2005年10月の日記
昨日、『八月のクリスマス』を観た。ハン・ソッキュが同僚のKに類似しすぎで、目のやりどころに困った。娘をまんまと骨抜きにしやがって、たいへん腹が立った。
スキンシップから地獄へ
先に『笑天不良生徒自慢合戦』(第1982回)を検討し、この問題が圓楽とメンバーのコミュニケーションではなく、メンバー同士の交流を志向した結果、自虐と他虐の微妙な政治ゲームに至ったことを議論した[注1]。先週の『大喜利』(第1986回)、その第三問目もメンバーが他のメンバーに作用して語りをする点では、同じ様式に含まれるお題といえる。この出題において、メンバーは隣の成員に hug をして、語りを入れることが求められる。
幾度か触れたように、今日の『大喜利』はメンバーの性格や身体的な欠陥を攻撃したり、自虐をしたりする内に、効果的な情緒の高揚策を見出している[注2]。その意味では、否応なく相手の肉体に接触せねばならなかった今回の方が、『不良生徒自慢』に比べて、他者への攻撃性がより純化された形になっていると思う。逆にいえば、『不良生徒自慢』は、問いの中へ密かにコードを入れるといったバイパスを通さなければ、自虐や他虐をなしえない構造だったのだろう。
今回の hug をめぐる応酬は、『笑点』のwebサイトに詳しい内容がある。本稿では、かいつまんで見ていくことにするが、まず、計量的に眺めて理解されることは、歌丸への虐待攻撃が他のメンバーのそれを圧倒している点である。計17の問答中、歌丸が的にされたのは、5回、およそ三割及ぶ。歌丸に次ぐのが木久蔵で、ふたつの被害を受けている。
では、歌丸は如何様な揶揄を受けたのか、少し見てみることにしよう。初っぱなから、彼は楽太郎の的にされる。歌丸に hug した彼は曰く――。
「トーマス・ザ・タンク・エンヂン」
一
トーマスは、なまいきな ちびっこ機関車です。ひといちばいうぬぼれ強く、じょがくせいが大好きな かれは、ホームにたむろする かのじょたちのコケティッシュなしぐさや美しいよこ顔をぬすみ見ては、よろこびのぜっちょうに達し、「ピッピー、ピッピー」とまわりを びっくりさせるのです。
二
ある日、急行列車をひっぱっていた ゴードンに事件がおこりました。雨がふってもいないのに 前輪がすべってしまい、駅にとまることができなかったのです。
ゴードンの機関士が、線路についた ねばねばするシミをみつけました。
「このにおいは、トーマスのだ液にちがいない」
現場にかけつけた ふとっちょのじゅうやくは、カンカンになりました。
「あのくされげどうは、ふじょしにこうふんして、よだれなんかを まきちらすから こうなるんだ。もうあぶなくて しかたがない。しばらく きんしんだ」
貨車をひいて もどってきたトーマスは、すっかりしょげかえって 車庫にかえっていきました。
三
きんしんになった トーマスは、おなじ車庫にはいっている エドワードに、毎晩、ぐちをこぼしました。
「じょがくせいに あえない人生なんて、いみがないよ」
人のよい エドワードは、トーマスをきのどくにおもって、なんとか、なぐさめようとします。
「あのじょがくせいたちも、いずれ、しわくちゃのばあさんに なるんだ。 気を病むことは ないさ」
トーマスは、しくしくと、泣きはじめました。
「あんなにも うつくしく かがやいているものが やがてすべからく いなくなってしまうなんて。なんということだろう、なんということだろう!」
四
つぎのあさ、トーマスは、おおきな爆発のおとで、めをさましました。まわりは、けむりで、何もみえません。やがて、目の前がはれてくると、しごとにでかけるため、車庫をでた エドワードのおおきな体が、そこに、ひっくりかえっていました。あい・あーる・えいの ばくだんテロに まきこまれたのです。
大のなかよしの エドワードが、いま、だんまつまを むかえていることは、トーマスにとって、とてもしんじられないことでした。トーマスは、かつてエドワードがしてくれたように、かれを はげまし続けました。けれどもエドワードは、むなしく、車輪を くうてんさせるばかりでした。
五
きんしんのあけた当日、トーマスはクランクピンを折ってしまって、ふたたび、車庫にもどされました。技師たちは、トーマスのしゅうりに かかりましたが、ひとつなおすと、べつのところがおかしくなり、いくらてあてをしても、なかなか、よくなりません。トーマスは、もう、じぶんのことを、見かぎってしまったのです。
そう車場に あたらしい機関車が、やってきました。ディーゼル車も 顔をだすように なりました。しかし、あらたな なかまたちも トーマスに 何のかんがいも あたえることはありませんでした。
トーマスは、さいごのしゅんかんを、まちちづけていました。みずからの動輪を、おしつぶしつつある ボイラーのおもみに、いくぶんかの ふあんをかんじながら。……
Empire Light : 『スター・ウォーズ EP3』
特に熱心なファンではなく、したがって、物語の詳細な背景を知らないオーディエンスにとってみれば、『EP3』で必死こいている人々を突き動かしているものがよくわからない。戦争をしているのはわかる。しかし、相手は誰で、どんな利害の衝突でそうなったのか、一見するとよくわからない。それで、物語で相手陣営とされる集団の名称を調べてみると、通商連合とか、コマース・ギルド、テクノ・ユニオンといった名前が出てきて、物語に政治思想的なきな臭さが漂ってくる。つまり、リベラリストと新自由主義者の間で、物語が分割されていることが理解される。
『スター・ウォーズ』は、基本的にリベラル寄りの物語ではあると思うが、他方で、パルパティーンの萌えおやぢぶりを見ていると、保守系のオーディエンスにも開放されたお話であるような感じもする。アミダラとかジェダイのおやぢどもに萌えたやつはヒッピー野郎で、パルパティーン萌えはネオコンだ、といった、いささか極端なリトマス試験紙として使えるかも知れない。アナキンは無党派層みたいなものか。
ところが、このわかりやすい対決図式は、そこで実際に行われている戦争の有り様を眺めていると、妙な具合にねじれてくるように思われる。冒頭で触れたように、『EP3』で語られているドンパチ自体は、戦争をやっとるな、というわかりやすい実感を伴っているものだ。けれども、その担い手に目を向けるとき、何かおかしなことが起こっている感じがする。
まず、この戦争のわかりやすさ、というものを考えてみよう。
『EP3』で共和国がやっている戦争に、近代国家同士がぶつかっているようなイメージはない。むしろ、非正規戦が各地で頻発しているようで、何かがあるとジェダイのおやぢどもが単身とか二人組くらいで、飛んで行く。そこで彼らは何をやっているかというと、たとえば、キャッシャークに飛んだヨーダは、現地民のウーキーを従えて、ドンパチをしている。
この情景のもっともらしさは、オーディエンスにとっての共時的な戦争との関連で考えるべきだろう。2001年秋〜冬頃のアフガニスタンを思い出してみると、300名強の特殊作戦群のおやぢどもが、三万人の北部同盟を使って、掃討戦をやっていた。
アメリカを「軽い帝国」とする考え方がある(河津[2004:2-6])[注1]。統治の負担とリスクを嫌うため、彼らの戦争が一時介入的なものになりがちだ、ということである。これは、戦争が主にカウンター・テロリズムになってしまったこととセットで考えるべきだろう。海外への緊急展開と遠征に適した軽歩兵が活躍する場面が多くなるはずだ[注2]。
このことを、具体的な数字で考えてみる。仮に、地球上のどこかで、すごくいけないことをしてしまったとする。すると、まず18時間以内に、82dの軽歩兵一個大隊がノースカロライナを飛び立つだろう。次いで、太平洋と大西洋を揚陸艦で常時ぐるぐると回っているMEUが、五日以内に手近な沿岸に現れるだろう[注3]。こいつらも軽歩兵一個大隊規模だが、戦車小隊が増強されてたりするので注意が必要だ。あと、ハリアー×6とAH-1W×4が航空支援したりするかも。ちなみに、米本土だと、6時間以内にATBnの対テロ小隊がやって来るので気をつけよう。おまいには海兵隊がついているわけである。
『SW』の方に話を戻す。何か怪しげなことが起こるたびに真っ先に投入されるジェダイのおやぢどもには、ここまでの議論を参照すると、おそらく、米軍の緊急展開部隊のイメージが投影されていると見てもよいだろう。それでは、EP2〜3は時事ネタなのかというと、そこで話がややこしくなってしまう。ジェダイの敵は新自由主義っぽいイメージで語られている。ところが、ジェダイの行う戦争のフォーマットそのものは、今日、新自由主義のやっている軽い戦争と外観を共にしている。
これは皮肉としてもとられる話ではあるが、実際のところ、そういうフォーマット以外に戦争を語る術がなかったとも解せるだろう。現代のアメリカ人に刻み込まれた戦争のイメージのようなものを指摘してもよいと思う。
注1
以降、本稿で挙げている具体的な数値も本書を参考にしている。
注2
軽歩兵については「戦勝国映画が発見した新たな悲愴感」も参照。
注3
正確には、五日間以内に75%の沿岸へ到達可能。
河津幸英 2004 『図説 アメリカ軍対テロ戦争部隊の戦い』, アリアドネ企画
個人の資質に頼るか否か : 『スピード』→『新幹線大爆破』
先週の日曜日、テレビをつけると『スピード』('94)のサンドラバスがフリーウェイへ突っ込もうとしていた。ここのシークエンスは高速に入るまでがたいへんで、いったん乗っかってしまうと、一安心できる。安住の地、空港までは後一歩である。
ところで、理屈の上で考えると、空港の滑走路は、このスリラーのステージとしては、あまり好ましくないかもしれない。障害物がなくなってしまうので、オーディエンスのドキドキハラハラ感は大いに軽減されてしまうはずだ。しかし、実際にテレビを眺めていると、バスはただ滑走路をぐるぐると回ってるだけで、スリラーとはまた違う情緒を喚起し得ているように思われる。バスの客がこれ以上ひどい目に遭わないだろうという安堵であり、ドキドキ感の軽減そのものが、エンターテインメントとして機能している。それは、オーディエンスが乗客たちを愛し始めている証左だろう[注1]。『スピード』の物語戦略は、乗客たちの魅惑的な造形に力点が置かれていたわけだ。
このように、乗客の語られ方へ目を向けると、『スピード』は、その源流である『新幹線大爆破』('75)と、実はかなり異質な思考によって作られていることがわかる。新幹線の方では、皆が狂ってしまって、人格の造形で物語を引っ張るどころの話ではない。運転台の千葉真一までキレてしまうのだから、目も当てられない。危機においても人格を保持し得るか、という問いかけでエンターテインメントを語る『スピード』は、むしろ、『ポセイドン・アドベンチャー』('72)や『タワーリング・インフェルノ』('74)の系統に近いのだろう。換言すれば、それらは、基本的に人間を信じる物語で、対して『新幹線大爆破』は、人間というものを全く信用していない。乗客はパニくり、現場は後先考えず暴走し、鉄骨は落ちてきて、図面はなぜか焼失し、爆弾処理はとりあえず失敗するものとされる。
では、『新幹線大爆破』は、人間の代わりに何を信用しているのか? スリラーが語られる場所に答えはあると思う。『スピード』にあって、それはバスの中、乗客の言動によって語られた。『新幹線大爆破』にとってバスの乗客にあたるのは、宇津井健とその仲間たちで、けっきょくスリラーは、新幹線の中ではなく総合司令室で生じている。宇津井はそこで、新幹線の管理方法がいま試されている、と雄叫びをあげる。つまり、何らかのメカニズムなりシステムなりへの傾斜が語られている。
システムへの信頼は、同時にそこで語られる人間不信の裏返しと見てよいだろう。人が信用できないのなら、個人の資質に左右されないような仕組みが要請され、かくして、人の介在しないブレーキ制御ができあがる。そして、その不備を突いて、高倉健は新幹線に爆弾を仕掛ける。高倉の問いに山本圭がいみじくも答えたように、人間への信頼を取り戻すためであった。
注
「非日常の収束と感情隆起の関係」を参照。ただ、この議論では、いくら好ましい人格でも、安心感が間延びするとエンターテインメントを損ねてしまうので、その安堵を規定すべきスリラーは不可欠だとしている。他方、「キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ ということ」では、安堵感の保存を強調した議論がおこなわれている。
(掲示板より)
『ユリイカ』のバスは、宮崎あおいの魅力に感づいてしまった途端、音速を超えると思う。
反・生存実感 : ジェイムズ・P・ホーガン 『創世記機械』
死んだとばかり思っていたニクいあんちくしょうが実は生きていた。このような情緒を利用した物語戦略については、前に議論したが*1、今回は逆のことを、つまり、あのニクいあんちくしょうどもは既にくたばっていた、という感傷を考えてみよう。
ニクいあんちくしょうが生きていたことが、オーディエンスに案外なものとしてとられるためには、彼らを生存から遠く隔てた場所へいったん置かねばならなず、まだ生きていることを想起させるものは執拗に隠蔽される必要がある。だから、反対に、その不在に案外性を付加する戦略をとった場合、今度はすでに世にないことを隠匿する語り口が採用されるはずだ。彼らの生死を問うような視角をオーディエンスに導入してはならない。
この戦略を検討するにあたって、本稿ではまず「男たち不屈のドラマ・瀬戸大橋(プロジェクトX 第39回)』のプロットを例に挙げて、論点を明らかにしたい*2。
『プロジェクトX』は、過去と現在のタイムラインが併走する物語である*3。過去の系列は田口トモロヲの支配する空間で、他方、オーディエンスの時間ともいえる現在の空間は収録スタジオになるだろう。トモロヲ空間を脱してきた当時のプロジェクト関係者がゲストとして至る所であり、あるいは、クボジュンが場の雰囲気をときどき破壊してしまう地平でもある。
過去が今日に組み込まれるこの基本的な構図、すなわち、関係者がゲストとしてスタジオに現れねばならぬプロットは、「実は死んでいた」戦略により物語を構成する上で、けっこう危ういものがある。ある人物がなかなかスタジオに現れないことは、プロットをよく踏まえたオーディエンスに彼の不在を予感させる。もっとも、その不在を確信させるような論及も、とうぜん本編中では為されるわけではないので、可能性を想起しつつも判断は後日談に持ち越されるだろう。だが、いずれにせよ、『瀬戸大橋』のプロット上で語られる彼の顛末は、「実は」ではなく「やっぱり」というような情感で、取りあえずはとられるものだ。
それでは、この物語は案外性の醸成に失敗したのか。実際のところ、全くそうではない。むしろ、彼の不在を云々すること自体が、別なる意外性を導出するための煙幕であり、誤誘導情報だったとも言える。彼がやっぱり死んでいたことで、その人生の俯瞰が可能になる。そこで、この物語の語るプロジェクトが、瀬戸大橋ではなく、“実は”彼の人生そのものであったことが理解される。本編中、彼の不在に思い至ることは容易でも、これがまさか、良作ギャルゲーのような人生の物語に直結してしまうことを想定するのは難しい。
少しややこしい話になるが、ホーガンの『創世記機械』では、『瀬戸大橋』にとっての隠されるべきもの、つまり「プロジェクト=人生」が、物語が『プロジェクトX』そのものであること、に対応する。説明をすると、『創世記機械』の語る如何にもホーガン風のニクいあんちくしょうどもは、オーディエンスと時間を共にしている人格として語られ続けながら、物語の末端で、本当は違うことが明らかにされる。彼らの物語は、遠い過去の出来事で、オーディエンスの立ち位置は未来にあり、ニクいあんちくしょうどもは、すでに不在であるものとして扱われる。時系列は、『プロジェクトX』のごとく過去と未来に分化していたのであり、語り手は片方の系列にオーディエンスを誘導し続けることで、物語が『プロジェクトX』であることを隠蔽している*4。
オーディエンスが遠い未来にいるとすれば、これまで語られてきた物語は、オーディエンスにとってみれば歴史上の知識みたいなもので、視角の中で実際に起こってきたお話ではない。見方を変えれば、オーディエンスの視野が定義され、彼らの不在が確定することで、ニクいあんちくしょうどものプロジェクトは残された業績という形で、初めて今日の視角に繰り込まれている。その消失点で彼らが回復されるという意味では、代替物の回収というお馴染みの様式を思い起こしてもよいだろう*5。