2003年5月の日記
独裁制下の政治家やテロリストが議会制民主主義国家の巡航ミサイルや攻撃ヘリに付け狙われて怯える今日的な情景は、わたしどもが従来から空想してきた政治という物語に関する世俗的な心象とそぐわないという点で、不思議な違和感を含有している。わたしどものこの感覚は、人権を尊重する国家の非人権的な手法に対する批判的な視点から生じているのではない。往々にしてわたしどもが独裁者に求める役割イメージ(例えば、強権的、権威主義的)と、巡航ミサイルを恐れて居所を転々とし悶々と隠匿した日常を送る彼等の行為が齟齬を起こしているように思えるのである。彼等は抑圧の執行者であっても、その被対象者ではない。しかし、従来の役割が転換して、彼等が国家規模の豪勢な物量的攻勢の下に置かれたとき、わたしどもはそこにある種の物語的な興奮(役割の攻守転換)を感じてはいないだろうか。
わたしどもの内属する社会は、専制国家に脅かされるか弱い民主国家という物語のイメージを語り継いできた(『スター・ウォーズ』や『銀英伝』とか)。だが、わたしどもの今日置かれた世界はこの物語的なイメージを否定しがちである。議会制民主主義という形態に、経済的な合理性の面で立ち向かえる制度が結局の所存在しえず、途方もなく強力な民主国家がか弱い専制国家を震えさせる有様となったのである。ヴァーホーヴェンの『スターシップ・トゥルーパーズ』を想起してもらいたい。これはそんな世界イメージを描写しえた物語として、もっと評価してしかるべきではないかとわたしどもは思う。
近代化は、民主主義が他制度を押し潰して地球上から放逐して行く過程である。専制主義が滅亡するのは、その制度が人類の求める普遍的な理念に叶わないから(あるいは叶うから)というよりも、他制度に圧倒されないような物理的な担保を確保できなかったからである。そんな世界でわたしどもの見出す物語とは如何なるものになるのだろうか。虚勢を張る弱小独裁国家が火の海になるやけくそな破滅の美学や、弾圧者が弾圧される攻守転換な物語が、わたしどもの効率的な感情高揚に際して注目されるのではないか。
有機的に存在しえなくなっても、その思考の様式が生者の行動を制約している時点で、かれは此処に居ると言えなくもない。この場合、かれの存在形態はその遺された思考を波及せしめることのできた生者の行為の中に体現されている。
恋人が失われていても、その思い出は生者の行為を制約し続ける(例えば『めぞん一刻』『天才マックスの世界』)。しかし、深津絵里が失った恋人の名を他者のハンドル名に見出したとき、彼女にとっての世界は変容する。過去の制約は未来を形成する契機となる。
不在者の思考が他者に連関して行く様を見るのは何となく楽しい。それは、誰かが居なくなったとしても、その断片は何処かで生存を計れるかも知れない可能性を、わたしどもが知っているからである。
しかしながら、2002/11/25の日記へつづいてしまうのが無念だったりも。
ギャルゲーでわたしどもが転校生のおねいさんと衝突する情景は、行き過ぎた様式化として批判されなければならないのだが、一方でそこには、今進行しつつある物語が間違いなくギャルゲーに相違ないという確証に由来する安心感みたいなものがある。時代劇で悪代官と悪徳商人が入札の談合[注1]を行ったり、父娘家庭のおとっつあんが病弱で咳に苛まれたりする行為の中にも、わたしどもは似たような安堵感を発見することが出来る。様式的な行為が、物語らしい物語(定型的な物語)の存在を保障するように思われるのである。この安心感は、演技しないような演技が展開される今日的な和製テレビドラマの内には、発見しがたい感覚かも知れぬ。
鑑賞者の保守的な安心感を誘起する様式的な情景のパターンは、同時に、物語の展開ヴァリエーションを拘束する。物語は限定された素材から出発して、異なる到達点を目指さなければならない。例えば、『暴れん坊将軍IV』の一情景[注2]は、咳き込むおとっつあんとそれを心配する娘から始まる。物語はその進捗の中で「おとっつあんが赤穂浪士唯一人の生き残りで娘は死んだ同僚の子どもであった」と云う人格発見を敢行する。『エネミー・オブ・アメリカ』のジーン・ハックマンであり、詰まるところ、悶え気味だ。
物語が特定ジャンルの制約の下に置かれながら、そこでいぢらしく物語を展開していく様は美しい。しかし、様式的なジャンルから出発した物語が、最後までそこに留まらないこともある。あるいは、全く別のジャンルへ移行してしまう物語がある。今日の流行を鑑みれば、後者の方に時代の潮流があるようにも思う。
[注1]
今日に於いても『水戸黄門』はステレオタイプな悪代官の描写に命を懸ける。素晴らしいと云う他に言葉がない。
[注2]
話数不明。すまん。
2003/01/21の続き
マンボ好塚先生の過去人格発見モードが、戦災の焼け野原を端緒とするのは、如何にも物語的ではないか。わたしどもはそんな土田世紀的なあざとさにらぶらぶであったりする。好塚先生の弟が、靴磨きを過重に強いられたことに起因すると推測される肺病[注1]を患い、始終咳き込む情景も様式的で転がり気味。弟は死にドラム缶の中で焼かれ、好塚先生のその後の人生を動機づける。その過去は、好塚先生がカンパチに弟の幻影を見出す内に発見される。トラウマはアル中[注2]に苛まれ人生が凋落する中にあって再現される。
過去の事象に由来する行為の偏向としてのトラウマは、それが再現された際、彼は失われた過去と再会することになる。カンパチの中にトラウマを発見した好塚先生は、とても素敵なタイミングの死に際で、弟そのものの幻影と出会うことによって、失ってしまった人生と人格の回復を完結させる。
好塚先生とは異なり、明治一郎のケースでは、過去は挫折の中で些か唐突に去来する。ただし、その発見の過程では、彼が喪失してしまったものは、虐待された思春期の中で慰みにした幻影という形で、より明確に定義づけられる。明治は人格を失う中で、幻影と離別をする。
彼の過去発見を通した人格回復は、好塚先生のように物語的ななだらかさを有しない感のあるものだが、喪失物がより明確に定義されている分、その再会は印象的で転がり気味だ。
過去は発見されて、人格の今に至る行為を説明するだけに留まることはない。それは、未来に於ける出会いをも規定し、わたしどもを悶えさせて呉れる。
[注1]
靴墨で肺をやられる様式に関しては『真夜中のカーボーイ』も参照。寒々しく転がれる。
[注2]
物語は過去発見と並行して好塚先生の難病克服物(『フレンチ・コネクション2』とか『ビューティフル・マインド』とか)を展開する。物語素は複数の詰め込みが必要ということなのだろうか。