>鹿角さま
>洪武帝が燕王を自分の子ではないと思うのですが
永楽帝が元の順帝の子という話ですか。
おっしゃるとおりヨタ話でしょう。
永楽帝の生母については疑義がありますが…。
(寺田隆信『永楽帝』P36)
洪武帝が燕王朱棣を信用してないのなら、北平なんて対モンゴル
最前線の重要なとこ任せたりしません。
「わが子らのなかでは、燕王が一番すぐれた人物であるように思う」
なんて洪武帝の言葉も残ってるくらいです。
建文帝が継いだのも嫡長孫だったからで、長子相続原則から出た
ものです。
>中国には新選組のような組織はないそうで・・・(-_-;)
政権側のテロ暗殺組織と捉えればあるかもしれませんよ。
藍衣社とか。
ただそういう位置づけの組織にミーハーのファンが付くというのは
向こうでは考えにくいと思いますが。
>小学館の週刊中国史物に
これ↓ですか?
『週刊 中国悠遊紀行』全50巻
http://www.shogakukan.co.jp/chuyu/
とりあえず創刊号は買ってみるつもりです。
小学館の週刊中国史物に
塚本氏が人物史を書くそうで・・・
大丈夫かな・・・(-_-;)
読みましたが?がつく個所あり
洪武帝が燕王を自分の子ではないと思うのですが
本当なら疑念を抱いた時点で何らかの手を打つと思います
後燕王が初陣に出た年とティムールのこと等も
燃えよ剣を再読してびっくり!
なんと陳さんが解説を書いてます
司馬さんとは友人なので当然かも知れませんが
中国には新選組のような組織はないそうで・・・(-_-;)
一週間以上出てきてなかったですね。すんません。
今すごく士気が落ちてるもんで、はい。
>two_yossyさま
>正直なところあまり期待してなかった。初海外なのに...。
海外初体験でしたか。
海外旅行は失敗することもあるけど、楽しいっすよ。
国内の旅行や史跡巡りも好きだけど、やっぱり海外でしか味わえない空気っての
はありますから。
>ぬお〜、再起を図るべし!! 次は一人で。
一人で海外行く勇気は、僕にはないんですが、意気盛んですね。
リベンジしたい(もう一度行きたい)とこってありますね。
北京・西安は勉強し直してもう一度行きたい。
広州・上海・南京あたりも失敗してるから心残りが…。
でも行ってないとこもたくさんあるんだよな、と思うと。
>肝心の王羲之の「快雪時晴帖」を拝むことができませなんだ〜(T^T)。
ああ、そら勿体ないですね。
僕も行けるときは下調べしとくようにします。
>保安宮・慈祐宮の道士は寺男が着る作務衣のような、地味な渋茶の単衣のようなものを
>着ていました。
なるほど、そういうスタイルでしたか。
>モンケさま
お久しぶりです。
そちらのHPのデザイン、ずいぶんポータルっぽくなってますね。
自作シナリオ、お見苦しいものをさらしてます。
どれも未完成で放ってるし、全部バランス悪いのは悪いんですけど。
17世紀がいちばんハチャメチャで面白いかなあ?と自分では思ってます。
楽しんでいただけたら幸いです。
文句等々ありましたらご遠慮なく。
かなぁりご無沙汰しております。
最近「戦国史」を知り、さっそくこちらのシナリオもDLさせていただきました。
ただ、どちらのシナリオも知識がないもので…
こちらで調べながら楽しみたいと思います。
>永一さま
台湾は暑かったれす。最適期は10月頃の短い秋だそうですね。そういえば新聞の旅行の
広告見てもそのころが一番高いです。今回はまったく受動的に職場の盟友に誘われるがま
ま着いてったというのが実情。正直なところあまり期待してなかった。初海外なのに...。
でも帰ってきて「熱」が出た!! ぬお〜、再起を図るべし!! 次は一人で。
ところで御存じだと思いますが、台北故宮博物院は今年初春から2年間の改修工事に入
っていて、肝心の王羲之の「快雪時晴帖」を拝むことができませなんだ〜(T^T)。翡翠の白
菜や玉の角煮・汝官窯の青磁・毛公鼎などは見れましたが。オープンと同時に入館しても、
一時間後には大混雑!! MRTの駅から遠いのでタクシーで移動することになると思いますが、
謎のボッタリ茶葉店とツルんだ運ちゃんに拉致されないよう注意。100g・800元の高山烏龍
茶を売りつけられるます。本物なら割安ですが、口が肥えてないと真贋のほどが...。
保安宮・慈祐宮の道士は寺男が着る作務衣のような、地味な渋茶の単衣のようなものを
着ていました。中には頭巾をかぶった人も。太鼓を打って鐘を鳴らしてパワフルにお経を
唱えてました。横浜中華街の関帝廟もそうですが、道観でも平気で「観音菩薩」とか祭っ
てますから、「父母恩重経」とか唱えてるんでしょ、きっと。
>two_yossyさま
>台湾小旅行より帰朝
暑そうなところをおつかれさまでした。
僕も台湾に行きたいと叫びつづけて幾春秋、そういう話を聞くと
ねたましさのあまり…(>_<)q
台北故宮行きた〜〜〜い。
>ちなみに道士の格好は「霊幻道士的諸葛亮ルック」ではありませんのであし
>からず。
ん?「蒼天航路的張角ルック」ぢゃないんですか。長髪振り乱して。
いや、よく知らないっす。
>著作権→キャラものTシャツ万歳!!
やはり海賊版天国ですか。
>青青生さま
>藤原カムイさんの「西遊記」がそれ的ではないですか?
藤原カムイ氏はドラクエ漫画や「雷火」くらいしか読んだことないし、
すでに作風も内容も記憶の彼方なんですが、
まじめな(?)「西遊記」描いているんですね。
西遊を漫画化するのなら、悟空が三蔵と出会う前の話いじったほうが
面白そうです。悟空が天宮を閙がす話、意外と知られてないし。
有名すぎる西天取経ばなしいじると、猪八戒や沙悟浄の既成イメージに
引きずられてパロディーにせざるをえないんでは。
>perdidoさま
たしかに暑いですね。扇風機付けっぱなしで寝てますよこのごろ。
「エルニーニョもどき」らしいですが。
>「解離」じゃなくて、「乖離」ですぞ。
いつカマしたのか覚えがありませんが、すみません。
>それから最近、自分もwikipediaにはまってます。
僕は十六国をちらっといじったあたりでダレちゃったんですけど、
あれはなるべくたくさんの人に参加して増やしてほしいですね。
だれでも編集できるフリーの百科事典ですから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
>夏王朝ですが、文字資料とか発見されないとだめなんですかね...
『史記』や『尚書』そのままの禹や夏が出てくることはありえないし、
時期的に合致する二里頭文化をとりあえず夏と仮称しておきましょう…
くらいのスタンスでよかないですか?ダメなのかなあ。
http://takahito.cocolog-nifty.com/blog/2004/07/post.html
疑古派の加上説もご尤もなんですけどね。
厳密なこというと、
夏商革命が証明できること、
二里頭の人々が「夏」と自称なり他称なりしていたことが証明できること、
のどちらかがないと「夏」とはいえないんでしょうけどね。
そういうことでいえば、鄭州商城だって殷初のものという厳密な証明は
ないのか。時期が合ってるだけで。
みなさん、暑いけど元気ですか?
ちょっと話題に遅れましたが、銀英ファンです。
NAGAICHIさま>
「解離」じゃなくて、「乖離」ですぞ。解離は、化学用語で「電気解離」とか「解離熱」とかで使うようです。『三国志』の列伝(張某伝。人物名が化けたので)には「ばらばらにはなれる」という意味で出てくるようですが一般的じゃないです。勉強になりました。
それから最近、自分もwikipediaにはまってます。世界ではじめての記事も書いたし...
マヤ文明のみならずインドの王朝とかインダス文明とか書き込んでます。
夏王朝ですが、文字資料とか発見されないとだめなんですかね...もう何年にもなるけど山東省の王城コウはどうなったんだろ...
>たしかに「西遊記」漫画は翻案ものばかりで、真正面から取りあげた漫画ないような。
藤原カムイさんの「西遊記」がそれ的ではないですか?(個人的には、マンガとして面白いとは感じませんでしたが。)
URLが紹介されていた「鍵屋の西遊記」のマンガのページを見てみました。すごい沢山あるんですねー。・・・でも、小池一夫&小島剛夕先生の『孫悟空』がリスト漏れしてたのは残念です。名作なのに・・・。漫☆画太郎先生の「珍遊記」「まんゆうき」はさすがにあえてリストアップせず、ですかね。
台湾小旅行より帰朝
重慶南路での書店まわり→失敗...(T^T)収穫なし。というより事前リサーチ甘すぎ。
夜市でのグルメ体験→失敗...蒸し暑くて熱いものはダメ。水物は怖くて手が出せなか
った。
観光→バッチリ。もう徒刑囚なみに台北をかけずり回る。
特に天后宮・保安宮・慈祐宮などの道観での、道士の読経(?)シーンに出会えて感動。
保安宮は尼寺なのか、みな女道士。季節的には「お盆」どきなのか、若い人や子連れ
の人が熱心に参詣。ちなみに道士の格好は「霊幻道士的諸葛亮ルック」ではありませ
んのであしからず。
睡眠→極少...同行者の歯ぎしりギ〜リギリ!!
大気汚染→超絶モータリゼーションの煙幕地獄!! もっと自転車とか公共交通機関と
か...。交通事情はカーチェイス!!
天気→曇り時々晴れ、ところによって小雨。蒸す!!
匂い→臭豆腐!! 失神寸前!!
著作権→キャラものTシャツ万歳!!
王羲之→リニューアル中です。
アイドル→金城武、「十面埋伏」封切りどきだから。
台鉄→行きはよいよい、帰りはこわい。
高山烏龍茶→謎のボッタクリ店に連行さる。
檳榔ガールズ→一斉検挙の直後でした。
時事→連続殺人犯逮捕。ジェンキンズさん日本入国。台南洪水。
スチームボーイ見てきました。
いやあ、蒸気機関ってすごかったんですね。(笑)
ロンドン壊しまくってましたよ。
大友克洋は中学生のとき以来なので、こういう作風だったかな?と首をひねってましたが、
分かりやすいお話でした。過度のネタバレ避けるとこんな感想。
>文叔さま
はじめまして。
>というのも管理人さんもトップで掲載されてるように、
>夏王朝の遺跡が発表されたのに大喜びしたものの、
今回のニュースってどうなんでしょう?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040720-00000515-yom-int
河南省偃師市二里頭遺跡じたいは1959年の発見で、1号宮殿と2号宮殿については
前から知られてます。夏の都という意見はそのころからありました。
1999年に遺跡をめぐる(と思われる)環濠が発見され、
ほかに去年あたりに3〜6号宮殿が埋もれているというニュースがあったようです。
ある程度宮城としての全体像が見えてきたかなという感じですが、
改めて「発見」といわれると、記事のキャプション大げさすぎないかという気も
します。
>ここでは東漢って書いたほうがいいのかな。
お好きなほうでお呼びください。
しかし光武帝好きって多いですねえ。やっぱ裏がない性格だからかな。
ボケ好きで面白いし、隙だらけでそばにいて安心できる。
友人になるなら一番って感じの人ですものね。
>太白さま
そういや紅楼夢を四大古典小説に数える数え方あったんだっけか。
もともとは三国・水滸・西遊・金瓶梅が四大奇書だけど、
現代中国で金瓶梅はエロ小説だからマズいってんで、代わりに紅楼夢入れてんだっけ。
むかし列車の中でお話しした南京の大学のセンセがそういう数え方してたの思い出したっす。
紅楼夢は本邦源氏にも比される古典最高峰らしいから、かえって浮いてる気がするけど。
>そういえば西遊記の完全漫画ってあったっけ・・・?
たしかに「西遊記」漫画は翻案ものばかりで、真正面から取りあげた漫画ないような。
http://www.ne.jp/asahi/kagiya/tsumugidou/saibourou/kagiya's-saiyuuki/k's-saiyuuki-comic.htm
>いきなりあの盗セキと司馬穰苴の戦闘シーンでびっくりです(笑)
意外なところから切り出すんですね。期待できるかな。
桑田上野介+平松伸二「孫子春秋」
http://www.shueisha.co.jp/CGI/magazine/rack.cgi/magazine/super_jump.html?key=detail&zashimei=super_jump&janru=menc
紅楼夢の漫画が本棚にあったので(笑)、唯漫論にまた投稿しときました。
「四大奇書が出揃いました」とか書きましたが、そういえば西遊記の完全漫画って
あったっけ・・・? う〜ん記憶にないなあ(^^;
西遊記をモチーフにした漫画なら、それこそドラゴンボールを始め山のようにあるんですけどね。
>永一さん
「孫子」の漫画、ちらっと見ましたが、いきなりあの盗セキと司馬穰苴の戦闘シーンで
びっくりです(笑)
以前からのぞかせてもらうことが多かったんですが、
今回はじめて書き込ませていただきます。
というのも管理人さんもトップで掲載されてるように、
夏王朝の遺跡が発表されたのに大喜びしたものの、
他の友だちに言っても理解してもらえないんで、つい(汗)。
実際のところはどうなんだろう……これからもっとはっきりするのかな。
あ、で、ついでに。
ぼくが中国史上で一番好きな皇帝はお察しのとおり後漢の光武帝です(笑)。
ここでは東漢って書いたほうがいいのかな。
>青青生さま
はじめまして。管理人の永一です。
ご投稿ありがとうございます。
ご心配なく、伝奇でも古典文学でもOKですよ。
明確な基準は設けていないんですが、広い意味でチャイナ系だったら
構わないかなと思ってます。
極端な話、鳥山明「ドラゴンボール」でも構わないと思ってるくらいでして。
今のところ手動でのアップの方式ですんで、よほど主旨に反する内容であれば、
管理人の裁量ではねられるようになってます。(結局管理人の気分なわけで)
>しかも、投稿するとなると、どの時代にしたら良いのでしょう?
時代区分不能の漫画の頁、おまけの頁を作っておいたほうがいいですかね。
少々お待ちを。
>すでに繰り返された議論かもしれませんが、
いや、全然出てなかった話題なので、話振っていただいて有り難かったです。
はじめまして。青青生と申します。
こちらのサイトは、中国史漫画に興味を持ってたどりつきました。
さっそく2つほど唯漫論に投稿してみました。
そこで迷ったのですが、「中国史漫画」の範囲というか、どんな題材までOKなんでしょう?
今日投稿した2作は、たまたま目の前の本棚にあった作品というだけで、考えてみると歴史漫画ではありません。でも「花情曲」や「水滸伝」がOKなら、これもOKかなあ、と。
しかしそうなると、範囲が広くなりすぎるでしょうか?
たとえば、手塚治虫先生の「ぼくの孫悟空」や諸星大二郎先生の「諸怪志異」、坂田靖子さんやトオジョオミホさんの短編は、いずれも中国史というより中国伝奇のジャンルですが、投稿しても良いのでしょうか?しかも、投稿するとなると、どの時代にしたら良いのでしょう?
すでに繰り返された議論かもしれませんが、初心者なので、お教えください。。。
世間では三連休らしいけど、あまり関係ないワタクシ。
夏バテしてます。仕事中やたらとだるくて眠くて困ります。
そういえば、海の日は明治天皇がはじめて船に乗った日だって話したら
へぇ〜へぇ〜とか言われた。世間的にはトリビアなのか?これ。
>太白さま
投稿ありがとうございます。知らない漫画増えてるなあ。
ちらっと広告で見たんですが、
「ブラック・エンジェルズ」や「マーダーライセンス牙」の平松伸二が
孫氏なんたらいうのをやるらしい。マジかいな。
うちの中国史マンガコーナーも手動フォームじゃ書きにくいかなあ?
したらば(2ch式)とかにしたほうが書きやすいのかな?
以前から、ちらっと考えてることですけどね。
どれだけ需要があるものなのかも分からないので、踏み切れないんで。
唯漫論に投稿しときましたよ。「怪力乱神クワン」ていう、後漢末(AD167頃)の話です。
タイトルから想像できるように、妖怪とか出てくるアクション物です。更新されてたけど、一応ご報告。
>コルテスさん
どうも。
>『霍光』
ダメっていうか、どうも時代背景とか人物が見えて来ないような感じなんですよね。
僕も去病よりは光の方が好きなんですけどね・・・。
いけるとこまでちびちびと読んでみます(^^;
太白さん、どうも
やっぱ、『霍光』もダメですか(笑)?
>太白さま
塚本さんは、口調で人物を区別しているだけなのではないか…とか。
霍光は僕も好きな人物なんですけどね。兄票騎の数千倍は好き。
でも小説の主人公としてはまっとうすぎる気がします。
金日テイとかのほうが、ある種不気味な陰翳があって、モチーフとして
面白かったのではないかという予感が。
>鹿角さま
>十三妹と秋風秋雨人を愁殺す
>私の中ではヒロイン達が重なります
うーん、いずれ峻烈な女性たちには違いないですけど。
武田泰淳の十三妹が闇の住人であるのに対して
秋瑾は正道を歩いているつもりだったのではないでしょうか。
>十三妹の玉堂が北宋の玉堂よりは好ましく思えます
『北宋風雲伝』の玉堂は、恋の当て馬・ズッコケキャラに堕ちてますからね。
知る人はみなそう思ってるのではないかと(-_-;)。
>ヒロ男爵さま
はじめまして、管理人の永一です。
民国の軍閥ですか。
うちもきちんと調べてるわけではないので、安徽・直隸・奉天の代表者を
載せてりゃいいかなあ…という程度です。
えっとそちら、地図がちょっとずれてません?
銀英伝好きは、結構周辺にいますので、話題振ったら盛り上がるかも。
僕もいろいろ言いたいことはあったけど、まとめきれず寝かしたままに
なってますし。
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/gin09.html
はじめまして 軍閥を検索したらこちらにたどりつ来ました。
人物辞典のようなもの大変参考になりました。
私も辛亥革命時代の軍閥の時代について自分のサイトに少し扱っていますが、まだまだ勉強不足です・・・。
銀英伝の話でもいろいろ語りたいです。よろしくです。
私もこの作品読みました
毒薬というのは塚本さんの必須アイテムなんでしょうかね
霍去病もそれでひどい目にあってるし・・・
宣帝の一族粛清の手前で終わりなのが残念
そこまで進めて欲しかった
なまじ欲をださなければ良かったのに
ハリポタの4巻を読んでます
3巻でうまく行けば
意地悪な親戚達と別れられたのに
できなかったのは作者のせい
(こんな言い方したら
身もふたもないけれど
ハリーとロンが仲違いしてしまう話には
ちょっと驚きです
「喧嘩するほど仲がいい」とはいうものの・・・(-_-;)
そしてついに「あの人」が実体化してしまうのです
マルフォイ一家やワームテールはじめとするシンパに
ハリーはひどい目にあわされますが
それでも闘志を捨てないハリーは立派です
指輪物語とくらべると
このシリーズは深みが無いといわれますが
長所が違うから仕方ないと思います
同じ武田泰淳全集 9に収録されてる
十三妹と秋風秋雨人を愁殺す
私の中ではヒロイン達が重なります
十三妹が秋キン女史ともし同時代の人であれば
同じ陣営に身を置いたでしょうか?
まあさすがに王朝側に味方しないでしょうけど・・・
十三妹の玉堂が北宋の玉堂よりは好ましく思えます
(そう思うの私だけ?)やっぱ彼はハードボイルドでないと・・・
だって原作の彼ってそんな感じだしね
その分性格怖いけど・・・
『霍光』を読んでみるものの・・・どうも登場人物の「顔」が見えて来ない。
前漢というあまり馴染みの無い時代設定だからなのか、やはり塚本作品だからなのか・・・
いや、言うまい(笑)
『項羽』から出なおそうかな〜?
ダマしダマしやってたのですが、10MB超えてしまったので
新たに無料スペース借りて、掲示板の過去ログとか移転してます。
http://matsuyama.cool.ne.jp/nagaichi/bbslog.html
けっきょく別館復活の運びになりそう。
ダメ管理人、方針に一貫性なし。
まず謝っときます。
7月1日付の僕のレス
>陳希烈を擁護して楊国忠に憎まれ、
の部分は不正確でした。
張説の3人の息子は、張均・張[土自]・張[土叔]ですが、
そのうち張[土自]は寧親公主をめとっていました。
玄宗が「陳希烈が宰相を辞めたら、誰か代わる者がいるだろうか?」
と下問したとき、張[土自]はドギマギして答えられなかったのですが、
「わが婿(張[土自])のほかにおるまい」と玄宗がいったので
張[土自]は頓首して拝謝します。
しかし、楊国忠が工作して陳希烈の後の宰相は韋見素になってしまいます。
また楊国忠の讒言で張均は建安太守に、張[土自]は盧渓郡司馬に、張
[土叔]は宜春郡司馬に左遷されます。
張均の伝で「李林甫が亡くなると、陳希烈に倚った」とあるので、
張均が陳希烈の党与だったのは間違いないのですけれども、
兄弟が左遷された理由は、玄宗の個人的な親愛を受けている張[土自]を
楊国忠が憎んで、張[土自]にいちゃもんつけて左遷し、張均・張[土叔]
は連座したということのようです。お詫びして訂正します。m(_ _)m
陳希烈も張均も張[土自]も、安禄山に降っている経緯からひとまとまりの
党派として楊国忠に弾圧されたんだと僕は取ってしまったのですが、裏付け
がイマイチでした。
>殷景仁さま
>こちらは「卑弥呼の墓が発見された」レベルのお話だと思いましたが。
ぬっ、卑弥呼の墓は箸墓ナリよ。(^^;)
>夏侯太初は、かつて柱に寄りかかって手紙を書いていた。
落雷で柱が砕けるほどなら雨に濡れて手紙は書けないのでは。
って注目点が違うか〜。
>two_yossyさま
>落雷の話は六朝人士の美的価値観の基準として、ハードボイルドな「ダンディ
>ズム」が当世にウケていたことの表れ
泰然自若にも限度があるでしょうに。
謝安の下駄の歯の話みたいにオチがついてればまだしも。
>当時天皇家には「楽毅論」はなかったみたいですね。
正倉院にあるのは贋物ですか。
まあ贋物でも古い書風を保存してたら価値あるわけですが。
>太白さま
>周王の墓のときに、「こうなれば尭・舜でもないと〜」とか言ってたら、
史書でも夏の初期以前の中原というのは、河南省よりも北の山西省の汾水
のほとりあたりになってしまうので、あのあたりから二里頭以前のものが
出てくるってのは、史書の記録もなんらかの史実を反映してるんだ〜とい
う議論になって、堯舜実在論が勢いづく…んだろうな多分。
中国文明の起源の議論は、ここんとこ台頭しつつある中国ナショナリズム
と結びついて危うい方向に行っちゃう傾向もあり、一歩か二歩くらいは引
いて聞いてないと、ちょっとね。
>『世説新語』
なんか、一歩間違えばお笑いコントの世界ですね(笑)
>尭の帝都
周王の墓のときに、「こうなれば尭・舜でもないと〜」とか言ってたら、
ホントに出てきちゃった・・・(^^;
『世説新語』的世界において、たしか夏侯玄は潘岳と並んで「いい男」の代表として
描かれていましたよね。落雷の話は六朝人士の美的価値観の基準として、ハードボイル
ドな「ダンディズム」が当世にウケていたことの表れだと、井波律子氏の本で読んだ気
が(それがすなわち「雅量」なワケですね)。いやあ、そういう男がモテたのか〜、命知
らずやな〜。まあ一朝ことあれば戦場で討ち死にするのも当たり前だから、あながち命
知らずとかたづけられないのでしょうか。まあ自分はどうせ「左思」組ですから、ベツ
にいい男が死んでもかまやしませんけど。
光明皇后の臨書は、不確かな情報で恐縮ですが、正倉院の御物のカタログによると、
当時天皇家には「楽毅論」はなかったみたいですね。だから誰か借りて写したようです。
持ってなかったから書き写して大切に保管したと。唐代の能書家のエピソードによると、
かれらの技量はまったく入神の域に達していて、言うなれば「ニセ札職人」なみ。横に
置いて見ながら筆を運ばせるわけですが、まるでコピー機なみだったそうですね。いや
あ、書道家あなどりがたし!!
ちなみに小生の恩師は「秋艸道人」会津八一の教え子で、その書はやはり師と酷似し、
同輩から「(ニセ物を作れば)高く売れるぜ」とそそのかされたそうです。
閑話
NAGAICHIさま:
>まあ日本で喩えるなら神武天皇のお墓ってくらいの怪しさのお話でしょう。
おたがい似たようなことを考えますね。こちらは「卑弥呼の墓が発見された」レベルのお話だと思いましたが。
two_yossyさま:
>光明皇后の「楽毅論」
考え直してみれば、年代的には最も古いテキストの部類になるわけですから、王羲之の真筆の内容に最も近いといえます。その点から考えれば、two_yossyさまが底本に用いるのは至極妥当な選択だと思います(もちろん、王羲之が夏侯玄の本文を書き改めたという可能性も否定はできないのですが…)。
夏侯玄がらみの話題で一つ。
『世説新語』を読み直してみたら、雅量篇にこのような記述がありました。
夏侯太初は、かつて柱に寄りかかって手紙を書いていた。おりしも大雨が降っており、落雷で寄りかかっていた柱が砕け、衣服は焦げてしまったが、顔色は変わらず、そのまま手紙を書き続けた。傍にいた賓客たちは、みな動転してじっとしていられなかった。
思わず「本当か?」と突っ込みたくなるような話。『世説』にこの手の話は多いのですが、ここまで荒唐無稽なものは珍しいかもしれません。
ハリポタ映画最新作見てきましたが、やはり客層を選ばずある程度楽しめる作品です。
僕もにやけてたシーンは多々あったんだけど。
しかし、子役の成長の早さは痛しかゆしですな。
次の次か、その次くらいには子役変えないといけなくなるのでは。
僕が前レスで書きこんだ「張説の子どもたち」の件ですが、
僕の勘違いがだいぶんあるような気がしてきました。m(_ _)m
管理人の書いてることはあまり真に取らないでくださいね…
と、お断りしてちょっと調べ直し中。
>two_yossyさま
>いやしかし、ほんとですかい?
まあ日本で喩えるなら神武天皇のお墓ってくらいの怪しさのお話でしょう。
単に時期が二里頭より前でそれなりに大規模な遺跡ということで言ってるだけ
だと思います。
出ましたか、堯。
舜は堯から禅譲を受けたわけですから(伝説によると)、当該遺蹟は舜の都でもあるわけですね。
いやしかし、ほんとですかい?
山西陶寺遺跡が↑だそうで。
http://www1.china.org.cn/chinese/CU-c/600619.htm
塚中の顧頡剛がなんと言ってるやら。
>おむにゃんこさま
はじめまして。管理人です。
相互リンクOKですよ。
少々お待ちを。
はじめましてのおむにゃんこです。
ホームページを作りました。ってかだいそれたものではないけど、よろしければ相互リンク希望します。(いきなりこんなこといってもなんですが)
中国の歴代猛将などを扱っているのでよろしくです。
幻想水滸伝がどうのとかありますが、その部分は無視して下さい。
>two_yossyさま
楽毅論補注ご苦労さまです。
>隋の智永って王羲之の子孫そのものじゃんよー。
よく分からないけど、
千字文を書いて江南諸寺にばらまいた人ですね。
王羲之の七世の孫ということになってます。
王右軍の書の真髄を会得した人だとかなんだとか。
西安碑林にこの人の書跡を刻んだのが残ってるらしいっすね。
>殷景仁さま
実はこの前神保町寄ったとき、『全三国文』と『全晋文』は手に取ってたんですけどね。
手に負えないような気がして、結局買わなかったんですよ。
>鹿角さま
>高木重俊氏の張説では
うっ、本屋で何度か見かけたのに買ってないっっ。
ええと、張易之が魏元忠を誣告したときに、
張説が「元忠に不順の言なし」とか武則天に言上したので、憎まれちゃって
欽州に流されたってお話ですか?
張易之・昌宗の兄弟にさからったのは確かでしょうね。
張説の子どもたちですが、
陳希烈を擁護して楊国忠に憎まれ、左遷されたところを安禄山に拾われたわけですから、
しょうがないと思います。
親玉の陳希烈自身が、李林甫に無害で利用しやすいやつということで取り立てられたよう
なしょうもない人だったんですけどね。
ハリポタはそのうち劇場に最新作見にいこうと思ってるところです。
>はいさま
はじめまして。管理人の永一です。
元気のいいHNですね。
>算命学と気功をならってます。
畑違いなものですから、申し訳ない、どちらもよく存じません。
算命は生年月日で計算するってことは、覚えたら楽なのかもしれませんけど。
>みなさん、なに言ってるのか分かりません!
僕も難しくて分からないことがよくあるので、お気になさらず。
難しいというか、いくら探求してもキリないんですよね。
ひとところの深みに飽きたら、またちょっとズレると別の深みがある。
一生潰しても究めきれない、いくらでも語る余地がある。
そんなとこが気に入ってるんですけどね。中国史は。
まあ、趣味の場所ですから読み流していってください。
ていうか、隋の智永って王羲之の子孫そのものじゃんよー。
だったら和尚さんが目にしたのは写しとかじゃなくて、真筆だよー、オレなに書いてん
だろ。でも7世まで王氏に伝えられてたもの、ポンと弟子にやっちゃって、で、貰った弁
才和尚さんも太宗にとられちゃうなよなー。
みなさん、なに言ってるのか分かりません!
詳しすぎ!でも毎回見てるうちに少しは馬鹿な私でも分かるようになるかな。
話し合える場がほしいんです。
私に合わせて話してくれる人。いないかなあ。
算命学と気功をならってます。
融合していいもの。大きなお金は要らないけど。その世界で活躍したいな。とおもってます。
話し合える場があったらいいな。気功に通ってる人はいい人ばかりだと思ってたら、そうでもなくて。
ハリポタ一作目のダニエル君たちはとても可愛い・・・
朝陽門外の虹
そのままだと街娼になるしかない中国の少女達に
技術を教えることで厳しい運命から救った
清水さんのお話
こういう人達ばかりだったらよかったのに・・・(T_T)
今でも崇貞女学院の名は
学校の歴史に刻まれているそうです
高木重俊氏の張説では
宋エイに意見されて
張兄弟の企みに屈しないことになっている
すると今までの張説像と違いますね
唐書 宋エイ伝ではそうなってるそうですが・・・
それから張キが安禄山に従ったことに批判的ですが
無理強いされたかもしれないのにと思いました
殷景仁さん、ご教示ありがとうございます。
>武器を持てるような経済力が無い者の大半は、
短剣のようなものでも、それなりに値がはったということですね。
>彼らの庇護の下で農作業に従事しましたので、
これは、公的な治安機能が低下していたと理解していいのでしょうか?それとも城壁外への居住という居住形態の変化によるものなのでしょうか?
two_yossy殿:
「楽毅論」書き下しおよび訳を参照させていただきました。ご苦労様です。
実を申しますと「必迂廻而難通、然後已焉可也」の一文、文章の中でも最も「難通」なところと存じます。この箇所について、非常に悩みましたが、two_yossyさまの書き下しでいいように思われます。目的格の「これ」には、夏侯玄はすべて「之」の字を用いていますし(ここの訳はまだ考慮の余地があるかもしれません。いずれにしろ「宜以…」以下の主体を誰ととるかで、解釈が分かれると思います)。
>蘇軾の『楽毅論』
確か楽毅の行為は「宋襄の仁」だという主張でしたね。なかなか過激な論調だった事はかつて読んだときの記憶に残っています。
ただ、蘇軾の主張は確かに過激ですが、旧来の説にとらわれず、新しい自説を主張するという見方に立てば、王安石の「孟嘗君伝を読む」や『字説』、さらには朱子の『四書五経』『楚辞』の注と同種のもののようにも見えます。
そのように見ると、蘇軾の主張も、程度の差はあれ、宋代士大夫に共通するものの見方であったといえるかもしれません。
余談ですが、王安石が『字説』の中で、「波は水の皮なり」と解釈したところ、蘇軾は「では『滑』は『水の骨なり』と解しますか」という皮肉をいったそうです。
永一殿:
>two_yossyさんの挙げておられる王書では「論之」ですね
厳可均の「全三国文」では、「世人多以楽毅不時抜莒即墨為劣。以叙而論之」とあります。この場合「論之」の主体は夏侯玄自身になります。
また、厳氏でも「今楽氏之趣、或者其未尽乎而多劣之」という文は後で出てきます。
コルテスさま:
>平時における武器の携帯について
魏晋南北朝に限れば、ほとんど問題なかったと思われます(宮中は別ですが)。
当時の貴族・豪族は規模の差はあれ、自らの塢堡や荘園を守るため、部曲と呼ばれる私兵を擁し、彼らに武器を支給していました。
行商人のような人々はよくわかりませんが、おそらく旅行中の安全上、武器は携帯していたか、護衛を雇うなどしていたものと思われます。
武器を持てるような経済力が無い者の大半は、貴族・豪族の荘園内の佃客として、彼らの庇護の下で農作業に従事しましたので、一般には必要ないといえるでしょう。ただ荘園内の佃客・部曲の区別には曖昧なところがあり(部曲も平時は農作業に従事していました)、戦闘時には佃客も武器を支給されたこともあったかもしれません。
ともあれ、魏晋南北朝時代では、武器の携帯ということは、身分よりも経済力によるところが大きかったのではないかと思われます。
夏侯玄『楽毅論』、おおむね完了。各位の叱咤を請う!!
今回は王羲之の書(楷書だから読める)をもとに、『史記』楽毅列伝の集解と『芸文類聚』
に当たって訳しました。王書は隋の智永が目にしたのと(たぶん)同じ梁撫本で、唐の孫過庭
が『書譜』で絶賛したのもおそらくこの系統のものと思われます。集解・芸文より字数が多
いのは、三書の中でもっとも古いため夏侯玄の著作により忠実なのか、それとも王羲之の寸
評が差し挟まれているのかは、もはや判然としないでしょう。
>殷景仁さま
>ちなみに「劣と為す」以下も、異同箇所なのですね。
two_yossyさんの挙げておられる王書では「論之」ですね。
「今楽氏之趣、或者其未尽乎而多劣之」というのが後で出てくるようで。
>厳氏の『全三国文』も、王書を底本の一つとしていますが、
校訂の経緯が分からない…ですか。
>太白さま
>今週のモーニングでは、以前「魏公子列伝」をマンガ化したシリーズの読み切りで、
>田単のマンガが載ってましたよ。
情報ありがとうございます。
モーニングも最近たまにしかチェックしていないので。(^^;)q
>夏侯惇だと「おおっ!?」と、手にとって見た時は、自分がホンマもんの
>三国迷だってのを自覚した瞬間でした(笑)
『ビジュアル三国志』
僕も曹操の台頭あたりは買うか買うまいか迷ったりしてました。
曹操孟徳とか呂布奉先とかカマしてる解説は引くものがあるんですが、
史跡の写真とかは結構格好いいなあと思ったりして。
>two_yossyさま
>蘇軾の『楽毅論』、アレはすごいよ。
楽毅は中途半端だったと言いたいのかな、蘇東坡は。
夏侯玄と同じく仁義や王道から論じているのに、結論が真逆だし。
燕の恵王は関係ないって、すごい論理。
>訳文だけはアップしました。
書き下し&訳、ご苦労様です。
http://homepage.mac.com/two_yossy/fang-hu_island/05-zatsubu/01-gakkiron/001-0-gakkiron_01.html
さすがですね。真似できません。
>コルテスさま
>これって、いいのか悪いのかわからんとこですね。
不法行為は(当時としての)不法行為でしょうけど。
不法や腐敗として今さら咎めるのも、現代的な移転の自由の観点から擁護する
のも、まじめに言うほど何やら可笑しいような。
だれかが深刻な不利益をこうむったわけでなければ、歴史屋の筆誅を加えるに
ふさわしくないでしょう。
永一さん、丁寧な解説ありがとうございます。ご紹介いただいた本も、近くの図書館でうまく見つかりました。
>後漢になると、伝を売買する話が出てきて、郭丹は伝を買って函谷関を通ったとのこと。
これって、いいのか悪いのかわからんとこですね。腐敗といえば腐敗だし、金次第で移動は自由ともとれるし・・・。
永一さまから譲られた、夏侯玄 撰 / 王羲之 臨書『楽毅論』。
訳文だけはアップしました。
みなさんご存じだと思いますが、蘇軾の『楽毅論』、アレはすごいよ。
もうケチョンケチョンにけなしてますからね。「莒・即墨を抜かざるを劣
と為す」どころじゃないよ。もう「人間シッかーく!」なみ。
並べて読むと面白いと思います。
>コルテスさま
>士人や庶人が旅行をするには、江戸時代のように通行手形のようなものが必要だったのでしょうか?
ちょうど買ったばかりの本が役に立ちます。
尚秉和・秋田成明編訳『中国社会風俗史』(平凡社東洋文庫)
第三十二章 旅行
この本の書いてることでは、
「節伝」(旅行手形)を持つことになってるようです。
周代から「国中及び郊外に徙る者はこれに証明を授け、もし証明なく
節なき者は圜土(牢獄)に繋ぐ」(『周礼』比長)ことにして節伝を
もって出入りさせているとのこと。
斉の孟嘗君が秦の昭王のもとを逃げ出すとき、封伝を書き換え、鶏鳴
の口まねとともに関所を通過した話や
商鞅が秦から逃れて旅舎に着くと、主人が「商君の法により、旅券の
ない客を泊めれば同罪になるから」と断った話を引用。
漢の文帝のころ、太平が続いて、一時は関所を除き、伝も不要になっ
たが、次の景帝のとき七国の乱が起きて情勢不穏となったため復活。
後漢になると、伝を売買する話が出てきて、郭丹は伝を買って函谷関
を通ったとのこと。
卿大夫の旅行は車馬従僕が多く、官舎も整っているので不自由は少な
かったが、士庶の旅行では飲食店がないので、食糧を携行しなければ
ならず、自炊道具も持たなければならないと、荷物も多くなりたいへ
んだったようです。
旅行中の帯剣については書いてないですね。
帯剣は貴人の嗜みだったり、宮中での佩剣の特権がごく限られた人に
認められたりしてるあたり、身分制とのからみもあるかもしれません。
今週のモーニングでは、以前「魏公子列伝」をマンガ化したシリーズの読み切りで、
田単のマンガが載ってましたよ。といっても、ほとんど田単の娘の話でしたが。
ちなみに蒼天航路でも、曹丕の四友が登場。司馬懿は以前からちょくちょく
出てたけど、陳群や朱鑠・呉質は初登場かな?
そういや三国志と言えば、『週間ビジュアル三国志』。表紙が貂蝉の時なんかは見向きも
しなかったけど、夏侯惇だと「おおっ!?」と、手にとって見た時は、自分がホンマもんの
三国迷だってのを自覚した瞬間でした(笑)
まあ「楽毅論」については、少なくとも古代中国史が好だ、っていう程度の高校生(当時)が、
授業の暇つぶしに訳せるシロモノではないですね(笑)
ネット初訳なんて、自分には大それた事なんで、ここの諸賢の皆様にお任せします。
>世人多く楽毅の時に莒・即墨を抜かざるを劣と為す。
そんなに批判されていたんですね。
>『西晉の武帝司馬炎』(白帝社)
この本も、なかなかシブいところを選んだ本ですねえ。
ところで、また初歩的な質問で恐縮なんですが、漢から唐にかけて(我ながらおおざっぱだなあ)の時代について、調べてもわからないことがありました。ヒントなどあれば、お教えください。
1.旅行の自由
奴婢階級は別として、士人や庶人が旅行をするには、江戸時代のように通行手形のようなものが必要だったのでしょうか?特に関所や都市の城門での扱いはどのようなしくみになっていたのでしょう。
2.平時における武器の携帯について
旅行中に護身用に剣や戈を携帯することは許されていたんでしょうか?また、身分によって許される範囲に違いがあったのでしょうか?
またまたですみません。
冒頭の文章、「以」の字が抜けていました。
というわけで「世人多く楽毅の時に莒・即墨を抜かざるを以て劣と為す」となります。
ちなみに「劣と為す」以下も、異同箇所なのですね。厳氏の『全三国文』も、王書を底本の一つとしていますが、このあたりの経緯は今一つわからないところです。
>永一さま
>「大者遠者」って『左伝』襄公三十一年の子産と子皮の問答が初出なんですかね?
こちらも確認しました。以下の部分ですね。
子皮曰:「善哉!虎不敏。吾聞君子務知大者、遠者,小人務知小者、近者。」
恐らく、夏侯玄「楽毅論」は、ここをふまえていることと思います。
「楽毅論」…たしかに難しいですね。
僕も太白さんと右に同じで、ここまでの話になるとは思ってませんでした。
いや〜ガンガンやっちゃって下さいね。
楽毅が莒と即墨を抜かなかったのは、
無理押しすれば二城の間で燕斉の将士の多くがたおれ、
王の徳も軍隊の大義も傷つくからやらなかったんだ
というような弁護論ですかね。違いますか?
手に余るので、ネット初訳?は、two_yossyさんにお譲りしますよ。
>殷景仁さま
>「必ず迂廻して通ずるを難くするも、然る後に焉を已むるは可なり。」
事を片づけるには大問題からかたすべきだとか、
急がばまわれとか、
「古賢の意」を引いてるんでしょうね。
「大者遠者」って『左伝』襄公三十一年の子産と子皮の問答が初出なんです
かね?
>yukikoさま
どういたしまして。またどうぞ。
以下、どうでもいい話。
神田神保町で買ってきたもの
福原啓郎『西晉の武帝司馬炎』(白帝社)
沢田勲『匈奴−古代遊牧国家の興亡』(東方書店)
尚秉和・秋田成明編訳『中国社会風俗史』(平凡社東洋文庫)
彭遵泗・王秀楚他『蜀碧・嘉定屠城紀略・揚州十日記』(平凡社東洋文庫)
『世界の博物館21 故宮博物院』(講談社)
釈慧皎撰・湯用彤校注『高僧伝』(中華書局)
王建『中国古代避諱史』(貴州人民出版社)
呉玉貴『資治通鑑疑年録』(中国社会科学出版社)
楊衒之撰・劉衛東選注『洛陽伽藍記』(北京燕山出版社)
郭沫若主編『中国史稿地図集上册』(中国地図出版社)
……万札落としてきました。財布が軽い〜。
NAGAICHI Naoto へ:
本当に助かりました。
どうも、ありがとうございました。
無事帰ってきました。欠航しなくてよかった。
ちょっと疲れてるので「楽毅論」関係のレスは後回しにさせてください。
ごめんなさい。
>himaさま
おひさしぶりです。何年ぶりでしょ。
東京でも別の懐かしい人に会ったばかりなんですが。
>私も火曜朝、現地調査のため松山に飛ぶので心配です。
おや、松山まで下ってくるんですかい。
もし時間が作れるようだったら、会いたいもんです。
その気があれば、メールか電話(変わってない)かでも。
火曜日からはこちらも仕事が続いてるけど、なるべく都合つけ
ますんで。
>two_yossyさま
>邯鄲淳の『孝女曹娥碑』はご存じですか。
ありがとうございます。いや、知らなかったです。
父親が溺死した七日後、江に身を投げたという上虞の曹娥は
『後漢書』巻84列女に伝が出てきますが、
彼女を讃えた碑文ですね。
>yukikoさま
はじめまして。
戎盧国伝(じゅうろこくでん)
扞弥国伝(うびこくでん)
渠勒国伝(きょろくこくでん)
と読むのがいいと思います。
『漢書』西域伝第六十六上に出てくる西域諸国の伝ですね。
いずれもタクラマカン砂漠に埋もれてしまって、正確な位置
すら比定できてない諸国の伝です。
下記漢字の読み方を教えていただけませんか
戎盧国伝・扞弥国伝・渠勒国伝
よろしくお願いします。
>上の文、あるいは夏侯玄自身の意見と見なし、「その後で事を成し遂げられれば、それでいいの
>である」と訳した方がいいかもしれません。
たびたびですみません。
また、考え直しました。上のように考えると、楽毅の失敗を弁護する文章全体の論旨と齟齬をきたすと思われますので、やはりここも「古賢の意」ととることにします。
その上で、この部分の書き下しと訳を、とりあえず改めておきます。
「必ず迂廻して通ずるを難くするも、然る後に焉を已むるは可なり。」
(訳)〔その場合、表面的には〕いつも回り道をして〔事の〕達成を難しくしている〔ように見える〕が、その後で事を成し遂げれば、それでいい〔と彼らは思っていたのである〕。
>「然る後に焉を已むるは可なり。」
上の文、あるいは夏侯玄自身の意見と見なし、「その後で事を成し遂げられれば、それでいいのである」と訳した方がいいかもしれません。
>two_yossyさまへ
>書道関係のテキスト類であれば、結構簡単に訳つきのものを捜せると思いますよ
ご指摘有難うございます。書道関係は疎いので全くの盲点でした。
>文字の異同については芸文・王書ともに優劣があって
校勘について補足させていただきますと、単に当該の文章だけで優劣を決定するのは、いささか危険であることを指摘しておきます。
時には作者の書いた他の文章を参照し、共通して見られる癖(もちろんそれぞれの文章の出典を等閑視してはいけませんが)を見いだす、或いは引用される文章を参照し、引用文の文意をくみ取るような作業も必要だと思います。
もちろんtwo_yossyさまのように、底本のテキスト(『芸文類聚』)を明確にし、別のテキストで修正するという方法は、最も妥当な行為なのですが、この場合も修正に用いるテキストに一貫性がある方が望ましいところです(欲張り過ぎなことを言い、申し訳ありません)。
ちなみに、王書、裴$#x99F0;の集解、『芸文類聚』における文字の異同を一例挙げますと、こうなります(句読点は自分で付けなおしてます)。
王「観楽生遺燕恵王書。其殆庶乎機合乎道、以終始者与。」
裴「観楽生遺燕恵王書。其殆庶乎知機合道、以礼終始者与。」
芸「観楽生報燕恵王之書。其殆庶乎知機合道、以終始者与。」
この場合、どれを選択するか判断に迷うところがあります。私見では裴氏のように「礼」を入れた方がいいと思うのですが、あまり節操なく私見に都合のいいところを採用するのもどうかと思うので、迷うところです。文字の選択にはバランスをとる必要があるのでしょうが、私にはそれをとれるだけの自信はないので、深入りは避けることにします。
>太白さまへ
>最初の1行
厳可均の『全三国文』に従って、試みにですが冒頭部を書き下し、訳してみました(厳氏の底本は王書と『芸文類聚』です)。参考までにですがご覧いただければ幸甚です(あくまで参考ですが…)。
「世人多く楽毅の時に莒・即墨を抜かざるを劣と為す。是を以て叙べて之を論ぜん。夫れ古賢の意を求むるに、宜しく大なる者・遠なる者を以て之を先とすべし。必ず迂廻して通じ難きも、然る後に焉を已むるは可なり。」
(訳)世の人の多くは、楽毅が当時、莒と即墨を抜かなかったことを、愚かなことと見なしている。そこでこの事について説明し論じてみることにする。そもそもいにしえの賢者の考えを調べてみると、遠大な事柄を優先すべきものとしていたのである。〔その場合、表面的には〕いつも回り道をして〔事の〕達成を難しくしている〔ように見える〕が、その後で事を成し遂げれば、それでいいと〔彼らは〕思っていたのである。
なんか、昔のちょっとした思い出をつらつらと書いたら凄いことに・・・(^^;
せめて最初の1行だけでも、文字通り拙い訳をしてみましょうか。
魏の夏侯玄が楽毅を論じた。「世人の多くは楽毅が莒と即墨を抜かなかったのを論じ、
いにしえの賢者の……宜以大者遠者先之。
やっぱダメでした(笑)
「不時抜」は「(城を)抜かなかった」で合ってました?
とりあえず、自分の漢文読みの能力が低下の一途を辿っていることを思い知りました。。。
永一様
邯鄲淳の『孝女曹娥碑』はご存じですか。
王書として以前に書いた桃山艸介 解説『書聖名品選集4 王羲之』マール社/1985年初版
に収められています。原文が書かれたのが180年頃でしょうか。でもって王羲之がその碑文
を臨書したのが350年頃でしょうか。下記、夏侯玄の『楽毅論』同様、時間差はありますが
それでもかなり早い時期の写しだとは思います。
殷公
書道関係のテキスト類であれば、結構簡単に訳つきのものを捜せると思いますよ。二玄
社のものは絶版中みたいですけど。とりあえず『芸文類聚』を基に王書を交えて校勘して
みますと...
魏夏侯玄楽毅論曰、[(王)世人多以楽毅不時抜莒即墨論之]、夫求古賢之意、宜以大者遠者
先之。必迂迴而難通、然後已焉可也。[(王)今楽氏之趣、或者其未尽乎而多劣之、是使前賢
失指於将来、不亦惜哉]。観楽生報[(王)報作遺]燕恵王之[(王)之字無]書。其殆庶乎知[(王)知
字無]機、合[(王)乎]道以終始者与。其喻昭王曰、「伊尹放太[(王)太作大、下同]甲而不疑、
太甲受放而不怨。是以[(王)以字無、又以下作「存大業於至公、而」]天下為心者也。夫欲極
道徳之至量[(王)至字無]、務以天下為心者、必致其主於盛隆、合其趣於先王。[(王)苟君臣同
符、斯大業定矣。于斯時也]、楽生之志、[千載一遇也。亦将行千載一隆之道]。豈其局蹟当
時、止於兼并而已哉。[(王)夫兼并者、非楽生之所屑。彊燕而癈道、又非楽生之所求也。不
屑苟得、則心無近事、不求小成、斯意兼天下者也。則]挙斉之事、所以運其機而動四海也。
[(王)夫討斉以明燕主之義、此兵於為利矣]。囲城而害不加於百姓、此仁心著於遐邇矣。挙国
不謀[(王)一謀作諜。碑損]其功、除暴不以威力、此至徳令[(王)令作全]於天下也[(王)也作
矣]。邁至[(王)至作全]徳以率列国、則幾於湯武之事矣[(王)矣字不明。碑損].楽生方恢大綱、
以縦二城、収民明信、以待其弊。将使即墨莒人[(王)将字無]、顧仇其上、願釈干戈、頼我猶
親、善守之智、無所施之[(王)作「無所之施」]。...
然[(王)則]求仁得仁、即墨大夫之義也。任窮則従、微子適周之道也。開弥広之路、以待田
単之徒、長容善之風、以申斉[(王)士]之志、[(王)使夫忠者遂節、通者義著、昭之東海、属之
華裔]、我沢如春、下応如草、道光宇宙、智者宅心[(王)作「賢者託心」]、然則鄰国傾慕[(王)
然則之二字無]、四海延頸、思戴燕主。仰望風声、二城必従、則王業隆矣。雖淹留於両邑
[(王)於字不明。碑損]、乃所以致速於天下也[(王)作「乃致速於天下」]。不幸之變、勢所不圖
[(王)勢作世]。敗於垂成、時運固然。[(王)若乃逼之以威、劫之以兵、則攻取之事。求欲速之
功、使燕斉之士流血於二城之間、侈殺傷之残、示四国之人、是縦暴易乱、貪以成私、鄰国望
之、其猶豺虎。既大堕称兵之義、而喪済弱之仁。虧斉士之節、癈廉善之風、掩宏通之度、棄
王徳之隆、雖二城幾於可抜、霸王之事、逝其遠矣。然則燕雖兼斉、其与世主何以殊哉。其与
鄰敵何以相傾]。楽生豈不知抜二城之速了哉。顧城抜而業乖也[(王)也字無]。豈不慮不速之致
変哉[(王)慮作知。哉字無]。顧業乖与変同也[(王)也字無]。由是観之[(王)観作言]、楽生之不
屠二城、其亦未可量也。
こんなところでしょうか。
文字の異同については芸文・王書ともに優劣があって、「いいとこ取り」をするようです
ね。訳文のほうは紙幅の関係からいずれ弊島にでも。
読んでみましたが、訳しにくい代物ですね、これ。
とりあえず、王羲之・裴駰『史記集解』「楽毅伝注」・『芸文類聚』を見ましたが、それぞれに文字の異動がかなりありました。
私見では『史記集解』が、比較的原文(古文)に近い雰囲気を残しているように思いますが、全文を収録していなかったり(「観楽生遺燕恵王書…」から始まっています)というように、本腰を据えて訳すとなると、校勘から始めなければならず、非常に面倒な気がしました。有名な文章なのに今までまともに日本語訳されていないという理由もうなずけます。
>週末に二年ぶりくらいで東京出てきます。
ほほう〜。
>帰るくらいに台風来るんで、飛行機欠航が心配ですが。
確かに。
私も火曜朝、現地調査のため松山に飛ぶので心配です。
お変わりない(というか...ますます)で何よりです。