大東亜戦争開戦経緯
大東亜戦争は一般に、昭和16年12月8日 海軍の真珠湾攻撃から開始されたとされている。
だがこの開戦に至る経緯を考える場合、単に支那事変や満州事変からではなく、欧米諸国によるアジア侵略、植民地化してきた時代背景を十分に考慮しなくてはなるまい。
即ち、阿片戦争や米西戦争、排日移民法問題、国際連盟の人種差別撤廃条項の否決 といった『白人至上主義』を背景とした我が国との対立の諸要因を、100年以上の歴史の継続/連続的なものとして考察する必要がある。 日露戦争における日本の勝利がアジア解放の出発とするならば、大東亜戦争はその終着点であったと言えよう。 しかしながらここでは、昭和6年の満州事変勃発からの内外情勢に限定して大東亜戦争の開戦経緯を紹介していく。 |
開戦経緯1 昭和 6年 9月から昭和15年 9月 開戦経緯2 昭和15年 9月から昭和16年 4月 |
開戦経緯3 昭和16年 4月から昭和16年12月 補足資料 |
日露戦争後大陸経営を進める日本と、モンロー主義を原則とするも支那には門戸開放主義を進め大陸侵出を狙う米国とは、支那をめぐって逐次対立を深めていった。 第1次世界大戦に乗じて対支21か条要求(大正4年)シベリア出兵(大正7年)等で大陸に特殊地位を固めようとしていた日本に対し、米国はワシントン会議(大正10年)・九ヶ国条約(大正11年)等で阻止しようとした。1929年の世界大恐慌でブロック経済の趨勢が強まるとともに、資源と植民地を独占する英米本位の世界旧秩序を覆し、持たざる国の活路を開こうとする日独等の動きが強まり、共産国ソ連の増強とあいまって全世界的動乱の機運が生じてきたのであった。
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昭和 6年 9月18日 |
満州事変が勃発した。これは日清・日露の戦役における満州既得権益を確保するための 武力発動であるとともに在留邦人保護のための軍事行動であった。 |
昭和 7年 3月 1日 | 支那大陸東北4省に五族協和を標榜した満州國が独立. 同年9月15日 日本は満州國を承認し『日満議定書』が締結された。 |
昭和 8年 5月31日 |
『タンクー停戦協定』によって満州事変は一段落し兵火は収束した。 この結果日本は、満州国の国防を全面的に負担することになり 対ソ防衛の最前線に推進された。 |
日本は満州建国の既成事実を強化し日満支三国による東亜の新関係を建設しようとした。 しかしそれは軍閥が跋扈する後進国とはいえ、孫文の三民主義による国民革命を経て 政治的近代化を進めようとする蒋介石政府の容れるところではなかった。 |
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昭和12年 7月 7日 |
全く予想しなかった支那事変 (当初北支事変と呼称)が勃発した。 政府及び軍統帥部の不拡大方針にもかかわらず、戦火は北支から中支に拡大していった。 日支両国ともに交戦権の発動は行わず国際法上の戦争状態ではなかったが、やがて 全面抗争へと発展していった。 |
昭和12年11月20日 |
大本営が宮城内に設置された。これは戦時大本営条例が廃止され 事変に際し必要に応じて設置できるようになったためである。 |
昭和12年12月13日 |
日本は首都南京を占領。 駐支独大使トラウトマンによる和平工作も企図されたが成功せず、 |
昭和13年 1月16日 | 『国民政府を対手とせず』の声明を発表、南京政府を否認し長期戦の様相を呈するに至った。 |
昭和13年11月30日 | 『日支新関係調整方針』が決定、一転して蒋介石政府を相手とする和平工作が開始された。 |
昭和13年12月22日 |
この方針に基づき『善隣友好・共同防衛・経済提携』の三原則を基調とする 『更正支那との関係を調整する基本方針を闡明(せんめい)』するいわゆる近衛声明を発表 蒋介石政府へ和平を呼びかけた。 国民党副総裁汪兆銘はこれにこたえ重慶を脱出、ハノイにおいてこの近衛声明の線にそって 和平建議を声明した。これによって一気に事変解決へと進むものと期待されたが、 予期のごとく進展せず事態は混迷を深めた。 |
昭和14年 1月 4日 | 支那事変の解決をみとどけることなく近衛内閣は総辞職した。 これは日独伊防共協定強化問題に関する閣内意見の分裂が主因であった。 昭和13年6月以降、ドイツは英仏両国をも対象とするよう主張し、 それを受け入れようとする陸軍と、これに反対する海軍・外務省との意見対立であった。 この防共協定強化問題は平沼内閣に引き継がれ最大焦点となった。海軍・外務側も 一部同意したものの、条約発動の条件その他について意見は一致しなかった。 |
そのころアメリカは、満州事変以降の日本の大陸政策を否認する方針をとり 政治的・経済的にも日本を圧迫する政策を強化して来た。 支那事変勃発後、米国は対日経済圧迫の先駆けとして『モラル・エンバーゴ』を発動し、 海南島占領(昭和13年2月) 天津イギリス租界封鎖問題(昭和14年6月)によって 対英米関係は一層悪化した。さらには |
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昭和14年 7月26日 | 『日米通商航海条約』を一方的に(予告通牒)アメリカは破棄したのである。
これによってアメリカは全面的対日経済断交を行いうる態勢をとった。 |
昭和14年 8月23日 | 突如として『独ソ不可侵条約』の成立が発表、 平沼内閣は『複雑怪奇』の一語を残して総辞職、防共協定問題はご破算となった。 |
昭和14年 9月 1日 |
ドイツはポーランドに進攻、ただちに英仏は宣戦を布告し第二次欧州大戦が勃発した。 阿部内閣は欧州戦争不介入の方針を採択、この欧州戦争によって支那事変の 早期解決を促進するものと期待したが、米英の援蒋政策と対日圧迫はますます 強化されていた。 |
一方さきに重慶を脱出した汪兆銘は、蒋介石への和平呼びかけから 自身による新中央政府樹立工作に転換しようとしていた。 秘密裡に東京に着いた汪一行は、上京に際して以下の3案を示して意向を打診した
1 日本は重慶政府/蒋介石を相手として事変解決を図る 汪兆銘は斡旋仲介を行う。 |
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昭和14年 8月28日 |
汪兆銘は、上海に国民党六全大会を開催し 各部の代表約240名は和平建国の方針を確認、それに基づき |
昭和15年 3月30日 |
南京に汪兆銘を首班とする中華民国の新中央政府が誕生した。 国民政府の政綱は、東亜永遠の平和及び新秩序建設の責任分担、 支那の正当な権益の尊重など10項目からなっていた。 米国ハル国務長官は、即座にこの新政府の不承認を声明した。 |
このように支那事変解決の望みは薄く、米英の対日圧迫は加重の一途を辿った。 日本経済は全般的に米英依存経済にあり、日本の苦悩は深刻であった。そのとき欧州の戦局は激動を告げ、事変の解決・南方問題(米英依存経済)からの脱却のため、千載一遇の好機であるかのようであった。
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陸軍は支那事変拡大にはあくまで否定的・消極的であった。そのため事変解決を目的とする幾多の対重慶和平工作が進められていった。「トラウトマン工作」、「蘭工作」、岩崎清七−孔祥熙間の工作、松岡外相による和平工作など民間有志、政府、軍部特に陸軍など枚挙にいとまがなく、和平工作の乱立は事変解決の欠点でもあった。 その中で最大級の期待をかけて進行したものが「桐工作」である。
国民政府行政院長・財務部長の前歴を持つ宗子文は、このころ重慶政権とそりがあわず弟の宗子良と香港に来ていた。そこで参謀本部第7課 鈴木卓爾中佐(34)を主務者として、宗子良(宗3姉妹の弟で銀行家 蒋介石の義弟)に対する秘密工作が発足した。
しかし親書に対する蒋介石の返信は芳しくないものであった。主務者の鈴木中佐は、重慶側は時間稼ぎをしているのではないか?との疑惑が生じていた。 この間、蒋介石がソ連政府と対中援助強化の話をまとめたとか、宗子文が、対米1億ドルの借款を成立させた という情報が入ってきたからである。 今日この桐工作について、日本側は最初から支那側の謀略・時間稼ぎに引っかかったとする見解が多数である。否、すでに当時においても重慶側の謀略であることは察知していた。 ただ、工作自体が重慶政府に直結していたのは確認できたので、その点に期待して交渉を続行していたのである。云いかえればそれ程までして和平への道を探っていたのである。 自称宗子良は、実は曾宕という秘密工作を任じた替え玉であることが判明している。また戦後、重慶政府首脳である何應欽が来日した際、岡村寧次大将が和平工作に関して当時の事情を尋ねたところ何應欽は笑って答えなかったという。
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昭和15年9月23日 我が陸海軍は北部仏印に進駐。 四川省に通じる援蒋ルートの遮断を主要目的としたもので、平和進駐の予定であった。 外務省の交渉の結果、カトルー仏印総督は日本監視団の派遣を許可し、フランス本国政府もアンリ大使を通じて認可した。それを受けて西原一策少将(25)を団長とする監視団がハノイに着任、任務の遂行にあたった。西原少将はカトルー総督と交渉を続けていたが、フランス本国(ヴィシー政府)は、カトルーに対して主権を侵害しているとの批判が厳しかった。 カトルーと仏本国では情勢認識が異なっていたのである。やがてヴィシー政府はカトルーを罷免、ドクー中将を新総督に任命した。ドクー新総督は本国の意向に沿って延遷策をとり、細目交渉は停滞することとなった。だが東條陸相以下陸軍は、依然として平和進駐を大原則として交渉に臨んでいた。 現地仏印ではすでに平和裡に交渉が成立しつつあった。仏印側は西原少将の見識に敬意を払い人格を信頼していたのである。しかし参謀本部に西原少将は不評であり、強硬派を現地におくりこんで一気に交渉を成立させよう、とする動きがあった。 これにより西原少将不在中に同期である作戦部長冨永少将、作戦課荒尾中佐などの派遣幕僚や中村第5師団長、西村兵団長ら現地軍幕僚の専断、陸軍中央の統制力不足などのため武力進駐となってしまった。また森本宅二中佐指揮の1大隊が越境した事件(クールーベー仏中佐の冷静な判断により武力紛争にはならなかったが、森本中佐は陸軍刑法の「擅権の罪」による軍法会議に付せられた)や陸軍機の誤爆事件などを起こし、さらには陸海軍の協同を前提の仏印上陸作戦において、平和進駐の大原則に違反する陸軍の暴挙に海軍は怒り、援護を放棄して作戦海域を離脱してしまう事態すら招いた。 このような一部陸軍の専断は上聞に達し、陛下の陸軍不信はいよいよ強められたようであったという。9月25日 冨永少将一行は帰京した。同少将に対する軍上奏部の空気は険悪であり、海軍からの非難の声は公然化していた。 即日第1部長職務停止が命じられ、憤激した冨永少将は即座に参謀飾緒を取り外して辞去した。また荒尾大佐も歩兵学校教官に左遷された。西原少将は「統帥乱れて信を中外に失う」と陸軍の失態を憂いたのであった。
この間の9月5日 イギリスのハリファックス外相は、仏印の現状維持に深い関心を有している旨日本政府に注意を喚起した。ハル国務相は仏印情勢を重視している声明を発表、9月20日にはグルー駐日大使が松岡外相に非難文書を提出した。 さらに9月23日にハル国務相は公然と日本を非難し、北部仏印進駐・三国同盟締結に対して、米国は9月26日 屑鉄・鉄鋼の対日輸出禁止を発表、英国も援蒋ビルマルートの再開を通告した。 |