■プログレの夜明け |
1960年代後半。時代はまさに混沌としていた。アンダーグラウンドムーブメントの退廃的
な空気を呼吸しながら、人々は来たるべき70年代を変革する強烈な何かを渇望していた。
ビートルズに代表される英国ロックの主流は円熟した黄金期で、ピークであった。それゆ
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えのある種の停滞感が漂っている。多くのミュージシャンたちは新しい音楽の方向を模索
していた。個人の自己表現手段を超越した音楽表現の確立。個のアイデンティティを出発
点に、延長として、メッセージを訴え掛けるような定型のロックでは限界が見えていた。
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■王の胎動 |
キング・クリムゾン(以下、クリムゾン)のリーダー、ロバート・フリップは1946年5月
16日、イギリス・ドーセット生まれ。学生時代に、スクール・オーケストラでヴァイオリ
ンを弾き、クラシック音楽の基本を習った(グレッグ・レイクも一緒に学んでいたが、そ
の言によると、フリップのクラシック・ギターの腕前は非凡で、パガガーニの楽曲を1回
で弾きこなせたという)。67年7月、ボーンマウス出身のジャイルズ兄弟(兄マイケル、
弟ピート)とクリムゾンの母体となるジャイルズ、ジャイルズ&フリップ(GG&F)を
結成、ロンドンへ向かう。彼らはデモ・テープ作りに励む。68年6月デッカレコード系デ
ラムと契約して、9月デビュー作『THE
CHEERFUL INSANITY OF GILES,GILES,FRIPP /
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ジャイルズ、ジャイルズ&フリップ(の上機嫌の狂気)』を発売。アルバム完成直後、イ
アン・マクドナルドとジュディ・ダイブル(元フェアポート・コンベンション。彼女は1
ヶ月で脱退)が加入。イアンの紹介でピート・シンフィールドが作詩を手掛け始めて、名
曲「風に語りて」が録音される(ジュディのこのボーカル・ヴァージョンは『THE
YOUNG
PERSON'S GUIDE TO KING
CRIMSON / 新世代への啓示 キング・クリムゾン・ベスト』
(1975)に収録されている)。68年11月15日TV番組出演に伴い、ボーカル強化の目的も
兼ね、ゴッズ(ユーライア・ヒープの前身)に在籍していたフリップの旧友グレック・レ
イクをGG&Fに迎えた(ジャイルズ弟は職業転身で脱退)。クリムゾンの胎動である。
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■難産と栄冠 |
69年初頭、EGレコード契約第1号アーティストとしてクリムゾンは契約を勝ち取った。
4月、ロンドンスピーク・イージーで正式なデビュー・ライヴを行い、その音の凄まじさ
が評判になる(ムーディー・ブルースのツアー前座に1度は選ばれたが、彼らの音を恐れ
たグラハム・エッジの意見で、出演をキャンセルされてしまう)。様々なライヴ活動は好
評を博すが、アルバム製作は進まなかった。ムーディーのマネージャー、トニー・クラー
ク(前座にしたいと思ったのも彼)はクリムゾンのプロデュースを望み、6月12日、レコ
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ーディングが開始されたが、1日目でエンジニアが降り、6日後には全てのマスターテー
プが破棄され、7月17日から再度行われたレコーディングも失敗に終わった。結局クラー
クは降り、全てを白紙にしてクリムゾン自身のプロデュースで録音を再開。8月17日から
20日までウェセックス・スタジオで行われ、ついにアルバムが完成。難産の末に誕生した
記念すべきデビュー作『クリムゾン・キングの宮殿』は10月10日リリースされるや全英チ
ャートを駆け上がり、ビートルズの『アビイ・ロード』を抜き全英1位を射止めるのだ。
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■流転する王 |
鬼子の如き傑作を生んでしまったクリムゾンはそれが枷となった。イアンとマイケルが新
ユニット、マクドナルド&ジャイルズを組む為に脱退、レイクもキース・エマーソンに勧
誘され、エマーソン、レイク&パーマーを結成する。70年から72年に掛け(第2期〜第4
期)、様々なメンバーチェンジを繰り返し、製作された3枚のオリジナル・アルバムは、
良しも悪くも散漫であり、デビュー作に比肩するレベルに到達し得る出来ではなかった。
72年2月からのアメリカ・ツアー最後に、フリップはクリムゾンの活動休止を表明した。
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