2003年10月の日記

 2003/10/01

恋愛の不安
グレッグ・ベア『天界の殺戮』読書感想文

二年前の秋、階段から転げ落ちてきたドジなメイドロボと出会ったわたしどもは、「浩之さんですか? 素敵なお名前ですね〜〜」と彼女に云われた時、野蛮な雄叫びをあげた訳であるが、その感情を形成する由来をたどれば、人様をらぶらぶせしめる様に作られたメカは、たとえ他者の好意を享受し難いダメダメなわたしどもであっても嫌わないで居て呉れると云う心底に広がる情けのない安心感にたどり着いたのであった(へたれもてもて状況)。この安心感は、また、恋愛の主導権にまつわる地位の優位性によって補強されているとも云えるかも知れぬ。わたしどもにらぶらぶな他者に対して、わたしどもが一方的な影響力を行使できる事から来る優越感である。そして、多くの物語は、わたしどもに与えられた主導権がやがて失われ、今度はわたしどもの方が他者の圧倒的な影響下に置かれて逝く情景を描いている(線状ではない人格変動の事例研究)。

らぶらぶな二者関係が、嫌わないで呉れと云う関係の潜在的な解体可能性への恐れを基に描画されると、物語に不安が醸成され、それがキャラクター達に人生の動機を与える事もある。斯様な不安は、例えば両者に子どもが出来て、関係が別の視点で評価しうる様に至ると、解消したり或いは別の不安と取って代わったりする。しかし、それが叶わぬケースにおいては、漠然とした不安は継続される(ウディ・アレンの『ハンナとその姉妹』や夏目漱石の『門』とか。いずれも子どもの出来ない夫婦の物語である)。ベアの描いた、生化学への人為的な介入によって子どもの生まれなくなった集団の物語に於いても、それは然りで、物語は対他関係の政治的な不安を語り、子を産みうる安住の地と云う抽象的だが強力な動機を与える。


ところでベアと云えば、転がれる高湿度な後日談がらぶらぶである。可能的な未来の切なさが暴発してしまう『ブラッド・ミュージック』も人生を俯瞰する『火星転移』もらぶらぶであるが、本作の後日談をして鑑賞者を転がらせしめるのは、これからいなくなろうとする人格の思索である。集団に奉仕してきたメカが期限切れを迎えるに当たって、遠く未来を見つめる視点であったり、狂気の最中におかれた精神によって、そのバランスの代償として生み出された別人格が、平穏を迎えるに当たって役目を終え、消えようとする際に想う宿主たる精神への感傷である。ジェイムズ・ブリッシュの『芸術作品』とか『編集王』の明治一郎みたいな感じで、心地の良い転がり具合であった。


 2003/10/04

収録如きの為に夜明けまで待たされて多少不愉快になり、そのまま新宿へ出て映画を観る事にした。映画館へ行くのは、恐らく今年は初めてだ。朝が早かった為か、東口に路上生活者の人々が転がっておられ、「基準人生からの逸脱とリスクの問題、その見本市だよぉ〜、怖いよ怖いよ」と訳の解らない混乱に動揺しながら、這々の体で映画館に駆け込んだ。

混迷する物語の最中で永作博美の呟いた妙にメタな台詞に笑ったのは、館内ではわたしどもの斜め前に座っていた、わたしどもと同じような格好をしていたお兄さんだけだけだった。黒沢清を男一人で観に来る様な輩は皆わたしどものお友達だ。おめでとう。

帰りに寄ったHMVで『天才マックスの世界』と『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』のサントラを探すも、見つからず。代わりに小津映画のサントラ集を見つけて喜ぶ。

帰宅して5時間くらい寝て、会社に出た。ペイントのお姉様たちの愚痴を聞きながらスポッティングをした。作業している内に、まともなサウンド・エディタの必要性を感じ始め、金策を考える。作業が終わったのは、三時過ぎであった。


 2003/10/06

作為的な身体のレパートリー
小林泰三『玩具修理者』読書感想文

身体の作為性を発見してしまった為に、自我の危機を迎えるお馴染みの様式。前にも言及した様に、自己の身体に於ける構成上の有り様がどうであれ、日常生活に支障がなければ鑑賞者に深刻な実感を与えにくいので、作為的人体を発見する過程の方が語りの対象になる。機械的なイメージで表現される事の多い身体の作為性が、やや有機的な色彩で描画されている点が、目新しいところかも知れぬ。困った事に、松屋でトマト煮込みハンバーグを喰っている所で、人体の解体が始まってしまい、少し当惑した。


 2003/10/08

第四次中東戦争のトラウマを克服する為に
戦車不要論等々

「成形炸薬弾が巷に溢れている昨今、MBTを運用する意味なんてあるのかしら、おにいさま」

「砲迫支援下にある縦深陣地を攻撃せねばならない状況を想定すれば良いのでは? 対戦車誘導弾を積んだソフトスキンや軽いAFVでは、榴弾の破片に抗堪するのが難しいのだよ、きっと」

「でしたら、重いAFVにミサイルを載っけてあげれば素敵ですわ。アチザリットみたいできっと萌えますわ」

「そんなもの作るくらいなら、滑空砲載っけた戦車作った方が早いよ。そもそも撃てるのがHEATだけで榴弾が使えないと、人を殺傷できないぢゃん。別の考え方をすれば、MBTの重さには二つの意味があると思うんだ。徹甲弾の侵徹に抗甚するのは云うまでもない事だけど、同時にこちらが発射する砲弾の運動エネルギーに堪えうるには、車体にそれなりの重量が必要なんだよ。HEAT弾だと砲弾の初速は貫通能力に余り関係ないし、だからこそ携帯が可能で、ソフトスキンにも載せられる。でも、それをMBTの車体の様なものに載せてしまうと、その重さには装甲と云う機能以外に意味が無くなってしまう。本来のMBTの持つ重さの意味に比べて、機能の効率性が半減してしまうんだ。一粒で二度おいしいロベルト・ベニーニのシナリオを想起すべきだね」

「でも、おにいさま。アパッチが出てきたら、何もかもが終わりになりますわ。『大戦略』で何度涙をのんだ事か…」

「アレは狂っていると云う他に謂いようがない。ペトリオット十数個中隊が連隊戦闘団に配属されて攻撃ヘリを警戒する景観なんて、ほとんどファンタジーだよ。バルカン半島では停戦合意に至るまでヘリを飛ばせなかったと云うし、携帯SAMの普及した軍隊を想定した場合、ヘリの運用はかなり慎重なものになるのかも知れないなあ。もっとも、携帯SAMを普及せしめる事の出来る経済的な基盤を持つ共同体は、攻撃ヘリを運用できる共同体と戦争する動機を失っているかも知れぬが」

「最近、ゲームやってませんわね」

「半年前に『水月』をやったきりだよ。でもギャルゲーはあんまりゲームとは云えないしなあ」

これとかどうですの」

「いいなあ。でも、これもよさ気だな〜」

「ダメダメですわ」


 2003/10/10

頑強な自我継続
小林泰三『酔歩する男』読書感想文

相違する時流は、個体間の、自我の継続的な保存性の違いに由来すると考えられる。自我の保持を保証する身体が、メカであるとか或いは相対論な事情により、他者のそれに比べて生存の期間が延長されると、別離の偏在に伴う切なさが炸裂してしまう。自我の時流に対する抗甚性が更に極端になると、自我は物理的な身体と独立して継続するようになる。例えば『おもいでエマノン』。自我が身体の乗り換えによって継承されるお話な訳だが、其処で切なさを現出させ得たのは、乗り捨てられた身体が継承されつつある自我の下にあった頃の記憶を失う設定にあった。

自我が身体を乗り換えて時流と独立する点では、『酔歩する男』は『エマノン』と似ている。もっとも、後者に於いて時間は不可逆的に捉えられているのに対して、前者では可逆的であり、自我は時間の局面の至る所で無作為に身体を乗り換え、混乱する。斯様な継続する自我を単一ではなく、二個体に設定し、時流の狭間で展開される両者のコミュニケーションを描写した事は、『酔歩する男』の物語に対する大きな貢献であると思う。時間を跳躍して身体を乗り換えていく継続的自我の互いに出会う事の希少さが、切なさに連結する事の発見である。

ただ、小林泰三の関心は切なさよりも自己の定義が崩壊する事に因る自我の危機に指向されている。通例、わたしどもは自己がやがて無くなってしまう事にイヤイヤな戦慄を覚えてしまうのだが、此処では逆に自己がいつまでも終わらない事が、自我の危機の一因となっており、そこはかとなく興味深い。


 2003/10/11

世界化する苦悩
夏目漱石『行人』読書感想文

由来の不明なものに抽象的な苦悩をされても、鑑賞者がその感情を共有するのは難しい。だから、物語は妻への不審と理解不可能性と云う実体ある苦悩を描く事で語りを始め、やがて苦悩が暴走して制御が不能になり、キタキタ〜とわたしどもを喜ばせるに至ると、その苦悩はある種の抽象によって規定される。ごく即物的な理由で醸成されていたと思われた生への不安が、社会の膨大な変容の代償として人類に共有される羽目となり、未だにわたしどもの生活の根幹を脅かし続ける社会病理に基づいていた事は、微少な家庭の物語を瞬時にして拡張してしまう。文明批評が、物語と今を生きるわたしどもの共有する背景を浮き彫りにして、わたしどもに物語を実感せしめる訳である。また、其処には個人の内面世界を天文学的なスケールに拡大するハードなサイエンス・フィクションの快楽に類似するものも感ぜられ、しみじみと転がることができる。

斯様な文明的な不安(わかりやすく謂えば「さみしいよ〜、さみしいよ〜」)は、『こころ』の先生のケースが、よりあからさまでわかりやすいと思う。ただ、『行人』と違って、先生の苦悩は冒頭に於いては由来不明であり、それが逆に由来を発見するサスペンスな求心力を物語に与えたりしていて、それで最後に苦悩が実体化し、同時にその抽象性が強化される動的な展開が、これまた転がれる。具体的な苦悩が抽象を持って説明されるか、或いは抽象的な苦悩が実体を持って説明されるか、過程は異なるものの、どちらも不安の由来を説明する物語には違いない。


 2003/10/14

「まずいよぉ〜〜。NHKの朝ドラ観ていたら、童女愛好癖が沸々と去来するのを感じるんだ。このままだと、成人のおねいさんを愛せなくなってしまうよ。どうしよう。助けて呉れ」

「大丈夫ですわ、おにいさま。人類の精神の寛容性にもっと信頼を置くべきですわ。童女愛好癖が、大人のおねいさんへのらぶらぶと両立しないとは限らないのですわ」

「それぢゃ、もっと救いがないよぉ」


 2003/10/16

発現する外的な精神
平本アキラ「第175話 滑空のトラッカー」『アゴなしゲンと俺物語』

社会の歴史的な進展を何やら形而上のものが顕在化する過程と考える古典的な寓話は、わたしどもの人生へ肯定・否定の両極端な意義や解釈を与えて呉れる。ポジティブに空想を膨張させると、矮小な人生が壮大な体系の下で意味づけられる感にニヤニヤと変態的な快楽を被りうるかも知れぬが、一方ではわたしどもの人生が、発現しつつある抽象物の媒体手段の様なものに過ぎないと云う虚無感もあり、其処に由来する人生の気持ちの悪い制御不可能性もわたしどもを苛めがちだ。


さて、空から降ってきたグライダーを才能の異様な発揮によって制御するゲンが、自身の滑空の有り様を「大空と一体になる」と表現する時、物語はその快楽を肯定していることになる。


『アゴなしゲンと俺物語』第12巻105ページ
平本アキラ 『アゴなしゲンと俺物語』 第12巻105頁


しかし、斯様な快楽を羨望してケンヂがグライダーの制御を試みると、物語は一転してグライダーを暴走せしめ、それに巻き込まれた彼らの人生を振り回した挙げ句、破壊してしまう。

制御者を失ったグライダーは、次なる搭乗者を捜して何処へと飛び去って行く。後に残された、ゲンとケンヂの破壊された身体は、わたしどもの人生の根元的な悲壮性を暗示しているかの様だ。


『アゴなしゲンと俺物語』第12巻114ページ
同114頁


 2003/10/18

救済の始源的な不可能性
赤松健 「eGirl Life」『魔法先生ネギま! 12時間目』

赤松先生の妄ずるユートピアは、不安と違和感の温床であると謂わねばならない。誰もが救済されなければならないと云う集団主義的な強迫観念に彩られた暗黒面が、わたしどもの動揺を誘う。しかし、本当に救済を必要とするものには決して救済が与えられることはない。救済されるのは、元々救済の必要性に薄い人々ばかりである。


長谷川千雨の物語は赤松先生にしては随分とダークな景観であるが、他方、その暗さが如何にも紋切り型で古典的な所は赤松先生らしい野暮ったさの表出とも云えるかも知れぬ。友達を持てない孤独な少女が、端末の向こう側に見る光と影の物語である。


『魔法先生ネギま』第2巻109ページ
赤松健 『魔法先生ネギま!』 第2巻109頁


標準的な倫理観を具有する多くの物語が現実なる世界への回帰を願う様に、赤松先生の物語も部屋に籠もる少女を幸福なる晴天の世界へ誘う。そして、其処で彼女が出会うのは赤松先生の深い精神の谷底、結局己を理解してくれそうもない世間の絶望の壁であった。物語は救い難きを救えなかったのだ。


『魔法先生ネギま』第2巻117ページ
同117頁


共同を謳う他者指向の物語では、孤立する内面指向な人格に対する救済が論理的に不可能な事もある。その世界にあっての救済は、他者との関係と同義であるが、そこから獲得しうる救済感そのものが不快であると、物語は彼や彼女が壊れつつ逝くのを傍観することしか出来なくなる恐れがある。この絶望感の行き着く先は、救済されうる者しか救済できないと云う強引な普遍化を経てわたしどもの到達する、救済された者への裏切り者的な感情かも知れない。


 2003/10/20

文明的な不安
絶望と救済の微妙な均衡

此処一世紀の間に産まれてきた物語に於いて、わたしどもは、わたしどもの所属する文明に由来する様々な寂しさの形を発見してきた。恋愛の不安定な在り方や、ごく個別的な家庭史が終局を迎え取り残されて行く老人たちの姿に垣間見える、逃れようのない普遍的な孤独を見つめてきた。わたしどもは百年を超える時間に渡って「さみしいよ〜」と悶え続け、いまでも寂しかったりするのだが、流石に此処まで寂しがり続けると飽和の感もあり、ロボアニメで強迫神経症になる中学生を見たりするに至っては、嗚呼、またもか…と嘆息しながら鼻くそをほじりざるを得ない気分になることも禁じ得ない。

前に、わたしどもはツァイ・ミンリャンや黒沢清をアンチ・エヴァな演出家であると特に説明もなしに指摘したが、これは、近代論を寂しさと云う人文的な見地で捉える立場からすれば、後者は些か古典的で、あきらかに前者の方が寂しさの最前線を爆走していると云う意味合いに於いての解釈であった。もっとも、此処でエヴァを引き合いに出すのは不公平な感も否めない。黒沢清はともかくとして、ツァイ・ミンリャンにあっては近代論の笑ってしまうほど教科書的な(それこそコーエン兄弟並の)視座が物語を規定しているのだが、エヴァの演出家とライターが物語を明白な意識の中で斯様な体系の下へ置いている訳でもないだろうし、またそのことは特段批判に当たることでもなく、意図は少し別の所にあったと云うべき事であろう。


わたしどもの直面する寂しさの最前線は、例えば、不安に苛まれる大正時代の旧制高等学校の学生のそれと、如何なる相違の基にわたしどもを寂しがらせているのだろうか。質的には余り代わらぬ様な気もするが、ただ近代化の進展に伴う寂しさの潜行しつつある深度と、一方での情報疎通の飛躍する技術的可能性の組み合わせが、寂しさにまつわる物語に新たな装いを与えて呉れているかも知れぬ。

これまでわたしどもの語ってきた文脈から見れば、ツァイ・ミンリャンの『Hole』は大変わかりやすい物語である。集合住宅の壁に穴があいた時に、恐ろしく孤立した隣人同士の間で疎通が発生し、世界が終末を迎える段に当たって、この疎通は決定的となり其処に不思議な感動が産まれる。わたしどもは自分がひとりぼっちではないことを知るのだが、他方で世界は終わろうとしている。

友達の居ない孤独なキャンパスライフを送る加藤晴彦の日常に転機が訪れる『回路』も、『Hole』と類似する軌跡を描いている。麻生久美子が「最後の友だち」を失う間際に経験する幸福感は、失うことは形態の変化に過ぎないのであり、従って離別に付随する孤独もあり得ないことを知った故なのだが、しかし同時に、世界は終わろうとしている。


皆がばらばらに離散して独りぼっちになると云うことは、逆説的には誰とでも繋がれる潜在的な可能性が開かれていると云うことでもある。この可能性は、媒体技術の進捗によって益々明らかになりつつあり、そして其処に希望がある。ところが、疎通の斯様な潜在的可能性の中での孤独は、繋がれる可能性があるだけあって、ますますその寂しさが強調されて仕舞いかねない。わたしどもには救済の可能性があるが、それは孤独という絶望の大海を浮かぶ孤島の様なものである。『回路』は、その大俯瞰なファーストカットとラストカットに於いて、海洋を漂う客船とその心細い航跡にそんな孤独の最前線にあるわたしどもの心情を託している。それは、そこはことなくらぶらぶな景観ではないか。


 2003/10/21

戯曲的な物の云い方をすれば、春は憂鬱で秋は絶望の季節な訳で、涼しげなる今日この頃がそこはかとなく心苦しい。因みに、夏と冬は暑すぎたり寒すぎたりして、何も考えられない。

アレは差し替えの為にカットの尺を調べていた時のことだったと思う。たまたま、小学五年生のヒロインのぶるまなお尻がモニターに大写しになっていて、それを見た上司のK氏が「良き絵哉」と随分と嫌らしい笑い方をした。

益々心苦しくなる秋日和であった。


 2003/10/22

先取りされる想い出
動的な時系列転換

感動の先取りの一種ではないかと思うが、『秋日和』の終盤に、原節子が娘の司葉子へ「今のこの瞬間をずっと忘れない」と云った様なことを述べるカットがある。彼女たちの状況を説明すれば、結婚を控えた娘の司と原は旅行へ出かけているのであり、詰まり、二人で斯様なことをするのもこれで最後と云う感傷がある。『秋日和』いちばんの転がりどころと云って良いだろう。

この直前に、二人は今はなき父親とこの旅先の地でかつて過ごした日々を回想して、しみじみモードを醸成している。その昔日を直に経験している頃の原も司も、父親との想い出でが、未来に於いてセンチメンタルに想起されることを余り意識をしていないだろうと思われるが、他方で物語の上で現在にいる原は、今まさにこの瞬間の情景が、未来の切ない想い出になることをはっきりと意識していて、その予想されうる感傷のフィードバックが、原と司を切なくしている。

原が想い出を先取りし得たのは、直前に思いがけなく過去の景観が想起された事に由来する学習効果である。そう考えると、未来の可能的な感情を現在へ誘起したのは、過去から去来する感情であったと云えそうであり、其処には過去・未来と方々から目まぐるしく規定される現在と云う時間が見てくる。また、メタに考えるなら、この時流はそこから跳躍した場所で物語を眺めるわたしどもの感傷にも波及しているとも解釈でき、時系列の動態性と云う物についてわたしどもに一考を促して呉れている。


 2003/10/24

デジタイズ中に同僚のHが「美紗緒たんだぁ。すげえ。かわゆい。むしゃぶりつきてえ」とモニターに向かって野蛮な雄叫びをあげ始める。童女愛好癖のひとつの終点の様に思われて、大変に恐ろしい。気をつけよう。


 2003/10/25

主導権の相互確証破壊
ドラマと均衡破壊

恋愛の主導権についての関連事。

受動的な恋愛の物語が、ダメダメな鑑賞者にとって許容される関係の在り方だとすれば、ギャルゲーは鑑賞者の代理たる主人公にまず恋愛の主導権を与えなければならなず、ヒロインは物語の冒頭に於いて、いわばデフォルトにわたしどもに熱を上げなければならない。この主導権はやがてヒロインの方に移転され、今度は主人公の方が彼女なしには生きられなくなる現象については、前にも述べた通りだが、見方を変えると、ヒロインの方が最初から最後まで主人公に対する恋慕が代わらぬのであれば、主人公の方にも主導権は残存することになる。結果として、両者が互いに主導権を握り合うことになり、此処に幸福な均衡を物語は見出すことになる。

『君望』のプロローグがわかりやすい。“らぶらぶ〜”→“乗る気のなかった孝之もらぶらぶ〜”→“ミートパイ記念日ぃぃ〜”←くそったれ、しね…と云う片務愛が相互愛に代わる成り行きが麗しい。わたしどもは斯様な共務的恋愛の形を主導権の相互確証破壊と呼ぶ様にしよう。そして、この定義づけの不吉な名前には訳もあって、『君望』のプロローグが物語的な惨劇で幕を引いてしまう様に、この均衡は物理的な暴力を持って破壊されなければならないのだ。

らぶらぶ真っ最中に雪さんがアレでナニしてしまう『水月』も、マルチが実はアレでナニでアレなのよ〜な『To Heart』も同じ解釈の範疇で語ることが出来るだろう。ただ、シナリオ工学上の効率性を考えれば、均衡が破壊されること自体が決定的な共務的恋愛の契機になる後者の方に分があると思う。


ところで、ギャルゲーの斯様な正統的とも云うべき恋愛の形を考慮に入れると、『ONE』や『AIR』にはやや異端の感がしないこともない。最終的に主人公もみさき先輩も主導権の美しい相互確証破壊に至る所は同じなのだが、それまでに至る過程が少しだけ異質で、ヒロインから一方的にらぶらぶされる、或いはヒロインに主人公がらぶらぶすると云う恋愛の形がデフォルトとして成立しておらず、冒頭で二者の関係は友情に近い物として描画されている。観鈴ちんのケースにも同様のことが当てはまるだろう。

また、『家族計画』の末莉だと主導権の相互確証に至った段階で物語が終結して、均衡が破壊されることはない。むしろ、設定されるべき大破壊が、複数の小破壊として各シークエンスへ分散している構造を呈しており、何となく映画を彷彿とさせる様なシナリオと云えなくもない。


 2003/10/29

スケコマシ問題

前に『天才マックスの世界』の感想で触れたが、人格的な成長が人生の動機を無効にする問題である。

亡くなった亭主を忘れられなくて恋愛が困難になる事例は、かなり様式的な景観ではあるものの、『天才マックス』の様な余り様式的ではない物語で斯様な隠匿された人格なり過去なりが発見されると、心地の良い案外さが感ぜられる様に思う。

この「亭主を忘れられない」シールドは、ジェイソン・シュワルツマンの尋常ではないらぶらぶ光線を全く受け付けない。シールドの融解は、彼の人格的な成長を待たねばならないことである。しかし、此処での成長は、オリビア・ウィリアムズをスケコマシの対象とは見なさなくなる事と同義であり、此処にスケコマシ問題の悲劇があり、なお且つ、メルヘンな或いは古代中国語調な訓話がある。

スケコマシ問題は、恋愛だけにとどまるものでもない。『ドッペルゲンガー』の役所広司は、あのいかがわしい介護用品の実用的到達に人格的な成長を要したが、拡大した人格の価値観から再照射されたその人生の動機は、何とも詰まらぬものとして再定義され破壊される。

スケコマシ問題の文脈に於ける当初の人生の動機(やがては人生の動機ではなくなってしまうのだが)は、人格成長の契機としてみれば何かしらの意義を含有するものとして首肯してもよさ気ではあるが、それが実現した段階で何の意味もなくなってしまうことを考えると、結局わたしどもは欲しいものを何も手に入れられないのではないかと云う寂しい恐怖に襲われる。

成長を果たした段階では、そんな寂しさも忘却される筈なので、時間軸の傾斜を未来に置けば問題は生じない。怖いのは今わたしどもの生きる動機となっているものが、その成就の段に至って、意味を失ってしまうかも知れぬと云う未来への可能的な喪失感なのであり、そして今こうしてぶるぶる震えているわたしどもの感情すらもいずれ忘却されてしまうかも知れぬと云う寂しさである。だからと云って、いつまでも震え続けているのも心身の消耗を感じる他無いのであって、取り敢えず助けて呉れ。


 2003/10/31

ディズアドバンテイジド・メイド

『ろまん灯籠』の入江家に仕えるメイドさん(17)は足に障害があるらしく、「こころもち引きずって歩く様子も、かえって可憐である」と太宰治は喜々として記述している。変態である。空想癖のある彼女はこの家の病身の次男にらぶらぶで、わたしどもの夢想を否応なくかき立てて呉れる。

「メイド」と「身体障害」と云う典型的なヘタレもてもて属性の複合技であるが、これが21世紀のギャルゲーではなくて1940年代の小説で既に設定されてたと云うことが感慨深く、この半世紀の間、わたしどもは萌え萌え野蛮な雄叫びをあげながら同じ場所をぐるぐる回っていただけなのかと居心地の悪さを覚える。

なお、更に遡った昭和の初め頃に、鉄道で乗り合わせた女生徒(12〜13)が「可愛いわね、先生は」と女教師に萌へ萌へしている情景を芥川はハァハァと記述している(『歯車』)。どいつもこいつもへんたいですわ、ふけつですわと思わざるを得ない。



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