしてます
唯一不満があるとしたら
丁原と董卓の対立する原因がいまいち鮮明でないことくらい
その北方三国志を読みながら横山三国志事典も参考にしてましたが
本人が御逝去されて・・・とても残念です
イン周伝説は未完のままか・・・それとも完結したんでしょうかね
管理人さんはご存知ですか?
>横山光輝氏死去
最初は重体と聞いていたので、回復を祈っていたんですが、
深夜のニュースでそれが訃報に変わった時の驚きといったら・・・。
実は僕は孟嘗君と馮カンのエピソードなどは横山先生の『史記』で知ったぐらいでして・・・。
横光三国志世代っていうよりは、僕は横光史記世代なんですよね。
>次回作として『孫子』を構想されていた
それは是非見てみたかったですね。
呉越春秋はネタの宝庫だったろうし。
話はかわりますが、昨日の「世界ふしぎ発見!」で、『1421―中国が新大陸を発見した年』
をやってましたね。見てた人います?
この本が出た当初から、読んでみたいとは思っていたんですが、番組を見ただけで十分
だったかな・・・?(^^;
暫定公開開始。でもこのあとトップページや、目次ページや、挨拶ページや、凡例ページも作らなきゃいけないので、URLは突如変更されるかも。正式オープンまでの道程はまだ遠いようです。http://homepage.mac.com/two_yossy/fang-hu_island/03-sibu/03-gokanjo/079-1-jurinden_01.html
横山光輝氏の訃報が…。
ご冥福をお祈りします。
僕らは横光三国志の世代でした。
横光三国志がなければ、現在につづく三国志ブームはなかったでしょう。
感謝の言葉しかありません。
多岐のジャンルにわたる名作のほかに
『三国志』『項羽と劉邦』『殷周伝説』と歴史ものを物されてきましたし、
次回作として『孫子』を構想されていたとも聞きました。
惜しまれるかぎりです。
原泰久って人物を検索してたんだけど、読み切り漫画の話しか出てこないな。
単行本出てないのかな〜。
それだけ。
>perdidoさま
>『男組』の世界ですね。自分も好きですけど...
それ、分かんないです。読んでないんで。
>民主主義って「水」みたいなところがありますよね。難しい。有能かつ善良な指
>導者がいないとおぼれてしまう。
民主主義も直接参加として考えるものと、代表制として考えるものがありますが。
代表制として考えたときに、ホントに重要なのはリーダーの資質よりもまず、
フォロアーの資質なんですよ。フォロアーが賢明でなければ民主主義は危険な体
制になります。悪しきポピュリズムにもファシズムにも転化しうるのが民主制で
す。銀英伝もそういうことを言ってたと思う。(^^;)
しかし、民主主義はろくでもないシステムだが、ほかのどのシステムよりも現状
ではマシである、わけで。難しいんだよねえ。
>苻登の妻毛氏いさましいすね。田中芳樹氏が飛びつきそう(苦笑)。
苻堅が肥水に敗れて以降の前秦というのも、意外と粘っこく抵抗しているので、
そういうのも含めて悲劇調の小説のネタになりそうな気はしてます。
しかし、ホントはこんなのに手をつけてる場合じゃないんですな。
『通鑑』翻訳も自分の担当のとこ止まってるし。
列女伝も『新唐書』のほうを放っぽってるし。うー。
NAGAICHIさま>
こっそり拝読しましたよ。
苻登の妻毛氏いさましいすね。田中芳樹氏が飛びつきそう(苦笑)。
NAGAICHIさま>
前レスの表題、不愉快な思いをされたらすみません。
わたしのカキコこそ、たわごとかなあ、と思っています。
ところで、前のカキコをしていて、戦前、戦中、戦後直後の子どもの社会史っておもしろそうだなあ、って思いました。
すこし、話題がずれるかもしれませんが、戦時中は、野球で、敵性言語だから、ストライクを「よし」、ボールを「だめ」と言っていた、という話がありますが、実は冗談で笑いながら言っていることはあったが、実際はそうではなかったのではないか?という話が職場の雑談で話題になりました。
戦前、戦中、戦後直後の子どもたちの様子について断片的な知識でカキコしましたが調べればもっとおもしろいことや意外な事実がわかるかかもしれません。
2ちゃんはホント玉石混交だからおそろしい。
こんなログ
http://mentai.2ch.net/whis/kako/962/962263119.html
があることを三年前に知ってたら、
「ローマの戦士が中国へ?」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/8986/rome-ch.html
の議論も別の切り口が生まれたかも。
たぶん眉唾という結論は変わらなかったと思うけど。
そっか、驪[革干]に大秦国降人がいたという説を王先謙が唱えて
たのか。
『漢書補注』を手元で確認できないので、あれだけど。
ようやくあの説が生まれた背景が腑に落ちた。
…関係ないけど、こっそり。
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/shinjyo96.html
NAGAICHIさま>
自分にもたわごとを言わせてください(苦笑)
>人間の理性というやつはギリギリのところで信頼したいですね。
>人間信じないで何を信じるんだという思いはあるし。
『男組』の世界ですね。自分も好きですけど...
『男組』は、広義の武士道&救世主願望です。流全次郎すごすぎ!最後がワルシャワ労働歌。作者の世代が想像できる(苦笑)。
>民主的といわれたワイマール体制で、大
>衆の支持によって全体主義がはびこった
民主主義って「水」みたいなところがありますよね。難しい。有能かつ善良な指導者がいないとおぼれてしまう。
>戦後の「子どもが荒れる」問題についての僕の(ツギハギの)考えでは、
>日本の農村共同体(ムラ社会)の解体と核家族化という劇的な社会変化
>に教育制度面がいまだ追いついてないということでは、と。
>都会に住む子どもたちは、家に帰っても祖父母はおらず、兄弟も少なく、
>下手をすれば親すら満足に寄りつかずで、また近所づきあいも疎遠であ
>って、基本的な社会ルールを学ばないまま学校に入ってきたりします。
>親も身近に子育ての経験者を見出せなかったりする。
>家庭も地域社会も潰滅しているから、学校に人格形成面まで含めて過大な
>期待がかかるけども、それに対応できないという感じだと思います。
>でもいまさら「古き良き」ムラ社会には戻れんでしょー。
そうです。だから「親業」だの長田百合子だの鳥山敏子だの出してきたわけです。
>マリユスさま
>まあその、安史の乱もきっかけでございまして^^;
玄宗・楊貴妃の悲恋が美しかったり、李林甫が陰険だったり、
楊国忠は自業自得だったり、安禄山は巨漢のくせに胡旋舞踊ったり、
ドラマがありますものね。
>彼の武勇伝(らしきもの)も書いてあって、永王燐に追われまくって、とう
>とう革命軍に強制加入させられた、っていきさつがおもしろくて(苦笑。
これ、微妙に事情が異なるようです。
安禄山の乱が起こったとき、李白は比較的安全と思われる江南まで避難
しました。尋陽で永王リンの府僚佐(参謀)になったのですが、唐王室
内のゴタゴタで永王は賊軍扱いされてしまいます。粛宗側の軍に討伐さ
れて、李白も逮捕されるのですが、このとき李白は妻を呼び寄せて助命
嘆願にまわらせ、永王につかまってむりやり参加させられたんだと唐の
大官たちに説いてまわらせたようです。
官軍だと思って参加したのが賊軍にされてしまったのが不本意きわまり
なかったのでしょうけど、参加したのはたぶん李白自身の意志です。
処刑される寸前だった李白を郭子儀が救ったという話がありますが、こ
れも本当ではないようで、李白の一命を救ったのは宋若思のようです。
無罪放免とはならず、夜郎に流されてしまいましたが。
ここらの事情は、高島俊男『李白と杜甫』(講談社学術文庫)に詳しい
です。
>perdidoさま
たわごとの続きとして扱ってください。
>校内暴力が生徒たちの「近代的自我の確立」すなわち、完全な平等をもとめ
>る要求によって引き起こされたなどとだれも考えはしなかった。
それは考えたことなかったです。
平等を求める希求が産み出した問題ですか。
>近代というのは、社会主義に至るまでカトリックの宗教的権威から人間を啓
>蒙し、解放し、人間の理性を全面的に信頼するパラダイムに全面的によって
>いるのでは、とおもいます。
西洋近代の問題というのは感じはしますし、楽観的でもないですが、
人間の理性というやつはギリギリのところで信頼したいですね。
人間信じないで何を信じるんだという思いはあるし。
決して賢明ではない人間が好きだから、歴史が好きなんだし。
ああ、こういう甘いこと言ってるから水に溺れてしまうのか?
>そのとき、人間はこの自由の重荷から逃れようとして、新しい依存と従属を
>求めるか、
フロムの分析みたいにナチズムやサド・マゾにいってしまうのはあまり
見たくない図ですが、もっとも民主的といわれたワイマール体制で、大
衆の支持によって全体主義がはびこった歴史の教訓ってのは頭の隅に置
いといて損はないでしょうね。こういうことを言うと、人間の理性を信
頼しないニヒリズムや別のかたちの専制に陥りかねんのですけど。
じっさい、現代は大人たちも不安だし、子どもたちもそうなんだろうか
らして。
>自然に民主主義や自主性を体得したほんの一分の生徒を除いて、大部分の生
>徒は自由の孤独に放置されて、そこで与えられた自由でエゴを突き出すあり
>かたしか考えることができなくなったのではと思うということです。
僕は刹那的ミーイズムの使徒ですので。(^^;)
どこらへんで社会性や共同性を回復するか、どこらへんで社会と折り合
うか。思考停止せずに個人で悩みつづけるしかないんだろーなと思いま
すけども。
戦後の「子どもが荒れる」問題についての僕の(ツギハギの)考えでは、
日本の農村共同体(ムラ社会)の解体と核家族化という劇的な社会変化
に教育制度面がいまだ追いついてないということでは、と。
都会に住む子どもたちは、家に帰っても祖父母はおらず、兄弟も少なく、
下手をすれば親すら満足に寄りつかずで、また近所づきあいも疎遠であ
って、基本的な社会ルールを学ばないまま学校に入ってきたりします。
親も身近に子育ての経験者を見出せなかったりする。
家庭も地域社会も潰滅しているから、学校に人格形成面まで含めて過大な
期待がかかるけども、それに対応できないという感じだと思います。
でもいまさら「古き良き」ムラ社会には戻れんでしょー。
僕は子どもは失敗していいと思うし、挫折があっていいと思うし、社会に
反抗したっていいと思う。なんぼでも立ち止まって考えろ、と言いたい。
だいたい偉そうにいう大人たちだって失敗ばかりしてるんだから。
問題はやり直せること。
社会のほうが多様な選択肢を用意しておくこと、失敗に寛容であること。
そのためには学校制度じたい相対化されるくらいのシステムでないとダメ
だと考えます。
地方分権の議論があるんだから、いろいろ考えてみたら、と。
>石渡治『パスポートブルー』4,5巻。
サンデーでありましたね。
さておき、学級崩壊のことは僕も報道以上のことは聞かないです。
小中学生とのリアルなパイプがないからなあ、独身三十男には。
僕がリアルな中学生だったころは、校内暴力が沈静化とか言われながら、
どこそこの中学でガラスを割ったとかいう話をよく聞いたものでした。
>NAGAICHIさんの「教育について論じられない」という態度は立派だとおもい
>ます。
ぜんぜん!単に逃げ打ってるだけです。実際知らないのも知らないですし、
ろくに考えてもいませんから。子どもでも持たないと考えないでしょうね。
無責任にものを言ってるのはこちらも同じです。
>大部分の生徒は自由の孤独に放置されて、そこで与えられた自由でエゴを突き
>出すありかたしか考えることができなくなったのではと思うということです。
う〜ん、これもなんか変ですねえ。普通の中学校の様子が載ってる漫画(注)
がありましたが、将来に具体的な夢や目的を持っていない生徒が授業を無視してやりたい放題やっているといったほうが正しいのでしょうか。
(注)石渡治『パスポートブルー』4,5巻。主人公は、小学校低学年のころは劣等生だったが、ペットボトルロケット制作と種子島宇宙センター訪問、すばらしい先生との出会いを契機に、宇宙飛行士をめざす。名門中学へ入学するも、勉強の仕方に疑問を感じ、普通の中学校へいってみた、という場面
さて
>少なくとも差別といじめが戦後に生まれたとは、僕は信じないで
>すね。
この行の直前までの議論はおおむね賛同できるので、コメントはしません。
この行についていえば最近のいじめは性格が異なってきたのではと思うのです。
つまり、ガキ大将がいい意味で存在していたときは、自分の集団の弱者を守るという統制が効いていた。昔の場合は村であり、校内暴力の時代とされる時期は学校という「ムラ」を守る、番長は弱いものを守るという自治意識が残っていた。ただし、番長には権威があってさからうことは許されなかった。ある意味猿山にもにていたが自治的に組織され統制されていた。それに大きな変化が起こったらしいのは、つまり完全にその自治組織の崩壊が始まったのは、早いところは80年代後半から90年代の前半の中学校で、応援団や生徒会などをリードしてきた番長クラスのツッパリたちが、「先生、おれらのあとの奴らは、いままでと違うから気をつけたほうがいいよ。」と教師に善意の忠告するという話がちらほら聞かれるようになり、いじめが本格化する。つまり、番長がいないから生徒集団の統制がとれなくなった。
ある意味変わった者をいじめることによってしか統制をとることができなくなったとも考えることができる。
>戦後教育が平等志向というのもステロタイプな図式だと思います。偏差値
>割りの受験競争、あれのどこに平等があるんです?
皮肉にも平等にしたせいで国家が企業が人材を獲得するのに生徒を選別する客観的な基準が必要になった。そのため、平均点を偏差値50として選別する必要がでてきたと思います。つまり、諏訪氏も書いている公認の「能力差別」をつくらないといけなくなった。
受験戦争で一番まずいのは、自分の経験した悔しさをここで言うわけではありませんがご教示うけたい大学教授のいる大学に偏差値のおかげでいくことができない、生徒の将来の希望を偏差値で制限してしまうということにつきます。偏差値が多少低くても有能な経営者になる能力、有能な法律家や医者になる能力、有能な学者になる能力とは直接関係がありません。例えばあんまり頭が良くなくてもアメリカにいれば英語力がつくわけで、アメリカの大学で英語で論文が書けるようになり当地の一流の研究に触れる機会が与えられ本人の適性や才能が開花するわけです。日本にいる東大生で英語の論文が読みこなせないことがあってもアメリカで鍛えられる環境があればそのようなことはない。
読み捨ててくれっておっしゃってるのにすみません。
NAGAICHIさんの「教育について論じられない」という態度は立派だとおもいます。自分なんかはすぐ分析癖というか「歴史家癖」というかがはたらいて、人に負担を押しつけないから責任をとらなくていい立場のままいろいろなことを言ってしまう。実は、現代の社会史としても興味深い問題なので思ってることをぐだぐだ書いてしまいました。
マリユスさま>
はじめまして。李白から中国史に興味もたれたとは...自分は、小学校高学年向けのさ・え・ら書房の『史記』を読んだら面白くてはまってしまいました。漢文と世界史が高校の頃の得意科目でした。
コロンブスは積極的には一種の使命感はもってたようですが積極的に布教していないと思います。なにか新事実をご存知でしたらご教示ください。
こころで、マリユスって、ローマ共和国の閥族派のスラと対立していた(民権派でしたっけ?の政治家)マリウスをもじった?
永一さん、どうもです。
>きっかけが李白って人は、最近珍しいと思いますよ
あら、そうなんですか?
李杜(李白と杜甫)がきっかけって、ふつうかと想ってました(笑
そうそう、李白はユーモラスで酒好きでしたねえ・・。
すけべな英雄という印象もあったりして(苦笑
まあその、安史の乱もきっかけでございまして^^;
おお、さすが永一さんは、すごいですね〜
なるほど、陶磁器の代名詞ですか・・
大航海時代は少し知っている程度かなぁ・・。
ここの記事を読んで、中国にももっと、興味がわいてきましたよ。
あ、そういえばキリスト教布教は、コロンブスもやってましたね・・
でっ、李白がきっかけというのは漢詩の本を読んだときでした。
それまではまったく興味持たなかったのに、彼の武勇伝(らしきもの)も書いてあって、永王燐に追われまくって、とうとう革命軍に強制加入させられた、っていきさつがおもしろくて(苦笑。
つづきはまた・・おやすみなさい;
NAGAICHIさま>
>perdidoさんにとっての理想教育とは有徳者による教育であるということ
>ですか?次善が厳格な教育であると?
う〜ん、一部当たっている部分もありますが文字通りにそういうことをいいたいんじゃないんです。それから後半でおっしゃられるようなステロタイプ的な論議を振りかざそうとしているのではないのです。(自分も左、右に典型的なステロタイプ的な議論はいずれもどこかしら誤っていると思っているので。)それから、レスの後半部分の長田百合子氏や「親業」の話は、プロ教師の会とは全く異質なもので、ここに希望をつなげられるのではないかと個人的に思っているのです。勉強不足で自分で完全に消化しきっているわけではないのできちんと説明できてなくてもうしわけありませんが。。。
ただ、プロ教師の会のアプローチは自分に厳しくないといけないのですが、ある意味自分自身を律しさえすれば、だれでも実践できる面があり、子産のいうような「水」のような寛容さで教育するというのは、ほんとうに「徳」で自ずから従わせるということであり、古代中国の三皇五帝じゃありませんが本当に難しいことだとおもいます。
レスの前半でいいたいのは、諏訪哲二氏の戦後の教育についての社会学的分析は鋭いということです。
つまり、昭和40年前後は日本に市民社会的な状況の成立し始めた時期であり、当時の子どもたちはまだ自分を抑えて我慢することを知っていた。・・・(中略)・・・「できなかった」のは自分がやらなかったためであると納得し、それぞれのコースをたどって市民社会の中に消えていったのである。それからほぼ15年後全国各地の中学校で「校内暴力(対教師暴力)」の嵐が吹き荒れた。私はこの15年間に、大衆の意識レベルで、近代市民社的感性の確立から大衆社会的ななんら制限されることのない自己主張の全面肯定に至る大変動があったと考えている。「できない」生徒たちは、もはや成績が悪いのは「やらない」自分の責任ではなく、「やらせてくれない」「できるようにしてくれない」教師が悪いのだと主張するようになった。生徒たちは自分たちを「生徒」という限定された存在であることを認識しなくなり、教師は自分たちにものごとを教えてくれる「えらい」存在と思わなくなった。なぜならば、教師と生徒はお互いに人間として「平等」であり、生徒も教師に対して控えめに接する必要はないという観念が一般化したからである。私はこのことを生徒の「近代的自我」が確立したのだと位置づけている。校内暴力が生徒たちの「近代的自我の確立」すなわち、完全な平等をもとめる要求によって引き起こされたなどとだれも考えはしなかった。・・・(中略)・・・管理が強められなければならなかった原因は、大衆社会的状況と歩調を合わせた生徒たちの意識的・無意識的な「平等」要求にあったのだ。・・・(中略)・・・学校は個々の生徒を平等に扱うところだからである。・・・(中略)・・・学校という「近代」が教師たちにそうするよう「命じる」のである。そして生徒たちのすべてを平等に扱うところから差別が発生するのである。能力がそれぞれちがうのに同じことを教えることが実は不平等なのだ。・・・(中略)・・・生徒たちは「平等」という意識だけを強く持つようになり、ただひたすら自分のエゴを突き出すことに必死になってきている。
・・・(中略)・・・むかしの生徒は自分の位置やありようをよく知っていたのである。ところが、いまの生徒たちはおしなべて自分が普通であると思いこんでいて自分を少しも客観視できない。(諏訪1990,pp.56〜59を一部改変)
>鹿角さま
>知らなかったけど人民解放軍は世界中に
いまのC国政府は経済発展優先で
原則論は曲げないけど、戦争はしたくないってのがよく分かるので、
好きにはなれなくても、妙に合理的で予測はしやすいんだけど。
C国の軍が同じ合理性で動いてるとは限らないんで、あちらの文民統制
が利かなくなったときが怖いですね。
>管理人さんは襄陽王にでてほしいですか?
出ないで話が進むんだったら、出ないバージョンが見てみたい気も(爆)。
いや、冗談です。
続きが見たいんで、出てきてほしいですよ。
>perdidoさま
perdidoさんの主張の核心がイマイチよく分かってないので
ピント外れのことを言い出すかもしれません。
あと僕は教育論ぶてるほどの知見もないですが、お許しを。
ええと、子産のことばと教育を結びつけてるということは、
perdidoさんにとっての理想教育とは有徳者による教育であるということ
ですか?次善が厳格な教育であると?
僕も実体験からかんがみるに、教育というのは実際の教師の資質による
ところの差が大きいなあとは思います。
しかし、大学出たての23歳そこそこの若者に、40人からのクラス抱
えさせて児童生徒ひとりひとりの人格面にまで責任持てなんてのは、お
かしなシステムだとは思いますね。
少しは教師に社会経験積ませろとか思わないでもなく。
平等という点でも、ある年齢の子どもにここまでのことは分かるように
なりなさいと、一律でやらせるというのも、実は不合理な気はします。
子どもの差異を無視しているという点で。
ある意味欧米みたいな習熟度別クラスや文系理系を早い段階で分けてし
まうシステムも合理的かもしれません。でも欧米式が理想教育だとも思
いませんし、落ちこぼれがなくなるとも思いません。合理的であること
がいいことであると言い切れないのが教育だと思いますし。
教育問題のない国があるとは聞いたことないので、最善のモデルはない
んでしょう。
「戦後…」を蛇蠍のように嫌う論者はたまに見かけますが、それなら戦
前はそんなに良かったのか、とツッコミたくなります。たぶん「古き良
き時代」の懐旧的感情を取っぱらってしまうと、それほど大したものでは
なかったんじゃないかと、現在とは別の重大な問題を抱えてただけじゃな
いかと。少なくとも差別といじめが戦後に生まれたとは、僕は信じないで
すね。
戦後教育が平等志向というのもステロタイプな図式だと思います。偏差値
割りの受験競争、あれのどこに平等があるんです?
僕が考えるに、教育がキーワードとすべきは「平等」「一律」ではなく、
「多様性」と「寛容」だと思います。もう少し分かったふうなことをいえ
ば、子ども個人の需要に合った教育かなあ、と。
以上、たわごとですので、読み捨ててください。
あっ、カマしてもうた。
>韓擒虎を韓虎に、
これは「韓擒虎を韓擒に」が正しい。失礼しました。
『陳書』が避けてるのは、李虎の虎の字ですから。
もちろん趙翼が間違ってるのではなく、僕の写し間違えです。
m(_ _)m
>怨霊さま
>東北高校は残念でした。
職場で三回戦の前に「あそこ(宮城)も激戦区だから、もし負けても
言い訳ができるし」うんぬんと話してたんですよ。
創部二年の元女子高野球部が、あれよいよいと進んでしまったことに
いちばんビックリしてるのが愛媛県人だったりして。
>しかしパンダとは・・・。オモロイ。
夢を壊しちゃうと、元はパンダだとしても、白虎もどきのデザインに
変わってたと思いますよ。威厳のある猛獣でないとカッコつかないし。
でも、メルヘンを信じたいお年頃なので、うちではパンダの旗。
>あと、太上皇の号は始皇帝が父の荘襄王に追尊したのが始まりでは?
あらら、『史記』始皇本紀に書かれてますね。(=_=;)
『箚記』巻十三「太上皇帝」の条は、
「太上皇本漢高祖有天下後奉其父太公之稱,非太公有天下,
傳於子而有是稱也。」からはじまって太上皇帝を称した十四君
を列挙していますが、秦の荘襄王のことは触れられてません。
注も校證も触れてないようで。
趙の武霊王が主父を称したなんてことは触れられてるのに。
死んだ後の追尊だから、無視されてる?
>宣和堂さま
>五代の項で王彦章初め"彦"が付く名前が多いとか、
ありますね。数えてみる気にならないけど、百人くらい列挙してるんじゃ
ないですか?でも、明日使えないムダ知識。
>考えてみれば例の一軍中に五帝ありだってトリビアですね。
李存勗が晋王だったとき、後梁の軍と戦って
のちの皇帝が一軍の中に五人いたとかってやつですね。
李存勗(後唐荘宗)、李嗣源(後唐明宗)、李従珂(後唐廃帝)、石敬
トウ(後晋高祖)、劉知遠(後漢高祖)。
でも、これは五代の軍閥史として考えるとムダ知識とはいえないし。
NAGAICHIさま>
実は、子産のこのことばは、戦後教育によくあてはまるのではないか、という感じがするのです。つまり、「のびのび、自主性を重んじる、自由、個性」ということが中途半端に、つまり徳の少ないものによって叫ばれた結果、放任主義になってあたかも水に溺れるようにおちこぼれとか現われた、特に学校教育の現場で、平等の美名のもとに「やればできる」「できないやつはやってない」「やれないやつは人間としてダメ」という反論しようのない裏返しの能力差別が「できない」生徒を追い詰め、一方で生徒には「人権」があるから「納得できないことには、従わなくていい」から自我を追い詰める学校や教師に「できない」生徒が反抗するという構造が生まれてきて、いうことを聞かせる教師ということを聞く生徒という対等でない関係で成り立つ学校教育が崩壊していったという議論ができると思います。プロ教師の会はいわば、子産の言う次善の策、つまり自分にも厳しく、生徒にもきびしくということで「火」をもたらしたのではないか思います。どうやらこの分野で戦後教育をリードしてきた教育評論家をはじめとする左翼の側は完全に敗北していると思われます{(参考文献:諏訪哲二1990「「平等」の神話が子どもたちを呪縛し、差別といじめと校内暴力がはじまった!」、別冊宝島115『天下国家の語り方』JICC出版局(現宝島社)}。
しかし、鳥山敏子、長田百合子など独特な方法で「不登校、いじめ、非行」などの問題に取り組むような人が現われてきました。長田さんについてのテレビ番組を見たことがありましたが、とにかく親が親の役割ができるように徹底的に教育するという方法で、問題を抱えた子どもの両親は長田さんの気迫にびびりっぱなしの場面が多かった印象がありました。親が悪い意味で子ども化し、徳の少ない状態になって、放任しちゃってどうにもならなくなってるという感じなのかな、と思ったのです。長田さんは、キャリアウーマンという言葉さえかすむような仕事のできるプロの女性(女性に限らないのでしょうが)独特の凄みを持っている方だということがテレビを見ながらビンビン伝わってきました。
また、アメリカ生まれで一時期流行した「親業」なども子どもをひとりの人格、大人と認める代わりに徹底的に責任をとらせるという考え方です。しかし結局のところ、いまだに日本にしっかり定着していないのが残念なところです。本当の「自由」、「自由には責任が伴うんだ」というとを身をもって学ばせる考え方だけに残念に思っています。
チャイナ・コントロール読むまで
知らなかったけど人民解放軍は世界中に
結構散らばってますねー
自衛隊のこといえない・・・
新西遊記
陳さんが楽しんで書いてるのが
こちらに伝わります
でも妖怪退治は途中で切らないで欲しい(T_T)
また北宋話ですが
管理人さんは襄陽王にでてほしいですか?
確かに…。五代の項で王彦章初め"彦"が付く名前が多いとか、だからなんだと言うんだろう…って言うネタがいっぱいありましたね。
考えてみれば例の一軍中に五帝ありだってトリビアですね。
お久し振りです。
東北高校は残念でした。
廿二史箚記ですか。学生時代に演習で読まされましたっけ。
もう憶えてないですけどね。
[馬芻]虞幡って漢の「節」のようなものなのでしょうか?
しかしパンダとは・・・。オモロイ。
あと、太上皇の号は始皇帝が父の荘襄王に追尊したのが始まりでは?
生きている内に名乗らせたのは劉太公が最初でしょうけど。
『廿二史箚記』見てます。
考証学という硬いイメージとうらはらに、歴史コラムみたいで意外と
読みやすいです。
以前、話に出た避諱の話も載ってました。
「119 唐人避諱之法」
避諱の方法が3つあって、
1.字(あざな)をもって称する。
ex.公孫淵を公孫文懿に、劉淵を劉元海に、…
2.諱を犯す部分を除き去る。
ex.蕭淵明を蕭明に、蕭淵藻を蕭藻に、韓擒虎を韓虎に、…
3.その字を改める。
ex.李叔虎を李叔彪に、殷淵源を殷深源に、陶淵明を陶泉明に、…
「115 [馬芻]虞幡」
これも、例のアレを思い出して面白かったなあ。
[馬芻]虞(すうぐ)の幡というアイテム、つまりは[馬芻]虞の旗。
晋の制度では[馬芻]虞の旗がもっとも重んじられていて、
危険がやってきたとき、または天子の命令を伝えるとき、あるいは軍
を止めるときに使われて、これを見たものは水戸黄門の印籠よろしく
おそれいってしまうというシロモノ。
八王の乱のころ、楚王司馬[王韋]が汝南王司馬亮と楊駿を討とうと
夜を徹して攻めかかった。夜が明けて張華が恵帝に上奏したところ、
殿中将軍に[馬芻]虞幡を持たせて「楚王[王韋]は詔をいつわった」
と呼ばわらせたところ、楚王の兵たちは逃げ去ってしまい、楚王はと
うとう捕まってしまったとか。
ほかにも例がいくつか書かれていますが、この旗が使われたのは晋だ
けで他の王朝では使われていないとか。
さて、ご存じのとおり(笑)、[馬芻]虞=パンダでありますから、
http://takahito.cocolog-nifty.com/blog/2003/12/post_2.html
パンダの旗におそれいる晋の人々、というのは想像するだに愉快な図
であります。
ほかにも
太上皇帝(上皇)の称は劉邦の親父の太公から来ているとか、
青苗銭をはじめたのは王安石ではないとか、
歴史トリビア集ではないかと疑ってしまったり。
『廿二史箚記校證』が届いたんで、パラパラ見てました。
「102一人二史各伝」
後漢の董卓・陶謙・袁紹・劉表・…、あと曹操に仕えた荀ケは、
『後漢書』と『三国志』の両方に伝が立てられている。
(つまり境目がはっきりしない)
対して『晋書』と『宋書』は境界がはっきりしていて、
劉毅・何無忌・諸葛長民・魏詠之・檀憑之らは劉裕とともに起った人たちだ
けれども宋に仕えていないから、『宋書』に載せられず、『晋書』に伝が立
っている。
また陶潜(陶淵明)が隠居して節を全うしたのが宋代だから、『宋書』の隠
逸の筆頭に出ている。
李延寿が『南史』『北史』を作ったとき、南朝から北朝へ亡命した人、北朝
から南朝へ亡命した人をどう処理したかというと、最も功績の多かったとこ
ろで伝を立てている。しかし毛修之が『南史』に、朱脩之が『北史』に伝が
立てられているのはおかしい…。
なんか笑える理屈っぽさですね。
>マリユスさま
はじめまして。管理人の永一です。
>どうも。中国史が好きになったきっかけが李白でした。
きっかけが李白って人は、最近珍しいと思いますよ。
僕らの世代はたいてい『三国志』。
ちょっと若い人は『封神演義』。
あるいは宮城谷昌光さんとか小野不由美さんとかに惹かれてやってくるんで。
李白はお酒好きの女性好きだし、ユーモラスだし、伝説もけっこうあるんで
僕も大好きですけどね。
>オーストリア人とかケルンの人がかなり中国にきてるんですね。
ヨーロッパ人はたいてい宗教的情熱か、お金儲けの情熱を抱いてやってきて
ますね。
ヨーロッパの人が中国にやってきたというのがはっきりした個人名つきで
出てくるのが、だいたいマルコ・ポーロのころで、モンゴルが盛んだった
ころです。大陸の西の果てと東の果ての接点ができはじめるわけで、
「世界史はモンゴルからはじまる」とかどっかの学者が言ってるのもあな
がち根拠のないこともないだろうと思います。
ただヨーロッパと中国の関係が強くなってくるのは、
やはり大航海時代・地理上の発見があって、ヨーロッパ人にとっての海の
ルートが開拓されて以降だと思います。ヨーロッパ人はインドの香辛料と
中国の茶と陶磁器をすごく珍重してて、CHINAは陶磁器の代名詞だったと
いう話があるくらいで、重要な商品だったんです。中継貿易やってるアラブ
商人にあいだ抜かれて高い金払わされるよりも、自分で直接買い付けたほう
がお得ということで、17世紀あたりの東インド会社を介しながら商売を
はじめていきます。
いっぽうには宣教師たちの活動があって、キリスト教を世界に広めようと
いう情熱から、東アジアに向かってきます。これは、そのころのヨーロッパ
で新・旧教の宗教戦争やってたことと無縁でもないんで、両陣営が信者の新
規獲得競争やってたようなところもあります。
ということで16世紀・17世紀あたりからヨーロッパ→東アジアという人
の流れができてるので、けっこう名前が残ってるんです。
宣教師たちは西洋の科学技術を中国に持ってきてます。清の康熙帝なんかは、
けっこう移入に熱心でした。でもいかんせん、中国社会に根づかなかったん
だなあ、あまり。
またこのころのヨーロッパ人が中国に興味をもったほど、中国人のほうは
ヨーロッパに関心を抱かなかったのが近代の不幸にもつながっていく一因
でもあるかな。
どうも。中国史が好きになったきっかけが李白でした。
金瓶梅も好きですけどね(笑。
それで・・中国人物伝というのをグーグルから見つけて拝読したんですけど、オーストリア人とかケルンの人がかなり中国にきてるんですね。
大航海時代のあたりでしたか。。
勉強になります・・。また、きますね。