2001年10月の日記
*2006年3月修正版
『To Heart(PS版)』3/3〜3/11までの覚え書き
幼少期のひろゆきは、あかりの家で催された雛祭りにおいて白酒を大量摂取したあげく、雛壇によじ登りその惨劇を引き起こした。
地震かと思った。
今週の『プロジェクトX』:ヤマハ浜松工場の男たち
調律師、村上の育成シミュレーション。空想的な比喩に走るイタリア人師匠の言葉に戸惑ったりするが、後に師弟の物語が友情の物語へと変貌する職人の仕事。田口トモロヲのラスト説教も相変わらずの爆発っぷり。『エンジェリックレイヤー』最終回
体格に劣等感を持つ少女と、車椅子生活を強いられる女が、人形遊びに自己投影することで、自由を手に入れようとした酷い寓話。CLAMPらしい。
『To Heart(PS版)』3/12〜3/13に関する覚え書き
足を捻ったあかりは、ひろゆきにお姫様だっこされて保健室へ連れていかれた。その道程で、
あかり「腕疲れない」
ひろゆき「ぜんぜん軽いよ」
あかり「・・・うそばっか」
しね。
先週の『フルーツバスケット』:第12話 温泉話
透が母の遺影を防水加工して露天風呂に持ち込み、ほのぼのする回。草摩温泉の女将が怖くて大いに引く。作家はメイド属性のようで、一部の鑑賞者の人生を嘲笑うかのようだ。
先々週の『ノワール』:第25話 萌えくろえ死亡
萌え萌えな霧香のとなりで、くろえは嬉しそうだ。だが、嫉妬深いミサトさんの乱入により、霧香の奪い合い。くろえよりミサトさんを選ぶ霧香は、おねえさま属性か。
『反乱のボヤージュ』に関する覚え書き: 集団的超人化の誤算
浅間山荘でPTSDとか、渡哲也の萌え帰還兵ものになっておる。奥さん病死とベタな構成だが、わたしはベタなものにたいへん弱い。借金取りを追い返す渡とか、妊娠しそうだ。
ただ、渡の突出ぶりは、周縁にいるヘタレ若者の突出につながっていて、結果、渡はヘタレ集団に埋没して行き、作品は求心点を失う。
もっともCMに入ると「うまい酒はどこじゃ、酒の構造改革じゃ」と渡が大暴れ。楽しすぎるのでやめてくれ。
To Heart(PS版)』3/14〜
まるち
「あ、浩之さん! どうも、おはようございます」
まるち
「・・・うっ、うう、ひ、浩之さん、ありがとうございます〜」
まるち
「浩之さん、さようなら、お元気で〜!」
まるち
「わたし、いまから、浩之さんの専用メイドロボットになりますっ」
まるち
「浩之さんが、わたしとデート」
まるち
「浩之さん、わたし、浩之さんとお知り合いになれて本当によかったです」
まるち
「ひ、浩之さん・・・うっ」
まるち
「わたし、あんなお家で、浩之さんみたいなご主人様のために働くのが夢だったんです」
まるち
「わたし、浩之さんのこと、本当に本当に、大好きでした」
まるち
「浩之さあああああぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜(中略)〜〜〜〜〜ん!」
まるち
「浩之さん、浩之さんっ!」
まるち
「浩之さん、大好きです!」
今週の『ちっちゃな雪使い・シュガ〜』:第2話 ちっちゃなルームメイト
片務的な接吻の重層攻撃は、萌え疲れの身に堪えた。
今週の『コメットさん』:第26話 星ぢから乱用と破滅(仮)
過度の欲望が破局を招くのは、本作品の説諭的な側面の発動だが、メイド化したメテオさんを登場せしめ、一部の好事家の心を揺さぶるのも忘れない。
「一生懸命がんばってお仕事すれば、手伝ってくれる人が現れる」
とはつまり、
「死にそうになってカットがたまり出さないと、手伝ってくれる人は現れない」
ということか?
マルチ萌えの誘因について(その1): 自己投影としての萌え
萌えの源泉は、他者に対する憐憫的な保護欲にあるのではなく、むしろ物語内のヘタレに対する自己投影あるのではないだろうか。
萌えを共有する文化共同体が、アニメやギャルゲーの周縁に限定され、その担い手が社会・精神的な弱者に陥りがちであることを、議論の前提として考えてみよう。
今日の社会において、20歳を超過して、例えば職場の真ん中で「さくらちゃんはにゃ〜ん」と雄叫びを上げた場合、当人の社会生活がいかなる事になるか想像に難くない。よい大人がアニメを見るだけで被る精神的抑圧は、自己をヘタレと規定する誘因になるはずである。この劣等感は、選民意識か、あるいは被虐的快楽の受容に転化することによって、表層的には精神の均衡状態に至る。
萌えがこのような劣等意識に依拠しているとすれば、弱者に対する保護欲をその感情の本質に求めるのは、難しいかもしれない。なぜなら、弱者を保護する能力に欠けることを自覚するヘタレに、そのような行為は「あり得ない物語」だからである。ゆえに、萌えが基本的にヘタレを巡る物語であると想定した場合、オーディエンス(ヘタレ)は、物語内のヘタレを「守りたい」と思って萌え上がるのではなく、むしろそこに自己を見出すことによって、感情移入の契機にしているといえよう。
(つづく)
マルチ萌えの誘因について(その2): ヘタレのダイナミクス
物語内のヘタレに自己を見出すオーディエンスは、だからこそ、そのヘタレのヘタレっぷりに近親的な不快感を被りうる。そこで考案されるのが、「ダウナー→アッパー」の系移行なる普遍的な物語のテンプレートである。つまり、感情高揚は、ヘタレがヘタレでなくなる物語に求められるのであり、鑑賞者はヘタレそのものではなく、そのヘタレの動態(微分方程式における接線の傾き)に陽反応を引き起こすのだ。一方で、ヘタレがヘタレのまま停滞する物語は、鑑賞者に精神的な負担をもたらしてしまう。それが、大抵のヘタレがヘタレのまま一生を終える現実そのものを反映するからである。
ヘタレの動態にかかわる物語形式は、「ヘタレ→強者」のパターンだけにとどまらない。逆に、「強者→ヘタレ」のパターンも想定するできよう。この場合、鑑賞者は、完全に他者であった物語内の強者が、次第にヘタレになるにつれて、感情移入の対象になりうる人格へと転化していく様を目撃するだろう。
「ヘタレ脱却」と「ヘタレ転落」の物語形式は、それぞれが別の物語として展開しうるものであるが、他方、同一の物語内で、これらの形式を並立展開させることにより、個別に展開するよりも高い快楽を提示することもできるだろう。本稿では、その試みを行い成功した例として、『ラブひな』と『To Heart・まるち話』を挙げたい。そして次に、そこにおけるヘタレの動態に検討を加えてみよう。
(つづく)
マルチ萌えの誘因について(その3): 二重ヘタレ構造の快楽
『ラブひな』は、ヘタレ男がヘタレるのをやめて、その反対に、出来る女がヘタレに墜ちる物語である。高度成長の一途をたどる景太郎には、その成長の過程において、鑑賞者の感情移入を期待することが出来るだろう。だが最終的に、ヘタレからの脱却は彼を他者的な存在にしてしまう。他方、景太郎の成長路線と並行して、景太郎なしでは生きていけなくなってしまう成瀬川の転落物語が展開され、景太郎ラインの補完を果たすことになる。ふたつの対照的な人格の設置は、作品の時間軸全体にわたり一定のヘタレ濃度を維持しながら、ヘタレ動態を演出することを可能にしている。
同じ形式は、『マルチ』のシナリオ構成にも見受けられる。マルチが物語冒頭において行う奇態や奇声は、他者に奉仕したいがヘタレなのでそれがかなわないという感情と行為の格差に基づくものであり、それはまた萌えの一誘因になりうると考えられる。しかし、彼女の本質は、むしろヘタレ脱却による強度の感情移入効果に見出すべきであろう。この脱却路線の鮮烈な点は、『ラブひな』と違いヘタレを脱却してよそよそしい存在に転化することはなく、ヘタレを脱却したところで、そこには敗北しか待っていない所にある。対して、保護者的な役割を負っていた浩之はメソメソするばかりで、関係の主導権を完全にマルチへ譲り渡すことになる。
ベレッタM84は麻薬Gメンのおぢさん達が使っていて萌え
日曜日に中古のブローニングM1910を3000円で購入。「昭和前期、特別高等課のお巡りさんが運動家のアジトに突入」ごっこが出来ると思ったが、後日、彼らは突入の際にも銃を携行しなかったことが判明。無念だ。
『シスター・プリンセス』最終回
12人の妹を選ぶのか?
社会的成功を選ぶのか?
その問いかけ自体がすでに猟奇的だ。
『ノワール』最終回
アルテナ様の包容力に変態の臭いがする。
『Z.O.E』最終回
自己犠牲は萌える宇宙空間の基本です。
可能的な物語としてのメイドと妹
雑役マシンの特性から、マルチが誰とも関係を持てうる事と、それによって『To Heart』がユーザーにとってあり得る物語に変貌した事は、前にも述べた*1。この議論は、マルチをメイド全般と置き換えることによって、より普遍化することができる。
普段の生活で、異性に対し受動性しか持ち得ないオーディエンスの日常は、物語においても反映されなければならない。そうでなければ、物語は実存感を失ってしまう。どの世界にせよ、その鑑賞者にとって、娘/おねえさんは、どこからともなくやって来て、そして、何処かへ去っていくものである。
いわゆるメイド概念は、その人格と主従関係を持つだけで好意を受容できるという幻想から生まれた。オーディエンスの分身たる物語内のヘタレが、異性の凄まじい好意を買う情景は絵空事である。しかし、その異性がメイドであれば、凄まじい好意を被っても仕方がないではないかしら…。もちろん、それも日常ではあり得ないことだが、「でもひょっとしたら無いこともないんじゃないのかな〜」と思わず考えてしまう微妙な信憑性が、メイド概念を成立させていると言えるだろう。
このメイド概念は、さらに妹と言い換えることもできる。血縁関係によって、異性とひとつ同じ屋根の下に共存在できる宿命的な受動性は、「ヘタレもてもて」の物語に、強烈な説得性を与える。妹だから無制限に愛されても仕方がない。物語の実存性に関するこの奇妙にもっともらしい幻想は、やがて、世界中のお兄ちゃんとしての鑑賞者たちを、奈落の底に突き落とすことになる。
プロジェクトX』:カップラーメン開発秘話「これで給料が上がる!」(仮)
国井がコスプレをすると、ろくな事は起こらない」という仮説はどうであろうか。
『フルーツ・バスケット』:第16話 透が湖に行く
井上和彦の人情話、「雪が溶けると何になるでしょう→答:春になりますぅ→(微笑み、懐かしむように)そうでもないさ」に即死。
『ココロ図書館』:第2話 図書館のチラシは風俗のそれと誤解された可能性は?
チラシで客が押し掛けたのは、知性と教養を求めてではなく、明らかに司書目当てである。 炎上する図書館と蹂躙される三姉妹をもって、本作が終幕を迎える空想をする。
『コメットさん☆』:第30話 生命の創造→制御不能→炉心融解
初代コメットさんが言うには、いちばん身近な輝きは自分の輝きであるから、それを磨けということなんだが、磨きすぎて超新星化したりしたら人類壊滅だな。
『プロジェクトX』:消防士が伝説化するまで
東京消防庁の高野さんを伝説化するために、東京シューズ流通センターで同僚消防士を煙に巻いたり、関西ででかい地震を起こして、その高野さんにボランティア休暇を取らしめなければならなかった。
「守衛の胸ぐらをつかみ」「突入する」「浅見は黙ってうなずいた」「俺が行く」「炎に包まれた」「たいちょお〜!」「それを持って出て行け」「全員泣いた」と台詞だけはインフレーションを起こしているが、情緒喚起はやや希薄な話数かも。
体育会系におけるアッパー化としての「ブルース・ウィリス転換」
警察官が超人化する現象をブルース・ウィリス化と呼ぶのであれば、この概念をさらに拡張して、体育会系全般のアッパー化を、文化系における「へたれ脱却」の相似概念として、ブルース・ウィリス化と定義づけることもできるだろう。
今日の一枚 : 2001年10月24日 JR総武線内で撮影
『ちっちゃな雪使い・シュガ〜』:第3話 縦笛…
感極まって接吻を行う性癖は、酒に酔って狂乱化した和田アキ子をイメージ・ソースにしているのであろうか。
体育会系壊滅の物語としての西南戦争
薩軍は体育会系である。『翔ぶが如く』の魅力は「百姓ごときに負けるかえ(言葉が違う)」と意気込んだ究極の体育会系、桐野利秋が、百姓集団の熊本鎮台に撃退される逆転劇にある。その影には、体育会系薩摩人の凶刃に倒れた文系の元締め・大村益次郎がいたりして萌え。
格好良さとリスクの問題
911以降の世界なので、でかいターミナル駅に行くと、ボディアーマー付きのお巡りさんが立っていたりする。これが、あと何年もすれば、MP5あたりをもったお巡りさんに新宿駅が警備されたりするのかしら、とワクワクしてくるが、代価として、爆殺される確率の上昇を見るわけである。悩ましい。
季節使いは、彼女にしか見えない。だから、『シュガー』は幻覚に悩まされる薬物中毒者の個人的な物語である。