2006年2月の日記

 2006/02/01

「エンジェル・バンド」



先日、ここ二十年来最凶と思われる感冒に罹患し、私は生死の境をさまよった。私は閑と苦しみの余り、病床で二つの心的な危機に陥った。死を迎えるに当たって被らねばならぬ物理的な苦痛への恐怖であり、また、独りで死ぬという作業の困難を思った。

私は肉体の痛みにたいへん弱い人間である。たかが感冒ですら、これほどまでに耐え難いのだから、実際に本番を迎えたとき、つまり、死病か何かに罹ったとき、その苦痛はいかほどのものであろうか。少なくとも、いまの地獄のような苦悶の数倍は下るまい。経口モルヒネか何やらで緩和できたとしても、果たして感冒より痛みが増しになるかどうか不明である。それとも原苦痛との相対的な効果で、たとえ感冒より苦痛であったとしても、耐えられるものに感ぜられるのだろうか。

惑乱した私は、思考をそこから遠ざけるべく、携帯でニュースサイトを開いた。すると、次のような文字列が視界に飛び込んできた。

『行方不明の老女、自宅の二階でミイラとなって発見』

私は恐怖の絶頂に達し、布団の中でわななき始め、別れた女房の名前を叫んだのだった。

「きみえっ! 頼むから戻って来て呉れ。もう女学生を見かけてニヤニヤしたりしない。アレの最中にみさきせんぱ〜いって叫んだりしないから!」



私は彼女と向かい合って座っていた。モスバーガーのテエブルには空の容器が散らかっている。私は彼女を眺めながらぼんやりと考えた。この人は何て美しいのだろう。そして思わず叫び声を上げた。

「結婚して呉れ!」

彼女は誘うように笑った。


それから三年が経った。同じテエブルの向こうに、神経衰弱を患い、憔悴した彼女が座っている。二人の間には、捺印済みの離婚届が横たわっていた。

「君が考えてることは、あの娘と女子中学生のことばかりだわ。わたしは君のいる世界にゆきたかったんだよ。でも全然追いつかなかった。とっても疲れたんだよ。君は自分のことを理解してるの? 君はペドフィルな上に二次元愛好癖者なんだよ! 病気なんだよ!  どうして限度というものがないの?」

私はシブく開き直るほかなかった。

「受け入れろ。人は愛に至ると、二次元の前でもドギマギするものだ」

「君の想いは永遠に報われないんだよ、わたしと同じで。一体わたしは誰なの? どうすればいいの? 何のために生きてるの?」

「こんなに苦しんだんだ。神様か誰かが最後に何かしてくれるだろう」

「きっと、わたしはあの娘の入れ物にすぎないのね」

「違う、みさき先輩こそ君の入れ物だ」

「どんな違いがあるの?」

呆けた私は「さあ?」と間の抜けた声を出した。彼女はあははとヒステリックに笑った。「死んだら、神様に横っ面でも張り倒されなさい」と言った。



私は、蓄積された醜悪な気分に襲われている。私はこの世界に埋没したいだけだ。しかし、どうしてこんな仕打ちを受けねばならないのか。私は自分の半生を笑い呪った。

私はまた、自分の孤独にうっとりと酔いしれ始めている。ニヒルに独り滅びることは、どんなに素敵なことだろう。それに自分は、何処にもいない盲目の先輩を想っただけで、途方もなくドキドキしてしまうような、心底愛のある人間だ。皆、この優しさを知ったら、たちまちの内に自分の足許へひれ伏すに違いない。


もはや焼きは回ったようだ。魂の返却期間が迫っている。もう長くはないだろう。私は滅びつつあるのではない。いつの間にか滅びてしまったのだ。ただ、私はひとりぼっちで、さみしい。同情して欲しいし、せいぜい憐れみを望む。



私は午睡のまどろみで夢想することがある。何万ものみさき先輩が、グラビトンの鎖を操り、沸騰する時空の海を遊泳している。一糸まとわぬ彼女らは、孤独の歌を唄う。その歌声が、粒子の大気をふるわせる。彼女らは私を滅ぼした。そしていま、私は彼女たちを滅ぼしてしまった。


発熱から二日後、熱の引いた私は、鍋セット三人前に及ぶ野菜を平らげ、稀に見る快便を来した。人の体はなんとわかりやすいことか、と感嘆した。

私は会社に出た。同僚の一人がプ○キュアの壁紙を恍惚として眺めている。世界は斯くも醜く美しく、現実は詩的なまでに貧困だ。涙が私の目にあふれた。そして、堪らずに私はののしり声を上げた。

「莫迦め、そいつにはさわれないんだ。とっとと働け」

 2006/02/07

複合単位によるデコイ効果 :アレン・M・スティール 『マース・ホテルから生中継で』

ドキュメンタリーやそれに類するフォーマットが、いま語りつつある被写体の生死を物語の閉鎖にあたって利用するとき、彼の生存を問うような視角をオーディエンスに持たせてはならない*1。被写体の不在がもたらしうる情緒が損なわれるからである。よって、被写体の生死からオーディエンスの目を遠ざけるために、何らかの欺瞞措置が用いられることとなる*2

幾度かこの文脈で検討した『男たち不屈のドラマ・瀬戸大橋(プロジェクトX 第39回)』だと、被写体の生死が問われかねないポイントは、彼がゲストキャラとしてスタジオになかなか登場しないことであった。同じ構図は、フェイク・ドキュメンタリーである『カメレオンマン』('83)にも現れており、そこで焦点となってる被写体は、記録画像の中でのみ見出され、共時的なインタビューには登場しない。どうやら問題は、過去と現在に分割された二つのタイムラインが同じ被写体を追うときに発生するようだ。

ゼリグの生死が問われかねない事態に際して、『カメレオンマン』は彼の妻であるミア・ファローを緩衝材として利用していた。記録画像のタイムラインで、ミアはゼリグと同じフレームを頻繁に共有する。抽象的に言えば、そこにミアとゼリグをひとつの単位としてオーディエンスに認知させる機制がある。やがて片方が欠員しても、単位は概念上、惰性として存続し、今度は逆にかかる単位が、欠員を想像で埋めてしまう。記録画像の被写体であるミアが共時のタイムラインにあっても頻繁に現れることは、ゼリグの不在を、ある程度ではあるが、遠ざけているのだ。

同様の手法は、『マース・ホテルから生中継で』('88)になると、より明快で効果的に用いられている。タイトルにあるマース・ホテルとは、三人編成のバンドのことである。前のパラグラフに適用して言えば、三つのユニットからなる一単位だ。

このお話も、タイムラインは未来と過去に二分されており、共時のタイムラインで行われているインタビューに、メンバーの一人が登場している。言葉をかえれば、共時上のタイムラインには彼一人しか現れないのだが、バンドという単位の仕様から、オーディエンスは彼を代表として把握することで、他の二人の省略を無意識の内に合理化しかねない。ところがまさにその不在が、物語の閉鎖にあたって問われてしまうのである。

*1:「反・生存実感」を参照。
*2:「デコイプロット」を参照。

 2006/02/21

人格の特性を利用した誤誘導戦略 : グレッグ・ベア 『鏖戦』('82)

隠したい情報をただ隠すだけでは、かえって語り手の動機を疑われかねない。どうして隠すのか、関心を惹起するからである。そこで、隠すべき被写体から遠ざかることがむしろ合理的であるような仕組みが必要となる*1。情報を隠匿した、という意識すらも物語の観測者に把握されてはならない。

本作で語り手が隠さねばならぬのは、最後の時をともに過ごす変異体が元カレのなれの果てだった、という情報である。ここで、変異体=元カレの情報を観測者から遠ざけるのは、変異体自身と元カレに設定された属性だろう。変異体は変異体ゆえに言語に不自由する。よって、内面開示されない方が自然である。

これはごく即物的な措置ではあるが、他方で元カレの方に設置された属性は、より基礎的で広範な効果をもたらすようだ。

彼女が初めて彼と出会ったとき、記憶における冗長性の格差*2が彼我の間で語られていた。

「前のきみも、いつもそういっていた。そうしてまた、今度のきみも同じことをいう」
(Bear[1982=1992:368])

彼女の持たない情報が彼にはあり、したがって、記憶の冗長性をもって、彼が観測者に印象づけられる。ところが物語の末端にあって、彼女と変異体の関係に至るとこの関係は逆転してしまう。

「あなたの役割は? 名前は?」
「わたしは……わかってるはずなのに、答えが出てこない……」
(Bear[1982=1992:457])

彼女は、変異体が元カレであることを最後に発見するのだが、変異体の方は記憶の継続性に問題が出てきており、情報の冗長性は彼女の属性へ転移している。

最終的に、このプロットは三つの情緒ないし効果にアプローチしていると思う。ひとつは、いままで触れてきたように、力関係が逆転すること*3。そして、特に元カレへ視点を向けると、情報が欠損してしまったこと。さらに、元カレ本来の属性が、変異体に関する情報を誤誘導している。変異体に情報の冗長性を見込めないことから、そこから元カレへ連想に至ることが阻害される。


*1:関連する議論については、「誤誘導戦略(キーワード)」を参照。
*2:「相違する時流(キーワード)」を参照。
*3:「ヘタレ動態(キーワード)」を参照。

Bear, G, 1982, Hardfought, Davis Publications = 1992, 酒井昭伸訳, 「鏖戦」, 小山 隆・山岸 真編, 『80年代SF傑作編(下)』, 早川書房

 2006/02/22

SFの修辞として活用される詩の表現について
T.S.エリオット→グレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』('85)

『ブラッド・ミュージック』の後書きで、山岸真は科学的な記述が詩的な表現へと至る機微に触れている。類似する考え方は、『コンタクト』('97)のいささかアレな台詞の中にも見受けられた。

本書はバイオハザードで始まり、太陽系が物理的にぶっ飛んでしまうところで幕を閉じるのだが、かかるカタストロフィーの模様は、たとえば、次のように語られている。

 内惑星は包みこむ霞の中に長い影を落とした。外惑星は軌道上で揺れ、万華鏡のような輝きをいっぱいにはなち、冷たく輝く腕を伸ばして、放蕩してきた月たちを故郷に迎え入れた。
 地球は、ふるえる長い溜息のあいだ、渦の中でもちこたえていた。時がくると、都市も、町も、村も――家も、小屋も、テントも――ぬけ落ちた繭のように、からっぽになっていた。
 ヌー領域はその翼をふりひらいた。翼がふれると、星々は踊り、祝い、燃える切片となった。
(Bear[1985=1987:403])

ところで、先日、エリオットの『ゲロンチョン』('20)を読んでると、最後の方で次のような記述に出くわした。何となく元ネタっぽい。

ド・ベイルハッシュ、フレスカ、キャメル夫人らは
原子と砕け、ふるえる熊座の軌道の向こうで
旋回したのです。風に逆らうかもめは、ベイ・アイルの風吹きすさぶ狭い海に、また角なすケープ・ホーンを駆けめぐり、
白い羽毛は雪に散り、これみな大いなる湾のなせるわざ、
(Eliot[1940=1982:149])

影響関係云々は置いておくとして、実際の創作上の見地からいえば、要するに詩と『日経サイエンス』でも読んでおけば良さ気ではないか、という気がしてくる。


Bear, G., 1985, Blood Music, William Morrow & Co, = 1987, 小川 隆訳, 『ブラッド・ミュージック』, 早川書房
Eliot, T.S., 1940, The West Land & Gerontion, Faber and Faber Ltd., = 福田陸太郎・森山泰夫訳, 1982, 『荒地・ゲロンチョン(新装版)』, 大修館書店


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