2003年3月の日記
このせかいは常に危険に満ちていると云わねばならない。なぜなら、主人公の行動に妨害の限りを尽くす悪徳おやぢが、
実は、“いいおやぢ”だったりして、
最初から、試練を与えるつもりで故意にわるいおやぢを演じている可能性が大いにあるからである。
斯様に急性的な人格発見の手法は、紋切り型の極致を逝く手法として忌み嫌われ、今日になっては発現しがたいのではないかとも考えられる。しかしながら現実には、福井晴敏の萌え萌えおやぢ軍団大暴走『亡国のイージス』('99)終盤で、わるいおやぢを演じ続けていた明石警察庁長官が突如として“おやぢ”になり、「気まずそうなその声」が「歳を取った男の不器用さを滲ませて、やさしく耳に響いた」(P624)りして、一部の鑑賞者を「きゃはっ♪」と転がす惨状となったりするので、油断は禁物である。
鑑賞者視点の経過期間と感情高揚の相関の関連ごと
宙間航行は切なさの温床である。六ヶ月後に地球へ帰投すると、三十年の月日が経っているから切ない。主人公は目まぐるしい時流の中にあって、変わらないものを探そうとする。これまた切ない。
しかしながら、この男には幼女趣味が入っていて、不変なるものに幼女の記憶を設定したりして、やや腰が引ける。でも、三十年後、地球に帰投した主人公を元幼女が覚えていた事によってその不変性が完成されるのは良さ気な感じだ。
物語は一往復で終わってしまうが、これが二往復、三往復と続き、時流の開きが更に膨張して行くと、不変性の発見がますます困難になるに伴い、鑑賞者の回転数も上昇するのではないか。ロビン・ウィリアムズの壮大なスケコマシ映画『アンドリューNDR114』における「自分は歳取らないが大好きな人は死んぢゃうよ〜〜」みたいな感じ。
『アンドリュー』では、年老いて死んだ恋慕の対象者の娘に母親の面影を見出して、ロビンが猛烈なスケコマシを開始する。『プッシャー』でも、主人公男が元幼女のおばさんに娘がいることを知って、幼女愛好心を隆起させる。ろりろりはともかくとして、斯様な世代をまたぐらぶらぶはよく使われる様式である(『ローラーガールについての一考察』参照)。記憶に留めておこう。
赤松健と云う人はたいへん趣味の分かりやすい人で、強気でへっぽこなおねいさんの不器用な愛情表現に転がり、又その愛を一心に被りたいと云うその強迫的な願望が目映い。われわれは、むしろ優しいおねいさんの胸元に飛び込んで撫で撫でされたいと云う願望の方が強いが、とりあえずその話は置いておく。
『ラブひな』では、なるが景太郎にらぶらぶになる誘引が、作者の欲望の勢いを買って、予めデフォルトとして設置されていたため[注]、ヘタレもてもて状況の成立に関しては危うい面がある様に思える。その問題は、なるの狂乱から生じる萌えに鑑賞者の焦点が向けられることによって、隠蔽された観がある。だが、『ネギま!』にはヘタレもてもて状況への真摯な取り組みが伺える。つまり、おねいさんの狂愛を被ることになる主人公をお子様にしてしまったのである。
文明という力場パラメータで議論したように、ヘタレもてもて状況の実現には、おねいさん側の属性に由来する起因、或いはへたれ男の属性に由来する起因のどちらかが必要である。白痴のおねいさんやドジなメイドロボがヘタレ男に好意を持つのは、彼女たちの属性に依るものであるが、教師が辺境の村の学校に来ておねいさんのらぶらぶ攻撃を受けるのは、彼が文明圏の住民であるからであり、同時におねいさんが辺境の住民だからである。
お子様であれば、おねいさんたちの母性愛をくすぐるのにやぶさかではなく、従って、お子様で在りさえすれば無条件におねいさんの行為を被ることは断じて無理のない現象であると云う幻想においては、ヘタレ男の方にらぶらぶの誘引がある。しかし、ヘタレ男の属性が問題とされる場合、主人公と鑑賞者の間に一種の緊張が持ち上がる。らぶらぶを引き起こした属性が果たして鑑賞者自身にも備わっているかどうか、である。もしそれに欠ける場合、鑑賞者への主人公への移入は頓挫を見るだろう。
ヘタレらぶらぶ誘引が「お子様」になるケースでは、この問題はクリアされるのだろうか? 外見上どんなに醜悪になろうとも、心は十代の身空を彷徨い続ければ、何の障害もあるまい…たぶん。
[注]
ただしそれだけでは説得性に欠けるので、「案外良い奴」と云う人格発見の手法が援用されている。
十年ほど前までは、明確なパーソナリティの確立に難のあった好楽と小遊三だが、小遊三が自身の凶悪顔を利用した犯罪ネタ等で、停滞からやや抜け出した観がある。だが、他のメンバーの突出した人格にはまだ及ばない。
基本的に『大喜利』での諸パーソナリティは、他メンバーからの攻撃や自虐を誘発するような負の側面によって特徴づけられる。
「身体障害のおねいさん」という言葉が、一部の鑑賞者にとってはたいへんに魅惑に映る可能性があることは、前にも指摘した。障害あるおねいさんで在れば、恋愛関係に参入する機会が乏しい故に、健常者のおねいさんには見向きもされないわれわれのらぶらぶ光線をも受け入れてくれるかも知れないという身勝手までに素敵な幻想のことである。『ブルー・シャンペン』もそんな障害あるおねいさんの物語だ。
彼女は、気の強い系のヒッピーなおねいさんで、やや赤松先生好みである。われわれとしては、むしろ気はしっかりしているがでも優しいおねいさんの胸に飛び込みたいと心から願いたいところが、その話は置いておく。取り敢えず、感情移入の動態論に伴い、このおねいさんの勝ち気は崩落させねばならない。本作では、「生き返って、また死んで(元の木阿弥)」な手法によっておねいさんのダウナー化が実現されている。不随の身体を持つおねいさんは、膨大な金銭的コストを払って身体の健常性を維持せねばならないが、それを負担できなくなる事態が到来する。体を売って精神の自由を失って体の自由を獲得せねばならない代替的選択が一部の鑑賞者の切なさ受容体を刺激する。
本作は、更に、「思い出残留」を積極的に活用することによって、切なさの活性化を試みている。ホームビデオに於いて事故前のおねいさんとその後のおねいさんを対比する手法は、ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』みたいな感じ。物語の終局では、残留された思い出の中におねいさんの本当の人格が発見されたりするなど、使えそうなネタの詰まったお話であった。
『劇場パトレイバー』の一作目でも二作目でも、発生しつつある「状況」を発見する物語と、その状況を創り出した「人格」を発見する物語が併走する。「状況」の発見は未来へ向かう視点であり、「人格」の発見は過去に向けられた眼差しの物語である。ただ、両作とも「状況」が発見されつつあることから生じる高揚感に比重があり、「人格」の物語は付帯的である。しかし『WXIII』には、「人格」への視点が強調される事により、前作とは異なる趣がある。「状況」は先行する原作によって、想定される鑑賞者にとっては認知済みの事なので、物語は人格を発見する過程に鑑賞者の感情高揚を頼らねばならない。結果として、『WXIII』は犯罪者の人格を発見して行く様式的な刑事ドラマを物語る。だが、それによって高揚感の現出に成功できたとは少し言い難い。状況を形成するおねいさんの人格に関する発見が、逐次的・散発的な事に問題があるかも知れない。
人格発見刑事ドラマの成功例『砂の器』('74)と比較してみると、この問題は理解しやすい。『砂の器』では終局面で、発見された人格の情報提示が一気に投入されて[注2]、鑑賞者を萌転させる。対して『WXIII』は淡々と人格の発見が進行する。
『砂の器』で人格発見の集約を可能にしたのは、「犯罪者の特定という発見」の物語と「特定された犯罪者の人格を発見」する物語の区別とそれぞれへの集約に関する脚本家の明瞭な意識である。発見されるべき対象が二段構えに存在するため、鑑賞者の集中力を維持せしめるために情報を小出しに開示したとしても、終局面まである程度の情報量を確保しておくことが出来るのではないだろうか。一方で『WXIII』は、「特定の物語」が貧困で、それを「人格発見の物語」でカバーしなければならなかったことが、鑑賞者への集中的な情報投入を果たせなかった原因かも知れない。テレビシリーズの尺では問題にはならないことも、90分を越える劇場の尺になると致命傷になる恐れがある。『WXIII』がこれを克服するには、例えば、終局面に於いてあらたな情報の開示を投入せねばならない。鑑賞者に未だ知られてなかったおねいさんの人格が、最後の最後で発見されなければならない。実は前作の『パトレイバー2』がこれをやっている。
われわれは『パト2』を、帰還兵ものの枠組みの他に、もっと大きく普遍的な視点から眺めることもできる。それはシステム、構造、組織、伝統、歴史、言語等様々な名称[注3]で呼ばれ、人間の行為を制約している「何か」に関わる物語であり、言い換えれば人間であることの実存的な苦しみの物語である。それが苦悩になる理由は、行為や思考の制約を課す「何か」を欠いては、人間は生存を計れない事にある。『パト2』で「何か」に当たるのは「東京」であり、そして「東京」が虚構とされ破壊の対象になるに及んで、鑑賞者は実存的な制約からの解放に犯罪者が挑んでいることを知る。結局その企ては失敗し、南雲さんの虚構の街を肯定する(せざるを得ない)台詞によって、人間であることの哀しみが物語に定置される。だが、破壊の対象に過ぎないはずであった「東京」に対して、犯罪者が最後に放つ「未来」という言葉の意外性が、人格の急性的な発見をもたらし、物語に新たな視点(“制約との相互作用によって未来を形成する存在としての人間観[注4]”)を予感させる。
斯様な土壇場での人格発見は、他にもっと分かりやすい例としては、『シュリ』の「When I Dream」から発見されるおねいさんの人格とか収まりが良いかも。「思い出残留」の議論で触れたように、何らかのメディアを用いると土壇場人格発見は成立しやすい。『WXIII』ならば…(以下妄想)、墓参りの後、傷心のお兄さん刑事が残されたホームビデオ[注5]を眺めていると、これまでわれわれが知りようもなかったおねいさんの人格が最後に発見されたりして、ああああああ〜〜、もうもうもうもう〜〜〜〜おねいさん、おねいさん、田中敦子おねいさ〜〜〜〜ん、大好きです、大好きですうううう(おわり)。
[注1]
本稿の前半は「危機を遡ると、川向こうに……パトレイバー劇場版WXIII」の議論を参考にしている。
[注2]
「基本は集中と補給」とヤン・ウェンリーも云ってた。
[注3]
『イデオン』→「因果地平」
『エヴァ』→「ATフィールド」
[注4]
ガダマーの云うところの「地平の融合」みたいなものか。
[注5]
『ビバップ』のSession18「スピーク・ライク・ア・チャイルド」も参照。「ふれ〜、ふれ〜、あたし。がんばれ、がんばれ、あたし」のアレ。転がりしぬ。
『タンゴ・チャーリー…』は80年代半ばの作品。母親を亡くして、身寄りのないアル中の外見10歳児な30代後半娘を、難病に罹患させて殺害。最後は思い出残留物まで排出してしまう詰まり具合。ステーションに隔離された娘を救出せんとするおねいさん二人組と娘の交流をもっとあざとく深化させれば、key回路が発動すると思われる。
『PRESS ENTER ■』も同じくらいの時期のお話。引き籠もりのおぢさんが、実は戦場で酷い目にあったことが発見される帰還兵もの。ついでに、おぢさんが難病持ちであることも終局で判明する。そのおぢさんが付き合いはじめたおねいさんの凄惨な過去が発見されて行くことで物語が進行。同時に事件の謎解き話が並進。文明批評の付帯が人によっては鼻につくかも。
子ども教育は微妙な問題であるとわたしどもは考えます。家庭における倫理教育の失敗は将来に於いて童女誘拐強姦殺人魔等の凶悪犯罪者を産みかねない故に、お子様への正しい躾けは何よりも増して全ての親御さんに課せられた重責かつ崇高な義務なのです。
お子様が「どうして人を殺しちゃダメなの?」と汚れのない眼で尋ねてきても、「何て事を云うんだ」と同僚O氏の様に叩いてしまってはいけません。わたしどもは、子どもの如何なる疑問にも真摯な態度で答えなければなりません。Ein Besseres Morgenはお子様の健やかな成長と市民社会への平穏な融解を真に願う愛と友好と平和のWebサイトです。
政治学を研究するアクセルロッドさんが、ゲーム大会を開催することになりました(高橋[1996:15-19])。ゲームは基本的にふたりのプレイヤーによって競われます。ルールはとても簡単で、プレイヤーはもう一方のプレイヤーと協調するかあるいは裏切るかのどちらかを選ぶだけで良いのです。両者が協調した場合、ふたりのプレイヤーはそれぞれ3点ずつ獲得することになります。片方が協調して、他方が裏切りを選択すると、裏切ったプレイヤーは5点を獲得し、協調を試みたプレイヤーには点数が与えられません。両者とも裏切ると、1点ずつ双方のプレイヤーは獲得します。
プレイヤー1 |
プレイヤー2 |
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協 調 |
裏切り |
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協 調 |
R=3,R=3 |
S=0,T=5 |
裏切り |
T=5,S=0 |
P=1,P=1 |
T:裏切りへの誘惑
R:協調し合うことへの報酬
P:裏切り合いへの罰
S:お人好しの顛末
アクセルロッドさんは、このルールに加えて、更にもうひとつの決まり事をプレイヤーに課しました。プレイヤーは選択に関する行動パターンをあらかじめ決めておかなければならず、全ゲームをこのパターンに従ってプレイする事になります。
大会参加者は14名。5試合ずつの総当たりで戦われました。結果、好成績を収めた人々の行動パターンに共通するひとつの性質をアクセルロッドさんは見つけました。自らは決して裏切らないことと、相手を裏切った後でも再び協調できること。つまり、継続した協調関係を築き上げられたパターンが、協調による利益を確実に獲得しながら、優秀な成績をあげるに至ったのでした。
この寓話から、わたしどもは何を学ぶことが出来るでしょうか。例えば、性格の異なるさまざまな部族が投げ込まれている原初の人類社会を空想してみましょう。そこには、他部族を血祭りに上げることに執念を燃やす好戦的な人々もあれば、平和を愛する無抵抗なヒッピー部族もあるかも知れません。アクセルロッドさんのゲームを参照すれば、その中で繁栄するのは、なるべく協調を志す人々によって構成された部族になります。やがて繁栄する部族の習性は、淘汰と後天的な学習によって人類社会隅々まで浸透することになるでしょう。
「…例外を除いて殺人が禁止される法体系を持つ社会は、それを禁止しない社会よりもたまたま強力で最後まで生き残ってしまったから、わたしどもの社会では人を殺しちゃダメダメと云う考え方を多数の人々が共有しているのですよ」
ここまで一気にまくし立てれば、お子様は不思議そうな顔をしながらも、漂ってくる夕食のカレーの臭いによってもう斯様な疑問など忘却してしまいます。暖かな家庭団欒が始まり、地球は笑顔で埋め尽くされて行くのです[注]。
[注]
「それって機能主義だよ。体制擁護に終始して、動態的分析に困難があるよ」などと云うお子様に対する解答例の考案は、これからの課題になるでしょう。
参考文献
高橋伸夫 (1996) 「協調行動の進化と未来傾斜原理」 高橋伸夫編著 『未来傾斜原理』 白桃書房
二十代後半のマザコン娘が母親の可愛いしぐさを見て押し倒したくなる衝動に駆られる行を読んだアクセルロッドさんは、これではまるでアレでナニではないかと嘆息すると共に、ひとつの疑念を抱きました。息子が15歳のおかんと交配を欲する状況よりも、娘がおかんとナニをしている方に、アクセルロッドさんは情欲をそそられる事に気がついたのでした。
アクセルロッドさんは、『アリー・myラブ』のフィッシュ弁護士が、女性による同性愛を肯定する際に用いた言説を思い出しました。フィッシュ弁護士は男性の交配欲を促進し結果的に種の繁栄につながるからそれは大いに肯定してしかるべきと云ったのです。しかしこの説は、娘とおかんの交配行為にわたしどもが発情する理由にはなっても、息子とおかんとの交配行為にわたしどもが余り興奮を覚えない説明にはなりません。そこでアクセルロッドさんは、近親交配による劣性遺伝病出現の確率的な高まりへの恐れが、息子とおかんの交配に対するわたしどもの感情的な萎えを産んでいるのではないかと考えてみました。息子とおかんであれば、子どもの産出する可能性があるのですが、娘とおかんであればいくら交配行為を行ったところで、その恐れは皆無なのです。
この理屈に基づけば、娘と父親の交配にわたしどもの感情は萎縮するはずですが、息子と父親の交配行為にはわたしどもの感情は高揚を見ることになります。アクセルロッドさんは、やおいという感情の発現方法の存在が、この解釈の妥当性を証明しているのではないかと考えます。
結論に達した数日後、アクセルロッドさんに知り合いからひとつの疑問が投げられました。交配可能の是非では「妹萌え」の説明がつかないのではないか。兄妹では交配可能であるが故に「妹萌え」は成立し得ないのではないか。その様なことを問われたのです。
アクセルロッドさんは、男女であっても個体に交配可能な身体的成熟性が備わってなければ受精は不可能であり、子どもの産出には繋がらないことに答えを求めようとしました。妹が小学生ならば、交配の結果を気にする必要は通例に於いて無いので、わたしどもはその感情を放埒にする事が出来るでしょう。しかし、中学生であれば…? アクセルロッドさんは「妹萌え」が童女趣味と密接な関係にあることを指摘しました。
「妹萌え」に対するアクセルロッドさんの説明は、「姉萌え」に関しても応用できることは云うまでもありません。「姉萌え」における弟は、交配可能に達しない身体を有していた方が効果は高いのです。目上のおねいさんにわたしどもがよく幼稚化して接する行為も、擬似的な交配不可能性を演出するための一種の儀礼ではないかと、わたしどもはアクセルロッドさんの解釈から考えることが出来るのです。