2003年4月の日記

 2003/04/03

レイフェル・A・ラファティのおねいさん観
人格造形と変動の事例研究:『つぎの岩につづく』感想文

わたしどもは優しいおねいさんの胸に飛び込んだりするのが大好きであるが、ラファティの嗜好はわたしどものそれと微妙に似ていて、微妙に違う。ラファティはおねいさんの胸に飛び込みたいと心から願うのであるが、それらのおねいさんには優しいというよりも精神的・肉体的に豊穣であるという表現が似合う。愛する旦那を子供のように抱き上げたり[注1]、100kgほどの雄鹿を電波飛ばしながら担ぎ上げたり[注2]、交際相手募集クラブに入り浸り[注3]になったりするおねいさんたちである。

物語における人格変動理論に基づけば、おねいさんの魅力を当初形成する良性の属性は、物語の進行過程で表出するおねいさんの知られざる属性に取って代わらねばならない。あるいは、物語内のイベントがおねいさんの人格的成長・変動を促さなければならない。

電波を飛ばし鑑賞者に違和感を与える「つぎの岩につづく」のおねいさんは、自己が余命幾ばくもないことをファンタジーな方法で知っている。限定された生存期間の認知に由来する娯楽に関わる物語であり、かつおねいさんのその様な人格が発見される物語である。

「問答無量」は人格を発見する物語ではない。イベントによっておねいさんの人格が変動する物語である。外向的なおねいさんは、自己の社交性によって招来された過重コミュニケーションに疲弊して、出家する。その害がおねいさんの精神に留まらず、社会性を帯びる規模にまで拡大する様が切なくて楽しい。

「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」はどうであろうか。特におねいさんの人格がダウナーな方向性で発見されることも成長することもない。おねいさんは最後まで戦い続けて、肉片になって飛散する。

いずれの作品にせよ、去ってしまったおねいさんの後には途方に暮れるおぢさん達が取り残される。ギャルゲーなどを終えた後に虚弱になった頭を抱えるわたしどもの相似形である。



[注1]
レイフェル・A・ラファティ 『つぎの岩につづく』 早川書房,1996年,46頁

[注2]
同書,56頁

[注3]
同書,156頁


 2003/04/05

つついた藪からおねいさん。そして…
レイフェル・A・ラファティ 『みにくい海』 感想文

わたしどもが出会うのは、片足の悪い12歳の娘である。斯様な娘に悶心を催されるわたしどもは、すかさずらぶらぶ光線を発射する。最初は素っ気のない娘も、光線の放射に曝され続けるに伴い、わたしどもにらぶらぶ光線を発射するようになる。教室の片隅でいつも暗い顔をしている里村茜が心を開くようなものだ。だが、あまりにも開かせ過ぎたらどうなるのだろうか。

娘はストーカーとなり、わたしどもの貞操を狙う。わたしどもは確かに片足の悪い童女は大好きだ。しかし、幼女愛好趣味のないわたしどもにとって、その「好き」は交配行為を含まない。幼女好きでないお兄ちゃんが、幼女に迫られる情景は萌えストックのひとつとして記憶に留めておいて良いと思う。

わたしどもとおねいさんの攻守転換は、物語動態の典型的な事例である。わたしどもはおねいさんに体は売ったとしても、その視線は彼方を向いていた。そんな渋いおやぢと取り残されてしまうおねいさんの物語。


 2003/04/08

線状ではない人格変動の事例研究
太宰治『斜陽』感想 その2

つついた藪からおねいさんの関連ごと

『ラブひな』はなるから景太郎へ主導権が移転する物語である。『ONE』ではみさき先輩から主人公へ主導権が移転し、『君が望む永遠』では茜から主人公へ主導権が移転し、『To Heart』では主人公からマルチへ主導権が移動する。だが、失われた主導権が再び取り戻される物語もある。例えば『斜陽』である。以下、あらすじ…。


おねいさんは小説家の上原さんにらぶらぶな感情を特に抱いているわけではなかった。一方で上原さんはおねいさんにらぶらぶで、地下室の階段でおねいさんにいきなり接吻をしたりする。この時点で、主導権を握っているのは一方的に愛されているおねいさんである。

だが接吻後、今度はおねいさんが上原さんに悶々とするようになる。三通ほど恋文[注]を投函するのだが、上原さんからはなしのつぶてで、おねいさんの悶々度は上原さんのじらしテクニックによって更に上昇を見る。主導権は上原さんに移転したのである。

最愛の母親が亡くなったことをきっかけに、おねいさんはキレて上原さんを求めて上京する。おねいさんと再会した上原さんは「しくじった。惚れちゃった」とのたまい、おねいさんは「気障ですわ」と返したり、つまり二人して恥ずかしく悶々する。嗚呼、太宰治。

しかしながら未だに自分にぞっこんな上原さんと悶々している内に、おねいさんの感情は冷めてしまう。おねいさんは上原さんと一晩寝ただけでとっとと田舎に帰ってしまう。主導権は再びおねいさんの手元に戻ったのであった(因みに翌朝、弟自殺)。


[注]
おねいさんは上原さんのことを「にくいひと。ずるいひと」とよく表現する。恋慕の対象者に対する古典的な形容手法のひとつであるが、『君望』で主人公にらぶらぶになった茜が「ずるいです〜、ひどいです〜」等と同じ形容を用いて鑑賞者を転がすのを見ると、いまだ使える技法のようにも思える。メモをしておこう。


 2003/04/10

おねいさんに拾われる
水月』感想(その1)

わたしどもが記憶の無く身寄りのないおねいさんを拾って嬉しいのは、彼女にはわたしども以外に頼るべきものがない故に、わたしどもに好意を抱いて然るべきだからである。わたしどもに拾われるおねいさんは保護の対象であり、従って「だっこしてなでなでしてぷにぷにしてすりすり」する対象になる。しかし、もしわたしどもが記憶を失って優しいおねいさんに拾われたらとしたらどうであろうか。わたしどもは万難を排してでもそのおねいさんの「胸に飛び込んでなでなでしてすりすり」してもらわなければなるまい。『水月』の雪さんはそんなおねいさんである。

へたれもてもて状況の文脈からは、雪さんを「身寄りのないおねいさん」と「メイド」人格の複合体と定義づけることが出来る。両親を亡くして身寄りを失った幼い頃の雪さんはわたしどもに拾われた。雪さんは恩義を感じる余り、わたしどもの専属メイドと化す。詰まるところ、わたしどもに雪さんがらぶらぶになるのは恐ろしいほど自然の摂理であり、従ってわたしどもは幸福なのである。そして、かつて身寄りのないおねいさんであった雪さんが、今度は記憶を失って身寄りを無くしたようになってしまったご主人様を拾ったとき、彼女のらぶらぶ光線は惑星破壊級に増幅される。

雪さんの荷電粒子砲な「姉萌え(保護対象者への過剰な愛情志向)」は、わたしどもご主人様への性的な嫌がらせと云う形を取るようだ。例えば、雪さんの過剰な献身に顔を赤くするわたしどもを見て、彼女はわたしどもに熱があると解釈し、おでこで熱を計ろうとする。動揺するわたしどもに「動くと間違ってキスしちゃいますよ」などととんでもないことを云う。それで…

「冗談ですよ。雪はご主人様のいやがるようなことはしませんよ〜」
「雪さんにキスされるのはいやぢゃないよ〜」
「ぢゃあ、しちゃいますよ〜」
「ほええ〜」
「うふふ、嘘ですよ〜」

こんな事をされるとわたしどもは呼吸が出来なくなってしまう(©國府田マリ子)。朝起こすとき耳に息を吹きかけてくるのもたまらない。死んでしまう。


ご主人様へのらぶらぶ攻撃に命を懸ける雪さんであったが、無理がたたって倒れてしまう。夢と冒険に溢れる病気イベントの到来である。萌えの発生源のひとつは基調的な人格からのずれに求められるゆえに、ご主人様を攻撃する一方であったそれまでの立場が逆転して、ご主人様の看病優しさ攻撃に曝されて辱められる雪さんは死ねる。たすけてくれ。


ゆきさんゆきさん〜〜〜〜


凄まじい雪さんのらぶらぶ光線に曝された主人公は、徐々に幼児退行する。「姉萌え」は保護対象たる人格の年齢が低いほど、萌えの効果が高い。物語の進展に伴い、運動が出来て頭脳が優れてる人類の敵のような主人公がへたれてゆくのを見守るのはなかなか快い。わたしどもは雪さんに甘やかされて、雪さん無しに生きられなくなり、夜が怖くて毎晩雪さんに添い寝をしてもらわなければならなくなる。素晴らしい。気が狂う。


ふえ〜〜〜〜〜〜ん、ゆきさんゆきさん〜〜〜


しかし、これまでの人格動態の議論から解るように、主人公は幼児退行を止めなければならず、同時に雪さんは保護者の身分から墜ちねばならない。現況に於ける攻守関係は最終的に転倒されなければならない。そうでなければ、物語は鑑賞者の感情高揚の誘起に失敗しかねない。主人公の幼児退行によって「姉萌え」の極致にたどり着くことが出来た『水月』は、それが余りにもうまくいきすぎた事自体によって、人格動態の演出に失敗してしまうことになるのである(つづく)。


 2003/04/11

欠落した人生の動機
『水月』感想(その2)

非日常によって顕在化する人生の動機と云うものを考えてみたい。潜在的に課せられていた人生の目的・制約要因が非日常の到来によって物質的な障害として立ちふさがったとき、彼や彼女は如何なる解決行動をとるのか。わたしどもはその様な情景に転がりやすい感情の構造を有しているらしい。

例えば、みさき先輩の人生に於ける障害としての人生の動機は、視覚障害であることだ。目の見えないことによって、みさき先輩の行動範囲は学校内に限られている。そして、卒業という学校追放イベントが到来し、盲導犬としての主人公を失った時、みさき先輩のおりなす問題解決行動は、わたしどもを悶え狂わせる。

フォーマットの特性から、非日常に解体される日常を語りやすいギャルゲーでは、人生の動機に関わる斯様な形式の物語が成立しがちだ。『To Heart』も『AIR』も『加奈』も、「人生の動機→非日常→解決行動」の枠組みから眺めることは可能である。


  みさき先輩
動機 視覚障害(行動が学校内に限定)
非日常 卒業と盲導犬(主人公)の喪失
解決行動 盲導犬の精神的遺産による自由の獲得


  マルチ
動機 試作機(恒久的な奉仕の不可能性)
非日常 試用期間終了
解決行動 データの継承に存在の合理化を求める


  観鈴ちん
動機 孤児(家族不在による孤独)
非日常 死病に罹患
解決行動 家族の獲得


  加奈
動機 難病患者(死への恐怖)
非日常 症状悪化
解決行動 人生の定義付けによる恐怖との対決


では『水月』もこの枠組みで語ることが出来るのだろうか。確かに、主人公にも雪さんにも人生の動機は用意されている。マザコンの主人公には母親の欠如が、雪さんには両親の欠如による孤児な感覚を潜在的に見ることは出来る。だが、この二人が互いに萌え上がるほど、人生の動機は消散してしまう。主人公にとって雪さんは母親代わりになり、雪さんにとって主人公は両親に代わる庇護者になり、両者の人生に於ける制約要因は補完される。いちゃいちゃする日常を送る事自体が、すでに解決行動そのものになっているのである。非日常でクローズアップされるべき人生の動機がそもそも消失しているのならば、人格は非日常時に問題解決行動をとりようがない。解決すべき対象がないからだ。

『水月』の非日常は雪さんの消失によって始まっている。つまり『水月』は、一度は達成された日常の回復を課せられた物語である。主人公がすでに経験したものが問題解決の目的になるのだが、その目的設定はこれまで手に入れることが出来なかったもの(もしくは、手に入れる寸前に失ったもの)を巡って非日常のもとで悶えるみさき先輩やマルチのそれと、もはや質的に異なりはしないだろうか。

わたしどもが雪さんに再会して、その胸に飛び込んで膝枕をしてもらって「雪さんは一生僕の専属だよ〜」と身悶えしたりするのは、いつかどこかで見た情景である。しかしみさき先輩がわたしどもに再会して胸に飛び込んだとき、彼女の盲目な視界に入るものは、これまで何処にもあり得なかった世界だったのである。


 2003/04/21

貧乏性の産む美意識
2000馬力 夢の又夢

設計の堀越たんは考えました。

「おなじ出力であれば軽い方が強そうぢゃん」

詰まり、零戦とはそう云うものだと思うのです。1940年代初頭の戦闘機用エンジンは英国製、独逸製とも概ね1000馬力を越えようとしていました。しかし零戦に積まれた中島製エンジンが1000馬力の壁を越えるには、おおよそ後二年の歳月を必要としていました。出力の低さは機体設計や重量軽減で補わなければならず、堀越たんは出来るだけ機体を絞り込むことにしたのです。目論見は短期的には大成功し、長期的には失敗に帰してしまいました。

わたしどもが独逸製のBf109や英国のスピットファイアの時系列的なカタログデータの推移を眺めて驚きを感じる事は、開戦時に1000馬力くらいだった発動機の出力が、五年後の終戦時には2000馬力にまで達しているいぢらしい様です。1945年代に至るも1130馬力の栄二一型で戦わなければならなかった零戦に、ようやく1500馬力のエンジンがつくのは45年の春の事でした。しかし、それも量産に至ることはありませんでした。


1000馬力から2000馬力へちくしょうめ


同じ様なサイズの機体に倍も高出力な発動機を載せられ得たことは、発動機側、機体側それぞれの事情に帰せられると空想してみましょう。似たような容積で二倍の出力を発動機に生じせしめたのは、発動機に関する技術の進歩なのですが、一方で発動機にその様な進歩を許すような余裕を保障し得た機体側も、実用的な2000馬力戦闘機出現の一役を担っていたのではないでしょうか。1000馬力級の発動機に合わせて絞り込まれた零戦の機体で2000馬力級のエンジンを搭載するのは、大幅な機体設計の変更を要する作業ですが、これ以上に無いほど成功してしまった機体に手を加えることは、その機体設計の優越性を喪失する事でもありました。また、余裕のない機体に2000馬力の発動機を載せるためには、発動機の設計も余裕のないものになってしまいます。1000馬力級のサイズで2000馬力を達成しようとした誉エンジンは、その無理強いが発動機の不調を頻発させることになりました。零戦の余裕無き機体は、1000馬力代でレシプロ戦闘機が飛び回っていた時代には極めて優位な立場にあったのですが、同時にその余裕の無さが内包する発動機の進歩を困難にしたのでした。


それから半世紀が経ちました。鼻糞をほじりながら『モデルグラフィックス』の74式戦車改造談義をぼ〜っとながめていたわたしどもは、「ななよんは職人芸で詰め込むだけ詰め込んだ戦車だからセンチュリオンみたいなパワーアップはむりでしゅ〜」と云う一文に既視感を被りました。


詰め込むだけ詰め込んで極限にまで絞り込んだものには、美があります。日本刀や零戦や74式戦車の造形に萌え上がることが出来るわたしどもの根底には、その様な美意識を見出すことも出来るでしょう。では、なぜわたしどもは斯様な切り詰める思考や様式に美意識を抱いてしまう心象を有しているのでしょうか。結局の所、何らかの機械を製造せしめる物質的な資源の入手に際し、比較的な困難性に直面せざるを得ない環境に置かれた共同体は、貧乏性を発達させなければ生き残りを計ることが出来ませんでした。貧乏性への斯様な愛は、そんな環境に放り込まれてしまった事への肯定的な理由付けのように思われるのです。


グラフの参考

零戦

  • 1940〜41 → 栄一二型(離陸出力940hp)
  • 1942〜44 → 栄二一型(離陸出力1130hp)
  • 1945 → 金星六二型(離陸出力1560hp)


  • Bf109
  • 1940〜41 → DB601N(1200hp)
  • 1942 → DB601E(1300hp)
  • 1943 → DB605A(1475hp)
  • 1944〜45 → DB605D(2000hp)


  • Spitfire
  • 1949〜41 → MerlinII(1030hp)
  • 1942〜43 → Merlin61(1565hp)
  • 1944〜45 → Griffon65(2050hp)



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