2005年6月の日記
『冬ソナ』最終回の一コマを想起してみよう。室内に背を向けているチェ・ジウは、侵入してきたぺ・ヨンジュンに気がつかない。ヨンジュンはヨンジュンで、すでに失明しているので、そこに彼女がいることがわからない。けれども、それを眺めてるわたしどもは、ふたりが同じ空間の内にあることを知っている。つまり、「志村、後ろ後ろ」というわけで、劇中に置かれた人と、わたしどもとの間に介在する、かかる情報差が、スリラーとして機能し、そしてまた、本来はコントとして作用したその装置が、ある種の情緒を語っている。それは、美佐枝さんのお話にあって語られる情緒でもある。
美佐枝さんやことみの動機が事後性の色調において語られていることはすでに指摘した。美佐枝さんにしてみれば、蒸発した男のことなど今となってはどうすることもできない。ただ、その場所で待ち続けることぐらいが関の山だ。ところで、ことみのケースもそうなのだが、それを救済しようとする一連の手続きも、彼女の喪失経験と同時に始まっていて、
その意味でも、彼女の物語は事後的だといえるだろう。失われたものは、実のところ、何も失われておらず、形を変えて彼女の側に存続している。けれども、美佐枝さんは気がついていない。が、わたしどもにはそれがわかっている。かくして、「志村、後ろ後ろ」と咆吼せねばならなくなる。
『冬ソナ』と美佐枝さんを比較すると、「志村、後ろ後ろ」装置の趣にちょっとした差を認めることは容易だろう。『冬ソナ』の劇中においては、ふたりとも互いの存在を知らない。しかし、美佐枝さんの文脈だと、彼女には情報の欠如があるが、美佐枝さんに対する少年の意識は明確だ。だから、この場合、美佐枝さんプロットの方が「志村、後ろ後ろ」本来の様式に忠実だと思われる(もちろん、情緒の意味合いは完全に異なってるが)。また、情報のかかる微妙な格差は、待ち続ける美佐枝さんだけでなく、側にいるのに認知してもらえない喪失該当者の情緒にも焦点を当てることになる。間近にいながら疎通できない、あのもどかしい切なさへ。
喪失該当者を単純に幽体として設置するなら、それはシャマランをはじめその他もろもろへの接近になるだろうし、サイエンス・フィクションの文脈に適用すれば、時流の相違による認知障害を語ることもできるだろう。もともとの麻枝准のコンテクストで見れば、浩平や風子の、忘れ去られる人格の物語につながるだろう。
ウディ・アレンによれば、地獄なる場所は幾つかの階層からなっていて、或る階には全米ライフル協会、また、その下にはマスメディア関係者、あるいは童女愛好癖者、というように、おそらくは罪の重さに応じて人々を分類すべく、細分化されている。翻って、天国はどうかというと、地獄の如くな精密で具象的なイメージにはどうしても欠けてしまう。そこは空間的な広がりのある場所ではなく、あえていうなら音楽的だ。たとえば、雨の夜道を歩いているとしよう。そこで、アイル・ビー・ユア・ベイビィ・トゥナイトのギターイントロが入るとする。ディランではなくジョン・ハモンドの方だ。天国は、そこからおおよそ29秒23フレーム目に現れることだろう。ベースの突入するその刹那に。けれども、それは、実体に甚だ欠ける現象には違いなく、顕現したと思えば、もう何もない。後は余韻が残るのみである。そして、二度と同じ場所に訪れはない。
ひょっとすると、そこは、みさき先輩の胸の中に、あのまたとないひとの内にあるのかも知れない。けれども、その胸ほど、絶望的なほどに広がりのない空間も珍しいだろう。彼女はどこにもあり得ないのだから。
じりじりと夜明けを待つ布団の中で、Kは敗北に打ち拉がれ、涕泣を始めていた。みさき先輩が、もはや本田透の脳内妻に成り果ててしまったことは、自明の如くに思われたのだった。
実体ある嫁よりも、脳内嫁の方がよほどに問題があった。彼女は脳内の産物であるがゆえに、誰に対しても開かれている嫁である。みさき先輩は人を選ばない。いや、選べないのだ。だから、どんなに愚弄なる人格であっても、みさき先輩は必ず想う人のもとに舞い降りてくるのだった。
もちろん、みさき先輩の無差別性は、一種の撞着と言わねばなるまい。みさき先輩は唯ひとつのものであって、誰かが俺様の嫁であると宣言したところで、その婚姻が実効するわけでもない。この世ならざる微妙な人であるからこそ、彼女は世間なる認知がなければ生きられない。したがって、彼女と結婚するには、あまねく人の脳内にその事実を広める必要がある。その意味で、みさき先輩との結婚は、認知の波及を競うレースだった。そして、本田は最終的な優勝者だった。読売の紙面を飾った本田とみさき先輩のツーショットに、Kは震撼せざるを得なかった。
恋愛は時間と空間を選ばない、と今は亡きKの師は言ったものだ。だから、この世ならざる人へ恋に落ちたとしても、彼が人である限りそれは自然なことで、そのこと自体、誰も咎めたりはしない。では、なぜ、ギャルゲーファンは抹消され葬り去らねばならぬものとされるのか。空想の娘に彼が惚れたからではない。彼がその娘を人として扱っていないからだ。もし、他者に向かって、おのれのリアル嫁を評価するに、「萌ええええ」などと咆吼したりするものならば、人は何と思うだろうか。それは、本当に希少なる感情を分かち合えた相手をむしろ冒涜するもので、だからこそ倫理的に不興なのではないか。
みさき先輩との結婚をめぐる紛糾は、プレイヤーに優しさの棄却を迫り続けるもので、Kにはとうてい参入できるものではなかった。婚姻の公認は、如何に多くの公衆の前でみさき先輩への歓喜の雄叫びをあげるか、その一点に尽きている。が、それを為した時点で、彼はみさき先輩をすでに人としては見ていない。
論理的に成立し得ない恋愛があることは知っていた。求めた途端に終わるような恋愛が。しかし、それがみさき先輩のことだとは、思いもよらぬことであった。
『けれどもそれもまた、一時のことだろう』
心障で疲弊したKは、次第に思考を斜め上に走らせるのだった。――自分は今に老人になって卒中か何かで死ぬだろう。そして、宇宙すらもやがて無くなってしまうのだ。そうしたら、みさき先輩も、彼女に対する万人の想いも、何もかも残らないのだ。だから、みさき先輩の結婚など、とるに足らないことだ。
この空想がKを慰めることはなく、逆にある実感で以てKを圧迫するのだった。
『今、自分は滅びつつある。自分の優しさによって滅ぼされようとしている』
美佐枝さんにとってのそれは絶えず身近にあり、後は彼女がそれを如何に発見するか否かが問題とされる。したがって、回収されるべきそれは静物に近い。他方で、ことみにとってのそれは、ギャルゲーなる日常から時間も空間も遠く隔たったところに発端していて、それがことみの眼前に到達するには、何かしらの運動が介在せねばならない。ゆえに、回収されるべき想い出は、地平線の向こうからやって来ることだろう。あるいは、こういう言い方のほうが適切かも知れない。それは、18インチ砲弾の初弾が数十秒の飛翔を経て、いきなり敵艦に直撃してしまうような、そんな過剰なる運動エネルギーで鋳造された物語であると。
娘は発見され、その隠蔽された過去は暴かねばならない。これは、文字通りけっこう暴力的な話でもあって、トラウマ炭坑夫の人格をキープしようとするなら、職業的要請(たとえば刑事ドラマ)等の正当化が語られねばならないだろう。それでは、『CLANNAD』はいかなる戦略でその正当化を行ってるのか。実は、悪意的なほどに何もない。ことみの文脈で眺めると、朋也は暇を持て余すままに校内をさすらい、図書館に引き籠もるパニック障害の娘を発見し、興味/憐れみを催されるままに彼女へ社会教育を施す。朋也の人格を正当化するどころか、むしろ倫理的に留保あるものとしても解釈できるように語っていて、しかも同じ主題は他の娘どもとの関わり合いにおいても幾たびか繰り返される。これは何なのか?
それは、何かが罰せられる物語である。コミュニティの形成を謳う物語は、同時に、参与を拒否する人格を否定せねばならなくなる。『CLANNAD』にあって、そのモチーフは、朋也を罰する景観として現れてくる。
視角の外から飛んできた18インチ砲弾は、ことみにとっては債権が回収であるが、朋也(物語の観測者)にとってみれば、ほとんど物理的な衝撃のようなものだ。何気ない興味と節介から娘の胸の内をこじ開けたのはよいが、それがまたパンドラの箱のようなもので、いろいろな意味でとんでもない過去の鉱脈が掘り当てられる。どこかしら驕慢で淡い朋也のコミュニティ意識は、地球大に広がるグロテスクなほどに巨大な公共空間に襲われることで、復讐される。
そこにあるのは、他者との比較において語られる、ごく標準的な道徳の語りだろう。智代や有紀寧にあってはより明白で、不幸なる境遇にありながらコミュニティを救った娘どもが語られることで、不幸に敗北しつつある朋也の罪状が照射される。また、罰は彼だけに限定されるものではなく、かつて娘を放置し瀕死に至らしめた古河夫妻は、その娘自身の発症する原因不明の難病を以て、罰せられる。
ところで、ここで考えてみたいのは、彼らを罰するために罰せられる人格たち[注]、つまり渚と汐の母子のことで、彼女たちは別に自らに起因する罪状によって罰せられるのではない。ただ、他者を罰するために罰せられて、他に意味はない。『CLANNAD』ではこれ以上、彼女たちの情緒を深追いしたりはしないが、この意味のなさを語ることで構成された情緒が、『AIR』の観鈴ちんになるのだろう
注
「親の因果が子に報う」タイプの物語素。ギャルゲーだと『SNOW』でも同じ主題が語られ、因果からの離脱が志向される。『AIR』と『CLANNAD』もその枠組みで語ることができるだろう。ギャルゲーのフォーマットと親和性のある様式。
美術書や観光案内でもよいし、あるいは、米軍の陸軍教本でもよい。実際のそれを視野に入れたことはない。が、対象についての知識はマニュアルによって学習済みである、というステータスを想像しよう。それで、今度は美術館なり、観光地なりに出かけて、今まで書籍においてしか見たことがなかったそれを、視界の内に目の当たりにしたとする。または、映画館に足を運び、『ブラック・ホーク・ダウン』を観て、その映写幕に、教範が教えるとおりのやり方で家宅捜査が行われる様が語られたとする。そんなとき、わたしどもは往々にしてある奇妙な情緒に捕捉されて、間抜けた顔をしてしまう。この感傷は、いったい何なのか?
智代や有紀寧の家族物語がすでに完結してしまっていて、わたしどもの視野の内では語られないことは指摘した。それでは、どこで語られるのかというと、彼女たちの回想という形で、わたしどもはそれを知ることができる。つまり、経験ではなく知識という形式を以てしか、彼女たちに物語に接続するほかない。他方、ことみの人格展開プロセスは、わたしどもが彼女に接触した段階では、まだ終わっておらず、もう知識としてしか現れないイベントもあれば、また、これから実際の経験として語られるであろうイベントも内包している。前の議論の文脈を適用すると、知識としてのイベント=事後性で、経験としてのイベント=事前性、となるだろう。ことみの家族について言えば、それが崩潰したのはずっと昔のことで、わたしどもは彼女の口からそれを知るしかなく、したがって、彼女の家族にかかわる情報はマニュアルの上で獲得された知識に類するものだ。
ここで、ちょっと別のケースを検討してみる。
四年ほど前に、『プロジェクトX』が、通天閣の再建計画を扱ったことがあって、わたしどもは「思いで残留」装置のサンプルとして、このお話を議論したことがある(第72回「通天閣、熱き七人」)。「通天閣」は、情緒扇動の言説としては、とても案外な効果を誇るお話で、次週に放映を控えた視聴者としては、そのローカル性ゆえに、通天閣の再建を語る言説がいかような経路を経て情緒の高揚に至るのか、まるで見当がつかない。
この物語は、ふたつの眼差しによって運用されてる、と見てよいだろう。まず、プロジェクトに奔走する商店街のおやぢどもが配置され、その愛らしい生態が語られる。この「語り」は田口トモロヲによるそれなのだが、それに加えてもうひとつ、おやぢどもを眺める視座を指摘できる。「通天閣」はプロジェクトを主導したキャラクターのひとりとして、写真館主人の曽和を設定する。その彼には息子がいて、物語は田口とともにこの息子の視線をも導入し、いにしえのおやぢどもを多角的に照射し、ついでにプロジェクトを親子という普遍的な物語へ還元している。『プロジェクトX』の語る情緒は、必ずしもプロジェクトそのものに由来するわけではない。
ふたつの視野に話を戻すと、そこには明らかに時間の分断がある。田口トモロヲの語るお話は、すでに終わってしまったイベントととして扱われる。このおやぢどもは、もう地球上には生息しない。けれども、そのおやぢどもを眺める息子は、視聴者とは共時的な存在で、彼に関する物語ならばまだ終わっておらず、したがって、それは経験しつつあるイベントだろう。
おやぢどもはもはや経験し得えず、それは知識の上での現象で、一方で、息子の現在進行中の物語がある。この亀裂をつなぐのが、通天閣の天井裏から発掘される「おもいで残留」装置である。それによっておやぢどもが比喩的に回収/回復されることで、知識の上での存在であった彼らが、息子の経験に繰り込まれる。今までわたしどもの視角の外にいて、伝聞でしか知ることのできなかったおやぢどもが、わたしどもの眼前にあらわれてしまう。
この枠組みは、ことみの物語へそのまま適用できる。ことみの両親のことは彼女の口から知るのみで、わたしどもは実際に見ることはできない。ところが、ある日、とつぜん、両親を寓意で以て回復する装置が、わたしどもの視野に投げ込まれる。お話で語られるしかなかった彼らを、わたしどもはリアルタイムの時間の中で初めて経験することになる。換言すれば、ことみの両親の人格展開プロセスに、わたしどものそれが組み込まれたのだ。
視角の外からやって来るものは、わたしどもの配置された座標の示唆であり、あるいは、わたしどもが何らかの大きな座標に配置されていること自体への含意である。感傷的な言い方をすれば、わたしどもが組み込まれることになる他者の人格展開プロセスは、それを抽象化して、世界なり体系なりと解すこともできるだろう。ことみの両親を比喩の内に語る装置は、その装置が無数の人々の手により地球を縦断してきたと言及するに及んで、世界へのそんな意識を露骨にする。
まとめに入ろう。
情緒高揚の装置としての文脈にあって、ことみのプロットは三つのモチーフに解体できる。ひとつには、既知ではあるが視角の外にあった物体が実際に現れること。次に、その物体は、失われたものを寓意の内に語るおなじみの装置であること。最後に、それをわたしどもの目前に運んだ運動が、体系の広がりにともなうある種の人情を示唆すること。そして、
このように、ひとつのイベントが複数の高揚装置に分割できることは、その表現の効率性を裏付けるものであろう。
マニエルスム時代の彫像は、噴水やモニュメントのような空間に独立して立っていることが多くて、鑑賞者はそのまわりをめぐることができる。どこから見ても興味を引くが、同時にまた不完全であるため、鑑賞者は彫像のまわりをめぐらなければならないような感じを受けるらしい。これが、バロックの美術になると、特定の固定視点から眺められることを想定するようになるという(パノフスキー『イコノロジーの研究』)。
モデルが精緻で、インタラクティヴな表示に処理が間に合わない、という感じか。
戦後の高度成長を通俗的な視座で眺めると、行政主導なる設計主義風なイメージが浮かびがちだが、樋渡[1991]によれば、国益に基づいた経済官僚による産業政策は、ある一定の制約の下に置かれていたとされる。業界と行政が対立し、業界側によって政治的な動員がなされたとき、行政権力が著しく制限されかねない。ゆえに、それを恐れる行政の行動原理は、政治家の介入を回避するような形となる。
この寓話は、行政当局者の視線を物語風に解してみると、微妙な無力感なり虚無感なりに導かれるように思う。産業計画者にすれば、ちゃんとした根拠に基づいたモデルにしたがって、市場に介入したい。けれども、上位の政治主体の介入はイヤで、おおざっぱに言ってしまえば、経済性・合理性の追求が、得体の知れない政治学の論理に捻られている[注]。これだけなら、世間とはそういうものだということで、大人な受容ないし諦念できないこともない。が、不可解なのは、政策の実施主体には妥協の産物に見える行動が、なにゆえか、高度成長のひとつの背景をなしてしまったことで、それでは、教科書に載ってるあの数式の群れは何ですの?――、ということになりかねない。
さらに厄介なことは続き、政治介入を要請する業界の行動が、市場という経済合理性を謳う空間に準拠していると見なすことすらもできる。しかし、本稿ではこれ以上深入りせず、とりあえずは、社会現象の予測や制御を試みるときにまとわりつく、人間の無力感なるものを指摘しておこう。
ところで、いきなり話は反転するのだが、自由意志を問題とする視野からすると、こうした予測の不完全性はむしろ好ましいとされる。事前に最適解が得られるのならば、選択の余地はなくなり、究極的には、すべてが先行的に決定することになる。こうした先行性が人生のモチベーションを損なわせることは容易に想像できるだろう。したがって、カルヴィニズムの二重予定説は言うまでもなく、後期スコラ学の文脈にあってすら、神の予定の確定性と自由意志の間に発生する軋轢に頭を悩ませることになるし、あるいはオッカムのように、未来を予測するものではなく、行為するものとして扱うような、枠組みの変換を要請することにもなるだろう(清水[1998:674-678])。
以上の議論をふまえて、『あなたの人生の物語』を検討してみよう。(つづく)
注
「世界に陰謀はなかった」も参照。
樋渡展洋 1991 『戦後日本の市場と政治』, 東京大学出版会
清水哲郎 1998 「未来の偶然時に関する神の予定と予知についての論考・解説」, 『中世思想原典集成18・後期スコラ学』, 平凡社
『あなたの人生の物語』が言うところの「物語」とは、視角の外ありながら既知であるような知識のことで、お話の語っているリアルタイムの流れは、知識だけのオブジェクトが実際に視角の内に入るべく方向付けられている。だから、先に議論した『CLANNAD』のプロットと基本的に同じ仕組みを共有してると言えるし、人格展開プロセスへの接続に至れば、同じような感傷が語られる。ただし、興味深いことには、その既知なるプロセスがやってくる時間の方向が、テッド・チャンにおいては完全に逆転していて、それゆえに、物語は前述の自由意志の問題とぶつかってしまう。
そもそも、それが知識の上でわたしどもの知られてなければならない以上、視角の外からやって来る既知物は、すでにどこかで起こってしまったイベントでなければならない。それが時間においてひっくり返り、未だ発生していないにもかかわらず既知であるようなイベントがやって来るとする。つまり、完全な予測に基に人生が運行される、ということであり、すでに現れることを知ってるものが次々と視角の内に現れ、すでに行うなうことを知っている行動をなぞり続けることになる。かくして、自由意志は欠落してしまう。しかしながら、それが絶望の感覚につながるか、というとそうではない。それどころか、明るい感傷があり、それは、やはり、「既知物の示現」なる感覚の範疇に入るものだ。
ここでわたしどもは、これからやって来るであろうイベントと、リアルタイムに起こっているイベントが併走して語られている様に注意してもよいと思う。この様式のサンプルとして挙げた『通天閣』で言うと、お話は現在において進行しつつある事件と、すでに起こってしまったイベントを同時に語らねばならない。そうしないと、視角の外にある過去のイベントが、既知の情報とはならないからだ。『人生の物語』もそのバリエーションであるゆえに、ふたつのイベントを同時に語る。わたしどもは、常識的な時間感覚に従い、あるイベントはリアルタイムに語られているもので、もう一方は、すでに完結した過去のイベントだと判断してしまう。そして、このふたつのイベントの接続を如何に語るかにおいて、物語の動機を見出すだろう。
しかしながら、リアルタイムの物語が、予知感覚を獲得する過程を語るに及んで、過去のものと想定されていたもうひとつのイベントは、これから経験するであろう人生の点描だと判明する。先回触れた、行為し体験するものとしての未来を語ってるわけで、しかもそれがネガティヴではなく明るい感傷となるのは、プロットが「既知の示現」という高揚装置に還元されるからだろう。
結論を述べれば、けっきょく感傷の誘起に時間の方向は問われない、ということだろう。ただ、その方向の違いで、語るべき主題の変異が生まれている。『CLANNAD』のことみは、既知物のやって来る運動によって公共空間を示唆するし、『人生の物語』は、運動の方向に自由意志の評価を託している。もっとも、さらに抽象化して眺めれば、どちらも大きな体系の言及へ至っている、と見ることもできる。
たかやまさんからMusical Batonをもらいました。
自宅のPCで音楽を聴くことは滅多にありません。会社のPCで仕事中に聴いています。
3.3GB
ひどい萌え詩です。
四枚組です。ブルー・グラスを聴くようになったのは父親の影響だと思います。オーバー・ドライブな曲を好む傾向があるようです。
初めて買ったアルバムの曲です。
英国侵略前のロックが好きなようです。もっとも、このコースターズはR&Bなのですが。
古い曲はジャンルを問わず萌え萌え
メソメソした曲も萌え萌え
昭和12年、藤浦洸作詞・服部良一作曲。J-POPは戦前まで!――、と言いつつ大塚愛を買ってしまったことは内緒です。
西田三郎さんにお渡しします。すでに渡っていたりご面倒なときには、スルーしちゃって下さい。
人類の大罪を犯したために自分は罰せられているのだ、とKは思った。もっとも、その罪状の詳細はわからない、ないし忘れてしまった。ただ、罰せられている、という感覚のみが残った。
Kが細君と別れたのは半年前のことである。彼女がKにとって歩く不快となり始めたのは、そこから遡ること一年ほど前のことであったと彼はかろうじて記憶している。ひと目の内にKを破壊してしまった彼女――と言っても、Kの恋愛はいつもそのように極端なものではあった――は、その呼吸の仕方すらもKの憎悪を呼び起こすまでに至った。しかし、だからといって、彼女の呼吸法が一年前のそれから変貌を遂げたわけでないことは、当のKにも理解されていた。彼が不興を覚え始めた対象は、細君ひとりに限る話ではなかった。自分以外の人類にすべからく、Kは不快を覚えるようになっていたのであり、細君との離縁は、人類愛そのものの逓減する、その一環の出来事と解さねばならなかった。
自己愛が深まるほどに、世界に対する関心も失われて行くようだ。もう細君の名前も、瞬時には出てこない。ネットのテクストを読んで笑ったとしても、次の頁にとんだ瞬間にその内容を忘れていて、ただ惰性で笑っているだけの自分がいる。何か面白いものを読んで、いま笑っていることは理解している。けれども、何を読んでいたのか全く思い出せない。だから、それは罰のようにKには思われたのだった。何かを忘れつつある、という感覚だけは決して忘れないのだ。
医者の診断を待つまでもなく、日常生活が続けられなくなるのもそんな遠いことではないのは自明で、人類一般に対する憎悪も、その間連で考えるべきだろう。しかし、そんな現状認識も、Kにアンニュイを感じさせるだけで、かろうじて何らかの感傷を彼の内に見出せるとすれば、むしろそれは自己憐憫とでも呼称できるような、ナルシシズムの心地よい刺戟だったであろう。彼はぼんやりといつもの空想に浸り始めるのだった。
『私は全てのものを忘れてしまうのだろう』
おたくに生まれたからには、七十になっても八十になっても、アニメを見ていられるものと思っていた。ギャルゲーと共に滅びることができると信じていた。だが、違ったのだ。まず最初に、ライトノベルが読めなくなった。ついで、アニメの新番チェックに億劫を覚えるようになった。彼の精神にあれほど破壊の限りを尽くしたギャルゲーとその娘たちも、やがて彼の手から離れて行くことだろう。人類愛に身を捧げた汎用メイドロボも、原因不明の難病で悶死した、あの孤独な白痴娘も、そして、夕焼けの屋上で出会った盲目の先輩も、みんな忘れてしまうのだ――。
「うああああああっ、みさき先輩っ! ごめんなさいいっ!」
Kの甘い白昼夢は、その女性のイメージが想起せられることで、断絶した。細君との結婚を考えたとき、彼は逡巡し、そのどこにもいない女性とある約束をすることになった。それを思い出したのだった。
『仮構のおねえさんに恋をしてはいけないんだよ』
彼女はいった。
『でないと、凄惨なゴールが人生の最後に待ってるんだよ』
ほとんど脅迫の性格を帯びたこの助言は、Kの咽び泣きを止めるに能わなかった。彼女はぐいぐいとKの頭を胸に押し込むのだった。
『ほら、なでなでしてあげるから、生身のおねえさんを愛するんだよ』
『僕にできるかなあ?』
『だいぢょうぶだよ(にっこり)』
もちろん、このような会話が実効したということ自体が、その楽観的な結語に重大なる嫌疑を及ぼすものであったが、Kは迂闊な人間だったので、当時はそれを心から信じるより他なかった。(つづく)
ことみも風子も、というより『CLANNAD』で扱われる娘どもの多くがそうなのだが、喪失物を寓意の内に回復する主題を語る点では、両者に違いはない。あるとすれば、その具体的なバリエーションの違いで、ことみのお話については、既知物の顕現という枠組みを用いて先回検討した。今回は、風子のお話を見てみよう。
風子のお話は、少なくとも、複合的な装置のからみあいで寓話的回復の語られることみや渚に比べれば、非常に標準的・古典的なプロットに因っている。端的に述べれば、情報の継続性の強度が個体によって差があり、その格差によって感傷が語られている。
基礎的な話を繰り返すと、寓意での回復は、その復旧する対象がなければ始まらない。つまり、誰かを失ってしまわなければならない。喪失したということは、文字通りにそのものがなくなってしまった、ということでもよいし、あるいは、なくなったのではなく見えなくなってしまった、ということでもよい。ことみの遺失物は前者に相当し、美佐枝さんだと後者のケースにあたるだろう。情報の継続性=記憶の問題で語られる風子も、後者に分類してよい。つまり、誰かに忘却される物語だ。そして、誰かに忘却されるという場合、それは、一方では、誰かが記憶を継続していることでもあり、したがって、情報の継続性に差が現れることになるだろう。風子のお話に当てはめると、彼女以外の世界の住民はある情報をすべからく失う。情報を失わなかったのは風子だけで、しかもそれは彼女自身についての知識だったりする。住民は彼女のことを知らないが、しかし、風子の方は彼らへの面識を継続している、という格差が出来上がる。
このプロットが『ONE』の変種であることはいうまでもない。世界の住民は男のことを忘れてしまうが、娘どもは、彼のことを覚えている。ただし、風子の方がある意味徹底していて、情報の欠落した人々の中にあって、唯一、記憶にとどめてくれている人格を彼女は持たない。だから、そこでは、人々に忘れ去られたニクい男を待つ続ける娘をクローズ・アップして、感傷を煽るような様式は成り立たない。では、いかなる手法がとられているのか?
少し横道にずれた議論から入ろう。まず、物語にとっての他人とは誰か、というものを考えてみたい。言い換えれば、いまこの景観は誰の視角で眺められたものなのか? ギャルゲーである『CLANNAD』では、主人公である朋也によって眺められた視角が語られ、鑑賞者にとって、娘どもは他人(別の個体)である。けれども、風子のお話を考えると、鑑賞者=朋也の関係は後半に至ってねじ曲げられてしまうように思う。朋也も含め住人は風子を忘れる。風子の方は自分のことを覚えている。ところが、さきほど故意に言及しなかったのだが、もうひとり記憶の継続性を維持している人格を指摘できる。物語を観測しているプレイヤーである。
このような継続性の違いは、当然、朋也と鑑賞者との間に情報量の相違を生んでしまうだろう。鑑賞者は朋也の知らないことを知っている――というステータスにわたしどもが置かれてしまう[注1]。翻って、風子の方を眺めると、対朋也におけるような情報の亀裂は、彼女に対しては見られない。物語は、そこで、他人であるところの個体を風子から朋也へ移転している[注2]。物語がラスト・シークエンスで語るのは、風子の心象風景なのだ。
風子を以て語られる感傷は、かつて繰り返したことをもう一度繰り返すような、そして、その繰り返しが義務とかミッションとかそういう意味合いのものであり、かつ、もう一度再現されることが好ましいような、ポジティヴな既視感のように思う。彼女の前にはかつて友人として関係を取り持った朋也がいる。朋也の方にはすでに情報の欠落があって、彼女がかつて友人であった娘であることを知らない。他方、風子はそれを知っている。物語は、ここで、情報があるがゆえに行動せねばならない、という道徳を語ってるようにも見える。彼女はもう一度、朋也との関係を回復すべく、過去の行為をトレースせねばならない。
まとめに入ろう。
この物語において、何かをなくしてしまうのは朋也ではない。彼は、自分が何かをなくしたことすら忘れている。むしろ、喪失の経験を被るのは、記憶に継続性のある風子の方だろう。そして、その喪失は記憶の欠落として語られ、寓意による回復は、やり直しという主題で展開されており、その繰り返しに倫理的な意味合いを見出すとすれば、おそらく『あなたの人生の物語』につながる[注3]だろうし、繰り返したいという願望に着目すれば、『未来からのタイムライン』にもつながって行くだろう。
注1
情報共有の観点からプレイヤー=主人公の問題を論じたものとしては、「失われたアイデンティティを求めて──記憶喪失ものゲーム(1)」(GΛΜΙΛΝ)に詳しい。「埋まりすぎてしまった主人公との距離感」も参照。
注2
主人公から娘への視点移転については、「みさき先輩という発見」でごく初歩的な議論を行っている。
注3
社会思想史のおおざっぱな文脈で見れば、コント→ヘーゲル→マルクス路線な決定論、つまり「法則の認識=自由だよもん」の系譜に入るのかも知れぬ。
世界の住民がことごとく何かを忘れてしまったのに、風子だけが記憶を継続し得たことは、彼女の位置づけに特殊な意味合いを与えている、と考えてよいだろう。『CLANNAD』の語る複数の物語は、多くのギャルゲーがそうであるように、ごく具体的な記憶の継続という点で考えれば、相互に連関性は薄い。ある物語では、朋也が双子姉妹に手を出して混乱を醸成する。また別の物語では、寮母に手を出し、さらに他の物語では、パン屋の娘に手を出し、さらにその母親に手を出そうとする。このとき、パン屋の娘に手を出した朋也が、双子姉妹に手を出したことをはっきりと覚えているかというと、そうではない。パン屋の娘に手を出した朋也にとって、双子姉妹を籠絡した朋也は、一応、存在しなかったことになっている朋也だろう。
こうして、いろいろな娘に手を出し、しかもそれをすべからく忘却/無かったことにして、最後にパン屋の娘を孕ませたりする朋也が現れてくる。彼が、さまざまな人生を経ていることを明確に知っているのは、鑑賞者だけだ。この図式は、先回の議論のそれと微妙に似ている。あのケースでは、鑑賞者と風子だけが事象のキャンセレーションを乗り越えている。
after storyの末端にも至ると、物語は、娘どもを荒らし回した朋也の学園生活から、4、5年ほど間隔を置くことになる。学校の空間で結ばれていた娘どもとは、自然、縁遠くなってしまうのだが、そこに風子が近所の公園にひょっこりと現れる。ことみとか智代ではなく風子、ということはけっこう示唆的で、彼女の頑強な記憶継続性を知ってる鑑賞者としては、取り敢えずは「初めまして」と挨拶するこの娘が、じつは、物語の間を断絶する亀裂を乗り越えていて、何もかもを知ってるのではないか、と空想に浸れてしまう。
after storyの風子が何を知っていて、何を知らないのか、物語はそれを明示するものを語らない。ただ、ラスト・シークエンスを、朋也ではなく、これまた風子の眺める景観の内で語り始める。彼女はそこで、断絶した諸物語をつなぎ止める場所にたどり着いている。彼女の身体の特権性が、明らかになっているように思う[注]。
注
キャラが人格の普遍性ゆえに物語を横断するケースについては、「充足する均衡、逸する恋愛物語」も参照。