十一月 二〇〇二年

 


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2002/11/25


失禁をもたらしめるあの恐怖の克服問題
篠田節子『聖域』

厭らしい言い方をすれば、信仰無き近代人が苛まざるを得ない恐怖というものがある。「精神とか魂とかいうものも、肉体というハードウェアを無くしては存在しない」[注1]ことから来る、自己がいなくなってしまうことへの戦慄である。

難病物は、自己消失への肯定を考える様式であると述べたが、いなくなってしまうという事実に関しては、人間全般に妥当することであるので、その意味において、難病物に課せられる問題は広範な一般性をもって、われわれに襲いかかることになる。

宗教は、穏当な解決案として、長らく人々に愛されてきた思考の様式である。しかしながら、認知が生化学の反応によって成立する考え方に実感を抱くにんげんにとってみれば、死後の世界云々は納得あるお話ではない。

そこで、「灰から灰へ〜♪」などと全てが皆無になってしまうことへの侘びしい情感へ物語が向かうのは、避けなければならないことである。「死ぬのは嫌ぁぁ〜」という恐怖の緩和にあまり役立たないからである。求められるのは、信仰に頼らずに、いなくなってしまうことを肯定するような考え方だ。

まず、考えられたのは、物理的肉体は無くなってしまうものの、当人が他者の記憶に植え付けた自己のイメージは残存するので、何もかもが無くなってしまうわけではないという思考方法である。卑俗にいえば、「みさき先輩は俺様の心の中で永遠だぜい!」となる。

本書でもこの考え方について触れる箇所がある。だが、これも恐怖の緩和に繋がるかというと心許ない。誰かの思い出になろうとなるまいと、自我の継続性には関係のないことだからである[注2]

結局の所、『聖域』では、訳の分からない内に主人公が「汎神論ハッピー」な境地に達してしまい、問題への追求はそこで終わってしまう。闇に取り残されてしまったわれわれは、あらためて問いを投げかけざるを得ない。なにかうまい考え方や解釈はないものだろうか、と。


[注1] 文庫版のP380を参照
[注2] グレッグ・イーガンがよく扱うところ。


 

2002/11/21


平面に空間を見出すための諸手法
よくあるディープ・フォーカスのお話

空間の描写は、まずカットを割ることで、表現し得るだろう。同一点を複数の視点で照合することにより、其処に何かしらの立体感が生まれるだろう。円谷特撮の頻繁なカット割りも、偽造物に空間的な実存感を与える試みとして、解釈するのもありかも[注1]

では、カットを割らずに空間を表出する方法はないだろうか。ひとつに、遠近感を強調するレイアウトを作ることが考えられる。遠近感を強調するには、奥まで焦点を合わせて、近接した物体と奥の物体とを同列の鮮明下に置くことによって、その距離感を際立たせねばならない。つまり、ディープ・フォーカスであり、『市民ケーン』である。

オーソン・ウェルズがディープ・フォーカスを多用した動機には、彼の舞台人たる経歴にヒントがあるように思える。舞台は基本的にフレームが固定され、映像作品のようにカットを頻繁に割ることは困難である。そこで、フレームを固定したまま空間を表現しようとする手法への欲求が生まれたのかも知れない。

固定フレームと遠近感による空間の創出は、ほとんどカメラワークが固定される小津安二郎作品にも見ることが出来る。二等辺三角形が手前と奥に並べられるレイアウト[注2]は、言葉を換えれば、遠近感の強調であり、フレームを固定する為に不可欠な手法だったのである。


[注1]
円谷特撮をそのように解釈したソースは…あ〜忘れてしまった。


[注2]
恐ろしく明快な例を挙げれば、『秋刀魚の味』の冒頭では、工場の煙突がそんな風に配列されている。


 

2002/11/18


交差する時流及び自覚される喪失の時期
星野之宣『遠い呼び声』と梶尾真治『時尼に関する覚え書』

過去を志向して成長(物理的にも精神的にも)をおこなう人格と出会った場合、それをわれわれは、幼児退行と解釈するだろう。退行の行く末は白痴化であり、意志疎通の不可能性である。その人格をわれわれが失ってしまうと言ってもよく、つまり、そこに快楽的難病物の条件が揃う。喪失の明確な予定化が可能になるのである。

『遠い呼び声』では、主人公が、人生のある時点で一定年齢を保ったまま過去を遡る。彼の感情の対象となる人格は、結果として、退行して行く。他方で、梶尾真治になると、感情対象の人格が、過去を志向する成長を行う。主人格の位置づけはどうであれ、彼女が比較的明瞭時期において、失われることには両者とも変わりない。

異なる点は、『遠い呼び声』が彼女に接触不可能(声をかけることしかできない)で逆行する人生を俯瞰するだけに対し、『時尼に対する覚え書』では、触りたい放題であるところ。マンガとテクストというメディアの違いもあって、それぞれ印象には微妙な違いが見られる。前者では「見ることしかできな→切ない→ゴロゴロ」と接触不可能性に感情誘起の源泉を置いている。後者では、親近な接触が続くだけあって、記憶が失われていくことが明瞭に把握される。「どんどん忘れて行く/迫る喪失→切ない→ゴロゴロ」である。両者とも「切ない→ゴロゴロ」の度合いは鰻登りで、辛抱たまらない。

なお、『時尼に関する覚え書』は、未来から過去へ進捗する日記を、喪失進行の時間的な特定に用いられたが、グレッグ・イーガンの『百光年ダイアリー』でも日記が未来を厳密に特定できる装置として用いられている。ただ、そこで問題とされるのは、特定化された未来と自由意思の関係であるので、切なさはあまりない。

 

2002/11/15


記憶の過剰な喪失を巡る本当に忘れてはならないものについて
梶尾真治『サラマンダー殲滅』

記憶の段階的な忘失は、魅惑的な様式であると述べたが、没却の進行が過度になると、その切なさの根幹となるものが自壊する恐れもある。このことは、「自覚による切なさの誘引」と関係している。

何かを忘れていく過程において、鑑賞者の感情を引きつけるのは、希薄になりつつある記憶に対して、当人が示す感情的な反応である。ゆえに、当人の「じぶんが何かを忘れつつある」という自覚が、そこでは前提になる。しかし、記憶喪失の進行は、その自覚すら忘却に追いやってしまうのである。

その段階に至り、当人の“失われる記憶に戸惑う切ない”人格性は、「幼児退行・白痴」型へ移行する。こうした類の人格は、鑑賞者の移入を受け付けないため、感情の焦点は周縁の人物へ向けられたり、或いは、あらたなる人格的な動態を果たさなければならない。

ただ、後者の方向に物語を持っていく場合はともかくとして、前者のケースのように感情の焦点を移ろわせてしまうと、鑑賞者の深度ある移入に失敗するかも知れない。だから、最初から、思い出を失う人物ではなく、その周縁にいて、結果として意識ある彼や彼女を失ってしまう人物を、感情誘引の中心に置くのはどうだろうか[注]

この観点に立てば、主人公が空になってしまう本作よりも、主人公にとって親近な人物が退行するグレッグ・ベアの『火星転移』の方が、切ない印象を受ける。本作はむしろ、「もてない中年男の恥辱まみれな恋愛」が恥ずかしくて、転がり気味だ。



[注]
けっきょく、『
みさき先輩』ということになる。

 

2002/11/11


妹物に見る嫉妬の恋愛感情への転換
山田恵庸『チャンバラ 一撃小僧隼人』

お兄ちゃんに意中なる人物が出現すると、妹は嫉妬するものであるが、お兄ちゃんの熱を上げる相手が彼と同性である場合、つまり男であるのなら、当初は憎しみしかない関係が発展する余地もありそうである。

嫉妬する妹
山田恵庸『チャンバラ 一撃小僧隼人』 #2 P8



憎々しい奴→案外良い奴→らぶらぶ♪」と云う、人格発見の大通りを軽快に通行せしめられる人格の配置である。しかし、たとえお兄ちゃんが同性愛者ではなくても、捻れた形であれば、この様式は実現しうるとも思われる。お兄ちゃんではなく、妹をホモセクシャルにしてしまえばよいのだ。

そこで、ひとつの焦点になりうるのは、敵愾心の対象たるお兄ちゃんの彼女に性愛を感じ始める自己の知られざる属性への妹自身の戸惑いだろう。『イン&アウト』とか『アリー My Love』や香港映画の『君さえいれば』 みたいなものか。

あと、本稿とは関係のない議論だが、本作ではこんなカットも出てくる。

メイド化する妹
同上 #2 P19


メイドのコスチューム・プレイを行う妹であるが、これは人格複合の事例として、記憶にとどめておくべきだろう。

 

2002/11/04


基調人格逸脱萌えの類型
「強気のおねいさん→しおらしくなる」事例研究

意外な人格の表出は、鑑賞者の感情に強い働きかけを行う。例えば、強いおねいさんに辱めを感じさせたらそれは典型的な萌になりうる、と云う議論であったが、では具体的に、如何様にすればそんな情景を描出できるのだろうか? その一例を玉越博幸『ガチャガチャ』に見てみよう。

第10話11頁

玉越博幸 『ガチャガチャ』 #10 P11

第10話11頁

同上 P11

姑息だよな〜

同上 P12


…21世紀にもなって、何をやっているのか。そんな想いも漏れそうな感じなのだが、人類ここ千年、考えることにさほどの進歩も見られないと思えば、この程度のことはアナクロとさえ云えない――様な気もしないこともないこの秋いちばんの冷え込みであった。