2005年11月の日記
情報占有の孤独、共有を契機とする恋愛 : ケン・グリムウッド 『リプレイ』
複数の娘とつき合わねばらならぬ構造上、ギャルゲーは、世界の意図せざる分岐を産んでしまう*1。たとえば、幼少期のPTSDで自閉してしまったクラスメイトを骨抜きにする世界もあれば、盲目の先輩によって骨抜きにされてしまう世界もある。ギャルゲーは、自らの内でどうして異なる未来が併走するのか、その理由を語らない。ただ、オーディエンスは、ある娘と幸福な人生を送ったと思えば、いったんそれがなかったことにされて、また同じ舞台で一から別の娘を骨抜きにせねばならない。以前に同じ世界が語られ、それがキャンセレーションされて、また同じような、しかしプレイヤーの行動次第によっては様相の変わる未来が始まるのであるが、その情報を知っている者はオーディエンス以外におらず、自分たちが幾度となく同じ会話をしていることを、娘どもは知らない。グリムウッドの『リプレイ』が設定する初期条件は、ギャルゲーの文脈で語れば、以上のようなものになるだろう。
冒頭で参照した『CLANNAD』の議論をさらに続けると、オーディエンスと娘どもを区別しているものは、記憶強度の違いと見ることができる。誰もが忘れてしまったのに、自分だけが覚えている。『CLANNAD』は、そんな状況に際した風子に対し、だからこそもう一度繰り返さねばならない、とする動機付けを与えた。では『リプレイ』の方は、記憶の保持を免れない人物にどんなアプローチをするのかというと、まず、情報を知っているのが自分だけだ、という孤独感に言及する。そして、もうひとつ、ループへの苛立ちと、その開放や解明を試みるプロジェクトが始まる。このへんの焦燥感は、『あの、素晴らしい をもう一度』を思い起こしてもよい*2。あるいは、『SNOW』の芽依子もこの文脈で語ることができるだろう。いずれにせよ、ループによる孤独と焦燥感の設定を以て、『リプレイ』のプロットは第一段階を消化した言える。
次の第二段階は、その孤立感に呼応する形で始まる。ここでも再度、『CLANNAD』の風子を参照してみよう。そもそもオーディエンスにとって彼女は、他のキャラとは一線を画す親近感があって、つまり、プレイヤーだけが記憶を保持しているはずなのに、そこに何気なく、何もかも把握していることを臭わせるキャラクターとして、彼女が投入されたりする*3。この結びつきは物語の末端で語られるため、深くフォローされるわけではないが、『リプレイ』にあっては、記憶を保持しているもうひとりのキャラが発見された時点で、物語はまだ全体の半分も消化していない。そして、世界の秘密を共有し、同じように焦燥する彼女が設置され、彼らの交流が語られ始めるに及んで、オーディエンスは、ようやく、この物語が恋愛というトピックにつながったことを知らされる。彼女が記憶を保持するがために、継続できる関係を結び得るという安堵感については、『ONE』のみさき先輩を想起してもよい。プロットの第二段階はここで終わりで、次はそれを実際にどのようなフォーマットで語っていくか、考えなければならないだろう。結論から言うと、『リプレイ』は「相違する時流」装置を組み込んでいる*4。
まず、『リプレイ』で設定されたリンカネーションをここで検討せねばならない。それは、四十代の決まった日にち、同じ時間で突然死して、気がつくと学生時代の自分になっているようなものだ。ただ、ひとつ循環しない条件があって、転成する年齢だけが徐々に上がっていく。パートナーにも同じ条件が課せられる。もっとも、彼と彼女では、その割合にズレがあり、そこで、共有できる時間のズレと縮小が成立する。実際にどうなるかというと、彼はすでに転成したのに、彼女はまだ転成しておらず、彼のことを覚えていない。だから、彼は待たねばならない。さらに差が開き、もはや時間が共有されなくなると、自分のことを覚えていないし、もう思い出すこともない彼女を前にして、彼はある動機を与えられる。彼女に記憶がなくとも、もう一度やり直すことは出来ないか? やはり、『CLANNAD』の風子につながってしまうわけだ。また、転成先の年齢が上がり、他方、転成元のそれは上がらないことから、難病物の時限爆弾な意味合いも、そこで作動することがわかる。
稿が長くなったのでそろそろまとめに入ろう。
『リプレイ』は、情緒高揚装置の豊穣な組み合わせで、ギャルゲーの教科書のような体であるが、他方、ループの解明を試みるプロジェクトは途中放棄された感がある。むしろ、感情誘起の一点突破で、プロジェクトを隠蔽する戦略を選んだともいえる*5。課題としては、ループの解明が、即、感情誘起につながるような物語装置の考案になるだろう*6。
「ヒズ・ファニィ・ザット・ウェイ」
一
今の会社に勤め始めて十年、私は、同期の連中が職場に巣くう悪魔に取り付かれ、身を滅ぼしていった顛末を数多く目にしてきた。ある者は、人に説教をする快楽に病み始め、意見の合わない者をことごとく莫迦者呼ばわりするようになり、またある者は、現実を逃避するあまり空笑癖に冒され始め、さらにある者は、すっかり人間嫌いになって、人の近づいてくる足音が聞こえるだけで、不快そうに顔を歪める始末だった。
上京して十年目の夏、私は初めて、わが最愛なる故郷、北海道富良野市へ帰省をした。駅に降りて、国道237号線を北上すれば、それこそ地平線に至るまで、ラベンダーが薄気味悪い色彩で地上を染め上げている。空を見上げれば、ギラギラするようなどぎつい輝度の青に白い雲! 23区の小汚い大気にすっかり毒された自分の目からすれば、かえって空々しく思われるほどに美しい。まるで巨大な公衆トイレに放り込まれたようなラベンダーの芳香も手伝ってか、私は次第にぽかぽかと神経を高ぶらせ始め、思えばこの十年、あまたの人々が若き命をすり潰していった、ぬかるむ塹壕のような職場で、よくぞ正気を保ってこられたものだわい、と感嘆しつつも、そんな世間を不平ひとつ言わず堪え忍んできた自分がたいへん愛らしく、また哀れにも思われてきて、思わず涙腺などを弛緩させてしまい、眼に熱いものなどを感じていると、前から黄色い声できゃーきゃー騒ぎ立てる人の群れが迫ってきた。わが懐かしき母校、富良野○○中の女学生たちである。
二十年近くも変わらない夏服のデザイン、そして、この地上にこれほど完璧なものが他にあり得るかと思わせるくらいの、彼女たちの美しさ、気高さ、瑞々しさ。私はうっとりと顔を緩ませるのだったが、やがて、その天使の集団が間近になり、彼女たちの香りが、ひいてはその肉が直に感ぜられたとき、春風のように暖かく穏やかな私の胸中は、突如、獰猛かつ野卑かつ醜悪極まりない心の高まりに達した。私は、すれ違う女学生の群れの中で硬直――余計な注釈だが、下品な意味ではない――して、立ち尽くした。生まれてこの方、これほどのパッションを経験したことがなかったのだ。
女学生が立ち去り、我に返ることに成功した私は、これもまたラベンダーの毒々しい香りの所為だろう、と努めて軽く考えようとした。しかし、そんな願いもむなしく僅か半秒後には、おのれの思考によって新たに下された自分の精神状態に関する見解によって、私はその場に崩れ落ち、うめき声を上げたのだった。
『嗚呼、ついに、あの呪わしき血が、童女愛好癖が、太平の眠りから目を覚ましてしまったのだ』
二
私の父は真性の童女愛好癖者だった。彼はもうずいぶん前に発狂死しており、彼についての情報も私の中では希薄になりつつある。ただ、そのおぼろげなイメージに探りを入れてみると、思い出されるのは静と動の凄まじき葛藤、童女への衝動的な愛欲と慎ましやかに暮らし人生を終えたいとする小市民的願望のぶつかり合いであった。私は、女学生に遭遇し、青い顔をしながら固まってしまう父を眺めては、子ども心ながら、この空恐ろしい形質が自分に伝わらなくて本当に良かったと安堵し、そして戦慄したものだった。しかし、事態がここに至るに及び、人生に対する私の安閑は尽く全潰の体となった。正気で生き残り続けてこれたと思っていた私の身体は、けっきょく、見えないところで徐々に蝕まれていたのだ。
悲しむべき事に、私が父から譲り渡されたものはそれだけにとどまらなかった。骨の髄まで小市民的繊細さに毒されていた私は、再び女学生が近づいてきたら、何がおこるか最早わからない、と恐怖に怯え家路を急ぎ始めた。私は空想した。今度はきっと体が勝手に動いてしまうはずだ。そして通報され、社会面でさらし者になり、一族郎党を悲しませ、裁判では嘲笑され、挙げ句に豚小屋へ放り込まれるのだ。私は色白で端正に生まれついてしまったので、たちまちの内にそっち方面の貞操が危機にさらされるに違いない!
帰省中の三日間、私は外へ出ることができなかった。
三
帰京して、ようやく精神の小康を得た私は、死について頻繁に考え込むようになった。大急ぎで実家に駆け込んだとき、そこに待っていたのはすっかり老け込んだ母であった。訪ねてくる親戚も、そして数少ない友人たちですらも、一様に死の影を漂わせ、時期はどうであれ誰もが最後にたどり着かねばならない滅びを否応なく思わせるのだった。
あと百五十年は生きるだろう、と私は職場でよくうそぶいたものだ。しかし、実のところ、肉体的な滅びの兆候は、私の体内にあっても着実に進展しつつあるように思われた。腰痛と偏頭痛の頻度は上がり、長時間モニターを眺めると目はかすれ、物忘れはすっかりひどくなった。当たり前ではあるが、私の肉体は、ごく人並みにいつか滅んでしまうことだろう。
私は、また、父のことを回想し、肉体よりも精神の方が早くお陀仏する可能性に思いをはせた。童女愛好癖者の彼にとって、成熟した女性である母と結婚し、子孫を為すことは欲望にそぐわないどころか、むしろ生理的に不快だったはずであり、結果、私を残すことが、彼の夭折を早めた感すらある。
父の最後は壮絶であったが、その死に顔は、やっとこの地上からおさらばできたと言わんばかりに安らかであった。私は、その満足げな表情に、死の床で放った彼のうわごとを重ねた。――人類は一万年先もロリコンを産み続け、血を撲滅することは出来ないだろう。俺は世間に復讐しているのだ。ロリコンがある閾値を超えた暁には、人類は瞬く間に絶滅するのだ。
四
十数年の歳月がまた流れた。私はどこから見ても完璧な中年男性の階梯に達した。
世間を恐れ、童女愛好癖を隠蔽する必要から、私は人付き合いを断つようになり、生活はますます孤独になった。童女愛好癖者は、その身分を隠さねばならないがために、互いに正体を明かすことが出来ず、したがって、群れることは出来るはずもない。
この二十年あまり、私は朝起きて、会社へ出て仕事をして、帰宅して飯を食い、風呂に入り、あとはただひたすら眠ってきた。この先二十年も全く同じ事を繰り返し、退職後、気が抜けたようにもうろくして誰にも知られないまま事切れるはずだ。むしろ、人目を引いたらまずいのである。
この地上で、童女愛好癖者ほど孤独な人種は希であろう。父も、この孤独を噛み締めたのだろうか? いや、彼には母がいて、私がいた。
私は、父の身罷った歳に自分が近づくにつれて、彼の穏やかな死に顔に別の解釈を挟むようになった。父は仲間を見つけたのだ。幼い私を抱き、やがてこの子は自分のような童女愛好癖者となり、世界の孤独を知るだろうと想像し、密かに連帯したのだ。
父と違い、私には子がない。私は本当にひとりで滅ばねばならない。しかし、少しばかりでも、かの人の苦痛を私の存在が軽減できたとすれば、その想像が、ほんの僅かばかりとはいえ、私を孤独から救って呉れるようにも思われるのだった。
五
それからまた月日は流れ、私は老人となり、死病に罹患した。病床に伏した私は、汎用メイドロボが学校の廊下を清掃中にバケツをひっくり返す幻を目撃した。彼女に狂ったことも、遠い昔のことになってしまった。残念なことに、メイドロボは未だ実用化されていない。
私は、また、少女に化けた狐が、風呂に異物を入れまくる幻を見た。失踪したメイドさんの姿を求め、密林をさまよう夢を見た。難病の妹を背負って砂浜を走り、家出をした少女と屋根に上り、女装して女子校に転入し、白痴の女子高校生を学校に送り届けた。
私はラベンダーの香りを嗅いだ。前を見ると、あの日の女学生たちである。私は、途方もない胸の高鳴りのなかで、もう二度と滅ぶことのないものを彼女たちに見た。私が滅び、人類が滅び、宇宙が滅びてしまった後にも失われない、あの一瞬の昂揚を見出した。
私は夕焼けに染まる屋上にいる。前に立っているのは、髪の長い盲目の先輩だ。
「これから行くところは、ロリコンも受け入れてくれるのだろうか?」
私は尋ね、彼女は肯定の微笑みを浮かべた。
「よかった。寂しいことにはもう飽き飽きしてたんだ」
自分がもう孤独ではないと知り、私は安堵した。
MANPADSはなかなかヤバ気であるな
デコイプロット : チェーホフ『わが人生』
物語を語るに当たって、子を孕んだ病弱な娘へ言及することには、いささかの危険が伴うだろう。たとえば『CLANNAD』のパン屋の娘などがそうで、彼女が病弱な体で妊娠するに至り、オーディエンスは思わずにんまりとしてハンカチを用意してしまう。パン屋の娘は必ずや出産を乗り切れまい。そして残された子どもは「お母さんってどんな人だったの?」と問いかけをし、そこから亡き母のドジ描写が回想されたりして、オ−ディエンスはたちまちの内に泣きむせぶものである。つまり、「忘れ形見」プロットの発現が容易に予測されかねず、だからこそ語り手にとって、病弱な娘が子を孕むのは危険なのだ。
『CLANNAD』では、変な信仰に取り付かれた娘が、母胎の危険を顧みず自宅出産をわざわざ強行し、もういかにも死ねと言わんばかりな段取りであったが、ここまで極端になるケースは稀にせよ、忘れ形見プロットで物語を落とす場合において、これ見よがしな兆候からなるべくオーディエンスの目を欺くために、何らかの工夫が要るは確かだろう。病弱な娘が子を孕むのは仕方がないとして、その事実になるべく注意を向けさせないような別のイベントが必要になる。
この議論は、基本的にホーガンの『創世記機械』で検討したことの派生になる*1。その物語がいわば『プロジェクトX』であることを隠蔽し続けるために何が行われたかを考えてみた。今回は、チェーホフの『わが人生』を用いて、誤誘導のためのプロット運用を簡単に検討してみたい。
『わが人生』では、プロットの基本配置の段階から、結末を隠蔽するための誘導が始まっている。これはふたつの恋愛の物語であり、一つは主人公男のそれ、もう一つでは気弱で病弱な姉のことが扱われる。やがて病弱な姉は恋をして、まさに脆弱な母胎に子の宿る事態となる。しかしながら、この段階では、産まれる娘に忘れ形見となる条件が備わっているとは言えない*2。彼女の娘は、主人公である自分とは違う他者との間に出来たもので、したがって母胎が失われたとしても、忘れ形見度がもっとも感ぜられる場所は、その他者にあって主人公男ではない。そしてもう一つ、物語にプロットの占める割合の差が物理的な障壁となっている。物語にとってメインのプロットとなるのは主人公男の結婚生活であり、姉のプロットはサブ扱いで、ときどき思い出されたように挟まれるだけである。
簡潔に述べれば、自分の娘でないのなら、やがて来るだろうオチに気づかれまい、ということになるだろう。けれども、このままお話が進んでしまうのも逆に考え物で、母胎が失われ娘が残されても、主人公男はパパではないので、どうしても傍流におかれてしまい、肝心の「忘れ形見」装置が作動しない恐れがある。したがってもうひとつたがを外してやる必要がある。姉の旦那を物語から退場させて、かつ、主人公男プロットも破局に導かせる。それぞれが独りぼっちになることによって、主人公男と姉のプロットがようやく合流し、姉の死後、残された姪の保護者に彼がなることで、彼女が忘れ形見として機能することになる。ほんらい病弱な娘が妊娠するだけで入ってしまうスイッチが、チェーホフでは、二、三重のセイフティロックによって保護されていたと言えるだろう。
難病ものは、人死にを基点にして物語の結末をどこへ持っていくか、語り手に要求するメディアでもある。人の死ぬ時点そのものを結末にする方法もあれば、その直前で落とす戦略もある*3。『わが人生』は、姉の身罷る直前でシークエンスは数年後に飛び*4、そこから主人公男の近況描画が始まるので、オーディエンスには姉の生死がどうなったのか、とりあえずの所よくわからない。それで、最後の頁(全集版)になってようやく、主人公男は小さな姪を抱いて墓参りに行き、「ここにママが眠っているんだよ〜」とギャルゲーをおっぱじめる。シークエンスが飛び、姉の生死が少しのあいだ未定になるところなどは、『イルポスティーノ』にも見受けられるプロットである。
見送る/見送られる視座について : チェーホフ『頸の上のアンナ』
『頸の上のアンナ』は、停車場のシークエンスで始まっている。汽車に乗った娘が、ホームにいる飲んだくれた父親や弟たちを眺めている。貧困のため意にそぐわない結婚をした娘は、自身の不幸を嘆いている。
このファースト・シークエンスの人物位置は、最後のシークエンスでもほぼ踏襲されていて、路上で娘の家族たちが、彼女の乗った馬車と出会うことになる。ただし、直前の文章からも明らかなように、最初、娘から家族へ向けられた視点がここでは反転していて、今度は彼らの視線を娘へ誘導することで物語は幕を閉じる。冒頭の景色が娘によって眺められたがゆえに、オーディエンスは彼女の内語を知ることができ、また、その後のシークエンスもほぼ娘の視線で語られてきた。ところが、最後になると娘は観察対象となっていて、その内語はもはや推測するしかない。この間、何が起こったのかは自明で、人格の変動にともない、視点となる人格が交代している*1。娘の思考を物語が把握できなくなり、したがって、その内語を語れなくなったと言ってよい。
物語に、常識の基準線のようなものを仮定してもよいと思う*2。人格が成長or堕落した結果、その枠内に出てしまうと、その人は物語にとっての他人となる。もし、彼が今まで物語の視座を担っていたとすれば、その視点は常識基準線の枠にとどまり続ける他のキャラへ、譲渡せねばならないだろう。言いかえれば、最後の方で切り替わる視線によって、語り手が準拠していた枠の形らしきものが見えてくるはずだ。『頸の上のアンナ』では、飲んだくれたおやぢと弟たちである。あるいは、『グッド・ウィル・ハンティング』のベン・アフレックや『回路』の麻生久美子を参照してもよい。それまでの物語を一貫して語ってきた人格に立ち去られた彼らは、否応なく物語の視角を請け負わされて困惑し、そして何らかのアクションを起こす*3。物語の常識線が語られる場所である。
さて、チェーホフに関しては、まえに『イオーヌィチ』を検討した*4。これは典型的な人格逆転のプロット*5で語られていて、本稿の文脈で言うなら、物語の端緒で風景を眺めてるのは男であり、彼の視線の先には娘がいる。物語は彼女の内語を語らない。これがラスト・シークエンスになると、『頸の上のアンナ』の冒頭と類似する配置になる。かつて観察対象であった娘は列車に乗っていて、今や物語の視角を負っている。娘を常識線に引き込んだのは、次第に彼女を蝕みつつある病であり、男を常識線の外に追い落としたのは、チェーホフがよくモチーフとするような、凡俗への恐怖である*6。ただし、『頸の上のアンナ』が、基準線としての残される家族と汽車で去ろうとする娘を対比することで、常識圏からの彼女の離脱を図式的にわかりやすく語ったのに対し、基準線に引き込まれた彼女を、列車で何処かへ去ろうとするアクションで語る『イオーヌィチ』の印象いささか複雑で、基準線と視点との関係に感傷的なひずみが出ている。彼女が最後に、見送りとおぼしき人々に投げる一見して奇妙な言葉――さよならどうぞ――は、その捻れの反映として考えることもできるだろう。
「みさき先輩」でググると、わがサイトは六位につけている。結婚まではもう一息である。がんばろう。