千日手を記憶に残して何になるというつっこみは封印の方向で。
関東大震災が起きて間もない昭和2年、日本将棋連盟が創設されました。その当時、まだルールは整備されておらず江戸時代からの曖昧さを残したままの状態でしたが、この年に行われた棋戦の一つ「高段平手紅白試合」の中の一局がルールを変える一つのきっかけになったと思われます。
当時、千日手は終盤に金銀などを打ち合うタイプのものしか想定されておらず、
という江戸時代からの古い規定で十分と思われていました。それに疑問を投げかけることになったのが次に紹介する将棋です。なお、この項は『菅谷北斗星選集観戦記篇』(日本将棋連盟刊)から採っています。
先手宮松関三郎六段、後手花田長太郎八段の対局は角替わりから中央で金銀が牽制しあう局面となりました。右図は後手が△4二金右としたところですが、ここから▲5八飛 △3一玉 ▲2八飛 △2二玉、あるいは、▲8八銀 △8二飛 ▲7七銀左 △8四飛 を繰り返すと千日手となりそうです。しかし、当時の規約では二つの問題点がありました。
まず一つは、上の二つの繰り返し手順を交互に指すことによって、三度の繰り返し手順が生じない可能性があること。これは千日手考で紹介した▲米長△谷川戦まで放置されました。
もう一つは、このような仕掛け前での繰り返し手順も千日手とするのかという問題がありました。現在の感覚でいえば当然に千日手となるところですが、当時は千日手かどうかという段階ですでに共通理解がなかったわけです。観戦記者の菅谷北斗星は次のように記しています。
この局面のこの駒の運動を指して、千日手と称すべきか、否か。(中略)それに古来千日手と称するものは駒が衝突して初めて起ったものだが、この場合駒の衝突は起していない。それかと言って事実は千日手である。
又、時間制をどう解決するか、此対局にからんで種々の問題が錯綜して来るが、僕は今暫く自分の考えは留保して、各方面の諸君の忌憚ない意見を聴き度いと思う。
が、ひっきょうするに、千日手であるか、ないかが根本問題。読者諸君いかがですかな。
この将棋は右上図が5度出現したところで中止され、日本将棋連盟に採決を委ねるということになりました。採決がどうなったのかは記述がないのでわからないのですが、このような序盤の繰り返し手順も千日手と認めるように規約が改正されたのではないかと私は想像しています。
中原誠名人(肩書きは対局当時、以下同様)に加藤一二三十段が挑戦した第40期名人戦は、4勝3敗1持将棋2千日手という歴史に残る激戦で加藤が初めて名人位を奪取しました。その千日手局を振り返ってみましょう。
2勝2敗1持将棋の五分で迎えた第6局は、5局目までと同じように相矢倉となりました。先手中原の雀刺しを警戒して玉を中央に移動した後手加藤の構想がうまく、先手は仕掛けの糸口をつかめず千日手になるかと思われました。しかし、先手は玉を穴熊に囲った後3筋から打開、銀交換となりました。そうして右図となってみると再び千日手模様。打開するとすれば後手ですが△8七銀の攻めは無理筋ということで、千日手に落ち着きました。
3勝3敗1持将棋1千日手で迎えた大詰めの一局。この将棋もまた相矢倉となりました。先手中原の無理気味な仕掛けをとがめてやや優位に立った後手加藤でしたが、先手からの▲4四桂 の厳しい反撃が見えていることもあり千日手に逃げました。ここまですべて先手方が勝っていることも影響したのかもしれません。
この対局を契機に規定が変更され、名人戦でも千日手は即日指し直すことになりました。
羽生棋聖に谷川王将が挑戦した第63期棋聖戦五番勝負は羽生が3勝2敗で初防衛に成功しました。羽生の2勝0敗で迎えた第3局を見てみましょう。
先手羽生の急戦向かい飛車で始まったこの将棋は、後手谷川がうまく対処して駒得となりましたが、先手が粘りを見せ駒損を回復。右図となると後手は飛車の位置が悪いため、△9五と ▲8四飛 △8五と ▲9四飛 を繰り返して千日手に持ち込むくらいしかありません。
即日指し直しとなった指し直し局では、後手の羽生が4手目△3三角 という意表をつく出だしで力戦形の将棋となりました。中盤は先手有利と思われましたが、後手が追い込み右図となってみると、先手は詰めろを続けるには▲4三金 しかありません。対する後手も△3二金打 しか受けがなく、千日手となりました。
規定では30分後に指し直しですが、二局連続ということで特別に後日指し直すことになり、再指し直し局では谷川が勝利しました。
谷川王将に羽生竜王名人が挑戦した第44期王将戦七番勝負は、3勝3敗で最終第7局にもつれ込みました。この時点で羽生は6つのタイトルを獲得しており、この将棋に勝てば史上初の七冠達成となる歴史的な大一番で、将棋界のみならず全国的な注目を集めた一局でした。
結果は谷川が踏ん張り、羽生の七冠は翌年に持ち越しとなりました。
矢倉▲3七銀戦法から3筋・7筋で戦いが起こった中盤、後手谷川が決断し角の成り込みを許しました。その代償として先手の飛を召し捕ったのが右図です。ここからどちらも打開できずに▲2五飛 △2四銀引 ▲2六飛 △1五銀 を繰り返して千日手となりました。
即日指し直しとなった本局は、驚くべきことに前局と全く同じ序盤となりました。谷川が「お互いの意思がピッタリ合った。
」(『谷川vs羽生100番勝負』より)と書いたように、あうんの呼吸があったのでしょう。
同一手順は40手目まで続き、右図で谷川が▲3五歩と手を代えました(前局は▲7五歩)。その後熱戦が続き、111手で先手谷川の勝ちとなっています。
1999年の第12期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負の第1局で丸山忠久八段は先手番で千日手に追い込まれ、指し直し局を後手番で指すことになりました。すると、その次の第2局は規定により丸山の先手番で指すことになります。さらに第3局の振り駒で丸山が先手番を引き当てれば、千日手局を含めた4局のうちで3局が先手番!?ということで少し話題になりました。(実際には第3局での丸山の手番は後手番でした。)
このときの第2局までの丸山の先後は「(先 後) 先」となっています。千日手局を無視するとしても、先後1回ずつで損はしていません。逆の立場で考えてみましょう。第1局で後手だった鈴木大介五段が先手番となる第2局で千日手になったとしましょう。すると第2局までの手番は鈴木から見て「後 (先 後)」となり、千日手局を無視するならば連続後手番となって損をしてしまいます。つまりこの規定では、第1局の振り駒に勝った側の棋士に、一度だけなら先手番の千日手が損にならないというアドバンテージを与える結果になるわけです。この制度を作った人には、振り駒の結果によってこのような差をつける意図があったのでしょうか。疑問です。
2001年の第59期名人戦七番勝負第3局でも丸山が先手番で千日手を選択し、このときは大きな話題となりました。この千日手は意図がはっきりせず、また丸山が名人という立場であったことが批判の声を大きくした要因であると思われます。しかし丸山は与えられた制度の下で最善の選択をしたという見方もでき、批判されるべきなのはそのような制度を放置している側なのではないかという気もします。(王座戦に限っては改正が実現したようですが、いつ改正があったのか調べていません。)
先手丸山忠久八段と後手鈴木大介五段との間の挑戦者争い第1局は千日手となりました。早い段階で銀交換が行われたあと、後手がうまく陣形をまとめ4四の飛を7四に移動したところです。先手は5五の歩を守らなければなりませんが、▲5六飛 には△6五銀 があるため動きがとれません。仕方なく▲6五銀 △3四飛 ▲5六銀 △7四飛 を繰り返して千日手となりました。
先手丸山忠久名人と後手谷川浩司九段の名人戦第3局は、名人が先手で千日手に甘んじるという結果となり論議を呼び起こしました。右図から先手は飛車の上下を繰り返し、後手は金の上下を繰り返すという形で結果的に千日手となりましたが、どこかで▲4六歩 と仕掛けるのも有力だっただけに弱気に見られたのも仕方ないかもしれません。
この将棋では、できるだけ千日手成立を遅らそうとしているかのごとく、先手が飛車を微妙に異なる位置に動かしています。千日手を決断すればそのあとは単純な繰り返しで同一局面四回が成立するのが通常の進行であるだけに、どのような意図があったのか判断が難しいところです。その複雑な手順は、思わぬハプニングをもたらしてしまいました。
そのときの対局実況によれば、立会人の有吉道夫九段が勘違いして千日手成立を早まって告げてしまいました。手順再生でよくよくご覧いただくとわかるように、その時点では同一局面はまだ2度しか出現していません。しかし、この場合は「両者が合意の上」ということで千日手成立として扱われたということです。対局規定が公開されていないので、この措置がどのようなルールに基づいたものかは不明です。ともあれ謎の多い将棋でした。
羽生善治竜王に阿部隆七段が挑んだ第15期竜王戦七番勝負は、羽生の4勝3敗2千日手という激戦でした。特に台湾で行われた初戦では連続千日手となり、決着をつけずに帰国するという前代未聞の出来事となりました。
この七番勝負は最終戦までもつれ込んだこともあり、最終局では千日手でも持将棋でも「決着がつくまで続行する」
(竜王戦倶楽部内で連載されている、よみくま氏の日記より)という強行スケジュールを強いられることとなりました。
後手阿部のゴキゲン中飛車からじっくりした戦いとなった本局、後手がうまく好形を築き優位に立ちました。その後先手も盛り返したものの、右図で▲3八飛 △4二金 ▲2八飛 △3二金 を繰り返す千日手を選択しました。▲2五桂 から攻める手段はあったものの、後手の方が玉型でまさる現状では得策でないと判断したようです。
前局が終わってすぐ指し直された本局は、先手の阿部が古めかしい相総矢倉に誘導しました。昔から結論は千日手と言われている戦形ですが、先手は打開策を研究していたものと思われます。
しかし、後手羽生の△2二銀 がそれを上回る好着想でした。右図となってはどこからも仕掛けることができません。(▲8五桂 △同桂 ▲8六歩 は指しにくいでしょう。)出現することが考えにくい戦形でもきちんと最善手を用意していることを羽生は証明し、将棋界の第一人者としての実力を改めて見せつけました。
羽生善治竜王が森内俊之名人挑んだ第61期名人戦七番勝負は、挑戦者羽生の4連勝という一方的な展開でした。シリーズを通して控え室の予想が当たらない進行でしたが、とりわけ最終局となった第4局では先手の羽生有利といわれた局面で、羽生が千日手を選択し観戦者を驚かせました。
羽生は意外な局面で千日手を選択することがあり、独特の価値観を持っているように見えます。
先手四間飛車に後手が右銀急戦を仕掛けたものの、先手陣に飛を打ち込む隙がなくなり後手が攻めあぐねているように見えるこの局面。控え室も先手指せると見ていましたが、先手羽生の選択した手は▲7四飛 △6四銀 ▲8四飛 △7五銀 を繰り返す千日手でした。羽生の独特な大局観が垣間見えた一局でした。